諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

続・ナショナリズムの歴史外伝② 仁義なき貿易戦争の副産物だった「バブル時代」

f:id:ochimusha01:20170817044023j:plain
ヒュー・ジャックマンラッセル・クロウといった
オーストラリア出身の大物俳優の活躍が目立ちます。

 「マッドマックス」シリーズに主演したメル・ギブスンが「ハクソーリッジ(Hacksaw ridge、2016年)」を監督したりもしてますね。

これは「映画の天然色化が進行していく過程で、米国より人件費が安かった英国がカラー恐怖映画、日本がカラー特撮怪獣映画の輸出大国となった」歴史の流れの延長線上に現れた動きだったりします。

そういえばJ・R・R・トールキン指輪物語The Lord of the Rings)」シリーズの様なファンタジー大作の完全映画化を実現したのもまた「ニュージーランドの人件費と撮影費の安さ」だったのでした。


1970年代米国において完全アニメ化が試みられた事もありましたが予算不足で挫折。制作会社倒産が生んだ余波が日本の下請け会社「トップクラフト」の独立、すなわちスタジオ・ジブリ誕生だったりもする訳で。 

続きを読む

【暴力ヒロイン】その起源は1970年代のウーマンリブ運動まで遡る?

日本のディズニー好き女子は不思議と「アナと雪の女王(Frozen、2013年)」のアナが以下の様だという抗議の声を上げませんでした。

f:id:ochimusha01:20170816090503p:plain

*そもそもDCコミックス「スーパーマン(Superman、1938年)」におけるクラーク・ケントの恋人ロイス・レーン辺りを大源流とするアメリカ起源のステレオタイプとも。これと長年戦ってきたアメリカ人女性の反応が過敏だったのも、おそらくそういう歴史のせい。そういえば当時のアメリカだけでなく大日本帝国でも「勤労婦人の社会進出に対する称揚と揶揄」なら実在したのである。

f:id:ochimusha01:20170816091234j:plain

*そして日本の広告業界は明らかに周回遅れ。まぁ「魔女の宅急便青春編」でも分かってた? 韓国芸能界が世界に認められつつあったKPOPを権威主義の限りを尽くして完膚なきまでに叩き潰した様なケースを想起させる。全般的に「バブル期日本で養われた感性」に国際性は備わっていなかったし、今日では反感しか喚び醒まさない感じがする。

それでは上掲投稿の一つでも「ツートップのもう一つの雄」と目されている「理不尽暴力系ヒロイン」についてはどうなってるんでしょうか?

続きを読む

【メイドインアビス】【オメガファンタジー】「ロマンティック」を偽装した本格派ロマン主義

f:id:ochimusha01:20170815055622j:plain

日本における「ロマンティック」の概念は、その起源を「国家間の競争が全てだった」総力戦体制時代(1910年代後半~1970年代)から企業やマスコミが「国民総動員」の概念のみを継承した産業至上主義時代(1960年代~1990年代)へと推移していく過渡期に有しています。

それはまさしく(「子供達の夢を動力源とする異世界」ファンタージェンが「夢を絞り尽くされた子供達」を次々と「かなえるべき夢をなくした冷酷な独裁者」へと変貌させ切り捨てていくディストピアを描いた)ミヒャエル・エンデの原作「はてしない物語(Die unendliche Geschichte、1979年)」が恥も臆面もなく「(元来は輝かしい冒険譚と表裏一体で不可分の関係にあった暗黒面の一切を隠蔽した)オメガファンタジー」と銘打たれた映画「ネバーエンディングストーリー(Never Ending Story、1984年)」へと容赦なく改変されていった時代でもあったのです。
*主題歌を歌ったリマールはゲイだったが、当時はまだまだ到底そのカミングアウトを歓迎する雰囲気など醸成されていなかった。国際的に見ても大衆はまだまだ「パーティで少しばかりつまみ食いを楽しみたい」レベルに留まっており、様々な物事の本質について突き詰めて考える準備など整っていなかったのである。

続きを読む

【雑想】「総力戦体制時代の日本人」について

f:id:ochimusha01:20170813045242g:plainf:id:ochimusha01:20170813045328g:plain

太平洋戦争に敗戦した直後の日本への「子鹿物語(The Yearling、1946年、日本公開1949年)」「風と共に去りぬGone with the Wind、1939年、日本初公開1952年)」「シェーン(Shane、1953年)」といったハリウッド大作映画の流入。これ意外と「国家間の競争が全てだった」総力戦体制時代(1910年代後半~1970年代)の前半を軍国主義化への傾注、後半をどん底状態からの復興を成し遂げた高度成長期を象徴する流れとして重要。

元の歌詞と真逆の意味に翻訳されたディズニー・アニメ「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs、1937年制作、1950年日本公開)」のこの歌も想像以上のインパクトを与えたといわれています。

ある意味当時の日本人にとって最大の衝撃は「戦時下のアメリカが同時期の日本と異なり戦争一色ではなかった事」だった事かもしれません。そしてこの衝撃こそが「民間企業やマスコミが総力戦体制時代から国民総動員の概念だけを継承した」産業至上主義時代(1960年代~1990年代)を準備したとも。そしてその過程で「(元来は欧州における王侯貴族や聖職者の悩みの種だった)究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成されるロマン主義的ジレンマ」の主体も国家から企業やマスコミに推移したのです。

さて、その過程で我々は一体何を見失ってしまったんでしょうか? しかもアメリカ人目線では、その文化は(同種の欠陥を抱えたまま)韓国や中国にも輸出されてしまった様なのです。

この問題については「エントロピー増大」という観点からも説明可能かもしれません。しかも「(ノイズ増大=エントロピー増大と考える)情報エントロピー論的アプローチ」ではなく「(ノイズ減少=エントロピー増大と考える)熱力学論的アプローチ」の方がしっくりきそうです。

絶対王政段階】フランス絶対王政は当初「国王が形式上、伝統的社団勢力間の絶望的対立を超越的に調停する機関として機能するシステム」として出発したが、やがてそれぞれの伝統的社団が自壊。「本当に国王が独裁者として君臨するのみのシステム」に単純化された結果、社会矛盾が引き起こすヘイトが国王にのみ集まる様になってフランス革命が勃発してしまった。

国家主義的段階】ナチスドイツも当初は「ヒトラー率いるNSDAPが建前上、国内諸勢力間の対立を超越的に調停するシステム」として出発したが「外敵を常に外側に想定し続ける基本構造」ゆえに対外戦争が不可避となり最終的には「ヒトラーを絶対的独裁者として頂く戦争遂行機関」に単純化される道を歩んだ。その結果、敗戦後にヒトラーナチスだけがスケープゴートとして切り捨てられる展開に。共産主義諸国も科学的マルクス主義形骸化によって、ほぼ同種のコースを歩む。

【産業至上主義的段階】産業革命がもたらす大量生産・大量消費は消費の主体を王侯貴族や聖職者からブルジョワ階層や庶民へと移行させたが、その過渡期において商品生産を担う企業や宣伝を担うマスコミの間で「誰が何を知り何を購入すべきか」自分達が超越的に指導しているという発想が生じた。しかしやがて消費者は次第にそれぞれ自らの多様化を追求する様になり、こうした意味合いにおける「主体性」は次第に彼らだけの妄想としか認識されなくなっていく。 

太陽王ルイ14世は遺言の中で「国王など所詮は対立の調停者としてのみ超越的君臨者として建前上敬われるだけの存在。本当に独裁者として君臨する様になったら全員から不満の捌け口に選ばれ真っ先に殺されるのみ」といった趣旨の事を述べています。「(王侯貴族や聖職者ではなく)産業従事者こそが国政を握るべき」と主張してフランス7月革命(1830年)を理念的に主導したサン=シモンも同様で、これが怖くてヒトラー率いるNSDAPは次々と「(国民の憎悪の捌け口としての)公敵」を次々と設定し続けねばならないジレンマに直面する羽目に陥ったとも。まずこの現実を直視しない限り未来など拓ける筈もない?

【雑想】「自分で決めない人生」の損益分岐点

f:id:ochimusha01:20170811054324j:plain
2016年は不思議なまでに「自分で決めない人生」を送る女性主人公にスポットが当たった年となりました。

ちょっとばかり「人間の幸福は絶対意思と完全合一を果たし、自らの果たすべき役割を得る事でしか得られない」としたヘーゲル哲学や江戸幕藩体制を安定に導いた「絶対忠義=滅私奉公」といった前近代的価値観を想起させられますね。現代人は「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマに追い掛け回され続ける事に疲れ果ててしまったのかもしれません。

しかし現実にはこういう側面も。

 分岐点は、どうやら「自分で決めてない事についてどれだけ自覚的か?」「判断責任まで相手に押し付けてしまっているか?」あたりの様です?

これは案外重要な相違点…自分が頑張ってる人にとっては案外、自分が客観的に見て幸福か不幸かなど意識外なのかもしれません。そして、さらにその枠外に「リップヴァンウィンクルの花嫁」の皆川七海や「この世界の片隅に」のすずさんの様な「ぼうっとしてるが故に人生最大の危機を(御伽噺の主人公の様に)不思議な形で乗り越える人達」が存在しているという図式。日本民話の世界でいうと「意地悪爺さん」と「正直爺さん」の間を隔てる何か。

【雑想】決して報道されない「台湾の悲劇」

f:id:ochimusha01:20170810221318j:plain

「都合悪い話」は一切報道しない日本のマスコミ…

日本では「台湾が原発全廃を達成。国際的偉業!!」と報じられるのみ。それでも「より偏った」ネット情報よりはましらしいです。

 これが21世紀的正義の在り方?