ただ単に人口だけに注目すると中国とインドだけど…
Map of the world with countries adjusted for... - Maps on the Web
「大航海時代到来による欧州経済中心の地中海沿岸から大西洋沿岸への推移」とか「ビジネス慣習定着度による世界の二分化」とか「庶民の消費社化に伴う市場規模の爆発的拡大」なんて言葉で口にするだけではピンとこない。こういう時はやはり数字だろう。以下は16世紀以降の都市人口の推移。
*いつもの様に注釈は私…
大都市の発展は16世紀からで、その時点での10万都市は以下。
ルネサンスを経たイタリア諸都市(ヴェネツィア、ナポリ、ミラノ、パレルモ、ローマ、フィレンツェ)
「北伊、中伊とは何であったのか?」 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
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スペイン・ポルトガル諸都市(リスボン、セビリア、マドリード)、
都市から国家に(欧州の経済的中心の歴史的推移) - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
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フランス(パリ)フランスのプロテスタンティズムと資本主義の精神 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
フランスにおける産業革命の受容過程 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
オーストリア(ウィーン)ここから17世紀にかけて、ローマ、アムステルダム、パリ、ロンドンは急激に抱える人口を増加させ、世紀末までにパリ、ロンドンは50万を越える人口を有するまでとなる。
*アントウェルペン/アントワープ(オランダ語Antwerpen、フランス語Anvers、英語Antwerp)の人口は1500年時点では人口4万数千であったが、1560年までにアルプス以北最大規模の都市へと成長し、八十年戦争(1568年~1609年、1621年~1648年)勃発時点では10万人を超えていた。ただしその後急速に衰退。1589年時点では4万人にまで減少。
都市から国家に(欧州の経済的中心の歴史的推移) - 諸概念の迷宮(Things got frantic)*アムステルダムの人口は1500年には1万人を少し超える程度、1570年には3万人、1600年には6万人、1622年には10万5,000人、1640年には13万人、1700年には約20万人と急増した。それから150年程度はほぼ横ばいであったが、第二次世界大戦前の100年で4倍に急増して80万人となり、それ以降は安定している。
都市から国家に(欧州の経済的中心の歴史的推移) - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
*ウィーンの人口は1754年には18万足らず、1800年には23万超、1840年には38万足らず、1860年には80万足らずと推移してきたが1890年には130万人、1900年には160万、1910年には200万を超えていた。
*1800 年当時の諸都市の人口は、ロンドン86 万人、北京 90 万人、上海5万人、パリ 54 万人、ニューヨーク6万人と推定されている。
ウィーンの人口急増はおそらく「2月/3月革命(1848年〜1849年)による既存農本主義的伝統の崩壊」なんて話にも関係してくる。また解放されたオーストリア臣民は上洛するばかりでなく、ハンブルグでニューヨーク行きの便に乗ってアメリカへと移住していったという。その一方で江戸や北京の頑張りも凄い。
ロドリゴ・デ・ビベロによって1609年ごろに15万人と伝えられた江戸の人口は、18世紀初頭には100万人を超えたと考えられている。なお国勢調査の始まった1801年のヨーロッパの諸都市の人口はロンドン 86万4845人(市街化地区内)、パリ 54万6856人(城壁内)であり、19世紀中頃にロンドンが急速に発達するまで江戸の人口は北京や広州と同規模か、あるいは世界一であったと推定されている。
*ただ江戸の人口は参勤交代制で膨れ上がっていたところもあって、幕末これを取りやめた途端に人口が一気に20万人近く減って未曾有の大不況に襲われたという。また江戸の面積は他の欧州都市より遥かに大きく、広大な森林をその敷地内に抱え込んでいる為、来日した外国人から「まるで都市が森に埋め込まれている様だ」と表現されている事も忘れてはならない。
中国の人口資料は数こそ多いが統計の方法が恣意的で統一的に理解するのは困難である。とにかくそれによれば清の6代皇帝乾隆帝(在位1735年〜1705年)の時代に初めて1億人の大台を超え、乾隆6年(1741年)の人口数は1.43億人、乾隆28年(1763年)に2億人に達し、乾隆59年(1794年)には3億人に達している(乾隆6年から乾隆59年にかけての半世紀で倍増)。清朝はこの頃が領土が最大に達した最盛期であった。その後は二つの世界大戦があった20世紀前半まで「支那に四億人の民あり」といわれる時代が続く。
そして産業革命拡散による供給過多状態がもたらした大不況時代(1873年〜1896年)を経て欧米でも「(産業革命がもたらす)大量生産は(庶民の消費者化といった)大量消費によって支えられねばならぬ」という常識が広まる。これにより「j下部構造(生産手段)が上部構造(人間社会)を規定する」とするマルクスの説は完全に過去のものに。
江戸幕藩体制下の江戸が近代化以前なのにその人口が百万人を超えていたのは「庶民の消費者化」なら完了していたからであったとされる。欧州でこれに一番最初にこれを達成したのがイギリスのロンドンで、次がフランスのパリだったとも。庶民向け商品の品揃えが急に充実するのでその時期を見定めるのはそれほど難しい事ではない。