スイスの文化史学者ブルクハルトや共産主義者マルクスが望んでいたのは、あくまで「神聖ローマ帝国の打倒」であって「分裂による拡散」ではなかったという。
とどのつまり時代的制約から「アレキサンダー大王の偉業」とか「帝政ローマの栄光」からそれほど脱却した発想は出来なかったとも。
ブルクハルトが引き起こした「亀裂」
美術・文明史家で、ニーチェの友人であり、ギリシアをこよなく愛したヤコブ・ブルクハルトは、歴史上初めて、今もわれわれを縛りつづけている時代区分を定着させました。(略)[十五世紀の]イタリア美術に熱狂しながら、彼は断絶論を唱えます。この人物こそが、大文字の<ルネッサンス>を発明し、〈中世〉から切り離し、きっぱりとした境界をそこに設けるのです。(略)この時代はそれまではっきりとした境界や日付を与えられていたわけではないのです。彼の『イタリア・ルネッサンスの文化』は偉大な本にはちがいないのですが、決定的な亀裂を作り出してしまいます。(略)
どうして「イタリア」でなければならなかったのか。
イタリアは確かに華々しく、しばしば文化的に進んでもいましたが、しかし政治上の進歩について言えば非常に遅れていたこともまた事実なのです。このことによって彼はヨーロッパ人の歴史認識を誤らせ、これが中世観として定着してしまうのです。(略)このブルクハルトの歴史観は、もちろん十九世紀におけるゲルマン文化の期待に応じたものです。分割されてなお偉大なるギリシア、細分化されてなお偉大なるイタリアは、偉大なるドイツ、分割を乗りこえプロイセンからオーストリアにかけて広がる、新たなローマ、新たなアテネとなるべきドイツの到来を告げているというわけです。神聖ローマ帝国の消滅は1806年のことで、ブルクハルトの仕事に先立つことわずか半世紀にすぎないということを忘れないようにしましょう。ブルクハルトはドイツを、ヨーロッパを南へと押し広げ、そこにまったく釣り合いを欠いたノスタルジーを吹きこむのです。(略)ついには多くの人々が、ルネッサンスをもって紀元ゼロ年とするにいたります。(略)それぞれの国民が、いまや自分こそが新たなるイタリアである、近代の最高峰であると主張します。
どうして、こうした文脈に突如としてドイツやオーストリアが登場してくるのか。
ナポレオン敗北後の欧州大陸再編が話し合われたウィーン会議(1814年〜1815年)において、イタリアについてはナポレオン以前の諸国が再建され、列強国(特にオーストリア)の直接または間接的支配下に置かれる事が承認されている。
ウィーン体制下のイタリアではオーストリア帝国に属する北東イタリアのロンバルド=ヴェネト王国、北西部のピエモンテとサルデーニャ島を支配するサヴォイア家のサルデーニャ王国、中部イタリアには教皇国家、トスカーナ大公国、モデナ公国、パルマ公国、マッサ・カッラーラ公国(1829年にモデナ公国に併合)、ルッカ公国(1847年にトスカーナ大公国に併合)、サンマリノ共和国、そして南イタリアにはブルボン家の両シチリア王国が成立した。1859年までこの枠組みに大きな変更はなかった。これらの復古政府はナポレオン体制下での行政や法制度をおおむね引き継いでいたが、サルデーニャ王国やモデナ公国では反動的な政策が取られた。この当時、イタリア統一に向けての闘争は主にオーストリア帝国とハプスブルク家に対するものとなった。これは北イタリアを支配しており、それ故にイタリア統一に対する最も強大な障害であったためである。オーストリア帝国は、帝国の他の領域に対すると同様に、イタリア半島において発達しつつあったナショナリズムを弾圧。ウィーン会議を主宰したオーストリア宰相クレメンス・メッテルニヒも「イタリアという言葉は地理上の表現以上のものではない」と言明している 。
ブルクハルトの 「権力は、何者がそれを行使するにしても、それ自体においては悪である」はまさに、こういう状況下で発言されたのだった。また(カール・シュミットの「友敵理論」を先取りするが如く)ナポレオン三世打倒の為にオーストリア=ハンガリー二重帝国を熱狂的に応援するマルクスやエンゲルスが、イタリアやドイツの統一運動に同情的だったパトロンのラッサールと決別したのもこうした状況下においてだったのである(ただし以降も生活費の催促は容赦なく続けている)。
だが第一次世界大戦(1914年〜1918年)に敗戦した結果、オーストリア=ハンガリー二重帝国はオスマン帝国同様に細かく解体されてしまい、切り離された後進地域の多くが後に紛争地へと変貌してしまう展開を迎える。フランスにおける革命期(1789年〜1799年)から二月/三月革命(1848年〜1849年)にかけての政治的混乱を見れば分かるように「(領主が領土と領民を全人格的に代表する)農本主義的伝統」に立脚する権威主義国家を、ただ解体しただけでは何も起こらない。魯迅も言っている様に、奴隷が主人と成り代わっても(中国共産党自らが「ずっと古代のままだった」と総括する中華王朝)、主人から切り離されても(アメリカが生んだ最大の悪夢「リベリア共和国」)奴隷制はなくせないという次第。
フェルディナント・ラッサール(Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle、1825年〜1864年) - Wikipedia
1859年に『経済学批判』をドゥンカー書店から出版できるよう取り計らったラッサールであったが、この頃からマルクスはラッサールに対して不信を強め始める。
- 同年ラッサールは史劇『フランツ・フォン・ジッキンゲン』を書き上げ、これをベルリンの宮廷劇場に匿名で送ったが、革命的精神を謳う台詞が冗長で、またヘーゲル式議論が難解すぎるとして劇場からは採用してもらえなかった。ラッサールはこの脚本をマルクスに批評してほしがり、彼にも脚本を送ったが、当時のマルクスに舞台の脚本など読んでる暇はなく、また『経済学批判』出版が遅れていることに苛立っていた時期だったので「反動的封建階級に属する者を中心として描いたことは誤りである。主人公は全て農民一揆の農民指導者から選ばねばならない」という冷たい返事を突き返された。
もっと大きかったのはイタリア統一戦争(1859年)をめぐって見解が相違したことだった。
- この戦争をめぐってはエンゲルスが小冊子『ポー川とライン川』を執筆し、ラッサールの斡旋でドゥンカー書店から出版した。この著作の中でエンゲルスは「確かにイタリア統一は正しいし、オーストリアがポー川(北イタリア)を支配しているのは不当だが、今度の戦争はナポレオン3世が自己の利益、あるいは反独的利益のために介入してきてるのが問題である。ナポレオン3世の最終目標はライン川(西ドイツ)であり、したがってドイツ人はライン川を守るためにポー川も守らねばならない」といった趣旨の主張を行い、オーストリアの戦争遂行を支持。マルクスもこの見解を支持した。
- しかしラッサールはこれに疑問を感じた。専制君主であっても常にナショナリズムや民主主義の原理に媚を売ろうとするナポレオン3世はナショナリズムを踏みにじり続ける専制王朝国家オーストリアよりはマシに思えたからである。そのためラッサールも独自に『イタリア戦争とプロイセンの義務(Der italienische Krieg und die Aufgabe Preussens、1859年)』と題した小冊子をドゥンカー書店から出版した。その中でラッサールは「イタリア統一の成功はドイツ統一にも大きく影響する」「ナポレオン3世が嫌いだからとイタリア統一の邪魔をするべきではない。」「もしナポレオン3世がそれによって何か利己的な目的を図ろうとしているなら、我々の側でそうはさせないだけの話。」「ライン川獲得のためにフランスがドイツに侵攻するなどありえず、ナポレオン3世が狙っているのはせいぜいフランス的なサヴォワの併合だけ。」「オーストリアが弱体化してもドイツ統一の打撃にはならない。むしろオーストリアが徹底的に粉砕されることがドイツ統一への近道」「ナポレオン3世が民族自決に従って南方の地図を塗り替えるなら、プロイセンは北方で同じことをすればいい。シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国を併合するのだ。」といった趣旨の主張を行った。このラッサールの主張は後年ビスマルクが実際に行ったドイツ統一の経緯を予言したものとして称賛された。
- しかしこれはナポレオン3世を「無産階級最大の敵」と定義し、ナポレオン3世に抵抗するためならばプロイセンとオーストリアの連合さえも考慮に入れるべきと主張するマルクスとは決定的に相いれない立場であり、マルクスから「私と私の同僚(エンゲルス)は貴方の意見に全く賛成できない」と拒絶の返事を送られたのである。
またこの時期マルクスは、カール・フォークト批判運動に熱中しており、ラッサールにはその先頭に立つことを期待していたのだが、ラッサールがいまいち乗り気でないことにも不満を持っていた。加えてラッサールはこの頃、株式投機で大損しており、マルクスからの金の無心に対して渋るような態度をとっていたこともマルクスの不信を加速させた。ラッサールはマルクスに自身の金銭事情を説明したものの、マルクスは信じてくれなかった。
*「貴様の様な絶対悪は一刻も早く地上から滅し尽くされるべきだが、お願いですから仕送りだけは絶やさないでください」。まさしくこれこそが現実のマルクス主義?
ちなみに当時ドイツ人が縋ったのは「神聖ローマ帝国ルネサンス(Renaissance)」理念だけではない。というよりむしろ依存の比重が高かったのはマックス・ミューラーの「アーリア人仮説」の方だったとも。
こういう状況についてアーノルド・J・トインビー「ヘレニズム 一つの文明の歴史(Hellenism、1961年)」は(オリエントの精緻な官僚制に裏付けられた皇帝崇拝理念と巧みに融合した)古代ギリシャ文明の英雄崇拝的側面(人間にしか熱狂出来ない人間中心主義(Humanism))がヒトラー台頭を準備したと述べたのでした。