諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

英国はカソリック? それともプロテスタント?

「英国はカトリックの国」と思い込んでる日本人は多い。

【Wikipedia】イングランド国教会(Church of England)の概要

◎16世紀のイングランド王国で成立したキリスト教会の名称、かつ世界に広がる聖公会アングリカン・コミュニオン)のうち最初に成立し、その母体となった教会。イギリス国教会英国国教会、また「国教会」という訳語が不正確であるとしてイングランド教会、英国聖公会とも呼ばれる。聖公会(アングリカン・チャーチ)という名称は、アングリカン・コミュニオン全体の日本語訳であると同時に、イングランド国外におけるイングランド国教会の姉妹教会の名称の日本語訳でもある。

イングランド(イギリス)の統治者が教会の首長であるということが最大の特徴。もともとはカトリック教会の一部であったが、16世紀のイングランドヘンリー8世からエリザベス1世の時代にかけてローマ教皇庁から離れ、独立した教会となった。

プロテスタントに分類されることもあるが、他プロテスタント諸派とは異なり、教義上の問題でなく、政治的問題(ヘンリー8世の離婚問題)が原因となって、カトリック教会から分裂したため典礼的にはカトリック教会との共通点が多い。

 どうしてそんな展開になったかというと…

 【Wikipedia】イングランド国教会(Church of England)の略史

イングランド教会とローマの間に最初の決定的な分裂が生じたのは、王妃キャサリンとの離婚問題でもめたヘンリー8世の時代の事だった。キャサリンの甥にあたるカール5世(スペイン国王在位1516年〜1556年、神聖ローマ皇帝在位1519年〜1556年)の思惑などもからんだ複雑な政治問題で1527年から1529年にかけて請願が繰り返されたが教皇庁は政治的都合もあってその全てをはねのける。
*当時は(神聖ローマ帝国皇統にしてスペイン王統の)ハプスブルグ家とフランス王家ががイタリアの分割を巡って争うイタリア戦争(1494年〜1559年)の最中だった。

◎第二回イタリア戦争(1499年〜1504年)は領主化したローマ教皇庁がフランスの軍事力を借りてイタリア全土を統一しようとする試みだった。しかし伝染病の流行と、ハプスブルグ家からランツクネヒト鉄砲隊を貸与されたスペイン軍の活躍によって阻まれている。
織田信長が宣教師より話を聞いて長篠の合戦(1575年)に応用したなんて説もあるチェリニョーラの戦い(1503年)である。本当は大砲でフランス騎兵隊とスイス槍歩兵の密集突撃を粉砕する予定だったが失敗し、鉄砲隊に活躍の機会が回ってきた。

◎1516年には、フランス国王がローマ教皇レオ10世との「ボローニャの政教協約」で大司教・司教・大僧院長の指名権を持つことをローマ教皇に承認させ、フランスの国家教会主義(ガリカニスム)を完成させている。*実はフランスも「イングランド国教会同様のローマ教皇からの独立状態」は相応に確保してきたという話。そもそもアヴィニョン捕囚(1309年〜1377年)とは、シスマ(Schisma=教会大分裂、1378年〜1417年)とは何だったかという話も出てきますね。
「ベルサイユのばら」と産業革命 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

◎マクシミリアン1世死去を受けての1519年の神聖ローマ皇帝選挙はフランス国王フランソワ1世と(マクシミリアン1世の孫)スペイン王カルロス1世の一騎打ちとなったが、カルロス1世が圧勝してカール5世として即位する。この時、選挙資金獲得の為に贖宥状が大量に販売された事が巡り巡ってルター派を台頭させる事になる。

*ちなみにルターとの関係を拗らせて宗教戦争を引き起こしたホーエンツォレルン家は、その後プロテスタントに改宗。ドイツ騎士団の旧領を継承し、領内にユダヤ人やユグノーを集めて経済振興し、プロイセン王統を経てドイツ皇帝に。

◎日増しに劣勢となっていくフランソワ1世は起死回生を賭してオスマン帝国のスレイマン1世と同盟。かくして第一次ウィーン包囲(1529年)が実現した。当時のフランソワ1世はさらに「敵の敵は味方」とする立場からドイツ領内のプロテスタント諸侯も後援。ちなみにオスマン帝国に対する最前線となった東欧でも、ハンガリートランシルヴァニア、ワラキア、モルダヴィアポーランドなどにどれぞれ分家を擁する名家バートリ一族がある時にはオスマン帝国、またある時にはフランス国王の後援を受けながらハンガリー王やハプスブルグ家といったカソリック勢力と戦い続けてきた。ルネサンス期における印刷技術の発展はカソリック圏に彼らを誹謗中傷する小冊子の大量流布を生み、ここから「串刺し公ブラド・ツェペッシュ」や「血の公爵夫人バートリ・エリザベート」の伝承が生まれるのである。ちなみにディズニー・アニメ化されたホカポンタス伝承に登場するスミス船長は若い頃この地で傭兵働きをしており、バートリ家から騎士に叙任されていたりする。
*要するに当時の英国は、こうしたゴタゴタに巻き込まれたくなかったのである。
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埒があかないと見たヘンリー8世は態度を変え、さまざまな古代以来の文献を基に、霊的首位権もまた王にあり、教皇の首位権は違法であるという論文をまとめ、教皇に送付した。続いて1531年にはイングランドの聖職者たちに対し、王による裁判権を保留する代わりに、10万ポンドを支払うよう求めた。これはヘンリー8世が聖職者にとっても首長であり、保護者であるということをはっきりと示すもので,1531年2月11日、イングランドの聖職者たちはヘンリー8世イングランド教会の首長であると認める決議を行っている。*ただここに至ってもヘンリー8世教皇との和解を模索し続けていた。

1532年5月になると、イングランドの聖職者会は自らの法的独立を放棄し、完全に王に従う旨を発表。1533年には教皇上訴禁止法が制定され、それまで認められていた聖職者の教皇への上訴が禁じられ、カンタベリーとヨークの大司教が教会裁治の権力を保持する様になる。そしてヘンリー8世の言いなりであったトマス・クランマーがカンタベリー大司教の座に就くと、先の裁定に従ってクランマーが王の婚姻無効を認め、王は(4代前まで地方農民の家系だった/従って大陸との柵と無縁な)アン・ブーリンと再婚。
*後のエリザベス1世の生母

教皇クレメンス7世がヘンリー8世を破門したことで両者の分裂は決定的となった。ヘンリー8世は1534年に国王至上法(首長令)を公布してイングランドの教会のトップに君臨。イングランドの教会を自由に出来る地位に就いたことは、ヘンリー8世が離婚を自由にできるというだけでなく、教会財産を思うままにしたいという誘惑を感じさせるものとなった。やがてトマス・クロムウェルのもとで委員会が結成され、修道院が保持していた財産が国家へ移されていく。こうしてイギリスの修道院は破壊され、荒廃した。
*とはいえこに時点のイングランド教会は決してプロテスタントではなかった。ヘンリー8世はもともとプロテスタントを攻撃する論文を発表して教皇レオ10世から「信仰の擁護者」(Defender of the Faith)という称号を与えられており、それを誇ってもいたのでる。

ヘンリー8世がローマと訣別したせいで大陸のプロテスタント運動が急速にイングランド流入。聖像破壊、巡礼地の撤廃、聖人暦の廃止などを行ったが、ヘンリー8世自身は信条としてカトリック信仰を継続し1539年のイングランド教会の6ヶ条においてイングランド教会がカトリック教会的な性質を持ち続けることを宣言している。変革を嫌った父ヘンリー8世と違った息子エドワード6世の下で、イングランド教会は最初の変革を行った。それは典礼・祈祷書の翻訳であり、プロテスタント的な信仰の確立が目指された。こうして国家事業として出版されたのが1549年の『イングランド国教会祈祷書』であり,1552年に最初の改訂が行われた。
エドワード6世死後王位についたメアリー1世(離婚されたキャサリンの娘)は熱心なカトリック教徒で、ヘンリー8世エドワード6世の時代に行われた典礼の改革をすべて廃して再びイングランドカトリックに戻そうとして失敗。

真の意味でのイングランド国教会のスタートは,1558年に王位に就いた(ヘンリー8世アン・ブーリンの娘)エリザベス1世下となる。エリザベスは教皇の影響力がイングランドに及ぶことを阻止しようとしていたが、ローマからの完全な分離までは望んでいなかった。神聖ローマ皇帝カール5世が彼女をかばったこともあって、エリザベス1世は1570年、ピウス5世の時代まで破門されることはなかった。
エリザベス女王が生涯独身で通した理由は、父ヘンリー8世が王妃キャサリンと離婚したかった理由と同じ。要するに同様に大陸のゴタゴタに巻き込まれたくなかったのである。

イングランド国教会が正式にローマから分かれたのは1559年。議会はエリザベス女王を「信仰の擁護者」(首長)として認識し、首長令を採択して反プロテスタント的法を廃止した。さらに女王は1563年の聖職者会議で「イングランド国教会の39箇条」を制定し、イングランド国内の国教会を強化した。
*そしてこの頃から次第にイングランドにおける清教徒ピューリタン)と国教会派の対立が深刻化していく。

1603年に即位したジェームズ1世は強く国教会派を支持、また王権神授説を称えて国王の絶対性を主張したため、プロテスタント諸派から反感を持たれたが、一方で欽定訳聖書の出版を指示するなど、宗教的な貢献も大きかった。チャールズ1世の治世では国教会派がスコットランドも教化しようとしたために、反発した人々の手によって清教徒革命が勃発し、敗れたチャールズ1世は1649年に処刑されてしまう。しかしその後、王政復古名誉革命を経て、かえって国教会主流派の地位は強化される事になった。
イングランド国教会主流派と対立した人々の中には、国教会内部で改革を行おうとする非分離派もいたが、国教会から出て別の教会を立てる者も多かった。後者を分離派と呼ぶ。このような国教会から出たプロテスタント会派にバプティスト・メソジストなどがあり(Pilgrim Fathersと呼ばれる分離派清教徒集団を筆頭として)北米に新天地を求める事も多かった。

 これぞエドマンド・バークフランス革命省察(Reflections on the Revolution in France、1790年)」で褒めそやされた「時効の憲法(prescriptive Constitution)」の真相?

 

テューダー朝(Tudor dynasty、イングランド王統1485年〜1603年、アイルランド王統1541年〜1603年)はジェントルマン階層形成期に大きな役割を果たした。

  • 直轄領切り売りによるジェントリ層(爵位を持たない地方地主)の規模拡大…スペインとの和議が成立し私掠行為が続けられなくなった途端、国家財政が窮乏。宗教革命で没収した膨大な量の修道院領も片っ端から売りに出された。

  • 積極的に登用されたジェントリ層と既存貴族との格差縮小…そもそも両者は生活スタイルや文化の点で近く、称号と貴族院議席以外に特権上の差もなかったため、薔薇戦争によって貴族が大きく疲弊した事もあって通婚が進み、単一の地主貴族層(ジェントルマン階層)を形成した。

  • プロフェッション(専門職)の登用…本来土地に立脚した不労所得者に過ぎなかったジェントルマン階層を16世紀中頃までに国教会聖職者、高級官僚、士官といった「国王と王国に奉仕する職業」の供給階層に変貌させた。土地や財産が相続出来ない地主の次男・三男に対する救済措置でもあったが、彼らへの大学教育普及にも役立った。

  • 大学教育の内容変化オックスフォード大学ケンブリッジ大学中世までは聖職者育成が主業務だったが、ヘンリー8世エリザベス1世は教会の勢力を削いで宮廷に人材を供給すべくギリシア・ローマ的古典教養の教育に力を注がせた。無論イタリア・ルネサンスの影響もあったが、かくしてジェントリー階層は地方行政ばかりか中央宮廷でもにおいても重視される様になり、音楽、詩、舞踏、作法、礼節といった分野を主導する存在に。

こうしてステュアート朝(Stuart dynasty/Stewart dynasty、スコットランド王統1371年〜1714年、イングランド王統1603年〜1707年、グレートブリテン王統1707年〜1714年)への抵抗運動が準備される事になったとも。

ちなみにフランスのユグノー(Huguenot)についても経済的にプラスだった説とマイナスだった説がある様だけど、当時のプロテスタントがその存在を認めても否定しても騒動が広がる統治者にとっての頭痛の種だった事実は揺るがない。実際英国は名誉革命(Glorious Revolution、1688年〜1689年)で英蘭同君体制に移行するまでこの問題に苦しめられ続けるのである。

全ては「大陸側のゴタゴタに巻き込まれたくない」の一言で済んでしまう?

基本的にカソリック文化に親近感を抱いてるのか反感を感じてるかも不明。まぁ人それぞれなのでしょう。そういう部分が英国人らしいと言えなくもない。

ただ国教会を定着させていく過程でのカソリック迫害ならあった模様。

アングリカン・チャーチとは何か。組織はカトリック、教義はカルヴァン派 ハイブリッド教会の歴史的役割 | ちきゅう座

ヘンリー8世からエリザベス1世時代の宗教改革で成立したイングランド国教会は、イングランド国王(女王)を首長とする教会である。イングランドが、世界に進出する過程で、各地にイングランド国教会を母体とする教会が生まれ、総体ではアングリカン・チャーチと呼ばれている。日本では聖公会とも呼ばれ、6大学の一つ立教大学聖公会の系譜の大学である。

アングリカンはプロテスタントに分類されるが、カトリックカルヴァン派プロテスタントのハイブリッド教会である。さらに当初はイングランド人を対象にした国教会であるので、日本人にとって非常に性格がわかりにくい教会である。イングランド国教会は、カトリック(ローマ)とカルヴァン派ジュネーブ)の間を揺れ動きながら、17世紀に現在の形に落ち着いた。

簡単にいうと、アングリカンは組織論ではカトリックを採用し、信仰基準ではカルヴァン派を採用している。アングリカンには専門聖職者である司教がいる。司教は階層制の組織を形成する。平信徒が教会運営に関われない組織だ。イングランド国教会では監督制とも呼ばれる。

ここまではカトリックとほぼ同じ組織だが、首長はローマ法王ではなく、イングランド国王である。ただし、独身と童貞を建前とするカトリックの神父と異なり、アングリカンの司教は結婚できる。一方で信仰基準(理論とか綱領)は、カルヴァン派そのものである。

ウエストミンスター信仰基準

カルヴァン派は現在では長老派とか改革派と呼ばれる。米国ではエスタブリシュメントの宗教とされる。なぜ、長老派と呼ばれるか。教会を牧師と平信徒の代表である長老(理事会の理事の相当)が共同で運営するからである。イングランド国教会で司教制に反対して、カルヴァン派本来の組織論=長老制を求めた人々は非国教派のピューリタン清教徒)と呼ばれ、迫害された。

米国建国の起源はイングランドで迫害されたピューリタンの移住(1620年、メイフラワー号)によるものと理解されている。

1641年から1649年まで続くピューリタン革命によって、清教徒は権力を握ったが、その権力は一時的なものに終わり、イングランド国教会を長老派の方向で組織的に純化することはできなかった。

1688年の名誉革命から審査律が廃止される1823年まで、ピューリタンイングランド、その後の連合王国の政体から排除される。具体的にはイングランド国教会に入らない限り、公職につけなかった。公職につけないとは、官僚にも軍人にも裁判官にも議員になれないことを意味する。従って成長し、繁栄するイングランドで、彼らはその恩恵を受けることが少なかった。

イングランド国教会体制から排除されたのは、非国教会派のプロテスタントカトリック、それにユダヤ教徒である。
 
余談だが、イングランド国王はイングランド国教会の信徒以外と結婚できない。チャールズ皇太子が熱愛していたカミラ・パーカー・ボウルズ氏と結婚しなかった大きな理由は、カミラ氏がカトリックだったからと言われる。その後、波乱を経て両者は結婚する。

イングランドが世界を制覇し、英語が世界の共通語になった起源を求めるならば、ヘンリー8世がカトリック教会から離脱したこと、エリザベス1世が国教会を守り抜いたことにあるだろう。

宗教としてはイングランド王制に付属する存在になり、イングランド人(およびその子孫と意識する人々)とその影響を受けた人々に限定された形になってしまった。

現在、アングリカンの信者は連合王国、ブリティッシュ・コモンウェルス(カナダ、アンザックスなど)、アメリカ合衆国やアフリカ、インドの旧植民地に片寄っている。

イングランドとその制度・文化、英語が世界を制覇したことに比べれば、アングリカンの世界的影響力はより小さい。

 ハイブリッド‼︎ 遂にハイブリッド説登場‼︎

さらに興味深いのが、英国国教会が1974年(映画「エクソシスト」が公開された翌年)に救出省(Deliverance ministry)と呼ばれる部門を新設し、悪魔払い(exorcism)と精神医学(psychiatry)の双方に精通した専門家チームを管轄し続けてるという事(悪魔祓いを行なうにあたっては監督管区の主教と予診を担当した精神科医の許可が必要)。

BBC Inside Out - Exorcists

ローマ教皇庁以外にもエクソシストが存在したとは…ただし「(悪魔払いを完全官許制にする事でインチキ呪い師を違法化しつつ)前近代的な宗教理念に拘束されてる人達を、その固定概念から救出する部門」との事。少なくとも表向きは…

とにかく「古代ギリシャ・ローマ文明の継承」とか、そうした大仰な話は一切出てこないのです。

さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…