諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

羊毛をめぐる冒険

欧州史のある側面は確実に羊毛に覆い尽くされている。巡り巡ってその波は日本にまで到達したが、日本人の反応はあくまで冷淡。三浦按針が泣いたという。

中世都市の形成―北西ヨーロッパ

 

イングランドは少なくとも10世紀にはもう外国人に頼って国内の羊毛を輸出していた(2世紀~3世紀からという説もある)。最初、大きな比重を占めていたのはフランドル人やイタリア人であったが、次第にハンザ商人にとって代わられていく。
*一般に英国に羊を持ち込んだのはローマ人とされる。

バルト海では古くから交易がおこなわれていたが、中世初期には商業そのものが衰退していた。6世紀から10世紀にかけてバルト海の貿易を担ったのはゲルマン民族の一派フリース人。現代オランダ人を思わせるその巨躯と金髪碧眼で名を馳せた。都市生活を知らなかった点で後のハンザ商人と異なるが、平和的・恒久的な貿易を基本としワイン・木材・穀物・織物を扱った点においてその先駆者としての側面も備えていた。
アングロ=サクソン人と使用言語が似ている事から、ウェセックス王国出身の聖ボニファイキウスがフランク王国の後援を受けて積極伝教した事で知られる。ザクセン併合(772年〜804年)を契機としてヴァイキング(北欧諸族の略奪遠征)が始まると最初の標的とされた。以降もフリースラント(フリース人の土地)は、ホラント(オランダ)領の一部ながら神聖ローマ皇帝カール5世が1524年に併合するまで「無主の地」であり続ける。
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ハンブルクは6世紀にもうエルベ川河口に存在する港湾都市として知られていた。808年、カール大帝によって前哨基地ハンマブルクの城塞が築かれ、811年にはキリスト教の布教をさらに推進する目的で、砦の近くに大聖堂が建設されている。この大聖堂は間もなく北ヨーロッパキリスト教文化の中心となったが、しばしば敵対する民族に攻撃されてきた。834年には大司教座がおかれたがヴァイキング(北欧諸族の略奪遠征)襲来を受け848年に近くのブレーメンに移された。
*以降もデーン人やスラブ人の襲撃に持ちこたえ続ける。


フランドル毛織物工業は、10世紀、ヘント、アラスで始まる。ヘントの近くのエナメで、領主制的な環境のもとで、領民の女性が全工程を集団的に営む工房が言及されている(11世紀末のトウールネでも確認される)。アラスは、ローマ末期の繊維工業の中心で、6世紀から7世紀にかけての実態は謎。ローマ末期からカロリング朝にかけて羊毛工業の技術的知識と伝統が連続したかも不明。また11世紀から12世紀にかけての流通税関で奴隷と金の販売に関する規制が遂行されており、中世期を通じて多数の奴隷がいた事が明らかになっている。
*フランドルの熟練手工業者は10世紀から11世紀にかけて都市に増大(商人が雇用していたらしい)。12世紀には職業の種類にしたがって、家族的な兄弟団(ギルド的性格だが、商人ギルドからは排除)にまとまっていたらしい(12世紀のアラスに証拠がある)。職業集団の組織化は、都市民兵軍という軍事的理由から、またや、職業に関する様々な規定を施行するという観点から、都市当局によって推進された(13世紀になるまで、都市当局による公認はなかった)。


後にハンザ同盟を結成する事になるドイツ人商人にとって、イングランドは最も成功を収めた交易先であり続けた(実際、海外商館のうちロンドンの商館が最も有名であった)。10世紀末からイングランド人と平等に扱われる様になり、その頃から他の外国人より有利な取り扱いを受ける様になった。なお、イングランドからの輸出は基幹商品である羊毛や毛織物以外に、錫・石炭・鉛など輸出品などであり、輸入品は穀物・蝋・毛皮・タール・ニシン・船材などであった。

 

11世紀に入るとヨーロッパで毛織物の生産性が高まり、それが市場に出回り始める。特にフランドルの低地地方に諸国の商人が集まり、そこで織り上げられた毛織物をヨーロッパ各地に分配する様になったのが大きかった。

 

十字軍運動(1096年~1270年)を契機にキリスト教圏とイスラム教諸国の間の交易が活発化。領邦国家登場以前の時代には二国間の戦争はむしろ両国間の交易を活発化させるのである。既に10世紀後半からイスラム諸国と商業条約を結んで海運網の整備を開始していたヴェネツィア共和国ジェノヴァ商人の躍進が始まる(第四回十字軍によって東ローマ帝国が滅ぼされるまでジェノヴァ商人が優勢)。またそれまで神聖ローマ帝国皇帝の支配下にあったトスカーナ地方のフィレンツェも中小貴族や商人からなる支配体制が発展し自治都市となる。同時期フランドルの対岸にあるイギリス低地地方でも羊毛産業が勃興したが、当初は羊毛の生産と輸出が中心。
*こうして毛織物工業が大きな繁栄を示し製品の多くが東方に輸出される様になったが、それを主導したのはイギリス羊毛をフランドルで売る一方、フランドル産毛織物を購入してイタリアのフィレンツェに運び込んで加工仕上げを行っていたイタリア商人であった。イギリス産羊毛はまずフィレンツェに運び込まれ問屋制下で毛織物に仕立てられるのである。これがフィレンツェ経済に未曾有の活気をもたらした。またイタリアレースを参考にベルギーで自生するリネン(麻)を材料にレース編みが始められたのもこの時期だという。スヘルデ川流域に生える亜麻草を糸にしてレースを織り続け、全盛期となる16世紀から17世紀にかけてはヨーロッパ全土の上流階級の間でレースは爆発的な人気を得た。

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1143年、ホルシュタイン伯アドルフ2世は、当時まだ未開の地だったトラーヴェ川とヴァーケニツ川の間にある中洲に目をつけた。彼は各地から住民を募り都市を建設し、リューベックと名付けた。しかし1157年の火災でまだ小さな集落だったリューベックは荒廃してしまう。そこで、リューベックの住民はアドルフ2世の上位君主ザクセン公ハインリヒ獅子公に助けを求める。ハインリヒはリューベック市民のために新しい町を建設するものの、地理的な問題から発展が見込めなかった。そこで、アドルフからリューベックの土地を買い取り、再び町を建設した。この時、リューベックに都市としての特権が与えられた(1159年)。
*中世盛期に差し掛かったヨーロッパでは人口が増大し、新たな土地を求め農民たちがエルベ川以西の土地に移住し開拓を進めていった(東方植民)。しかしこの地域にはドイツ人から見て異教徒であるスラヴ系住民が既に居住しており、土地を得るために武力による制圧も行われた。その経済効果は大きく、ヨーロッパ世界の拡大と共に貿易圏も拡大していく。都市も次々と建設され、その多くがハンザ同盟に加わる事になった。

11世紀から12世紀にかけての商人は特定の街に定住ぜず、各地を遍歴して商品を売買する「遍歴商人」が主流だった。ドイツ人の遍歴商人は北海貿易に参加し、ロシア産の毛皮を求めてバルト海に乗り出していった。当時、北方貿易の中心になっていたのはヴァイキングの商業拠点となっていたゴトランド島で、ドイツ商人たちは彼らのネットワークに参入した。しかし、ヴァイキングの法では異民族は自動的に無権利であり、ドイツ商人は常に生命・財産を侵害されるリスクが存在した。そこで、ザクセンのハインリヒ獅子公が仲介に乗り出し、1161年にヴァイキングとドイツ商人の間に通商権の平等が認められた。さらにハインリヒはオデルリクスを団長とする遍歴商人団体を承認し、オデルリクスに民事・刑事上の司法権を与えた。商人団長に大きな権限が与えられたのには、ドイツから離れた地で異民族と競合しながら商売をしていくために強いリーダーシップが必要だったからである。こうして、遍歴商人たちの団体である「商人ハンザ」が誕生。やがてハンザ同盟の商館の置かれる範囲は拡大し、西はイングランド(イギリス)のロンドンから、東はキプチャク・ハン国支配下(タタールのくびき)にあったルーシ(ロシア)の中心、ノヴゴロド公国ノヴゴロドまで広がり、このレンジは後世モスクワ会社設立の足がかりとなる。同盟はロンドンとノヴゴロドに加えてフランドルのブルッヘ(ブリュージュ)、ノルウェーのベルゲンの4都市を「外地ハンザ」と呼ばれる根拠地とし、その勢力ヨーロッパ大陸の内陸から地中海にまで及んだ。

*ゴトランド島で中心的な役割を果たした都市は、ドイツ遍歴商人の活動拠点でもあったヴィスビューだった。ヴィスビューはドイツからロシア商人を放逐し、1237年にはイングランド王国から特権を与えられ国王・貴族に対し寡占的に毛皮を輸出していた。また、当時のヨーロッパには非合理的な神判や法廷決闘が裁判制度として機能している地域があった。古ゲルマン法では所有権と言う概念が定着しておらず、海岸に漂着した遭難者の財貨は発見者・海岸住民・海岸領主の物になるとされていた。ヴィスビューはこれらに対抗するためにリューベックから法体系を導入し、12世紀から13世紀にかけてバルト海沿岸地域に普及させていった。この過程において、ヴィスビューの法はキリスト教会から承認を受け、キリスト教の布教とセットでヴィスビュー法は普及していった。

 

それまでハインリヒ獅子公の保護を受け発展してきたリューベックだったが、ハインリヒは「バルバロッサ (Barbarossa、赤髭王)」ことホーレンシュタフェン朝神聖ローマ帝国フリードリヒ1世(在位1152年〜1190年)と対立し失脚。リューベックは形の上では王領地となったが実質的にはホルシュタイン伯に支配されるようになった。1188年、フリードリヒはリューベックに多くの特権を与え、商業都市としての発展を促進。1227年にはホルシュタイン伯の支配を排除して帝国都市としての地位を獲得し、いかなる領主の支配にも属さない帝国直属の都市となった。リューベック市民の一部は周辺地域に移住し、ロストックヴィスマールなど新しい都市を建設。また、ロストック市民によって建設されたシュトラールズントなどリューベックの「孫娘都市」も建設された。これらの都市をヴェンド系都市という。さらにリューベックの法は娘都市やバルト海沿岸の都市に普及していった。また、北方十字軍などにおいて北ドイツの都市との協力を必要としたローマ教皇庁リューベックと友好関係を築いた。そしてワールシュタットの戦いが起きた1241年、リューベックハンブルクは商業同盟を締結。これは、その都市の資源はその都市の商人が扱い、外来の商人は排他するという内容だった。1256年、リューベックロストックが対立。しかし、ヴィスマールが両者の仲を取持ち、3都市は友好関係(ヴェンド同盟)を築く事に成功した。1259年には、ヴェンド同盟の会議も開かれる。ロストックヴィスマールリューベックを介してハンブルクとも結びつく。さらにハンブルクを通じて西方や南方の諸都市も同盟に加わった。この都市同盟はのちのハンザ同盟の基礎となり、ヴェンド同盟の会議はハンザ会議の起源となった。
*13世紀になると遍歴商人、使用人に実務を任せ自らは本拠地となる都市に定住しながら指示を出す「定住商人」が台頭する。彼らは定住する都市で都市参事会を通じて政治に参加する有力市民であり、彼らの相互援助の都市間ネットワークを通じて都市間で条約が結ばれていった。これに伴い、ハンザ同盟の性格も商人団体から、商人が定住する都市によって構成される都市同盟「都市ハンザ」へと変質する。しかし、この過程で上記のヴィスビュー(遍歴商人団体の中心都市)とリューベック(都市同盟の中心)の間で主導権争いが行われた。当時はノヴゴロド商館でヴィスビューの優位性が認められており、ノヴゴロドでのドイツ商人の紛争はヴィスビューが上訴地とされていた。また、ノヴゴロドの利益はヴィスビューに送られ、ヴィスビューのドイツ人、リューベック、ゾースト、ドルトムントで分け持っていた。1260年頃から諸都市との連携を強めていたリューベックは、ヴィスビューから覇権を奪おうと画策する。1293年、ロストックザクセンバルト海沿岸の諸都市代表が集まり、ノヴゴロドにおける上訴地をヴィスビューからリューベックに移すことが議論された。ヴィスビューはリガやオシュナブリュックと共に反対したが、会議に参加しなかった諸都市も含め大勢の支持を取り付けたリューベック側が勝利。さらに1298年のハンザ会議ではヴィスビューに拠点を置く遍歴商人団体の廃止が決議された。1290年代までにほとんどのハンザ都市がリューベックをリーダーとして認めるようになる。1294年には、ネーデルランドの都市、ツヴォレが書状の中でリューベックを「頭」、自らを「手足」に譬え協力を誓う。このようにリューベックをリーダーとする都市ハンザが台頭すると、それまで遍歴商人らによって独自に運営されていた各地の商館も都市ハンザの支配に下った。そして最終的決定権は現地商人ではなく、ハンザ同盟諸都市の代表によって構成されるハンザ会議が下す様になった。

ハンブルグも1189年には「バルバロッサ (Barbarossa、赤髭王)」ことホーレンシュタフェン朝神聖ローマ帝国フリードリヒ1世(在位1152年〜1190年)から船舶航行の特許状を受けた。この特許状は第3回十字軍への貢献の報償としてあたえられたもので、商業上の特権をみとめるものだった。
*こうして関税特権、経済特権を獲得したハンブルグの交易都市としての発展が始まる。1241年にリューベック、1249年にブレーメンと防衛同盟を締結。同年、シャウエンブルク伯爵より完全な自治を許され、貨幣製造権も与えられ、これがやがてハンザ同盟成立に結びついた。ハンザ同盟の一員としてハンブルクは富裕な有力都市のひとつとなり繁栄し,1410年,1510年,1618年と三度神聖ローマ皇帝から自由都市の特権を与えられ、自治権を獲得維持した。

12世紀頃から13世紀にかけてフランス北東部、シャンパーニュ平原の諸都市で大規模な交易市が開かれた。ヴェネツィアジェノヴァといったイタリア商人の支配する地中海商業圏と、ハンザ同盟が主軸を成した北欧商業圏が、中間地点であるシャンパーニュで接触交易を行なったのである。これに地元小売商、行商人も参加していた。大規模であったのでお祭的な側面もあり、大道芸人、見世物師、売春婦、物乞いなども現われ、近在の一般住人も購入に訪れるなど、にぎやかなものであった。マース・モーゼル・セーヌの河川に囲まれ、輸送手段として船が多用された当時の欧州において、東西南北に通ずる絶好の地理条件を持っていたのである。平原に位置するトロア、バール=シュル=オーブ、ラニー、プロヴァンの4都市で1回あたり4050日間、年6回持ち回りで市を開いた。プロヴィノア貨(またはプロヴァン貨)が各地の貨幣に対する決済用の基準貨幣として用いられた。イタリア商人のもたらす香辛料、染料、医薬品、宝石、絹織物など、軽くてかさばらない東方奢侈品と、北欧・イングランド・ロシアからもたらされた羊毛、毛皮、蝋、蜂蜜、ニシン、木材、小麦、卑金属類など重くてかさばる産業財・生活必需品が、一堂に取引された大国際市場であった。また、この地域を統治したシャンパーニュ伯も、対外戦争よりもこの市場を保護した方が利益になると考え、市場の自主性を保証して1154年にラニーの市税を免除するなど、この市場を訪問する商人の保護に尽力することと引き換えに、領内の経済を活性化して富を得ることになった。

神聖ローマ帝国において皇帝に直接忠誠を誓う立場にあった帝国都市の政治に参事会などを通じて参画する有力市民が組織した自由ハンザ(国際的都市間交易網)が「バルト海のニシン」だけでなく「フランドルの毛織物」も大々的に扱う様になったのはこれ以降。

アッコン陥落(1291年)後もキプロス王国は中東における重要交易拠点として残り、ヴェネツィア商人とジェノヴァ商人が鎬を削り合う。13世紀から14世紀にかけてヴェネチィア商人はフィレンツエのアルト(ギルド)で羊毛をイギリスから輸入して高級毛織物に仕立てて東地中海方面へ輸出してきたが、外国毛織物工業との競合や東方市場の混乱によって衰退。同時期ブリュッヘ/ブリージュも中・東欧市場に輸出していた。


14世紀に入ると、シャンパーニュ伯であったルイ10世がフランス王に即位し、シャンパーニュは国王領となる(1314年)。この頃から、国家財政の悪化につれて税金が高騰するとともに(北海に1274年にジェノヴァガレー船が姿を見せ、1277年にジェノヴァ商人スピノラ家がフランドルのズウィン湾に到達した)イタリア商人が羅針盤を手に入れてフランドルやイングランドに直行する様に。こうしてシャンパーニュの大市は国際市場としての役割を終えた。1330年代からはヴェネツィアのガレー定期便がフランドルに乗り入れる様になる。

14世紀フィレンツェというと教皇派内部がネーリ(黒党)とビアンキ(白党)の二大派閥に分裂して党争が続いた時代でもあったがそれ自体が経済的繁栄に影を差す事はなかった。遠隔地交易、毛織物業を中心とする製造業、そして金融業によって市民層は莫大な富を蓄積する事に成功し、その結果フィレンツェトスカーナの中心都市となって最終的にはトスカーナの大部分を支配したフィレンツェ共和国の首都となった。そして商人と職人が強力な同業者組合を組織した事で体制的にも安定し、最も裕福だった毛織物組合だけを見ても14世紀の初めの段階で約3万人の労働者をかかえ、200の店舗を営業する巨大組織となったのである。こうした経済状況を背景に金融業などで有力なメディチ家が商人や銀行家と市政を指導し14世紀~15世紀に渡るミラノとの戦争を経て1406年には遂にアルノ川下流にあるピサを獲得して待望の海への出口まで手に入れた。

唯物史観とイタリア・ルネサンス

 

当時、ドイツ人商人は多数の商人が小さな資金を用いて交易していたが、逆にイタリア人商人は少数が大きな資金をもって前者に数倍する交易を行なっていた。それはイタリア人が地中海交易の伝統を引き継いでいたからとされる。彼らは権力者を顧客とする贅沢品を持ち込んでいたが、ドイツ人のように穀物や材木、毛皮、銅などは持ち込まなかった。彼らは、いずれも金融業務を行なったが、イタリア人は大型の王室金融、ドイツ人は小型の個人金融を行なった。
バルト海のニシンは夏から秋にかけての漁期には北ドイツの各ハンザ都市から北欧に向けて買い付けの商船隊が派遣され、年間数十万トンの塩漬けニシンに加工されてヨーロッパ各地に輸出されていた。これに連動してポーランド王国(後にリトアニアと合同して一時期ヨーロッパ最強の国家となる。主に穀物を輸出)やチュートン騎士団ポーランド王国に招聘された元十字軍騎士団で、プロイセン地方中心に開拓を進めて木材及び琥珀を輸出)やロシア諸都市(主に黒貂、熊、リスなどの毛皮を輸出)が相応の発展を見せる。ただし「自由ハンザ同盟」には中央機構は存在せず、経済的政治的軍事的同盟として共通の利益を追及する機能に乏しかった事が後の没落の主要因となる。

フランスとの百年戦争に入っていたイングランドエドワード3世(在位1327年~1377年)は、多額の資金を必要としていたが、その伝統的な貸し手であったイタリアの銀行が破産すると(両国とも自国で戦費を賄うことが出来なかったのでフランスはジェノヴァ共和国に、イングランドヴェネツィア共和国にそれぞれ外債を引き受けさせていたという)、ハンザ商人の援助を受けるようになった。ハンザ商人は巨額の援助を与え、その代償として多くの交易特権を獲得する。そしてイングランドは1303年に商人憲章を宣言。これは外国人商人の国内自由往来、小売取引許可、身体・財産の保護などの権利を認め、交易の振興を図り、関税を増収しようとしたものであったが、すでにそうした特権を認められていたドイツ人商人にとってすればせっかく得た利益の価値を半減させかねない内容だった。それでこの憲章をドイツ人商人だけに特権を認めたものにすり替えたらしい。これまでイングランドにおいて法的に優遇されていたドイツ人商人でも基幹商品である羊毛の輸出だけは13世紀末までイタリアやフランドルに勝てないできた。しかし毛織物が基幹商品となった14世紀になるとドイツ人商人の交易シェアが相当に高まる。イングランド羊毛の輸出額のうちハンザ商人が扱った比率は1273年7%、1277年から1278年にかけては12%に過ぎず、その間、イタリア人が首位を占めていた。しかし1303年になるとハンザ商人の羊毛輸出が全体の3分の1に達し、7年後には2分の1となる。また14世紀末、北ドイツ商人の多いボストン港では、輸出毛織物のうち実に76%が彼らの手に握られていた。

14世紀後半に入るとイギリス低地地帯(特に1301年に特許状を受けオランダからの移民が移住したマンチェスター)が次第に次第に羊毛の直輸出だけでなく比較的厚手の旧毛織物を半完成品状態で輸出する様になり毛織物の生産・輸出国へと転じる。それは大陸におけるギルド的規制の及ばない所で農村のヨーマンや都市から農村へ移動した小親方が「農村の織元」として農村工業を勃興させていく過程であった。特に北部・東南部・西部では、あくまで問屋制との複雑なからみの枠組みの中でだがマニュファクチュア的な生産形態も出現してきて著しい発展を見たとされる。

フランドル地方からの移民がこの動きを推進したと考えられている。
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同時期にはデンマーク王国のヴァルデマー4世再興王(在位1340年〜1375年)が王権強化とデンマーク領拡大に邁進。1360年にはスウェーデン南部、1361年にはハンザ同盟都市のヴィスビューを占領した。ヴィスビューはハンザ同盟にとって重要拠点だったのでハンザ同盟都市はデンマークに対して開戦(1362年)。デンマークの積極的膨張策に脅威を抱いていたノルウェー王国スウェーデン王国シュレースヴィヒ公国ホルシュタイン伯国・ドイツ騎士団などもハンザ同盟に味方したが、開戦直後リューベック市長ヨハン・ヴィッテンボルク率いるハンザ都市連合艦隊デンマーク海軍に敗北を喫っしてしまう。1367年、ケルンでデンマークとの戦争を議題に据えたハンザ会議が開催された。これにはハンザ同盟都市だけでなくアムステルダムも代表を派遣しており、他のネーデルランド都市がデンマークに対して抱いた強い危機感が窺える。この会議で、ヴェンド、プロイセン、ネーデルランドの諸都市の間で反デンマークのケルン同盟が締結された。この同盟はハンザ同盟と異なり加盟都市に義務が課されており(同盟当事者ではないがリーフラントの諸都市にも軍事的援助義務が課せられた)これに違反した都市は同盟から追放されることが明記された。各都市は同盟の義務を履行するために市民に税を課した。スウェーデン国王加盟も予定されていた。また、この条約でリューベックがハンザの首長であることが初めて明示された。ケルン同盟によって結束力を固めたハンザ側は1368年、リューベック市長ブルーノ・バーレンドルプを司令官として、海上から国王不在のコペンハーゲンを攻略。さらにオランダ都市の艦隊はデンマーク側に寝返ったノルウェーの首都ベルゲンも襲撃した。当時、北ドイツにいたヴァルデマー4世はハンザ同盟に停戦を呼びかけた。1370年、シュトラールズント条約(Zweiter Hanse-Dänemark-Krieg)締結。停戦会議においてハンザ同盟は1つの交渉団体「諸都市」としてデンマーク代表との交渉にあたった。ハンザ代表は領土要求を行わず、戦前の権利承認と戦費賠償(税金を取り立てるための要塞を15年間保障占領し、その間の税収の2/3を受領する)が認められた。また、義務の履行を確実にするため、次期デンマーク国王の即位にはハンザの承認が必要とされた
*この戦争はハンザ同盟にとってそれまでの権利が国際的に承認されたことを意味しており、ハンザ同盟の歴史研究が最初に本格化した1870年(条約締結から500年後)以降のドイツでは「ドイツ民族の勝利」「民族的栄光の担い手として北方に覇を唱えた」とみなされる事になった。それはドイツ帝国建国によって「ドイツ民族」長年の悲願、ドイツ統一が叶ってナショナリズムが高揚した時期に該当し、その影響で初期のハンザ研究はハンザ同盟を中世におけるドイツ人活躍の歴史として解釈し、ハンザ同盟を国家のように捉え、強力な同盟関係が形成された14世紀以降を主な研究対象とする様になったのである。しかし20世紀初頭から都市同盟が形成される以前のハンザ商人の活躍も注目されるようになっていき、第2次世界大戦後はハンザの主体をドイツ人のみに限定する歴史観が批判される様になり、現在では「ハンザの主体を特定の国家・民族に限定するのは不適切である」とされている。それと同時に、ネーデルラントやスラヴ系住民らの果たした役割も強調されるようになっている。

 
ハプスブルグ帝国がブリュッセルに遷都した1419年以降はイングランドやネーデルランドの商人が北欧へ進出するのを国を挙げて支援し自由ハンザ同盟の独占商圏を大幅に脅かし続けたとされる。

*その一方で15世紀は西のロンドン(イングランド)、東のノヴゴロド(ルーシ=ロシア)、フランドルのブルッヘ(ブリュージュ)、ノルウェーのベルゲンといった「外地ハンザ」を拠点化した自由ハンザ同盟ヨーロッパ大陸内陸部から地中海に及ぶ200もの都市を傘下に収める空前の繁栄を見た時代でもあった。

 

また15世紀に入るとポルトガルマグリブチュニジア以西のアフリカ北岸)と西アフリカ諸国を結ぶサハラ交易(砂金と岩塩を交換)進出を目して「アフリカ十字軍」に乗り出す。「アフリカの金」にアクセス出来る様になって以降、それは十分に採算の合うビジネスという側面を持つ様になり、勧誘するまでもなく参加者が集まる様になった。大航海時代がこうして幕を開ける。
*意外にも当時の交易品の中で最も人気が高かったのは中国の珍しい文物で、その為に歴史のこの時点で既にメキシコのポトシ鉱山の銀の年間産出量のうち 1/3が確実に中国に流れ込み続ける構図が既に出来上がっていた。この図式が年々酷くなっていき、最後には阿片でも密輸入しないと貿易バランスが取れなくなって19世紀に入ってから阿片戦争を引き起こす。
十字軍国家としてのポルトガル王朝 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

そうして開拓された新航路の登場によってヨーロッパ商圏の中心軸がバルト海・地中海から大西洋・北海に推移すると、イタリア諸都市と(シチリア量王国やサルデーニャを領有する)アラゴン海上帝国は衰退を余儀なくされ、この世紀の終わりまでにハンザ同盟もまた実質上ほとんど活動停止に追い込まれる事になってしまった。アメリカ大陸から続々と運び込まれる銀もまた、ヨーロッパ全体の交易規模拡大を加速させる一方でフッガー家の様な南ドイツの鉱山王やイタリアの都市国家アラゴン海上帝国の弱体化に貢献。ヴェネツィアガレー船隊の寄港も1587年を最後に途絶えてしまう。また16世紀に入るとバルト海諸都市の著名なハンザ商人の船がハルや東アングリア地方の港に現われるのもまれになり、東海岸から大型船が消えてしまった。

 

一方、当時の西ヨーロッパでは1500年以後大西洋に新しい海運市場が徐々に成長。イベリアからフランドル、次いでブリュッヘ/ブリージュ、そしてアントウェルペン/アントワープへと北上していった。中でもアントウェルペン/アントワープは急速に北西ヨーロッパのスパイスの主要な流通センターとなったばかりか、フランドルと競合するイングランドの羊毛製品を喜んで扱ってくれた。実際、15世紀から16世紀にかけてイングランドから安値で輸入した未仕上織物の仕上業に特化し、その再輸出貿易で栄えている。1496年にはこのアントウェルペン/アントワープイングランド冒険商人組合の間でマグヌス・インテルクルススという通商条約が結ばれ、その結果16世紀のイングランドの毛織物輸出はアントワープに集中する事になった。1560年代末にはその輸出額の約70%(6.3 万反)が送り込まれた記録も残されている。

 

こうしてロンドンアントワープの基軸が成立した事によってロンドンの地位も相対的に引き揚げられ、その結果16世紀初頭から毛織物の輸出が爆発的に増加。それまでイングランドの羊毛の輸出は5000袋にまで減少していたのに一挙に約3倍にも増えしかも1500年の約49,000反弱から 1550年には約133,000反弱となる。そして1550年までに、ロンドンは毛織物輸出の90%、また1世紀前の2倍の比率を手中に収める事に。ただ16世紀を通じてそのほとんどは未仕上げの広幅織で、それを染色・仕上げをしてヨーロッパ諸国に輸出しするのはアントワープの分担とされていた。イングランドはあくまでアントワープに対して製造や販路の面でまだまだ従属的な関係に置かれていた。

 

一方、当時のイングランドでは、地域によっては地方領主が中世以来の伝統的農耕共同体を破壊してより生産性の高い農村や羊の放牧場に再編する動きを繰り広げていた。所謂囲い込みだが、次第にその運動の主体が伝統的貴族層から地方領主化した富農や富商に置き換えられていって所謂ジェントリ(郷紳)階層が形成される事に。

英国のジェントルマン資本主義 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

1540年、外国人商人の苦情に応えてヘンリー8世がロンドンを出港する船の航海予定をロンバート街に掲示させる事を法律で義務付けている。そこに掲載されているのはフランドル・デンマークボルドー・スペイン・ポルトガルとの間の往復航海で、輸出貨物が毛織物と兎皮に限られている反面(スズや鉛は、主として西部諸港から船積されていた)輸入貨物はフランドルから輸入されるビロード・綿・その他の工業製品、砂糖・ナツメ椰子の実・乾プラム・ハタンキョウ・乾葡萄、そして胡椒、デンマークから穀類・ピッチ・タール・亜麻、さらに帆布・鉄・蝋・鰻・チョウザメボルドーから葡萄酒・大青と実に多彩な内容となっている。当時のイングランドにとって「毛織物」はここまで貿易の生命線だったという事である。また使える航路も比較的限られており、それについての不満が鬱積しつつもあった。
テューダー朝(Tudor dynasty、イングランド王統1485年〜1603年、アイルランド王統1541年〜1603年)時代までのイングランドが「単なる羊毛輸出国(貿易は全て外国商人任せ)」時代とは雲泥の差。
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1597年、エリザベス女王はそれまで大きな特権を手にしていたハンザ商人から特許状を剥奪し、1614年に羊毛の輸出を公式に禁止してステイプル(海外の指定市場。カレーに本部がある羊毛指定市場商人組合が羊毛のすべての価格を定め、その商売に従事している全ての者が守らなければならない厳しいルールを多数作ってきた〕商人の立場を失わせる事でやっと過去の清算を片付けた。1564年の特許状でそれまで各地の港で結成されていた毛織物輸出に携わる冒険商人組合の統一を図ったりとか、1563年頃にヘンリー7世の航海条例を改正して国内交易をイングランド船に限る事としたりといった重商主義政策の一環として行った事だった。
 

そんな状況下、不穏な動きを見せ始めたのが婚姻によりネーデルラントを継承したハプスブルクの分家で新大陸の経営に本格的に乗り出したスペイン王国である。元々羊毛の豊富な生産地帯であったので、それを原料とする国内産業育成政策を推し進めて毛織物工業を急速に勃興させると、たちまちそれを新大陸への輸出の目玉商品に成長させる事に成功した。

 

しかし何よりライバルが多いのが難点で、特に南部ネーデルランドが生産するスペイン羊毛を原料とする薄手の新毛織物はスペイン産毛織物に対する競合力が高かった。そのせいかプロテスタント教徒の多さを警戒してかカール5世の統治時代から既にネーデルラント17州は徐々に経済的自由を失い始めていた。そして異端審問をはじめスペイン国王の使者による暴力と権力の乱用は、迫害されたプロテスタント教徒だけでなく、カトリック教徒との間にさえも緊張感を生み出していく。

フランドル地方(現在のオランダ、ベルギー、ルクセンブルグに当たる地域)が1579年にスペインからの実質的独立を勝ち取ると、この「司祭や王侯貴族による庇護が不要な新天地」へのユダヤ人移動が始まる。翌年の1580年になるとポルトガルがスペインに併合され、それまで寛容だった異端審問所が打って変わって隠れユダヤ人の検挙に力を入れ始めた。これを避ける為にポルトガルの新キリスト教徒やマラノ(改宗ユダヤ人)の多くがアムステルダムに向かう様になり、スペインのマラノもこれに続く。こうしてアムステルダムが最高の繁栄を極めた17世紀には、この都市は「オランダのエルサレム」と呼ばれるまでになった。
*17世紀中旬からはドイツのユダヤ人もこの列に加わって共存する様になったが文化的主流はあくまで医師、法律家、政府役人、聖職者など知識階層に属するセファルダムであり、経済発展に伴い人文主義が花開いたオランダは彼らにとってまさに安住の地だったのである。ユダヤ人は自らの持つ商業的知識やネットワーク故に原則的に歓迎され、東西インド会社に積極敵に投資して自らスリナムキュラソー島、オランダ領ブラジルや北米植民地などに出向いていった。その一方で17世紀後半に入ると様々な異端の宗派や自由な哲学思索や知的生産活動が百花繚乱となったオランダでユダヤ人を拘束するのはむしろ身内の筈のマハマド(地域社会の紀律を厳しく押し付ける事で悪名高かった守旧的なユダヤ自治組織。現地ユダヤ人が目にする出版物やその出版活動まで統制下に置こうとしたが上手くいかなかった)となっていく。破門の憂き目に遭ったのは何もスピノザ(1632年〜1677年)ばかりではなかった。当時のアムステルダムの雰囲気はデイヴィッド・リスの経済小説 「珈琲相場師(2003年)」などに活写されている(日本では支倉凍砂狼と香辛料(2006年〜2011年)」の原案の一つとして知られている名著)。


1529年に宗教改革を受容しルター派やカルバン派の避難場所となってきたハンブルグだが、さらに1590年にポルトガルからマラーノ(改宗ユダヤ人)12家族が貿易に携わる目的で到着。聖職者達から彼らを放逐すべきという意見が出たが、彼らの存在の有用性を認めるハンブルグ議会は彼らの居住を引き続き認めている。17世紀に入るとスペインが貿易の中心地をアムステルダムからハンブルグに移したので、そこにオランダに次ぐセファルディム社会が登場する事となった。
*(17世紀中旬までドイツに在住していたユダヤ人のほとんどがハンブルクへの転居を認められなかった為)。この地にはユダヤ人の宗教改革を受けて1818年に「ハンブルク宮殿」と呼ばれる新たなシナゴーグが建てられた。この神殿はポルトガル式の儀礼に基づいた改訂版の祈祷書を発行したが、その中の祈りの言葉はヘブライ語ではなくドイツ語で記されていた。

 ところで、イギリスではこの時期以降、限られた土地で羊毛と食料のどちらを育てるのかが問題となり続ける。もう既に森林資源が枯渇して木材不足状態で、木炭を燃料とするデイーンの製鉄業どころか一般家庭での生活に窮する様な有様に陥っていたのであった。

 

前者の問題は後に主要産業が毛織物から綿工業に推移した事で自然消失する。何故なら羊毛の増産は常にイギリス国内において食料生産地との競合を起こす危険をはらんでいたが、綿織物の原料である綿花は、広大な土地と大量の黒人奴隷を擁するカリブ海砂糖植民地において安価に無制限に増産可能だったからである。
西インド諸島は、1630年代においてそれまで主要産業だった煙草の暴落を経験して以降、ブラジルを手本にアフリカ奴隷の労働力を用いた砂糖きび栽培の導入に力を注いでいく。その結果、砂糖の値段は16世紀中頃までに1620年代の半値となり、17世紀後半にはさらにその半値となった。一方供給量の方も17世紀後半までに5倍、アメリカ独立戦争後にはさらにその4倍に拡大している。イギリスは、もうこれ以上国内の視線を気にせずに必要なだけ無制限に増産してくれる原料供給地を手に入れる事に成功したのだった。
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むしろ焦眉の急だったのは後者の木材不足の方である。なにしろ造船事業にまで影響が出て国の安全が脅かされ始めたので、1585年に樹木伐採制限令が発令されて切株の面積1平方フィート以上のカシ・ブナ・トネリコを製鉄用燃料として使用する事が禁じられている。また同年、舟運可能河川の14マイル内の船舶木材の保存が義務づけられた。また、木材不足は薪炭不足でもあったので製鉄業・ガラス工業・製塩業・金属工業・醸造業などがそれを求めて奔走した。こうした16世紀中旬の絶望的な木材欠乏状態が代替燃料が求める動きにつながり、そして石炭が「再発見」される。実際には約2200年前のギリシア文献の中に最古の記録があるし、中国では約3000年前、ローマでは約1900年前の記録にそれを用いた形跡が見られる。しかしとにかく、実際に家庭や工業用の燃料として広く一般的に使用され始めたのはこの時期のイギリスが最初だった。歴史上如何なる国でもそこまで追い詰められた事はなかったのである。*後に「燃料革命」と呼ばれる事になったこうした産業史上の動きに最初に見付いたのはシカゴ大学のJ・U・ネーフ教授であった。彼によれば1536年~39年のイギリス石炭生産量が約20万トン/年に過ぎなかったのに対し、1640年にはそれが約150万トンまで増加している。そして、18世紀初めにダービーのコークス炉が登場するまで投入に踏み切れなかった製鉄業(スゥェーデンから木炭を輸入して対応)を除く諸製造業(製塩、ガラス工業、針金製造、硝石・火薬工業、醸造、造船、精糖、石鹸製造、煉瓦製造、明礬工業)が一斉にこれに飛びついたというのである。また、地味だが石炭を上手く利用するための熱装置の改良(家庭用のパン焼き機、工業用の製造過程など)が率先して進められていったのもこの時期だった。

 

その一方でイングランドはは新毛織物と呼ばれる薄手の羊毛製品をフランスやネーデルランドなどから輸入するしかない立場を続けてきたが、宗教改革後スペインとの関係が悪化して輸入が停止したのを契機にジェントリ(在郷地主)層がネーデルランド独立戦争の混乱を避け大陸から逃れてきた新教徒を組織して自国での生産を開始し、その過程で先進的な経営技法やマニュファクチュア的生産形態をさらに洗練させ始める。しかし同時進行でイングランドの毛織物輸出は、16世紀半ばになると減少しはじめ、17世紀前半には最盛期の60%まで落ち込んでしまった。オランダ独立戦争の最中に最大規模の取引先であったアントワープがスペイン軍の略奪と攻撃の対象となり、1585年陥落してしまったからである。

 

とり急ぎ新しい輸出市場を多様化すべくロシア会社、スペイン会社、イーストランド会社、レヴァント会社といった航路開発会社を次々新設すると同時に、南部ネーデルランドから亡命してきた織布工らの協力を得て温暖な南ヨーロッパやレヴァントといった地方に適応したベイ、セイ、サージといった薄手の新毛織物を開発している。こうしたイングランドの新毛織物が17世紀から18世紀にかけてアメリカの植民地に広がっていく。
*日本にも売りに来たが趣味に合わず買わなかった。当時の日本人が喉から手が出るほど欲しかったのは生糸で、その調達を引き受けたオランダが貿易独占に成功。退去を余儀なくされた英国商館の職員は「毛織物!! 毛織物!! 我が祖国は本当に毛織物を売る事しか考えてないのか?」と嘆いたという。売れるものを持ってこないのでは、いくら三浦按針が旗本にまで昇格したって仲介のしようがない。

 

やがてアムステルダムロッテルダムにおいてイギリスから安値で仕入れた半完成品の毛織物に仕上げを施して売るビジネスが復活した(おそらく、スペインから北に追い遣られたプロテスタントの南部ネーデルランド人織工達の発案であろう)。しかし、イギリス毛織物の売り上げが以前の水準に戻る事はなかった(赤字財政を補うために、悪貨が改鋳され、ポンドが下落し、それとともに、毛織物の価格も下落し、輸出が好調であったが、1551年、グレシャムが悪貨を駆逐したことから、ポンド高、価格上昇を生み、毛織物の輸出が減少したがこの減少は幸いにもあくまで一時的なものに留まった)。

 

そこでイギリス商人は、新しい毛織物を開発し(フランドルの亡命者から技術を修得)、ヴェネツィア衰退後の地中海市場などに進出し、毛織物の衰退をカバーしようとした。また、石炭など新しい製造業も生まれて早期工業化が始まり、ジェントリ層も奢侈品等輸入品の国内生産などを目指して行動する様になり雇用が増加している。

その一方、スウェーデンとオランダ(ネーデルラント連邦共和国)にバルト海の貿易を押さえられた17世紀以降のハンザ同盟の凋落は著しかった。三十年戦争にるドイツの国土の疲弊もその終焉に拍車をかけた。

ハンザ同盟の一員であり、バルト海東岸と南岸を支配していたドイツ騎士団は、ヤギェウォ朝ポーランドリトアニア連合にタンネンベルクの戦い(1410年)で敗れて以降、大きく西方に後退。プロイセン地方の新たな支配者となったポーランド王国の元、中小の都市は没落し、ダンツィヒやリガなどの都市が興隆した。この結果、東方のハンザ同盟都市は自己保身に走るようになり、同盟の一体感は失われていった。


◎北ドイツでは、神聖ローマ皇帝勢力が小さくなるにつれ領邦君主が勢力を伸ばした。領邦君主は自領内都市への圧迫をかけ、その結果多くの都市がハンザ同盟から脱退していく。またイングランド商人(イングランド国王やブルゴーニュ公の支援を受けていた)、ネーデルラント商人が北欧へ進出してハンザ同盟の商圏に食い込み、ハンザ同盟の独占体制を脅かした事により同盟の存在意義が揺るがされた。


◎生き残るだけで必死の北ドイツ諸都市にはもはやハンザ同盟の為に義務を履行する余力がなかった。それでリューベックハンブルクブレーメンの3都市にハンザの名で行動することが委任され、この3都市は強固な軍事的な同盟を締結。1648年に三十年戦争参戦国の間で締結されたヴェストファーレン条約の会場にも列席したが、まさにこの条約によってハンザ同盟都市の大半が領邦国家に組み込まれ、ハンザ同盟はその存続が不可能になったのだった。

そして1669年のハンザ会議を最期にハンザ同盟は機能を完全に失い、実質上終焉。

おまけ「絶対主義王政の庇護下で成長したフランス毛織物産業」ブルボン朝フランス(1589年~1792年)の時代、ルイ13性統治期からルイ16世統治期に当たる1615年から1789年にかけて身分制議会である三部会が召集されていない。これは諸侯の権力が低下し、国王の権力が統治に協力する貴族やギルドといったあらゆる特権団体(社団)の権利を代表する様になった絶対王政状態の特徴である。この時代、コルベルチスム統治下フランスにおける特権的経営形態保護政策を背景として毛織物工業が興隆した。なにしろ当時のブルボン朝皇室は圧倒的ファッション・リーダーであり、当時のドイツ諸邦もこの方面ではすっかり魅了され尽くしていたのある。それによる服飾需要の高まりを背景に「(流れのドイツ人を大量に含む)仕立屋階級」という奇妙な急進派集団が成立した。ユグノーとの関係については諸説ある。フランスにおける毛織物産業の興亡と縁深いが、彼らがフランスから追放された時期は欧州繊維業界が毛織物から綿織物に変遷していく過渡期でもあり、その事が評価を難しくしているのである。

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それにつけてもイングランド下積み時代の長さは異常だ…

一説によれば、そもそもイングランドはノルマン・コンクェスト(1066年)に際しての所領分配が滅茶苦茶で、到底一円化によって「(領主が領土と領民を全人格的に代表する)農本主義的伝統」が成立し得る状態になかった。それで「土地提供者(地主)」「土地利用者(事業経営者)」「実際に現地を耕す小作人」の分業体制が発達した事が後の産業的発展につながったというのだが…それにしても間空きすぎじゃね?

ところでポルトガルは17世紀に入ると経済面でイングランドに事実上併合されてしまう。そこまでポルトガルを追い詰めたのは「スペインによるポルトガル併合」あるいは「同君連合時代」と呼ばれた時代(1580年~1640年)の低迷に加え蘭葡戦争(1602年~1661年)による直接打撃のせいだった。

かくしてこの方面における最終勝者となったイングランドだが、それは(「奴隷売買と砂糖栽培がセットになった大西洋三角貿易」といった)ポルトガルが長年の試行錯誤の結果築造してきた「海洋帝国の暗部」の継承者となる事をも意味していたのであった。

そして…

17世紀以降のイギリス東インド会社のインド進出は思わぬ副産物を生み出した。インドが原産地とされ、伝統的にインドの主要輸出品とされてきてヴァスコ・ダ・ガマに始まるヨーロッパ人来航後も不動の位置を保ち続けてきた木綿布の爆発的な扱い量増加がそれである。

 

ルネサンス時代にヨーロッパにもたらされ、既にその軽さ、手触りの柔らかさ、暖かさ、染めやすさなどによって爆発的な人気を呼んでいたインド綿布の中でも特にカリカット港から輸出された綿布は良質で、この積出港の名がなまってキャラコと呼ばれていた。これを扱う貿易によって東インド会社は莫大な巨利を得たが、なんとそれはただでさえ弱っていた母国の財力をさらに奪う形で達成された成果だったのである(彼らは後に阿片密輸に関与した時もイギリス本国で相当の売り上げを上げた事で悪名高い)。

 

コルカタ(Kolkata)/カルカッタ (Calcutta)…現在インドの西ベンガル州の州都。国内ではデリーとムンバイに次ぐ世界屈指のメガシティ。その歴史は、1690年にイギリス東インド会社のジョブ・チャーノックがこの地に商館を開設したことにはじまる。1698年にはフーグリー川東岸に並ぶスターナティー、カーリカタ、ゴーヴィンドプルの三村の徴税権が購入され、まもなくウィリアム要塞の建設が始められた。この地域がのちのコルカタのもととなったのだが、当初町の周りはマラーター濠と呼ばれる広い堀に囲まれていた。

 

この時よりイングランド各地に「国内で輸入品に対抗し得る綿織物を生産したい」という渇望が生まれる事になり綿織物工業が勃興。新しい時代が始まる。

 次回「綿織物を巡る冒険」…

ちなみに同じ時代をフランドル都市とロンドンの興亡史としてまとめてみたのがこれ。

さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…