諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「ウォーラーステインの世界システム論」とマクニールの「世界システム」論の狭間


川北稔「世界システム論講義」は、単なるウォーラーステインの世界システム論の要約というより、実例の掘り下げによってオリジナルの学説が抱える還元主義的欠陥を試みた意欲作というべきなのかもしれません。

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こうした分析から浮かび上がってくるのは「あえて低開発状態に置かれた周辺に対する中核の搾取」というより、以下。

  • 大航海時代幕開けが引き起こした欧州経済中心地の地中海沿岸から大西洋沿岸への推移のインパクトの大きさ。
    *穿った見方をすれば何者かの意思が飴と鞭を駆使して欧州東部を再版農奴に走らせ、西サハラ交易を破壊された西アフリカ諸国を奴隷狩りモノカルチャー国に仕立て上げて大西洋三角貿易を準備した様にも映らないでもない。しかしその何者かとは本当に何者なの?
  • 欧州領にばかり拘泥する大陸君主達さの傲慢と先見の明の不足。
    *ハプスブルグ家がスイスやオランダの独立を認めざるを得ない事態に追い込まれたのも、大英帝国がフランスから海外植民地を奪い放題だったのも、ハノーファー領主でもあったイングランド国王や(ジェントリー階層から嫌われた)スチュワート王朝の伝統的思考様式を継承するスコットランド貴族出身の大臣が米国独立という形でしっぺ返しを受けたのも、オランダ王国ベルギー独立認めざるを得ない事態に追い込まれたのも全てそのせいとも。
  • 大陸型絶対王政イデオロギー的に支えた(領主が領民と領土を全ん人格的に代表する)農本主義的伝統と自由主義者の相性の悪さ。
    イングランドはジェントルマン資本主義の導入によってなんとか懐柔に成功したが、フランス絶対王政は終始これに振り回されっ放しで「沈んだり潜ったり」を繰り返してきたし、オランダもある意味王政強化が仇となってこの問題に直面する様になり、その繁栄を自ら手放した。 

そして産業革命の時代を特徴づけるのも「あえて低開発状態に置かれた周辺に対する中核の搾取」というより、以下。

そして欧州はベル・エポックなどを謳歌する産業革命成功国と、農奴解放後も再版農奴制の痛手から未だ抜け出せずにいる欧州東部や地方分権化進行によってすっかり零落したオスマン帝国の様な農本主義からの脱却失敗組に二分される事に。そしてこの矛盾こそが(司馬遼太郎応仁の乱について「革命意識のない一種の生物学的な発熱と脱皮現象」と例えた様に)自然発生的に第一次世界大戦(1914年〜1918年)を引き起こす事になったとも。そう考えると色々しっくりくる感じがします。

現実の歴史の何が厄介かって「農園領主制から出発しながら農本主義から脱却して資本主義社会への適応に成功したユンカー達」とか「最後には遂に自分なりの産業革命導入メソッド考案に成功したフランス」とか「地主の利権のみを代表するトーリーから出発しながら労働者を票田として確保する事に成功した英国保守党」みたいな例外状態に満ちてる辺り。「常に考え続ける人間だけが助かるとは限らないが、少なくとも考えるのを止めた人間はその時点で神の恩寵が全てとなる」みたいな大変シビアな世界観。

ウィルアム・マクニール「世界史講義(The Global Condition: Conquerors, Catastrophes, and Community、1992年)」

相互に行き来する社会によって構成されていたユーラシアの世界システムは1500年以降、正真正銘の世界システムとなった。それに応じて、はるか昔には書記や官吏の記述から漏れる事が多かった文化圏をまたいだ歴史や世界史的展開が一層目立つ様になってくる。世界の密接な関わりに注意を向ける事なく一国の歴史を記す事が不可能となってくる。

内容はともかく「世界システム」という用語とその開始時期は概ねウォーラーステインのそれと重なる点が興味深い。

16世紀は「ローカルシステム集合体」の「世界システム」への移行期

大航海時代到来を背景に欧州経済中心地の地中海沿岸から大西洋沿岸への推移が進行。このサイトは概ねウィルアム・マクニール, 「ヴェネツィア――東西ヨーロッパのかなめ、1081-1797(Venice: the Hinge of Europe, 1081-1797、1974年)」の言及に従って以下の3地域中心に概観する。

この枠組は補助的に以下も含む。

まるで 「行く人来る人」の様な慌ただしさだが、その一方ですべての動きの根底に欧州経済中心地の地中海沿岸から大西洋沿岸への推移を見てとる向きもある。
*ここでいう「大西洋沿岸」はバルト海や北海、さらにスペインやアフリカの西岸をも含むが、そのうち後者は包囲戦(1627年〜1628年)遂行までユグノー経済を支え続けてきたラ・ロシェルや(フランス革命期にジャコバン派独裁政権の手によって在地有力者が粛清され尽くすまで)コルベール重商主義を端緒とするフランス交易の要として栄え続けてきたボルドーに商品売り込み先として周辺化されたとも。またヴェネツィアオスマン帝国から勝ち取った文書行政用紙の専売権などもカピチュレーション(1536年にフランス使節とオスマン帝国大宰相の間で条約案が合意に達し、1569年までに両国の間で締結された特勅)成立以降はフランスの手に渡り、一時期はヴェネツィアが欧州全体の発行書籍の1/3を占めた出版事業もアムステルだけでなくパリやリヨンがかなり食い込んでいる。

17世紀から18世紀にかけては英仏の「世界システム」参入期

16世紀段階ではまだまだフランスもイングランドも「世界システム」参入を果たしたとは言い難い状況にあった。17世紀以降は遂にそれが達成されるが「どうやって」については様々な議論が存在する。

 世界システム論講義-──ヨーロッパと近代世界-ちくま学芸文庫-川北稔

「17世紀の危機」についてのホブズボームの見解

かつて17世紀ヨーロッパの経済が「全般的危機」の状態にあったと論じたのは、英国の歴史家E.J.ホブズボーム(Eric John Ernest Hobsbawm, 1917年〜2012年)であった。マルクス主義 者であったホブズボームの議論は、本質的にマルクスの経済発展に関する 理論を、この時代の歴史にストレートに適用したものであった。すなわち、彼よれば、16世紀のヨーロッパ は、人口増加や物価上昇、セビーリャの文書で確認できるスペインの対アメリカ貿易、デンマークスウェーデンのあいだのエアーソン海峡関税帳簿によって確認できる東西ヨーロッパ貿易の大発展などにみられる「拡張の時代」つまり「好況期」であった。しかし、この「発展」は、東ヨーロッパ の「再版農奴制」に みるように、あくまで「封建制度」の枠のなかの出来事であった。西ヨーロッパにしても「 絶対王政」という封建的な権力のもとに置かれていたのである。このような 枠( つまり「封建的生産関係」)のなかでの発展(マルクス主義の用語でいう「 生産力 の 成長」)は、おのずと天井に突き当たる。それが1620年代からの「停滞」ないし「危機」である。

こうして、世界的に貿易活動は停滞し、ヨーロッパ各地に反乱や動乱が起こる。イギリスのピューリタン革命とそれにまつわるスコットランドアイルランドの反乱、名誉革命、フランスのフロンドの乱カタルーニャなどスペイン各地の反乱などである。スウェーデンにもクーデターがあり、遠くロシアにも、ステンカ・ラージンの一揆がみられ た。

ところで、ホブズボームの見解からすれば「危機」は「封建的生産関係」の危機だっ たのだから、それを脱するには、社会の基盤をなす生産関係を、近代的・資本主義的な ものに一挙に変えることしかない。生産関係の激変は、いうまでもなく革命である。つまり「ブルジョワ(市民)革命」によって社会の体制を一段階すすめることだけが、この「危機」に対する処方箋であり(「発展段階論」)、正しい処方箋を書いたのは、フランスでもスペインでもなく、イギリスであった。17世紀後半以後 イギリスがオランダ、フランスを撃破して、世界の主導権を握り「世界で最初の産業革命」にいたるのは、まさしくイギリスが「世界で最初の市民革命」に成功したためであった。これが、 ホブズボームの議論であっ た。ここでいう、イギリス市民革命とは、17世紀中葉のいわゆるピューリタン革命と1677年の名誉革命を想定するのが一般的であった。

「17世紀の危機」についてのH.R.トレヴァ゠ ローパーの見解

 しかし、H.R.トレヴァ゠ ローパー(Hugh Redwald Trevor-Roper, Baron Dacre of Glanton, 1914年〜2003年)など、全ヨーロッパ的な「危機」の存在は確認しながらも「危機」の本質はまったく違うと考える歴史家も少なくなかった。トレヴァ゠ローパー によれ ば「危機」の兆候は、ホブズボームのいうような経済や政治の面ばかりか、 社会 にこそみられ、中世的な魔女裁判やほうき星信仰のような非合理的なものが復活し た、という。繁栄 の16世紀を支えた「 体制」は、絶対王政の宮廷であり、その宮廷は ルネサンス的な奢侈に彩られていた。官僚制度と常備軍という絶対王政の二本柱そのものが、きわめて「 高くつく」道具立てで あった。こうして、王室の「奢侈」を支える ために、財政改革が不可欠となったが、それに成功しなければ、租税強化以外に方法は なかった。結果は、奢侈的な宮廷につながり、甘い汁を吸う「宮廷派」と、重い租税負担にあえぐ「地方派」に、社会を二分することになった。前者がルネサンス的であった とすれば、後者は禁欲と勤勉をモットーとするピューリタン的な思考法に傾いていった のも当然である。「危機」の本質をこのようにみ たトレヴァ゠ローパー は、リシュリューやコルベールなどの財政改革者を登用したフランス王室こそが、この「 危機」に 正しく対応したのであり、だからこそ、その王室は政権を維持し続け、逆に、チャールズ一世のもとで、改革を怠ったイギリス王室は、「革命」を引き起こしてしまったの だ、という。

第三の立場「財政・軍事国家」論

イギリス一国史ないしイギリスとフランスの比較 史といった国別史の次元でいえば、 近年急速に盛んになりつつある「財政・軍事 国家」論 ─ ─17世紀〜18世紀のイギリス 国家が、フランスよりはるかに重い税をとりながら、国民の不満をあまり招くことがなかったという ─ ─ が、両者の議論を総合することに成功するかもしれない。 

「ジェントルマン資本主義」と「財政・軍事国家」論

ジェントルマン資本主義論とは対立するイギリス史の見方に「財政・軍事国家」論とでもいうべきものもある。産業革命の存在を強調しようとする歴史家は、むしろ19世紀 イギリス政府の自由貿易政策に、イギリス衰退の原因を求めており、これとの対比で18世紀の政府を称賛するのである。彼らによれ ば18世紀のイギリスは、フランスに比べ てたいへんな重税国家となっていたが、国民の税にたいする反発はそれほど強くはなかった。反税闘争が革命につながったフランスとは、この点でまったく異なっていたというのである。

イギリスの民衆が重税に反発しなかった理由は、イギリス政府が、徴税にあたるべき官僚を、もっとも租税負担の重い中産階級から任命したからであり、貴族に特権を認めなかったからだとも、彼らはいう。そのような徴税システムは、17世紀末に、イングランド銀行の設立を中心とする「財政革命( P. G. M. Dickson)」によって確立された。

しかも、イギリス政府は、このような膨大な資金を、ほとんど軍事費と軍事支出のため に発行した国債の元利の支払いにあてた。その結果、対仏戦争は、資金の豊富なイギリスがつぎつぎと勝利し、大英帝国(第一帝国とも重商主義帝国ともいう)の形成につながっ た、というので ある。かずかずの戦勝は、この重税国家をささえた中産階級─ ─彼らは、重税に耐えるジョン・ブルとしてしばしば戯画化された─ ─を熱狂させ、 彼らの支持はますます強化された。この結果、イギリスは軍事力によって、自由貿易圏 を確保することができ、これを基盤として産業革命に成功した。しかし、19世紀イギリス政府は、自由貿易を前提とし「 軽い政府」に移行したため、結局は、急速に工業化されたドイツとアメリカに敗れ、1873年以降の「 大不況」のなかで、世界システムのヘゲモニーを喪失していくのだという。

 とりあえずこのサイトでは「ジェントルマン資本主義」論を中心に以下の様に概観する。まぁ現在なお歴史学の分野で激論が交わされてる状況だから、それほどすっきりとはまとめ切れてない…

こうして全体像を俯瞰してみると「17世紀の危機」の正体は案外、大不況 (1873年〜1896年)の時と同じ様に(重商主義流行に伴うある種のブロック経済化の進行を背景とする)流通麻痺だったのかもしれない。
*実際、同時代日本でも、全国各地の戦国大名達が楽市楽座などを通じて選別した御用商人と癒着する事で構築された領国ごとのブロック経済が「(西陣商人などの)株仲間(参勤交代の為に整備された交通網を利用した富商と富農の全国規模ネットワーク)」の暗躍によって次々と穴を穿たれ陥落していく。欧州ではその役割をオランダ商人やアムステルダム及びハンブルグに依るセファルディムユダヤ人が果たしたとも見て取れるのだが、日本における大名と癒着した御用商人元禄時代までにほとんど駆逐され尽くしてしまったのに対し、欧州ではドイツ諸侯らの割拠する経済後進地帯を中心に宮廷ユダヤ(Hofjude(n), Hoffaktor)が19世紀まで残存した。主にフランクフルト出身のアシュケナージユダヤ人で構成された彼らは、実際には確実に(アムステルダムハンブルグに依る)セファルディムユダヤ人と裏で通じ合っていたので「赴任先の経済理解度に応じて見せ方を変えていただけ」とも言われている。

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-43-f7/masagoyamatui/folder/131109/67/415867/img_3

ウォーラーステインの「世界システム論」の内容って思うより全面否定が難しいのです。こうして「あえて低開発状態に置かれた周辺に対する中核の搾取」なるテーゼの部分くらいなら摘出除去も不可能じゃない様に見えますが「それでも搾取は実存する」と信じてる立場の人から「でもこの程度、誤差の範囲内じゃね?」と正面切って決めつけられてしまうと反論は通用しなさそうなんですね。