諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「武士の矜持」と「ジャーナリズムの基本」

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スイスの文化史学者ブルクハルト(Carl Jacob Christoph Burckhardt,1818年~1897年)は、ルネサンス期イタリアを分析して「権力は、何者がそれを行使するにしても、それ自体においては悪である」という結論に到達した。ここで断罪されているのは概ね「(領主が領土と領民を全人格的に代表する)農本主義的伝統」の事である。ホーエンシュタウフェン家断絶に続いた大空位時代(Interregnum、1250年/1254年/1256年〜1273年)によって無主の時代が長引き、これを制したハプスブルグ家を撃退したスイス国民ならではの自負心を感じる。そういえば「権力は、それが我慢の限界を超えたら何時でも倒して良い(我慢の限界を超えたかどうかは各人の良心が告げてくれる)」と発言し、フランス革命の精神的起源となったルソー(Jean-Jacques Rousseau、1712年〜1778年)もジュネーブ出身だった。

とはいえ現代日本において、現代日本人が同種の発言をする事にどういう意味があるのだろうか?

きっかけは最近テレビ報道ニュース番組のアンカーが相次いで降板したことに関する朝日新聞の記事だ。あるニュースキャスターが、ジャーナリズムの最大の役割は「権力を監視する番犬『ウオッチドッグ』であること」だと述べていたことに強い違和感を抱いたのだ。

一方、同じ新聞の別の記事では著名なジャーナリストが、報道機関の任務は「この世で起きている重要事実を漏れなく伝える」のと同時に、「ニュースの意味付けを与え、その価値付けを与える」ことだと述べていた。こちらの方が筆者の感覚に近いのだが、在京の外国特派員にも話を聞いてみた。

筆者の質問に対し記者たちの意見は割れた。「権力の監視」説は少数派で、多くは「事実を可能な限り客観的に伝えること」だった。要するにジャーナリズムの任務は、相手が権力であれ、非権力であれ、自らが事実だと信ずることを人々に伝えることが第一であり、「権力の監視」はその結果でしかないということだろう。

田原総一朗氏は3月24日に日本外国特派員協会で開いた記者会見で、こんな見解を示した。

「時の権力、時の政権に対して、いかにそれをウオッチするか、どこが間違いかを厳しく追及するのがマスコミの役割だ」

また、岸井成格氏は3月25日のTBS番組でこう強調している。

「何よりも真実を伝え、権力を監視するジャーナリズムの姿勢を貫くことがますます重要」

真実という容易には近づき得ない言葉を手軽に使うのはどうかと思うが、事実を伝えることであれば何より重要なのは当然だ。ただ、それを権力の監視とイコールであるかのように結びつけて語るのは短絡的ではないか。そもそも、国民がいつそんな役割や使命を彼らに委託したのか。

現在、マスコミ自体が行政・立法・司法の三権と並ぶ「第四の権力」と呼ばれる。政治家からは、半ば本気で「本当は第一の権力だ」と言われることも珍しくない。実際、田原氏は前述の記者会見でこともなげにこうも語っていた。

「僕は首相を3人失脚させたんだけど、僕のところに圧力なんて何にもない」

3人もの現職首相のクビを飛ばしたというのが事実であれば、それはどれほど大きな権力だろうか。その国政と社会への影響力は計り知れない。ならば、巨大な権力者そのものである田原氏らは、自分たち自身をも監視対象に置かなければならない理屈となろう。

 日本で新聞を創刊したのは「秩禄処分(1876年)」で下放された元士族達で、その目的は政府への復讐で、(武士だけに)互いにスキャンダルを流して失脚させた人数を競い合っていたという。いまだにそういった起源を引きずっており、これからも足を洗う事はないと諦めるのが正しいのかもしれない。岡本綺堂が「半七捕物帳」シリーズでしばしば描いた様に「馬鹿野郎ッ、武士の逆恨みに際限なんてあるもんか。奴ら必ず皆殺しにするまで決して諦めねぇ」といった具合。

作家別作品リスト:No.82 岡本綺堂

【阿比留瑠比の極言御免】反権力がマスコミの本分なのか 岸井成格氏らが「真実を伝え、権力を監視する姿勢を貫く」と豪語する違和感

米国のジャーナリズム界の長老と呼ばれ、20世紀最高のジャーナリストとたたえられたリップマンは、「ジャーナリストは自分が主観的なレンズを通して世の中を見ていることを知っている」と指摘し、その要求される仕事について次のように記している。

「人びとの意見形成のもととなるいわゆる真実といわれるものが不確実な性格のものであることを人びとに納得させること(中略)政治家たちをつっついてもっと目に見えるような諸制度を確立させること」

少なくとも「真実はわれにあり」とばかりの上から目線で権力を監視することや、とにかく反権力の姿勢をとることがジャーナリズムの本分だとは思えない。

 そもそも起源の異なる欧米のジャーナリズムと同質のサービスを求める側の方に無理があるのかもしれない。おそらく発足時点から現在に至るまで一度たりとも日本のマスコミは「大衆の味方」であった事などなかった。敗戦直後の朝日新聞も「新聞社の存続目的は社員を食わせていく事にあり、この聖なる大義名分を批判する事は誰にも許されない」と国民に向けて堂々と本音を語っている。たとえどんなに追い詰められても原点回帰を繰り返すだけだろう。