諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

帝政ローマ末期のイデオロギーの亡霊?

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カール・シュミットの「敵友理論」は、実際の歴史上においては勝利より自滅をもたらす事が多かった。

もしかしたらそれはキリスト教国教化によって文明人と蛮族の境界線を引こうとした帝政ローマ末期のイデオロギーの亡霊で、今日なおそれは定期的に生贄が捧げられる事を求め続けているのかもしれない。

All bad precedents begin as justifiable measuresどんな悪しき前例も、最初は正当な方法として始まったのだ)” - Gaius Julius Caesar

このユリウス・カエサルの言葉を、塩野七生は「どんなに悪い結果に終わったことでも、それがはじめられたそもそもの動機は、善意によるものであった」と訳し「善意ぐらい悪をもたらすものはない」「自分に疑いを持っている人はあまり悪行は犯さない。自分を正しいと思っている人たちが災害をもたらすと思う」と続ける。構造主義社会学成立に強い影響を与えたソ連の昔話研究家ウラジミール・プロップも「御伽噺に登場する悪は大抵の場合、時代遅れとなって弊害しかもたらさなくなった過去の正義である」と述べている。

  1. 実際には東ローマ帝国の宗教不寛容政策は(ペルシャ人経由で追放された古代ギリシャ文明やヘレニズム文化の継承者となった)イスラム勢力を台頭させ、東方正教会西ローマ帝国を分裂させ、第4回十字軍(1202年〜1204年)によってベネツィア共和国の運んできた北フランス諸侯に滅ぼされた時点でただの小国へと転落し、コンスタンティノープル陥落(1453年)によって自らを地図上から消滅させてしまう。*ちなみに次第にギリシャ化していった東ローマ帝国末期には水面下匂いてギリシャ古典の再評価が始まっていたが、これが花開くのは皮肉にも故郷滅亡後に亡命者が流入したイタリア各地においてとなる。

  2. ウマイア朝(661年〜750年)が提唱した「アラビア人優越主義」は、アラビア人反主流とイスラム教を受容したササン朝ペルシャ遺臣達が蜂起したアッバース革命(750年)にあっけなく倒される。この新帝国が最初に国学として採用したムタズィーラ神学はササン朝ペルシャ遺臣達はシリアに逃げ込んだ東ローマ帝国からの亡命者が秘蔵してきた古代ギリシャ/ヘレニズム時代の古典の影響を色濃く受けており、それとの比較検討を通じてイスラム教学やアラビア哲学が飛躍的発展を遂げる。*やがてイスラム帝国の経済的中心は中東から穀倉地エジプトや(砂金と岩塩を交換する)サハラ交易によって栄えたアフリカ北岸やアンダルス(イベリア半島イスラム圏)に推移。アラビア哲学研究の中心地も歩調を合わせる形で推移。アラビアはイスラム発祥の地ながら、そのイスラム文化の発展から置き去りにされていく。

  3. イスラム圏における秩序弛緩に激怒した僻地のベルベル人宗教結社が蜂起してマグリブチュニジア以西のアフリカ北岸)やアンダルシア(イベリア半島南部)にかけてを支配したムラービト朝(1040年〜1147年)やムワッヒド朝(1130年〜1269年)は各地に宗教警察を送り込んで「厳罰主義に基づく生活指導」を遂行したり、領内のキリスト教徒やユダヤ教徒に改宗を強要したりした。マラズギルトの戦い(1071年)における東ローマ帝国の大敗とそれに続くアナトリア半島失陥と同じくらい第1回十字軍(1096年〜1099年)出征の遠因の一つとなった歴史的動きで、イベリア半島に置いては激しい攻防戦の末にカスティーリャ王国を盟主と仰ぐキリスト教連合軍がトレド奪還に成功。ここにベルベル人王朝から亡命してきたキリスト教徒やユダヤ教徒が大量流入して12世紀ルネサンスが花開く。*皮肉にもこうした宗教不寛容期ベルベル人王朝においてこそアヴェロエスアラビア語Ibn rusd、ラテン語Averroes, 1126年〜1198年)やマイモニダス(ヘブライ語Moseh ben Mayimon、スペイン語Moises Maimonides、ギリシア語/ラテン語Moses Maimonides、1135年〜1204年)といった西方アラビア哲学の偉人達が輩出された。宗教面で寛容な商業国家に推移したマグリブマリーン朝(1196年〜1465年)やイフリーキヤ(現在のチュニジア)のハフス朝(1229年〜1574年)もイブン・ハルドゥーン (Ibn Khaldun、1332年〜1406年)の様な中世イスラム世界を代表する歴史哲学者を輩出しているが、彼は現役時代を(数多くの宮廷と盛衰を共にする)政治家として過ごしてきたのであり、その登場はむしろ教学が人間の行動を絶対的に統制してきた時代の終焉を示唆している。しかしながら大航海時代到来によってサハラ交易は壊滅。マグリブも西アフリカも悲惨な衰退期に入る。

  4. スペインはユダヤ人追放令(1492年)発令によって(亡命ユダヤ人を積極的に受容した)オスマン帝国を強めただけだったし、フランドルへのカソリック強要は(それまで欧州経済の中心だった)アントウェルペン/アントワープを壊滅させて経済的覇権を敵対国オランダに引き渡しただけだったし、モリスコ追放(1609年)に至っては小作人大量消滅によって自国を大飢饉に追いやっただけだった。百年戦争(1337年〜1453年)によって互いの国境線を定めたイングランドとフランスは、その後それぞれ薔薇戦争(1455年〜1485年)や公益同盟戦争(1465年〜1477年)によって王権強化に反対する大貴族連合が自滅して絶対王政に向かう。一方、せっかく12世紀ルネサンス発信地としてイスラム諸国の(君主をユダヤ人の直臣や商人が支える)先進的な中央集権的官僚制に触れながらカスティーリャ王国は残酷王(Pedro el Cruel)/正義王(Pedro el Justiciero、古い綴りではPedro el Iusteçero)ペドロ1世(Pedro I、在位1350年〜1366年、1367年〜1369年)が地方分権状態の存続を望む大貴族連合に敗北して以降、正反対の道を歩む事になった。これにユダヤ教徒イスラム教徒をスケープゴートとする形でスペイン貴族のエスノセントリズム(Ethnocentrism、異文化恐怖症)に付け込んだシスネロス枢機卿(Francisco Jiménez de Cisneros、1436年〜1517年)の広めた熱狂的カソリック守護者意識が加わって暴走状態に陥り、そのシスネロス枢機卿を罷免したスペイン国王カルロス1世(Carlos I、在位1516年~1556年)/神聖ローマ帝国皇帝カール5世(Karl V、在位1519年〜1556年)にも完全統制は不可能で、その息子たるスペイン国王フェリペ2世(Felipe II, 在位1556年~1598年)/イングランド王フィリップ1世(Philip I、1554年~1558年)/ポルトガル国王フィリペ1世(Filipe I、1580年~1598年)に至っては自ら先頭を切ってスペインを破産に追い込む有様。結局スペインの中世的分権状態はナポレオン時代の半島戦争(1808年〜1814年)によって国土全体が焦土と化すまで解消される事はなく、その後も延々と内乱状態が続く事になる。またポルトガルやオランダやイングランドが植民地に少なくとも「近世」や「近代」を輸出したのに対し、スペインは「中世」しか輸出出来なかったとされる事があり、実際スペインの元植民地の多くが現在なお同様の内乱状態に苦しめられ続けている。

  5. フランス絶対王政が国外追放したユグノー(Huguenot)はヘッセンなどのドイツ新教諸侯領に大量亡命して現地経済振興を助けたり、スイスで神権政治を履行したりした(ジュネーブ、1541年〜1564年)。フランスのプロテスタンティズムは最盛期で人口200万人、当時の人口の10%ほどを占めたが、ユグノー戦争(1562年〜1598年)によって5%程度まで減少。その内訳は貴族・農民・手工業者・商人・金融業者など多様な社会階層に及んだが、そのうち貴族層は政治的意図が濃厚だったのでユグノー戦争後はほとんどが早期に信仰を離れたという。

 こうした不穏な歴史の流れの中に「(本来のキャパシティを超えた上からの)寛容政策強要が(我慢の限度を超えた下からの)不寛容政策へと転じていく永久連鎖」を見てとる向きもある。ルネサンス発祥の地たるイタリア(フィレンツェ、ローマ、ヴェベツィア)は遂にこの連鎖から抜け出す事が出来なかったが、フランドル(オランダ、ベルギー、ルクセンブルク)は違った。どうしてそんな事が可能だったのか。