諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「上部構造」概念の起源と「不可視領域に対する認識の深まりがもたらす存在不安の高まり」

ソフィアコンサルティング 行動変革と自立性強化

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「近代詩の父」ボードレールがは決して生前発表した唯一の詩集「悪の華(Les Fleurs du mal、初版1857年、禁断詩を削った第2版1861年)」でのみその評価を勝ち取った訳ではない。

二月/三月革命(1948年)以降、それまで「国王と教会の権威に対して永久に絶対的反逆を続けける」と固く誓ってきた政治的浪漫主義者達が「本当に国王と教会の権威が絶対的価値を失っていくプロセス」についていけず次々と自滅していく。

所謂「小ロマン派の悲劇」もその一端として起こったと見なければならない。

そうやって日露戦争(1904年~1905年)における203高地攻略戦の如く死体の山が積み重なっていく最中、当時は詩人というより「エドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe、1809年~1849年)のフランスへの紹介者」あるいは「マルキ・ド・サド侯爵(Marquis de Sade、1740年~1814年)の再紹介者」として名高かったボードレール(Charles-Pierre Baudelaire、1821年~1867年)が「人間を感動させるのはある種の象徴体系であり、その扱いをこの二人は心得ている」という結論に到達。その啓示がマラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842年~1898年)の象徴詩、「解剖台の上での、ミシンと雨傘との偶発的な出会いのように美しい」というフレーズでおなじみのロートレアモン伯爵(Le Comte de Lautréamont, 1846年~1870年)やシュールレアリズム運動(仏: surréalisme、英: surrealism、1924年~)への道を切り開いたとされる。

680夜『マルドロールの歌』ロートレアモン|松岡正剛の千夜千冊

 ここで思い出していただきたい。「上部構造(生産や経済の実像を下部構造と見立てた場合、それを統制しつつ、内容の規定がその影響を受ける法律や政治や社会といった領域)」なる概念がカール・マルクス「経済学批判(Kritik der Politischen Ökonomie、1859年)」序文などで提案されたのも、ほぼ同時代だった事を。

どちらも出発点は「私を内側から突き動かすこの衝動が、それをやれやるなと告げている」式のロマン主義的人間観が様々な形で破綻をきたした事。そして、それによって代替モデルの開発が急務となった事。与えられた要件がほぼ同じだったので、処方箋を調合する為のアプローチも似た様なものとなった。だが、こうした「不可視世界(人間の行動に可視化された世界の外側から超越的に影響を与える何か)に対する認識の深まりが人間に与える影響」への関心の高まりは、以下の様な科学分野における成果によっても裏打ちされる過程で新たな分裂期を迎える。

  • 衛生統計学の祖」ナイチンゲール(Florence Nightingale、1820年~1910年)の活躍。以降都市計画と社会調査が不可分の関係となる。

  • 近代細菌学の発展。「自然発生説の検討(1861年)」発表によって従来の「生命の自然発生説」を否定しワクチンによる予防接種を発明したパストゥール(Louis Pasteur, 1822年~1895年)や炭疽菌の純粋培養成功(1876年)、結核菌の発見(1882年)、コレラ菌の発見(1883年)などに次々と成功したコッホ(Heinrich Hermann Robert Koch、1843年~1910年)の業績あたりが有名。

  • 英国人マクスウエル(James Clerk Maxwell、1831~1879年)による電磁界理論の発表と電磁波の存在の予言(1864年)、ドイツ人ヘルツ(Heinrich Rudolf Hertz, 1857年~1894年)による電磁波の存在を実証(1887年)、ボローニャ出身のイタリア人マルコーニ(Guglielmo Marconi、1874年~1937年)による無線電信の開発(1895年)。

  • シャルコー (Jean-Martin Charcot、1825年~1893年)の催眠療法と、フロイト(Sigmund Freud、1856年~1939年) の精神分析

中には薬が効きすぎてユイスマンス(Joris-Karl Huysmans, 1848年~1907年)やコナン・ドイル卿(Sir Arthur Ignatius Conan Doyle, 1859年~1930年)の様にオカルトの世界に転落していく人々も現れた。そのくらい「近代化(不可視領域に対する認識の深まり)がもたらす存在不安(強迫概念)の高まり」は近代人の精神的存続意識に脅威を感じさせたという次第。

一方、フランスとベルギーの象徴主義(symbolisme、1870年前後)の起源(少なくともその一部)を、普仏戦争(1871年)敗戦後のフランスにおけるドイツ文学の流行に求める向きもある。そしてその結果、パリの大学において新カント哲学の教条主義的受容が進行し、その反動としてベルクソン(Henri-Louis Bergson、1859年~1941年)の「生命の飛躍(élan vital/エラン・ヴィタール)哲学」が誕生する事になったという次第。ある意味「私を内側から突き動かすこの衝動が、それをやれやるなと告げている」式のロマン主義的人間観が一周して復活した様なもの。ちなみにドイツにおいてユダヤ人として生まれ、フランスでカソリックとして死んだ詩人ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine, 1797年~1856年)は、ドイツ文学の韜晦さについて「ドイツでは真実をそのまま語ると、たちまち当局に逮捕されてしまうからだ(実際ハイネもそれで亡命を余儀なくされた)」「(中世的権威主義を背景として育ってた)伝統的徒弟制度が師匠Meister側に生活保障の代償にそういうもったいぶった語り口調を要求するのだ(江戸幕藩体制下で成立した「役の体系」の影響で、何でも「道」に仕立ててしまう悪癖を備えた日本人はこれを笑えない)」と、身も蓋もない言及の仕方をしている。また「ブリキの太鼓(Die Blechtrommel、1959年)」で有名なドイツ人作家ギュンター・グラス(Günter Grass, 1927年~2015年)も、その作品の中で「(五感で感じる官能を駆使して「フランス的なるもの」を探すフランス人と異なり)ドイツ人には魂で直接「ドイツ的なるもの」を探そうとする悪癖がある。魂は器官じゃないのに」と繰り返し述べている。

ドイツ古典哲学の本質 - 京都大学哲学研究会

153夜『ブリキの太鼓』ギュンター・グラス|松岡正剛の千夜千冊

当時欧州全体を席巻した象徴主義の展開を掌握するには、こうした予備知識を総動員しなければならない。それにしても、なぜか「またもやフランス」なのである。

【Wikipedia】象徴主義/サンボリスム(仏語: symbolisme)要約

自然主義や高踏派運動への反動として1870年頃のフランスとベルギーに起きた文学運動および芸術運動。象徴主義者を総称して「象徴派」(仏語: symbolistes)と呼ぶ。ロシア象徴主義の開祖となった詩人ワレリー・ブリューソフなどによりロシアにまで輸出された。イギリスにおけるラファエル前派とも縁深い。

 

象徴主義文学における数多くの転義法とイマージュの源泉がシャルル・ボードレールによるエドガー・アラン・ポーの作品仏訳、および「悪の華(1857年)」にその起源を見出す。これによってロマン主義の最も秘教的な側面と関連付けられたとする向きもあるが、いずれにせよ1860年代から1870年代にかけてステファヌ・マラルメポール・ヴェルレーヌによってその美学を著しく発展させる事になる。

 

マラルメが「重要な通りすがり」と称したアルチュール・ランボーは、ポール・ドゥメニーに宛てた1871年の手紙において「魂から魂へ、全てを要約し、薫り、音、色彩、思考を引っ掛け引き出す思考」となる言葉の探求へと詩の方向を定めた。一方ポール・ヴェルレーヌは「詩法(1874年)」の中で象徴主義の規範をこう定める:

Car nous voulons la Nuance encore, それというのも我々はニュアンスを望むから、

Pas la Couleur, rien que la nuance ! 色彩ではない、ただニュアンスだけを!

Oh ! la nuance seule fiance ああ! ただニュアンスだけが

Le rêve au rêve et la flûte au cor ! 夢と夢を、フルートと角笛を調和させる!

そして1880年代には、一連の宣言文に支えられ一団の作家達を呼び寄せた。

◎詩人ジャン・モレアスは「象徴主義宣言(Le Symbolisme、1886年)」の中で「象徴」(symbole)という言葉をその語源である「一緒に投げること(古代ギリシアでは、symbolonは同盟都市の2人の外交官が互いを認識するために2つに割って1つずつを持たせた陶器片のことであった)」を利用し、抽象的な観念とそれを表現するべきイマージュの間にこれらの詩が打ち立てようと望む類比関係を指し示そうとして提案した。また「文学宣言(Un Manifeste littéraire、1886年)の中では、この新しい様式を「象徴主義の詩は『教育や、雄弁術や、見せかけだけの感覚や、客観的な記述』の敵であり、観念に感受可能な形を着せ…」と規定している。

◎一方、アルベール・オーリエは『メルキュール・ド・フランス』誌において1891年に「芸術作品は第1に観念的であるべきである。そのただ1つの理想は観念の表現であるから。第2に象徴的であるべきである。その観念に形を与えて表現するのだから。第3に総合的であるべきである。諸々の形態や記号を総体的に理解される形で描くのであるから。第4に主観的であるべきである。事物は事物としてではなく主体によって感受される記号として考えられるのであるから。第5に装飾的であるべきである。」という定義を発表した。自然主義への反動として始まった象徴主義の要諦は「観念に感受可能な形を着せる」事。自然主義者とは対照的に事物を忠実には描かず、理想世界を喚起し、魂の状態の表現を特別扱いする印象や感覚を探求したのが象徴派という訳である。

◎文学における運動とは別に、美術における象徴主義ロマン主義のゴシック的な側面から出現した。しかしながらロマン主義美術が直情的かつ反逆的であったのに対し、象徴主義美術は静的かつ儀式的なものであった。象徴主義における不可知なもの神秘的なものに対する偏愛は、19世紀末のカトリック復古運動にもつながっていく。しかし俗化した従来の宗教制度に対する忌避は、カトリック回帰にとどまらず、儀式性と象徴性を重んじる新興の神秘主義団体への傾斜に向かうことになる。『秘教哲学全集』を著したエリファス・レヴィからフランス象徴主義詩人への影響、マグレガー・メイザースらの「黄金の夜明け団」からアイルランド詩人イェイツへの影響などは見逃せないつながりである。また薔薇十字団を結成しフランスやベルギーの象徴主義の芸術家の結束を促した神秘主義者ジョセフィン・ペラダンの功績は特筆すべきものがある。

◎音楽にも影響を及ぼした。象徴派の作家・芸術家や批評家の多くは、リヒャルト・ワーグナーの音楽に好意的であった。象徴主義の美学はクロード・ドビュッシーの仕事に重要な影響を及ぼした。ドビュッシーの歌詞やテーマの選択はほぼ全てが象徴派からであった。『ボードレールの5つの詩』の編曲、ヴェルレーヌの詩による歌曲、オペラ『ペレアスとメリザンド』、エドガー・アラン・ポーの2つの物語による未完のオペラ『鐘楼の悪魔』と『アッシャー家の崩壊』といった作品はドビュッシー象徴主義的な趣味と影響を示している。最重要作品である『牧神の午後への前奏曲』はマラルメの詩『牧神の午後』に着想を得ている。ドビュッシーラヴェルに影響を与えたエリック・サティは、若い時分には薔薇十字団とつながりがあったことが知られている。1892年の3月10日から4月10日にかけてデュラン・リュエル画廊(Durant-Ruel)で開催された「薔薇十字展」開会式典ではエリック・サティによる『薔薇十字のファンファーレ』(Les Sonneries de la Rose-Croix)が演奏されている。

◎ジョリス=カルル・ユイスマンスの小説『さかしま』(1884)は、後に象徴主義美学に結び付けられるようになるテーマをいくつも含んでいた。動きがほとんど展開されないこの小説は、風変わりな隠遁者であるアンチヒーローのデゼッサントの内面生活を描く、趣味のカタログである。オスカー・ワイルドは『ドリアン・グレイの肖像』の多くの箇所でこの小説を模倣している。ポール・アダンは最も多産な象徴主義小説家であった。ジャン・モレアスとの共著『グベール嬢』(1886)は自然主義象徴主義の中間的な作品である。ギュスターヴ・カーンの『狂王』(1896)をほぼ唯一の例外として、象徴主義者はこうした(中間的)手法をほとんど用いなかった。ジュール・バルベー・ドールヴィイの人間嫌い(特に女嫌い)の諸短篇も象徴主義的と考えられる場合がある。ガブリエレ・ダヌンツィオの初期の小説も象徴主義的な意図で書かれた。

◎19世紀後半、従来のアカデミスムに対する反発として、一方に印象派の傾向、他方では象徴主義の傾向が見られた。象徴主義は人間の内面や夢、神秘性などを象徴的に表現しようとするもので、文学上の象徴主義と関連して名づけられた。ギュスターヴ・モローが代表的な作家であり、ユイスマンスは『さかしま』の中でモローを高く評価している。イギリスでは19世紀半ばにはラファエル前派が結成されており、中世に対する憧憬は独自の唯美主義的な美学を生み出し、フランスの象徴主義に先行して独自の発展を遂げた。フランスでは「カトリック薔薇十字団」を組織した神秘主義者ジョセファン・ペラダン(Josephin Peladan,1858-1918)による「薔薇十字展(les salons de la rose-croix)」(1892-1897)が開かれ、象徴主義的傾向のある芸術家が多く出品している。またベルギーでは起業家であるオクターヴ・モース(Octave Maus,1856-1919)らにより「20人展(Les XX(レ・ヴァン))」が1883年に結成され、印象主義・新印象主義と競合しながら象徴主義の芸術の拠点となった。一般にはポスト印象主義や総合主義(クロワソニズム)の画家とされるゴーギャンも、写実的な対象の再現の否定や、平面的で装飾的な画面構成の重視、主観性の強い内面表現や、神秘主義的な題材を用いることなどの傾向から象徴主義の画家として位置づけられることがある。すでに19世紀末にはアルベール・オーリエ(Albert Aurier)が『メルキュール・ド・フランス』誌において「絵画における象徴主義――ポール・ゴーギャン」なる評論を寄せており、ゴーギャンの影響のもとで結束されたポン=タヴァン派やナビ派の美学にも同じような象徴主義的傾向が窺える。

また象徴主義アール・ヌーヴォーなど世紀末芸術にも大きな影響を与えた。例えばグラスゴー派の領袖でもあるマッキントッシュ象徴主義的な女性像を意匠化していたが、装飾性を重んじる作風に変化しても象徴主義的な感性は生き続けていたとみてよい。グラスゴーのブキャナン通りクランストン・ティールームの壁画装飾の下絵には象徴主義アール・ヌーヴォーの混交した様式が見られる。こうした傾向はウィーン分離派などでも窺える。逆にパリで「ベル・エポックの寵児」としてもてはやされたミュシャは、若い頃はアール・ヌーヴォー様式の洗練されたポスターで知られているが、後年には出身地のチェコに帰国し象徴主義的な歴史解釈に基づく重厚な連作「スラブ叙事詩」を描きあげている。

 要するにフランス象徴主義には(ヴィクトル・ユーゴー(Victor, Marie Hugo、1802年~1885年)と並ぶ数少ない小ロマン派生存者)ゴーティエ (Pierre Jules Théophile Gautier,1811年~1872年)の「芸術至上主義」や(政治的浪漫主義者の再来ともいうべき)エミール・ゾラ(Émile François Zola、1840年~1902年)の「実証主義的文学」との対峙関係の「(カール・シュミットいうところの)政治化」によって成立したという側面もあるらしい。

その先駆とされる英国ラファエル(ラファエロ)前派は、19世紀のアカデミーにおける古典偏重の美術教育に異を唱える為に「(イタリア・ルネサンス的古典主義の完成者とされ、その後アカデミズム絵画の規範とされた)ラファエロ以前の芸術、すなわち中世や初期ルネサンスの芸術を範とする」をスローガンとした。後続のフランス象徴主義運動やマルクスルネサンスへの言及は不思議と見られないが、間違いなく他のアカデミズム芸術と一緒くたに敵視する道を選んだと考えられる。こうした空気の中では「ルネサンス期における人間の再発見」を強調したスイスの文化史学者ブルクハルトの主張はとんだ反動主義と映ったに違いない。

それにも関わらず、やがてマルクスの主張を「上部構造とは、その全てが完全に余すところなく下部構造を表現する形で規定されるのが人道的正義だ」と単純化するプロレタリア文学至上主義的立場が登場したが、それだと「ナポレオン戦争時代に徴兵されて戦功によって自作農に昇格したサン=キュロット階層の支持によって選挙戦を制したルイ・ナポレオン/皇帝ナポレオン三世ボナパルティズム」や「社民党(ワイマール政権の与党)からも、スパルタカス(大衆と接点のを持たない文学者の寄せ集め)からも、オップロイテ(「革命的指導者」の意。ベルリンの金属労働区組合における幹部層への不満層)からも殲滅を宣言された資本家階層や中産階層の支持を受けて選挙戦を制したNSDAPのナチズム」こそが「人道的正義」だった事になってしまう。この問題を克服する為に「ボナパルティズムとナチズムは人類をを滅びに導く絶対悪なのだから決して許されてはならない。議会制民主主義は彼らに勝たせた欠陥を除去する為に人道的正義に反対票を投じる様な精神異常者を全員絶滅収容所送りにすべきなのだ」と言い出したら、それを実践したNSDAPホロコーストや、それを今日なお実践中である北朝鮮こそが人道的正義の勝利の象徴となってしまう(もちろんこうした「人道的正義の勝利の象徴」は、近代に入ってから大幅な発展を遂げた優性学の影響を色濃く受けている。だからNSDAPはユダヤ民族全体の絶滅を目指したのだし、中国共産党の文化革命は「地主の血統は残らず断て」をスローガンにしたのだし、北朝鮮では「親日派」や「韓流ドラマの視聴者」や「脱北者」を出した一族が族滅の対象とされ続けている訳である)。もちろんマルクスはそんな事は一言も言ってない。そして何が言いたかったか正確に理解するには、これだけの予備知識が必要となるという話なのである。

これこそがまさにボローニャ出身のパゾリーニ監督が遺作「サロ、またはソドムの120日(Salo、 or the 120 Days of Sodom 1975年、邦題『ソドムの市』)」で突きつけた「究極の自由主義は完璧な専制によってのみ達成される」なるジレンマという次第。