諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

思考停止こそ歴史的悲劇の源泉(18世紀)

アダムが耕し、イブが紡いだ頃、誰が経営者だったのか?
When Adam delved and Eve span, Who was then the gentleman?
英国のジェントルマン資本主義 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

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私は「アダムもイブも両方経営者だった」と考えます。

  •  アダムは何をどう育てるかについて、 イブは何をどう織るかについて一切の責任を請け負っていた(何をどうすべきかについて神から全て指図を受けていたのだしたら、そもそも二人は「最初の人間」の名前に値しない)。
  • その代償として得られた成果物は全て自分のものと出来た(もしかしたら「土地使用料」くらいは神に収めていたかもしれないが)。

 経済史の原点はあくまでここたるべき、と私自身は信じてるんですが…

 世間にはまだまだウォーラーステイン世界システム論(World-System Theory)信者が多く、自分なりの歴史観をまとめる為にはそれとの相対化が不可欠だったりします。

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1364夜『史的システムとしての資本主義』イマニュエル・ウォーラーステイン|松岡正剛の千夜千冊

資本主義は歴史的なシステムで、かつて歴史的にシステムといえるものは、唯一、15世紀に発して今日につながる資本主義しかなく、それは「世界システム」となった資本主義だけである。

これがウォーラーステインの言い分だ。あっけないほど、きわめて明快。それに頑固だ。だからこれ以上、何も付け加えることがない。

まあ、それではそっけないだろうからあえて説明すれば、「世界システム」というのは、資本制的な分業がゆきわたっている地域・領域・空間にほぼあてはまるもので、その内部には複数の文化体が包含されている。

◎この世界システムは歴史的な流れでみると、本来ならば、ローマ帝国ハプスブルク帝国オスマントルコ帝国のような政治的に統合された「世界帝国」になるか、もしくは政治的統合を欠く「世界経済」になっていくはずのものである。
*一言加えれば、世界帝国は「貢納」のかたちをとりながら辺境の経済的余剰を中核部に移送して、そのシステムの完成をめざしていく。他方、世界経済のほうは「交換」によって経済を拡張していくのだが、そこには世界帝国のような大きな官僚機構を支える必要がないぶん、しだいに余剰がシステムの成長にまわっていくようになる。

◎したがって近代以前の世界システムはその成長プロセスで、たまたま世界経済めくことはあったとしても、まもなく政治的に統合されて、たいていは世界帝国に移行してしまう。

*たとえば産業革命をおこして巨大化したかに見えた大英帝国時代のイギリス経済も、資本主義の条件をいくつも発揚していたとはいえ「植民地をもった国民経済」であるにすぎず、資本主義が体現された世界システムとしての「世界帝国=世界経済」ではなかった。

◎これに対して15世紀末から確立していったヨーロッパの世界経済こそは今日にいたるまで、ついに世界帝国化することなく、史的システムとしての世界経済をほしいままにしてきた。

ウォーラーステインが言うには、これが、これだけがヨーロッパ全域を背景として確立された世界システムで、それこそがイギリスを呑みこみ、オスマントルコやロシアを呑みこみ、その他の地域の経済活動を一切合財吸収して、しだいに史的システムとしての資本主義、すなわちヒストリカルキャピタリズムを完成させていったというのである。

ドラマ性に欠ける自由交易圏側の歴史 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

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FOGG OF WAR: May 2011

かなりはしょったし、言い方はいろいろあろうけれど、以上がウォーラーステインの主張の概略だ。

その最大の特徴は「資本主義とは中心部の周縁部からの収奪によって成立する15世紀〜16世紀頃より始まったシステムの事であり、歴史の進行によって周縁部が消失すると必然的に崩壊する(そしてその日が間近に迫っている)」というテーゼ(支持者なら決して疑ってはならない信念)に全体像が立脚しているという点。おそらく「マルクスが書きたかった資本論の続き」という評価はこの辺りから出てくるのでしょう。
*欧米のこの種の議論は「神が人に与えたもう自然とは元来どういう状態だったか?」という神学的設問から始まるからややこしい(そもそもアダムが耕し、イブが紡いだ頃、聖書は何処にあったのか?)。いずれにせよ分岐点となったのはヘーゲルで、その死後概ね「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義こそ人間が帰るべき原点」とする右派と「現実の世界そのものが間違っており、それを破壊しない限り人間は原点に帰れない」とする左派に分裂。後者からマルクスが出て世界システム論にその遺志が継承されたという流れとなる。

ここで「アダムが耕し、イブが紡いだ頃は二人とも経営者だった」なる前提を持ち出すのはマルクス同様ヘーゲル左派に分類されるキルコゲールの実存哲学に近いアプローチと絵いるかもしれません。「自己実現とは絶対精神(神)への没入に他ならない」「歴史とは世界精神(神)の自己実現過程に他ならない」としたヘーゲルに対しキルコゲールは「かかる思考停止の悪弊から一切逃れ切った先にこそ時空を超えてキリストの同時代人として生きる道が待つ」と反駁しました。仏教でいうと法華経における久遠仏(時空を超えて存在する救済可能性)、日本ではこれを理想視した宮沢賢治の童話世界の内容の方が広まってますが。

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今回はこの観点から「再版農奴制」と「大西洋三角貿易」という17世紀から18世紀にかけて世界を彩った悲劇に注目してみたいと思います。

「アダムが耕し、イブが紡いだ頃は二人とも経営者だった」史観との対比

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再版農奴」について世界システム論は概ねこういう立場を取っています。

世界システム論講義 ヨーロッパと近代世界 (ちくま学芸文庫)

16世紀の東ヨーロッパでは、西ヨーロッパへの穀物輸出の激増、つまり分業体制の強化 にともなって、農奴の労働が強化されたことが以前からよく知られていた。「一国史」の立場に立つ伝統的な歴史学では、これを「封建反動」とし、その制度を「再版農奴制度」と呼んできた。つまり、このときから東ヨーロッパは、西ヨーロッパに対して「遅れた」と考えてきたのである。しかし、世界システム論では「再版農奴制度」も近代 世界システムの一部にすぎない。ただ、その地域が従属地域、つまり「周辺」としてこのシステムに組み込まれたことを意味するにすぎないと考えるのである。世界システム の「 周辺」では、この東ヨーロッパの農奴制度であれ、南北アメリカの黒人奴隷制度で あれ、インドのライアット農民の制度であれ、それぞれの地域と関係の深いタイプの強制労働が採用されるが、そうした外見にもかかわらず、全体が世界的・資本主義的な分業体制のなかにある以上は、それらは、すべて近代資本主義の労働形態なのである。

前提となる事実関係は基本的に一緒。

  • 大航海時代開始に伴い、欧州の経済的中心が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移してそれまで繁栄を享受してきた国々を未曾有の危機に叩き込んだ。
  • しかし歴史のこの時点では大西洋沿岸における人口急増を背景とした穀物需要急増があった。それで多くの在地有力者は、これを当てにした農場君主制に移行する事で当面の難を逃れた。

ただここではあえて国際分業の成立そのものでなく「農場君主制が安定的に数世代続くと、再び危機が迫っても対応出来ない領主が急増する」問題に注目します。

  • 実際「大西洋沿岸における穀物需要急増」は一時的特需に過ぎず、馬鈴薯や玉蜀黍や隠元豆といった新世界からの作物の栽培定着もあって食料価格は次第に安定/低落。その一方で貨幣経済浸透に伴う緩やかなインフレ進行(価格革命)によってランティエ(Rentier、領主の様な地税生活者)の収入は目減りしていったが、生活の質を落としたくない彼らが全てを領民達に皺寄せし続けた結果「地獄の様な貧富の格差」を現出させるまでになった。
    *同じ事がユダヤ人ゲットーについてもいえる。16世紀に初めて出現した時点ではそれなりに快適に暮らせる空間だったが、人口密度急増とそれに伴う衛生上の問題点浮上を黙殺し続けた結果が「地獄化」だった訳である。
  • 二月/三月革命(1848年)に至る過程で欧州列強の多くが農場領主制を放棄したが、それ以降の展開については「有事に際してて自助努力を怠らない発想」がまだ残っていたか否かが明暗を分ける。例えばドイツのユンカーが相応の工夫でこの変化を乗り切ったのに対し(1905年にドイツ帝国が行った農業調査では小作層が全て出稼ぎポーランド人に置き換えられていた)ポーランドウクライナやロシアの在地領主達の多くは生き延びる為に新しい事など何一つ試みなかった。
    *当時の状況を象徴するのがゴンチャロフの小説「オブローモフ」に、それに立脚したドブロリューボフの評論「オブローモフ主義とは何か(1859年)」「その日はいつ来るか?(1860年)」。そこで戯画化された在地領主は「高い理想を口にしながら自らは決して行動しない教養ある貴族インテリゲンツィア。万事に無関心で怠惰」といったイメージだった。夏目漱石ら明治時代文豪が惹かれた高等遊民、現代でいう高学歴ニートの御先祖筋。
    ゴンチャロフ「オブローモフ」岩波文庫
    オブローモフ主義とは何か?―他一編 (岩波文庫 赤 610-1) : ドブロリューボフ, 金子 幸彦 : 本 : Amazon
    内田魯庵「文明国には必ず智識ある高等遊民あり」青空文庫
  • 事態が致命的段階に至ったのは、The American Peril(国際的交通網の整備や製造技術発展を背景とする南北アメリカ大陸からの安価な農畜産物の大量到来)を契機とする大不況 (1873年〜1896年)の到来だった。「飢餓輸出(領主が借金返済の為、小作人を大量餓死させてまで遂行した暴落状態穀物の大量輸出)」が頻発したのもこの時期の特徴の一つとされる。
    *こうした在地領主達の徹底した無策が招いた当然の帰結、それが東欧人(ハンブルグからニューヨーク行きの船に乗った)や南イタリア人(リソルジメント(Risorgimento、イタリア統一運動)の結果1861年イタリア王国が成立しても生活は却って悪くなる一方で、故郷同様オレンジ栽培が盛んなカリフォルニアを目指す)といった「神聖ローマ帝国遺民」の米国移民急増であった。ちなみに新天地に着いてもその富裕層と貧民層は別れて暮らし、以降も長期間に渡って激しい衝突を繰り広げ続ける事に。
    大不況 (1873年-1896年) 

アダムが耕し、イブが紡いだ頃、誰が思考停止していたか?」まさにこの一言。領主の責任と領民の責任のどちらを追求すべきかはとりあえず置くとして、この悲劇はまさに東欧世界の思考停止と共依存がて引き起こしたといって良さそうです。
その頃、英国とフランスは…

  • 18世紀英国は食料価格が高騰し、毛織物産業が不調となり、輸入綿花を原材料とする綿織産業産業が台頭した状況を受けて議会主導でノーフォーク農法といった大規模高度集約農業を積極的に導入した。「第二次囲い込み」とも「農業革命」とも呼ばれている歴史展開で、副作用としてヨーマン層(小規模自作農)が地主(ジェントリー)か小作人に二分され消失している。
  • 一方フランスでは中世以来の伝統的規制の撤廃を訴える重農派が既得権益を守り抜く事にしか興味のない保守派に敗れフランス革命の遠因の一つとなった。

考えて行動し続ける英国、考えず行動も起こさないフランス」という図式がここでも浮かび上がってくる訳です。まぁ英国の行動全てが理に適ってる訳じゃありませんが、少なくとも「大陸型停滞」とは無縁という辺りが重要。

フランス革命は重農主義派が起こした? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

フランス農業は、当時まだ中世的な規制にとらわれていて、事業性に富む農民の足を引っ張っていた。昔からの封建主義的役務――たとえば corvée (賦役)、国に対して農民が無料提供すべき労務――がまだ有効だった。町の商人ギルドの独占力のため、農民たちは産物を一番高値をつけた買い手に売ることができず、投入を一番安いところから買うのもできなかった。もっと大きな障壁は、地域間での穀物移動にかかる国内関税だった。これは農業取引を深刻な形で妨害していた。農業セクターにとって大事な公共事業、たとえば道路や排水は、悲惨な状況になっていた。農業労働者の移住に関する規制のおかげで、全国的な労働市場も形成されなかった。国の生産的な地域にいる農民は労働力不足に直面し、賃金コストが高騰したので生産量を下げざるを得ず、生産性の低い地域では、それに対して失業労働者の大群が極貧の中でうろうろしていて、賃金をあまりに低く抑えたために、農民たちはもっと生産性の高い農業技術の導入をしようという気が起きなかった。

経営者がいくら考えたって失敗する時は失敗する。だが考えるのを諦めてしまったペナルティはもっと高いものにつく」。どうやらこういった教訓が引き出せそうな感じがします。「西欧経済に従属する道を選んだ時点で東欧経済の悲劇は確定した」とする世界システム論とは随分違った地点に着陸しました。そもそもフランス絶対王政の置かれた状況は五十歩百歩、英国は完全自給志向。「悲劇しかもたらさない経済的従属」が何を表しているのかさえ分からなくなってしまいました。

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それでは同時代に起こった悲劇「大西洋三角貿易についてはどんな対比が浮かび上がってくるでしょうか。世界システム論側のアプローチは概ねこうです。 

世界システム論講義 ヨーロッパと近代世界 (ちくま学芸文庫)

ここではトリニダード・トバゴの首相でもあった歴史家エリック・ウィリアムズの生涯とその学説 を紹介しながら、イギリスの産業革命が、黒人奴隷制度との深い関係のもとに展開したことを論じる。

世界で最初の工業化であったイギリス産業革命は、ひとことで いえば、黒人奴隷貿易と黒人奴隷制度の産物であった。黒人奴隷の血と汗をもって、この工業化は達成されたのだと力説したのは、トリニダード・トバゴ独立運動を組織し、初代の首相として生涯その地位にあっ たエリック・ウィリアムズであった。奴隷貿易は、なかには難破するような船もあったとはいえ、数百パーセント にのぼる利潤を得ることも少なくなく、その利潤が産業革命の財源となった。

さらに、大西洋奴隷貿易は、じっさいには、植民地における砂糖や棉花の生産とそのイギリスへの輸入とも結びついており、いわゆる「 三角貿易」のかたちをとっている。さらに、大西洋奴隷貿易は、実際には、植民地における砂糖や綿花の生産とそのイギリスへの輸入とも結びついており、いわゆる「三角貿易」のかたちをとっている。まず、イギリス(ロンドン、リヴァプールブリストルなど)を出航する船は、火器とアクセサリーのほか安価な綿織物などを携帯し、これをアフリカ西岸の黒人国家を相手に黒人奴隷と交換し、奴隷を積み込んでカリブ海にいたる。ごく初期はバルバドス島が拠点であったが、やがてジャマイカが拠点となる。ここでプランテーションの生産物(砂糖やタバコのほか、一部に綿花があった)を得てイギリスに戻る、というわけである。三角貿易は、綿花の輸入と綿織物の輸出をともに含んでいたので、奴隷貿易で急成長をとげたリヴァプールの後背地マンチェスターに、綿織物工業が展開した。したがって、資金と製品市場の確保、原料供給のいずれの面でも、奴隷貿易を核とする「三角貿易」こそが、イギリス工業化の起源であった。同様の関係は「西部のメトロ」と呼ばれたブリストルと、バーミンガムの鉄工業などの関係についてもいえる。フランスでも、ボルドーやナントの後背地に多少の工業発展がみられた。

1940年代に、ウィリアムズはこのように主張したのである。このウィリアムズのテーゼは、産業革命の起源を国内の諸条件とせいぜい輸出市場の成長くらいから考えていたイギリス人史家を驚か せ、暴論として反発もうけた。イギリス産業革命は、イギリスの庶民の勤勉な労働労働と聡明な経営者や科学者や発明家の手によって起こされたのであり、奴隷貿易の影響などとるにたりない、と 彼らは主張した。いまでもたとえば、イギリスの歴史家のなか には、P・オブライエンのよう に、「[ イギリス の 経済 発展 にとって]周辺の影響は周辺的」だ、などとして、これを軽視したがる傾向もある。わが国でも、いわゆる「 戦後史学」においては、イギリス人、とくにヨーマンと呼ばれた中産的 な人びとが、ピューリタニズムの禁欲・勤勉の精神にしたがっ て働いたことこそが、イギリス産業革命の原因だといわれたものである。

しかし、ウィリアムズの主張はしだいに浸透し、いまではイギリス産業革命史に関する「 西インド諸島学派」として、大きなウェイトを占めている。そもそも、世界システム論の立場は、彼の主張 をおおむね認めるところから始まるといってもよい。ウィリアムズによれば、カリブ海域では砂糖がとれたからこそ、奴隷制度があったのであり、奴隷制度があったから、産業革命があったので ある。

所謂「カロリー革命」について

砂糖入り紅茶をベースとする「イギリス風朝食」は、基本的には、湯を沸かせさえすれ ば、用意することができる。とくに、紅茶と砂糖は、カフェインと速効 性のカロリー源として、として、 決定的 な 意味 を もっ て い た。工業化前のルースな時間管理を象徴する「聖月曜日」の慣習が、エールやジンなどの飲酒の習慣とつながっていたのと、好対照である。即効性という意味では、朝食のみならず、仕事の合間の「ティー・ブレイク」も、同様の意味を持っていた。朝から十分なカロリーを補給し、ぱっちりと目の醒めた状態で働ける労働者、それこそが工場経営者が絶対に必要としていたタイプの労働者だったのである。こうして、カフェインを含む紅茶と高カロリーの砂糖、砂糖から作られるジャムと糖蜜などは、イギリス人の生活に欠くことのできない基礎食品となった。イギリス人の労働者は、しばしば食事を「ホットディッシュ」、つまり「温かい食事」と「コールド・ディッシュ」に区分する。温かい食事は、それだけでご馳走なのである。冷たいパンを一瞬にして「ホット・ディッシュ」に変えてしまう、一杯の「砂糖入り紅茶」がなければ、十九世紀イギリスの工業都市における労働者の生活は、成り立たなかったはずである。*また「白パン」に群がる当時の英国人労働者の喜悲劇についてはマルクス資本論」に詳しい。

もっとも、紅茶自体はカロリーがないうえ、価格も高いというので、当初、識者にはきわめて不評 であった。もっと安上がりで栄養価の高い、ポテトとポリッジを軸とした北部の食事にたいして、こうした食事は、主としてロンドンなど、南部から広がりはじめたといわれている。こうした食事 には、ある種の「ステイタス・シンボル」的な意味合いもあったのである。*紅茶はそもそも17世紀より王室をはじめとする上流階層、特に貴婦人の間のステイタス・シンボルとして広まった。

 ここでは、そもそも「英国砂糖産業の全盛期(ポルトガルよりインフラを本格的に継承したメシュエン条約締結(1703年)から19世紀前半における奴隷貿易禁止令(1807年)や奴隷制禁止令(1833年)まで)」と「カロリー革命(1820年代以降)」の時期が微妙にずれている辺りが問題となります。

実は産業革命期の英国人労働者が喜んで紅茶に入れて飲んでいたのは(比較的高価な)英国産砂糖ではなくビーツ(砂糖大根)から精製された(比較的安価な)大陸産砂糖でした。英国産砂糖はむしろ自らが淘汰される事よって「カロリー革命」に貢献する事になったとさえ言われているのです。

どうしてそんな顛末になったかというと…

  • 西廻り航路を開拓して1500年代から1530年代にかけて黄金期を迎えたポルトガル王国。しかし次第に儲かる香辛料ビジネスなどが持ち逃げされていき、気づくと扱いの難しい奴隷交易ビジネスくらいしか手元に残っていなかった。1452年にはローマ教皇ニコラウス5世がポルトガル人に「異教徒を永遠の奴隷にする許可」を与えている。これを用いてマディラやブラジルに奴隷制砂糖農場が建築された(15世紀〜16世紀)。
    *西アフリカの奴隷供給国化は既に1450年代から始まっている。また当時は戦国時代日本(特に九州)も戦争奴隷供給地として有望視されていた。
    十字軍国家としてのポルトガル王朝 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
  • そしてここでオランダ商人が登場し、17世紀以降砂糖農園を非人道的なまでに効率化された奴隷制プランテーションに変貌させ、砂糖を史上初の「世界商品」へと変貌させる。実際ブラジルに(今日我々が知る形での)奴隷制プランテーションが登場するのはオランダ統治期(1624年〜1654年)以降だし、イギリス領バルバドス島やフランス領マルチニク島といったカリブ海の島々で砂糖産業導入を初期始動したのもやはりオランダ商人なのだった。要するに英国植民地もフランス植民地もポルトガルが始めオランダ商人が整備したビジネスをそのまま継承したに過ぎず、ここに最初の「思考停止」の余地が生じた。実際カリブ海における砂糖産業は以降数百年に渡って技術革新が起こらない。
    プランテーションで砂糖黍から絞り出されたジュースは煮詰められ、精製され、茶色の原糖とされた状態でヨーロッパに送られ、イギリスのリヴァプールブリストルやロンドン、オランダのアムステルダム、フランスのナントといったヨーロッパの港町でさらに精製されて純白の砂糖にされるのが常だった。これらの町の当時の紳士録(名士住所録)には、奴隷交易や砂糖黍栽培で財をなした商人と並んで精糖業者がズラリと名前を連ねる。その一方でオランダ商人は南北アメリカ大陸で「現地において精糖工程までこなしたフランス植民地産砂糖」の密輸を手掛け続けた。オランダはアジアの砂糖栽培拠点マラッカ(中国人労働者を使役し、風車で砂糖黍搾汁器を回いていた)でも(日本に「唐三盆」の商品名で輸出される)砂糖の精製作業を現地で遂行している。アダムスミスも「国富論(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations、1776年)」において英国砂糖業者が「本国における製糖」に執着し続ける限りフランス植民地産砂糖に太刀打ち出来ないであろうと指摘している。どうやらオランダ商人だけはこの分野で「思考停止」を免れて柔軟に行動していたらしい。
    「大西洋三角貿易」について思う事 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
  • それではどれだけ売り上げがあったのだろうか。そもそも砂糖ビジネスには「生産量が倍増すれば売値も半額となる」悪夢めいた側面があった。そのくせ生産規模の拡大は確実に奴隷価格の高騰を招いてきたというから本当につける薬がない。収益悪化の未来だけが待つ悲惨な展望。だがこの展開こそが16世紀における「一部貴族の口にしか入らない超贅沢品」を19世紀における「ありとあらゆる労働者を勤勉にする最も安価なカロリー源」に変貌させたのだった。それが「世界商品」の宿命らしく後に綿織物でも同じ事が繰り返される。
    *それでは背景にPanasonic創業者松下幸之助水道哲学ダイエー創業者中内功の「よい品をどんどん安く、より豊かな社会を」みたいなモットーがあったのか? それが全くの逆だった。英国砂糖業界は余剰資金のありったけを政界に注ぎ込む事で砂糖のコモディティ(日常品)化を1日でも遅らせようと悪足搔きを続けていく。これで恨まれないはずがない。

    水道哲学 - Wikipedia

    中内功「わが安売り哲学」
    *そもそも「本国での製糖」に執着し続けた事自体が利潤確保の為のささやかな抵抗の一環だった。そのせいで植民地における外国産砂糖に価格競争で勝てないと判明したら英国産以外の砂糖全てに重関税を掛けようとする。こうした横紙破りが重なってアメリカ独立戦争(1775年〜1783年)が勃発。
    アメリカ独立戦争
  • *そもそも18世紀時点では、産業インフラの整備度合いにおいてイギリスとフランスの間に決定的開きは存在していない(どちらも一部特定地域で産業革命の兆しが窺える程度)。決定的差が開いたのは革命期フランス(1789年〜1799年)の自打球。貧富格差を拡大する経済発展をこよなく憎むジャコバン派独裁政権が(フランス交易の中心地たる)ボルドーを政治的に粛清し尽くし(フランス工業の中心地たる)リヨンを大虐殺で破壊し尽したのが原因だった。フランスのブルジョワと英国のブルジョワの命運を分けた最大の違い、それは後者が土地を購入して地主となる事でジェントリーの仲間入りを果たせる事だったとされる。その代り英国政界は砂糖業者達を身内として抱え込む羽目に陥ったのだった。
    「歴史における危機」と経済的破局 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
    *さらにこの時、ジャコバン派独裁政権は第三の過ちも犯す。「革命によって覚醒したフランス人はもはや砂糖などという贅沢品の誘惑になど負けない」といった信念でも証明したかったのか(それまでフランスに流通する砂糖のほぼ全ての供給を担ってきた)サン=ドマングの独立を承認してしまったのである。砂糖価格の高騰は即座に暴動多発に結びついたので慌てて取り消したが後の祭り。何度軍隊を送り込んで軍事的制圧を繰り返してもサン=ドマングが元の砂糖生産地に戻る事だけは決してなかった。ただこの無謀な試みが怪我の功名となり、欧州内陸部にビーツ(砂糖大根)を使った製糖技術が広まり、ナポレオン戦争が終わると(奴隷価格高騰に悩まされていた)植民地産より安価な砂糖を供給する様になっていくのである。だがもちろん、頑迷な英国砂糖業者がその英国への流入を素直に許す筈などなかった。
    サン=ドマング - Wikipedia
    *いつもの様に政界へと手を回し「英国に大陸産砂糖を輸入する際には重課税」といった施策で自らの利権をガッチリ守り抜こうとした英国砂糖業界だったが、その振る舞いが(労働者の為に安価なカロリー供給源を求める)産業資本家達の逆鱗に触れた。自由貿易主義の立場からこの種の保護関税をラッダイト運動の類と受け止める彼らを敵に回してしまった事で、とうとう英国砂糖業者の命運は尽きる。

    綿織物をめぐる冒険 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
    *確かに奴隷貿易禁止法(1807年)を成立させ、1823年に奴隷制度反対協会を結成したウィルバーフォース(国教会の福音主義者にして下院議員)らは純粋に人道的見地からこの問題に取り組んだのかもしれない。しかし第1回選挙法改正(1832年西インド諸島で大農園を経営しているような有産者議員に不利で、自由貿易を望む産業資本家議員に有利な内容)からグレイ内閣(ホイッグ党)の奴隷制度廃止法(1833年)に至るその後の流れを主導したのは彼ら産業資本家達達だった。とはいえ農奴制撤廃がユンカーを滅ぼさなかった様に、奴隷制撤廃は英国砂糖産業関係者を破産させなかった(不在地主はとっくの昔に財産整理を終えており、蜥蜴の尻尾として切り落とされた現地農場もまたアジア移民を代用品として使ったり、まだ奴隷制が許容されていたキューバなどのスペイン植民地に移転して再出発を遂げる)。「確かに悪は滅んだが、誰も城を枕に討死などしなかった」というあっけない幕切れであり、ここに出来レースの一種を見て取る向きもある。

    奴隷制度廃止
    *むしろ奴隷制廃止が完全に寝耳に水となり、次々と破局を迎えたのは、それまで奴隷狩りで生計を立ててきた西アフリカ諸国の領主達だった。彼らの中には代替産業としてパームツリー栽培などに取り組んできた名君もいたが(一切の略奪を正当化してくれる)部族法の枠内で思考が完結している王も少なくなかった。いずれにせよ再び小国に分裂して絶えざる内紛状態に陥る事は避けられなかった。彼らこそある意味、大西洋三角貿易におけるオブローモフ達だったのかもしれない。

    イスラム過激派の原風景 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
  • それでは砂糖の売却益はどういう形で大英帝国の発展に貢献してきたのだろうか。少なくとも南海泡沫事件(South Sea Bubble、1720年)と東インド会社破綻の痛手から英国政府を回復させ「パクス・ウォルポリアナ(Pax Walpoleana=ウォルポールの平和)あるいはロビノクラシー(Robinocracy=ロビンの支配)」と呼ばれる平穏期(1720年~1742年)の現出させたのは「砂糖の力」だったとされる。実際当時政界を支えた穏便派ホイッグ議員は砂糖利権関係者が多く、ストロベリー・ヒル・ハウス(Strawberry Hill House)改築で著名なロバート・ウォルポール首相の三男ホレス・ウォルポールや、私領内にシトー修道院風建築物を建ててそこで暮らしたウィリアム・トマス・ベックフォードもホイッグ党を財政面で支えてきたカリブ海砂糖農園の不在地主の一人だったのである。とはいえ責任内閣制と有事に際して国債によって資金を調達する仕組みを固めた彼らはその後、スコットランド貴族のビュート伯やその哀れな身代わりジョージ・グレンヴィル(庶民院ホイッグ)といったトーリー派(国民からは嫌われていたが国王の信任は厚かった)に政争で敗れ、あっけなく蟄居生活に入ってしまう。
    「英国は歴史上一度も勝利してない‼︎(涙目)」史観 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

    「砂糖王」と「煙草貴族」は何が違った? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

    *それ以降の英国政界は(植民地人の感情の機微が分からず横暴を重ねてアメリカ独立戦争を勃発させてしまった)トーリー派と(フランスに植民地戦争で連戦連勝を重ね大英帝国を完成形に導いた)大ピット(William Pitt, 1st Earl of Chatham, PC, 1708年〜1778年)や(フランス革命開始からナポレオン戦争当時まで国政を担い続けた)小ピット(William Pitt the Younger、1759年〜1806年)といった「(ウォルポール派の平和外交弾劾に端を発する)海商派ホイッグ」の両輪で回っていった。英国砂糖業界がそのうちトーリー派の「アメリカ植民地虐め」に積極関与したのは事実だが、それは「植民地に鉄工所など一つたりとも存在してはならない」と豪語した本国鉄鋼業界もそうだったし、独自財源を駆使して彼らの黒幕として君臨していた英国王は(おそらくプロイセン宰相ビスマルクが自らの利権を守る事にしか関心のないブルジョワ層に牛耳られたフランクフルト議会を嫌い抜いていたのと同じ理由で)彼ら全体に好意を抱いていなかった。ましてや自由交易至上主義の立場に立つ海商派ホイッグと保護関税を乱発する勢力の間に妥協の成立する余地はない。「奴隷産業があったから産業革命が成立した」とする世界システム論の前提は、この辺りから徐々に揺らぎ始める。
    ジョン・ステュアート (第3代ビュート伯) - Wikipedia
    ジョージ・グレンヴィル - Wikipedia
    ウィリアム・ピット (初代チャタム伯爵) - Wikipedia
    ウィリアム・ピット (小ピット) - Wikipedia
    *英国砂糖産業業界の露骨な内政干渉例としては七年戦争(英Seven Years' War、独Siebenjähriger Krieg、1756年〜1763年)に連動する形で北米において遂行されたフレンチ・インディアン戦争(French and Indian War、1755年〜1763年)の終戦処理におけるそれが有名である。この戦争でイギリスはキューバを獲得したが、ライバルを増やしたくない英国砂糖業界は強引なロビー活動を展開してこれをスペインに割譲させてしまう(代わりにイギリスはフロリダを獲得)。一事が万事この調子で、国益など一切視野になく既得権益の墨守だけが全て。これでは次第に嫌われ孤立していったとしても不思議ではない。実際当時の文章を見ると言われたい放題だったりする。
    キューバの歴史 - Wikipedia
    *むしろそうした英国砂糖業者の国内における政治的孤立こそが、港町リヴァプールやその後背地マンチェスターに蓄積された余剰資本を(海外植民地で好まれた)綿織物工業に投資させたとする意見もある(要するに「他に融資を受け付けてくれる先がなかった」説)。実際バークレー銀行の設立資金やジェームズ・ワットの蒸気機関の発明に融資された資金はそれであった。とはいえ18世紀段階の産業革命はまだまだ起業に大量の資金投下が必要な段階に入っておらず、その全てが砂糖関連事業で賄われた訳でもない。そしていよいよ本格的に機械制工場工業の時代が始まった時代には既に保護関税を嫌う産業資本家達に完全に囲まれ殲滅を待つばかりとなっていた。

    綿織物をめぐる冒険 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
    *そもそも英国砂糖業者達は余剰資金が生じると何よりもまず真っ先に土地を購入してジェントリーの仲間入りを果たそうとした。そしてそれに成功して社交界にデビューして以降は成金の性でとてつもない贅沢に残りを費やしていく(ホレス・ウォルポールストロベリー・ヒル・ハウスや、ウィリアム・トマス・ベックフォードが私領内に建てたシトー修道院風建築物だけが全てではない。誰もが所領内に豪邸を建て、莫大な量の召使いを養っていた)。案外それだけで手一杯だったとする説もある。
    英国のジェントルマン資本主義 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
     

こうして全体像を俯瞰してみると、少なくとも世界システム論者が共有する「カリブ海域で砂糖が採れたからこそ奴隷制度があったのであり、奴隷制度があったからこそ産業革命があった」なるテーゼが何一つ当を得てないのは明らか。実在したのは西アフリカ諸国の君主達や英国砂糖業者の思考停止(非人道行為の黙認)を中核とする複雑怪奇な共依存関係。ただし基本構造としてはそれまでユダヤ人ゲットーを見舞ってきた悲劇やフランス革命の遠因の一つとなった「フランス本国におけるアンシャン・レジームの暴走」と何ら変わりない。要するに「人間とは、見たくないと思っているうちに実際に見えなくなり、考えたくないと思い つづけていると実際に考えなくなる」という事なのである。
*ちなみに奴隷制砂糖プランテーションから解放された奴隷は多くが現地で零細自作農化。今日なおこの層が各国の貧困率引き上げに貢献し続けている様な有様だが、キューバだけはあえて砂糖プランテーションを運営し続け(少なくともソ連が崩壊する1990年代までは)外貨獲得手段として有効活用してきた。単なる「奴隷制砂糖プランテーション=滅ぼすべき絶対悪」という思考停止状態からは、この展開は想像だに出来ない?

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/63/Frankfurt_Am_Main-Fay-BADAFAMNDN-Heft_21-Nr_245-1904-Die_Judengasse_Suedseite.jpg

塩野七生「ルネサンスとは何であったのか」

人間とは、見たくないと思っているうちに実際に見えなくなり、考えたくないと思い つづけていると実際に考えなくなるものなのです。その例証としては適当かどうかわかりませ んが、一般のドイツ人と強制収容所に送られて死んだユダヤ人を思い起してください。ドイツ人の多くは、強制収容所が存在することは知っていた。昨日まで親しくし ていた友人が突然に姿を消したのにも、気づかなかったはずはない。ただ、そういうことは見たくないし考えたくないと思いつづけているうちに、実際に見えなくなり考えなくなってしまったのです。戦争が終ったとき、ドイツ人は一様に言った。我々は知らなかったのだ、と。これは知りたくないと思いつづけたからに過ぎません。

ユリウス・カエサルの言葉に、次の一文があります。『人間ならば誰にでも、現実の全てが見えるわけではない。多くの人は、見たいと欲する現実しか見ていない』。この一句を、人間性の本質を突いてこれに勝る言辞は無し、といって自作の中で紹介したのは、マキャベリでした。ユリウス・カエサルは古代のローマ人、マキャベリは、それよりは一千五百年後のルネサンス時代のフィレンツェ人。カエサルの言を『再興』した中世人は、一人も存在しません。つまり、中世の一千年間、カエサルのような考え方は、誰の注意も引かなかったということでしょう。

 割とシンプルながら、色々と応用の効きそうな考え方…