諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

これも「事象の地平線としての絶対他者」?⑦「モルゲッソヨ」なる新機軸

おそらく第一報はこれ。

【平昌五輪】メインプレスセンター前に“謎のオブジェ”

f:id:ochimusha01:20180210052131j:plain

【目撃】平昌五輪開幕まであとわずか。平昌にあるメインプレスセンター(MPC)には、世界中から続々と報道陣が集結している。MPCにはカメラマンの仕事エリアや記者の作業エリア、はたまたカフェや土産物店まであるが、その前には謎のオブジェが…。

一体、これは何なのか? 男性の肉体をかたどったようだが、遠目からだと“アレ”そのものに見えなくもない。近くにいたボランティアスタッフに聞いてみても、口を揃えて「モルゲッソヨ(知らないです)」。ちなみにこのオブジェの前は、各国の報道陣の集合場所となっている。

そしてネットがお祭り状態に。

続きを読む

【ヴァルキリー/ワルキューレ】「民族主義的伝承文学」が発祥した瞬間について。

リヒャルト・ワーグナーの楽劇「ヴァルキューレ(Die Walküre、作曲1856年、初演1870年)」の序曲「ワルキューレの騎行」そのものは幾度も耳にしているのに、そこで歌われる歌詞の内容は全く知らない人が沢山います。


ここで克明に描かれるのは「人間間の愛を知らぬ養父に召喚されたが故の酷薄なヴァルキリー/ワルキューレの世界観」。そしてこの次元から出発するが故に「人と人を結びつける愛の存在を知った」ヴァルキリー/ワルキューレの長姉ブリュンヒルデの苦悩に満ちた「裏切り」が引き立つという構成。

f:id:ochimusha01:20171226121214g:plainf:id:ochimusha01:20171226121250g:plainf:id:ochimusha01:20171226121430g:plainf:id:ochimusha01:20171226132258g:plain

当然問題となるのは「残された姉妹との以降の関係」。「(養父を無視して)長姉の指示に従う」としたのが宮崎駿監督映画「崖の上のポニョ(2008年)」で、「当然無条件で対立関係となる」としたのがライカ映画「KUBO/クボ 二本の弦の秘密(Kubo and the Two Strings、2016年)」や「マイティ・ソー バトルロイヤル(Thor: Ragnarok、2017年)」。「どっちに付くか個々が悩んでそこにドラマが生じる」としたのが岡本倫極黒のブリュンヒルデ(Brynhildr in the Darkness、2012年〜2016年)」。

f:id:ochimusha01:20171226131825g:plainf:id:ochimusha01:20171226132351g:plainf:id:ochimusha01:20171226132401g:plainf:id:ochimusha01:20171226132448g:plainf:id:ochimusha01:20171226132456g:plainf:id:ochimusha01:20171226132519g:plainf:id:ochimusha01:20171226132555g:plainf:id:ochimusha01:20171226134431g:plainf:id:ochimusha01:20171226134520g:plainf:id:ochimusha01:20171226133255g:plainf:id:ochimusha01:20171226133325g:plainf:id:ochimusha01:20171226133354g:plain

それではこの部分、オリジナルではどうなっていたかというと…何とまるで分からないのです。元作品で全く触れられていないばかりか、物語文法的に該当する先例もありません。一体どうしてそんな事に?

続きを読む

改めて「君の名は」とは何だったのか?① 「事象の地平線としての青春搾取ミュージカル」?

果てさて、自らの擁する悲壮な宿業を主人公に託して描き切りたい芸術至上主義者にとって「自分達の感性や存在の肯定にしか関心のない(逆にその条件さえ満たせば、後は結構自由にやらせてくれた」王侯貴族や聖職者達と「お気に入りのキャラクターのバッドエンドを決して許さない(飽きられるまで殺しても殺しても蘇らせ続けるしかない状況に追い込まれる)」大衆のどっちが残酷な主人なのでしょう…

f:id:ochimusha01:20180104213922g:plainf:id:ochimusha01:20180104213948g:plain

新海誠監督「ラストシーンは最初から決めていました。瀧と三葉の青春期はあの瞬間に終わり、その後はごく普通の男性と女性としての人生が始まるのだと思います」

ふと思い出したのが「欧州で最も危険な男」と呼ばれた「永遠の革命家オーギュスト・ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)の以下のスタンス。「革命とは青春であり、青春は永遠に勝利の栄光とは無縁な存在であり続ける。何故なら如何なる体制の転覆に成功しようとも、その瞬間から新たな反体制派への弾圧が始まるからだ」。19世紀フランスにおけるほとんどの革命に参加し、のべ33年余りに渡って収監され続けた本物のアウトサイダーだったからこそ到達し得た「事象の地平線としての絶対他者を巡って社会が繰り返す黙殺・拒絶・混錯・受容しきれなかった部分の切り捨てのサイクル」についての卓見…
http://www.art-prints-on-demand.com/kunst/antoine_joseph_wiertz/portrait_louis_auguste_blanqu__hi.jpg

続きを読む

【ピーターパン症候群】【きずな喪失症候群】「大人になれない子供達とそれに共依存する殉教者」の物語。

以下の投稿で「男性の破滅願望と女性の破滅願望の共依存状態」なるキーワードが浮かび上がってきました。

要するに「産業革命の大量生産・大量消費スタイルが消費の主体を王侯貴族や聖職者といった伝統的インテリ=ブルジョワ階層から一般庶民に推移させた歴史展開」の結果、宗教論争や氏族戦争(Clan War)における正統性の主張、特に「(近代国家登場によってその存続が脅かされる様になった)領主が領民や領土を全人格的に代表する農本主義的権威の回復問題」といったトピックが時代遅れとなる一方で、その代替物として浮上してきた問題意識。

f:id:ochimusha01:20180206053934j:plain

ところで以前の投稿でも触れた通り「本物の狂気の世界」自体はあくまで単なる実証主義的人文科学(臨床医学)の対象にしかなり得ません。

あえて(教会や王国が用意した)既存の救済計画に背を向け(悲壮な最後を迎える可能性すら辞さず)自らの内側から込み上げる自然の声にのみ従って善悪の彼岸を超越しようとするロマン主義の際どさはまさにここにあります。古くは青年フランス(小ロマン派)の「狂詩人」ネルヴァル、新しくはジャン・ジャック・ベネックス監督映画「ベティ・ブルー 愛と激情の日々(37°2 le matin、Betty Blue、1986年)」や浅野いにおおやすみプンプン(2007年〜2013年)」の「実際にはただの狂人に過ぎない」ヒロイン達…

なので実際の商業的関心はむしろ必然的に「精神障害の診断と統計マニュアル(DSM」に掲載可能な範囲外で展開してきたのです。

精神医学(Psychiatry) - Wikipedia

各種精神障害に関する診断、予防、治療、研究を行う医学の一分野。

1899年のエミール・クレペリンによる功績によって、精神障害を分類することが試みられ、これは現在のアメリカ精神医学会(APA)による『精神障害の診断と統計マニュアル』(DSM)が作成されるに至っている。生物学的な識別に基づかない記述精神医学である。

20世紀初頭にはジークムント・フロイトによる精神分析学の流れが精神医学に起こった。無意識に記憶されている幼少期の性的欲動に症状の起源があるという理論である。それは様々な批判や、理論的な指摘を受け新フロイト派といった他の学派を生んでいった。しかし、後の認知心理学は、何年も治らない症状や無意識への疑問から現在の主流となっている。

1950年代より精神科の薬が登場し、生物学的精神医学が全盛を迎えたが、21世紀初頭となっても精神障害を識別するための確かな生物学的指標は発見されず、その脳内伝達物質の化学的不均衡の理論や、薬の有効性にも疑問が投げかけられてきた。

続きを読む

【あたしおかあさんだから】こうして世界は「数理のみの世界」に向けて収束 していく?

f:id:ochimusha01:20180205002023j:plain

最近多用している「二直線間を結ぶ最短距離が直線とならないなら、そこに概ね認識空間の歪みが潜在している」なる数理ですが、考えてみれば以前の投稿における「対偶」概念をサブセットに含んでいるんですね。

その最新版がこれ?

続きを読む

昼と夜が対峙する世界① 「運命の女」と「運命の男」の概念的不均衡について。

ヨシワラ・ダンス(Yoshiwara Dance)」、それはフリッツ・ラング監督・ テア・フォン・ハルボウ脚本映画「メトロポリス(Metropolis、1927年)」が後世に国際的に残した途方も無いミーム(Meme、インターネット遺伝子)の一つ。 

f:id:ochimusha01:20180118181043j:plainf:id:ochimusha01:20180118180221g:plainf:id:ochimusha01:20180118180317g:plainf:id:ochimusha01:20180118180819g:plainf:id:ochimusha01:20180118180914g:plainf:id:ochimusha01:20180118180953g:plain

(「権力者=資本家」が全てを当然の様に統括する)昼の世界」に対し全ての既存価値観が逆転するのが「夜の世界」。またそれは「20世紀前半、女性の目から男性向けポルノに夢中になる男性がどう写っていたか」についての時代証言としても貴重だったりもするのでした。
*そのショーとしてのテイストが不思議にもイアンフレミングジェームズ・ボンド・シリーズ(1953年〜1964年)」におけるストリップショーや横溝正史「三つ首塔(1955年)」における金粉ショーの描写と重なる。おそらく現実に存在したこのタイプのショーが全ての発想の大元にある。

f:id:ochimusha01:20180202015113j:plain

続きを読む