諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

江戸幕藩体制の功罪

領民を食べさせるのが領主の責務」という戦国時代に養われた常識が江戸幕府に「米価の低価格安定」を望ませ、インフレ進行と合わせて武家の生活にダブルパンチ?

まぁ、こういう話については色々な考え方があって当然。 

 私は案外「江戸幕藩体制、ナイス判断」派なんですけどね。その実態が正解の分からないままの暗中模索に過ぎなかったとしても。

どう考えるにせよ現代に与えた影響は同じ?

江戸幕府というのはデフレの維持を目的にした経済システムである。幕府も諸藩もともに緊縮財政の結果、経済が疲弊し、米価の低迷はさらに財政状況を悪化させ、経済全体を停滞させてしまった。

なぜ幕府はデフレを選んだのか? それは緩やかなインフレになってしまうと経済が活性化してしまい、特に農村部から(より経済的利益を生みやすい)都市への人口流出を生んでしまう。農村部は米の生産、つまりは幕府や諸藩の収入の基礎である。そこから農業生産者が流出してしまうことは、当時の幕府・諸藩には認めることができない事態だった。そのためそのような人口流出(米の生産減)を抑制するために一貫したデフレ政策がとられた。たまに江戸時代の中で貨幣改鋳などでマネーの量を増やし、経済を低インフレの形で活性化する政策がとられても、すぐに当時の財務省官僚的な連中が「緊縮!」と叫んで、たちまち経済はデフレに戻り、停滞してしまう。停滞すれば幕府は安泰と考えてしまっていたのだ。

だが実際にはデフレを続けることで、幕府や諸藩の財政状況はさらに悪化してしまい、それが江戸幕府の終焉を招いてしまった。

 実はこれ自体は欧州絶対王政も採用した考え方。国王が国民から余剰資金を吸い上げて戦争や贅沢によってパーっと浪費してしまうのは、インフレによる伝統的共同体の崩壊進行を防ぐ重要な予防策と見做されていたのである。まさしく経済人類学者カール・ポランニーがエスキモーやインディアンのポトラッチ行為などに見出した「社会に埋め込まれた経済機能」そのもの。しかも皮肉にも太平洋戦争が始まり、戦争特需によるインフレ進行が経済を脅かした時、米国政府も「国民の懐に溜まった余剰資金を、戦時国債を大量に買わせる」事でそれを落ち着かせる事に成功している。まさしく「父親たちの星条旗(Flags of Our Fathers、2006年)」や「キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー(Captain America: The First Avenger、2011年)」で描かれた世界。本当か嘘か知らないけれど、当時FBIのフーバー長官(John Edgar Hoover)からプロモーションを依頼されたウォルト・ディズニーは「例え真意は別のところにあるにせよ、国民には愛国心が鼓舞されていると思わせてくれ。君にはそれが出来るし、国民もそれで納得する筈だ」と言われたそうな。

マーク エリオット(Marc Eliot)著「闇の王子ディズニー(1994年)」

時代はまさに「世界史上最大規模の奴隷貿易(16世紀から18世紀にかけての約3世紀だけで大西洋を渡ったアフリカ原住民数が1,500万人以上)」と悪名高き大西洋三角貿易の最盛期。まさに身分制社会の矛盾が頂点に達した時期に該当する。

現在まさにこれに直面してる国もある。要するに統治対象が統治者にとって不可視の存在のまま適当な行政を繰り返せば、どんな酷い事だって起こり得るという事…

だがそうした歴史意識が日本で育まれる事はなかった…

この幕府のデフレ政策は、のちに日本のマルクス主義者たちに引き継がれていった。戦前日本のマルクス主義の代表者である河上肇(1879-1946)は、江戸時代のデフレ政策を高く評価していた。マネーだけ増やしても経済では贅沢だけが増えてしまい、むしろ経済格差が深刻化してしまうだろう。しかも農村から都市へ人口が流出してしまうと、農村が人口の供給源なので人口減少を招き、人口減少は経済や社会の停滞をもたらす。農村の人口減を阻止するデフレが望ましいのだと考えた江戸時代の官僚たちの発想は、河上にとっても重要なものだった。むしろ農業部門で働く人たちを増やし、日本経済を導くリーディング産業として農業を再生することが、日本の経済発展の基礎である、と河上は信じていた。

ところが河上はのちに米騒動(1918(大正7)年)を契機にして、農業部門の生産性の限界(米の構造的不足)を認識するようになり、もはやいまの資本主義経済では日本を支えることはできない、むしろ体制を転換してソ連型の共産主義国家にすべきだと強く確信するようになった。ちなみにその当時激しさを増していたデフレ型の恐慌は体制転換に伴う“必然”的なものであり、金融政策を転換してデフレ経済をインフレ経済にしても意味がない、と主張した。実際に河上はこの立場から、当時のリフレ派であった石橋湛山と昭和恐慌の時代に激しく論争した。

いずれにせよ、江戸幕府から続くデフレ政策好きな遺伝子が、明治以降もマルクス主義や日本型共産主義の中に脈々と受け継がれていき、一種の「金融緩和政策嫌い」「リフレ嫌いデフレ好き」とでもいう病理的現象を生み出していったひとつのルーツをここに見出すことができる。

これも別に日本に限った話じゃない。ポーランドのSF作家スタニスワフ・レムも「資本主義社会が近代化達成の為に脱ぎ捨てた、絶対王政やら啓蒙主義の理念を拾って身につけて悦に入っていたのが共産主義県の真実」と看過している。

4/8 - Princess old-Edo costume [full size / other... - Tanu-KI-mono

ところで実は「江戸幕藩体制の前半は米が基軸通貨でその高値安定を望み、後半は貨幣経済貸してその品質と量のコントロールが問題となった」という指摘もあります。

こうなると「それぞれの時代において何がデフレを意味したか?」から再定義しないといけませんね。