諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】はじめに「歌」ありき?

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「言葉」に先駆けて「歌」があった?

クジラの歌 - Wikipedia

コミュニケーションを目的としてクジラが発する一連の音である。特定の種に属するクジラ(代表的には、ザトウクジラ)が発する、反復的でパターンが予測可能な音で、その発声が、鯨学者に人間の歌唱を想起させるものを指すために「歌」とよばれる。

スタッフォード氏は、ホッキョククジラたちが11月から4月まで毎日24時間、止まることなく「大きな声で歌い続けていた」と明かし、「多くの違う歌を歌っていた」と述べた。

スタフォード氏と同僚3人は3年にわたる調査で、ホッキョククジラの歌から特徴的な184種類のメロディーを確認。論文によると、ホッキョククジラの歌の多様性や年ごとの変化に匹敵するのは数種類の鳴き鳥のみで、ホッキョククジラは動物界でも最も多作な作曲家とみることもできるという。

また他の動物が求愛活動で発生する声とは異なり、ホッキョククジラの歌は複雑な旋律から成っており、先天的に備わっているものではなく、学習して得られたものと考えられるという。

鳥のさえずりのように声を出せる哺乳類はコウモリの数種やテナガザルなどわずかで、それも同じ旋律を繰り返すだけだ。また、ザトウクジラも歌を歌うことで知られるが、ザトウクジラは1年を通して群れで同じ歌を共有し、歌のメロディーは毎春、新しいものに変わるという。

一方、ホッキョククジラはさらに才能に富んでいて、常に新しい歌を生み出しているようだという。

スタフォード氏は「ザトウクジラの歌がクラシックだとすれば、ホッキョククジラの歌はジャズだ」と表現し、「ホッキョククジラの音楽はもっと自由だ」と語った。

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【イングリッシュ・ペイシェント】時代の迷路に迷い込んで「何者でもなくなってしまう」物語について。

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関連情報をほじくってるうちに映画「イングリッシュ・ペイシェント(The English Patient、1996年)」の裏話みたいな面倒な話に出喰わしました。

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【エポケー状態】「判断中止」という判断について

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事象の地平線としての絶対他者」に対する最も重要なアプローチ方法…

エポケー(古代ギリシア語: ἐποχή epokhế) - Wikipedia

原義において「停止、中止、中断」を意味し、哲学においてこの語はいくつもの意味をもっている。

懐疑主義においては「判断を留保すること(suspension of judgment)」を意味する。もし真理が到達不可能なものだったり、到達しにくいものだったりするなら、判断を急ぎすぎるとかならず誤ることになるであろうからである。

フッサールおよび現象学においては世界の自然命題を「カッコに入れる」ことを意味する。すなわち世界の外的現実についての信念をカッコに入れるのである。ただしこれは世界の実在を疑うという意味ではまったくない。世界の現象を起こるに任せ、純粋な現れとし、そこで現れているものの実在についてはもはや断言しないということである。世界の中で生きられたものが意味している一切を捨象し、生きられたものをそのものとして研究するという点において、エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩なのである(フッサールによれば、エポケーの次の段階が「現象学的還元」である)。

精神分析学においては現実に対するあらゆる判断を留保することを意味する。これによって治療者の幻想と無意識の世界をうまく航行できるようにするのである。

この世で最もアルゴリズム化が難しい分野? というよりむしろ逆に「語り得ない事について語らない」という点においてアルゴリズム化の基本中の基本?

グレイテスト・ショウマン観てきました⑥  ハイデガーいう「集-立(Ge-Stell)」概念だけが明らかにする「真理(Aletheia)」?

以前の投稿でも書いた様に、私は個人的に冒頭部分に「純度の高いファシズム」を見て取ってしまったので「グレイテスト・ショーマン(The Greatest Showman、2017年)」に対する世間の手放しの絶賛がかえって恐ろしいと感じてしまった次第。要するにあの冒頭の場面、First Gundomにおけるこの場面でのアムロの脳内風景なんですよ…

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心象風景だから色々独りよがりな部分もあるし、まだ肝心なパーツも幾つも欠けてるのに既に(道具の様に粗雑に扱われている)観客に一切の嫌悪感を抱かせず「ああ本当に彼が動かすガンダムを見たい」と思わせる妖しい魅力を備えている…「純度の高いファシズム」というのはそういうニュアンスを表現したくて使った表現です。

逆をいえばそのビジョンが実際に完璧な形で実現するラストシーンからは、この時感じた違和感が全て払拭されている…その過程一体何かがあったかというのがこの物語全体の展開の骨子となってくる訳ですね。

それにつけても歌詞がまたもう終始プロパガンダ色の強いパワーワードの連打。「もう身を委ねなさい、この感覚に抗えないのがわかるでしょう(Just surrender 'cause you feel the feeling taking over)」「それはあなたが跪くべき宣教師(It's a preacher in the pulpit and you'll find devotion)」…本当にまさしく「我々は攻撃されている。繰り返す、我々は攻撃されている。違和感仕事しろ!!」という感じ。

この感想に関連して気になったTwitter上の感想が以下。


*「だがそもそも観客は映画に巻き込まれたくて映画館へと足を運ぶんだぜ」という話。


*P.T.バーナムが欧州随一のオペラ歌手とほまれ高いジェニー・リンドの米国公園に夢中になり、劇場のキャスト達を疎んじるようになった時期に団員達は「私達は彼のアディア(Idea)なしにはやっていけない」と嘆く場面がある。クリストファー・ノーラン監督映画「バットマン三部作(2005年〜2012年)」においても理想(Idea)という言葉は「隠されていた真の姿を露わにする」といったプラトン形而上学的な意味合いを持たされており、しかもそれが(属人的な個性の産物ではなく)真のIdeaである事を証明するには世代交代が不可欠となる。 とりあえず英国系作品を読み解く基本的鍵の一つとも。

*ちなみに以下の投稿をまとめる過程で、それまで私が「純度が高いファシズム」と表現して来た概念は、ハイデガーいうところの「集-立(Ge-Stell)」すなわち「特定目的の為に持てるリソース全てを総動員するだけの強制力を有するシステム」と密接な関係があると気付いた。ハイデガー自身はこれを「元来、真理(Aletheia)が備える開示作用に逆らう」としているが、イタリア未来派やエンルスト・ユンガーの魔術的リアリズム文学はむしろその逆にその追求だけが開示する真理も存在すると考えた。そして「グレイテスト・ショウマン」の立脚地点は後者。だから冒頭の「純度の高いファシズム」から、ラストの「イデア全体が真の完全状態で顕現する場面」に至る流れ全体が慎重にその意図に沿う形で設計されている。

*ちなみにマーベル・シネマティック・ユニバース(Marvel Cinematic UniverseMCU)を読み解く基本的鍵は「神の叡知自体は無謬だが、現世に流出する過程で誤謬が累積し、最後には絶対矛盾する正義と悪の対立まで生んでしまう」と考える「イデア流出論」。かくして「またあのお騒がせ一家の御家騒動か」「またあの迷惑企業の内紛騒ぎか」なる展開に。まぁアクション映画を支える倫理構造設計なんて「作中で荒っぽく振り回し過ぎてせいでそれが壊れてしまい、観客を不愉快な気持ちにさせる」事故さえ回避すればいいのだ?

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20世紀は遠くなりにけり⑤ 「産業至上主義」が始まったばかりの1960年代の情景

20世紀に入ってからの歴史展開について、政治思想史からのみアプローチしている研究家の大半が反資本主義的視野に追い込まれる展開を迎えます。「例外状態」や「敵友理論」といった概念を尊ぶカール・シュミット流の政治至上主義者の目には、資本主義的展開の全てが「政治思想のイデオロギーとしての純粋性を侵犯する穢れの一種」としか映らないからなんですね。

カール・シュミットを読む

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でも現実には、消費者の側からすれば「商品」のみが目に見える実態の全てだったりもした訳です。産業革命導入に伴う大量生産・大量消費スタイルの一般化が消費の主体を王侯貴族や聖職者から庶民、すなわち新興産業産業のメンバー(資本家・経営者・管理職・労働者・地主・小作人・個人商店・小売業者とその店員)などに強制推移させてからそう考えるしかなくなってしまったのでした。

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【久遠の安保闘争史観】【全ての歴史観に歴史あり】それは時空間を超えて続けられてきた聖戦?

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安保闘争史観なるもの」…それはもはや「法華経(紀元前1世紀頃〜紀元前2世紀頃に成立)」における「久遠の仏」概念、すなわち「御釈迦様はたまたま古代インドに現れた仏陀の一形態に過ぎない。仏陀自身は大衆救済の為にあらゆる時代、あらゆる地域に顕現してきた」なる汎神論へのコペルニクス的展開だった?

60年代、社会主義を信じ、その夢は連合赤軍が破った。

80年代、資本主義を信じ、その夢はバブル崩壊が破った。

90年代、行き場を失った日本人はオカルティズムに迷い込み、その夢はオウム事件が破った。

00年代、オカルティズムから追い出された日本人は、最後の砦・ナショナリズムに篭城する。

90年代、00年代、10年代の日本は「80年安保」のツケを支払ってるようなもんである(笑)。

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【ジャック・ラカン】【ハイデガー】【言語ゲームの地平線としての絶対他者】「理論上、既にヒトラー安倍とナチス自民党は終焉済み」?

これまで難解だから忌避してきたジャック・ラカン精神分析論…

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疾風怒濤精神分析入門:ジャック・ラカン的生き方のススメのレビュー

「すべての人は神経症者、精神病者、倒錯者(+自閉症者)にいずれかに分類され、「健常者」というものは存在しません」...ここは、スペクトラムの考え方そのものです。カウンセラーとしてお話しを伺っているクライアントさんのことを思い出しても、もちろん私自身をふり返ってみても、しっくりきます。

「記号はそれ自体で指示対象と一致するので、単体でも機能します。これに対し、シニフィアンはそれ自体としては意味を持っておらず、意味作用(シニフィカシオン)が生じるためには他のシニフィアンと連接される必要があります」...ここでは、「私は他人が嫌がることをします」という文章(シニフィアン)が、誰の口から発せられるか(他のシニフィアン)によって意味が異なってくる、と説明してくれます。...これは、企業さんでやっているコミュニケーション研修でお話ししていることにつながっていきます。このシニフィアンの話しから、鏡像関係、<他者>としての母親、<他者>のシニフィアンの集積としての無意識から...「(精神)分析の場においては、言語を意味によって使用することを中断し、言語のシニフィアン的性質が現れることが目指されます」とつなげる流れは、すんなりと入ってきます。

母の[法]とそれへの従属から抜け出すための父の[法]、「母親の重要な役目は、なんらかの父の存在を認めて、「世の中には<法>があって、お前もその中で生きなければならないんだよ」と子どもに理解させる役割がある」としながら、エディプス・コンプレックスの3段階への説明、『去勢』から『ファルス』へ、ここからファルスの存在(ある)から所有(もつ)へ、そして「ファルスを<持とう>とすると、欲望が母親そのものから解放され、より広い対象に向っていく」という発達の説明への展開も見事です。

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