諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「蛮族が闊歩する欧州」と伝教師達による秩序回復の試み

古代ギリシャローマ文明と欧州文明は思うほど連続してなかったりします。

代わって調べれば調べるほど浮かび上がってくるのはこんな蛮族末裔が闊歩する風景。

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  1. ゴート戦争(伊: Guerra gotica、羅: Bellum Gothicum、535年~554年)によってイタリア半島ラヴェンナ総督府を建てた東ローマ帝国だったが、ササン朝ペルシャの戦争が泥沼化し(6世紀後半)、代替交易地として栄えたアラビア半島イスラム教団が勃興すると(7世紀)、その隙をついて南下してきたランゴバルト族にそれを掠め取った。東方正教会と決別したローマ教会が、自活を目指してフランク族を利用してさらにそれを掠め取ったのが所謂「ピピンの寄進(756年)」となる。*動いたタイミングもアッバース革命(750年)によってイスラム勢力が身動きできないタイミングを狙ったもので、フランク族もこの隙を突いてイスラム勢力をピレネー山脈以南まで追い落とし「国境の町」ナルボンヌを回復している。

  2. ロンバルティア貴族(ランゴバルト族末裔)はその後何度滅ぼされても執拗に復活を続け、最後に蜂起したのは11世紀。しかもそれに際してブルゴーニュ貴族(東ゴート王国と縁深かったブルグント族の末裔)やアストゥリアス貴族(イベリア半島北岸に割拠する西ゴート王国遺臣)とも良好の関係を保っていたノルマン貴族(ヴァイキング泊地出身)を呼び込んだ。*ハスカール(従士)制と衝撃重騎兵(Heavy shock cavalry)による密集突撃の組み合わせは向う所敵無しで、唯一対等に渡り合えたのは同等の条件を備えたヴァリャリーグ傭兵隊(ドゥビナ川とドニエプル川を超えて黒海に到達して東ローマ帝国に雇われた北方諸族で編成)くらいだったという。

  3. やがてノルマン貴族はノルマン朝イングランド(1066年~1154年)、オートヴィル朝シチリア王国(1130年~1194年)、ノルマン朝アンティオキア公国(1098年~1119年)を建国。しかし次第にフランスやフランドルの諸侯、および神聖ローマ帝国皇統のシュヴァーヴェン大公ホーエンシュタフェン家(やはりゴート戦争で東ローマ帝国と戦ったアラマンニ族の末裔)に後を任せる形でフェイドアウトしていく。
    *文明化によって、それまでの強さの秘密だった部族的紐帯が失われたせいとも。

 その視野外ではこんな動きもあった。

  1. 皇帝ユスティニアヌス1世(Justinianus I、在位527年~565年)の時代から始まる宗教不寛容政策はササン朝ペルシャとの関係を悪化させ(6世紀後半)、代替交易地として栄えたアラビア半島イスラム教団を勃興させ(7世紀)東方正教会と西ローマ教会の分断を招く(8世紀)。しかしその政策は帝国の周辺部まで及んでいただろうか。ましてやササン朝ペルシャイスラム諸国は(領内の異教諸族を懐柔しつつ経済的に収奪する為に)宗教弾圧など考えられない状態にあった。
    イスラム圏でユダヤ教徒キリスト教徒への改宗が強制される様になるのはマグリブチュニジア以西のアフリカ北岸)とアンダルス(イベリア半島南部)。周辺部ながら9世紀頃より(西アフリカ諸国と砂金と岩塩を交換する)サハラ貿易が栄えて経済的に豊かとなった代わり腐敗と貧富格差拡大が進行し、綱紀粛正を叫ぶ宗教教団が政権を担ったムラービト朝(1040年~1147年)やムワッヒド朝(1130年~1269年)の時代以降となる。当然弊害も多かった様でイベリア半島領を大幅に失陥。次に現れたマグリブマリーン朝(1196年~1465年)やイフリーキヤ(現在のチュニジア)のハフス朝(1229年~1574年)は一転して宗教面に寛容な商業国家へと変貌。

  2. 8世紀から11世紀にかけて荒れ狂ったヴァイキング(北欧諸族による略奪遠征)の発端はカール大帝ザクセン併合(ドイツ語: Sachsenkriege、英語: Saxon Wars、772年~804年)だったという。これによって「先進的な」フランク族文化圏と接する様になった北欧諸族の文明化が始まって有史時代に入り、最終的にはデンマーク王国ノルウェー王国スウェーデン王国の領民や、ノルマンディ公国などに拠るノルマン人へと統合されていく。
    フランク族が海軍力を保有していなかった事が被害を広げた。当時のヴァイキングは、中国古典における「寇(内陸部に出没するのが山寇で、海外線に出没するのが海寇)」に近い存在。食料自給が望めない不毛の地で中継交易に頼って生活している諸族は、交易が途絶えると生き延びる為に盗賊団へと変貌する。むしろ逆に「あえて不毛の地を突っ切って交易するメリットが突如発生して突如消失する時代変化が彼らを出現させる」という指摘もあるが、いずれにせよそんな事が起こる後進地帯でまともな記録が残される筈もなく、詳細は不明。いずれにせよ当時の海軍は交易で自活する必要があったが東ローマ帝国もこの辺の運用センスは皆無で、9世紀から11世紀にかけて次第にヴェネツィア共和国に丸投げする様になっていく。その結果ヴェネツィア共和国の権益独占が目に余る様になったのでジェネヴァ商人やピサ商人を噛ませ犬として投入したが、最後には自国の方が滅ぼされてしまった。

  3. 8世紀末頃よりヴァイキング(北方諸族の略奪遠征)に襲撃される様になったアイルランドだったが、年代記によれば1014年にアイルランド上王 (High King)ブライアン・ボル(Brian Boru、ブリアン・ボルーとも)がクロンターフでヴァイキングを破って以降、侵入が収束したとされる。
    *最近では問題視されてる箇所。

    一方、デーンロウ(Danelaw、イングランド東部のデーン人占領地、9世紀~11世紀)の中心地として栄えたヨーク(York)は、アイルランド東岸に拠点を構えたノース人と、スカンディナヴィア半島からバルト海(Baltic Sea)と北海(英語 North Sea、ドイツ語 Nordsee、フランス語 Mer du Nord、オランダ語 Noordzee、デンマーク語 Nordsøen、ノルウェー語 Nordsjøen)、古名はゲルマン海(ラテン語 Mare Germanicum、英語 German Ocean))を越えて訪れるデーン人の交易で賑わった。
    *どんな交易が行われていたかに関する詳細は不明。幸村誠ヴィンランド・サガ(VINLAND SAGA、2005年~)」ではイングランドにおける軍事活動の副産物たる戦争奴隷がスカンジナヴィア半島に転売されて使用人や開拓地の農奴となったという説が採用されている。

  4. 北欧諸族のうちでも、ノース人は独自に北方へと進出した。8世紀にはオークニー諸島やシェトランド諸島、9世紀にはフェロー諸島ヘブリディーズ諸島や東アイルランドへと進出し、9世紀中旬までに拠点としてアイルランド東岸にダブリンを建設。さらに9世紀末から10世紀にかけてフェロー諸島経由でノース人とアイルランド人(ケルト人)がアイスランドへと移住していった。彼らは王による統治ではなく民主的合議による自治を目指し、その結果930年には世界最古の民主議会「アルシング」が発足。
    *やがてキリスト教を受容したノルウェー王国の属国となり、有名なエッダ (Edda) の主要収集地となる。また後世まで「蛮族」として恐れられ続けるスコットランド高地人も、出自的にはケルト諸族と北欧諸族が混合した産物だったらしい。

  5. それぞれ独自の道を歩んできた様に見えるデーン人とノルマン人の歴史が重なるのはイングランドにおいてである。まずはデーンロウを建築したデーン人がロンドンを首都と定め、同君連合を形成。イングランドアングロサクソン系国王はノルマンディへと亡命してノルマン貴族と政略結婚を重ね、これを口実にノルマン・コンクエスト(The Norman Conquest of England、1066年)が敢行される。デーンロウを手中に収めたノルマン人は交易の中心地ヨークのミンスター(Minster)寺院を焼き払い、ロンドンのウェストミンスター(Westminster)に新たな宮廷や寺院や聖堂を立てた。 ちなみにこれらの建物がイル・ド・フランス(フランス国王の直轄領だったパリ周辺)より始まったゴシック様式(Gothic、12世紀~15世紀)に改築されたのは(そのフランス人側近政治が諸侯の反乱を招いた)ヘンリー3世(在位1216年~1272年)が1245年、フランスの建築家を招聘してフランスのゴシック建築にならって改装を始めて以降となる。焼き払われる以前のヨークのミンスター寺院やゴシック化される以前のウェストミンスターの建築様式は一切伝わってない。
    *ちなみにゴシック様式(Gothic)という表現の起源はルネサンス期の北イタリア有識者達による「ゴート族(Gothic)の様に粗野で垢抜けない」という悪口。自文化を徹底的に捨て去ってイタリア文化に同化したランゴバルト族の末裔がこれを言うのも欧州の一側面。

  6. 1169年になるとノルマン朝イングランドの侵攻が始まり( Norman Invasion of Ireland)、1171年には諸豪族がイングランド王ヘンリー2世(在位1154年~1189年)の支配下に入った。*やがてアイルランド人は農奴化され、貧困状態で生き延びる為に馬鈴薯を主食とする様になり、ジャガイモ飢饉(英語: Potato Famine、アイルランド語:An Gorta Mór/An Drochshaol、1845年~1849年)を契機にアメリカへと大量移民する事になる(全人口のうち少なくとも20%が餓死および病死、10%から20%が国外脱出。また以降婚姻や出産が激減し、最終的にアイルランド島の総人口は最盛期の半分まで落ち込む)。

こうした展開も踏まえないと、以下の様な展開が視野に入ってこないのである。

キリスト教アイルランドでは一人の殉教者も出さなかったと言われている。ここではキリスト教 はそれほどすんなりと土着 化してしまっ たので ある が、それは一つにはケルト人の宗教の側に、 死後の魂の赴く「 他界」の信仰をはじめ、キリスト教の教えと重なり合う多くの要素があったため であろう。 だが、おそらくはそればかりではない。 そもそもこの地域に入ってきたキリスト教そのものが、ケルト人の宗教と習合し やすい性格のキリスト教だったためということもあるのでは ないだろうか。 それはつまり、それはつまり、このキリスト教ローマ・カトリックではなく、ローマ・カトリック世界の周辺を通って、はるばるこの西の果てまで伝わってきた東方キリスト教だったのではないかということである。

このような想像を裏付けるようなものとして、たとえば、ケルトキリスト教独特の聖アンナ崇拝を挙げることができる。ローマ・カトリック教会では1854年まで認められることのなかっ た聖母マリアの母聖アンナに対するこの崇拝は、もとより聖書正伝に基づくものではなく、2世紀~3世紀頃に東方世界で成立した 外伝『原ヤコブ福音書』を出所とするものである。神殿に捧げ物をしに行った夫ヨアキムと妻のアンナが、子がないため呪われた血筋の者として捧げ物を拒否され、悲しみのあまりヨアキムは荒野に赴いて断食し、アンナは家に戻って泣き暮らしていたところ、40日の後に天使が二人にエルサレムの金門の前で再開することを命じ、こうして再会界し二人が接吻を交わした時、アンナは聖母マリアを身ごもっ たというこの物語は、処女にして懐胎した聖母は、彼女 自身もまた肉の交わりによらず して懐胎されたことを主張するものであり、 ここから聖母をいや が上にも聖化する無原罪懐胎の信仰は生まれたので あっ た。この信仰は早くから東方世界では定着 し、シリア、コプトアルメニアをはじめ東方の諸教会において、この奇跡を記念する「 無原罪懐胎 の祝日」(12月9日、ただしコプト教会では12月13日、アビシニア〔エチオピア〕 では12月16日)が祝われるようになったのであるが、なぜか遠く離れた西の果てのケルト人の 教会にもかなり早くからこの信仰は伝わっていたようで あり、少なくとも九世紀にはこの祝日が その教会暦の中に現われているのである。ただし、この地域では、聖母よりもむしろ聖母の母聖 アンナの 方に力点が置かれ、名称も「 神の母の母聖アンナの懐胎の祝日」となるので ある。

ローマ・カトリック教会の認めないこの東方生まれの信仰が、いち早く極西の地に入っているという不思議な現象は、この地に伝わったキリスト教が、実は東方世界から直接に入ってきたキリスト教だっ たことを想像させずにはおかない。そしてまた、この聖 アンナに対する崇拝が聖母をしのぐほどに盛んだっ たというこれまた不思議な現象は、神の母の母聖アンナの名が、ケルト宗教における神々の母アナ(アニャ、ダナ、ダニャ、ドーンなどとも呼ばれる)と重なったためとしか考え られないのである。

  • 10世紀に作られたウェールズの王オーウェンの系図には、その祖アバラクはベリ大王と聖アンナ の息子であり、それ故、聖母マリアとは異父姉弟にあたると麗々しく書き記されているので ある が、このベリ大王というのは実はケルトの太陽神(ベリ、ベレン、ベレノス、アベリオなどさまざま な呼び方がされている)のことなのであるから、その配偶者聖アンナはすなわちケルトの大地 の神アナに他ならないことになる。大地母神アナはキリスト教の受容とともに聖アンナと名を変え ただけなのだ。
  • ブルターニュ地方は特に聖アンナ崇拝が盛んな所であり、ひなび た教会の中に入ってゆくと、少女 マリアに読み書きを教えている聖 アンナ像や、あるケルト研究 家が父と子と聖霊の父権的三位一体に対して母権的三位一体と呼んだ聖母子を聖アンナが後から抱きかかえている像に出合うのである が、ここにもやはり、聖アンナはブルターニュ出身で あり、ユダヤ人ヨアキムと結婚したが、 虐待されたためブルターニュに 戻ってきたという奇妙な民間伝承がある。この伝承もまたこのよう な形で彼らの母 神と聖アンナの同一性を語っているのであろう。


6世紀末、アイルランド東北部にあるバンゴール (Bangor)修道院から大陸に渡ってキリスト教を伝道したアイルランドの大修道院長聖コルンバヌスは「わがドルイドはキリストなり」という有名な言葉を残したが、この言葉ほどケルト・キリス 教の性格をよく示したものはないだろう。ドルイドの教えはそのまますっぽりとキリスト教の中に包摂されてしまったのである。キリストはまさに新しいドルイドだったのだ。おそらくはドルイドがしていたものと思われる「魔術師シモン風」の剃髪をし、ドルイドたちが供犠を行なっていた森の奥のネメトン( 天と地の交わる聖なる場所)に 庵を結んでいた彼らは、ケルト神話を異教として敵視するどころか、むしろこれを愛していたので ある。

  • 12人の同士と連れ立ったコロンバンのヨーロッパ宣教旅行は約50年間にも渡った。当時ヨーロッパは民族移動により修道院や教会が破壊され人びとの生活も荒廃していたが、彼らはアウストラシア(現在のフランスとどいつにまたがる地域)に到着すると未開拓の地で生活をはじめた。
  • 修道士たちは土地を開拓し、祈りと厳しい禁欲の生活を送り、人びとによい模範を与えた。やがて人びとや巡礼者が訪れるようになり、多くの若者たちが仲間に加わることを望んだ。修道士たちの数が増えたため、第二の修道院をリュクスーユに建てた。ここで20年間過ごし『修道規則』を執筆。この本は彼に従う人びとのために書かれたものであり、現存するもっとも古いアイルランドの修道規則とされている。
  • コロンバンは風俗の乱れた生活を送る国王や権力者達に躊躇することなくその行いが正しくないことを指摘し続けたので、やがて宮廷と対立するようになり、ガリア(現在のフランス)から追放されるとドイツに移動してスイスやイタリアで宣教。
  • イタリアでは、異端であるアレイオス派との論争で活躍し、分裂していた教会を一致させるため、教皇ボニファチオ4世に手紙を書き送った。612年または613年ごろ、イタリアのエミリア・ロマーニャ州にあるボッビオに修道院を建て615年に死去。


ケルト人修道士たちが、ドルイドたちが口承によって伝えてきた古伝承を熱心 に記録にとどめよ うとしたのも不思議ではない。おそらくはドルイドがしていたものと思われる「魔術師シモン風」の剃髪をし、ドルイドたちが供犠を行なっていた森の奥のネメトン(天と地の交わる聖なる 場所) に庵を結んでいた彼らは、ケルト神話を異教として敵視するどころか、むしろこれを愛してい た のである。こうしてケルトキリスト教の修道士たちのおかげで、ケルトの古伝承の一部が 幸運 にも忘却 の彼方に葬られずにすんだのだった。

 蛮族支配下となった欧州において秩序回復を試みたキリスト教聖職者達の活躍はなんとイタリア半島にまで及んだ。しかもそれは決してカソリック教義の押し付けではなかったし、そもそも本当に彼らが伝教したのが「カソリック」だったのか自体が疑問視されているという次第。

カンタベリーのアウグスティヌス(Augustinus Cantuariensis, ?~604年/605年)

イングランドへのキリスト教布教で知られる7世紀の司教。初代カンタベリー大司教正教会カトリック教会・聖公会で聖人。ローマの聖アンドレアス修道院長であったが、教皇グレゴリウス1世(在位590年~604年)の命により約40人の修道士とともに596年にイギリスへ布教のために派遣された。


ローマ式典礼を導入するとともに、イングランドの国情・習慣を尊重し、性急に改革を導入しないというカトリック的折衷主義を採用していたといわれる。これは彼がたびたび書簡をやりとりしたグレゴリウス1世の指導によるもので、すでにイングランドにある程度浸透していたケルト教会の影響を考慮した政策であった。その他、司教の叙階の方法・ケルト人司教との交渉・洗礼の規定など細かい点で、アウグスティヌスが大教皇グレゴリウスの教えを仰ぐ様子がベーダの「イギリス教会史(羅:Historia ecclesiastica gentis Anglorum, 英:Ecclesiastical History of the English people、731年校了)」に詳述されている。

 その一方でブリタニアドルイド達はキリスト教の受容そのものは拒絶しつつも、ローマ教会の位階制度や司祭や助祭の服装などは好んで積極的に取り入れたという。こうした「双方の歩み寄り」が最終的融合をソフトライディングに導いた事は言うまでもない。

ローマ教皇グレゴリウス1世(Gregorius I、在位:590年〜604年)

問答者グレゴリウス(Dialogos Gregorios)、大聖グレゴリウスとも呼ばれる。典礼の整備、教会改革で知られ、中世初期を代表する教皇。四大ラテン教父の一人。ローマ・カトリックでは聖人、教会博士であり、祝日は9月3日。東方正教会でも聖人で記憶日は3月25日。日本ハリストス正教会では先備聖体礼儀の作成者・ロマの「パパ」問答者聖グリゴリイ(鍵括弧原典ママ)と呼ばれる。

ローマ貴族の家庭で生まれ、政治家としてのキャリアを積んでいたが、思うところがあって修道院に入り、590年に教皇に選ばれた。精力的に教会改革に乗り出し、三章問題の解決をはかったり、カンタベリーアウグスティヌスイングランド宣教に派遣するなどした。西方だけでなく東方においても著名な存在であり、ローマ司教の域を出なかった教皇職の権威を高めることになった。

東ローマ帝国に近い知識人の代表で、ユスティニアヌスによる再征服後の、まだ帝国の支配に実効性があった時代のローマに赴き、部族国家の定住によって西欧に生じた現実を見据えつつも、それら部族国家の外側に生きた。部族国家という政治単位に分断されつつある西欧世界の現実の中で教会の統一を守ろうとし、その為に教皇の優位性を必要とした。教皇という核がなければ、西欧世界での教会の統一はたちまち失われ、部族国家ごとに教会が分断されてしまう。現に一部の部族国家は異端のアリウス派を信仰していた。それと対抗すべく彼は教皇と教会を同一視する観念に先鞭をつける事になっていく。

グレゴリウスはアフリカ出身の教皇ゲラシウス1世(在位492年〜496年)の両剣論(俗権と教権がともに神に由来するとし、聖界の普遍的支配者としての教皇と俗界の普遍的支配者としての皇帝を併置する。ただしその一方で教権が帝権の上位にある事も論じており、俗権と教権を完全に並列的に扱っている訳ではない。その本来的な意図においては教権と帝権の相補的役割を期待したものだったが、彼は「政治的支配をする」王が「権力(potestas) 」 を持つのに対し、教皇は権威 (auctoritas) を持つとしながら「後者こそ完全な主権」という立場を崩さなかったのである)を根拠に、宗教的裁治の管轄権が教皇にあると主張。しかしそれによって俗権である皇帝権力が霊的使命を放棄し、宗教領域への介入を捨て、世俗的職務に専念せよと述べたのではない。国家はむしろ教会と協働して霊的使命を果たすのであり、その霊的使命を放棄しては国家の存在価値自体が失われるのである。グレゴリウスが教皇に選出されたとき、マウリキウス帝はこの考え方を追認したが、彼は皇帝がローマ司教かつ教皇に対して任命権を行使したことに何ら疑問を抱かなかった。彼は皇帝の権威が神に由来するものであることを認め、その権威を尊重しており、両権の協働を唱えていたからである。

その一方で部族国家に対しては、その権力を認める代わりにキリスト教秩序への参画を求めた。部族の君主たちに助言を与え指導することで、間接的に道徳的権威を行使しようとしたのである。キリスト教精神は国家理念の欠如していたこれら部族国家の目標となり、教会は国家に活力を与える存在となり、教皇座の霊的権能を高めた。それまで各部族国家の王は法律を作る権威を持たず慣習に従属していたが、キリスト教はこの慣習を次第に変えていく。

グレゴリウスは同時に聖ベネディクトゥスの伝記を含む多くの著作を残したことで知られ、教皇として書いた多くの書簡が残されている。また、東方正教会でも大斎中の平日の奉神礼に用いられる先備聖体礼儀の祈祷文はグレゴリウス1世が編纂したものとされる。グレゴリオ聖歌の名は彼に由来しており、伝承では彼自身多くの聖歌を作曲したとされている。

両剣論イベリア半島から中央アジア・インドにかけての広範囲な地域で「剣と法の関係のあるべき姿」が模索された4世紀から5世紀にかけての時代精神の産物であった。

歴史のこの時点においてはまだまだ東ローマ帝国/東方正教会西ローマ帝国の教義上の矛盾は表面化していない。だが「ローマ教会の教皇至上主義」や「ゲルマン諸族を従える為の適応主義(より具体的には偶像崇拝の黙認)」といった不和の種は既に撒かれていた。ただし当時における両者の立場の差はあまりに絶対的で、それが爆発するのはアッバース革命(750年)によるイスラム陣営の混乱の隙を突いたフランク族の反攻開始を待たねばならなかったのである。