諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

綿織物をめぐる冒険

17世紀以降のイギリス東インド会社のインド進出は思わぬ副産物を生み出した。インドが原産地とされ、伝統的にインドの主要輸出品とされてきてヴァスコ・ダ・ガマに始まるヨーロッパ人来航後も不動の位置を保ち続けてきた木綿布の爆発的な扱い量増加がそれである。
ルネサンス時代にヨーロッパにもたらされ、既にその軽さ、手触りの柔らかさ、暖かさ、染めやすさなどによって爆発的な人気を呼んでいたインド綿布の中でも特にカリカット港から輸出された綿布は良質で、この積出港の名がなまってキャラコ(calico)と呼ばれていた。これを扱う貿易によって東インド会社は莫大な巨利を得る。それもただでさえ弱っていた母国の財力をさらに奪う形で。

ここからイングランド各地に「国内で輸入品に対抗し得る綿織物を生産したい」という渇望が生まれ、綿織物工業が勃興した。

 

そもそも英国がインドに進出し、茶やキャラコに魅了されたのはポルトガルを経済統合していく過程でポルトガルから英国王チャールズ二世に嫁いだキャサリン王妃が英国王室にインドのボンベイを持参金としてもたらし、茶を伝えたからである。英国交易の主舞台が欧州内から欧州外に推移した17世紀後半の産業革命の当然の帰結。

ところで19世紀末、最初の本格的産業革命論を樹立したA・トインビーは、1760年前後を工業化の開始期とした。当時は、まだ、綿工業が国民経済で大きな比重を占めていないが、それでもそうした理由は、綿工業の技術革新が1760年代から活発となったからである。

*人口・貿易・物価の変化は、1740年代と、1770年代末から1780年頃に顕著であり、2段階で工業化が加速した。工業化の終期は、循環性の恐慌が本格的に現れた時期の1848年とされる。また、生産過程の機械化が、木製から鉄製へ機械化(機械工業の確立は、蒸気ハンマ、旋盤の発明改良で可能)した1850年代を終期とみる見方もある。

  • しばしば「毛織物工業で蓄積された原資が投じられた」とされるが、この時代の初期綿織物工業はまだそれほど大きな設備投資を必要とせず、かつまた毛織物の担い手であったジェントリはあまり乗り気でなく、むしろそれ以外の雑多な職業の人間が借入金を元手に参入していた事を決して忘れてはならない。
    *キャプテン・オブ・インダストリー(Captain of Industory、綿工業を始めた人々)の出身は雑多で、発明家ではアークライトが成功しているが、当時はそもそも工業経営者に対する社会的評価そのものが低かったし、ジェントルマンは決して綿工業に手を出さなかった。初期の綿織物工業の工場は、借地の上に建てられ、木製の機械で製品を簡単に織れたので、巨額の創業資金の必要がなかった。中産的な人々が数人で、パートナーシップを組んで十分に創業可能だったのである。
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  • 一方、石炭の需要が増すにつれて炭坑では掘り進めば掘り進む程吹き出してくる地下水の排水問題で頭を痛めていた。現場では馬力による揚水装置が使われていたが、馬の数を増やしても追いつかずに廃坑となるケースが多かった。1698年にトーマス・セイヴァリが開発した蒸気機関によるポンプが出現したが技術的問題があって実用化までは到ってない。18世紀初頭になるとトーマス・ニューコメンの蒸気圧機関が登場して約100台程現場に投入されたが、これにも経費が高いという問題があった。それをも克服したのが1781年に特許が取られたジェームズ・ワットの蒸気機関であり、しかもそれは単なるポンプではなく複動式動力機関だったので工場の機械の動力としても利用可能だった。
    *これが工場に実際に設置された1785年を特別に「動力革命の年」という事もある。

この二つの流れが合流する事によって英国産業革命はようやくその体裁を整える。

まずは毛織物と綿織物の間をつないだこの織物に目を向ける必要がある。

フランネル(Flannel)

柔らかく軽い毛織物で略してネルともいう。衣類、シーツとナイトウェアに一般的に用いられる。経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に織る平織りや2-3本おきに交互に織られる綾織りがある。無地だけでなく、様々な模様が施される。複数形のflannelsはこれで出来たズボンまたは他の衣料品に相当する。

当初はカーディングが施されたウールまたはウーステッド糸から作られたが、現在ではウールと綿、ウールと合成繊維から作られることもある。イギリスのフランネルは平織りで毛羽が軽く、一方ドイツのそれは綾織りで毛羽が多い。柔軟で弾力性・保温性に優れスーツ、シャツなどに用いられる。

その歴史

フランネルという語の起源ははっきりしないが、これに類似した織物が中世ウェールズまで遡ることが出来る為にウェールズ起源説が提唱されている。16世紀においては既に英国内で広く知られており、17世紀後半にはフランスでも"flanelle"という言葉が用いられる様になった。そしてドイツでも18世紀前半から"Flanell"が使われる様になったのである。

フランネルそのものは17世紀から作り始められ、徐々にウェールズの旧い平織物を置換していった。その一部は綿織物、またはフリースへと発展しウェールズ地方特有の織物製品となった。

③19世紀にはモンゴメリーシアカウンティ(現ポーイス)のニュータウン、ヘイ・オン・ワイ 、スラニドロースといった町で製造されており、その生産規模の拡大はカーディング工場の広がりと密接に関係していた。こうしたウェールズ産の毛織布地は主としてシュローズベリーの服地商人が独占的に扱っていた。

④当初フランネルは純粋な短繊維のウールでできていたが、20世紀に入り絹や綿との混合素材が普通に見られるようになった。

その種類

フラノ(flannelを耳で聞いた発音からの派生語)フランネルの一種で厚手でしっかりとした生地。毛羽が施されておりスーツ、スカート、ズボンなどのアウター用素材として用いられる。一見するとフェルトのような風合いがあり、軽くかつ保温性に優れるので冬に多用される。「フラノブーツ」としてブーツの素材に使われることもある。柄は霜降り、縞模様の織り柄が主に使われるが、無地や織り柄のような模様を後染めすることもある。無地のフラノを指して「色フラノ」と呼んだりする[3]。またフランネルの略称として用いられることもある。

フランネレット(Flannelette、後述のコットン・フランネルと同様に「綿ネル」の訳語が充てられる)…は毛羽だった綿がフランネルの風合いに似た薄くて軽量な平織物である。一般に緯糸は経糸より荒い。フランネルのような風合いは、緯糸を毛羽立たせることで作られる。フランネレットは毛羽が長いもの、短いものの両方あり片側、両側どちらも毛羽立たされる。色は無地または模様がつけられる。この語は1880年代前半から使われ始めたようである。1900年代には、それが下着、ナイトウェア、ドレス、ガウンとシャツのようなものの非常に広範囲に使われ現在でもその意味で使われ続けている。極めて廉価で、何度洗濯しても縮まらず、その経済性故にイギリスでは20世紀前半、主に下級階層に用いられた。しかし、その薄っぺらな生地は非常に火が燃え移りやすく、そのためその流行は多数の焼死者を伴ったのである。1912年以降はウィリアム・ヘンリー・パーキンによって酸化スズを用いた製法で耐炎性を持つよう改良され、"Non-flam"(偽りのない)という名称で特許を取得した。現在はヨーロッパとアメリカ合衆国で生産されている。北アメリカではこれをフランネルと呼んでいて、そこではフランネレットという用語は使われない。しかしイギリス国内ではフランネルの名でフランネレットを売ることは違法とされている。

ウィンシエット(Winceyette)…両面が毛羽立った軽量の綿織物。名前は一般的な英単語で、両面に毛羽のある織物を意味する"wincey"からである。スコットランドの用語ではリンジー・ウールジー(linsey-woolsey)がそれにあたる。

コットン・フランネル(Cotton flannelまたはCanton flannel)…綿ネルとも呼ばれ、片面だけ毛羽立ちされた丈夫な綿の織物である。

フランネル、フランネレット、コットン・フランネルはいずれも綾織り、平織りの両方で織ることができる。織り目は片面あるいは両面が毛羽立っていることから毛羽によってしばしば覆い隠される。織りの後、フランネルは一度毛羽立たされる。その後漂白されて染められるか、適切な処置が施されて、そして二度目の毛羽立ち作業が行われる。

ここで大事なのは毛織物産業と綿織物産業の連続性である。英国産業革命期に 綿織物生産地として知られる事になるランカシャー地方はそれまで毛織物の産地として知られていた。しかしこの地方の海への出口たるリバプールは大西洋三角貿易の一環としてカリブ海とつながりがあり、現地で生産される綿花を安く大量に仕入れる事が出来たのである。そしてこの連携は綿織物生産地たるマンチェスターリバプールが鉄道で結ばれた事によって加速する。

 産業革命雌伏期(1700年~1815年、小学館「日本大百科全書」殿村晋一編)

始まりは1700年に「キャラコ輸入禁止法」が、1720年には「キャラコ使用禁止法」が下院で可決された事だった。*何しろ木綿は手触りが柔らかく、軽くて暖かい。白い布地は染めやすく、プリントも簡単に出来るのが綿布の特徴。吸湿性に優れ下着にも最適で流行しない方がおかしいのである。キャラコの輸入の伸びがどれだけ激しかったかは東インド会社の輸入実績を見れば分かる。1620年頃には胡椒とスパイスは全輸入品の中の75パーセントを占めていたが、それが1670年には41パーセント、1700年には23パーセントになってしまったのである。一方、織物の輸入は1670年に36パーセント、 1700年には55パーセントになっている。

 

一度その味を知ってしまった以上、禁止されても需要は残る。そして輸入が駄目なら自給するしかない。かくして西インド諸島などから原綿を輸入して英国内での綿布生産が始まるが、人気があるので作る先からどんどん売れる。消費に生産が追いつかないので大量生産する為の技術改良が競い合う様に進行する。
*そしてこの時期のイギリスでは既に織物の場合、織元が各工程事に下請けび発注する契約システムが成立しており「紡績」「織布」「染色」「仕上げ」が効率的に進んで経営コストの無駄を最大限省くシステムが完成していた。伝統的ギルドが職場を伝統の実践の場と規定して経営者による経営判断の介入を一切拒絶する大陸型労働環境とはその時点で全く異なっていたのである。ただしそこまでならオランダやスイスだって環境が整っていた。要するに伝統的ギルドによる権威主義的支配が労働者の労働形態を拘束してなければそれでいい。

 

1733年にランカシアの織工ジョン・ケイが飛び杼(どんな幅の物でも一人で織れる)を発明したが、それが生産効率の飛躍的改善の代償として熟練工の大量失業を誘発したせいで残りの一生を貧困の中で襲撃を恐れながら送る羽目に陥った。「適切な計画なしの部分的技術導入」が混乱しか生まないのは今も変わらず、実際それは綿糸不足を引き起こしただけだったのである。さらには当時の機械は技術的欠陥が多くて企業がそれを採用した際のリスクが大きく、これに加えて北部や西部といった新興の工業立地の労賃水準が比較的低かった事から、18世紀中頃まで機械の普及はあくまで緩慢な速度でしか進まない。ちなみにマンチェスターランカシアの都市の一つ。
*フランスでも後に英国産業革命において重要な役割を果たしたばかりかコンピューター誕生に重要な役割を果たしたパンチカード・システムを発明した自動人形技師ジャック・ド・ヴォーカンソン(Jacques de Vaucanson, 1709年~1782年)が同様の目に遭っていた。1745年にBasile Bouchon や Jean Falcon の先駆的成果を発展させて世界初の完全自動織機を開発した際にその「データ入力」手段として採用し、半世紀以上も後になって英国の産業発明家ジョゼフ・マリー・ジャカールがこれに改良を施して繊維産業に革命を起こすのだが、この時には職人達から「オレ達が何を覚えるか指図するなんて何様だぁ?」「オレ達から職を奪うつもりか」と散々罵られ、石を投げつけられたのである
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そこへもって1751年から始まった一連の不作が1756年~1757年に凶作へと発展し、さらに家畜疫病の流行などで食糧供給事情悪化した。人口増加期だった事もあって穀物価格が断続的に上昇したが、こうした傾向も60年代初頭には納まって賃金の上昇が始まる。しかし輸入原料が1730年代と比較して、原綿で2倍以上の値上がりを示し、賃金の上昇とともに1760年代における綿工業のコストに大きく跳ね返ってくる。
*ニーズは確実にあった。インド産キャリコブームで国内市場に潜在需要があるのは確実だったし、西アフリカを始めとする海外市場(1750年~1770年で10倍の激増)も拡大の一途を辿っている。問題はコストだった。この問題さえ解決出来たら濡れ手に粟が掴める事は誰の目から見ても明らかだった。

 

1756年~1763年 ヨーロッパでの七年戦争に連動して北米でフレンチ・インディアン戦争、インドで第二次カーナティック戦争が勃発する。その結果、フランスは海外植民地の大半を失い、イギリスが代わりにそれを獲得。
*英国内のCaptains of Industoryは最も切実に必要とされていたものを得た。顧客、すなわち輸出先。
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ところでランカシアの綿工業では1760年代までに既に織布工の間で飛び杼が普及しており織布の速度が速まっていたが、紡績技術は以前のままだったので両者の不均衡が綿糸不足や綿糸価格高騰という深刻な事態を引き起こしていた。問屋制前貸問屋制が紡績部門で一層拡大され綿糸の増産に取り掛かったが、従来の方法では到底間に合わない。そういう緊張感を背景として1760年代以降に重要な機械の発明が相継ぐ。
*まさしく「必要は発明の母」という状況。

1767年にハーグリーヴスが発明したジェニー紡績機(細糸)は最初、1台につき8錘の紡錘を備え、片手で車を回しながら1人で操作できる簡単な作業機に過ぎなかった。しかしそれ故に紡績工の家内作業場でも使用可能で問屋制家内工業と両立出来る点が魅力的だったのである。

80年代末までに2万台普及した。麻を経糸として手紡車を使って紡ぐ為に麻と綿の交織となるが、これをファスチアン織といった。水力紡績機の発明で経糸も機械化し、経・緯糸ともに綿糸となり、最後には安価なキャリコの自給化に成功する。

 

1769年にランカシアの鬘師アークライトが機械制大工場で使う水力紡績機(太糸)を発明した。最初は動力に水力を用いていたが、後には蒸気力が使用される様になる。アークライトはダービーシャーやマンチェスターにこれを使った紡績工場を設立した。工程をそ綿・練篠・粗紡・精紡などに分化し、その各作業機を動かす動力機が、伝導機などで連結されている。近代的工場の機械体系の原型がここに初めて顕現した訳である。
*それまで経糸としての張力に耐える織糸を紡げずにいた欧州では、代替に麻糸を使用して緯糸に綿糸を用いた交織織物を織っていた(バルヘント織、ランカシア地方の農村家内工業のファスティアン織)。18世紀、蘭・英東インド会社が輸入したキャラコが引き起こした「ファッション革命」が生んだ苦肉の発明品。しかしアークライトが発明した水力紡績機のせいで強靭な経糸の大量生産に成功し、インド産キャラコに対抗できる技術的基盤を確立した。

 

同年 機械の破壊と工場建築物の破壊に関する最初の法律がイギリスで制定される。それはこのような行為を犯罪とし、死刑が科されていた。
*そろそろ「伝統的手工業者による機械導入に対する反対運動」が本格的懸案事項となってきたのである。

 

そしてついに1779年にクロンプトンが考案したミュール(馬とろばのあいの子ラバの英名)紡績機によって紡がれた糸はモスリンなどの高級綿織物生産を可能にし、インド製品の独占を打破するに到った。当初は紡錘数が少なく家内手紡工の作業場に備えられた。
*80年代以降、急速に普及。改良とともに大型化し、水力を動力源にする様になり、工場に設置されるようになった。

 

関連分野の染色・漂白工程でも、様々な改良があり、さらに同年にホイットニーがアメリカで綿繰機を発明した結果、原綿価格が大幅に引き下げられたて西インド綿の代わりに米綿が、英綿工業の主要原料となる。*こうして機械製綿糸が産出量を激増させつつコストダウンを計るにつれて手紡車や小型ジェニーを使用していた手紡工は没落していき、18世紀末までに工場制度の基礎が確立されていく。

 

この間に綿糸が供給不足から供給過剰状態に推移してその値段が大幅に下落していったが、それと同時進行で機械化が遅れている織布業界は「ファスチアン織及び麻織物生産から転じた織布工」「没落した家内紡績工」といった層を囲い込みや農業経営合理化で追い出された過剰人口やアイルランド移民などと一緒に吸収し続けていく。
*とうとう問屋制紡績業を営む問屋商人も、織布業に乗り出さざるを得なくなった。工場制生産が本格化して家内紡績工が没落した事によって彼らを下請けとする問屋制も成り立たなくなってしまったからである。今や紡績工場の経営に転身するか、問屋制での織布業に転換するかであった。そういう状況下において綿糸商人や、紡績工場経営者からも問屋制織布業を兼営する者が現れる。

 

1785年、ワットが蒸気機関のエネルギーをピストン運動から円運動へ転換させることに成功、この蒸気機関の改良によって、様々な機械に蒸気機関が応用されるようになった。
*それまで工場は水力を利用するために川沿いに建設するほかなかったが、ワットが蒸気機関を改良したことによって、川を離れ都市近郊に工場を建設することが可能となった。これにより新興商工業都市は更なる成長を遂げるが、一方で過密による住環境悪化を招く。

 

同年、カークライト牧師が発明した力織機は蒸気力で動いて飛び杼の3倍半の能率を実現し、糸が切れたときにつなぐ人員だけで良いから人件費も半減という優れものだったが、織布業の工場制への移行は、紡績業と違い緩慢にしか進まなかった。
*ただしランカシアー地方で綿織物工業が始まった18世紀初頭段階では、工場制度が導入されたのも、機械化されたのも、動力化されたのもごく一部の地域の限られた分野に過ぎなかった(ランカシアー・ミドランド・南西部スコットランド)。それが一気に広まるのはナポレオン戦争が終わった1815年以降の話で、それまでは工業生産によって直接影響を受けた人々は限られていたし、工業生産物の販路も主に海外だったのである。

 

1802年 綿織物が輸出でも、毛織物を抜き、国民経済の核になる。

 

1804年のトレビシックにより蒸気機関車が発明され、その後蒸気機関車はスチーブンソンによって改良された。

 

1807年 フルトンによって蒸気船が実用化された。

 

1811年~1817年頃 ラッダイト運動(北部の織物工業地帯で、産業革命にともなう機械使用の普及により、失業のおそれを感じた手工業者・労働者が行った機械破壊運動)
*最初は衝動にまかせた望みのない破壊に終始したが、1818年のランカシャーではより高い賃金のためだけでなく工場法と婦人少年労働の規制のために戦い、1819年のマンチェスターでは普通選挙権と社会政策を求める政治行為となって単なる「産業革命に対する反革命」では終わらなかった。

 ナポレオン戦争の終焉は欧州の大半の地域において陰鬱な復古王政期の始まりを意味した。しかし既に労働環境が守旧派ギルドに牛耳られてない英国、スイス、オランダ、米国といった国々では新しい変革が始まっていたのである。チョコレート、チェダーチーズ (Cheddar) 、マカロニ&チーズ(macaroni & cheese)、エメンタールチーズ(Emmental cheese)、グリュイエールチーズ(Gruyère)、チーズフォンデュ(英語 cheese fondue, 仏語 フォンデュ・オ・フロマージュ fondue au fromage)、ラクレット(フランス語:raclette)、ゴーダチーズ(Gouda)、エダムチーズ(Edam)、そしてプロセスチーズ(processed cheese)に腕時計と鉄道…

そしていよいよ労働力確保の為に「カロリー革命」が遂行される時期が到来。

産業革命バックドラフト期(1815年~現代、小学館「日本大百科全書」殿村晋一編)

1820年代 ロバーツの自動ミュール紡績機導入。これで紡績技術革新は一段落を迎える。*1820年に、約25万人といわれた手織工は40年代の初め10万人、50年代半ばに5万人と急速に減少していき、それに代わって1820年~1850年には力織機が普及していった(18132400台、182014150台、182955500台、183385000台、1850224000台)。紡績工場の設立から数十年遅れて織布業においても19世紀半ばには工場制度が確立される。

 

1830年 リヴァプールとの間に鉄道が開通し、マンチェスターで生産された綿織物がリヴァプール経由で世界中に輸出される様になった。それまで英国第4位のランカスター港も、川からの沈泥で港が埋まり始めるまで綿織物輸出によって栄えた

 

1841年 力織機が広く普及していく上で障害となっていた技術的欠点がやっと解決。しかし手織機は、改良織機(ダンデイ織機)や、工程の分離自立化(織布工から、整経と糊づけ作業が分離自立)といった織布工程の能率向上によって力織機との競争力を保持し続けた。*実際には力織機は改良を重ねるうちに1810年代から急速に普及し始めており、それに合わせて手織工の工賃を急激に下落させていく。例えばキャラコ生産の場合を見ると反当たり工賃が1815年から1841年間までの間に3分の1となっており、この状況こそが手織工をしてラダイツ運動に走らせ、機械を打ち壊しながら工賃引き下げと力織機普及に反対させたのだった。

 

1785年時点におけるイギリスの原綿輸入額は1500万ポンド、綿布生産量は400万ヤードであったが、1850年にはそれは5億8800万ポンドと202500万ヤードに増大。イギリス輸出総額に占める割合も1815年段階で40%(毛織物 18%)だったものが1850年段階では50%となった。*その間、毛織物は市場が国内が鈍化傾向、海外が飽和状態となり、機械化も、羊毛の機械への不適応という技術的要因があって遅延。1858年になっても毛織物工業の工場労働者数は、毛織物工業全体の半数を占めるのみであった。*経済構造の変化(1688年と1851年の従事者数比較)に目を向けると農業が40%から20.3%へ。工・鉱業・建築業が12%から34.3%へと、農業から工業へのシフトが顕著。1700年頃にはイギリス人の4人に3人が農村に住んでいたが1851年になると農村人口と都市人口がほぼ等しくなり、都市への人口集中が進んだ事がわかる。

 

1861年~1865年 アメリカ南北戦争 この時の「綿花飢饉」以後は、植民地インドや、エジプト(イギリスに従属)からも綿花が供給される様になった。*近代工業発展が米南部の黒人奴隷・インド、エジプトの隷農小作制・英の低賃金労働に支えた事実は動かない。ただ19世紀後半になると植民地インドでも民族資本で綿紡績工場が設立される様になる。

 

1882年~1884年 ランカシアの綿織物がこの時期、世界市場の82%を占めた(インドの綿工業は壊滅的打撃、ランカシアの最大輸出市場になる)。

 

イギリス綿織物は、機械製を武器に、生産高の5060%(19世紀前半)、7080%(19世紀後半)が輸出に回されていた。

 

1894年 マンチェスター運河の完成によってマージー川河畔にあるイーストハムともむすばれ、外洋航行船が出入りできるようになった。

 

19世紀末 日本で綿工業の再編・近代化が始まり、20世紀に入ると東アジア市場をめぐる列強綿業資本の激しい競争が展開される。イザベラ・バード朝鮮紀行(Korea and Her Neighbours、1894年~1897年)」に彼女が1895朝鮮半島を訪れた際に目撃した「日本商人が朝鮮人好みの寸法で揃えた麻布でイギリス人と清国商人を圧倒し(綿花栽培に欠かせない)魚肥を買って帰る」景色が描かれている(朝鮮半島には布を特定サイズに切り分けて補助貨幣として用いる伝統があり、日本人商人はその辺りの事情に通暁して行ったのだった)。ただし日本の綿花栽培産業は(インドのタタ財閥と申し合わせた)日本郵船による日印航路開設(1893年)による安価なインド綿花の大量流入によって壊滅。それによって生じた余剰労働力は全て養蚕と絹織物に振り向けられ、大日本帝國が「絹業界世界一」を達成する原動力となったのだった。代償を伴わなかった近代化など、当時世界中どこを探しても見当たらない状況だったのである。

 

北インドのタタ財閥ペルシャ系(より正確には 10世紀にイランからインドに移住したゾロアスター教徒の末裔たるパールシー系)のジャムシェトジー・タタ(1839年~1904年)が1868年にボンベイ(ムンバイ)で設立した綿貿易会社を起源とする。1870年代には綿紡績工場を建てインド有数の民族資本家となり、大きな製鉄所、世界的な教育機関、大ホテル、水力発電所などをインドに建設することを夢見たが、そのうち生前に実現したのは1903年に建てられたタージマハル・ホテルのみであった。ただし彼の構想はその後継者達の手によりタタ・スチール、インド理科大学院、タージ・ホテルズ・リゾーツ&パレス、タタ・パワーとして結実する事になる。その成長の原動力はカースト制を無視した実力主義と、汚職が日常的なインドにあっては異色の厳しい企業倫理の徹底であり、だからこそ日本企業など海外の企業がインドに進出する際に率先して提携先に選ばれてきた。ちなみにインドでは「富」とカースト制の相性が極めて悪い。それで国内資産の三割を人口比率的にはわずか数%のジャイナ教徒が握っていたりする。

 

1897年、日本で豊田佐吉が発明した自動織機が稼働を開始。

 

1913年、イギリスは約30億平方ヤードを輸出し過去最高を記録するも、第一次大戦中は供給が中断、各国は、綿織物の自給率を高めた(綿織物の国際貿易は大幅に縮小)。日本が、中国・東南アジア市場に進出すると入れ替わって市場から後退し、最大市場インドも第二次大戦直前に完全に失ってしまう*インドでのボイコット運動と、保護関税の引き上げは、ランカシアを廃虚としてまった。こうして一つの時代が終わりを告げた訳である。

また最後に日本出てきた…どうやら英国と日本は宿命的対立関係にある様で、現在も米国消費者市場を舞台にロンドンDJとボーカロイドPが、SuperWholockの2/3を抑えるドラマ勢とアニメ漫画勢が死闘を繰り広げているのであった。

ここで興味深いのは「経営学=後発地域がゼロから産業革命を始めるノウハウ」が英国でなくフランスのサン=シモンやオーギュスト・コントなどの社会思想から出発して「馬上のサン=シモン」ルイ・ボナパルト大統領/皇帝ナポレオン三世の時代に一応の体裁が整い、プロイセンやアメリカや日本に伝播していったという事である。(領主が領民と領土を全人格的に代表する)農本主義的伝統の影響下になかった英国やスイスやアメリカでは比較的スムーズに産業革命が始まったが(ベルギーから独立を宣言されたオランダ王国の立ち位置は微妙)これらの国は逆に一様に「教えるのが下手」あるいは「教えたがらない派」だった。

ただし工業化と人道主義のバランスを取ろうとしたのはフランスだけではない。

工場法

19世紀イギリスで制定された一連の労働者保護のための立法。

イギリスの産業革命の進展に伴う労働問題が深刻化する中、ようやく労働者保護立法が行われるようになった。その最初(と言うことは世界最初)が1802年の工場法(徒弟法)であるが、その内容は不十分なものだった。

1819年にオーウェンの努力で紡績工場法(木綿工場法)ができ、9歳以下の労働の禁止と16歳以下の少年工の労働時間を12時間に制限された。しかし、監督官制度が無かったために実効力はなかった。

一般工場法

イギリスでの労働者の保護立法は、1802年の工場法以後、たびたび制定されたが、それらは特定の業種に限られていたり、規定はあってもそれを監視する機関についての規定がなく、折角の保護法も守られない実態が続いていた。そのような状況の中で、労働者の要求も高まり、またシャフツベリーなど工場主の立場からも普遍的、実効的な労働者保護立法の必要を主張する人々の運動もあって、ホイッグ党のグレイ内閣の1833年に、一般的な(どのような工場にも当てはまる)工場法の制定が実現した。これは、選挙法改正(第1回)(1832年)、奴隷制度廃止などの自由主義的改革の一環であった。

1833年の「一般工場法」では12時間労働、9歳未満の労働禁止、13歳未満の児童労働は週48時間、一日最高9時間労働、18歳未満の夜業禁止、工場監督官・工場医の設置などが定められた。

ロバート=オーウェン( Robert Owen 1771〜1858年)

イギリスの初期社会主義者。マンチェスターで工場経営に成功し、労働者ほぼ立法の制定や、協同組合運動を指導。

ウェールズの手工業者の家に生まれ、商店に店員として奉公しながら各地を転々とした。産業革命が進行していたマンチェスターで紡績工場の経営に加わり、さまざまな技術改良を加えながら生産量を増やし富を得た。しかし若いころから労働者の状態には心を痛めていたので、資本家と労働者が共同で経営する理想的な工場をつくろうと考え、1800年にスコットランドのニューラナークに紡績工場をつくり、そこでも経営に成功して綿業王とも言われた。


紡績会社の経営に成功する一方、労働者の貧困という現実を見て、その救済を目指した。はじめは資本家の努力による社会改良が可能と考え、自らもニューラナークの紡績工場で法律と教育によって労働者の環境を改善できるという考えていたが、1813年頃から社会主義的改革に転じ、労働運動や協同組合運動を指導するようになった。1819年には紡績工場法(木綿工場法)の制定に尽力し、9歳以下の労働の禁止と16歳以下の少年工の労働時間を12時間に制限を実現させた。

1825年にはアメリカに渡ってニューハーモニー村という共産制社会の実験を行ったが失敗した。その思想は社会主義であるが、その資本家の善意に期待して社会改良を行おうという姿勢は、マルクスなどから空想的社会主義と批判された。

 ここで、こういう形でロバート=オーウェンの名前が登場してくるのか…

そして、こうした人物の名前をローレンツ・フォン・シュタイン著「今日のフランスにおける社会主義共産主義(Der Sozialismus und Kommunismus des heutigen Frankreich, Leipzig 1842, 2. Aufl. 1847年)」から仕入れてきてまとめてこき下ろし「こんな馬鹿達と違って、オレ達なら本当の資本主義の倒し方知ってるし」と公言して時の人となったのがマルクスエンゲルスだったという次第…

 

 さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…