諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【ネタバレあり】マイティ・ソー バトルロイヤル見てきました① え?「海のトリトン」?

作中にまで「今度は違うといいながら、やっぱりお家騒動じゃないですか。確かに兄弟喧嘩じゃなかったけど、姉弟喧嘩じゃないですか」なるメタ言及がありました。地球人目線からすればまさにその一言に尽きます。次々と社員が闇落ちする某企業と並ぶ「MCU(Marvel Cinematic Universe)」のお騒がせ一家…(以下ネタバレ含む)
*「ブラック・パンサー(Black Panther、2018年)」は確かにMCU史上屈指の画期だけど、この観点からすれば、やはり「新たな銀河お騒がせ一家が現れた!!」に過ぎない。

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【私はあくまで筋金入りの左翼です?】だけど世間的には「典型的ネトウヨ」扱い。

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ちょっと思ってしまったんですが、今の状態に至ってもなお「ギリギリ感」を感じてない左翼なんて、もう駄目かもしれない?

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【朝鮮王朝】【朝鮮総督府】【GHQ行政局】【韓国政府】【ブレードランナー2049】Blackoutしてしまった「親日親米派名簿」?

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問題はその朝鮮総督府が設立時に朝鮮王朝時代の官僚の多くをそのまま継承し、かつ同じ組織が大日本帝国敗戦後にGHQに接収され(排除された日本人職員の代わりを朝鮮人職員が勤める形で)米軍占領下の行政機関として便利使いされた挙げ句の果てに、最終的に李承晩新大統領に「韓国政府」という形で「下賜」された点にあったりして。
*当時の記録から、こうした変遷の都度、過半数を超える「朝鮮人官僚」が継承されてきた事が明らかとなっている。皮肉にも、その意味合いにおい韓国政府は確かに「朝鮮王朝行政の伝統を継承する正統性」を有しているのだった。

こうした歴史を誇る「朝鮮人官僚」が朝鮮戦争(1950年〜1953年)後、どれだけ残ったかは不明とされてます。何故かというと李承晩大統領およびその側近達が国外逃亡を余儀なくされた「四月革命(1960年)」に際して関連書類の大半を焼き払ってしまったから。
*まさしくドゥニ・ヴィルヌーヴ監督映画「ブレードランナー 2049(Blade Runner 2049)」におけるBlack Out(レプリカント製造元たるタイレル社へのテロにより、レプリカント管理の元台帳が失われ、人間とレプリカントの峻別が原則といて不可能となった事件)以降の世界?

まさしくこうした歴史こそが(健全な形でのナショナリズム発育を妨げ)外罰的態度を貫き通そうとする「反日反米従北派」の背後で蠢いているのかもしれません。どうやら彼らにとっては「日式体制を全面否定した(ソ連占領軍に大日本帝国遺産の殆どを接収された上に「ソ連式=スターリン式」を全面強制された)北朝鮮」こそが「自律性を守り抜いた民族英雄」という設定になってるらしいのです。
*考えてみれば「人類平等の理念を達成する為、一刻も早く米帝の傀儡たる日本人も韓国人も、我々北朝鮮に全財産を略奪され尽くされ、老若男女問わず輪姦され尽くされ、虐殺され尽くさねばならない」なる理念に基づく「北朝鮮=東北軍」式プロパガンダの背景にあったのもこうした歪んだ選民意識。こうした劣等感に裏打ちされた「民族的自尊心」はさらに、日本人や韓国人を「人類平和の理念達成の為に地上から一刻も早く抹殺すべき絶対悪」と確定すべく「従軍慰安婦とは実は日本軍の主要食糧源であり、かつ零戦戦艦大和の主要燃料もまた慰安婦から絞った脂肪だった。韓国人もその恩恵には預かってきた」とイメージする妄想まで生み出してきた。実際に大飢饉を乗り越える為に繰り返し「共食い」を強要されてきた民族ならではの発想とも。

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*「人類平等の理念を達成する為、一刻も早く米帝の傀儡たる日本人も韓国人も、我々北朝鮮に全財産を略奪され尽くされ、老若男女問わず輪姦され尽くされ、拷問の末に殺戮され尽くさねばならない」…おそらく失政により窮乏や餓死を強要され続けてきた国民を懐柔すべく続けられてきた「この聖戦に勝利した暁には、君達は国際正義実現の名のもとに「不義の顕現」たる韓国人や日本人を好き放題略奪し、輪姦し、殺戮し尽くして良い」なるプロパガンダと表裏一体にある。ポルポト政権下におけるベトナム系市民に対する扱い、大英帝国植民地支配体制崩壊後のロヒンギャ族に対する扱い…実際「勝利例」ならいくらだって存在するイデオロギーとも。「ホロコーストに対する復讐は逆ホロコーストの完全遂行によってのみ達成される」なるカール・シュミッツ的思考様式がジレンマがリベラル層を内側から蝕んでいく。

*そういえば欧米にはナチスドイツ台頭と敗戦後ドイツで多発した「人肉ソーセージ」事件を結びつけて考える向きも存在する(ソーセージでなく「石鹸」が生産されるバリエーションも存在)。特に重要なのは世界恐慌(1929年)発生後のドイツ市場に「犬肉ソーセージ相場」が登場してきた事で「そんな事態に至ってなお守旧派的理想論しか繰り返せない」インテリ=ブルジョワ階層が国民的支持を失う契機になったとされる。
No.48 24人の少年を殺害し、人肉を食べていたドイツの食人鬼
殺人博物館〜アドルフ・ルートガルト

ところで、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督映画「ブレードランナー 2049(Blade Runner 2049)」におけるレプリカントの存在。もしかしたら彼の出身地たるケベック州において目立たない様に秘密のコミュニティを構築しているフランス系市民の生き様が投影されているのかもしれません。以前ノバスコシア州で仕事していた事があって、その時彼らとも交流してケベック独立住民投票(1995年)も一緒に経験しているのですが、雰囲気が実によく似ているのです。まぁアイルランドのトム・ムーア監督みたいに「民族映画」を制作してる訳ではないので「分かる人にしか分からない」レベルまでトリミングされてはいるのですが。

ケベック独立運動(仏語Mouvement souverainiste du Québec、英語Quebec sovereignty movement)- wikipedia

カナダにおけるフランス語圏であるケベック州英語圏からの分離独立を目指す政治運動であり、イデオロギー。カナダでは長い間、多数派である英語系住民に対し、少数派であるフランス語系住民がより強力な自治権を求め続けており、その強力な自治権の最たるものが、ケベックのカナダからの分離独立となる。

1960年代には分離独立を求める諸派が集まりケベック党を結成、1968年よりカナダ連邦政府に対しケベック州自治強化などの憲政上の交渉や、分離独立を争う住民投票を要望するなどの活動を行なってきた。1967年7月24日にフランス大統領シャルル・ド・ゴールが訪問先のモントリオールで行った「自由ケベック万歳!」発言はケベック独立運動を盛り上げることになった。

1980年には、「主権・連合構想(sovereignty-association)」と呼ばれる、カナダ連邦とケベックの「経済的連合」(分離独立を直接の目的としない)のための交渉を行なうかどうかを問う住民投票が実施され、約6割の住民がこれに反対。特に1982年にケベック州政府の意向に反しカナダ新憲法が制定されたことや、フランス語系文化やフランス語の保護が新しいカナダ権利自由章典(Canadian Charter of Rights and Freedoms)で明記されたことで、1980年代を通して一旦「主権・連合構想」は下火になった。

その後、ブライアン・マルルーニー政権下で、1982年憲法ケベック州の批准を取り付けようと二度試みられるが(1987年のミーチ・レーク協定、1992年のシャーロットタウン協定)いずれも失敗したことを受け、1995年、ケベックがカナダから独立するかどうかを問う住民投票(1995年ケベック独立住民投票)を行うも僅差(独立賛成49%、反対51%)で独立は否決された。

ケベック党は分離独立を旗印に掲げてきたが、オプション・ナショナル党(Option nationale)やケベック連帯党(Québec solidaire)など分離独立に賛成を表明している他の諸派もある。ケベック自由党は基本的に州自治の強化には反対だが、歴史的に見て必ずしもいつも反対の立場とは限らない。そのためケベックの政治では分離独立問題について、大きく分かれる。ケベック自治強化はカナダ連邦主義のイデオロギーとは対立の構図となるからである。

ケベック分離独立運動については、交渉や議論等平和的手段による活動がほとんどだが、まれに過激派が暴力に訴えることもあった。1963年から1970年に爆弾・脅迫などを行なったケベック解放戦線によるテロは多くの犠牲者を出し、「オクトーバー・クライシス」と呼ばれる事件を引き起こした。現在ではケベック独立運動の主体はケベック党であり、2012年にはケベック州議会で少数与党となり、独立派であるポリーヌ・マロワ党首は州首相となったが、2014年の総選挙で敗北した。

オクトーバー・クライシス(英: October Crisis, 十月危機)- wikipedia

1970年10月にカナダのケベック州で発生した、ケベック解放戦線 (Front de Libération du Québec, FLQ) のテロリストによる2件の政府要人拉致事件の呼称。当時のカナダ首相ピエール・トルドーが、(短期間ではあるが)戦時措置法を発動し、ケベック州とオタワにカナダ軍が展開された。

ケベック州首相のロベール・ブラッサと、モントリオール市長のジャン・ドラポーが、カナダ政府に対して戦時措置法の発動を求めた。カナダ首相トルドーは1970年10月に戦時措置法を発動。強い力を与えられた警察は、分離主義者と判断した者の全てを保釈無しで留置した。
*この時カナダ政府がケベック解放戦線のメンバーと他の過激な分離主義者、民主主義的な手法で独立を勝ち取ろうと啓蒙活動をしているケベック党党員などを区別することを拒否している。

本危機が終結した後、特に1973年にケベック党の党員リストを手に入れるために王立カナダ騎馬警察(RCMP)職員が不法に突入した事件などに対して、トルドー首相の指導による RCMPに関する疑惑が捜査された。

実はこれ既に同じドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の手になるSF映画「メッセージ(Arrival、2016年)」が、テッド・チャンの原作「あなたの人生の物語(Story of Your Life、1998年)」における「事象の地平線としての絶対他者との全く予期せぬ形での交流」なる側面を犠牲にしてまで「言語こそがまさに人間の思考様式の限界を定める」としたサピア=ウォーフ仮説を採用した時点で薄々気づいてました。
*というか実際、フランス系カナダ人から「使用言語とその語彙こそが、その民族のアイデンティティを定める」なるイデオロギーを繰り返し聞かされてきたので、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督から他の発想が出る事自体が考えられなかったというのが正しい。

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督はタルコフスキー監督作品にも多大な影響を受けているので、そうした発想の原点が「ノスタルジア(Nostalghia、1983年)」においてソ連から亡命してきた詩人が語った「ロシア語で語ったり作品を発表するのを諦めた時、詩人としての私は死ぬ」だったとしても不思議ではない。

*「英語圏を生きるフランス語話者が絶えず抱え続ける実存不安」は「アメリカで生きるイギリス人の抱える実存不安」とも重なり、こうして独特のディアスポラ感が形成されていく。「米国在住の韓国系日本人」町山智浩の感性の「信用に値する部分」もこれに由来する?

モーリス・センダックの絵本「かいじゅうたちのいるところ(Where the Wild Things Are、1963年初版、映画化2009年)」は、今日なおこうした多面的にエキセントリックなディアスポラ達と一般人の邂逅を描く最高のバイブルでもあり続けている。セオドア・スタージョン「人間以上(More Than Human、1953年、和訳1978年)」でも活写された様に「多面的にエキセントリックなディアスポラ」は、あくまで「(一般人の多くが共依存する)権威的中央体制」に対する反動として成立するというジレンマ…

こうして全体像を俯瞰してみると、どうやらウィトゲンシュタインの名言「語り得ないものについて人は沈黙せねばならぬ」なる定言に含まれる「科学的(論理学的に)言及不可能な領域」と「政治的(人道主義的)に言及不可能な(あるいは許されず討伐対象となる)領域」の間には若干のギャップが存在し、この「遊び部分」こそが「人間的な、あくまで人間的な時空間」を構成してきた様です。そうした領域はしばしば後世から俯瞰して「どうしてこんな当たり前の事で悩んでいたのか?」あるいは「どうしてこんな考え方が許されていたのか?」と二分される展開を迎えてきました。

石原慎太郎「処刑の部屋(1956年、同年映画化)」

昭和31年(1956年)、雑誌『新潮』3月号に掲載。同名のタイトルの映画作品(太陽族映画)も1956年(昭和31年)6月に公開された。
*現代人の感覚では「太陽映画」なるもの(湘南を舞台に普遍的悲劇を扱ったせいもあり)国際的評価も得た「狂った果実(1956年、同年映画化)」や(宝塚演目にも組み込まれた)川島雄三監督映画「幕末太陽傳(1957年)」ばかりが高評価で(現代人の感覚から完全に許容範囲外となってしまった)「処刑の部屋」はむしろ積極的忘却対象となってしまったが、、もちろん当時には当時なりの別解釈が存在したのである。

何かと賛否両論の別れた石原の初期作品の中では比較的、作家や文芸批評家らから好意的に受け入れられ、心の動きと肉体の痛みをリアルに描いた作品として、文学的にはもっとも評価された石原の短編小説である。

あらすじ

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大学生の克己は、親友の良治が主催したパーティーの上りのさや(収益金)を狙いに来た竹島らM大のグループにわざと近づき、良治らが金を運ぶ車を教える。

克己と共に花やかな戦歴を誇っていた良治は近頃、高校時代とは人が変り、克己が遊びに誘っても乗らず、喧嘩もしなくなっていた。克己はそんな良治とM大グループを鉢合わせて、良治が以前のように乱闘する勇ましい姿を期待したが、良治はM大の連中に金をすんなり渡してしまう。がっかりしてM大の竹島のいる酒場の裏部屋に行った克己は彼らがピストルで良治を脅したことを知る。帰ろうとした克己を、竹島らが捕らえリンチをする。

そこへ竹島の仲間の石川とその従妹の顕子が来た。顕子は以前に克己がビールに睡眠薬を入れて犯し、付き合っていた女だった。克己に遊ばれ捨てられた恨みを持つ顕子は克己に平手打ちし泣き崩れる。石川らはますます克己を暴行するが、顕子はナイフで克己を縛っていたベルトを切り、逃がそうとした。
*この「自分を睡眠薬を使って強姦した相手に惚れてしまう」といった「男性に都合が良すぎる女性心理描写」が、横溝正史「三つ首塔(1955年)」の主人公たる宮本音禰が自分をレイプした「遊び人」高頭俊作に心底惚れてしまう同様に「現代人の感覚では許せない」要素となっている。

*ちなみに「悲劇のヒロイン」宮本音禰が毒を抜かれた分は(おそらく彼女と表裏一体の関係にある)「(生まれついての)幼女毒婦」佐竹由香利に皺寄せされたが、パワーアップし過ぎて殺しても怨霊となって蘇り、この作品を「金田一耕助シリーズ唯一のオカルト作品」へと変貌させてしまった。

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怒ったM大の連中はさらに克己の腹を割れたビール壜で突き、店の外へ放り出して去って行った。克己は左手で傷口からハミ出す腸を押さえながら、指の千切れかかった右の掌で地面を掻き、裏通りを目指して這う。
*はっと。「障子にちんちん」「睡眠薬で和姦」だけでなく「割れビール瓶でグサリ」も石原慎太郎文学(の映画化)起源なの?

*同時代、ポーランドでは「共産主義勢力間の不毛な内ゲバ」を扱ったアンジェ・ワイダ監督映画「灰とダイヤモンド(Popiół i Diament)」が撮影されている。

この作品に対する文学的評価は石原文学の中では比較的評価が高く、酷評の混じっている『太陽の季節』や『完全な遊戯』に比べると総体的に安定した評価がなされている。山本健吉は「背徳をえがきながら実に健康」で、「小説の原型への郷愁さえこの中に脈打っている」とし、以下のように評している。

太陽の季節」の方が、虚飾的な文体だけにかえって感銘がナマであり、世の母親たちをして怖れさせるような要素があるのだ。「処刑の部屋」も、リンチの描写はもっと簡潔に書けるはずだし、結びの独白のごとき、ヘミングウェーの「誰がために鐘は鳴る」の結末の手法そっくりでもある。だがともかく、この作品に新人石原の成長ぶりを認めたい。— 山本健吉文芸時評

『処刑の部屋』と『黒い水』が石原慎太郎の小説で「最もいいもの」と評する三島由紀夫は、その会話の場面にリアリティーがあるとして以下のように解説している。

『処刑の部屋』にゑがかれた世界は、映画ではそんなに珍らしい世界ではない筈だが、ああいふ世界を描いて、あれだけリアリティーのある会話を駆使したものは、映画にも小説にも見当たらない。あの会話に、作者および現代の若い人たちの生活感情がよく出てゐる。ぶつきらぼうで、叩きつけるやうな会話、口に出して言へないやうなことを物の見事に言つてしまふ会話、あのスピード、あの行動性、……ああいふ会話は、今まで会話の部分に来ると、描写が停滞する感のあつた日本伝来の小説と正に逆である。— 三島由紀夫「『処刑の部屋』の映画化について」

その設定や構成については、『太陽の季節』のようなブルジョア家庭の背景がないため、主題が矛盾なく提示され、舞台と登場人物も「特殊化」され、「いきいきとして写実的な会話で物語がつながれながら全体は抽象化」し、「甘さの印象を与へかねない〈愛〉の主題」が引っ込められている代りに、「反理知主義、反知性主義が正面に押し出されてゐる」とし、「インテリの劇画」的な吉村という「非力な」登場人物も配置され、「多分にメロドラマティックな調子で、血なまぐさいクライマックスへ向つて押しすすめられる」物語の構成には「ほとんど瑕瑾がない」と三島は評している。また、作中の「反知性主義」の最も重要な一行として、〈これが夢か、こんなに手応えがあるじゃねえか〉という主人公・克己の言葉を挙げ、その「ひたすら〈張って行く肉体〉に対する克己の信仰」には、自らの行動の「無意味」を要請するものがあり、克己は〈本当に自分のやりたいこと〉をやろうとするが、それが何であるのかを知らない状況に自らを置きつづけるために「最後に彼が縛られてあらゆる行動を剥奪される成行」は、いかにもそれを象徴的に表すが、作者・石原の主眼はその先にあると三島は説明しつつ、「抵抗も責任もモラルも持たない行為が、肉体の苦痛の強烈な内的感覚に還元されるところに、一篇の主題がこもつてゐる」とし、その理由を、「肉体の苦痛の究極は、(彼が克己であつてもなくても)、知性の介入を厳然と拒むから」だと考察している。そして、苦痛が「厳密に肉体的なものである」ということに「克己が今まで求めて来た本当の〈無意味〉」があり、「どんな野放図な行動にも平然と無意味を見てゐた主人公が、自分の置かれた究極の無意味の中に、意味を見出さうとするところでこの作品は終る」とし、以下のように論じている。

だからこの死苦は、彼自身の必然的帰結であり、彼が自ら求めたものなのだ。克己の言ひたいことは、肉体にはかうした自己放棄が可能であるのに、知性にはそれが不可能ではないか、といふ嘲笑的思想であらう。皮肉なことに、これは又、多くの宗教家、肉体的苦行者が内に抱いてゐる嘲笑的信念と同じものである。肉体は知性よりも、逆説的到達が可能である。何故なら肉体には歴然たる苦痛がそなはり、破壊され易く、滅び易いからだ。かくてあらゆる行動主義の内には肉体主義があり、更にその内には、強烈な力の信仰の外見にもかかはらず、「脆さ」への信仰がある。この脆さこそ、強大な知性に十分拮抗しうる力の根拠であり、又同時に行動主義や肉体主義にまとはりついて離れぬリリシズムの泉なのだ。石原氏の共感が、いつも挫折する肉体的力、私刑される学生、敗北する拳闘家へ向ふのは偶然ではない。— 三島由紀夫「解説」(『新鋭文学叢書8・石原慎太郎集』)

また三島は「力の勝利」と「知性の勝利」がオリンピックの冠のように相似るのは、「勝利」の性質が「肉体の向う側」へ人を放り出し、「勝利」(幸福)を人は「厳密に肉体的に味はふことができない」からであり、「幸福といふのは精神の発明物」であるからだとし、しかしそれが「敗北」においては二者(力と知性)が「截然と」違う様相となり、肉体と力が「生々しい知性への侮蔑」を表わすのは、「肉体的敗北は明白な苦痛」だからであり、「苦痛こそ純肉体的領域であつて、どんな精神的苦痛も目前の歯痛を鎮めることはできないのだから」と説明しつつ、〈これが夢か、こんなに手応えがあるじゃねえか〉の一行に、『処刑の部屋』の芸術的特色があるとし、その時の克己は、「夢」と「手応へ(現実)」の中間にいて、その場面は、克己の考えた「現実」が、物語の始まりからどんどん「限局」「圧縮」され、「かつて思ひのままに行動した世界の花やかなひろがりは、記憶の中の喚起にすぎず、圧縮された現実はつひにベルトに縛られた掌の感触の一点にまで絞られて、ともすると夢がこの現実をくつがへしてくれさうな予感にをののきながら、主人公が小さな一点の感触に向つて必死に集中する」と考察しながら、「この件りは、石原氏の書いた最も美しい文章の一つである」と評している。
*それにつけても石原慎太郎先生…まさしく黒澤明監督映画「羅生門(1950年)」の名言「人は嘘を吐く、自分自身に対しても」を清々しいまでに貫く生き様をなされております。

 映画「処刑の部屋(大映、1956年)」

市川崑監督の大映入社後の第1作。川口浩の初主演作品でもある。石原原作の小説を映画化した『太陽の季節』や『狂った果実』とともに「太陽族映画」と呼ばれた。

惹句は「『俺達はしたい事をするんだ!』青春の奔流のまゝに爆発する現代学生の生態!」。

後に同作品のストーリーを真似た学生たちによる、薬物混入の強姦犯罪が多発した。
*まさしくこうした展開が「旧映倫死亡フラグ」となってしまう。

*そういえば安彦良和先生も「アリオン(1980年〜1985年)」におけるポセイドンとデメテルの恋や「ナムジ(1989年〜1991年)」におけるナムジ (大国主)とスセリ(須勢理毘売命・須世理毘売命/須世理姫)」の恋などにおいて「強姦から始まる恋」を描いている。そういえば「少女小説家」氷室冴子すら「ヤマトタケル(1986年)」においてすらそれを描いている。当時はこうした物語文法が神話的体裁を纏う事でしか生き延びられなくなっていくのと同時に、女性側が「これ(強姦)が少年の精一杯なら手玉に取れる」と開き直っていく時代でもあったのだった。

そして韓国人やカナダ人やアイルランド人の様に「大国に囲まれ、その影響によって民族的アイデンティティが気付いたら消失している危機に晒され続けてきた民族」は、こうした領域において独特の慧眼を発揮する様です。

目まぐるしく移り変わってきた「現実の世界」と「事象の地平線としての絶対他者」の境界線。その変遷に巧みに適応してきたインテリ=ブルジョワ階層と、表向き「革面」を繰り返しつつ「とんでもない妄想」を鬱積させてきた一般庶民…この図式は「ナチス政権下のドイツ」「軍国主義下の日本」「世界を敵に回した北朝鮮金王朝」のどれにも見て取れますが、想像以上に「欲望開放の機会」を得る可能性が少ないのがせめてもの救いとも。
北朝鮮から亡命してくる「北脱者」は当然、現地におけるインテリ=ブルジョワ階層側が多いのだが、彼らは平然と「政府のプロパガンダを頭から信じちゃうのは馬鹿だけ。だからプロパガンダする側は無罪」と言い放つという。まさにその無責任さがプロパガンダ内容を「人類平等の理念を達成する為、我々北朝鮮は一刻も早く、米帝の傀儡にして人食い人種たる日本人や韓国人の全財産を略奪し尽くし、老若男女問わず輪姦し尽くし、拷問の末に殺戮し尽くさねばならない(まずは「地上の楽園」プロパガンダに引っ掛かった在日朝鮮人が血祭りに挙げられた)」なる滅茶苦茶な内容にまでエスカレートしたとも。

リチャード・ホフスタッター「アメリカの反知性主義(Anti-intellectualism in American Life、1963年)」によれば、「一般庶民の代表」を気取る反知性主義者は、まさにこうしたインテリ=ブルジョワ階層の変幻自在さこそを「絶対悪」認定し、まず滅ぼそうとするのです。まさしくカール・シュミッツいうところの(「例外状態」を顕現させる)党争至上主義。「妥協点を探る為に敵を理解しようする試み全てが絶対悪である」と認定し、容赦無く次々とそうした層を「国民の代表」を気取って「一刻も早く地上から滅ぼし尽くすべきヒトラー安倍やナチス自民党やその狂信的カルト邪教徒たるネトウヨ」に分類していく日本の無政府主義者達のイデオロギー。彼らによれば「老若男女問わず絶対悪を信奉するカルト狂信者に対しては、脊髄反射的に略奪し尽くし、輪姦し尽くし、虐殺し尽くしたいとしか感じず、即座にそれを実践する人間だけが真の平和主義者にして人道主義者。一瞬でもそうでないと疑われた人間もまた、一切の例外を認められず略奪され尽くし、輪姦され尽くし、殺戮され尽くすくらいでないと真の正義は実現しない」という事になる様です。
*実際、韓日翻訳掲示板上でとある韓国系沖縄独立運動家が豪語していた「アンケートによれば独立に賛成する沖縄県民は4%にも満たないそうだが、そんな数字なんて96%を粛清すればたちまち100%に到達する」なる主張は、非合法に遂行されたカルターニャ独立投票に(全体の過半数以上を占める)反対派住民が向かわず「独立賛成派90%」なる成果が達成された途端、実際に「反対派住民など存在せず、たとえ居ても隣人から私刑を受けて軒先に家族ごと全財産を略奪され尽くし、輪姦の果てに虐殺され尽くした遺体が並べて吊るされるのみ」という状況が現出した事である種の正統性を与えられる事になった。こうしてみると「(中央集権に対する徹底抗戦を最優先課題と考える)無政府主義者」と「(あくまで個人の自由を尊重する)個人主義者」の間には絶対に越えられない壁が存在するとしか思えない。

そういえば私自身、なまじ「韓国政府の風紀粛清運動によって国内SNSから追放されてディアスポラ化した韓国系アカウント(英語のみしか使ってない場合、韓国系アメリカ人との峻別など不可能)」のコミュニティと親和的関係を構築してきたが故に、むしろ彼らと敵対的関係にある「従北派韓国系アカウント」とは普通の日本人アカウントより「旗幟鮮明」を迫られてきたのです。

そうした意味合からこうした発言について鑑みると、どうしても「個人的私見」の域を出るものではありません。従って「国際正義と人道主義を信奉する男性は、絶対悪を信奉する女性を目にしたらたちまち勃起して強姦したくなり、逆にそうでない女性に対して間違っても勃起したら当人が全財産を奪われ、輪姦対象とされて虐殺される」とか「識別自体が面倒で不毛だからキモオスなんて即皆殺しでいいんじゃね?」みたいな急進派イデオロギーについてどうこう発言可能な立場ではないのですが…

むしろ後世から振り返ると、こうした「多様性(人には様々なタイプが存在する)に従った宗教的政治的区分を多態性(多くの人間は複数のタイプに跨って存在しており、特定のタイプを政治的に「絶対悪」認定すると想像以上の弊害が現出する)が拒絶するジレンマ」こそが21世紀前半的課題だったという方向で話がまとまってくるのかもしれませんね。

【通い婚】滅びゆく中国少数民族の伝統?

 中国はあまりに広大過ぎて日本人の想像力を超えてる部分が多いです。そもそも「反日スタンスの人も少なくないが、親日スタンスの人の人口だけで全日本人の人口をはるかに凌駕している」点について、どう考えればいいやら…

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【雑想】「君子豹変」が悪い意味でしか広まらなかった日本の反知性主義。

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周易」第49卦 の 解説に「大人虎変 、 君子豹変、小人革面(先駆者がイノベーションを起こしても、真のベテランは確実にこれについていく。三流の人間は分かった振りをするのみ)」とあります。何故かこのうち「君子豹変」の4文字だけが一人歩きし「インテリは状況に合わせて態度をコロコロ変えるから信用ならない」なる反知性主義的意味合いを帯びてしまった辺りに日本的伝統の限界が存在するとも?

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【雑想】「最強」を喰う?

結構回覧されてる様なので投稿。

熊肉 - Wikipedia

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やはり誰もが「最強」を喰いたいのだ?

【PUBG】日本人はもはや「真の全体主義」が何か忘れてしまったの?

https://www.evernote.com/shard/s45/sh/8d6fef07-186b-4c03-b255-9b0afab8a1a7/8ac3107eafec398f582557116a66b4bf/res/51ae2335-190e-48eb-81f7-0b6de0afb814/o0480028812899071807.jpg?resizeSmall&width=832

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まさしく「真の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマの顕現例?

世界一ホットなビデオゲームが世界最大級の市場から締め出される。

「プレイヤーアンノウンズ・バトルグラウンズ(PUBG)」が中国での販売には暴力的過ぎると中国オーディオ・ビデオ・デジタル出版協会がオンラインで発表した。殺し合いを繰り返すこのゲームは血なまぐさく、社会の規範から逸脱しており、若い消費者に有害だとの主張だ。

同協会が発表前に国家新聞出版広電総局(国家版権局)と協議していたことを踏まえると、PUBGが中国で正式にライセンスを得る可能性は極めて低くなった。

国家版権局は事実上、中国本土における全てのコンテンツのライセンスを管理しており、これまでに「ボージャック・ホースマン」や「ビッグバンセオリー」といったテレビシリーズを禁止した。PUBGの世界観は共産党大会で権限を強めた習近平総書記(国家主席)が呼び掛けた結束に反している。

上海のコンサルティング会社パシフィック・エポックのアナリスト、ベンジャミン・ウー氏は「基本的に中国でのPUBGへの死刑宣告だ。中国で説かれていることとPUBGの基調となるイデオロギーが衝突しているというのがこのゲームの大きな問題だ」と述べる。

パソコン上で約30ドル(約3400円)で買えるPUBGは、韓国のブルーホールが手掛けている。今年のゲーム業界で大ヒットしており、世界セールスは1300万本を突破した。

一方、リベラル層は「北朝鮮労働党中国共産党は、資本主義圏には決して存在しない真の自由を謳歌している。それは自らの確信するイデオロギーを貫き通す自由だ!!」と絶賛。反対意見の一切を「先天性ナチズム」「一刻も早く全員絶滅収容所送りにすべきカルト宗教狂信者にしてナチス残党」と切り捨てます?

(自らが主張している様に)国際的観点から見て、本当に彼らだけが「唯一の人道主義者にして平和主義者にして平等主義者」なら、どうやら人類は半減を余儀なくされる様なんです?