諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「搾取と移民」の相互関係

司馬遼太郎「アメリカ素描(昭和60年,1985年)」

その国を知るにまず原形(あるいは原質)を取り出して現状と照合するのが作業の初期段階と私は考えている…もっとも何が原形(あるいは原質)かとなると、選択や判断が難しく、ほとんど勘に頼るしかない。

さて、アメリカの場合は…

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司馬遼太郎「アメリカ素描(昭和60年,1985年)」

アメリカは大英帝国の植民地として出発した。帝国とは収奪の機構といってよいが、英国は古代帝国ではないのでそれを巧妙に行った。本国として植民地から徴税するだけでなく、植民地自体が独自の工業を育成する事を嫌悪し、抑え邪魔し続けたのである。英国の論理としてはあくまで工業は本国のみが持つべきもので、植民地はただひたすら本国が生産する鉄と鉄鋼製品を購入し続ける立場に甘んじ続けるべきだった。

古い本だがオットー・ヨハンセンという冶金学者「一般人の鉄の歴史(1925年)」の中に僅かながらアメリカの鉄とその加工の歴史に触れた箇所がある。アメリカがまだ植民地だった1750年、英国のサッチャム卿は演説の中でこう述べている。


植民地の者は単に馬蹄釘一つだに自分で生産する事を許されるべきではない。

凄い台詞であるが、植民地アメリカは抜け目ない。この演説より前,1719年には既に六基の溶鉱炉と十九台の鍛造機が稼働していたという。もっともその報が本国に伝わって英国の製鉄業者や加工業者が大反発を起こし、議会を動かして植民地における製鉄と加工を禁止する法律をつくらせたのだった。

とはいえアメリカ植民地人も素直には従わなかった。彼らのほとんどが本来は英国からきた英国人だった事が他の植民地との最大の相違点となる。同民族だけに反発手段も巧妙で、反発力も比較にならない程大きかった。それで植民地時代において既に工業の素地が築かれるという手品の様な芸当が実現した訳である。そしてサッチャム卿が凄んでから26年後の1776年にフィラデルフィア市でアメリカの独立宣言が行われる。星条旗もこの街で生まれたとされている。デザインは誰か不明だが、おそらく英国艦に対して新大陸側の艦である事を示す軍艦旗あたりがルーツだったのではあるまいか。

日露戦争前夜、そのフィラデルフィア市がロシア帝国から戦艦を受注。小村寿太郎の書生だった桝本卯平がさっそく工員に化けてクラムプ造船所に乗り込んだ。「自然の人小村寿太郎(大正三年,1914年)」社長のチャールズ・クラムプは小柄で年老いてはいるが顔に迫力があるユダヤ人。まずは製図室に入ったが、そこでも純粋な米国生まれの人が極めて少ない事に驚かされた。ノルウェーやドイツやイギリスやフランスといったヨーロッパ造船先進国からの移民技術者ばかりで「アメリカの技術が発展した筈だ」と桝本当人は書いてないが、読者はそう声を挙げざるを得ない。当時のヨーロッパは高い技術教育を受けた人々の人数に比べ、その才能を生かす市場があまりにも小さすぎた。また市場以上に大学研究室の定員も小さかったから、それらの中で敢為の精神を宿した頭脳はこぞって大西洋を渡り、より成功の可能性の大きいアメリカに流入し続けたのだった。第二次世界大戦後もアメリカはドイツをはじめにヨーロッパ最先端の学問や技術を人間ぐるみ大量に吸収した。立場をかえてヨーロッパからの頭脳移民の側に目を向けると、自分達がヨーロッパでは成し遂げられなかった志を思いのまま伸ばしたともいえなくもない。

「これが米国社会の同化力の機能である」と桝本は書き残している。収入が増えてしかも自由なら、どんな技術者でもやってくる。桝本が19世紀最末期のアメリカ工業の断面をこうして切り出してくれた事には感謝する他ない。その国を知るにまず原形(あるいは原質)を取り出して現状と照合するのが作業の初期段階と私は考えているからである。もっとも何が原形(あるいは原質)かとなると、選択や判断が難しく、ほとんど勘に頼るしかない。

製図室に半年いた後、桝本は「職工になりたい」と言い出して工場現場に近い安宿に移る。収入はギリギリだったが、それでも賄いや居酒屋の取り放題の摘まみが充実していて日本の労働者よりはるかに豊かな生活が送れる事に驚いた。「この自由(居酒屋において無償で提供されるビーフやハムやサンドイッチやチーズをタダで食べられる権利)があるから米国では労働者の不平が少ない。口に入れるものばかりか、見る物、聞く物、身に纏うもの、その悉くがこの調子なのである。これが米国社会の同化力の機能である」。確かに言論の自由や信教の自由だけでは腹の足しにもならない。やがて「坂の上の雲」で書いた秋山真之(1866年〜1918年)が接近してきて造船家の卵たる桝本の為にこの都市で重んじられているヘーグという老造船技師を紹介してくれる。そうした人物が生粋のアメリカ人ではなくドイツ人であった辺りもアメリカならではというべきか。その結果、彼が職工として入る事になった現場がロシアより受注した戦艦「レトウィザン」の築造現場だったのも果たして偶然だっただろうか。

彼は職工として良く働いたが、辛い職場だった。春から初夏にかけてはまだ良かったが、真夏の陽に焼けた船体の中で働くのは地獄そのものだったのである。体中から水分が搾り取られる様に蒸発し、披露によるミスで毎日何人もの怪我人が出たが、それでも職工達が陽気さを保ち続けていられたのは、桝本のいう「自由」の効能のせいだったかもしれない。

その桝本にとって印象的だったのは、鋲打ちも夭折も出来なかった為に下級の労働にしか就けず雑役として酷使されていたイタリア人達だった。「物も言えずに車ばかり曳いてるイタリア移民」と桝本は同情的に描写している。「イタリア移民はみんな乞食の様な格好をしていた。まだ米国に来て間もないので俚語は片言も判らず、七人から八人の単位で紐付き車を曳いて鉄板を工場じゅうに運んで配って回っていた。まるで動物…」。彼らは臨時雇いで賃金は普通の職工の五分の一。アメリカにおけるイタリア移民の原風景がまさにここにある。

英国、本当に容赦ない…そういえばスペインやポルトガルも基本的にはこういう方針だった。

 古い本だけど「アメリカとは何か」考える出発点として今でも有効かと。

まぁこういうアメリカの側面にもきっちり言及があるしね。

良い意味でも悪い意味でもアメリカはこういう対応が上手い?