諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ウンベルト・エーコの「テキストの迷宮」


241夜『薔薇の名前』ウンベルト・エーコ|松岡正剛の千夜千冊

コンピュータにはもともとハードウェアにもとづいたプログラムの回路というものがある。その上にソフトウェアが走るためのOSがある。そこでそのOSに『薔薇の名前』の内容(コンテンツ)をアルゴリズミックにのせるとすると、まず『薔薇の名前』のどこをハード回路にもたせ、どこをOSにするか、そこがユーザーからは見えない潜在的な構造になる。

ついで、ユーザーが『薔薇の名前』のテキストに入っていくと、そのテキストのホットワードや書名の箇所にさしかかるたびに、そこから別のホットワードや書名の中身のどこかにリンクできるようになる。これもあらかじめテキストの各所にリンキング・アンカーを埋めておいたものなので、どのキーワード(あるいはそのキーワードを含む出来事)がどのキーワード(あるいは出来事)につながるかは、ユーザーは前もっては知らされない。

けれども、そのリンクを何度か辿っていくうちには、ユーザーは「エーコという編集エンジン」が用意したいくつかの設計思想にふれることになり、それと同時に『薔薇の名前』のテキストの目眩く汎立体性に気がついていく。そして、テキストのあちらこちらに埋められたキーワードあるいはコンテキストを何度もクリックしながら、その複雑多様な編集性を追体験することになる。

コンピュータ上にアルゴリズミックにプログラムされたテキストを読むということは、そういうことなのである。そして、エーコはそれをコンピュータを使わずして書物文章として実現したかったのだった。そこをぼくは試みにインターノーテーションとよんでみたわけである。

 掲載日2001年03月02日かぁ…ちょっと表現が古いなぁ。インターネット時代に対応した表現に直すとこんな感じ?

Webブラウザに表示されるのはあくまで1ページずつである。そこに『薔薇の名前』の内容(コンテンツ)を表示しても最初は大半の部分が視野外となる。

ついで、ユーザーが『薔薇の名前』のテキストを辿っていくと、そのホットワードや書名の箇所にさしかかるたびに、そこから別のホットワードや書名の中身のどこかにリンクできるようになる。これもあらかじめテキストの各所にリンキング・アンカーを埋めておいたものなので、どのキーワード(あるいはそのキーワードを含む出来事)がどのキーワード(あるいは出来事)につながるかは、ユーザーは前もっては知らされない。

けれども、そのリンクを何度か辿っていくうちには、ユーザーは「エーコという編集エンジン」が用意したいくつかの設計思想にふれることになり、それと同時に『薔薇の名前』のテキストの目眩く汎立体性に気がついていく。そして、テキストのあちらこちらに埋められたキーワードあるいはコンテキストを何度もクリックしながら、その複雑多様な編集性を追体験することになる。

WEBブラウザに表示されたコンテンツを“読む”ということは、そういうことなのである。そして、エーコはそれをコンピュータを使わずして書物文章として実現したかったのだった。そこをぼくは試みにインターノーテーションとよんでみたわけである。

このサイトで目指してるのもこういう事。

 

ウンベルト エーコ (著), 河島 英昭 (翻訳)「薔薇の名前〈上〉」 単行本 – 1990/2
ぶら下がってる書評に書き連ねられた歴史観が興味深い。

舞台は1320年くらいですが、まず、その前の1200年代まで遡る必要があります。その頃、神聖ローマ皇帝、シュタウフェン朝のフリードリヒ2世と、ローマ教皇の対立が激化していました。フリードリヒ2世は、ドイツと南イタリアを領地として持っていました。要するに、北イタリアとローマを中心とするバチカンの領土を挟み込んだ広大な領土をもっていたわけです。それ以前から長い時代、神聖ローマ皇帝バチカンは激しい覇権争いをしていましたから、フリードリヒ2世はこの機会に北イタリアとバチカンの領土をも併合し、今のドイツとイタリアを合わせたような大帝国を作ろうとします。長年の教皇ローマ皇帝の対立に永遠の終結をもたらそうとしたわけです。自前の軍隊を持たないバチカンにとってはとてつもない危機的状況です。

しかしこの争いになんとバチカンは勝利します。どうやって?ドイツ系のシュタウフェン朝と対立していたフランス王権を味方につけたのです。そこでご褒美として、南イタリアシチリアは、フランスのアンジュー家の領地になり、シュタウフェン家は断絶し、神聖ローマ皇帝位は空位時代に入ります。

ところが、だからといって、バチカンに我が世の春が訪れたわけではありません。その結果フランス王権が、バチカンを脅かすほど、強くなってしまったのです。今度はフランス王権が、バチカンを配下にしてしまおうとします。バチカンの持つ世俗権力を奪い、教皇をフランス王家直属の司教のようなものにしようとします。とうとうその圧力の結果、バチカンは、長年の本拠地ローマを離れ、フランスのアヴィニョンに移らざるえなくなってしまいます(14 世紀初頭)。

そして、バチカンにとって泣きっ面にハチの状況ですが、空位だった神聖ローマ皇帝位に新たな後継者が決まり、新たにバチカンとの対立関係にはいります。皇帝は今回は、神学の側面からもバチカンに攻撃を与えます。それ以前からそれなりの影響力を持っていた、異端か異端でないか微妙な立ち位置の、宗教運動(清貧派)の応援をしたのです。それは、フランシスコ会という修道会の一派なのですが、この一派は、簡単にいうと、バチカンでさえ何も所有してはいけない、という主張をするのです。キリストや使徒が何も所有していなかった、ということがその根拠です。これは多くの財産を抱えて膨れ上がっていた当時のバチカンの在り方への間接的な批判を含んでいます。この主張が正当となれば、莫大な富を有しているバチカンは間違っていることになり、ひいてはバチカンは世俗権力を失うことになり、挙句の果てに、ローマ教皇は、フランス王家の望みどおり、フランス王家直属の司教のような地位に落ちぶれざるえなくなってしまいます。このような宗派は複数存在していて、本文中で、フラティチェッリとかドルチーノ派と呼ばれているのも、それに含まれます。ドルチーノというのは一個人の名で、そのような主張を掲げて、いわば壮大な一揆のようなものを起こして有名になりました。このようなグループは、膨大な富をもつバチカンの腐敗を苦々しく思う人々の支持を暗にえていて、それなりの支持を広げていたのです。

ここまで読んでいくとバチカン側は袋叩きにあってるような感じですが、当時の教皇ヨハネス22世はかなりのやり手で、この危機的な状況にもかかわらず、バチカン勢力を拡大していました。先述の清貧派には、異端宣告を下し、その勢いに歯止めをかけようとします。ただ、この清貧派は、それなりに民衆的な支持を得ており、これに異端宣告を下すことは、バチカンの指導的な地位を、不安定化するという側面もあるわけです。この辺りの論争は「清貧派論争」などと呼ばれています。

この状況の中、清貧派が属していたフランシスコ会と、バチカンの間にも、緊張が走ります。同派が異端宣告を受ける少し前に、フランシスコ会は総会でその異端とされた思想を肯定するような決議を採択していたのです。ということで、バチカンは、そのフランシスコ会の総長に、アヴィニョン教皇庁へ来るよう呼び出しをかけます。「お前はあの異端たちをどう思っているのか?」と問い正すためでしょう。「異端です」と答えると、巨大なフランシスコ会そのものが、分裂し崩壊してしまう恐れがあります。この異端とされた清貧派の主張は、あの有名なアッシジの聖フランチェスコの教えに最も忠実であることは、誰も否定できないからです。この異端を完全否定しては、フランシスコ会はそのアイデンティティーそのものを否定することになってしまうのです。しかしだからといって、総長が「異端ではない」と答えて、バチカンと正面から対立すると、フランシスコ会そのものが異端扱いされかねません。その他、そもそも、そのような試問さえ行われず、招待された総長が、どさくさにまぎれて、アヴィニョンで殺されてしまうのでは、という危惧さえあったのです。

塩野七生ルネサンスとは何であったのか(2001年)」もイタリア・ルネサンスの先駆者としてアッシジのフランチェスコ(伊:Francesco d'Assisi、ラテン語:Franciscus Assisiensis、1182年~1226年)とシチリア王フェデリーコ1世(Federico I、在位1197年~1250年)/ホーエンシュタウフェン朝神聖ローマ帝国フリードリヒ2世(Friedrich II.、 在位1220年~1250年)の名前を挙げる。

  • そこでアヴィニョン召喚に先立ってバチカン代表とフランシスコ会代表が事前協議を行う事になった。

  • 会場に選ばれたクリュニー派修道院は(シトー派同様)ランゴバルト貴族(ランゴバルト族末裔)やノルマン貴族(ヴァイキング泊地出身)やブルゴーニュ貴族(ブルグント族末裔)やアストゥリアス貴族(西ゴート王国遺臣)が創建した時代の異教趣味と(美食や贅沢や知識欲を諦めないという意味での)人間中心主義の伝統を継承して世俗の富を全面否定したフランシスコ修道会(1223年認可)に徹底批判された宗派だった。

  • そこをフランシスコ修道会の創始者のアッシジのフランチェスコ(伊:Francesco d'Assisi、ラテン語:Franciscus Assisiensis、1182年〜1226年)の清貧思想を忠実に継承する理論家で、その高い人徳から、バチカンも一目置かれていたカザーレのウベルティーノ(Ubertino de Casale/ウベルティーノ・ダ・カザーレ、1259年〜1330年)が訪れる。実際に彼が目撃したのは自分とも縁深い「巨大書庫を備えた知の迷宮」だった。

そこで謎の殺人事件が起こったが、容疑者が多過ぎて…というのが『薔薇の名前』の展開なのだが、ミステリー作家京極夏彦が(ハードウェア部にあたる)物語としての基本構造をほぼそのまま継承しつつ(ソフトウェア部にあたる)知の体系と歴史的背景を全て日本のものに差し替えて「鉄鼠の檻(1996年)」を成立させたのが記憶に新しい。こういう試みをこそ本歌取りというのだろう。

 それではウンベルト・エーコは、彼の選んだ「ハードウェア=物語としての基本構造」に「ソフトウェア=知の体系と歴史的背景」を収納する為に何を切り捨てねばならなかったのだろうか。

  • ピピンの寄進(756年)」の後始末東ローマ帝国はゴート戦争(535年〜554年)に勝利してイタリア半島ラヴェンナ総督府を建設したものの、ササン朝ペルシャとの戦争の泥沼化(6世紀後半)と代替交易地として栄えたアラビア半島におけるイスラム教団の勃興(7世紀〜アッバース革命(750年)勃発による混乱期突入までが第1波)の隙を突いて南下してきたランゴバルト族に奪われた上、フランク族と提携関係を結んだローマ教会に接収されてしまう。以降はフランク族末裔とローマ教会の奪い合いとなり、皇帝派(Guelfi)と教皇派(Ghibellini)の争いに際してロンバルティア地方中心に分布した教皇諸都市は同盟を結成し、イタリア進出を目論む「バルバロッサ (Barbarossa、赤髭王)」ことホーエンシュタフェン朝神聖ローマ帝国フリードリヒ1世(在位1152年〜1190年)の遠征軍を「レニャーノの戦い(Battaglia di Legnan,1176年)」で大敗させた。一方(教皇領を数多く含む)ロマーニャ地方中心に分布する皇帝諸都市はホーエンシュタフェン家に冊封されて 以降、フランス王家や神聖ローマ帝国オーストリア、スペイン)を後ろ盾とする様になり「教皇領回復」を大義名分に掲げたチェザーレ・ボルジアのイタリア統一運動(1499年〜1503年)にも抗戦を続けた。大航海時代が始まって欧州経済の中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移してイタリア半島を争奪する意義が消失するまで続いたイタリア戦争(1494年〜1559年)の一環として戦われたが、こうした全体像について語り出すと長くなるので、あえて関連する動きの最も少い14世紀を選んでそれ自体については直接言及しない道を選んだのだと思われる。

  • アヴィニョン教皇の領主化と贅沢を尽くした饗宴」…フランス国王とローマ教会の駆け引きが生んだアヴィニョン捕囚(1305年〜1377年)と教会分裂時代(1378年〜1417年)の時代の副産物。ここから出発しながらスイスの文化史学者ブルクハルトは「権力は、何者がそれを行使するにしても、それ自体においては悪である」という結論に到達し、ドイツ歴史学派最後の重鎮ゾンバルトは「当時は饗宴にどれだけ客人を呼べて、奢侈の極みを堪能させられるかが政治そのものだった」とし「教会や王侯貴族の贅沢三昧こそが資本主義社会の原点という結論に至る。現代人の感覚では、現実世界を席巻する飢饉や疫病を忘れる為に私邸に閉じこもり刹那的快楽に耽溺するエドガー・アラン・ポー「赤死病の仮面(The Masque of the Red Death、1842年)」的世界も連想されるが、深入りしすぎるとそっちが主題となってしまうので最低限の描写に留められている。

 本当に切り捨てられているかっていうと案外そうでもなかったりするが…要するに同じ歴史展開の別側面に過ぎない訳だし。