そもそもフランク族(フランス語: Francs, ラテン語: Franci, ドイツ語: Franken, 英語: Franks)とは特定の部族ではない。匈奴(Xiōngnú、紀元前5世紀 - 93年頃)やイロコイ連邦(Iroquois Confederacy/ Haudenosaunee、17世紀~)同様に部族連合の一種であり、その為に共通のシンボルとして髪型(首長は総髪、戦士は後頭部を剃り上げる)や武具(フランキスカ(francisca)と呼ばれる投斧)を揃える必要があったのである。その一方、元来が妥協の産物だったので変化への対応が柔軟。*その一方、古墳時代日本でも同様の「忠義立て」が行われていた。こちらでは在地首長は(おそらく土師氏の指導下)複数の集落を束ねる独立した居館を建て、古墳を築造し、祭器を揃える。すると見返りとして農地開拓や道路整備や工芸振興に不可欠な鉄製の農具や工具が与えられたとされている。
そして日本史だと応神天皇や仁徳天皇や雄略天皇が登場してくるタイミング(概ね巨大大王墓が次々と築造された5世紀に比定)で、フランク王国には以下の人物が登場してくる。
- トゥール・ポワティエ間の戦い(Bataille de Poitiers、732年)や聖ボニファティウスのマインツ大司教任命(738年)で有名なカール・マルテル(Karl Martell, 686年~741年)
- ピピンの寄進(751年)で有名なフランク王ピピン3世(Pippin III、在位751年~768年)
- フランク王国全盛期を築き上げたカール大帝(Karl der Große/Charlemagne、フランク国王768年~814年、西ローマ帝国皇帝800年~814年)とその息子ルートヴィヒ1世(Ludwig I、フランク国王/西ローマ皇帝814年~840年)が登場する。
両者がそれぞれの歴史で果たした役割は似通っている。
A controversial anniversary: today, in 732,...
- 日本に武具や馬具が副葬される巨大大王墓が築造される様になったのは、高句麗(紀元前37年~668年)の広開土王(在位391年~412年)が南下し、鉄鋼の産地として知られる洛東江流域の「任那加羅(韓国慶尚南道金海市に存在する大成洞古墳群が王墓と比定されている有力邑)」が滅んで以降。それ以降脅威論が高まって朝鮮半島南部や倭国も遊牧民族文化の影響が色濃い三燕文化の影響下に入る。*中でも新羅は技術導入に熱心で、最終的に半島統一者となる。
- 一方、フランク王国の中央集権化もまた脅威論に端を発する。当時イスラム勢力は(フランク王国自らがピレネー山脈の向こうに追いやった)西ゴート王国よりアストゥリアス地方(イベリア半島北岸)を除くすべての領土を奪い、セプティマニア(現在のラングドック=ルシヨン地域圏)やプロヴァンスの諸都市、さらにはブルグント(ブルゴーニュ)王国まで服属させ(地中海沿岸部と大西洋沿岸部を結ぶ)トゥールーズを経てアキテーヌ(フランス南西部)に進出して大西洋側の主要港ボルドーを脅かした。実に国土の実に半分を食い取られた形であり(鐙で踏ん張る事によって威力を増す)重装衝突槍騎兵(heavy shock cavalry)による密集突撃戦術が考案されたり、この新式軍隊を養う為に教会領の接収が盛んに行われたのもこの為だった。*ベルギーの歴史家アンリ・ピレンヌは「マホメットなくしてカールなし」としたが、実際の本格的反撃はアッバース革命(750年)によってイスラム圏側が混乱に陥って以降。むしろ「アッバース革命なしにカールなし」が正解?
そもそも日本の古墳時代を規定した歴史条件と西洋の歴史には思わぬ接点がある。
- 5世紀から6世紀にかけて日本の古墳文化にまで足跡を残した遊牧民族集団はその後中央アジアの草原地帯に進出。
- 特にテュルク系はサーマーン朝(873年~999年)通過過程でイスラム化し、ペルシャ人官僚と手を組んでシーア派王朝よりアッバース朝の庇護権を奪還し、ガズナ朝(955年/977年~1187年)やセルジューク朝(1038年~1308年)を建国。
- これがマラズギルトの戦い(1071年)で東ローマ帝国に大勝してアナトリア半島を獲得し、第1回十字軍(1096年~1099年)を誘発したトルコ人の起源。
まさしく中世イスラム世界を代表する歴史哲学者イブン・ハルドゥーンの「辺境民と都市住人の循環史観」が主題に選んだ世界。
だが、16世紀以降は鉄砲や火砲を大量装備した君主の常備軍が戦場の主役となり、遊牧民の戦場における優位も、欧州騎士の軍役も消し飛んでしまう。ここで興味深いのがその最初期の例の一つとされるチェリニョーラの戦い(Battle of Cerignola、1503年)が宣教師を通じて戦国時代日本に伝わり長篠合戦(1575年)に影響を与えた可能性が指摘されている事。事実であってもなくてもあまり関係ない。薔薇戦争の一環として戦われたテュークスベリーの戦い(Battle of Tewkesbury、1471年)、オスマン帝国によるチャルディラーンの戦い(Battle of Chaldiran、1514年)とマルジュ・ダービクの戦い( Ma'rakat Marj Dābiq、1516年)、そしてムガール帝国による第一次パーニーパットの戦い(The First Battle of Panipat、1526年)…火器の集中投入による殲滅戦なら当時世界中で遂行されており、それが新たな時代の幕開けとなった。日本もそのトレンドにやっと追いついたに過ぎなかった訳である。
*奇しくもそうした時代に先駆けてフランスとイングランドは百年戦争(1337年/1339年~1453年)によって国境を明らかとし、薔薇戦争(1455年~1485年/1487年)や公益同盟戦争(1465年~1477年)によって中央集権化を阻む大貴族連合を切り捨てる。その逆に神聖ローマ帝国やオスマン帝国では次第に「領邦国家化(オスマン帝国の場合は徴税権を購入した在地有力者の自立)」が進行し、ここに「超えられない壁」が生じてしまう。
そうした歴史の全てが「ヨーロッパの父」や「キリスト教ヨーロッパ王国の太祖」に擬せられるカール大帝やその息子ルートヴィヒ1世の時代から始まった?
カール大帝の治世は768年に弟のカールマンとの共同統治として始まり、カールマンが771年に早世してから(その妻ゲルベルガは幼子とともにイタリアのランゴバルド王国へと亡命)70歳過ぎで死去するまでの43年間は単独王として遠征に明け暮れた。
*46年間の治世の間に53回もの軍事遠征を遂行している。【ランゴバルト(羅Langobardo、伊Longobardi、独Langbardland、英Lombards)/ロンバルティア(Lombardia)】方面での活躍
父ピピン3世の死後、ランゴバルド国王デシデリウスは770年に王女をカールの妃として輿入れさせたが、デシデリウスがローマへの攻撃を開始し、773年にローマ教皇ハドリアヌス1世が援軍を要請してくると妃を追い返してアルプス山脈を越えイタリアに攻め込んだ。これがランゴバルド戦役(de:Langobardenfeldzug)で、翌774年には首都パヴィアを占領。デシデリウスを捕虜として「鉄の王冠」を奪い、ポー川流域一帯の旧領を握ると、自らランゴバルド王となってローマ教皇領の保護者となった。さらに父の例にならって中部イタリアの地(以前のラヴェンナ総督府(Exarchate of Ravenna)領)を教皇に寄進。またランゴバルド領の各地にフランク系の貴族を伯として大量に送り込み、これらの新領主がやがてイタリアに土着し後世におけるイタリア貴族の多くの起源となる。
*ただしロンバルティア地方の貴族は、商業的発展を背景にランゴバルト系かフランク系かに関わらず一般庶民と混じり合ってしまう。【ウェネティ(Veneti)/ヴェネツィア(Venezia)】方面での活躍
当初は親ランゴバルト派と親フランク派と親東ローマ派が入り乱れていたが、やがて奴隷貿易を巡ってカール大帝と争う様になりヴェネツィア教会との軋轢を招く。803年のパクス・ニケフォーリによりフランク王国のカール大帝と東ローマ帝国のニケフォロス1世は「ヴェネツィアが名目上は東ローマ帝国領でありつつも事実上は独立していること」を確認。それがかえってカール大帝の王弟ピピン(イタリア(ランゴバルド)王781年~810年)による侵攻(804年~810年)を招いたが、独立を何とか守り抜いた。
*ランゴバルト族やフン族といった外部からの脅威に備える為に編成された海岸沿いの互助組織が起源。やがて漁村が港町を経て商人の街へと変貌を遂げ、造船技術も格段に進歩してアドリア海支配の礎が築かれた。北イタリアに残る唯一の東ローマ帝国領として836年にはイスラムの侵略を、900年にはマジャールの侵略を撃退。10世紀後半からはイスラム諸国と商業条約を結んだが、これはイスラム教徒と戦うよりも貿易をしようというヴェネツィア人の現実的な政策によるもの。【アクイタニア(Aquitania)/アキテーヌ(Aquitaine)】方面での活躍
ピレネー山脈南部のバスク地方と縁深いフランス南西部のアクイタニア地方は同様に土着貴族の勢力が強かったが、イベリア半島遠征における後背地としてどうしても抑えておく必要があった。そこでまずは息子ルートヴィヒをその地の伝統に従って育てアクイタニアの王とする。そして遠征の途上でこの地の伯全員をフランク人貴族に差し替え完全掌握が完了した。*その後アキテーヌ公はフランス国王より強大となって12世紀イングランドへと身売り。百年戦争(1337年/1339年~1453年)終焉までイングランド国王とフランス国王の間で壮絶な争奪戦が展開する事に。【ライン川(羅Rhenus、阿Rhy、巴/独Rhein、蘭Rijn、仏Rhin、英Rhine)流域】方面での活躍
ネウストリアのパリ伯を経てフランス王統となるロベール家(Robertiens)の出身地。7世紀から領主や聖職者として記録に現れる現在のベルギー中東部ハスペンゴウ(エスベイ、Hesbaye)発祥の豪族で、8世紀後半にはドイツのヴォルムスに拠点を構えていた。一方アシュケナージ(ドイツ)系ユダヤ人の間に伝わる伝承によれば(カール大帝の時代というよりその息子ルートヴィヒ1世の時代に)フランク王国の商業振興の為にライン川流域にイタリア在住のセファルディム(スペイン)系ユダヤ人を招聘したという(彼らが「ドイツ系」ユダヤ人よ呼ばれる所以)。しかしながら文献記録上ユダヤ人が欧州に登場するのは11世紀以降、それも司教の庇護を受けて庶民に恨まれる高利貸しとしてなのであった。
*カール大帝の本拠地アウストラシア。河口近辺がフランドル(オランダ、ベルギー、ルクセンブルグ)、上流域が南ドイツとなる。【ネウストリア (Neustria)/ネウストラシア(Neustrasia)】方面での活躍
ブルターニュのブルトン人に対する緩衝地帯という意味合いの強い直轄地。カール大帝の時代には当然ブルターニュの鎮圧も遂行された。
*511年以降設置された新興開拓地で、概ね「セーヌ川とロワール川の間の土地」と言ったニュアンス。フランク王国分裂後はノルマンディをヴァイキングが泊地とし、オルレアンをアラン人に切り取られたパリ伯が孤立無援の戦いを繰り広げる。【ブルグント(Burgondes)/ブルゴーニュ(Bourgogne)】方面での活躍
弟のカールマンが継承した土地だったせいか、771年にカールマンが死去した後も大して話題とならない。
*地中海と欧州北部を結ぶローヌ川(Le Rhône)上流域。下流域はプロヴァンスとなる。イスラム教徒が攻め込んで来た時の記述もほとんど無い。事実上の半独立国として振舞ってきた結果と推測されている。【南仏(South France)】方面での活躍
その沿岸部はマルセイユやトゥールーズ地方と並ぶ貴重な地中海への出口。それでカール大帝は791年に当時塩水の湿地が広がるだけだったエーグ=モルトにマタフェル塔を建てさせた。ちなみに「城壁の街」カルカソンヌには「カール大帝の包囲網に耐え抜いた」伝承がある。またイベリア半島の付け根にあるフランス南西部の街ナルボンヌ(Narbonne、11世紀から13世紀にかけてセファルディム(スペイン)系ユダヤ人にとってバルセロナと並ぶ重要な本拠地の一つとなる)の奪還は息子のルートヴィヒ1世の時代に成し遂げられた。
*プロヴァンスやラングドックなど。オック語圏。【ザクセン(Sachsen)/サクソン(Saxony)】
772年からはドイツ北部にいたゲルマン人の一派ザクセン族を服属させようとし、ザクセン戦争を開始。戦争自体はフランク王国側優勢のうちに進められたものの、ザクセン族は頑強に抵抗を続け遠征は10回以上にも及んだ。785年に有力な指導者ウィドゥキントを降伏させて以降も抵抗は続き、結局完全に服属させる事に成功したのは戦争開始から32年後の804年の事となる。カールは戦後、抵抗する指導者を死刑や追放に処しただけでなくザクセン族を帝国内に分散移住させ、代わりに征服地にフランク人を移住させた。これにより現在のエルベ川からエムス川にかけての広大な地域がフランク王国に服属しただけでなく、さらにその東に居住するスラヴ人達も多くが服属。その一方でザクセンの征服によってその北に居住するデーン人との軍事的緊張が高まり、カールの存命中は膠着状態が続く。また北のフリース族(オランダやドイツ北海沿岸のフリースラントに居住していたゲルマン系部族。一般的に体格ががっちりして背が高く金髪碧眼であった)との戦いも果てしなく続いた。
*この辺りのゴタゴタが後のヴァイキング(北欧諸族による略奪遠征)の起源になったとされる。ちなみにそのヴァイキングの本国を屈服させ、マジャール人を撃退してザクセン朝神聖ローマ帝国(962年~1024年)の開闢者となったのはカール大帝のザクセン侵攻で降伏したザクセン人首領ウィドゥキントの末裔たるリウドルフィング家だった。
十字軍運動とヴェネツィアの覇権
*フリース人は当時のバルト海交易を支える航洋民族でもあった。
羊毛をめぐる冒険 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)【イベリア半島(スペイン語/ポルトガル語/ガリシア語:Península Ibérica、カタルーニャ語Península Ibèrica、バスク語Iberiar penintsula)】
778年、後ウマイヤ朝を討つべくイベリア半島北部に遠征。この時のカールのスペイン・カタルーニャ遠征(およびその途上でのバスク人の裏切り)を題材にしたのが『ローランの歌』となる。795年にはピレネー南麓にスペイン辺境領を設置。801年にはここから南進してバルセロナを落とし、バルセロナ伯を置いた。*小規模な伯領の寄せ集めに過ぎなかったスペイン辺境領からは、まず824年にパンプローナ(後のナバラ王国。バスク人名族のヒメノ家が王統で、レオン(アストゥリアス王国後継国)・カスティーリャ(レオン王国が設けた対イスラム緩衝地帯が起源)・アラゴンの王統の源流)、884にリバゴルサとパリャースが離脱。ハカ(アラゴン)やソブラルベ(およびリバゴルサ)は10世紀初頭以降ナバラ王が領有したが11世紀にアラゴン王国へと再編される。また9世紀末以降、バルセロナ家の祖ギフレ1世多毛伯がウルジェイ、サルダーニャ、ジローナ、ウゾーナ、バザルーの伯を兼ねたのを契機としてバルセロナ家が力を持つ様になり、987年にカタルーニャ君主国としてフランク王国から独立しラングドックまで支配下に置く。後にアラゴン王国とカタルーニャ君主国が連合してアラゴン連合王国が成立。またヒメノ家の男系が断絶すると(カール大帝時代にブルグントに入植したフランク貴族の末裔たる)ブルゴーニュ伯アンスカリ家がレオンとカスティーリャの王統となる(12世紀ルネサンスを主導しイベリア半島に中央集権を樹立する事を夢見たブルゴーニュ朝(1126年~1369年)、大貴族連合の傀儡へと堕したトラスタマラ朝(1126年~1516年))。【ドナウ川(ラテン語Danubius、スロヴァキア語Dunaj、セルボクロアチア語Dunav, ドイツ語Donau, ハンガリー語Duna, ブルガリア語Дунав, ルーマニア語Dunăre、英語/フランス語Danube)流域】
ドナウ川上流で半独立勢力となっていたバイエルン族を攻め、大公タシロ3世を追跡して788年に征服。791年にはドナウ川中流のスラヴ人やパンノニア平原にいたアヴァールを討伐してアヴァール辺境領をおき、792年にはウィーンにペーター教会を建設。このときはアヴァール領の西部を制圧しただけであったが後に再度のアヴァール侵攻を計画し、その一環として793年にはドナウ川とライン川をつなぐ運河を計画した。796年に再侵攻した際にはアヴァールの宮殿にまで到達して大規模な略奪を行い、これによって致命打撃を受けて衰退。この勝利に伴ってフランク王国は東に大きく領土を広げ、パンノニア平原の中央部付近まで服属させる様になった。*アヴァールは6世紀以降東ローマ帝国やフランク王国をはじめとするヨーロッパ各地に侵入する様になったアジア系遊牧民族で、中央アジアに住んでいたモンゴル系もしくはテュルク系ではないかと推定されている。カール遠征後はマジャール人やスラヴ人に同化していったと推測されている。【イングランド(England)】
ザクセン人やフリース人と言葉が近いせいかイングランド聖職者は聖ボニファティウス(Bonifatius、672年頃~754年)を筆頭にフランク王国における伝教活動に熱心に取り組んできた。いわゆるカロリング・ルネサンスもヨーク出身のアルクィン(Alcuin、735年?~804年)の存在抜きには語れない。*急速にキリスト教化したアイルランドと異なり(ケルト教会)アングロ・サクソン人の侵入を受けたブリテン島では一時的にキリスト教布教が停滞。これを憂いたローマ教皇グレゴリウス1世(Gregorius I、在位590年~604年)がカンタベリーのアウグスティヌスをイングランドに派遣し、初代カンタベリー大司教として布教活動に従事させる(Gregorian mission)。ホイットビー教会会議(664年)によってイングランド教会に対するローマの主導権が確立されたが、8世紀末に始まるデーン人侵入によって再び停滞期を迎え、アルフレッド大王(Alfred the Great、在位:871年~899年)の下で復興がなされたのは10世紀以降となる。
またロックフォール・チーズやブリーチーズがお気に入りだったらしい。王権や教会権が万能視されていた時代には、それは特定商品の権威付けにも利用されたのである。
ちなみにWikipediaのカール大帝の項目及びブルグント王国の項目では「カールがアウストラシアとネウストリアを、カールマンがブルグント、プロヴァンス、ラングドックを相続」とあるがカールマンの項目では「カールマンがブルグントと南アウストラシアを相続」とある。史料によって記述がまちまちなのかもしれない。
日本史だと5世紀までの豪族連合体と6世紀以降の氏族連合体の間に、欧州史だと上掲のフランク王国の時代と、ヴァイキングやマジャール人の襲撃を生き延びたパリ伯(後のフランス王統)やウェセックス王家(後のイングランド王統)やザクセン辺境伯(最初の神聖ローマ帝国皇統)が欧州復興に着手した時代の間に微妙な狭間が存在する。欧州ではさらに11世紀から12世紀にかけてノルマン貴族(北欧諸族末裔)やロンバルティア貴族(ランゴバルト族末裔)やアストゥリアス貴族(西ゴート王国遺臣)やブルゴーニュ貴族(ブルグント族末裔)が手を取り合って最後の足跡を刻み、後には(フランク貴族の末裔とされる)北フランス諸侯だけが残されるが、彼らはイル・ド・フランス(Île-de-France、パリ近郊)から広まった俗ラテン語の一種オイル語(langue d'oïl)を話し(ノルマン語(Norman)もその方言の一つ)、所領分散を防ぐ為に長子相続制採用し、最早ゲルマン人らしさをすっかり喪失している。
古墳時代末期日本でも王族の処世術は巧妙を極めた。遺産が(遊牧民族の慣習に起源を有するともされる)閥族単位で管理され、必要に応じて主導者の手元に集められるシステムが稼働していたらしく、記紀の記述を見る限り継体天皇の妻達の実家の資産が中大兄皇子のクーデターに際して再集結を果たしているのである。その一方で分割相続の悪癖をそのまま続けるゲルマン諸族の末裔達の苦悩は以降もずっと続く。
「国富論」のアダム・スミスみたいに「だがそれがいい」と擁護する立場もある。スコットランド人アイデンティティと密接な関係にあるのか、現在なおスコットランドの相続税は40%前後、最高では98%の時代もあったとか。まさに「貴族殺し」…
スコットランドの相続税は98パーセント