既存のデジタル・コンピューターが扱うのは「(0か1の二つに状態のみを有するBit(Binary unit)の論理演算(二進数演算)」で、人間はもはやその速度に追いつけません。しかしコンピュータは別に自ら「Bit(Binary unit)とは何か」理解している訳でもないのです。
*「Bit(Binary unit)」…それはデジタル・コンピューターに対して「電源のOn / Off」という電気的状態によって与えられ、コピーが容易である事を特徴とする。
2進数の四則演算
チューリングマシン(Turing Machine) - Wikipedia
1936年にイギリスの数学者アラン・チューリングが論文「計算可能数について──決定問題への応用」の中で発表した「計算模型(計算機を数学的に議論するための単純化・理想化された仮想機械)」のひとつ。同様の考え方は同年にエミール・ポスト (Emil Post) も独自に発表している。
「無限に長いテープ」「その中に格納された情報を読み書きするヘッド」「機械の内部状態を記憶するメモリ」のみで構成されている。実用上の電子計算機はこれより遥かに複雑で、また有限の記憶領域しか持たないが、「計算機で原理上解ける問題」は「チューリング機械で解ける問題」と同じであるといわれている。
*こうした経緯を考慮すると「多数決の原理を主張しながらフランス革命でギロチンの露と消えたコンドルセ」「コンドルセの継承者だったが故に晩年は女性解放運動の旗手とならざるを得なかったジョン・スチュワート・ミル」同様にアラン・チューリングを「数理にのみ忠誠を誓う臣民」に分類せざるを得なくなる。その過程で「化学的マルクス主義」はこうした思考様式と無縁であるばかりか、それを敵視する存在へと育っていく。何故ならそれが追求し続けてきたのは「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」の延長線上において夢想された「完璧無比の指導者原理(Führerprinzip)」であり、「計算癖の全人格化」がビジョンとしてもたらした「絶えずデータの見逃しやアルゴリズムの間違いに怯え続ける実存不安に満ちた不完全極まりない世界」など、到底容認だったのである。
チャーチ=チューリングのテーゼ(Church-Turing thesis)もしくはチャーチのテーゼ (Church's thesis)
「計算できる関数」という直観的な概念を、帰納的関数と呼ばれる数論的関数のクラスと同一視しようという主張である。テーゼの代わりに提唱(ていしょう)あるいは定立(ていりつ)の語が用いられることもある。
このクラスはチューリング・マシンで実行できるプログラムのクラス、ラムダ記法で定義できる関数のクラスとも一致する。よって簡単にはテーゼは、計算が可能な関数とは、その計算を実行できるような有限のアルゴリズムが存在するような関数、よっておおよそコンピュータで実行できる関数と同じだと主張する。
*実際、コンピューター(というよりOS)は「空ループ(入力待ち状態で、入力された内容を各処理に割り振る)」をメイン関数とする関数群と規定する事も可能である。
*そして「名指すもの(プログラム)の、名指されるもの(マシン単位ではCPU、ネット単位ではサーバ)への働きかけこそが世界そのもの(マシン単位ではデバイス機器、ネット単位ではネットワーク環境)」なる思考様式自体については「真言密教の完成者」空海(774年〜835年)や「スンニ派古典思想の完成者」ガザーリー(1058年 〜1111年)が既に到達していた。
一方、量子コンピューターにおいて「Bit(Binary unit)」に該当するのは「0と1が一定の確率で重ね合っているQubit (Quantum bit=量子ビット)」。デジタル・コンピューター同様、その「(確率の波の)重ね合わせ (Superposition) の観測」速度には人間は到底追いつけませんが、やはり別に自ら「 Qubit(Quantum bit=量子ビット)とは何か」理解している訳ではないのです。
続きを読む