諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「上からの自由主義」が日本にもたらしたもの

それは「自由のあるところには秩序はない」とする立場と「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」とする立場の究極の意味での中庸…

 こういう歴史的展開の裏側には「人間にしか感動出来ない」欧米的人間中心主義(Humanism)が存在しているのかもしれない。日本史上ではむしろ「中央集権の統制に逆らった反逆者集団」の活躍の方が歴史に足跡を残している。

  1. 「悪党」律令的土地制度が崩壊して荘園公領制に向かう過程で既存支配体系を否定する振る舞いに出た開拓地主や商工者集団。武家もこうした一団と深い関係を有したと推測されている。
    *欧州ではフランク王国分裂後の混乱を突いてヴァイキング(北欧諸族の略奪遠征)やマジャール人や便乗して蜂起した異民族が暴れ回り、生き延びた在地有力者を再統合する形で中世秩序が形成された。日本の武家政権はもっと穏便な形で台頭してきたので、帰って全貌が把握しにくい。
    「欧州封建時代」とは何だったのか? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
  2. 「一円領主」‥「職の体系(荘園公領制が生んだ土地利権の多重支配体制)」を否定して領内の荘園や公家領や寺社領を次々と併呑した応仁の乱(1467年~1477年)以降の守護大名戦国大名
  3. 「株仲間」…江戸幕藩体制下において各藩の主権を無視する形で構築された富農と富商の全国ネットワーク。元禄時代までに各藩の御用商人を滅ぼし尽くし、享保時代に合法化された。

彼らはどちらかというと、英国史において16世紀と18世紀に活躍する囲い込み(enclosure)主導者や産業革命黎明期に活躍した山師スレスレのCaptains of Industryを想起させる。しかし日本史はそれだけが全てではない。

日本史における「悪党」

中世に既存支配体系へ対抗した者・階層を指す。この場合の悪とは、剽悍さや力強さを表す言葉。あるいは、「命令・規則に従わないもの」に対する価値評価を指す。

発生

史料における悪党の語の初出は 『続日本紀』 霊亀2年5月21日条(716年)の勅に見える「鋳銭悪党」であるが、2例目は12世紀後半の「占部安光文書紛失状案」(永万元年(1165年)3月21日付)まで遙かに下る。しかし、その後は悪党の語が頻繁に検出されるようになる。

  • 12世紀は中世の社会経済体制である荘園公領制がようやく確立した時期であるが、12世紀後半に見られた悪党の用例はいずれも荘園・公領における支配体制または支配イデオロギーを外部から侵した者を指して用いられていた。例えば、安元元年(1175年)に東大寺領黒田荘(伊賀国名張郡)に乱入した名張郡司源俊方と興福寺僧らが、東大寺の文書において悪党とされていた。この例が示すように、荘園領主や荘官が維持していた支配体系に対し、荘園・公領の外部から侵入ないし妨害しようとした者が悪党として観念されていた。

  • 鎌倉時代に入ってからもこうした状況に大きな変化はなく、13世紀後半の文永年間(1264年 - 1275年)まで、本所(荘園領主)側から見て外部からの侵入者・侵略者を悪党と呼ぶ傾向が続いた。悪党紛争の実態は、本所一円地同士または本所一円地と地頭層との所領紛争であり、一方の本所から見た悪党とは、その紛争相手たる本所一円地の領主だったのである。

  • 12世紀から本所は悪党活動に悩まされてきたが、悪党は他領へ逃亡するなど、本所による追捕から巧みに逃れていた。本所はしばしば幕府へ悪党追捕を要請していたが、本所同士の紛争は本来、朝廷の管轄であるとして、幕府は悪党追捕に消極的だった。13世紀前半に幕府が制定した御成敗式目32条は、盗賊・悪党の所領内隠匿を罪科と定めているが、幕府には積極的に悪党を鎮圧する姿勢は特に見られなかったのである。言葉を変えれば、在地領主層どうし、在地領主と荘園領主の紛争解決機関として幕府が存在したが、その幕府の管轄から外れた所に悪党が存在したのである。

しかし、正嘉年間(1257年 - 1258年)に入り、飢饉の深刻化による悪党活動の激化を受けて、幕府は悪党を夜討・強盗・山賊・海賊と同等視することに決め(正嘉2年、鎌倉幕府追加法320条)、その鎮圧にようやく乗り出す。

 社会的背景の変化

13世紀半ば頃から中世社会の大規模な変動が始まっていた。

  • 12世紀末以来、武士階層を基盤とする鎌倉幕府は、数度の戦乱を通じて所領を基盤たる在地領主層に再配分し、御家人の持つ自己増殖欲求に応えてきたが、宝治元年(1247年)の宝治合戦により得宗専制が完成して政治的安定が実現すると、所領再配分の機会となる戦乱の発生自体が見られなくなった。ここに至り、惣領・庶子への分割相続により自己増殖を繰り返してきた御家人は分割すべき所領を得る機会を失い、惣領のみに所領を継承させる単独相続へと移行していく。

  • 単独相続を契機として、惣領は諸方に点在する所領の集約化と在地での所領経営を進めていった。この過程で、庶子を中心とする御家人階層の没落が発生するとともに、本所(荘園領主)と在地領主との所領紛争が先鋭化していく。

  • 荘園支配の内部に目を向けると、在地領主による侵略を防ぐために本所は荘園支配の強化に乗り出していたが、在地で荘園支配の実務にあたる荘官(彼らも在地領主層の一員である)は自らの経営権を確立しようとしていた。ここに本所・荘官間の対立を惹起する条件が出揃っていたが、当時、急速に進展していた貨幣経済・流通経済の社会への浸透が両者の対立を激化させていった。

以上に見られる御家人層内部もしくは荘園支配内部における諸矛盾は中世社会の流動化へとつながっていき、13世紀後半からの悪党活動の活発化をもたらした。さらに同時期の元寇もこれらの諸矛盾をさらに増大させ、悪党活動の活発化を促す。

  • 外部から荘園支配に侵入する悪党のほか、蝦夷や海賊的活動を行う海民なども悪党と呼ばれたが、これは支配体系外部の人々を悪党とみなす観念に基づいている。

  • 諸国を旅する芸能民や遊行僧などが悪党的性格を持つとされていたのも同様の理由からだと考えられている。蝦夷、海民、芸能民、遊行僧らはいずれも荘園公領制的な支配体系の外部に生きる漂泊的な人々であり、支配外部にいることを示す奇抜な服装、すなわち異形の者が多かった。

  • 網野善彦は、これらの「悪党」が13世紀半ばから急速な成長を見せた流通経済・資本経済の担い手であり、中世社会の新たな段階を切り開いた主体の一つと説く。

支配体系外部からの侵略者のみを悪党と呼ぶ状況に変化が生じたのは弘安年間(1278年 - 1288年)のことである。

  • この時期には荘園支配内部の対立関係がついに顕在化し、本所に対する荘官(在地領主)層の抵抗活動が抑えられなくなり、本所と対立した荘官・在地領主層は本所から悪党と呼ばれ始め、本所との所領紛争を展開していった。もっとも、それ以前から地頭は本所と対立し、荘園侵略を進めていき、地頭請所や下地中分などの契約を行っていた。つまり鎌倉幕府という背景を持たずして荘園侵略を進めていった在地領主層が、悪党と呼ばれたのである。

  • 御家人階層に目を向けても、単独相続などにより所領を失った無足御家人が旧領に残留し、新地頭の支配を妨害して悪党と呼ばれる事例が発生していた。非御家人のみならず、御家人も「悪党」として扱われるようになり、観念の非常に大きな変化の現れであった。

  • この段階において、本所と対立した荘官層には、上に挙げた漂泊的な悪党も含まれていたと考えられている。彼らの中には、各地を往来しながら交易にたずさわり、流通経済の担い手として資本を蓄積し有徳人と呼ばれる者もいた。そうした有徳人が経済力を背景として荘官に補任され、所領経営に乗り出す例もあったのである。また、在地の荘官と対立した本所は、荘官に頼らず、独自に年貢物資を運搬する流通経路を確保する必要に迫られていたが、ここで年貢物資流通を担ったのが漂泊的な悪党なのであった。

  • 13世紀後半以降、悪党は畿内・東北・九州などで活発に活動し、御成敗式目で禁止されている悪党と地頭の結合など見られるようになった。悪党の活動は支配体系の流動化を招き、幕府はこれに対応するため、13世紀末から悪党鎮圧へ積極的に取り組み始めた。

  • 元々、本所一円地における警察権・司法権は本所の所管であり、朝廷が裁定することとなっていたが、悪党の著しい横行により本所は幕府へ鎮圧を強く要望していった。幕府の側としても、非御家人層が独自に「荘園侵略」を行う事や、幕府の御家人でありながら幕府支配を妨害する存在は、看過できるものではなかった。

1290年代前半になって確立されたのが次の鎮圧手続きである。

  • まず本所が朝廷へ訴えを起こし、朝廷の召喚に被告人(=悪党)が応じない場合は、違勅があったとして朝廷から幕府へ検断を命じる。このとき幕府が受ける命令を違勅綸旨または違勅院宣という。

  • 綸旨・院宣を受けた幕府は御家人2人を使節に任じた(両使)。両使には、任務遂行のため、守護不入とされている本所一円地への入部が許されており、さらに本所側へ下地遵行を指示する権限が与えられていることもあった。

悪党追捕のために始まったこの手続きは、朝廷に持ち込まれた寺社権門間の雑訴沙汰(所領訴訟)においても採用され、更には室町時代の使節遵行権の根源となった。
*ただし違勅綸旨または違勅院宣が出されると、朝廷と協力して治安維持にあたるという当時の方針の建前上、被告人が御家人でなおかつ正当な主張があったとしても「悪党」と認定されてしまうと幕府が御家人を保護することが困難になり、幕府には検断を先延ばしにしてその間に御家人を説得して朝廷の処分に従わせて綸旨・院宣の内容を実現する以外の方策しかなく、十分な保護を受けられなかった御家人の幕府への信頼を揺るがしかねない側面も有していた。

この時期の著名な悪党が、12世紀から14世紀にかけて東大寺領黒田荘(伊賀国)で活躍した「黒田悪党」大江氏である。

  • 12世紀から代々と同荘下司職を勤める大江氏は、13世紀後半に黒田荘への支配権を強化しようと画策し、東大寺と対立してついに悪党と呼ばれるようになり、最終的には東大寺の要請を受けた六波羅探題に鎮圧された。

  • しかし、代わって同荘荘官職についた大江氏一族もまた、年貢納入を行わないなど東大寺との対立を深め、供御人と称して朝廷と直接結ぼうとし、これを鎮圧するはずの伊賀国守護、同御家人らと結んで、黒田荘を実質的に支配するに至った。

  • 結局大江氏は六波羅探題に再び鎮圧されたが、ともかくも、この事例は経済的な成長を果たそうとしている在地領主が荘園領主の抑圧を受けたときに悪党となることを示した典型例である。

このほか、鎌倉幕府倒幕時に後醍醐天皇方についた楠木正成河内国)、赤松氏(播磨国)、名和長年伯耆国)、瀬戸内海の海賊衆らは、悪党と呼ばれた人々だったと考えられている。

有徳人(うとくにん・有得人)

日本の中世社会における富裕層のこと。領主的な身分・農業民的身分を持つ人々に対して本来は社会的に低い身分でありながら致富に至った商人や荘官などを指す。

「有徳」とは本来仏教用語で徳が備わっているという意味で、徳の備わった人のことを「有徳人」と呼んでいたが、“徳”と利益・財産を意味する“得”が同音で通じること、富裕層に属する人々が神仏からその貪欲さを責められる事を恐れ、あるいは功徳を得るために寺社への喜捨行為を積極的に行ったことから、富裕層を指して「有徳人」と呼ばれるようになった。中世から近世にかけて書かれた仮名草子浮世草子などでも「有徳」「長者」としてしばしば登場した。

こうした階層が登場した背景には、鎌倉時代後期より貨幣経済の発展によって土倉・酒屋・問丸をはじめとする商人層の富裕ぶりと喜捨活動が人々の注目を集めたことによる部分が大きい。

人物一覧

悪党と目された人物の一覧である。

  • 赤松則村 (1277年 - 1350年)…若い頃の動向については不明だが、京都に向かう途中に禅僧の雪村友梅と出会ったという話が伝わり、長男の範資と次男の貞範が摂津長洲荘(現在の兵庫県尼崎市)の悪党の取り締まりに派遣されたことと、赤松氏の本拠地である播磨佐用庄(現在の兵庫県佐用町)の一部の領主が六波羅探題の家臣であったことから六波羅に勤務していたと推定されている。

  • 伊勢義盛 (12世紀〜1186年)…『平家物語』では伊勢鈴鹿山の山賊、『平治物語』では上野国義経が宿泊した宿の息子としている。『源平盛衰記』では伊勢出身で伯母婿を殺害して投獄され、赦免されて上野国義経と出会い「一の郎党」となったという。義経鞍馬山を出て平泉へ向かう途中でその家来となったとされるが、いずれも物語中での話であり実際の出自は不明。

  • 源為時 (13世紀)…通称は弥四郎。法名は法心。高野山領の紀伊(きい)荒川荘(和歌山県)を侵略。焼き打ち,略奪行為をくりかえし高野山側とあらそった。弘安から正応にかけての頃(1278年〜1293年)殺害される。

  • 垂水繁昌 (13世紀)…通称は左衛門尉。鎌倉時代の在地領主。東大寺領播磨(兵庫県)大部荘および志深(しじみの)荘の雑掌を兼務したが永仁2年(1294年)東大寺に貢進する年貢300石を横領して罷免される。反乱をくりかえし、名誉悪党張本といわれた。

  • 沢村宗綱 (13世紀)…和泉(大阪府)大鳥郷を拠点とする有力名主。御家人摂関家大番舎人。大鳥荘の地頭田代氏や領家である椎野寺の雑掌と争いをくりかえす。正応3年(1290年)雑掌の快賢をおいだすなど悪党行為をはたらいたため,幕府により御家人の号を停止され、荘外追放に処された。

  • 浅原為頼 (13世紀 - 1290年)…『増鏡』に記述された正応3年3月9日(1290年4月19日)の伏見天皇暗殺未遂事件「浅原事件」の主犯。3月9日夜、浅原為頼(浅原八郎為頼)ら武装した3名の武士が騎馬で、御所である二条富小路殿に乱入。浅原は御所内にいた女嬬を捕まえて天皇の寝床を尋ねた。危険を感じた女嬬は咄嗟に違う場所を教え、その間に天皇に事の次第を伝えたため、天皇は女装をして三種の神器と皇室伝来の管弦2本(琵琶の玄象・和琴の鈴鹿)を持って脱出。一方、浅原らは天皇を探して御所内を彷徨ったものの、御所内の人々が騒ぎに驚いて逃れ去った後だったため天皇の居所を見つけることが出来ず、そのうちに篝屋の武士が駆け付けたため、失敗を悟って自害した。首謀者である浅原為頼は甲斐武田氏または小笠原氏の庶流奈古氏の一族(ともに甲斐源氏系)で、霜月騒動連座して所領を奪われたために放浪し、事件の折に御所内で射た矢には「太政大臣源為頼」と記すなど、事件当時常軌を逸した行動があったとされている。また共に襲撃し自害した2名は彼の息子であったという。ところで、浅原為頼が自害した時に用いた鯰尾(なまづを)という太刀が実は三条家に伝わるもので、現在の所有者が庶流の前参議三条実盛と判明したために、六波羅探題が実盛を拘束した。伏見天皇関東申次西園寺公衡は実盛が大覚寺統系の公卿であることから、亀山法皇が背後にいると主張したが、持明院統治天の君である後深草法皇はこうした主張を退け、また亀山法皇鎌倉幕府に対して事件には関与していない旨の起請文を送ったことで、幕府はそれ以上の捜査には深入りせず、三条実盛も釈放された。

  • 金毘羅義方 (13世紀 - 14世紀)…通称は次郎。正応4年(1291年)頃、紀伊高野山領名手荘(和歌山県)を本拠として、放火、殺人、田畑荒らしなどをはたらき,「国中無双の大悪党」といわれた。

  • 弁房承誉 (13世紀 - 14世紀)鎌倉時代の荘官。正和(1312年〜1317年)頃の東寺領伊予(愛媛県)弓削島荘の雑掌。地位を利用して年貢の塩をふやすなどの非法をおこない,うったえられて追放。その後武力で荘内に乱入するなど悪党化。同時期の弓削島荘預所承誉と同一人物とする説もある。

  • 兵衛次郎入道生西 (13世紀 - 14世紀)…通称「生西法師」。近衛家丹波多紀郡兵庫県)宮田荘の公文(荘官のひとつ)を罷免されたのをうらみ,一味をひきいて正安3年(1301年)頃からしばしば宮田荘に乱入。夜討ちや強盗などをくりかえす。城を構え他国の悪党集団とも連合した。

  • 大江清定 (13世紀 - 14世紀)…別名に清高。父の跡をうけて東大寺領伊賀(三重県)黒田荘の下司となる。東大寺に反抗し,弘安元年(1278年)下司職を没収され、出雲(島根県)に配流。正和(1312年〜1317年)の頃、黒田荘にもどり悪党行為を重ねて嘉暦3年(1328年〜1329年)改めて備後(広島県)へ流されるも荘に舞い戻り改めて乱暴を重ねた。

  • 楠木正成 (13世紀 - 1336年)…永仁3年(1295年)東大寺領播磨大部荘が雑掌(請負代官)でありながら年貢を送らず罷免された垂水左衛門尉繁晶の一味として楠河内入道がおり、黒田俊雄はこの河内楠一族を正成の父と推定し、正成の出自は悪党的な荘官武士ではないかとした。また林屋辰三郎は河内楠氏が散所民の長であったとした。兵藤裕己はこの説を有力とし、正成の行為も悪党的行為であるとした。元徳3年(1331年)9月、六波羅探題は正成が後醍醐天皇から与えられた和泉国若松荘を「悪党楠木兵衛尉跡」として没収。このことから、正成が反関東の非御家人集団とみなす説がある。佐藤和彦によれば、楠木氏は摂津から大和への交通の要衝玉櫛荘を支配し、近隣の和田(にぎた)氏、橋本氏らは同族で、楠木氏は摂津から伊賀にいたる土豪と商業や婚姻によって結びついていた。また植村清二はこの「兵衛尉」官職名から幕府御家人とした。正成を非御家人とみなす説について新井孝重は、楠木氏が「鎌倉武士のイメージと大きく異なるゆえに、もともと鎌倉幕府と関係のない、畿内の非御家人だろうと考えられてきた」が、「畿内のように交通と商業が盛んなところであれば、どこに暮らす武士であっても、生活のしかたに御家人と非御家人の違いはないとみたほうがよい。だから楠木氏その存在のしかたを理由に非御家人でなければならない、ということにはならない」と述べている。

  • 安東蓮聖 (1239年 - 1329年)北条氏得宗家被官たる御内人でもあった律僧。法名「蓮性」で表記される事も。安東平右衛門入道と呼ばれたことから平姓と考えられている。本貫地については諸説あり、駿河国北安東荘(静岡県静岡市)、陸奥国津軽十三湊(青森県五所川原市)、豊後国佐賀郷(大分県大分市)などが候補として挙げられている。摂津国和泉国を中心とした瀬戸内海沿岸一帯に所領をもち、主に西国の得宗領の管理や海運、金融に携わった。御内人が有徳人化した代表的な例とされている。北条時頼の被官として、弘長2年(1262年)に西大寺叡尊への使者となり、翌3年(1263年)信濃国善光寺に時頼が不断経衆の免田を寄附した際の沙汰をしている。一方文永年間には京で山門の僧と結び借上を営んでおり、文永8年(1271年)には幕府の禁制を犯し近江国堅田浦で仁和寺の年貢運上船を差し押さえ、醍醐寺越中国石黒荘山田郷の雑掌から訴えられるなど御内人でありながら悪党の側面も持つ。文永10年(1273年)摂津多田院造営の惣奉行に就く。建治 3年(1277年)には和泉久米田寺の別当職を買得、所領を寄進し律宗の寺として再興、弘安5年(1282年)には叡尊を請じ堂供養を催行した。弘安7年(1284年)守護北条兼時の下、摂津守護代に就任。乾元元年(1302年)には数百貫の私財を投じて播磨国福泊港を修築している。嘉暦4年(1329年)、京五条の私邸で91歳で死去した。久米田寺に伝わっている「絹本著色安東蓮聖像」は国の重要文化財に指定されている。

  • 寺田法念 (14世紀)…俗名は範家。幕府御家人東寺領播磨(兵庫県)矢野荘の公文。重藤名などの地頭職ももち、私領拡大につとめる。正和3年(1314年)と4年には一族や近隣の地頭たちと南禅寺領矢野荘に侵入,強盗,放火,殺傷をはたらき,「都鄙名誉の悪党」と呼ばれた。

  • 名和長年 (14世紀 - 1336年)伯耆国名和(鳥取県西伯郡大山町名和)で海運業を営んでいた名和氏の当主。一族に石山城(岡山城)を最初に築いた上神高直がいる。名和氏は赤松氏と同じく村上源氏雅兼流を自称しているが、長年は大海運業者だったとする説(『禅僧日記』より)、悪党と呼ばれた武士であったとする説がある。楠木氏同様、商業活動を行って蓄財をしており、比較的裕福な武士であった。『太平記』では長年のことを「家富み一族広うして、心がさある者(裕福で一族は繁栄しており、長年本人は度量が広い人物)」として紹介している。

  • 金王盛俊 (14世紀)東大寺領伊賀(三重県)黒田荘の下司職をついだ大江氏の一族。悪党として活動した覚舜の甥で、覚舜らが鎮圧されるとかわって悪党の中心となる。禁裏供御人となって後醍醐天皇と結び幕府や荘園領主の支配に対抗した。

  • 上村基宗 (14世紀)…通称は上村彦三郎,信海。沢村基宗とも。沢村宗綱の孫。和泉(大阪府)大鳥郷の有力名主で、摂関家大番領の保司。嘉暦元年(1326年)以来、大鳥荘の地頭田代氏と対立。近隣の土豪達と結託して大鳥荘内に城郭をつくったり、守護使らとたたかうなどの悪党行為を働いたが建武5年=延元3年(1336年)に鎮圧された。

  • 若狭季兼 (14世紀)…通称は次郎。正安4年(1302年)北条氏に没収された父若狭忠兼の所領を回復しようと正慶2年=元弘3年(1333年)若狭(福井県)太良荘に乱入するなど悪党行為をくりかえし悪党大将軍と称された。

  • 服部持法 (14世紀)…通称は高畠右衛門太郎。法名は別に道秀。伊賀(三重県)高畠村の有力御家人。嘉暦2年(1327年)に六波羅探題から黒田荘の悪党鎮圧を命じられるが、したがわなかった。建武3年=延元元年頃から東大寺領の諸荘園を侵略し、北伊賀悪党のひとつ服部党を形成。

  • 真木定観 (14世紀)…『太平記』に登場する南朝の忠臣。牧定観と表記されることもある。大和国宇智郡牧野邑発祥の真木野氏(牧野とも表記)の支族。系譜は大和源氏宇野氏流に属する。南朝より吉野郡龍門荘を与えられて、宇智郡から移住してきたと推察されている。真木氏は小豪族説・悪党説・散所の長者説・鍛冶職人の頭目説、たたら族の頭目末裔説、楠木氏配下の辰砂・砂鉄などの鉱石を取引した武装商人集団説などが考えられるが定説はない。その本拠地であった運川寺裏側の牧之城と、葬地があった覚恩寺の距離はおよそ10数kmであり、この一帯が南北朝期に吉野郡龍門荘に根を張った真木定観の勢力圏であったとみられる。龍門荘は大和国吉野郡一帯にあった荘園であるが、上龍門地域は大正元年(1912年)に、宇陀郡に編入されているため、上龍門地域の覚恩寺は、吉野郡ではなく、宇陀郡大宇陀町(現、宇陀市大宇陀)の住所となる。

  • 高師直 (14世紀 - 1351年)…源氏の棟梁、源義家の庶子と云われる高階惟章(実際は乳母弟か)が、義家の三男義国と共に下野に住したことに始まる。以来高氏と称して、足利氏の執事職を代々つとめてきた。足利尊氏の側近として討幕戦争に参加し、建武の新政においては、師泰と共に窪所・雑訴決断所の奉行人に任じられている。尊氏が後醍醐天皇中先代の乱を機に離反すると、尊氏に従って鎌倉へ下向し、九州へ逃れた時にも従うなど、終始尊氏の補佐に務めた。1338年、尊氏が征夷大将軍に任じられ室町幕府を開くと、将軍家の執事として絶大な権勢を振るった。高氏の一族で、侍所や恩賞方の要職を占め、河内・和泉・伊賀・尾張三河・越後・武蔵など数ヶ国の守護職を担った。南北朝の動乱では、延元3年/建武5年(1338年)に和泉堺浦で北畠顕家を、正平3年/貞和4年(1348年)の四條畷の戦いでは楠木正行・正時兄弟らを討ち、さらには吉野山へ攻め入って焼き払い、(吉野城の項を参照)南朝方を賀名生(奈良県五條市)へ撤退させるなど、主に軍事面で活躍した。幕府内部は、将軍尊氏と政務を取り仕切る直義の足利兄弟による二頭制となっていたため、やがて両者の間に利害対立が頻発。師直は直義と性格的に正反対だったこともあって直義との対立が次第に深まっていき、幕府を二分する権力闘争へと発展していく。やがて、直義側近の上杉重能・畠山直宗らの讒言によって執事職を解任された師直は、師泰とともに挙兵して京都の直義邸を襲撃。さらに直義が逃げ込んだ尊氏邸をも包囲して、尊氏に対して直義らの身柄引き渡しを要求する抗争に発展した。尊氏の周旋によって和議を結んだものの、直義を出家させて引退へと追い込み、幕府内における直義ら反対勢力を一掃した。しかし、一説にこの騒動は、師直と尊氏の示し合わせによるものといわれる。直義の出家後、師直は尊氏嫡子の義詮を補佐して幕政の実権を握る。正平5年/観応元年(1350年)、直義の養子の足利直冬討伐のために尊氏と共に播磨へ出陣するが、この際に直義は京を脱出して南朝に降参、南朝・直冬と共に師直誅伐を掲げて挙兵した(観応の擾乱)。正平6年/観応2年(1351年)、摂津国打出浜の戦いで直義・南朝方に敗れた尊氏は、師直兄弟の出家を条件に和睦するが、師直は摂津から京への護送中に、怒り狂って待ち受けていた直義派の上杉能憲らによって武庫川畔(現兵庫県伊丹市)において、師泰、師世ら一族と共に、殺害された。享年は60代くらい。なお、師直・師泰兄弟だけでなく高氏一族の多くがここで殺害されてしまった。13歳に過ぎなかったといわれる師直の子・師夏まで犠牲となった。もう一人の子・師詮はこの時は行動を別にしていたらしく難を逃れたが、正平8年/文和2年(1353年)に起こった南朝勢との戦いで命を落とした。古典『太平記』には、師直は神仏を畏れない現実主義的な人物であるとの逸話が幾つか記されている。特に天皇家の権威に対しても、「王(天皇)だの、院は必要なら木彫りや金の像で作り、生きているそれは流してしまえ」と発言したことが記されている。ただし、このような態度は師直に限られたことではなく、他の幕府高官にも天皇家の権威をさほど重んじない人間は少なくなかった。また、師直が塩冶高貞の妻に横恋慕し、恋文を『徒然草』の作者である吉田兼好に書かせ、これを送ったが拒絶され、怒った師直が高貞に謀反の罪を着せ、塩冶一族が討伐され終焉を迎えるまでを描いている。「新名将言行録」ではこれは事実としている。『仮名手本忠臣蔵』は、元禄時代にあった赤穂事件を『太平記』の設定に仮託したもので、浅野長矩を塩谷判官高貞、吉良義央を師直とし塩谷判官の妻への横恋慕を発端として描いている。塩冶の「塩」は長矩の領地赤穂の特産品、高師直の「高」は義央の役職「高家」に通じる。師直と義央とは領地の三河でも繋がっている。

ちなみに同時代の欧州(11世紀〜13世紀)は十字軍と大開拓の時代であり、領主の次男以下や継ぐべき所領のない遍歴騎士はこぞって「最前線」へと向かった。

ただし一進一退が続くイスラム諸王朝との最前線は不人気で、王侯貴族や教会の寄付で運営されれる騎士修道会が編成される事になる。

15世紀に始まるポルトガル十字軍にも同様の背景があった。

終焉

悪党は南北朝内乱期にも活動しているが、内乱が終わった14世紀後半、室町幕府から任命された守護は、知行国内の在地領主層:国人を被官化し、守護大名として支配を強めた。そして荘園侵略も守護大名の主導で行われるようになり、それまでも悪党によって支配体制を弱体化させていた本所は、これに対抗する力を失っていた。こうした趨勢の中「本所の支配を侵す悪党」という実態は、次第に見られなくなっていく。

研究史

悪党概念は、1930年代に中村直勝によって提起され(『荘園の研究』 1939年)、戦後になると石母田正(『中世的社会の形成』 1946年)らによってその姿が明らかにされていった。

戦後の歴史学において、悪党は封建領主制のなかで位置づけられていたが、網野善彦、佐藤進一らが社会的基盤を農業以外に置く手工業民や芸能民などに着目した中世史像を提示すると、悪党の存在もそれらと関連付けて論じられるようになり、20世紀末からは海津一朗らによって元寇や徳政令等の社会変動における悪党の位置づけが試みられている。

一方で、上記の論説などを「まず階級闘争ありきで、その担い手として悪党という人々が居たとみなすもの」とし、実際には訴訟などの係争の相手へのレッテルとして「悪党」という語が用いられていたに過ぎなかったのではないかという問題提起もある。

一円荘園

単一の荘園領主による排他的な支配が実現している荘園のこと。一円荘(いちえんのしょう)とも。

  • 通常、荘園を支配する領主は重層性を持ち、貴族・寺社などの荘園領主と預所・荘官・地頭などの在地領主が異なるのが普通であった。また、これとは別に荘園の成立過程において、四至を確定する際に散在していた公領や他者が所有する荘園を四至内に取り込んでしまう場合もあった(反対に買得した土地が実は公領や他の荘園に取り囲まれているということもあり得た)。これに対して、こうした領主の錯綜や重層性を排し、単一の領主が在地を把握している状態にある荘園を一円荘園と称したのである。

  • 古代より、国司や他の領主とのトラブルを回避するため、買得や相博によって一円化が行われる場合があった。例えば、金剛峯寺が寺の敷地と隣接した官省符荘を紀伊国内の他の荘園と荘園内にある公領を相博して一円荘園としていた例がある。一円荘園にすることで、公領などの他領の存在を否定するとともに、内部に散在する公領の存在を理由とした国司からの徴税や役人の立入を防ぎ、不輸・不入の確立を図る場合もあった。一円荘園が多くみられるようになるのは、鎌倉時代後期に下地中分や地頭請によって、在地領主が荘園の一部を排他的に支配できるようになって以後のことと考えられている。

南北朝時代になると、地頭などの武家側の影響を排除して荘園領主である公家・寺社側による一円荘園が実現した「寺社本所一円領」や反対に武家側による一円荘園が実現した「武家領」などが登場する。

一円知行

日本の中世で使用された用語で、荘園公領制の重層的に入り組んだ支配・権利関係の中で、ある者が一元的に土地を支配することを指す。一円進止(いちえんしんし)、一円管領(いちえんかんれい)、一円支配(いちえんしはい)ともいう。当時、「一円」の語は、一元的または完全を意味しており、一円的に支配されている土地を一円地(いちえんち)・一円領(いちえんりょう)・一円荘(いちえんのしょう)などと呼んだ。

  • 中世の荘園公領制では、本家-領家-開発領主-荘官-地頭らの関係に見られるように、土地や百姓に対する支配関係、また土地からの収益に関する権利関係が重層的に絡み合っており、著しく複雑な様相を呈していた。こうした支配・権利関係は、大きく2種類に区分することができた。1つは、土地や百姓らから産み出される収益(年貢・公事など)の上分(じょうぶん)であり、もう1つは、支配する土地そのものの下地(したじ)である。

  • 鎌倉時代、地頭は、荘園公領支配への進出を積極的に展開したが、特に下地の支配権(下地進止権という)の獲得に力を注いだ。そして地頭は、下地中分や地頭請などを通じて、下地進止権を手中に収めるのみならず、上分の支配権(上分知行という)も徐々に簒奪していった。このように、地頭の中には下地と上分の両方を獲得し、所領の一円支配を実現していく者が現れたのである。

  • 室町時代の守護には、鎌倉期の地頭よりも非常に大きな権限が与えられていた。室町期の守護は、半済などを通じて、鎌倉期の地頭以上に土地支配の一円化を実施していき、守護領国制の形成と守護の守護大名化が進んでいった。

  • 戦国時代の戦国大名は、より一層の一円知行化を進展させた。

これに見るとおり、一円知行は中世後期から加速度的に進行したのである。 

 株仲間

問屋などが一種の座を作り、カルテルを形成することである。株式を所有することで、構成員として認められた。

  • 当初は同業の問屋による私的な集団であり、江戸幕府は当初は楽市楽座路線を継承した商業政策を方針としており、こうした組織が流通機構を支配して幕府に対する脅威になる事を恐れて、慶安元年(1648年)から寛文10年(1670年)にかけて6回もの禁令が出されるなど規制の対象としていた。

  • 享保の改革において商業の統制を図るために組織化された方が望ましいとする方針の下に公認が与えられ、冥加金(上納金)を納める代わりに、販売権の独占などの特権を認められた。

  • 田沼意次時代にはさらに積極的に公認され、幕府の現金収入増と商人統制が企図された。自主的に結成された株仲間を「願株」、幕府によって結成を命じられた株仲間を「御免株」と呼んで区別した。株仲間の公認は、願株の公認を指す。

  • 天保の改革を進めた水野忠邦は株仲間による流通の独占が物価高騰の原因であるとして、天保12年(1841年)から13年(1842年)に掛け、冥加金の上納を停止させ、株仲間の大半の解散を命じた。しかし、当時の経済の実態は農村工業の発達と新興商人が都市でも地方でも台頭したことによって、株仲間の独占はむしろ形骸化しつつあった。また、株仲間には代金不払いなどの不正を行った仲買の情報を共有し、仲間内の商取引を一切停止するといった懲罰を加えることにより、幕府などの公権力の代わりに債権と契約履行を保証する役割があった。ところが、水野をはじめとした幕府首脳は幕府権力の保護を受けた株仲間の弱体化や、商取引の制度的基礎になっていたという現実を理解出来なかったために、株仲間を解散させれば、全国的な流通網を動かせると考えたのである。結果、かえって流通の混乱を招き、景気の悪化を招いた。この政策に反対した町奉行矢部定謙は改易に追い込まれ、伊勢桑名藩で憤死している。

  • 水野失脚後の弘化3年(1846年)に筒井政憲が株仲間の再興を阿部正弘に提案、嘉永4年(1851年)、提案を受けた阿部に命ぜられた遠山景元によって冥加金不要の問屋仲間として再興。安政4年(1857年)に再び株仲間となった。再興後は株数を増やされ、新興商人を取り込もうとした。

明治維新後の明治5年(1872年)、再び株仲間は解散を命じられ、以降復活することはなかった。株仲間構成員の多くは、商業組合に改組されていった。なお、日本相撲協会年寄名跡は「年寄株」とも呼ばれるが、その原型は江戸時代に形成された株仲間であり、平成の世に至り数々の問題を抱えつつもなお年寄制度は存続している。

日本史上にも「上からの自由主義」を目指した猛者達なら一応いた。

  1. ばさら(婆娑羅…主に南北朝時代の社会風潮や文化的流行をあらわす言葉であり、実際に当時の流行語として用いられ幕府によって公式に禁じられている。語源は、梵語サンスクリット語)における 金剛石(ダイヤモンド)で「ダイヤモンドのような硬さで常識を打ち破る」というイメージが仮託されたものとも「(派手な出で立ちで傍若無人に)荒々しく徘徊する」事ともされる。
    *いずれにせよ「太平記」には代表格とされる源姓足利氏筆頭執事の高師直や、近江国滋賀県守護大名佐々木道誉(高氏)、美濃国岐阜県守護大名土岐頼遠といった「ばさら大名」の「身分秩序を無視して実力主義を好む(ただしフランス公益同盟に賛同した大貴族連合の様に「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」に立脚し「庶民の味方」ではない)」「公家や天皇といった名ばかりの時の権威を軽んじて嘲笑・反撥する(ただしひたすら個人主義の追求に執着し続ける立場ゆえに集団的結束に欠ける)」「奢侈な振る舞いや粋で華美な服装を好む美意識の塊(まさしく「自惚れ」が全ての行動の原動力)」といった諸特徴が異様なまでに詳細に、かつ生き生きと書き記されている。

  2. かぶき者(傾奇者・歌舞伎者)…戦国時代末期から江戸時代初期にかけての社会風潮。特に慶長から寛永年間(1596年~1643年)にかけて、江戸や京都などの都市部で流行。異風を好み、派手な身なりをして、常識を逸脱した行動に走る者たちのこと。当時茶道や和歌を好む者を数寄者と呼んだが、それよりさらに数寄に傾いた者と認識された。多くは徒党を組んで行動し、飲食代を踏み倒したり因縁をふっかけて金品を奪ったり、家屋の障子を割り金品を強奪するなどの乱暴・狼藉をしばしば働く。武勇自慢が元で喧嘩や刃傷沙汰になる事も多く辻斬り、辻相撲、辻踊りといった往来での無法・逸脱行為を好んで行い、衆道や喫煙といった風俗とも密接に関わっていた一方で仲間同士の結束と信義を重んじ、命を惜しまない気概と生き方の美学を備えていた。その多くが若党、中間、小者といった武家奉公人(武士身分ではなく、武家に雇われて、槍持ち、草履取りなどの雑用をこなす貧しくて不安定な人生を送る底辺生活者)で、戦乱の時代には足軽や人足として働きつつ、機をみて略奪行為に励み、自由で暴力的な生活を謳歌していた階層に当たる。そうした時代の終焉がもたらす閉塞感が、彼らを反社会的で刹那的な生き方に駆り立てたともいわれ、一方で乱暴・狼藉を働く無法者として嫌われつつ、その男伊達な生き方が一定の共感と賞賛を得て町人や(正式の武士たる)旗本や御家人までもなることもあった。
    *寛永期(1624年~1645年)頃から江戸に現れる旗本奴、町奴といった無頼集団もかぶき者の一類型と見られるが、それぞれ「(欧州同様「価格革命」によるランティエ(地税生活者)の収入減が進行し)没落していく一方の武家の怨念」と「それから庶民を守る自警団」という立場に立ったのが興味深い。次第に幕府や諸藩の取り締まりが厳しくなって姿を消していくが、彼らの「男道」は行動様式としては侠客と呼ばれた無頼漢達に、美意識としては歌舞伎という芸能の中に継承されていく。

  3. 蘭癖…フランスにおけるリベルタン(Libertin、自由人)同様、侮蔑語として始まった。使い始めたのは「日本的伝統の死守」を叫ぶ水戸藩等攘夷派で、広まったのは明治時代以降とも。徳川吉宗享保の改革によって洋書輸入が一部解禁されたことから江戸中期以降、蘭学研究が盛んになったが、やがて学問的興味を逸脱して生活様式や風俗・身なりに至るまで、オランダ流(洋式)のものを憧憬し模倣する者が現れ、蘭語名まで持つ様になった事を弾劾する。蘭癖大名(長崎警固を勤めた福岡藩主の黒田斉清、薩摩藩主・島津重豪とその子である奥平昌高・黒田長溥、曾孫の島津斉彬など)が主に九州の外様大名に分布したのはオランダに開かれた港・長崎が近く蘭書や輸入品の入手が容易だった事、藩の経営立て直しの為に技術導入や密輸といった様々な側面で欧州への関心が高まったせいとも。
    *ここで注目に値するのはそれを非難した尊皇攘夷志士側の消息。「版籍奉還(1969年)」「廃藩置県と藩債処分(1871年)」「秩禄処分(1876年)」といった一連の政策によって江戸幕藩体制が解体され、在野に放たれた不平士族も佐賀の乱(1874年)、神風連の乱秋月の乱萩の乱(1876年)、西南戦争(1877年)によって概ね(徴兵令により庶民から編成した)鎮台兵の手で打ち取られて以降も存続。自由民権運動(1874年~1890年)ばかりか米騒動(1918年)の時代まで便乗して扇動活動を続け「暴力革命による薩長幕府打倒」を叫び続けていた記録が残っている。

またフランス絶対王政下において自粛の意味を込めて宮廷が華美を追求するロココ様式を捨て、質実剛健を目指す新古典様式を採用し、これに「フランスの御三家」オルレアン公が歯噛みする景色なら(むしろ支配階層たる武家がプロレタリア化を強要され困窮した)江戸幕藩体制下の日本でも見られた。

江戸時代の三大改革は元来綱吉時代の「正徳の治」と合わせて四大改革といったのだが、要するにインフレ進行によるランツィエ階層(地税生活者)の没落を防ぐ為に旗本の借金を棒引きにしたり、勝ち誇る富商や富農の贅沢を禁じたり(倹約令)、都市集住を防ぐ為に田舎からの上京者を国許に返そうとしたのである。こうした動きに対して水戸光圀の様な御三家領主は「馬鹿な。せっかく成長期にある経済をわざわざ縮小させ、皆貧かった時代に戻そうとするのはただの悪政よ」と歯噛みした。これが「水戸黄門」登場の原風景となる。その一方でフランス絶対王政の場合はその中央集権制故に「太陽王ルイ14世の時代以降、宮廷がファッション・リーダーの地位を務め続けたのだが、日本ではその座を在野の歌舞伎役者達が奪ってしまう。天保の改革はこれを「秩序に対する反逆」と見做し、彼らを殲滅しようと企みまたが当時江戸町奉行だった遠山金四郎景元のサポタージュによって辛くも阻止される。これに感謝した歌舞伎界が生み出した新たなヒーロー像が「遠山の金さん」なのであった。

また坂口安吾日本文化私観(1942年)」は太閤秀吉を日本史上において「王座からの自由主義」を目指した唯一無二の天下人と礼賛する。

さらに高度成長期の終わった1970年に大日本で荒れ狂った校内暴力と暴走族の横行にその余波を見る向きもある。

世界はこうやって流転していく?