諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

フランス革命は重農主義派が起こした?

http://www4.ncsu.edu/~kimler/hi322/Lemonnier_salon.jpg

おそらく普通の人は重農主義派なんて知らない。
たとえ知ってたとしても「あ、ケネーの経済表ね」程度なのが普通。

でも実は18世紀フランス啓蒙主義を巡る諸問題を理解する上で欠かせない集団だったりもする。なのに日本では極端に美化される時もあり、極端な悪役として描かれる時もありで、評価がまるで一定してない…

ブルクハルトやルソーはスイス人として祖国に存在しない(領主が領土と領民を全人格的に代表する)農本主義的伝統や、それを担保する国王や教会の権威を全面否定した。18世紀フランスの啓蒙主義者も自然主義と理神論によって同じ境地に到ろうと試みたけど、元来の権威主義体質はそのままだったから話がおかしい方向に転がっていく。

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その最たる例の一つが、ここで取り上げる「農主義者達 (Physiocrats)」という次第。

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重農主義者たちは、フランスの宮廷医師、フランソワ・ケネー (François Quesnay) を中心とする 1760 年代のフランス啓蒙思想家の一団だった。重農主義ドクトリンの発端となった文書はケネーの『経済表』 Tableau Économique (1759) だ。グループの中核はミラボー侯爵、メルシエ・ド・ラ・リヴィエール (Mercier de la Rivière)、デュポン・ド・ヌムール (Dupont de Nemours)、ラ・トロズネ (La Trosne), ボードー神父 (Abbé Baudeau)、その他数名だった。同時代人たちには、単に économistes と呼ばれていた。

重農主義ドクトリンの要石は、フランソワ・ケネー (1759, 1766) の命題である、剰余――かれが呼ぶところの produit net (純生産)を生み出すのは農業だけだ、という考え方だった。重農主義の議論によれば、製造業は産出を製造するときに、同じだけの価値を生産の投入として使うので、結果として純生産はまったく生み出さない。重商主義者とは反対に、重農主義者たちは国の富はその金銀のストックにあるのではなく、その純生産の規模によるのだ、と考えた。

重農主義者たちは、古いコルベール主義(フランス重商主義)政策のように商業や産業企業を奨励するのはまちがっていると考えた。別に商業や製造業を辞めさせろと言うのではないけれど、でも政府が独占特許や規制や保護関税なんかで、純生産を生み出さない(つまり国の富に貢献しない)押し上げて、経済全体をゆがめたりするのは無駄だよ、という理屈だ。政府政策は、もしやるのであれば、農業セクターの価値と産出を最大化するようにすべきだ、とかれらは述べた。

重商主義 (Mercantilism)

でもどうやって? フランス農業は、当時まだ中世的な規制にとらわれていて、事業性に富む農民の足を引っ張っていた。昔からの封建主義的役務――たとえば corvée (賦役)、国に対して農民が無料提供すべき労務――がまだ有効だった。町の商人ギルドの独占力のため、農民たちは産物を一番高値をつけた買い手に売ることができず、投入を一番安いところから買うのもできなかった。もっと大きな障壁は、地域間での穀物移動にかかる国内関税だった。これは農業取引を深刻な形で妨害していた。農業セクターにとって大事な公共事業、たとえば道路や排水は、悲惨な状況になっていた。農業労働者の移住に関する規制のおかげで、全国的な労働市場も形成されなかった。国の生産的な地域にいる農民は労働力不足に直面し、賃金コストが高騰したので生産量を下げざるを得ず、生産性の低い地域では、それに対して失業労働者の大群が極貧の中でうろうろしていて、賃金をあまりに低く抑えたために、農民たちはもっと生産性の高い農業技術の導入をしようという気が起きなかった。

この時点で、重農主義者たちはその「自由放任 (laissez-faire)」的態度にとびついた。かれらは国内取引と労働移動に関する規制廃止、corvée (賦役) 廃止、国営独占企業や交易特権の廃止、ギルド方式の解体などを訴えた。

財政面では、重農主義者たちは土地に対する「単一税」(単一地租、l'impôt unique)を推進したことで有名だ。その理屈は、ミラボー (1760) を見る限り納得のいくものだ。経済すべてに対して課せられる税金はすべて、セクターからセクターに移転して、やがて純生産にかかるだけだ。富の唯一の源は土地だから、すべての税金の負担は最終的には地主にかかる。だからややこしい分散した徴税システムを課するよりも(これは監督がむずかしいし、一時的な歪みも引き起こす)、あっさり根本にいって、地代に直接税金をかけるのが最も効率がいい。

 ここまで読む限り、そこまで変な人達には見えない。ところが…

重農主義者の多くの政策がどんなに現実的なものであっても、その議論は形而上学的なもやもやに包まれていた。かれらは ordre naturel (自然秩序、つまり自然法則から導かれる社会秩序) と ordre positif (望ましい秩序、人間の理想から導かれる社会秩序) を区別した。そして社会哲学者たちはこの二つをごっちゃにした、と糾弾。ordre positif は完全に人工的な因習にすぎない。それは何やら人間が作った理想に適応するように、社会がどう組織されるべきか、という話でしかない。ロックやルソーみたいな「自然法」や「社会契約」哲学者があれこれ言っているのはそういう話だ、と重農主義者は論じた。でも、そこには何ら「自然」なものはない――だからそんな理論は捨てちゃえ、とかれらは論じる。一方、自然秩序(ordre naturel)は自然の法則で、神が与えたもうもので、人間の小細工では変えられない。重農主義者たちは、人間に与えられた唯一の選択は、政治、経済、社会をこの「自然秩序」にしたがう形で構成するか、それともそれに逆らうかということだ、と信じていた。
社会哲学者や評論家
重農主義者たちは、その「自然秩序」が何なのかを解明したつもりでいた。かれらは、自分たちの主張する政策がその自然秩序をもたらすと信じていた。重農主義の原語 "Physiocracy" 自体が (これを導入したのはデュポン・ド・ヌムール (1767)だ) 文字通りに訳せば「自然の法則」になる。
デュポン・ド・ヌムール
で、その「自然秩序」ってなあに? その経済面はとっても簡単。重農主義者たちは、経済を三つのクラスに分けた。「生産的」クラス(農業労働者と農民)「sterile」クラス (工業労働者、職人や商人)、「所有者」(純生産を賃料として取得)。所得はセクターからセクターへ、そしてクラスからクラスへと流れる。経済の自然状態は、これらの所得フローが「バランス」状態にある、つまりどのセクターも拡大したり収縮したりしない時に生じる。いったんこの「自然状態」が実現されれば、経済はいつまでも再生産してそのままずっと動き続ける。重農主義者は自分たちのシステムを有名な、フランソワ・ケネーの『経済表』Tableau Économique (1758)で説明した。

ケネーの「経済表」

ケネーがこの発想に達したのは、医者だったケネーが血の巡りと身体の「ホメオスタシス」からアナロジーを見いだしたからだ、と言われることが多い。でも実は、所得フローの自然バランスという発想は、すでにピエール・ド・ボワギルベールやリチャード・カンティリョンの経済理論で展開されていた。それどころか、「土地価値説」もカンティリョンが作ったものだ。

カンティリョンの「土地価値説」

おもしろいことに、重農主義者たちは自分たちの「自由放任」政策という結論を擁護するのに、農業生産を改善するという実利的な議論を使うよりも、むしろかれらの「自然秩序」における政府の役割に関する神秘主義的な観点から擁護していた。重農主義者たちは、多くの同時代人たちとちがって、相変わらず国を寄生虫的な存在として見続けていた。国は経済と社会に「たかる」存在だが、その「一部」ではない、というわけ。政府は「自然秩序」の中に定められた場所を持っていない。その唯一の役割は、神の与えたもう自然法則が、自然秩序をもたらせるような形で人間の法律を定めることだった。こうした自然の力に逆らって経済を動かそうという試みはすべて、バランスの崩壊をもたらし、それは自然秩序の到来を遅らせて、純生産も本来あるべき水準を下回るものになってしまうだろう。自然状態に到達するための最速で最も歪曲の少ない方法は、「単一税」と「自由放任」政策だ、とかれらは主張した。

重農主義者は、自然状態の純生産こそが長期的に維持可能な最大純生産だと信じていた。重商主義者とちがって、重農主義者たちは純生産を最大化するのが「いい」ことかどうかなんて、あまり考えなかった(たとえば、それが国家の力を高めるだろうか? 一般の幸福をもたらすだろうか? 一般の道徳水準を高めるだろうか? といったことは意に介さなかった)。カンティリョンに追従する形で、「人類の友」ミラボー (1756年) は、国の真の富とはその国民である、よって、純生産が大きければ、維持できる人口も多くなるのだ、といったような話を不明確にはしている。でもほとんどの重農主義者たちは、それが「自然な」ことなんだから、という点しか見なかった。そして「自然」なものはすべて、当時の時代精神からすれば「よい」ことなのだった。

啓蒙主義経済 (Enlightenment Economics)

重農主義者が支持した政策は、貴族や土地所有階級の利害と真っ向から対立した (重農主義者は一生懸命、これはあなたたちの利益を考えてのことなんですよ、と主張したけれど)。でもケネーはルイ十五世の愛人マダム・ド・ポンパドールの私的医師だったので、重農主義一派はフランス宮廷でそれなりの保護を得ていた。

「ベルサイユのばら」と産業革命 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

1764 年にポンパドールが死んでも、重農主義の影響は減らなかった。1765-7 年には、かれらは Journal d'agricultures, du commerce et des finances にものすごい勢いで文章を発表していた。これは当時デュポン・ド・ヌムールが編集していた。1767 年にデュポンが首になると、かれらはボードー神父の Ephémérides du Citoyenに乗り換えた。ミラボーはその年、独自の会員式「火曜晩餐会」を催すようになった。そしてデュポン・ド・ヌムールは、この学派の見解表明である著書 Physiocratie を刊行。重農主義者とその発想は、ヨーロッパ中でもてはやされた――バーデンからロシアまで、トスカナからオーストリアまで。かれらの著述の多くは、同時代の雑誌に刊行された。特にJournal d'agricultures, du commerce et des finances (1765 年創刊、1783 年廃刊), Ephémérides du Citoyen (1765年創刊、1772年廃刊)、Nouvelles Ephémérides Economiques (1774-1776, 1788?)など。

当の重農主義者たちのスタイルのおかげで、味方はあまりいなかった。かれらの気取り屋ぶり、「自然秩序」についての神秘主義、論文を書くときの大仰で華美な書き方、チンケな党派性、まるで抑制のないケネーへの崇拝とおべんちゃらぶり――かれらはケネーを「ヨーロッパの孔子」「現代のソクラテス」なんて呼んでいた――は、周辺のあらゆる人物を苛立たせた。本来なら当然味方になってしかるべきだった人々、たとえばヴォルテール、ディドロ、ルソー、ド・マブリなんかですら、重農主義者たちを心底嫌っていた。近刊の Dictionnaireに関するモレレへの手紙の中で、いつもはとてもいい人のデビッド・ヒュームでさえ、こんなふうに重農主義者への嫌悪をむき出しにしている。「あなたの著書の中で、連中に雷を落として叩きつぶし、塵と灰にしてしまってくれることを祈ります! あの連中はまったく、ソルボンヌの壊滅以来、現存する最も得たいの知れない傲慢な連中の集団なのだから。」 (ヒューム、モレレへの手紙、1769 年 7 月 10 日)

デビッド・ヒューム (David HUME)

アダム・スミスは、ちょこっとばかりかれらを持ち上げてそのまま黙殺。重農主義システムは「世界のどこでも害にはならなかったし、この先も有害ではなかろう」 (Smith, 1776)とのこと。
アダム・スミス

フェルディナンド・ガリアーニは、重農主義はとにかく有害と見ていた。かれにとって、重農主義はまちがった考えを持った非現実的な連中の危険な集団だった。 1768 年に、フランスが飢餓寸前状態で崩壊しても、重農主義者は相変わらず「何もしない」ことを呼びかけ、「自然秩序」がどうしたこうしたとか、ケネーのすばらしい知恵が云々とぶつぶつ言い続けていた。ガリアーニやその支持者はこれに怒って、反重農主義に独自のすばらしい貢献を行うこととなった。
フェルディナンド・ガリアーニ

重農主義はまた、新コルベール主義も活気づけた。フランソワ・ヴァロン・ド・フォルボネーとジャン・グラスランは重商主義ドクトリンを先鋭化して現代化し、それを啓蒙主義精神とも通じるものにしたけれど、それは一部には重農主義の魅力に対抗するためのものだった。

 新コルベール主義

自然主義!! だが何が「自然」か誰に見定められるというの?

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ウォーラーステインの世界システム論は「東欧経済が西欧経済に従属させられた」と表現するが「東欧経済を従属させた」はずのフランス絶対王政の食糧生産事情も五十歩百歩だった点が興味深い。

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そういえば重農主義の起源をイエズス会が中国から仕入れてきた(韓非子の「五蠹篇」の様な)中華王朝の農法主義思想に見て取る向きもある。西郷隆盛毛沢東のその立場からの主張と重なる部分が少なくないのは案外そのせいかもしれない。

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また、その強烈な神中心主義は以外とマルブランシュやヘーゲルに通じる?

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ところが彼らのこうした思想はスコットランド啓蒙主義者の手を経てマルクス経済学の基底を為す事になる。その過程で「土地価値説」は「労働価値説」へと拡張されたけど「すべての人間行動を快楽と苦痛の計算に還元する」効用主義経済学を真っ向から全面否定しようとする態度に変わりはない。

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効用主義者たち (The Utilitarians)

重農主義システムは、「科学の皮をかぶった神秘主義」として糾弾されたけれど、実際はまさにその正反対だった。重農主義はむしろ「神秘主義の皮をかぶった科学」だった。このため、重農主義者は経済学の発展にかなりの影響を及ぼし続けた。特に興味深いのは、ジャック・テュルゴーが導入し、テュルゴー派(これは一段離れているとはいえ、アダム・スミスも含まれる)が引き継いだ変更点だ。かれらは始めて、農業だけでなく他の産業も純生産を生み出せると論じた。アダム・スミスの手で変更されたシステムは、「労働価値説」につながって、これは後に古典派に採用されることになる。

古典リカード派 (The Classical Ricardians)

この問題についての世界システム論派の結論は単純明快。「イギリスにフランスを売り渡して破滅させた売国奴」である。

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フランスの敗北を決定的にしたのは、 1786年に締結された英仏間の自由貿易を規定し たイーデン条約であった。この条約こそは、フランスの工業を決定的に破壊し、イギリス商品の洪水がフランスを襲った。ヘゲモニー 争いに敗れたフランスとしては、早急に 体制を立てなおすことが 必要になった。それがフランス革命であり、革命のエッセンスはイギリス型の財政・軍事国家への移行にあったといえよう。

イーデン条約(英仏通商条約、1786年)…アンシャン=レジーム期のフランス・ブルボン朝と、産業革命期のイギリス(トーリー党ピット内閣)が結んだ通商条約。フランスがイギリス製工業製品の輸入関税の引き下げに応じたため、綿工業などフランスの国内産業が打撃を受け、ブルボン朝の外交、経済政策への不満が生じ、フランス革命への伏線の一つとなった。なお1860年にも英仏通商条約が締結されている。これはフランスが保護貿易から転じ、ナポレオン3世がイギリスの自由貿易を受け入れたものである。

河野健二「フランス革命小史(1959年、p.65)」 
「1786年、自由貿易的色彩をもつ、英仏通商条約が重農主義者デュポンなどの活動によって結ばれたが、これはイギリスの工業製品とフランスの穀物・ブドウ酒などを結びつけたものであって、ルーアンの綿織物をはじめフランス産業は競争に敗れて衰退せざるを得ない結果となった。このことは、産業家のあいだで産業保護の要求をたかめ、労働者は不況をこの条約のせいにしたが…この条約によって王権はかならずしも国民的利益を代表しないという考えが広く浸透しはじめたのである。」
*ここでデュポンの名前が挙がってる様に自由放任主義を絶対的正義として崇拝する重農主義者の働きかけもあって実現した条約。世界システム派は「資本主義は中央の周辺からの搾取によってのみ成立する」という立場なので「フランスの周辺化」に加担した重農主義者は必然的にフランス史上最低最悪の売国奴と規定される事になる。

 アナール派の研究によって最近じゃフランス本国でも「フランスがイギリスに敗北したのは(貧富の格差拡大をこよなく憎んだ)ジャコバン派独裁政権とその支持者が(交易の中心地だった)ボルドーと(工業の中心地だった)リヨンを破壊し尽くして産業革命受容が半世紀位以上遅れたせい」という見解が(一部マルクス原理主義者を除いて)通説になりつつあるらしいのにこれですか…

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フランス革命についてウォーラーステインはこう言う。

フランス革命が重要なのは「世界経済」のヘゲモニーをめぐるフランスとイギリスのあいだの抗争が重要だったからこそである。フランス革命は、フランス人がこの抗争での敗北を予感するようになった直後に、その結果として起こったのである。」

どういうことか。ウォーラーステインは次のように言う。

「第一に、それは、早急にフランス国家の改革を強行しようという、支配的な資本家階層のなかの一集団による、かなり意識的な試みであった。」

実はフランス革命は、封建制の強かったフランスを、イギリスのようなブルジョワジーが支配する国に転換しようとして起こされた革命だったのだ。そうウォーラーステインは主張する。

「第二に、フランス革命は、公共の秩序が徹底的に崩壊するような状況を意味したため、「近代世界システム」史上初めて、本格的な反システム(つまり反資本主義)運動が勃興することになった。すなわち、フランスの「民衆=大衆」の運動がそれである。実際のところ、むろんそれは失敗であったが、それが、以後のすべての反システム運動にとって、その精神的基礎となってきたことも、紛れもない事実である。このことは、フランス革命ブルジョワ革命だったからそうなったのではなく、まさしくそうではなかったからこそ、起こったことなのである。」

ブルジョワジーは、イギリスに負けないような、資本主義的世界経済の中でより中核を担える国家へとフランスを作り替えたかったが、フランス革命においては、こうした資本主義的傾向に対する農民反乱が起こった。このことからウォーラーステインは、フランス革命は最初の反資本主義運動だったのだと主張する。

「第三に、ブルジョワ革命は、全体としての「近代世界システム」に必要なショックを与え、文化・イデオロギーの側面を、少なくとも経済的・政治的現実に追い付かせ、対応させる役割を果たした。」

フランス革命までは、資本主義的世界経済に、イデオロギーがまだついていっていなかった。人々は、いまだ封建制のイデオロギーの中で生活していたのだ。フランス革命こそが、世界が資本主義的な「近代世界システム」になったということを、人々に最も先鋭に知らしめたのである。ウォーラーステインはそう主張する。 

ケネーなくしてマルクス主義経済学なし」とマルクス当人も認めてるくらいなのに、この扱いですか…

重農主義の経済思想

まぁ実際「(ルイ14世に仕えたコルベール財務総監が実践した)国際的競争力を備えるまで初期工業の発展は多くの庇護を必要とする」理論に真っ向から反対したのは致命的だったけど…

ガーシェンクロン著「歴史的観点から見た経済的後発性」がもつ今日的意義

それ以前にイギリスが南海泡沫事件(South Sea Bubble、1720年)と東インド会社の腐敗の両方を巧みに捌いて臨時予算は国債発行で捻出するシステムまで構築したのに対し、イギリスがミシシッピ計画事件(1717年〜1721年)を引き起こしたジョン・ロー財務総監を慌てて罷免する事しか思いつかなかった時点でとっくに結末は見えてたというのが一般見解じゃないの?

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ところで、そのジョン・ローが設立に失敗した中央銀行をフランスに初めて設立したのがナポレオン。「フランス革命(1879年〜1899年)なんて、所詮は英雄ナポレオンを登場させる為の踏み台にすぎなかった」と単純化して考えたがる人達にとってはこの程度の理解で充分なのかもしれない…