諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

神殿宗教の興亡と啓典の民の誕生

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中世イスラム世界を代表する歴史哲学者イブン・ハルドゥーン(1332年~1406年)のアサビーヤ(عصبية 'aabīyah)論

「田舎や砂漠(بدو badw、バトウ)」の集団は質実剛健で団結力が強く「都市(حضر aar、ハダル)」の住人を服属させて王朝を建てる。だが代替わりが重なると、建国の祖たちが持っていた質素で武勇を尊ぶ気風が失われ、奢侈や富裕生活への耽溺により王族同士の団結力が弱まり、かつて服属させた都市の住人のようになる。そうして支配力が低下するうちに、田舎や砂漠から来た別の集団につけ込まれ、実権を奪われたり王朝が滅ぼされてしまう。かくしてその集団によって新たな王朝が誕生するが同じ道をたどり、また次の連帯意識を持った集団に取って代わられていく。

奴隷制灌漑農業に立脚した古代メソポタミア都市国家群でも、この切ない循環史観は繰り返された。どうして続くかというと、どんなに支配者が入れ替わっても入手した都市を存続させる為に農業暦を握る神殿がどうしても否定出来ないからである。

  • 例えばタンムーズ/ドゥムジ(アラビア語:تمّوز Tammūz; ヘブライ語 תַּמּוּז, 現代ヘブライ語 Tammuz, ティベリア式ヘブライ語 Tammûz; アッカド語 Duʾzu, Dūzu)という牧羊神がいる。シュメール神話における(Inanna)、アッカド神話における(ishtar)の夫とされ、どちらの神話でも彼女を冥界から取り戻す為に生贄に捧げられるのだが宗教儀礼上その服喪期間が夏至に該当する6日間に割り当てられてる為、原則として異教の神々に不寛容なユダヤ教すらこれを否定出来ず現代イスラエル暦にまでその名前を残しているのである。
    旧約聖書で預言者エレミアもこれを嘆いている。

  • ちなみにタンムーズ/ドゥムジ信仰はシリア経由ではアドニス(古希: δωνις, ラテン文字表記:Adōnis)信仰となり、ギリシャ神話にまで影響を与えた。アテナイ近郊の都市エレウシス(古代ギリシア語: λευσίς / Eleusis)に伝わるデメテル古希: ΔΗΜΗΤΗΡ, Δημήτηρ, Dēmētēr)の秘密祭儀ではその娘ペルセポネー(古希: ΠΕΡΣΕΦΟΝΗ, Περσεφόνη, Persephonē)に与えられた役割だが、やがて両者が混合して「冥界の女王ペルセポネーは人間界で最も美しい男アドニスを深く愛する様になり、ゼウス公認で一年の3分の1の間、彼を恋人として堂々とそばにおいている」という神話が生まれる事になる。

  • 要するに「(マルクスのいう)上部構造」はどんな形態でも取り得るが多くは似通っており、容易く混じり合う。その一方で農業暦に由来する「下部構造」は生産手段と密接に結びついているが故に決して揺らがず、その存続を担保し続ける。*例えば近世フランスの王侯貴族の庭園には「愛の神」キューピットの彫像が置かれるのが常だったが、これも北アフリカ出身の弁論作家アプレイウス(Lucius Apuleius, 123年頃~?)が残した「変容または黄金のロバ(Metamorphoses/The Golden Ass)」に収録された「プシューケー(古希: Ψυχή, Psȳchē)とクピド(Cupido)/アモール(Amor)」と伝統的に庭園で行われてきたアドニス信仰の密儀が混じり合った結果とされているのである。ただしさらに広まる過程で「下部構造」は農業暦と引き剥がされ、忘れ去られていく。 

こうした地盤を背景として神殿宗教は都市の支配者がどんなに入れ替わっても悠然んと存続を果たし続ける。

  1. 水と知恵の神エンキ(Enki)を守護神としたエリドゥ(Eridu、紀元前4,900年頃~紀元前2050年頃)からイナンナを守護神とするウルク/ウルク(シュメール語Unug/アッカド語Uruk、紀元前5千年紀~紀元前2千年紀中盤)を中心にシュメール文化が栄えた初期王朝時代(紀元前2900年~紀元前2350年)へ。*イナンナがエリドゥを誘惑して「文明の恵み(メー)」を盗み出してウルクにもたらしたとする神話が存在する。女泥棒の元祖? そういえば冥界神オシリスの配偶神イシスも太陽神ラーを誘惑して「天体の秘法」を盗み出す。

  2. アガデ/アッカド(Agade/Akkad)王サルゴン(Sargon、在位紀元前2334年頃 - 紀元前2279年頃)がシュメール地方とアッカド地方からなるメソポタミア統一を果たしたアッカド帝国期(紀元前2350年-紀元前2113年)を経てアムル人/マルトゥ/アムル(英: Amorite、シュメール語mar.tu、アッカド語アムルAmurrū)やグティ人/クルドゥ(Guti、Kurds)といった異民族王時代に。*これを契機として併合された側のシュメールに「地母神イシュタルから地上の支配者として選ばれる事を拒絶した英雄王ギルガメッシュ」の伝承が生まれる。「地母神に選ばれる事は悲壮な生涯と最後を約束される事だから」というのがギルガメッシュが断った理由とされる。

  3. チグリス川とユーフラテス川の上流域を中心にバビロニアと隣接するアッシリア(Assyria)が最初の繁栄期(紀元前1950年頃~紀元前15世紀頃)を迎える(古アッシリア時代)。
    *何故か自らの主神アッシュールでなくバビロニアの主神マルドゥクを「王位継承を担保する神」に選んだ。自らの衰退する神を異民族に強要する勇気が持てなかったらしい。

  4. バビロニア王朝(Babylonia、紀元前1894年~紀元前1595年)が勃興するも紀元前1460年頃にカッシート人(Kassitesの襲撃を受け、紀元前1150年頃にエラム人(Elam、紀元前3200年頃~紀元前539年)が奪還するまで占拠が続く。
    *この前後の「奪われたマルドゥク像の奪還」潭が旧約聖書における聖櫃(アーク)を巡る記述の元ネタとも。

  5. シリアでは交易都市のウガリットウガリット語ugrt、英Ugarit、紀元前1450年頃~紀元前1200年頃)やカデシュ(Qadesh、Kadesh、?~紀元前12世紀)が焼き払われ、アフリカでは古代エジプト王朝(紀元前3000年頃~紀元前332年)が衰退期に入り、アナトリア半島ヒッタイト帝国(Hittites、紀元前15世紀頃~紀元前13世紀頃)が崩壊し(後にシロ・ヒッタイト諸国(Syro-Hittite states、紀元前1180年~紀元前700年頃)としてシリアで復興)、エーゲ海ではミケーネ/ミュケナイ文明(紀元前1450年頃~紀元前1200年頃)が滅んだ紀元前1200年のカタストロフ。アッシリアが生き延びた様に(中アッシリア時代、紀元前14世紀初頭~紀元前10世紀末頃)この苦難の時痔を生き延び、ヘレニズム(Hellenism、紀元前336年~紀元前30年)まで登場するが(後にアナトリア半島ヘラクレス伝承に併合される)ネルガル神話(Nergal、「冥界の女王エレシュキガルの配偶者」を主神に迎えたタンムーズ/ドゥムジ信仰のバリエーション。メソポタミア都市国家衰退を背景として在野や他の神殿を間借りする形で栄えた)に登場する「ウルクの守護神イシュタル」や「バビロニアの守護神マルドゥク」は流石に尾羽打ち枯らした姿で描写される。
    ギリシャ神話、特にヘシオドス「神統記(Theogony、紀元前7世紀)」はウガリット神話ヒッタイト神話の影響が色濃い。アドニス信仰も同時期伝わってるし、おそらくシリアかアナトリア半島経由なのだろう。自然と「王様の耳はロバの耳」「マイダス王の黄金の手」などの逸話で有名なフリギア人の名前が挙がる。古代ローマではフリギア帽といったら「解放奴隷の象徴」で、フランス革命に際しても「自由の象徴」として大流行した。「自由の女神」が被ってるのもこれ。

中興の祖となったのが紀元前12世紀から紀元前8世紀にかけての地中海交易の覇者、ギリシャ人に東地中海の覇権を奪われて以降もポエニ戦争(羅: Bella Punica、紀元前264年~紀元前146年)で滅ぼされるまで西地中海の覇者ではあり続けたフェニキア人であった。

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例えばフェニキア商人(紀元前12世紀から紀元前8世紀にかけてが全盛期)が地中海沿岸じゅうに広めた「バール(男神)/バーラト(女神)一対信仰」が挙げられる。在地有力者との政略結婚によって次々と交易拠点を確保していった彼らは、そこに必ず神官集団を送り込んで現地信仰をこのフォーマットに再編して宗教儀礼的に併合してきた(ヘブライ人達のヤハウェ信仰さえも配偶神アシェラ(Aserah)を加える事で併呑しよう試みた結果、全ての顛末が旧約聖書に書き記されてこの手口が今日に伝わる事になった)。その結果、インド南岸のドラヴィタ/タミル商人の「黒い破壊の女神(後のカーリー(Kali)の原型)」信仰の影響が地中海沿岸に広まったり、アフロディテ信仰(航海の安全を守る女神と伝統的農村共同体の地母神信仰の習合)やイシス信仰(冥界神オシリスが司る「冥福を祈る秘術」と太陽神ラーが司る「天体運行を制御する秘術」の習合)などの基礎が築かれたと推測されている。

だがティグラト・ピレセル3世 (Tiglath Pileser III、在位紀元前744年~紀元前727年)以降の新アッシリア時代(紀元前934年~紀元前609年)はえげつなさが違う。彼らはティルス/テュロス(Tyrus/Tyros)やビブロス(Byblos)といったフェニキア人の本拠地を包囲してレバノン杉に立脚する造船業そのものにダメージを与える道を選んだのだった。その一方で反抗的な都市国家については、その神殿を破壊した上で全住民を遠隔地に分散して強制移民させる一方で誰もいなくなった現地に別民族を送り込むのだった。この民族抹殺技術は新バビロニア帝国(紀元前625年~紀元前539年)にも継承され、エラム諸都市同様にヘブライ人もバビロン捕囚(紀元前587/586年~紀元前537年)もこの政策の餌食とされてしまう。

  1. しかしヘブライ人はこの時、画期的な方法論を思いつく。「モーセ五書」とも呼ばれる律法(Torah)を編纂し、これをエルサレムの町や神殿に代わる信仰の拠り所とする様になったのである。とはいえこの時点でそれが完全に達成された訳ではなく、ユダヤ属州住人として帝政ローマを敵に回した第一次ユダヤ戦争(66年~74年)と第二次ユダヤ戦争(132年~135年)で再びエルサレム失陥と神殿破壊の屈辱を経験する(エルサレムペリシテ人にちなんでパレスティナへと改名されたのもこの時)。
    *だがこの時途方に暮れたのは最後まで神殿を離れられなかった神官達と一部強硬派(ユダヤ教の神殿祭儀とユダヤ王朝に価値を見出してきたサドカイ派)だけだった。

  2. 大半の信徒は二つのグループに分かれた。最初のグループはどちらかというと少数精鋭派で、在野におけるシナゴーグ活動を中心に展開してきたファリサイ派のラビ達を新たな精神的指導者に選んだ。彼らは第一次ユダヤ戦争に敗戦して神殿も破壊されたのを受けてエルサレム南西部のヤブネ/ヤムニア(Yibnah)に集まり、これからはトーラーに加えて「タルムード(Talmud、口伝律法)」も信仰上の拠り所としていく事、ただし以降はヘブライ語で執筆された聖典のみしか認めない方針を固める。
    *今日我々が知る意味でのユダヤ教徒が誕生した瞬間であった。

  3. 一方、離散ユダヤ人(ヘレニズム・ユダヤ人)の多くが既にギリシャ語しか解さなくなっている問題が、既に(アレキサンドリアギリシア語七十人訳聖書が編纂された)プトレマイオス朝(紀元前306年~紀元前30年)の頃から問題となっていた。そして切り捨てられた彼らは、他の外国人同様に「ナザレのイエスが選んだ12使徒と(ヘレニズム・ユダヤ人や外国人に実践が易しい方向に律法を緩めてくれた)義人パウロ」を精神的指導者に選ぶ。
    *今日我々が知る意味でのキリスト教徒が誕生した瞬間であった。

  4. キリスト教徒はローマ帝国領内では最初からユダヤ教徒より数が多く、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世(Gaius Flavius Valerius Constantinus、在位306年~337年)の改宗とミラノ勅令ラテン語Edictum Mediolanense、313年。西方正帝時代に東方正帝リキニウスと連名で発布したとされるが、偽勅説あり)と第1ニカイア公会議(325年)の開催、「最後のローマ皇帝」テオドシウス1世(Flavius Theodosius、在位379年~395年)による東西ローマ帝国でのキリスト教国教化(392年)を経て圧倒的多数派へと変貌する。
    *ここからキリスト教徒の「宗教的不寛容」の歴史が始まる。

  5. とはいえユダヤ教徒は(バビロン捕囚から解放してくれたのがアケメネス朝ペルシャであった様に)ササン朝ペルシャの宗教寛容主義に救われ、この地ではキリスト教徒に対する比較的多数の立場を勝ち取る事に成功する。6世紀にはエルサレムバビロニアの双方でタルムードの文献化作業が完了したが、バビロニアのそれが公式と認められたのはその為。また7世紀に成立したイスラム教がキリスト教でなくユダヤ教を母体に選んだのもおそらくこの為であった。
    *8世紀に入るとタルムードの聖典性を認めないカライ派(Karaite Judaism,、Karaism、現代ヘブライ語Qəra
    ʾim、ティベリア・ヘブライ語 Qərāʾîm)が台頭。これはアッバース革命(750年)後にイスラム帝国の国教と定められたムータズィラ神学(ヘレニズム文化の影響が色濃く、クルアーンすら「アッラーの創り出したもう被造物」である事を認めない懐疑主義で知られ、凋落後はシーア派神学に吸収されて消滅)の影響を受けて派生した宗派で、両者の間では長期にわたって激論が交わされ続ける事になる。

最終的に神殿宗教が滅んだのは東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世(Justinianus I、在位527年~565年)の時代とされる。領民全てのキリスト教化を目論んだこの皇帝は、529年にアテネアカデメイアを国家管理下に置いてヘレニズム哲学者達をササン朝ペルシャへと亡命させ、数多くのマニ教徒を処刑し、リビア砂漠のアウギリアにあったアメン神殿やナイル川第一瀑布のフィラエ島にあったイシス神殿を破壊したのだった。あるいは聖ボニファティウス(Bonifatius、672年頃~754年)が723年に「トールへ捧げられた聖なるオーク」を切り倒させたのも「崇拝対象さえ排除してし合えば、途方に暮れてキリスト教徒に改宗するしかなくなる」という神殿宗教対策への類推からだったのかもしれない。しかし部族法に忠実に生きるゲルマン人の発想は全く異なっており、逆に聖ボニファティウスの方が「部族法に基づく正当な復讐」によって八つ裂きにされてしまう。それではどうすべきだったのだろうか。

帝政ローマ時代の記録を見るとゲルマン人は(族長連合を主導する部族王達に崇拝されていた)至高神テュールをギリシャ神話におけるゼウスと同一視し、フェニキア商人が広めた「バーラト(女主人)/バール(男主人)」信仰に基づいてフレイアとフレイを配偶神としてそれぞれの神殿に祀っていたという(戦士や商人の庇護者たる放浪神オーディーンや、農民の庇護者たる雷神ソーの地位は当時はまだまだ低かったが、三位一体像の一柱に選ばれる事もあった)。その一方で同時代のガリア人はローマ神話の神々にガリアの大地の女神達を娶せている(商業神メルクリスには女神ロスメルタを、戦争神マルスには女神メネドナを、文芸神アポロンには女神シローナを、といった具合に)。彼らは大地の主権者たる地母神に夫として選ばれる伝統的手続きを踏む形でしか、ローマの神々の正当性を受容出来なかった。しかしそれ以降は急速にローマ化していく事になる。かくしてガリア属州からは4世紀までにガリア文化もガリア語も消え去る事に。

正解のない迷路にようこそ?

ある意味、古代ギリシャローマ文明よりはるか上流の展開…