諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

マックス・ウェーバーの「鋼鉄の檻理論」

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人間は自己分析の結果、何が悪か認識するとまず真っ先にそれを対立陣営に投影しようとする。まさしくカール・シュミットの「友敵理論」そのもの。

 カール・シュミットと同時代人たるマックス・ウェーバーもこの悪癖からは逃れられなかった様で「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神(Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」におけるカソリック(特にポール・ロワヤル修道院発祥のジャンセニスム)やルター派神学についての罵詈雑言は読むに耐えない。最近ドイツではむしろ「恋愛と贅沢と資本主義(Liebe, Luxus und Kapitalismus、1912年)」や「戦争と資本主義(Krieg und Kapitalismus、1913年)」のゾンバルトの方が再評価されているというが、こうした執筆姿勢の影響もあるのかもしれない。

そういえばスイスの文化史学者ブルクハルトも「イタリア・ルネサンスの文化(Die Kultur der Renaissance in Italien, ein Versuch、1860年)」の中でナポリ人を幾度も口汚く罵っている。2012年のコスタ・コンコルディア座礁事故でも「もう南イタリア人なんて船長にするな」という声をよく聞いた。欧州ではよっぽど劣悪の象徴とされているらしい。

このあたりが社会学の科学らしくない部分?

マックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus,1904年~1905年)」「鉄の檻(Gehäuse)」言及箇所の要約

実は今日でこそ我々の間で普通に通用しているが、実はその意味が思う程自明でない「職業義務(Berufspflicht)」という独特の思考様式が存在する。

その具体的活動内容如何に関わらず、またそれに囚われない俯瞰的立場からすれば、労働力や(資本回転を継続する原資としての)物的財産を用いた単なる営利行為の追求に過ぎない筈の事に対し、各人が自らの「職業」活動の内容を義務と意識すべきと考え、実際に意識して振る舞っているのである。

資本主義文化の「社会倫理」はこうした義務の観念によって支えられているが、既に完成した資本主義をのみ土台として発生したとは到底言えない。すなわちさらに過去まで遡って考えなければその起源は分からないし、資本主義社会の企業家や労働者ならそうした倫理的原則を必ず主体的に内在的に獲得しているとは限らない。今日の個々人は「既成の巨大な秩序界(コスモス)」としての資本主義的経済組織の成員としてその枠内に生まれつき、その枠内で生きる事を強いられ、その枠内で死んでいく。(少なくともばらばらな個人の寄せ集めとしての)個々人の眼にはそれは「(改変の余地なき)鋼鉄の檻(Gehäuse)」として映る。誰であれこの秩序界(コスモス)は市場との関連が存在する限り彼の経済的営為に対して一定の規範を押し付けてくるものなのである。製造業者は長期官この規範に反する行動を続ければ必ず経済的淘汰を余儀なくされるし、この規範に適応出来ない、あるいは適応しようとしない労働者もまた、最期には必ず失業者として街頭に投げ出される羽目に陥る。

この様に秩序界(コスモス)そのものが経済的淘汰による教育的再生産を通じて自らが必要とする経済主体(企業と労働者)の生活態度や職業観念を獲得していく反復的営為の起源は、果たして本当に素朴な唯物史観が提唱する様に特定の経済の段階的発展の反映が生み出す上部構造として規定可能なのだろうか?


資本主義の特性に適合した生活態度や職業観念が淘汰によって反復的に強化され続けていく社会が出現する為には、あらかじめそうした生活態度や職業観念が特定の人間集団共通の見解として共有されていなければならない。だからこそ、そうした職業観念の成立史が重要課題となってくる訳だが、これが全てを「上部構造」の一言で片付け、その超克を目指す素朴な唯物史観からは導出不可能なほど複雑怪奇な茨の道だったりする訳である。

  • 我々が想定する様な資本主義精神は、少なくともすでにベンジャミン・フランクリンの生地たる17世紀マサチューセッチュには存在していた(1632年のニューイングランドにおいて既に「アメリカの他の地方に比べて人々が特に利益計算に長けている悪徳」が弾劾されている)。その一方で隣接する植民地(後の合衆国南部諸州)においては、そこが営利を目的として大資本家によって開拓された地域だったにも関わらず、同様の概念が(当時カリブ海沿岸に多数建存在した砂糖や綿花の奴隷制プランテーションや、同時期に穀物輸出を担った東欧の再版農奴制の様に)恐ろしいまでに未成熟な段階にあった。

  • そもそも前近代段階における資本主義精神は、当時の一般の人々に喜んで受容された一方で、古代や中世の通念に照会すれば「汚らわしい吝嗇」「およそ低劣な心情の発露」に他ならなかった。それどころか今日なお国際的資本主義社会との関連が極めて薄いか、あるいはそれへの適応を免れている社会集団にあっては今日なおこの理念が生々しい形で通用しているが、それは決して「営利への志向」が未知ないし未発達な「無垢なる幸福状態」にあるからでも、近代浪漫主義者が夢想した様に「呪われた黄金への飢餓(Auri sacra fames)」から免れていたせいでもない。むしろそれは属州におけるコロナートゥス(colonatus)制履行によって私服を肥やした古代ローマ貴族、領民を人間と思わない中華王朝の科挙官僚(マンダリン)の搾取、再版農奴制度に胡座をかいた近代農場主達や奴隷制プランテーションの経営者達に見受けられる際限なき貪欲への当然の反応に過ぎず、同様の金銭欲と厚顔無恥は経験した人なら誰でも知っている様にナポリの馬車屋や船乗り、及び同様の仕事に就いている南欧アジア諸国の職人達の間に遙かに徹底した形でより深く根付いている。

実際には如何なる内面的規範にも服しようとしない、訓練なき「自由意思(liberrm arbitrium)」は、それが実業家の物であれ、労働者の物であれ、必ず健全な資本主義社会発展の妨げとなってきた。当然その出発点は「金儲けの為には地獄にへも船を乗り入れて帆が焼け焦げても構わない」冒険商人達による向こう見ずな営利活動でも、戦争や海賊や山賊を正当化してきた「共同体内部(unter Brudern)では禁じられた規範からの逸脱も、対外道徳(Aussenmmoral)では許される」伝統でも有り得ない。むしろそれらに寛容(Clemenza)過ぎた伝統が、合理的経営による資本増殖と合理的労働組織によって克服された事こそが、市民的資本主義経済成立の前提となった事は疑う余地もないといえよう。

「上部構造/下部構造」はマルクスが広めた用語/概念。 元来は「下部構造=社会のあり方を決定する生産手段」というニュアンスだったが、その定義自体は古くなって棄却され「(資本主義社会での労働に耐え得る様な)個々人の勤勉さやプロフエッショナル意識」といった意味合いで使われている。

ところが何故か日本ではマックス・ウェーバーの「社会と人間は外骨格生物における外殻と中身の関係にあり、中身の成長に脱皮による殻の拡張が間に合わなくなったら死ぬ」なる主張は歪曲され「外殻(既存社会)に幽閉されている限り人類は真の意味で自由になれない。一刻も早く脱皮せよ‼︎」という内容で広められた。「新世紀エヴァンゲリオンNeon Genesis EVANGELION、旧版1995年~1998年)」では全人類が個体として存続する事を停止し、一つに融合して「赤い海」と化していたが、まさにそれ。

いろいろ考察していくとカール・シュミットの「友敵理論」やマックス・ウェーバーの「鋼鉄の檻(Gehäuse)理論」の背後には同じ時代精神、すなわち新興人工国家であるが故の「気を張り詰め続けていないと全てがすぐに消滅してしまいそうな存在不安」が浮かび上がってくる。だが、そのイライラ感こそが後にナチスが台頭を招いたとも。

ochimusha01.hatenablog.com

ならばあのエヴァンゲリオンの「赤い海」は一体何だったのか? 当時の日本人のいかなる心理の象徴だったのか? それは何処から来て何処へと去っていったのか?