諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

江戸幕藩体制下での価格革命がもたらしたもの。

欧州には伝統的に「権力は悪」とする立場と「経済は悪とする立場の対立がある。その背景として、貨幣経済浸透に伴う価格革命(インフレ進行に伴うランティエ(rentier、地税生活者)階層の没落)の皺寄せが庶民にいった事が挙げられる。

一方、江戸幕藩体制下においては真逆、すなわち価格革命が放置される一方、庶民経済が同時代の他国には考えられない規模まで膨れ上がるという未曾有の過程が進行した。

参勤交代という制度も独特で、各藩を疲弊させた。

参勤交代用に交通網が整備されると、それを使って全国の富農や負傷が結びついて各藩の御用商人を倒し、藩経済の独立性を奪っていく。

その結果として中央集権化に反旗を翻した「婆娑羅大名」や「傾奇者」の伝統が大衆芸能に合流する。彼らは元来「庶民の味方」ではなかった筈なのだが…

そして欧州では再版農奴制で痛めつけられた小作人や、彼らからすら見捨てられた都市労働者がプロレタリアート(Proletariat、無産階級)の代表となったが、日本では秩禄処分(1876年)によって在野に放り出され、佐賀の乱(1874年)、神風連の乱秋月の乱萩の乱(1876年)、西南戦争(1877年)によって国民皆兵制に基づいて編成された鎮台兵に蹂躙された元士族達がプロレタリアートを代表する存在となり、自由民権運動(1874年~1890年)をテロの血で染めながら大新聞の執筆者にもなっていくという思わぬ番狂わせが起こる。司馬遼太郎によれば、後の左翼と右翼の双方の起源。こうした流れもカール・シュミットの「政治化」理論で扱える?

 それにしても江戸幕藩体制下における経済発展の歴史は「天下泰平」に程遠い。
*いやむしろ、それでも「紛争解決手段としての武力の放棄」が遵守されていた辺りが「天下泰平」の「天下泰平」たる所以なのか?

  1. 戦国大名楽市楽座を通じて御用商人を選別し、彼らに領内経済を牛耳らせるのを常としていた。江戸幕藩体制が始まると参勤交代様に整備された交通網を利用して「株仲間」と呼ばれる富農と富商の全国ネットワークが構築され元禄時代頃までに「各藩の藩主と癒着する御用商人達」を駆逐してしまうが、彼らが合法化されるのは享保時代(1716年〜1735年)になってから。それ以前の史料に描写される「株仲間」はまさに悪党そのもの。
    *そもそも日本語における「悪党」の語源は「(唐の均田制に基づく)律令的土地制度が崩壊し(所謂「職の体系」と縁深い)荘園公領制に推移していく過程で暗躍した開墾地主や密輸商人のネットワーク」であり、その意味でも悪党そのものだったから、これはもはや伝統というしかない。

  2. 欧州における価格革命同様、江戸幕藩体制下でも市場経済浸透に伴うインフレが進行してランティエ(Rentier=地税生活者)が次第に没落していく。その一方で(欧州に先駆ける形で)庶民が生産者としてだけでなく消費者としても目覚めていくが、その一方で商業や生産に携わる事を禁じられた武家の不満が鬱積していく。
    *その最初の爆発が株仲間解散や奢侈禁止を目玉とした天保の改革
    1830年~1843年)で、陣頭指揮を執った老中首座水野忠邦が「江戸をぺんぺん草しか生えない荒地に戻してやる(涙声)」と叫んだ心情は、まさにフランスで産業革命開始を半世紀以上遅らせる事に成功したジャコバン派の信念と重なる。

  3. 明治政府は版籍奉還1969年)、廃藩置県と藩債処分(1871年)、秩禄処分1876年)によって一気に江戸幕藩体制を解体。このうち藩債処分において「天保時代の徳政令」を理由にそれ以前の債務支払いを拒絶した事は(巻き添えで相応の破産者を出しながら)かろうじて不満爆発に至らなかったが、秩禄処分によって在野に放り出された士族達はそうもいかず、徴兵によって庶民から編成した鎮台兵によって佐賀の乱1874年)、神風連の乱秋月の乱萩の乱1876年)、西南戦争1877年)で次々と打ち取っていく形でしか解決しなかった。
    *この時在野に降った西郷隆盛が最後に政府に提出した建白書では「(領主が領民と領土を全人格的に代表する)農本主義への回帰」と、その阻害要因となる民間の商業と工業を完全破棄する必要性が切々と訴えられている。そういえば重農主義の起源をイエズス会が中国から仕入れてきた(韓非子の「五蠹篇」の様な)中華王朝の農法主義思想に見て取る向きもある。西郷隆盛毛沢東のその立場からの主張と重なる部分が少なくないのは案外そのせいかもしれない。

  4. こうして江戸幕藩体制を一気に精算して近代的中央集権政体に移行した日本。諸外国を驚愕させたが、種明しすればなんの事もない。多くの藩がすでに経営破綻しており、政権返上に喜んで応じたというだけの話だったのである。

    廃藩置県 - Wikipedia

    既に江戸時代中期頃から各藩ともに深刻な財政難を抱えており、大坂などの有力商人からいわゆる「大名貸」を受けたり領民から御用金を徴収するなどして辛うじて凌いでいた。各藩とも藩政改革を推進してその打開を図ったが黒船来航以来の政治的緊張によって多額の財政出費を余儀なくされて、廃藩置県を前に自ら領土の返上を申し出る藩主(藩知事)さえ出てくる状況であった。これに加えて、各藩が出していた藩札の回収・処理を行って全国一律の貨幣制度を実現する必要性もあった(藩札も最終的には発行元の藩がその支払いを保証したものであるから、その藩の債務扱いとなる)。廃藩置県によって旧藩の債務は旧藩主家からは切り離されて新政府が一括処理することとなったが、その届出額は当時の歳入の倍に相当する7413万円(=両)にも達して(しかもこの金額には後述の理由で天保年間(1830年〜1843年)以前に発生した債務の大半が含まれていないものと考えられている)おり債務を引き受けた新政府にも財政的な余裕はなかった。

    そこで、新政府は旧藩の債務を3種類に分割した。即ち、明治元年(1868年)以後の債務については公債を交付しその元金を3年間据え置いた上で年4%の利息を付けて25年賦にて新政府が責任をもって返済する(新公債)、弘化年間(1844年〜1847年)以後の債務は無利息公債を交付して50年賦で返済する(旧公債)、そして天保年間以前の債務については江戸幕府が天保14年(1843年)に棄捐令を発令したことを理由に一切これを継承せずに無効とする(事実上の徳政令)というものであった。なお新政府は朝敵となった江戸幕府による債務はその発生時期を問わずに一切の債務引受を拒絶したため、別枠処理された外国債分を除いて全て無効とされた。

    その後、届出額の半数以上が天保年間以前の債務に由来するまたは幕府債務として無効を宣言されて総額で3486万円(うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円)が新政府の名によって返済されることになった(藩債処分)。

    だが債務の大半、特に大名貸の大半は天保以前からの債務が繰り延べられて来たものであり有名な薩摩藩調所広郷による「250年分割」などが尽く無効とされたのである。貸し手の商人達から見れば大名貸は一種の不良債権であり返って来る見込みは薄くても名目上は資産として認められ、また社会的な地位ともなりえたがこの処分によってその全てが貸し倒れ状態になり商人の中にはそのまま破産に追い込まれる者も続出した。特にこうした商人が続出した大阪(大坂から改称)は経済的に大打撃を受けて、日本経済の中心的地位から転落する要因となったのである。

    旧藩主やその家臣はこれらの債務に関してその全てを免責された上、その中には直前に藩札を増刷して債務として届け出て私腹を肥やした者もいたと言われている。

    Web版尼崎地域史事典『apedia』藩債処分

    廃藩置県によって江戸時代以来累積していた諸藩の藩債を引きつぐこととなった政府は、各藩の債務の実態を調査したうえ1872年(明治5)2月藩債処分の大綱を決定した。

    藩債をその発生年次によって,1843年(天保14)以前のものは「古借」(古債),1844年(弘化元)から1867年(慶応3)までのものは「中借」(旧債),1868年(明治元)から廃藩までのものは「新借」(新債)と区分し、古借はすべて切り捨て、中借は無利息50年賦償還の旧公債で、新借は3年据置25年賦4分利付の新公債で返済することになった。尼崎藩では藩債総額30万2,427円のうち古借は4万9,176円、旧債6万8,972円と比較的少なかったのにたいして、新債は17万3,446円と57%以上を占めた。これは維新後の激動期に藩債が急激に膨張し、4年間平均して藩収入の20%程度の債務を重ねていた計算になる。市域に所領のあった半原藩・飯野藩・小泉藩の場合も半原藩が新借が比較的少なかったほかは同様であって、廃藩時にはいずれの藩も深刻な財政難にあったことがわかる。

    また旧藩において発行していた藩札も実質的には藩債であって、政府は廃藩置県と同時に諸藩の藩札をそのときの通用相場で通貨と交換することを布告した。尼崎藩では1777年(安永6),1863年(文久3)の2回に3000貫文の銀札が発行されていたが,1870年(明治3)には銭札30万貫文の藩札が発行・流通していた。この藩札は1876年4月までに新紙幣との交換が完了した。藩債処分も藩札処分も、それに関係した商人資本の債権を保護・救済する結果となった。

     どうしてそういう展開となったかについては諸説ある。

  5. フランス留学経験者で、ジャン=ジャック・ルソー「社会契約論(Du Contrat Social ou Principes du droit politique1762年)」の部分訳「民約論(1877年)」校訂を手掛けて「アジアのルソー」と呼ばれた中江兆民も「三酔人経綸問答(1887年)」の中で「(フランス革命政府とプロイセンバーゼルの和約を締結した年に出版されたカントの「永遠平和の為に(Zum Ewigen Frieden1795年)」に基づく)軍備放棄論」や「士族による大陸遠征(領土獲得に成功しても、全滅しても日本の為になる)」と並べる形で「日本全国を元士族が管轄する自警団所轄区域に釣り分け、全国民を動員した激しい戦闘訓練を欠かさない事によって外国の侵入意図を挫けば常備軍など不要となる」という意見を開陳している。1889年に公布され、1890年に施行された大日本帝国憲法に基づいて設定された帝國会議は最初の数年、まるで機能しなかったとされているが(当時の証言多数)当時の状況を見るに止むを得ない側面もあった。ドイツ帝国も当初はそうで、大日本帝国はそういう事態にへの対応も盛り込まれたシステムをそのまま輸入してきたのである。

実はチューダー朝(Tudor dynasty、イングランド王1485年〜1603年、アイルランド王1541年〜1603年)がジェントリー階層を大量抜擢したのも経済状態悪化のせいとする立場がある。スペインとの和平が成立してしまったので私掠行為で稼げなくなり、薔薇戦争後に取り潰した王侯貴族や宗教革命を口実に修道院から没収した土地を切り売りする事でしのいだとする説。とはいえ逆に「ジェントリー階層に売り渡す土地を確保する為にせっせと没収を続けた」という考え方もあるのでこの辺りは微妙。フランスでも都市の大商人などが君主に献金などを行う見返りに貴族の称号を下賜されて法服貴族(Noblesse de robe)となり(ポーレット税を支払うことによって世襲可能であり、実際1789年にはほとんどの法服貴族が自身の地位を相続によって得ていた)、売官制に基づいて高等法院(Parlement)などを牛耳っていたが彼らの忠誠心は英国のジェントリー階層や日本の臣民ほど当てにできなかった。どうしてこの違いが生じたのかが興味深い。

ところで「帝国主義そのものを悪とみなし、非武装中立の即時実践を正義と掲げる」とする思想は、概ね中江兆民の弟子だった幸徳秋水までしか遡れない。

  • そもそも幸徳秋水が自らの帝国主義論の下敷きに使ったホブスンの「帝国主義論(Imperialism: A Study1902年)」は「内政で行き詰まった国内政治家と植民地資本家が癒着し、国益を無視して始めた南アフリカ戦争」のみを断罪する内容だった。
  • 彼が感化されたキリスト教社会主義も元来は「ジャコバン派独裁による大虐殺」を繰り返さない為に始まった運動だった。
  • 軍備放棄論は、カントまで遡っても「そのモットーは墓場の絵の上に書かれていた」とシニカルに描写されるほど「絵に描いた餅」としてしかイメージされていなかった。

こうした断片を強引に繋ぎ合わせ「帝国主義そのものを悪とみなし、非武装中立の即時実践を正義と掲げる」世界に類例を見ない全く新しい思想を誕生させ、しかもそれを「アジアのルソー」中江兆民の弟子という立場を利用して「欧米ではこういう考え方が当たり前」という売り文句でアジアじゅうに広めてしまったのが良くも幸徳秋水という人物だったのである。その意味ではもしかしたらマルクスやレーニンやスターリンにもなかったのではあるまいか?

歴史観が変われば反省内容も変わる…

かくして世界は流転していく?