諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

イタリア・ルネサンスとフランス人

以下はあくまで小説だが着想自体が興味深い。
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「ダ・ヴィンチ〜ミステリアスな生涯」は最高! - Apple/Macテクノロジー研究所

歴史上、これほどに才能の質の違う天才が行き会い、互いの才能を生かして協力する例は、なかなか見出せるものではない。レオナルドは思考の巨人であり、チェーザレは行動の天才である。レオナルドが、現実の彼岸を悠々と歩む型の人間であるのに反して、チェーザレは、現実の河に馬を昂然(こうぜん)と乗り入れる型の人間である。ただこの二人には、その精神の根底において共通したものがあった。自負心である。彼らは、自己の感覚に合わないものは、そして自己が必要としないものは絶対に受けいれない。この自己を絶対視する精神は、完全な自由に通ずる。宗教からも、倫理道徳からも、彼らは自由である。ただ、窮極的にはニヒリズムに通ずるこの精神を、その極限で維持し、しかも、積極的にそれを生きていくためには、強烈な意思の力をもたねばならない。二人にはそれがあった。

 フイレンツェ出身のレオナルド・ダ・ヴィンチは共和制に絶望して故郷を後にする。

レオナルド・ダ・ヴィンチは、 決して『 モナ・リザ』 の画家だけではない。残っている彼の数多くの手記をみても、 あらゆる方面に向けられ た彼の関心の 中でも最大のものは、 国土計画にあっ たので ある。この彼の理想を実現できる者は、当時においては、大 勢力を持つ〝君主〟しかいない。 現実的視野をもっていたレオナルドは、鋭くも、共和国制度の欠陥を見抜いていた。

「自由 のあるところには秩序はない」( 手記 より)。

自分の国フィレンツェ共和国を、彼は早くも見捨てている。イル・マニーフィコと呼ばれたロレンツォ・デ・メディチは、彼の理想の実現に力を貸してくれるに十分な資力もなく、ましてそれを理解する能力さえもなかった。

 しかしヴィスコンティ家からミラノを簒奪したイタリア傭兵隊長(Condottiere/Condottieri)上がりのスフォルツァ家の天下は長くは続かなかった。

フィレンツェを去ったレオナルドは、当時最強を誇っていたミラノのイル・モーロの許へ行く。しかし、 十数年にわたったミラノ滞在も、イル・モーロの没落で中絶 を強いられる。

「 公爵は、国家と財産と自由とを失った。公爵の仕事はすべて未完成となっ た」。

公爵イル・モーロの没落をいたんで書い たこの句に、彼は自分自身の理想の未完成を嘆いている。

 ヴェネツィアには既にレオナルドの構想を実行に移す余力がなかった。

ミラノを去っ たレオナルドは、ヴェネツィアへ行く。当時トルコ 帝国の脅威の前に、守勢にまわらざるをえなかったヴェネツィア共和国の、そしてフィレンツェとは全く違う強固な共和政体をもつこの国の、大きな富と壮大な気宇に望みをかけて行っ たレオナルドは、河を使ってトルコ軍の 侵入をくい止めるという彼の案を、ふところにしたままフィレンツェへ戻るより仕方がなかった。

そして冒頭のチェーザレ・ボルジアレオナルド・ダ・ヴィンチの邂逅場面となる。

そのレオナルドが、チェーザレに理想的な君主を見出したのである。パトロンではない。自分の理想を共同で実現する友人である。ロレンツォにもイル・モーロにも、そしてヴェネツィアにも見出せなかっ た、各人の才能と願望を十分に発揮しながら共同の目的を遂行できる友人を、レオナルド はチェーザに見出したのであった。チェーザレは、新しく興った君主である。自分の国 を、はじめ から造りにかからねばならない。まず始めには城塞や要塞の完備を、そして征服の途上においてすらも、町の整備や運河の敷設、道路の建設など、国土計画は白紙状態から始めねばならない。レオナルドの才能は、その彼にとって貴重なものであった。

レオナルドとチェーザレ。この二人は、互いの才能に、互いの欲するものを見たのである。完全な利害の一致であった。ここには、芸術家を保護するなどという、パトロン対芸術家の関係は存在しない。互いの間に、相手を通じて自分自身の理想を実現するという、冷厳な目的のみが存在するだけである。保護や援助などに比べて、また与えるという甘い思い上がりなどに比べて、どれほど誠実で美しいことか。

このような関係では、互いに自己の目的を明確にする 者の間にのみ存在する、相手に対する真摯 な尊重の気持が生れてくる。二十 六 歳のチェーザレも、そして五十歳を迎えていたレオナルド も、互いに相手に対して真摯であった。

 ある意味、決っして一つにまとまる事のないギリシャ諸都市に失望したアリストテレス(しかもアテネの偏狭な血統主義のせいでアテネで成功しながらアテネ市民となる道が閉ざされていた)が新興国マケドニアに向かい、若き日のアレキサンダー大王の家庭教師となった逸話を思わせる。一方「権力は、何者がそれを行使するにしても、それ自体においては悪である」「イタリア人は個人にしか感動しない」という立場に立つスイス人の文化史学者ブルクハルトは、チェーザレ・ボルジアとレオナルド・ダヴィンチの関係について「全く余人には理解し難い」とのみ述べるに留めている。*だが、まさにこれこそ近代的人間関係の始まりではなかったか?

教皇アレキサンドル6世とチェザーレ・ボルジアのイタリア統一の夢が敗れるとダヴィンチは再び芸術家としての生活に戻りミラノ(1506年,1508年〜1513年)、フィレンツェ(1507年)、ローマを遍歴(1513年〜1516年)。1516年にはフランス国王フランソワ1世(François I de France、在位1515年〜1547年)に招かれ、その居城アンボワーズ城近くのクルーの館を邸宅として与えられた。そして死去するまでの最晩年の3年間を、弟子のミラノ貴族フランチェスコ・メルツィ(Francesco Melzi)ら、弟子や友人たちとともに過ごす。レオナルドがフランソワ1世から受け取った年金は、死去するまでの合計額で10,000スクードにのぼった。フランソワ1世とは緊密な関係を築いたと考えられており、ヴァザーリも自著でレオナルドがフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったと記している。*このエピソードはフランス人芸術家たちに親しまれ、ドミニク・アングル、フランソワ・ギョーム・メナゴーらが、このエピソードをモチーフにした作品を描き、オーストリア人画家アンゲリカ・カウフマンも同様の絵画を制作しているがおそらく史実ではなく、伝説の類であろう。後のカトリーヌ・ド・メディシスのアンリ2世(1547年〜1559年)への輿入れ(1533年)、およびマリー・ド・メディシスアンリ4世(在位1589年〜1610年)への輿入れ(1600年)と併せ「こうしてイタリア・ルネサンスはフレンチ・ルネサンスとして移植された」と考えたがるのがフランスの歴史観なのである。

しかしもちろん、実際の歴史の歩みはそう単純ではない。

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そして19世紀後半になってやっと(なまじブルボン家からオルレアン家への王統交代を実現した7月革命(1830年)のイデオロギーに選ばれてしまったが故に変な色がついた)サン=シモン派と馬上のサン=シモンことルイ=ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世が邂逅を果たし、フランスでの産業革命を軌道に乗せる。本当の意味でのフランスの「近代」が始まるのはこれ以降となる。

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興味深いのはボードレール象徴主義の概念に到達したのと同時期に(1843年から1835年にかけてパリに滞在していた)マルクスが「上部構造/下部構造」の概念に到達してる事。「私を内側から突き動かすこの衝動が、それをやれやるなと告げている」式のロマン主義的人間観が通用しなくなったこの時期の時代精神の様なものを感じる。

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