諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ベルギーワッフルは何故あの形? ベルギーの産業革命について

そもそもベルギーは18世紀においては既にレースや宝飾品や高級菓子といった贅沢品の北フランスへの供給によって栄えてきました。

アガサ・クリスティの推理物に登場する名探偵エルキュール・ポワロは美食家で自分でも料理をして時間が取れたら家庭菜園でカボチャなどを育てたいと考えている。英国人の思うかべるベルギー人のステレオタイプの一つ? そういえばベルギーは11世紀よりイタリアレースを参考に国内で自生するリネン(麻)を材料としてレース編みが始め、スヘルデ川流域に生える亜麻草を糸にしてレースを織り続け、16世紀から17世紀にかけてヨーロッパ全土の上流階級の間に爆発的なレース・ブームを起こしたりもしているのだった。

羊毛をめぐる冒険 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

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英国人女流作家ウィーダ/マリー・ルイーズ・ド・ラ・ラメー(Ouida/Marie Louise de la Ramée、1839年〜1908年)が「フランダースの犬(A Dog of Flanders、1872年)」の中でアントウェルペン/アントワープを「生き地獄」の一種として描いたのは、そうした地域独特の(貧富格差の放置といった)精神的荒廃を見据えた結果だったのかもしれません。まぁそれ自体は同様の立場にあったイタリアでも見られた景色です。産業革命期英国も同様で、やがてそれが大きな社会問題へと発展していったりもします。

さらにこの地域、英国同様、産業革命が始まったのが早かったりします…あれアニメ版「フランダースの犬」に描かれた情景からどんどんずれていく…

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冷蔵技術の進化によって牛乳運びの職を奪われた主人公のネロ少年も産業革命の犠牲者の一人と言えるかもしれません。風車小屋が焼け落ちるのも(その後再建されない事によって)それが蒸気機関に置き換えられていく歴史を暗喩していたとする説があります。まぁアニメ版ではそれぞれ随分と違った描かれ方をしてましたが…
*ちなみに映画における風車小屋の焼ける落ちる場面は、その多くがモノクロ時代の怪奇映画の傑作「フランケンシュタイン(Frankenstein、1931年)」のクライマックスでフランケンシュタインの怪物が村人に焼き殺される場面へのオマージュである。ティム・バートン監督の「フランケンウィニー(Frankenweenie、1984年、2012年)」もその代表作の一つで「フランダースの犬へのオマージュ」とする説は間違い。ただ犬が死んで風車小屋が焼け落ちると日本人が脊髄反射的に「フランダースの犬」を思い出すのを止める手立てはないし、それに関連して「そういえばフランダースの犬もアメリカ版はハッピーエンドで終わる」というエピソードを連想する事自体は本質的に間違ってない。ただパトラッシュを蘇らせるのは止めてあげて!! 彼のHPはもうゼロよ!!

とはいえ「フランダースの家」に登場する田舎農家が主に育てているのは新大陸から渡ってきた玉蜀黍。中世から継承されてきた伝統が脅かされた訳ではなく、ここに気をつけなければいけません。変革は昔から続いてきたし、これからも続いていくのです。
*「玉蜀黍」…多くの日本語版でそう訳されており、実際ベルギーでも麦が育てられない様な地力の弱い農地の定番作物だが、ただ英語でそれを表すCornという言葉の原義は「穀物」であり、本当はライ麦か何かかもしれない。いずれにせよ本文中では現地農家の貧困に結びつけて語られている。

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そしてチェコ同様、北フランスやベルギーも(フランス革命に便乗して植民地が独立してしまった為に発生した砂糖の圧倒的供給不足に対抗すべくナポレオンが奨励した)ビーツ(砂糖大根)の有数の産地でありました。という事はつまり実は奴隷貿易を含む英国の大西洋三角貿易をその安値攻勢で滅ぼした側という事。

*そういえば楽聖ベートーベンも元来はベルギー系の姓でlその原義はビート(砂糖大根または甜菜糖)ホーベン(畑)という。

そして砂糖大根の製糖工場の蒸気機関化は早い地域だと18世紀末から…あれ、ネロの祖父はナポレオン戦争(1803年〜1815年)の帰還兵という設定なのに? 実は…

  • 小規模なら動力が水力や畜力でも結構間に合ってしまう。
  • 先に石炭供給インフラが整わないと蒸気機関化は進行しない。

こうした理由から、大陸の辺鄙な地域ではそれが20世紀上旬までずれ込んだケースまである様です。しかもその頃になると火力ダムや水力ダムが建設されて電力配給網が整備されて「工業化」の内容自体、随分と多様化してきちゃうんですね。

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こうした歴史を辿るには、まずオランダの砂糖栽培史まで遡らないといけません。江戸時代から和菓子を発展させてきた原動力で(所謂「唐三盆」)、明治維新にも複雑な形で影響を与えていたりもします。さすがは「世界商品」…

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  • 確かにオランダ人は均整を通じて砂糖生産の中心となっていたカリブ海を含むラテンアメリカにほとんど植民地を所有していなかった。しかしその一方で16世紀から、ポルトガル領のブラジルのバイア地方で砂糖キビの栽培を手がけ、17世紀にはイギリス領のカリブ海などにもこれを持ち込んで栽培していた。

  • 17世紀末から18世紀にかけてはジャワ島で砂糖栽培を行わせ、今日のジャカルタ、つまり当時のバタヴィアの商館でこれを買い付けて製糖し、世界各地に転売していた。大まかには、ペルシャ・インド方面に3分の1、日本にも3分の1が輸出され、残りの多くは、オランダ本国に送られていたという。

  • 日本へは既に16世紀から台湾の砂糖が輸出されていたが、清朝康煕帝が台湾を押さえて以降途絶えてしまう。それで出島に来航したオランダ連合東インド会社が砂糖を持ち込むのは大歓迎だった。17世紀末から18世紀初め頃の出島の交易では、オランダ連合東インド会社の売り上げの21パーセントが、砂糖で占められていた。ピークの1703年には、その比率は47パーセントを超えていたという。こうしたアジア域内交易は日本の研究者の間では「アジア間貿易」、英語では「ポート・トゥー・ポート交易」ないし「ローカル交易」と呼ばれている。
    オランダ東インド会社が日本向けに砂糖の増産を開始したのは1624年以降。鄭氏も対抗して台湾での砂糖生産を奨励したという。明暦2年(1656年)における日本の砂糖輸入量は1320t。1665年時点におけるイングランドの砂糖輸入量が88tだった事を考えると、当時は日本こそが世界最大の砂糖輸入国だったのである。だがやがてカリブ海の英国砂糖業者は増産に増産を重ねその立場を逆転させる。
    ヨーロッパの歴史

  • オランダ人がすすめたジャワの砂糖生産は、中国人の管理者と中国人の労働者を使って展開された。砂糖生産には、砂糖キビの破砕、搾汁のために大きな動力が必要で、畜力か風力が使われた。オランダ人が考えたのは、当然風車であった。

  • だが「世界商品」としての砂糖には生産量が倍になると売値が半額以下になる困った特性があり、1740年には「さらなる値段下落に備えて大幅なリストラが敢行される」という噂がバタビア製糖工場の華人従業員の間に流れパニックが発生。バタビアの狂暴(アンケの悲劇)と呼ばれる華人大虐殺に発展して1万人を越す在島華人の大半が殺されるか島外追放の憂き目をみる事態となった。これ以降日本に持ち込まれる砂糖の量は激減。その隙を突いて薩摩藩琉球や本土で砂糖黍の栽培を開始。西国大名もそれに習って明治維新期における彼らの活躍を支える軍資金が積み上げられる展開となるのである。
    バタビアの狂暴

こうしてまずはオランダからの砂糖供給が途絶え、次いでフランス革命勃発以降(便乗してカリブ海の植民地が独立してしまったせいで)フランスからの砂糖供給も途絶えた頃から、突如として「砂糖の工場生産」が本格始動。
甜菜(学名Beta vulgaris ssp. vulgaris)、別名砂糖大根

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Beta vulgarisの栽培自体は紀元前6世紀頃から行われていたが、ただしそれは葉を食用とする野菜としてだった。今日でもフダンソウなどリーフビートと呼ばれる葉菜用品種が各地で栽培されている。次いで根の肥大した根菜用品種であるテーブルビート(ボルシチを赤く染める主原料)が分化し、さらに根部が肥大した飼料用種が栽培され始めたのは15世紀である。

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砂糖用のテンサイが栽培され始めたのは、1745年にドイツの化学者アンドレアス・マルクグラーフ (1709年〜1782年) が飼料用ビートから砂糖を分離することに成功してからである。その後、マルクグラーフの弟子であったフランツ・アシャール (1753年〜1821年)が砂糖の製造試験に成功し、1802年には製糖工場を建設し、工業化への道を開いた。

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甜菜糖の普及に一役買ったのがナポレオン・ボナパルトの奨励(1811年)である。1806年から1813年の大陸封鎖による影響で、ヨーロッパへ砂糖が供給されなくなったので砂糖自給を目的としてヨーロッパ各地に甜菜糖業が広まった。1832年には甘蔗糖業にはじめて真空結晶缶が使用されている。そして1837年に遠心分離機が発明され、1844年以降製糖業に導入された。概ね基礎が固まったのがこの頃。

この話が実は欧州全体が迎えた「18世紀的危機」問題と深く関係してくるのです。

この展開に納得がいかなかったのが、どさくさに紛れてオランダ王国に併合されたベルギー(特にフランス語圏のワロン人)でした。何故なら彼らには英国産業革命に追いつく秘策があったからなのでした。

リエージュ・ゴーフル(Les Gaufres de Liege)の世界

ゴーフルの起源は古く、古代ギリシャやエジプトまで遡ります。当時は粉と水で練った粥状のものを、熱い石の上で焼き食料としていました。13世紀になると鍛冶業が発達。鍛冶屋が長い柄をつけた鉄の型を考えました。長方形の2枚の鉄板の間に粥を流し、上下をひっくり返して焼くという発明は、時間の節約という意味で画期的なものでした。小麦粉以外にもそば粉や栗粉、ドングリ粉そしてジャガイモの卸したものまで使われました。18世紀に入り、卵やミルク、蜂蜜、シナモンなどが加えられ、ゴーフルが甘い嗜好品になりました。


一方、リエージュフランク王国分裂以来、皇子司教が支配する司教国となりフランス革命まで続きました。皇子司教はバチカンの法王に次ぐといわれたほどの権力を持っていました。“聖職者はうまいもの好き”といわれるように、歴代の皇子司教は大変な美食家だったため、司教宮殿の台所には世界中の珍味が集まり、当時は高価な香辛料だったシナモンも豊富にありました。その影響で、昔からリエージュ地方ではシナモンを何にでも使い、おのずからゴーフルにもたくさんのシナモンを入れたわけです。

しかしゴーフルがデザートとして民間でも食べられるようになると、高価なシナモンの代わりに安価な砂糖を入れることが考えられます。ベルギーは昔から砂糖大根から良質の砂糖を生産、輸出していたからです。ただしグラニュー糖ではなく真珠砂糖でした。この地方では昔からクラミック(真珠砂糖と乾しブドウ入り)とクラックラン(真珠砂糖のみ)と呼ばれるパンがありました。だからゴーフルにも真珠砂糖を使ったのです。

13世紀になると鍛冶業が発達。鍛冶屋が長い柄をつけた鉄の型を考えました。長方形の2枚の鉄板の間に粥を流し、上下をひっくり返して焼くという発明は、時間の節約という意味で画期的なものでした」…ああ、それであの形…日本における「鋤焼」の起源とよく似てますね。

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そう、この地域には13世紀から欧州でも有数の製鉄産業の拠点として栄えてきたというもう一つの顔があったのです。そしてビーツ(砂糖大根)の製糖工場というのは搾汁過程で大きな動力を必要とし、当初はオランダ同様に畜力や水力や風力で賄われていたのですが、その蒸気機関への移行が既に始まっていました。そういえば時計工場やココア工場の蒸気機関化が一斉に始まったのが18世紀末…むしろそれまで絶対王政庇護下で栄華を独占してきた工業都市リヨンがジャコバン派政府の焼き討ちで灰燼と帰したせいで彼らにチャンスが回ってきたとも言える状況だったのです。

いずれにせよベルギーは(フランス7月革命に便乗した)ベルギー革命(1830年)以降、大いなる躍進期を迎えます。そもそも、オラニエ=ナッサウ家を王統と仰ぐネーデルラント連合王国からの独立に際してベルギー国王に選ばれた「雇われ社長」レオポルド1世の来歴が興味深い。

ヴェッティン家(Haus Wettin)

家名は現ザクセン=アンハルト州のヴェッティン城に由来する。中世以来、主にドイツのザクセン地方、テューリンゲン地方を支配した有力な諸侯の家系。一時はポーランド王も兼ねたザクセン選帝侯の家系を本家とするが分家も多く、ザクセン諸公国の君主となった。その1つ、ザクセン=コーブルク=ゴータ家はベルギー、ブルガリアの王家となった他、イギリス、ポルトガルの王家にもつながっている。

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  • 822年に受爵したリクベルト伯爵まで遡れる男系名家で、現存する欧州貴族の家系ではロベール=カペー諸家に次いで古い家系とされ、ヨーロッパでも1,2を争うほど歴史のある名門でもある。978年にマイセン辺境伯となったリクダックもまたヴェッティン家出身といわれている。

  • 以後ザクセン=オストマルク辺境伯家やマイセン辺境伯家と婚姻関係を結ぶ。11世紀前半にディートリヒ2世がオストマルク(ラウジッツ)辺境伯となり、また、孫のハインリヒ1世はマイセン辺境伯位も兼ね、以後マイセン辺境伯位およびラウジッツ辺境伯位を同家が世襲した。1423年にはフリードリヒ1世が断絶したアスカーニエン家の後をうけてザクセン=ヴィッテンベルク公位を与えられてザクセン選帝侯となり、同家は旧辺境伯領とザクセン公領を合わせた広大な領地を一族で(時として分割相続を繰り返しながら)相続する事になる。
    *そもそもザクセンカール大帝ザクセン併合(772年〜804年)によって初めてフランク王国版図に編入され、かつその編入が隣接する地域のヴァイキング(北欧諸族による略奪遠征)を活発化させた曰く付きの土地である。結局それはザクセン族長に起源を有するリウドルフィング家のザクセン辺境公にマジャール人の東欧侵攻に鎮圧され、ドイツ王ハインリヒ1世がザクセン朝を開闢。その息子のオットー2世が962年に初代神聖ローマ皇帝オットー1世に即位してザクセン神聖ローマ帝国(962年〜1024年)が始まる事になる。神聖ローマ帝国皇統はその後、ライン川流域を本拠地とするザーリアー(Salier、1024年〜1125年、ローマ教皇を相手取った11世紀叙任権闘争で有名)や、イタリアと国境を接するシュヴァーヴェン地方(標準独: Schwaben, アレマン語: Schwobe, バイエルン・オーストリア語: Schwobm)から出たホーエンシュタウフェン朝(Hohenstaufen, 1138年〜1208年、1215年〜1254年、ドイツとイタリアを股にかけた教皇(Guelfi)と皇帝派(Ghibellini)の対峙(12世紀〜13世紀)で有名)やハプスブルグ朝(1273朝~1806)へと推移したが、ザクセン公国はその後も神聖ローマ帝国内で多大な影響力を発揮し続ける。

  • 15世紀半ばのフリードリヒ2世の二人の息子の間で分割相続が行われた後、エルネスティン家とアルベルティン家の二家に分かれた。

  • 賢明公、賢公(der Weise)と称されるエルネスティン家系のザクセン選帝侯フリードリヒ3世(在位1486年〜1525年)は(後にプロイセン王国の王室となった)ホーエンツォレルン家に連なるブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世ネストル(Joachim I. Nestor,、在位1499年〜1535年)の弟だったマインツ大司教アルブレヒトのドイツにおける贖宥状販売を告発した宗教改革マルティン・ルター(Martin Luther、1483年〜1546年)を保護してプロテスタントを承認し、ヴィッテンベルク大学を設立した功績で知られる。
    *全ての背景にあったのは、ザクセン選帝侯の歴代聖遺物コレクションだったとも。それはただ単に威信材としてのみ利用されてきただけではない。その拝観料が重要な財源の一つに位置付けられてきた。こうした既得権益がアルブレヒトの「指導要綱」およびドミニコ会員ヨハン・テッツェルらの贖宥状販売促進活動に著しく脅かされたので、ルターはこれに反論する形でヴィッテンベルク教会の門前に「95ヶ条の論題(1517年10月31日)」を張り出したとのだいう。さらにこうした情景の背後にあったのが「派手好き、イベント好き」でその名を知られたメディチ家出身のレオ10世(Leo X 在位、1513年〜1521年)の散財癖で、塩野七生は「神々の代理人(1972年)」の中で(あくまで報復的迫害を要求し続けるマインツ大司教アルブレヒトと「敵に回すと恐ろしい」ザクセン選帝侯の板挟みとなり、オロオロと手をこまねき続ける事しか出来なかった)この人物に「ドイツ人の一途さ、本当に面倒臭い」と言わせている。

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  • カソリック勢力とドイツのプロテスタント諸侯の対立は遂に宗教戦争に発展。ミュールベルクの戦い(Schlacht bei Mühlberg、1547年)でシュマルカイデン同盟に勝利したカール5世は、自身に敵対したヨハン・フリードリヒ(エルンスト系)から選帝侯の資格を剥奪し、味方したモーリッツ(アルブレヒト系)に褒賞としてこれを与えた。以降、選帝侯の資格はアルブレヒト系が継承していく事になる。
    *しかしカール5世はこの措置によってモーリッツの勢力が拡大する事もまた恐れ、ヨハン・フリードリヒの子息たちにテューリンゲンの各地の方伯として領土を与えてる事でヴェッティン家の分断統治を実現しようとした。

    https://www.lkee.de/media/custom/2112_1166_1_g.JPG?1354089584

  • カール五世の腹心ながらプロテスタントだったザクセン選帝侯モーリッツは、プロテスタント諸侯から「マイセンのユダ」と罵られ良心の呵責に苦しむ。その結果、プロテスタント側に最後まで残った唯一の拠点マクデブルクの攻略戦において裏切り、逆にカール五世を追い詰めてパッサウにおいてルター派を容認する旨の和平条約「パッサウ条約(1552年8月)」を締結。これが神聖ローマ帝国連邦国家化を不可避としたアウクスブルクの和議(1555年)の原型となる。さらには八十年戦争(Tachtigjarige Oorlog、1568年〜1609年、1621年〜1648年)によってスペイン・ハプスブルグ家からオランダ独立を勝ち取るオラニエ=ナッサウ家(Huis Oranje-Nassau)のマウリッツ(抵抗運動の指導者に選ばれ暗殺されたウィレム1世の息子)を女婿に迎える。その勝利は有名な「マウリッツの軍事改革」に加えザクセン選帝侯の後ろ盾があってこそ実現されたものであり、これに従軍してドイツや北欧出身の傭兵達が新式戦法を叩き込まれた事がやがて「北方の獅子」ウェーデン王グスタフ2世アドルフ(Gustav II Adolf、在位1611年〜1632年)の台頭につながっていくのだった。
    *シュマルカイデン同盟の敗戦は「人質として(カール5世の本拠地たる)フランデルに連行され若くして客死したヘッセンプロテスタント諸侯の姫君の悲劇」なる伝承を後世に残す。やがてその物語は価格革命進行によって放棄された廃坑に隠れ潜むプロテスタントレジスタンスの伝承と融合し、グリム兄弟に採集されて「白雪姫(Snow White)伝承」として世界中に広まる事に。ただこれに関してはバイエルンの民話研究者が「この物語がバイエルンの敬遠なカソリック教徒の物語以外であったとは到底考えられない」と激しく異議を唱え続けており、今日なお起源論争が続いている。ちなみにグリム兄弟が白雪姫の伝承を採集したのはヘッセンなのでバイエルン民話研究者の主張にはかなり無理があるのだが、政治的配慮などから、あえて結論が出ない状態で放置されているらしい。ドイツ人の一途さ、本当に面倒臭い。まぁ日本の九州王朝説や飛騨王朝説あたりも大概だけど、宗教問題に関連してこないだけまだいい。

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  • 1697年にはフリードリヒ・アウグスト1世がポーランド王に迎えられ、1763年まで同君連合となったが、波乱が絶えなかった。1700年に開始された大北方戦争に巻き込まれて一時その地位を失い、1733年にはポーランド継承戦争が起こされる。ポーランド王国における王権は無きに等しく、大北方戦争スウェーデン語: Stora nordiska kriget、ロシア語: Великая Северная война、ポーランド語: III wojna północna、デンマーク語: Den Store Nordiske Krig、ドイツ語: Großer Nordischer Krieg、英語: Great Northern War、1700年〜1721年)以後のポーランドはほぼ列強の傀儡国家あるいは緩衝国に変貌していく。

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  • 1806年、神聖ローマ帝国の解体に伴いザクセン王国となる。時のザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世はザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世となった。普墺戦争(Deutscher Krieg、1866年)に際してはザクセン=アルテンブルク公国やザクセン=コーブルク=ゴータ公国プロイセン側、ザクセン王国ザクセン=マイニンゲン公国がオーストリア側について戦っている。ザクセン王国は当初中立の立場をとろうとしたがかなわず、その為にプロイセン軍による占領を受けて降伏を余儀なくされてしまう。かろうじてハノーファー王国ヘッセン選帝侯国、ナッサウ公国、フランクフルト・アム・マインの様にプロイセンに併合される事自体は免れたが、形式上の自立のみを残してプロイセンに従属し、北ドイツ連邦への加入を余儀なくされている。

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  • 1918年のドイツ革命によってドイツ帝国は消滅し、ザクセン王国もまた消滅。

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そして1831年6月4日、ベルギー国民議会によってエルンスト系のザクセンコーブルク=ゴータ公エルンスト1世の弟レオポルトが国王に指名され、同年7月21日にレオポルド1世として初代国王に即位する。

初代ベルギー国王レオポルド1世(Léopold Ier、在位1831年〜1865年)

姪のイギリス王女ヴィクトリア(後の英国女王(在位1837年〜1901年)、初代インド女帝(在位1877年〜1901年)と甥のアルブレヒト公子の良き相談相手であり、2人からとても信頼され、慕われていた叔父でもあった。後にこの2人を結びつける役割も果たしている。2人を結婚させようと考えたのは、国王になったとはいえベルギーがあまりにも小さく、他の国々へもさらなる勢力拡大を図る為、ザクセン=コーブルク=ゴータ家とイギリス王室を結びつけようとしたためといわれている。また「ヨーロッパ一美しい王女」と溺愛するマリー=シャーロットをオーストリアのハプスブルク家のマクシミリアン=フェルディナント大公と結婚させた。 フリーメイソンの会員でもあった。

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  • 1790年12月16日、コーブルクのエーレンブルク城でザクセンコーブルク=ザールフェルト公フランツ・フリードリヒの三男として生まれた。母はアウグステ・ロイス・ツー・エーベルスドルフ。

  • 1795年、5歳の時にロシアの近衛軍イズマイロフスキー連隊の大佐となり、それから7年後には少将になった。この時、祖国ザクセンコーブルク公国はフランス軍の占領下にあった。1806年にパリへ行った。ナポレオン1世と会った時、自分の副官になるつもりはないかと持ちかけられたが、レオポルトはこの申し出を断った。その後、レオポルトは兄たちに続きナポレオン戦争に加わることになった。

  • 1815年に陸軍元帥になった。この年ロシア皇帝アレクサンドル1世の親友として、皇帝と共にロンドンを訪れた。この時摂政王太子ジョージ(後のジョージ4世)の一人娘シャーロット王女に見初められ、5月2日に2人は結婚した。しかしシャーロットは1817年12月5日に息子を死産した後、間もなく死去してしまった。レオポルトはその後もイギリスに留まり、国から毎年5万ポンドの年金を給付されてしばらくは数々の趣味に没頭していた。

  • 1830年にはオスマン帝国から独立したギリシャから国王就任要請の打診をされたが、これを断った。しかし1831年6月26日には、前年にオランダから独立したベルギーから再び国王就任要請があり、今度は承諾することにした。7月21日にブリュッセルの王宮で初代ベルギー国王に即位した。

  • 1832年8月9日、フランス国王ルイ=フィリップ1世の娘ルイーズ=マリーと結婚した。ベルギー王家であるザクセン=コーブルク=ゴータ家はエルネスティン家の分家にあたる新興の家柄であったが、この婚姻により、ブルボン家及びハプスブルク家との縁が深まり、有力な家柄の一つとなった。

  • 1865年12月10日にブリュッセルで死去。

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同時期に即位した事もあり、フランスの新王統たるオルレアン家ともすかさず政略結婚しているあたりが興味深い。

当時のベルギーの産業革命をの勢いを支えたのは外資。ベルギー革命を起こした主体だったワロン人の思惑通り製鉄や機械工業が発達し、1850年にはドイツ関税同盟の鉄輸入量の2/3すなわち7万6千トンを供給。露仏同盟(ビスマルクが失脚した1891年より交渉が公然化し1894年に締結)が結ばれると、各国の膨大な資本がベルギーを経由して、およそ10年間ロシアに投下され続けるのです

*こうして大日本帝國臣民を戦慄させたシベリア鉄道がじわじわと…ちなみに幕末期、将軍徳川慶喜の弟・昭武の随員として渡欧した幕臣時代の渋沢栄一は、ベルギー国王から鉄鋼の売り込みを掛けられ「欧州列強では王侯貴族すら産業振興競争の最前線に立つ」と衝撃を受けている。

蒸気機関車の開発競争にもしっかり絡んでました。例えばベルギー国鉄の技師長(CME)J・B・ブラムが過熱蒸気(ボイラーから発生する水蒸気をさらに加熱した蒸気)を利用した英国LNWRのマコーネルの研究(1852年)やドイツ人ウィルヘルム・シュミットの加熱器発明(1891年。380度まで上げる事に成功したと称し、1898年に最初に加熱機関車をプロイセン鉄道に導入)を応用して1901年に煙管式加熱装置を完成させ、これがベルギー国鉄導入を皮切りに世界中に普及したりしています。

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すると我々がアニメ版「フランダースの犬」で見せられた景色とは一体何だったのか…
*「フランダースの犬」著者は一応この作品の舞台を(作品が発表された)1872年前後としており、確かに「冷蔵設備の進化によってそれまでの牛乳の運び手が次々と職を失っていった」時期には該当している。

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まぁこれは「アルプスの少女ハイジ」についてもいえる事なんですけど。

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「山羊の乳を使った手作りチーズによるラクレット」…この作品で「ラクレット」という料理を始めて知った日本人も少なくないとか。

ラクレット(raclette)…チーズフォンデュと並んで19世紀スイス政府がチーズ消費量を増やす為に意図的に広めた戦略的レピシ。それまではスイスでもごく一部の地域の間でしか知られていなかった。

果てさて、我々はどこへ向けて漂流しているのやら…