諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「江戸時代の鎖国」とは、一体何だったのか?

 そもそも「江戸時代の鎖国」って一体何だったんだろう?

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  • 近代到来以前から海外展開してる欧米列強はその絶対数自体少ない。せいぜいスペイン、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリスくらい。日本はそのうちオランダとは巨大取引をしていた。例えば出島貿易が全盛期を迎えた17世紀には輸入品に年間20tの銀を支払っている。スペイン帝国の繁栄を支えたポトシ銀山からの収奪が毎年27tだった事を思えば、どう考えてみたって欧州の価格革命(金銀の無制限流入が産み出したインフレの結果としてのランティエ(rentier、地税生活者)の没落)やオランダ黄金期成就に大きな影響を与えている。
    *ただオランダ海上帝国は内部分裂が酷く、そうした富が中央政権に集まらない仕組みになっていた。だからその莫大な富がどこに消えたかよく分からないのだという。時期的には国内で王党派と都市ブルジョワ貴族の闘争が激しくなっていく時期に該当。案外都市ブルジョワ貴族の闘争資金とかに消えていったのかもしれない。
    銀の産出量 - 大学生がつくる地域活性化サイト ―島根県石見地方からの情報発信―

    http://wp.izumokanko.com/wp/wp-content/uploads/iwami00.jpg

  • それでは日本が何を買ってたかというと生糸や砂糖だという。しかも確実に儲かると分かっているので国産化が進行。特に砂糖は琉球を牛耳る薩摩藩の重要財源となった。佐賀藩佐賀藩伊万里焼とか柿右衛門の輸出で儲けまくったし、幕末期に(経済破綻して身動きできない諸藩を尻目に)大活躍した西国諸藩については、そんな裏話ばっかり。
    *黒船来航に際しても通商条約が結ばれる以前から洋物の生地などが市場を賑わせていた。上に政策あれば、下に対策あり?

    http://www.yamaria.co.jp/cms/img/usr/corporate/yamashita/egi_K_nishijinn/img1.png

  • また輸入してた砂糖の分量が例えば日本1320t(1656年)、イギリス88t(1665年)なんて比率だったのも驚き。実はイギリスのこの数字は(英国人の砂糖使用量がフランス人の六倍にも七倍にも達する)砂糖革命前夜のもので、一世紀半後までに数十倍に急増していくんだけど、それでもどこまで追いつけたか分からないほどの使用規模…ちなみに幸いな事に日本人がオランダから買った砂糖は製造に奴隷を使っていない。出稼ぎの華人がジャワ島で育て、バタビアで製糖してましていたのである。だから国際的価格競争で負けたとも言えるし、従業員が反乱を起こして殲滅される「バタビアの虐殺(1740年)」もあった…
    *江戸幕藩体制下の日本では砂糖は最初、宴席料理や贈答品に欠かせない高級調味料として広まり、やがて富農や富商、遂には都心部の町人まで楽しむ様になったという。

    http://www.rakuten.ne.jp/gold/ansindo/yimages/kameyama/21.jpg

いずれにせよ海外視点から俯瞰すると普通に「世界史」に参加してる事実は動きません。19世紀後半には浮世絵にインスパイアされたフランスの絵師が印象派なんて作風を始めますが、あれだってそれまでの積み重ねあっての話。「中華王朝が景徳鎮を禁輸したら、すかさず伊万里焼や柿右衛門を売り込んで欧州磁器市場を乗っ取る。欧州側としては面白くない展開なので磁器国産化が始まるが、その結果生み出された製品は当然景徳鎮ばかりか伊万里焼や柿右衛門の様式の影響も受けたものとなる」。「江戸時代の鎖国」には、そういう側面も確実に存在したのです。

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ただし良い話ばかりでもありません。明治維新が到来し、文明開化の時代が訪れ、砂糖が自由に使える様になっても日本人の味覚の世界では「甘い=高級」というスノビズムはしばらく持続してしまいました。

すき焼き…

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大和煮…

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そして肉じゃが…

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ほら、もう口の中が甘ったるくなってきたでしょう? ええ、当時生まれた料理がみんな甘いのもこうした歴史のせい。砂糖が好きなだけ使える様になったのがよほど嬉しかったらしくて…

砂糖と珈琲豆と茶葉を巡る冒険

18世紀に活躍したあるイギリス人の歴史家が次の様にいっている。「我々イギリス人は、世界の商業・金融上、きわめて有利な地位にいるために、地球の東の端からもち込まれた茶に、西の端のカリブ海からもたらされる砂糖を入れて飲むとしても(それぞれに船賃も保険料もかかるのだが)、なお、国産のビールより安上がりになっているのだ」。だが、もしかしたら日本人の方が茶も砂糖も余計に摂取していたかもしれない…

参考サイト

イスラーム史のなかの砂糖|農畜産業振興機構

砂糖の歴史

人類と砂糖の歴史 :: Science@Sugar

ヨーロッパの歴史

欧米でのお茶の歴史|お茶の歴史|お茶百科

砂糖 - Wikipedia

茶と砂糖の歴史-1

世界史の窓:奴隷貿易禁止

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インドに古代から伝わる砂糖づくりの現場を発見しました! | インド大好き!ティラキタブロ グインド大好き!ティラキタブロ グ


【砂糖】紀元前8000~1500年 南太平洋(現在のニューギニア周辺)に砂糖黍発祥の伝説が残る。


【砂糖】紀元前400年 インドで砂糖の知識が普及。
*カウティリヤにより紀元前4世紀後半に書かれたとされるサンスクリットの古典「アルタシャーストラ」には、純度が一番低いグダ、キャンディの語源とされるカンダ、純度が最も高いサルカラ (SarkaraあるいはSarkkara) の3種類の砂糖の説明が記載されている。おそらくサルカラは英語のSugarやフランス語のSucreの語源になった。 また、パタンジャリが紀元前400~200年の間に書いたと推定されるサンスクリット文法の解説書「マハーバーシャ」には、砂糖を加えたライスプディングや発酵飲料などの作り方が記載されている。 砂糖は病気による衰弱や疲労の回復に効果があるとされ、薬としても用いられた。当時は「インドの塩」等と呼ばれ、塩などと関連づけられていた。

【砂糖】紀元前327年 インド遠征中のアレクサンダー大王一行がガンジス河流域で砂糖黍を発見し「蜜蜂の助けを借りないで蜜をもたらす葦がある」と記す。
古代ギリシャのテオフラストスも紀元前371の『植物学概論』で「葦から採れる蜜」について書き留めている。また、帝政ローマ時代のギリシア人医師ディオスコリデスは砂糖をサッカロン(saccharon)と呼び、考察を行った。プリニウスやストラボンなど以後のローマ時代の学者はこれに倣った。

【砂糖】紀元前1世紀頃 北インドで砂糖黍を原料とする砂糖の生産が始まる。
*これが唐代(618年〜907年)に中国南東部に伝わる。

【砂糖】400年~500年頃 中国で沙糖(サトウキビを煮つめて完全に乾燥したもの=砂糖)がつくられる。500年代前半に中国最古の農業書「斉民要術」が成立。砂糖黍栽培法についての記述が残された。
*唐代の本草学者、蘇敬の『博物誌』には「太宗は砂糖の製造技術を学ぶため、リュー(インド)、とくにモキト(ベンガル)に職人を派遣した」と記述されている。


【砂糖】630年頃 アラビア人がササン朝ペルシャを征服。それまでにイラン・イラク地方にはインドから砂糖製造技術が伝わっていた。
*伝承としてはアケメネス朝のダレイオス1世がインド遠征の際にサトウキビをペルシアに持ち帰り、国家機密として輸出と栽培を独占したとする説もある。

【砂糖】649年 アラビア人がキプロス島を占領。砂糖黍を植える。 

【砂糖】アラブ農業革命(700年代〜1000年代)ムスリム商人(インド人、ビルマ人、インドネシア人)がインドの農作物を中東、地中海沿岸に伝えた。米、硬質小麦、西瓜、茄子、菠薐草、オレンジ、レモン、ライム、バナナ、ココヤシといった数百品目に及ぶ大規模な作物が伝えられた。エジプトやシリアに砂糖黍が伝播。モロッコ(700年)、エジプト(710年)、アンダルス(イベリア半島、1714年)にも伝わる。
*10世紀から14世紀にかけてのイスラム圏ではエジプトの生産量が突出していた。

【砂糖】1096年 十字軍の遠征が始まり、シリアで戦う十字軍の将兵が砂糖を持ち帰り、ヨーロッパに次第に広まり始める。
*まずヴェネツィア共和国が966年に作った貨物集散所に中東から来る砂糖が一旦集積される仕組みができたとも。その後、ベネチア商人達はクレタ島キプロス島などで砂糖生産を推進した。当時のシリア山岳地帯はニザリ派(現在シリア政府を牛耳ってるアラウィー派の先祖筋。別名「暗殺教団」)の本拠地で、この地に建てられた十字軍国家は彼らの砂糖農場を接収して砂糖を生産させていたとも。 そして14世紀にはシチリア島が、次いで15世紀初頭にはバレンシア地方が砂糖の生産地となったが、安価で大量の砂糖が出回る様になった1460年代までに衰退した。
騎士修道会と「武人の覚悟」の奇妙な変遷 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

【砂糖】1200年 元朝の皇帝フビライが中国の福州に中東の技術者を招いて草木の灰による精製法を採用、白い砂糖が製造される。

*白砂糖は消化吸収が早く麻薬に例えられる事も。

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-73-83/binbougaka/folder/1510181/70/59477170/img_3?1273936644

砂糖1226年 イギリス国王ヘンリー三世は「もし一度に大量の砂糖が手に入るのものなら大市で、できれば3ポンド(1.36キロ)ほどの砂糖を入手して欲しい」とウィンチェスター市長に要請。

砂糖1234年 イギリス国王ヘンリー三世は300(重量)ポンドもの「ロッシュ糖」を発注。

砂糖1287年 イギリス国王エドワード一世の王室では「677(重量)ポンドのふつうの砂糖、300(重量)ポンドの紫色砂糖、1900(重量)ポンドのバラ色糖」を使用した。

砂糖1288年 イギリス王室の砂糖使用量は6258(重量)ポンド。

砂糖【御茶】
1298年 
マルコ・ポーロの「東方見聞録」に中国・杭州の砂糖についての記述を残す。一方、茶に関する記述はない。
*13世紀頃中国に旅行した他のヨーロッパ人の著書にも茶の記述はない。「茶」は本当にシルクロードの交易品だったのか?

砂糖14世紀末 イギリスの特権階級の間に砂糖が知れ渡り、砂糖を使った調理法の載った最初の本が現れる。

【珈琲】1400年代 メッカにコーヒーハウスが多数作られる。エチオピア原産の作物である珈琲の栽培がモカで始まる。

砂糖1419年 ポルトガル船がマディラ諸島のポルト・サントに漂着。翌年からポルトガルよりの植民が始まる。一時期黒人奴隷を移入して砂糖黍栽培が行われた。
*国内発展に見切りをつけて祖国を飛び出したポルトガル人の多くは現地零細自作農の次男坊以下。だから農業に相応の執着心があった。
十字軍国家としてのポルトガル王朝 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

【砂糖】1460年代 スペインがカナリア諸島で、ポルトガルマデイラ諸島アゾレス諸島でそれぞれ砂糖黍を栽培して砂糖が安価で大量に出回る様になったせいで、シチリアバレンシアといったそれまでの産地が衰退。


砂糖1493年 コロンブスが第二次航海の際、西アフリカのカナリア島産の砂糖黍を西インド諸島の一つヒスパニオラ島に移植。アメリカ大陸に砂糖が伝播。

砂糖1500年 ポルトガル人のペードロ・アルヴァレス・カブラルがブラジルを「発見」すると、以降ブラジルはポルトガルの植民地として他の南北アメリカ大陸とは異なった歴史を歩むことになった。北東部(ノルデステ)で砂糖黍栽培が盛んに行われる様になるのはブラジルへの植民が進めれた1530年代以降。1532年にブラジル南東部のサン・ヴィセンテ、翌年には北東部のペルナンブコに、砂糖業が導入される。
十字軍国家としてのポルトガル王朝 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

*初期のブラジルにおいてはスペインの異端審問を逃れた新キリスト教徒(改宗ユダヤ人)によってパウ・ブラジル(蘇芳、染料や楽器の材料となる材木)の輸出が主な産業となり、このために当初ヴェラ・クルス島と名づけられていたこの土地は、16世紀中にブラジルと呼ばれるようになった。

*1549年にはフランスの侵攻に対処する為に、初代ブラジル総督としてトメ・デ・ソウザがサルヴァドール・ダ・バイーアに着任。


*砂糖栽培には最初インディオが使用されたが、彼らは労働意欲を持ちえず、労働生産性は著しく低かった。そうした彼らを駆り立てたため、彼らはポルトガル人に反抗し、砂糖プランテーションの焼き払うなどするようになる。それに対して、ポルトガル人たちは内陸に向けて無差別な奴隷狩りを行って、16世紀末までインディオ奴隷制を採用する。それでも労働力が不足するため、1570年代からアフリカ黒人奴隷の輸入が本格的に行われるようになる。 


十字軍国家としてのポルトガル王朝 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

フィリップ・D・カーティン氏によれば、アフリカ黒人奴隷の輸出量は1451年〜1600年27万人、17世紀134万人、1701年〜1810年605万人、そして1811年〜70年189万人、合計955万人であったという。それぞれの期間において、ブラジル向け輸出量が占める比率は18.2、41.8、31.3、60.3パーセント、合計38.1パーセント(364万人)となっている(『大西洋奴隷貿易―その統計的研究』、p.268、1969)。

*大西洋奴隷交易においてはポルトガルのブラジル領への輸出量が圧倒的であり、それに次ぐのがカリブ海諸島である。ブラジルの輸出量の多さについては、ブラジル内において奴隷の再生産が行われなかったことが指摘されている。

「大西洋三角貿易」について思う事 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

【珈琲】1500年代 カイロ、ダマスカス、コンスタンティノープルにもコーヒーハウスが作られる。
*このようにイスラム社会に普及した珈琲が、やがてオランダ商人経由で西洋に伝わる。


砂糖1520年代 スペインがセント・ドミンゴ(現在のドミニカ共和国)で砂糖を生産。ただし製糖事業は1580年頃までに衰退し消え去る。以後、砂糖生産はスペイン人の手を離れる。
*最初は原住民を使役していたが、数が減少した為に黒人奴隷を導入。

 

【砂糖】1544年 ロンドンに最初の精製糖工場。


【御茶】
1545年頃 イタリア人ラムージオの「航海記集成」に「茶」の記述が出てくるが、これが文献に現れた最初の記述と思われる。


【砂糖】16世紀中旬 砂糖の価格が上がる。


【御茶】
16世紀後半 ロシアにモンゴル経由で喫茶の習慣が伝わる。

遊牧民にとって茶は欠かせない栄養補充源だった。


【砂糖】1556年 アントワープに19ヶ所の製糖所が造られた。


【御茶】1560年頃 中国を訪れた最初のポルトガル人宣教師と言われているダークルスが「中国では高貴な人の家に訪問客があれば『チャ』と言う一種の飲み物ーーーそれは苦味があり、紅色でくすりになる飲料を出す」と述べている。
*他にも植民地マカオと日本を往来するうちに日本の「茶の湯文化」に接っしたポルトガル人なら現れ、お茶の為の建物や器に莫大な金を払う事、またお茶の為の洗練された作法など幅広い文化を持っている事に驚嘆。これが欧米各国にお茶が伝播する最初の契機となる。

【砂糖】1570年 ポルトガル領ブラジルにおける砂糖きび農園は60。


【政治】1570年 日本で長崎貿易が始まる。
*戦国時代の日本には戦争奴隷を売買する「乱妨取り」の文化があったので、これに便乗してポルトガルの奴隷商人が入り込んできた。文禄・慶長の役(1592年〜1593年、1597年〜1598年)に際しては国際的に奴隷の売価を1/3に暴落させるほど奴隷を輸出したが、時期的に見て彼らが砂糖農場に供給される事はなかったと推察されている。そして天下統一によって戦争奴隷売買の慣習も自然消滅を迎える。

  • ポルトガルの貿易船は1550年以来平戸に来航していたが、1561年のポルトガル人殺傷事件をきっかけに、大村純忠より提供された横瀬浦(長崎県西海市)に移った。大村氏の内紛で横瀬浦が焼き払われると、元亀元年1570年に純忠は長崎を提供、翌元亀2年4月27日(1571年5月30日)、最初のポルトガル船が寄港。以降、長崎は南蛮貿易の中心地として発展する。その後天正8年(1580年)、純忠は長崎港周辺をイエズス会に教会領として寄進した。

  • 天正16年(1588年)には豊臣秀吉直轄領となる。江戸幕府が成立すると、慶長10年(1605年)長崎は天領となった。元和2年(1616年)、中国船以外の船の入港が長崎・平戸に限定され、寛永13年(1636年)には出島が完成し、それまで市内に住んでいたポルトガル人は出島に閉じ込められた。

  • 寛永16年(1639年)にポルトガル人が追放され「鎖国」が完成。出島は空き地となってしまったが、2年後の寛永18年(1641年)に平戸からオランダ商館が移設され、ポルトガル人同様オランダ人も出島に隔離された。のちには中国人も市内の特定地域にのみ居住が許されるのみとなった。

【政治】1595年 東洋航路を最初に開いたポルトガル人は東洋特産を母国のリスボンへ輸入したがこの特産物をリスボンからフランス、ネーデルランド、バルチック方面に運んだのはオランダ船であった。しかしこの年にポルトガルリスボンからオランダ船を排除したためオランダは直接東インド方面に船を派遣、翌1596年オランダ商船隊はジャヴァのバンタムに到着し東方貿易の拠点を築いた。

【砂糖】1596年 オランダの探検家で地理学者であったリンスホーテンはインドに赴いた時の見聞記を記した「東方案内記」の中には「ヤパン島」(日本)と言う一章をもうけている。そのなかに「かれらは食後に、ある種の飲み物を飲用する。…このチャと称する薬草の、ある種の粉で調味した熱湯」と言う記述がある。


【砂糖】1598年 イギリス人が英語で書かれた茶の知識を得たのはリンスホーテンの著作が「航海談」と言うタイトルで英訳され出版された時からだった。

【政治】1600年 イギリス東インド会社が12月に設立される。
*この当時は個別航海、一航海ごとに資金を集め帰国した後出資者に分割して利益を渡していた。

【砂糖】
1600年 オランダのアムステルダムには60ヶ所の製糖所があった。

【御茶】1601年 イタリア人宣教師のマテオ・リッチは書翰のなかで「日本と中国では茶の飲み方が少しちがっている。日本人は茶の葉を粉にして・・・中国人は茶の葉を熱湯入りのポットに入れて熱い湯を飲み葉を残しておく」と違いを述べている。
*つまりここで「日本の高級茶」とされているのは抹茶。あくまで一般庶民まで広まった「散茶」ではない点に注意。

【政治】1602年  オランダ東インド会社が3月に設立される。史上初の近代的な株式会社で(アラビア商人からヴェネツィア商人に伝わる過程で洗練されてきた)複式簿記を初めて公式に採用したことでも知られる。会社の株式は7%を重役が所有し、残りは一般に公開された。取締役60名(後に73名)から選ばれた17名が最高決議機関で、これは資本金比例で都市に割り当てられ、アムステルダムが8名を占めた。彼らはレヘントといわれる都市貴族的門閥に属しており、会社の幹部であるとともに議会の有力者であり、会社が民主的に進化する途を閉ざしていた。交易実務は総督に任せらた。
*1602年から1650年頃のオランダ東インド会社によるヨーロッパへの主要輸入品は「胡椒、スパイス(チョウジとナツメグ)、絹糸布、木綿織物、砂糖、日本銅、コーヒー、茶」であったが輸入金額で見ると胡椒、スパイス(チョウジとナツメグ)だけで70~75パーセントをしめていた。


【砂糖】1605年 フランスの農学者セルが甜菜(砂糖大根)の根の甘さを記述。 


【御茶】1609年〜1610年 オランダ東インド会社の最初の船が平戸に来航。翌年ヨーロッパへはじめて茶を輸出した。紅茶ではなく緑茶(平戸で買った日本茶、マカオでポルトガル人から買った中国茶)だった。
*当時オランダは中国やインドネシアとの東洋貿易に関して独占的な立場にあった。


【御茶】
1610年
 オランダ東インド会社が西欧に初めて茶を伝える。紅茶ではなく緑茶(平戸で買った日本茶、マカオでポルトガル人から買った中国茶)だった。

*当時オランダは中国やインドネシアとの東洋貿易に関して独占的な立場にあり、同じく東インド会社を経営していたイギリスは、やむを得ずインド貿易に重点を置いていた。インドで新種の茶樹・アッサム種が発見されたのは19世紀のことで、当時のインドにお茶はなかった。
十字軍国家としてのポルトガル王朝 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)


【御茶】1615年 イギリス人が最初に茶について残した記録は「1615年6月17日付けの手紙」で内容は「私のために最良種のチャウ(chaw)を送って欲しい」で、差出人と受取人はイギリス東インド会社のメンバー。

【政治】1621年 イギリス東インド会社は平戸に商館をもうけたが維持する事が出来ず二年後に閉鎖して撤退。

【政治】1623年 オランダによる「アンボン虐殺事件」が起こりイギリスは東アジアから撤退を余儀なくされる。


【砂糖】1624年 鄭氏政権(1662年〜1683年)が台湾での砂糖生産を奨励しているのを見習って、オランダ東インド会社も日本向けの砂糖の増産を開始。清朝康煕帝が台湾を押さえて以降はオランダ東インド会社の独断場に。
*ジャワ島で砂糖栽培を行わせ、今日のジャカルタ、つまり当時のバタヴィアの商館でこれを買い付けて製糖し、世界各地に転売していた。大まかには、ペルシャ・インド方面に3分の1、日本にも3分の1が輸出され、残りの多くはオランダ本国に送られていたという。


【砂糖】1624年 1493年にクリストファー・コロンブスが発見したセントキャッツ島にアイルランド商人のトーマス・ワーナー卿がイギリスの開拓団を引き連れて入植。白人初のカリブ海及びリーワード諸島の植民地となった。先住民のカリブ族はその後の5年間の間に虐殺されたり、島から追い出されたりして絶滅した。
*フランス人も島に入植し、島の中央部分はイギリス領、島の南部と北部の部分はフランス領に分かれるが、やがてイギリスとフランスとの間で島の領有をめぐって争奪戦争が起こった。ヴェルサイユ条約により全島がイギリスの植民地と認められたのは1783年。

砂糖1625年 この年のポルトガルはほぼ全欧州にブラジル産砂糖を供給。


砂糖1627年 セントキッツ島から来たイングランド人、ジョン・パウエル率いる開拓団がバルバドス島の植民地化を開始。それまで無人島化していたが、1620年代にイングランドの艦隊が到達した。1650年代に入るとブラジル北東部からオランダ領ブラジルが消滅して追放された元オランダ東インド会社のオランダ人農園主が到着。マデイラ諸島からブラジルに導入されてエンジェニョ(砂糖プランテーション)で培われたサトウキビの生産技術が導入され、カリブ海諸島で初となるサトウキビプランテーションの経営がイギリス人の農園主によって始まる。当初は、イングランドの植民地となっていたアイルランドなどからの白人年季奉公人によってプランテーションが担われていたが、さらに安い労働力を大量に確保するため、最終的にはアフリカから黒人奴隷が連れてこられ、強制労働をさせられた。
*砂糖経済が成立する前の同島の奴隷人口は5680人だったが、砂糖きび導入後には数が跳ね上がり1667年には8万2023人に増加。ちなみに黒人奴隷の使役廃止は1834年

砂糖1629年 ポルトガル領ブラジルにおける砂糖きび農園が346に増加。ブラジルの砂糖生産は世界最高となり1680年頃まで砂糖の供給を独占する。

【御茶】1630年代 オランダを通じてイギリスに茶が入る。

砂糖1630年〜1650年代 オランダ西インド会社がブラジル北東部のバイーアや北ブラジル海岸のオリンダで砂糖を生産。
*ブラジルで砂糖産業に将来性を見出したオランダは、ポルトガル領ブラジルの直接支配を図ろうとした。1621年西インド会社を設立。1624年ブラジル北東部の中心都市バイーア州サルヴァドールを攻撃し1年後に撤退。次いで1630年ペルナンブーコ州レシフェ(オリンダ)を攻撃、1641年までにマラニョン州にまで版図を拡大するに到った。植民地住民に寛容であったナッサウ=ジーゲン伯ヨハン・マウリッツがオランダ領ブラジルの総督として赴任し黄金期を築くも伯が西インド会社と対立して辞任すると、問題が表面化。1645年農園主たちが反乱。1654年西インド会社はブラジルから撤退した。ただ現地における奴隷制砂糖農園はこれ以降も経営され続ける。
十字軍国家としてのポルトガル王朝 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)


【御茶】1637年 オランダ東インド会社の報告書が「茶が若干の人々に用いられるようになったので、われわれは毎船ごとに中国と日本の茶の壺を期待している」と記す。
*オランダの富裕な商人の家庭では主婦が客にサフラン入りのお茶を出すようになった。サフランを入れて飲んでいた茶は「緑茶」。


砂糖1637年 中国の産業技術書「天工開物」に白砂糖の製法が詳しく記述される。


【政治】1638年 清教徒革命(Puritan Revolution または Wars of the Three Kingdoms、1638年〜1660年)勃発。1649年にはチャールズ一世が処刑され共和国宣言がなされる

【政治】1639年 江戸幕府オランダ東インド会社に唆される形でポルトガルと断交。戦国時代から続いてきた「(マカオと長崎を結んで日本の金銀とポルトガルが中華王朝から仕入れてくる生糸を交換する)ナウ船航路」が廃止に追い込まれる。

*1638年春に島原半島天草諸島キリシタンの百姓が起こした島原の乱を鎮圧して以降、幕府はキリシタンの摘発をより強化し、禁教の徹底のためにカトリック国であるポルトガルとの関係断絶を志向した。しかし現実には、ポルトガルがマカオからもたらす中国産の生糸などが当時の日本にとって必要不可欠な物産であったため、幕閣の中にもポルトガルとの関係を継続すべきという意見が強く同年じゅうには断絶に踏み切れず、マカオから江戸に派遣されたカピタン・モールの将軍への謁見を拒否するだけにとどまった。

*1639年、オランダ商館長のフランソワ・カロンが江戸に参府し、ポルトガルとの関係の断絶を幕閣に訴え、オランダがポルトガルに代わって、日本が求める輸入品を確実に提供できることを主張した。幕閣はカロンから、台湾や東南アジアから渡航する中国人が、直接長崎に来航することが問題ないことや、オランダがスペインとポルトガルに妨害されず長崎に来航できること、台湾に渡航する中国人を通じて、オランダが日本が求める輸入品を確保でき、かつ、台湾に渡航する中国人が明朝の渡航証明書を持っていることなどを確認し、ポルトガルとの関係を断絶しても支障がないと判断した。その結果として、同年、幕府は長崎奉行や九州地方の大名に「第5次鎖国令」を発布して、ポルトガル人を出島から退去させた。

*翌年1640年には、マカオからのポルトガルの使節が、貿易再開を要求して長崎に渡来した。これに対して幕府は、ポルトガルの使節を処刑することで、ポルトガルとの貿易を改めて再開しない意思を示した。その後、出島は無人状態となり、ポルトガルとの貿易の断絶により、長崎の町は困窮した。そこで、幕府は長崎の救済のために、出島築造の際に出資した人々の訴えを踏まえて、1641年に平戸(ひらど、現在の平戸市)のオランダ東インド会社の商館に、西暦などキリスト教に関する物があったことを口実にして、オランダ商館は平戸から出島に移され、以後約200年間に渡って武装と宗教活動を規制されたオランダ人が居住することになった。

*ちなみに江戸幕府は生糸の仕入れ先をオランダ一本に絞る危険を十分心得ており、中華王朝よりそれを仕入れてくる朝鮮王朝商人を競争相手に抜擢。だがベトナムに独自生産拠点まで準備したオランダの生糸に品質面でも価格面でも到底太刀打ち出来なかったという。むしろ刺客は日本国内に潜んでおり、自領経済の活性化を狙う大名や株仲間(全国規模で結びついた富商と富農のネットワーク)が生糸国産化を志向し次第に勝利を収めていく(18世紀末までに輸入需要が消失)。

【珈琲】1645年 ヴェニスに西洋初のコーヒーハウスが作られる。


【御茶】1650年 この年にオランダ東インド会社が輸入した茶の総量は中国茶22壺(約22ポンド)と日本茶5箱。

砂糖イギリス商業革命(17世紀後半)清教徒革命(1638年〜1660年)の時代を契機にイギリス交易の主舞台が欧州内から欧州外に推移。特に砂糖の輸入は1640年頃には取るに足らない量であったのがこの世紀の中旬よりカリブ海の植民地で砂糖革命が起こり生産量が飛躍的に急増。1660年代にはイギリスの輸入全体の一割近くを占めるに至った。供給量も1700年頃までに倍増、17世紀後半までに5倍、アメリカ独立戦争後にはさらにその4倍に拡大(値段も17世紀中頃までに1620年代の半値となり、17世紀後半にはさらにその半値に)。結果として18世紀中旬のイギリス人は平均するとフランス人の八~九倍の砂糖を用いる国民になっていたという。

【政治】1651年 イギリス航海条例(オランダ船がイギリスの港に荷物を運んでくる事を禁止)。これが第一次英蘭戦争(1652年~1654年)の引き金となる。

【珈琲】1650年 オックスフォードにコーヒーハウスが作られる。
*コーヒー・ハウスはやがてロンドンをはじめとするイギリスの都市で17世紀後半から約100年あまりのあいだ劇的な流行をみせた貴族やジェントルマンの社交場へと発展していく。

【珈琲】1652年 ロンドンにもコーヒーハウスが作られる。

砂糖1655年 イギリス護国卿オリヴァー・クロムウェルの命を受けてのイスパニョーラ島攻略に失敗したイギリス海軍提督ペン(アメリカ合衆国ペンシルベニア州を創設したウィリアム・ペンの父)とベナブルズ将軍が、残存兵力を率いてジャマイカ島に侵攻。ほぼ無血でこの島の占領に成功した。1509年にスペイン領となったこの島では既に西アフリカから輸入した黒人奴隷を使役する砂糖黍プランテーションが稼働していた。砂糖黍は「旅する植物」なので、それまで英国が開発してきたバルバドスやセント・キッツは既にピークを過ぎており、新たな栽培地を必要としていたのだった。そして18世紀末にはジャマイカ島も同様の状態を迎える。
*1670年にマドリード条約によって正式にイギリス領になって以降は港町ポートロイヤルを首府とし、イギリス海軍の司令部が置かれ、海賊や私掠船の母港となった。まさに「パイレーツ・オブ・カリビアン」の世界である。

*同時期、 西インド諸島のバルバドス島での砂糖生産は283トンの「粘土糖(クレイド)」と6667トンの黒砂糖。この頃までに砂糖は「この島の貿易の魂」と言われるようになっていた。


【政治】1657年 イギリス東インド会社が共和政権の下で永続的な会社組織として再出発を遂げる。


砂糖1656年(明暦2年) 日本の砂糖輸入量が1320tに到達。1665年のイギリスの砂糖輸入量が88tである事を考えると当時の日本は世界有数の砂糖輸入国だった。一方、当時の日本の銀輸出量は年間20万tを超えていたという。
*メキシコのポトシ銀山からの輸出量でさえ全盛期でも年間27万t前後。それでアントウェルペン/アントワープが栄えたのは1535年から1557年にかけて。
都市から国家に(欧州の経済的中心の歴史的推移) - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

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【御茶】1657年 イギリスのコーヒーハウスで緑茶の販売が始まる。西洋の河川の水質は低く、アジアから茶が、南米から珈琲が伝えられると急速に普及した。
*当時の茶はまだまだ高価で、わずか100グラムが当時のふつうの職人の日当の何十倍にもあたった。

【御茶】1658年 9月にクロムウェル卿死亡。
*「ガゼット紙」の9月2日号、そして9月23日号の週刊誌「政治通報(メリクルウス・ポリティックス」にイギリスで最初の茶の広告が載る。広告の内容は「高貴な方々ならびに医師によって証明された、中国人によってチャ(tcha)、その他の国々でtayまたはteeと呼ばれている中国の飲み物がコーヒーハウス『サルタンの王妃の首』で売られている」

【珈琲】 1658年 オランダ人がセイロンで珈琲を栽培。


【御茶】1660年 5月にイングランド王政復古。チャールズ2世が即位した。
*9月25日、イギリス人サミュエル・ピープス海軍省の役所で「サー・R・フォードの話は大変理屈が立っていて、経験も豊かだった。そののち彼は 『茶』(中国の飲み物で、わたしはまだ飲んだことがない)を一杯持ってこさせ、そして帰っていった」と日記に記している。

【御茶】砂糖1662年 ポルトガルからイギリス国王チャールズ二世に嫁いだキャサリン王妃がイギリス王室に船のバラストかわりに積んできた銀塊の代わりの「砂糖」と茶を飲む習慣を広める。

*こうして喫茶の慣習は王室も嗜む上品なものとなり、東インド会社も抜け目なく毎年新茶を王室に献上する様になり「王室御用達の茶」「王妃も貴族の夫人たちも飲んでいる茶」と広く宣伝していく。

*ちなみにこの年の西インド諸島からロンドン港への砂糖の輸入は1663年と69年の平均値で14万8千ハンドレッドウェイト(約7518トン)

北アフリカのタンジールとインドのボンベイを持参金として割譲したのも重要で、これを契機として英国のインド進出が始まり、国内にキャラコが伝わった。
綿織物をめぐる冒険 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

【御茶】1664年 イギリス東インド会社の船が帰港した時に珍奇なものがなかったので「良質茶を2ポンド2オンス(約962グラム)」をチャールズ二世に献上したところ宮廷で大いに喜ばれたので以後大量の茶が献上リストに載るようになったとされる。
東インド会社が茶の販路拡大の為に広めた話。

【御茶】1667年 イギリス東インド会社がジャワの駐在員にはじめて「茶」を発注。
*イギリス人ピープスは6月28日付け日記に「馬車で帰ると妻がお茶を用意していた。妻が薬種商のペリング氏から聞いた話では、お茶は妻の風邪と鼻炎によいそうだ」と言う記述有り。 

【珈琲】1669年 パリにコーヒーハウスが作られる。

【御茶】1669年 イギリスがオランダ本国からの茶の輸入を禁止する法律を制定して東インド会社に自国内の茶の独占権を与え宣戦布告。英蘭戦争(1672~1674年)に勝利を収めると中国貿易で優位に立つが、実際に中国から直接輸入したお茶がイギリスに流通するのは15年後の1689年以降となる。この年を境に、イギリス東インド会社が基地を置く福建省厦門(あもい)のお茶が集められ、それがイギリス国内に流通するようになった。

*同年イギリス東インド会社は143ポンド8オンスの茶をロンドンに届けた。

砂糖1670年代 西インド諸島での砂糖生産のためブラジル砂糖産業が衰退。

【珈琲】
1672年
 ハンブルクにコーヒーハウスが作られた。

砂糖1672年 イギリスが奴隷貿易を独占的に行う「王立アフリカ会社」設立。
*1680年~1786年の間にイギリス植民地が「奴隷として輸入」した黒人は2百万人以上と推定されている。

【御茶】1678年 イギリス東インド会社は4713ポンド(重量)の茶を輸入ため数年間茶が市場でだぶついた。

【珈琲】1683年 ロンドンには3000ものコーヒーハウスがあったと云われる。

【政治】1684年 ジャワ政庁がイギリス船の入港を禁じた。

【珈琲】
1683年
 言い伝えによるとこの年、第二次ウィーン包囲に失敗したオスマン帝国軍が撤退した際、大量に残されていたコーヒー豆の入った袋をウィーンの人々が戦利品として獲得したのだという。スパイとして宮廷に雇われていたイスタンブール生まれの人物がその豆を利用し、1685年にウィーンにカフェを初めて開業し、真のコーヒーの味を市民に伝えた。それがウィーンのカフェ文化の始まりになったのだという。

【御茶】1685年 イギリス東インド会社本社からマドラスへ送った手紙には「ティーは伸びていく商品である。~~~煎じた水は色づくが、もっとも緑の様相のものが(宮廷にいる高官への贈り物として)一般に一番よく受取ってもらえる」と記されていた。


【政治】イギリス名誉革命(1688年〜1689年) 
オランダ総督ウィレム3世(在職1672年〜1702年)/イングランド王ウィリアム2世(在位1689年〜1702年)の同君連合が成立。イギリスにおいては責任内閣制に至るホイッグ党寡占、オランダにとっては(国際的に君主として認められた事で立場を強めた)絶対王政を志向するオラニエ・ナッサウ家と都市ブルジョワ貴族の闘争激化の始まりを意味した。
*イギリス人は「オランダ人から教わったのはジンの製造法くらいだ」と豪語する。だが実は大英帝国の繁栄を支えた砂糖産業もオランダ起源ではなかったか?

【御茶】1689年 ネルチンスク条約が締結されてロシアと中国の交易開始。以降、団茶がロシアの貴族階級の間で飲まれるようになる。
*ロシアン・ティーの正式な飲み方は「スプーンですくったジャムを口に含んで茶を飲む」。茶そのものに甘味料を混ぜてしまう下品な飲み方は、どうやらイギリスのコーヒーハウス起源らしい。

【砂糖】1690年頃 イギリス領植民地での砂糖の生産量は45000トンで、国内の消費量は半分で価格にして80万ポンド。(1〈金額〉ポンドで62〈重量〉ポンド、7ペンスだと1.8〈重量〉ポンド購入できた)

【珈琲】1696年 ニューヨークにコーヒーハウスが作られた。


【政治】1697年 イギリス船2隻がはじめて中国の厦門(アモイ)に到着。直接中国からイギリスへ輸入した第一号。 

【御茶】砂糖1699年 茶を厦門(アモイ)から1万3千(重量)ポンドをロンドンに輸送した。

西インド諸島からロンドン港への砂糖の輸入は1699年~1701年間の平均値で37万1千ハンドレッドウェイト(約18848トン)このうち三分の一は再輸出された。

砂糖17世紀末〜18世紀初頭 オランダ東インド会社の出島交易は、その売上の21パーセントを砂糖が占めていた。ピークの1703年には、その比率が47パーセントを超える。
*朝鮮王朝との交易を担当してた倭館の当時の記録に「今度の宴席には砂糖を盛れ」なんて描写があったりする。当時の日本人にとってそれは接待や贈答合戦を牛耳るのに不可欠な必殺兵器であったらしい。「白い粉」の威力たるや恐るべし‼︎

砂糖1700年代 イギリス、フランス、オランダがギアナ海岸やカリブ海諸島で砂糖を増産。
産業革命期における鉄道開発競争もそういう結末を迎えたが、過当競争状態に突入するともはや勝者など現れず、共倒れになるだけ。かくして砂糖価格の際限なき暴落が始まる。生産規模拡大と生産量確保の為に犠牲となる黒人奴隷の数も急増する。

【御茶】1700年代 アムステルダムでは「お茶にいかれた御婦人たち」という喜劇が上演される。貴族の婦人が茶道を真似る様を失笑し、最後には大きな音で茶を啜るというオチで終わる。同時期、イギリスでも多くのティーガーデンが造園された。ここで紅茶を楽しむ女性が増え、英国貴族は自宅の庭園で紅茶を飲むようになった。また西洋で牛乳で入れた茶に砂糖を入れる事が流行。茶は高価な薬であり、砂糖は贅沢な甘味料だったからこそ共に飲むことこそ、豊かさの象徴と見なされたのである。
*当時のイギリスでは不在化したカリブ海の砂糖プランターとインド帰りの お大尽(いわゆるネイボッブ)が大金持ちの双璧であった。成功したプランターの子弟は本国に送り込まれジュェントルマントして教育を受け、やがてイギリス政界に進出。18世紀中ごろのイギリス議会(庶民院)には40人くらいのカリブ海関係の議員が数えられ ている。東インド会社関係の議員集団と並ぶ二大派閥であり、高率の砂糖関税を成立させる

【御茶】1701年 イギリスは1701年には10万ポンド以上の茶を輸入したが1701~1706年の年平均の輸入量は3万8千ポンド。

【政治】1703年 イギリスとポルトガルがメシュエン条約締結。イギリスによるポルトガルの経済統合の契機になったとされ、17世紀末にブラジル植民地で金鉱が発見されたのに起因するゴールド・ラッシュの利益もほとんどがイギリスに流れ込んだという。

*メキシコの鉱山も日本の鉱山も生産量が落ち込んでいた当時、大英帝国のアドバンテージ(advantage)を確保する上でこの件の影響は思うより大きかったかもしれない。
十字軍国家としてのポルトガル王朝 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

【政治】1704年 清朝政府公認の貿易港の広東との交流が始まる。

【御茶】1705年 エディンバラで緑茶16シリング、紅茶30シリング(各1ポンド)の広告が出された。

【珈琲】1706年 ジャワコーヒーの苗木がアムステルダムの植物園に届けられる。フランスにも送られた。

【御茶】1706年 トオマス・トワイニングがロンドンで「トム」と言うコーヒーハウスを開業。
*トオマス・トワイニングは以降コーヒーハウスの経営者としてではなく、茶を主とした商人として事業を拡張して行く。

【御茶】1709年  イギリス合同東インド会社発足(~1858年)
 
【御茶】1711年  「ブリタニカ」の初版に「ティ」の項目あり。

【御茶】1713年  イギリスが正式に広東と接近する権利を得る

砂糖1713年 イギリスがスペイン継承戦争講和条約であるユトレヒト条約においてアシエント(黒人奴隷貿易の特権)を獲得。
*以降、リヴァプールブリストルの貿易商によって、アフリカと西インド諸島を結ぶ黒人奴隷貿易が独占的に行われる様になった。

世界史の窓:奴隷貿易禁止

アシエント獲得よりイギリス本国の綿製品・武器などの工業製品をアフリカに運び、アフリカの黒人を奴隷として購入し、西インド諸島の砂糖プランテーションの労働力として売りつけ、砂糖を本国に持ち帰って巨利を得る三角貿易の繁栄がもたらされた。

三角貿易の利益は大きく、また砂糖も紅茶の流行と合わせて広く国民に普及したので、黒人奴隷貿易は必要なものとして肯定するか、あるいは無関心が普通であった。


【珈琲】
1714年
 フランスの植物園ジャルダン・ド・プラントで珈琲栽培開始。同年、ハイチのサント・ドミンゴでも珈琲の栽培が始まる。珈琲は南米各地にて生産され、植民地の主要な産物としての地位を確立。
*18世紀後半には世界一の砂糖生産地となったが、1804年のハイチ革命によりハイチが独立すると支配者層が追放されて農園は黒人に分配され、砂糖生産は一気に衰退した。

【御茶】1717年 イギリス東インド会社による中国茶船積が定期的に行われはじめた。

【御茶】1720年 イギリスが清国からの輸入独占権を得た。厦門に集められるお茶は、すべて紅茶に似た半発酵茶「武夷茶」。茶葉の色が黒かったことから、“black tea”と呼ばれ、やがて西欧におけるお茶の主流に。さらに好みに応じて発酵度をあげた製品づくりや、製法を綿密にした「工夫紅茶」が開発され、現在の紅茶の元となる。

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【政治】ウォルポールの平和(1721年〜1742年) 南海泡沫事件(1720年)の解決を契機にホイッグ党が権力を握る。浪費を避けるべく戦争を回避しつつ、有事の際には国債で戦費を賄うシステムを確立。また徴税制度や腐敗し切った東インド会社も再建。これで7年戦争(1756年〜1763年)に連動した海外植民地争奪戦を戦い抜く基礎体力がついたといわれている。
*一方、オランダは中央集権化が遅れて財政が行き詰まり、フランスではジョン・ローがミシピッピ計画を担保に中央銀行を設立しようとしたがバブルが崩壊して罷免されている。

【御茶】1721年~1730年 イギリス東インド会社による輸入統計によると、この時期の年平均茶の輸入量は紅茶が40万ポンドと緑茶が48万ポンドで合計88万ポンド。

【御茶】1723年 ウォールポールが「茶、コーヒー、ココアの実」のために「保税倉庫」を設置してこれの利用を義務化。インドや植民地産の嗜好品に対する輸入税は高かった。

砂糖1730年代 サン=ドマング島でフランスの技師の手により砂糖黍生産を効率化する複雑な灌漑設備などが造成され、1740年代までに英国の砂糖生産の拠点たるジャマイカと並ぶ世界の砂糖の主要な供給源となった。
*皮肉にもフランス宮廷の関心対象外だった事が功を奏したとも。


【御茶】1731年~1740年 イギリス東インド会社による輸入統計によると、この時期の年平均茶の輸入量は紅茶63.5万ポンドと緑茶が53.1万ポンドで合計116.6万ポンド


砂糖1740年 バタビアの狂暴(アンケの悲劇)。量産すればするほど砂糖の価格が低落してオランダ東インド会社の収益を圧迫。バタビア製糖工場の華人従業員の間に「さらなる値段下落に備えて大幅なリストラが敢行される」という噂が流れパニックが発生。これが華人大虐殺に発展して1万人を越す在島華人の大半が殺されるか島外追放の憂き目をみ工場閉鎖となった。既に日本の産銀能力が落ちていた事、それまで主要輸入品だった生糸や絹織物の国産化が進んだ事なども重なって、出島交易が不調に。
*日本に持ち込まれる砂糖は激減すると、薩摩藩琉球や本土で砂糖黍の栽培を開始。西国大名もこれを真似た結果、明治維新期における彼らの活躍を支える軍資金が積み上げられる。

【御茶】1741年~1750年 イギリス東インド会社による輸入統計によると、この時期の年平均茶の輸入量は紅茶108.4万ポンドと緑茶が93.8万ポンドで合計202.2万ポンド

砂糖1744年 イギリスの砂糖の消費量は年間80万ハンドレッドウェイト。(8960万ポンド=約40,642トン)

【御茶】1745年 茶の関税が大幅に引き下げられ、卸売価の25パーセントだけにする。 *イギリスにおいて18世紀初頭に1ポンド(重量)あたり17シリング半した茶が1750年代には8シリングまで下がった。

砂糖1745年 ドイツの化学者アンドレアス・マルクグラーフ (1709年〜1782年) が飼料用ビートから砂糖を分離することに成功。その後、マルクグラーフの弟子であったフランツ・アシャール (1753年〜1821年)が砂糖の製造試験に成功し、砂糖用の甜菜の栽培が広まる。1802年には製糖工場を建設し、工業化への道を開いた。

砂糖1750年 ハンブルクに350ヶ所の製糖所が造られる。同年のイングランドにも100ヶ所の製糖所があった。

【御茶】1751年~1760年 イギリス東インド会社による輸入統計によると、この時期の年平均茶の輸入量は紅茶247.2万ポンドと緑茶が126.3万ポンドで合計373.5万ポンド

【政治】外交革命(1756年)…フランス王統ブルボン家神聖ローマ帝国王統ハプスブルグ家の歴史的和約。プロイセンと戦う為の同盟だったが7年戦争(1756年〜1763年)以降の戦争抑止策としても機能する。フランス革命前の最後の戦争となったバイエルン継承戦争(1778年)もほとんど実戦には発展しなかった。
*7年戦争でプロイセンの捕虜となりジャガイモを知った農学者アントワーヌ=オーギュスタン・パルマンティエがそれを広める為に努力した時期。ルイ16世が王妃マリー・アントワネットにジャガイモの花を飾って夜会に出席させて貴族の関心を惹いたり、王が作らせたジャガイモ畑を昼間だけ厳重に警備して夜は放置して盗ませたりした。農本主義権威主義体制下では宣伝の仕方も一味違う。
「ベルサイユのばら」と産業革命 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

【御茶】1769年 イギリスで消費された茶の公式総量は589万ポンド(オランダ等からの密輸茶が公式総量の三分の二以上はあったと思われる)

【御茶1770年頃 茶の消費地だったアメリカが税金のかからない安い密輸の茶を買うようになったのでイギリス東インド会社は在庫を抱えて経済的危機に陥る。

【御茶】1773年 12月16日ボストンにてイギリスの東インド会社傭船の茶箱342個が投棄される。(ボストン ティー・パーティ事件)

【御茶】砂糖【珈琲】アメリカ独立戦争(1775年~1783年)…遠因の一つとなったのは、彼らが「英国植民地に国産以外の砂糖や茶を買う事を禁じる法律」を通そうとした事だった。アメリカ人にとって砂糖は贅沢品ではなく重要な交易品たるラム酒の原料だったのである。また以降アメリカ人は愛国心から茶でなくコーヒーを愛飲する様になったという。
*1764年にイギリス本国議会において可決された砂糖法は、英領以外から輸入される砂糖に課税するもので、税収増と西インドの砂糖業保護を狙ったものだったが、アメリカの13植民地の反対を受けて撤回を余儀なくされた。しかし砂糖法は始まりにすぎず、1765年の印紙法や1770年のタウンゼント諸法などによってアメリカ植民地の支配が強化されると植民地の不満は爆発し、アメリカ独立戦争へとつながっていくことになった。

【御茶】1784年 イギリスで茶の関税が119%から12.5%に引き下げられた(1ポンド(重量)につき品質によって[2.5~6.5]ペンス)。安価になった紅茶は消費量が増大し、ティーセットの需要も増加。
*西洋人にとって東洋風なティーセットは洗練された文化と見なされ、人気が広まる。清国が景徳鎮を禁輸したので日本の「伊万里」や「柿右衛門」などが代わって市場を席巻した。人気に乗じて西洋でも磁器、陶磁器の生産が始まる。イギリスではウェッジウッドチェルシーが、ドイツでは柿右衛門の様式を取り入れたマイセンが名を馳せた。

【御茶】1785年 イギリスで消費された茶の公式総量は1085万ポンド(オランダ等からの密輸茶が公式総量の三分の二あったと思われる)

【御茶】1786年 茶の税金を下げたためオランダ等からの密輸がなくなる。
*イギリスで消費された茶の総量は1800万ポンド。市販の茶の値段が1ポンド(重量)につき3シリングまで値下がりしたので茶の消費が大幅に増えた。

【政治】フランス革命(1789年〜1799年) 世界システム論で有名なウォーラーステインも、ジャコバン派独裁政権が貧富の格差を生み出す悪の根源たる産業発展を憎む立場から植民地独立を承認しフランス国際交易の中心地ボルドーとフランス工業の中心地リヨンを壊滅させたのが反進歩主義的行動だった事自体は認めている。
フランスにおける産業革命の受容過程 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
*一般論と異なるのはそうした振る舞いにある種の先駆性を見出し「21世紀に生きる我々が模倣すべき偉業」と礼賛しているあたり。
産業革命と参勤交代 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

砂糖【珈琲】ハイチ革命(Révolution haïtienne, 1791年〜1804年)…1789年8月26日に発布された人権宣言に呼応する形で、それまで砂糖の40%を生産していたフランスの植民地サン=ドマングで勃発。全土を恒久的に解放し、自由黒人の共和国としてハイチが建国される。島にいる黒人奴隷の人口はこの時少なくとも50万人であり、カリブ海地域にいた奴隷100万人のおよそ半分を占めていたが、少数派エリート(革命前夜の1789年時点でフランス人が4万人、ムラート(フランス人と黒人の混血)が2万8千人)の暴力誇示よって圧倒的多数派を抑え込む圧政そのものは、そのまま継承。砂糖プランテーションの経営もそのまま許した。その為に最初期の段階から政治的にも経済的にも統治が安定し、西半球で起こったアフリカ人奴隷の反乱の中でも最も成功した革命に数えられている。北部でトゥーサンが勝利し、南部ではムラートがこれに続き、沿岸部をイギリス軍が占領したのでフランスも事態を認めざるを得なくなった。1793年、パリの革命政府の代表部であったレジェ=フェリシテ・ソントナとエチエンヌ・ポルヴェレが「反革命軍と外国部隊に勝利すれば自由を与える」と約束し、本国のジャコバン派国民公会もこの命令を1794年2月4日に追認してフランス全領土における奴隷廃止を定めた。

*このせいでフランス本国においては砂糖と珈琲の値段が高騰。当初は代用コーヒーとして広まったチコリ・コーヒーがフランス家庭に広範囲で広まったのはこの時以降とも。
チコリコーヒーとたんぽぽコーヒーについて-赤ちゃんの部屋


砂糖
1800年 世界の砂糖の全生産量は24万5千トン。イギリスにおける砂糖の消費量は年間3億(重量)ポンド

砂糖1804年 ハイチの独立に連動してイギリス領ジャマイカ島でも黒人暴動発生。

砂糖
1806年〜1813年 ナポレオンの大陸封鎖令。これを契機にヨーロッパへ砂糖が供給されなくなる。


砂糖
1807年 イギリスで奴隷貿易禁止法が制定される。フランスの植民地サン=ドマングで独立を宣言したハイチへの懐柔策という側面も?
奴隷解放がハイチの国是だったので、この方面で何の手も打たないままイギリスと手を結んでフランスと共闘する可能性はなかったのである。

世界史の窓:奴隷貿易禁止

1870年代になって、イギリス国教会の中の福音主義者や、非国教徒のクウェーカー教徒・メソジストなどの中に、キリスト教人道主義の立場で特に、中間航路での黒人奴隷の劣悪なこと、その貿易が非人間的な行為であることが主張されるようになった。1774年には初めて奴隷貿易の禁止案が議会に提出されtが、多数で否決された。

1787年、奴隷貿易廃止協会が設立され、トーリ党の下院議員ウィルバーフォースが参加し、その指導者となった。ウィルバーフォースは貴族出身であったがキリスト教福音主義の熱心な信者であり、またピットの友人という立場から、盛んに運動し、毎年のように奴隷貿易禁止法を提案したが、否認され続けた。また、リヴァプールの商人たちは地域の経済に重要な役割を果たしている奴隷貿易を廃止しないようにとの請願書を議会に提出した。特に隣国でフランス革命が勃発すると、黒人奴隷に同情を寄せる事は危険な革命思想に近いと考えられて、彼らの運動は支持を広げることができなかった。ウィルバーフォースの努力が実り、イギリス議会が奴隷貿易禁止を内容とする法律を可決したのは、ナポレオンとの戦争の最中の1807年であった。なお、その前の1804年には、西インド諸島のフランス領ハイチの独立の際には、イギリス領ジャマイカ島でも黒人暴動が起こっていた。

映画『アメイジング・グレイスAmazing Grace、2006年)』はウィルバーフォースが奴隷貿易禁止法を議会で制定させることに成功するまでの映画で、史実に基づいているとおもわれるが、根強い議会の禁止法反対派を出し抜くために、ウィルバーフォースたちが採った奇策の話が出てくる。彼らは初めはキリスト教人道主義という大上段から奴隷貿易禁止を主張していたのだが、奴隷貿易西インド諸島の砂糖プランテーションから利益を得ている議員も多く、毎年提出する法案はことごとく否決されていた。おまけに、フランス革命が勃発すると、ウィルバーフォースたちは奴隷解放に荷担する過激なジャコバン派と同類であるとみなされ、窮地に陥っていた。そこで、ジャマイカなどでの奴隷貿易の実態を見てきた仲間の弁護士が一計を案じる。それは、奴隷貿易を事実上出来なくしてしまうと言うものだった。当時、奴隷を積んでアフリカから西インド諸島に入ったイギリス・フランスの船は、そこで砂糖やタバコなどに積み荷を替え、一旦アメリカの港に入って、そこからアメリカ国旗を掲げてヨーロッパに向かっていた。中立国アメリカの船に偽装することで敵国船や私掠船(政府から敵国船を略奪することを認められた海賊船)から逃れようとしていたのだ。そこでウィルバーフォースたちは、アメリカ船の国旗を掲げる船は一切保護せず、イギリスに入るものは拿捕するという法案を提出した。これが可決されれば、イギリスの奴隷貿易商は拿捕を恐れて船を出さなくなり、それによって奴隷貿易は8割がた減少するだろうと、彼らは考えた。こうして正面から奴隷貿易禁止を訴えるのではなく、奴隷貿易そのものを妨害しようとしたのだった。しかも自分たちの提案だと言うことを隠すために愛国派の議員に提案させ、さらにウィルバーフォースは議員の多くをエプソム競馬場の招待券を配り、議場から抜け出させていた。反対派議員の大物がこの陰謀に気付いたときにはすでに遅く、アメリカ船を拿捕する法案は可決された。これに勢いづいたウィルバーフォースたちは、その運動の陰の理解者ピット首相の死(1806年)を乗り越えて1807年に奴隷貿易禁止法を可決させることに成功した。映画ではこの議場でのかけひきが丁寧に描かれていて、当時のイギリス議会の雰囲気を理解する上でも参考になる。


砂糖
1811年 フランスの皇帝ナポレオンが砂糖自給の為に甜菜の栽培を奨励。フランス盆地中央部からノルマンディーにかけての地域で栽培される様になり、後にフランスを世界一の砂糖生産国へと変貌させる。
*ドイツ、オーストリア、ロシアといった南米に植民地を持たない国でも生産が盛んとなった。

【政治】1813年 イギリス東インド会社による「インド貿易」の独占を禁じる。

【御茶】1823年 インドのアッサムで新種の茶が発見され、イギリスは1834年にアッサム茶の栽培を計画。1838年にはアッサム茶の見本がロンドンに送られた。

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砂糖
1830年 世界の砂糖の全生産量は57万2千トン

砂糖1832年 甘蔗糖業にはじめて真空結晶缶を使用。同年チェコで角砂糖が発明される。そして1837年に遠心分離機が発明され、1844年以降製糖業に導入された。

*一方、19世紀に入っても砂糖黍の増産は続いた。イギリスはインド洋のモーリシャスや南太平洋のフィジーにもサトウキビを導入し、プランテーションを建設。すでに奴隷制は廃止されていた為、ここでの主な労働力は同じイギリス領のインドから呼ばれたインド人となった。そのため、現在でもこの両国においてはインド系住民が多い。西半球においてはそれまでの西インド諸島からキューバへと生産の中心が移り、1860年にはキューバでの砂糖生産は世界の4分の1を占めるまでになっていた(キユーバで奴隷制が廃止されるのは1880年)。こうして砂糖は増産され続けたために、19世紀末には価格が低落し、高級嗜好品だった砂糖は一般市民、そして労働者層にも手に入るものとなった。この時期の砂糖消費の増加は非アルコール飲料の消費増加と軌を一にしているが、これは砂糖入り飲料(イギリスでは砂糖入り紅茶、ヨーロッパ大陸では砂糖入りコーヒー)とパンの組み合わせが庶民の安く手軽な朝食として取り入れられ、一般的なものとなっていったことによる。

砂糖1833年 イギリスで奴隷制度廃止法が制定される。それまで産業革命を推進してきたマンチェスターなどの工場経営者が(高関税にこだわる)西インド諸島派を倒す戦略の一環として合流。まず西インド諸島で大農園を経営している様な有産者が不利となる第1回選挙法改正(1832年)が成立し、それに続く形で制定。そして1842年に一旦失敗したものの、1844年に至って関税は30パーセントに引き下げられ、1852年には内外の砂糖関税が同率となった。
*皮肉にも奴隷貿易奴隷制度の廃止以降、それを推進したマンチェスター 派が、ブラジルなど外国の奴隷制砂糖生産を容認し、逆に「西インド諸島派」が その廃止を求めはじめる。
「尊敬されたい」マッドチェスターの雨 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

世界史の窓:奴隷制度廃止法

まず1807年に奴隷貿易禁止法の制定に成功したウィルバーフォースらが1823年に奴隷制度反対協会を結成し、本格的に奴隷制度の廃止に取り組み始めた。


1832年の第1回選挙法改正によって、議員構成の中で西インド諸島で大農園を経営しているような有産者層が後退し、自由貿易を望む産業資本家のウエイトが大きくなったことが功を奏し、翌1833年のグレイ内閣(ホイッグ党)の時に奴隷制度廃止法が成立した。これは一連の自由主義的改革の一つであった。

その内容は、本土以外にも西アジやアフリカのイギリス領を含むイギリス帝国全体における奴隷制度を廃止するもので、奴隷所有者に賠償金200万ポンドを払う有償方式で実施され、1838年までに完了した。これによってイギリス帝国内の西インド諸島の砂糖プランテーションの経済的比重は小さいものとなり、ブラジルなどからの砂糖が自由に輸入されるようになった。

なお、奴隷制度廃止が決定された1833年には一般工場法も制定されており、いずれも自由主義改革の重要な内容である。


その一方でアフリカのケープ植民地では黒人奴隷を使役して大農園を経営していたブール人(ボーア人)といわれるオランダ系白人入植者が、奴隷制廃止などに反発し、イギリスの支配から脱しようと、グレート=トレックといわれる大移動を開始するきっかけとなった。

 
【政治】1833年 イギリス東インド会社による「中国貿易」の独占を禁じる。


【御茶】
1839年 カルカッタとロンドンでアッサム茶販売のための製茶事業の会社が設立され、栽培が本格化。1840年には万2千ポンド(重量)の茶を生産したがアッサム茶の販売が採算に見合うようになるのは1848年以降。以降ベンガルでもアッサム茶の生産が行われるようになり、大量生産によって茶の値段が低下。ティータイムの習慣に拍車がかかりる。

【政治】
アヘン戦争1840年~1842年) 清朝政府の「アヘン禁輸措置」からイギリスとの間に戦争が起きる。

【御茶】1849年 航海条例が廃止されたので他国船籍の船も英国本土に直接茶を運べるようになった。スエズ運河が開通まで英米のクリッパー(快速船)による中国~イギリス間のティーレースが行われた。

砂糖1852年 イギリスにおける砂糖の消費量は年間10億(重量)ポンド

砂糖1857年 イギリスの砂糖の価格が1857年以後急落

【政治】セポイの反乱(1857年 ~1859年) 1858年 東インド会社解散。 1877年にはインドをイギリス領として統合し「インド帝国」が成立。 

砂糖1860年 甜菜糖+砂糖きび糖を合わせて世界の全生産量は137万トン。

【御茶】1869年 スエズ運河開通。クリッパー(快速船)による茶の運送は終了。

【御茶】1866年 イギリスで消費された茶の総量は1億226万5千ポンド。この中でインド茶の占める割合は4.5パーセント。

【御茶】1875年 イギリスで消費された茶の総量は1億4400万ポンド

【御茶】1885年 イギリスで消費された茶の総量は1億8200万ポンド

砂糖1890年頃 リプトンは1ポンド(重量)が3シリング(36ペンス)した茶を仲買人を通さずに1シリング7ペンス(19ペンス)で売り出した。
*同時期、甜菜糖+砂糖きび糖を合わせて世界の生産量は600万トンを越えた。

【御茶】1890年 イギリスで消費された茶の総量は1億9400万ポンド

【御茶】1900年 イギリスで消費された茶の総量は2億4900万ポンド(1903年には中国茶の割合は10パーセント、インド茶51パーセント、セイロン茶31パーセント)

【御茶】1901年 ヨーク市在住の労働者階級である「四輪馬車の馭者」の家計簿に「茶0.25ポンド〈重量〉で4.5ペンスと砂糖4ポンド〈重量〉で7ペンス」と言う記載あり。(茶を1ポンド〈重量〉にすると1シリング6ペンスで砂糖の1ポンド〈重量〉は1.75ペンス)   

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これをまとめながら考えた事。

  •  そういえば南アフリカを開拓したのも彼らだが、オランダ人には確実に「農業のスペシャリスト」という側面が存在する。彼らの協力がなければ大英帝国に砂糖革命は起こらなかったし、また「唐三盆」輸入により日本の和菓子文化の基礎が築かれる事もなかった。一方「国際的競争力がつくまで関税障壁を設けて国内産業を庇護する」といった発想に欠けるので鉄鋼業などの重工業分野には向かない。おそらくそのせいでベルギー独立革命1830年)は勃発してしまった。
    ベルギーワッフルは何故あの形? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
    「角砂糖の発祥地」チェコの産業革命 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/90/Wappers_belgian_revolution.jpg/300px-Wappers_belgian_revolution.jpg

    *逆を言えば、その職人気質こそが、必要に迫られれば「純粋に効率のみを追求した奴隷制農場」なんて代物を現出させてしまうとも。ベルギー王レオポルド2世の私領としてのコンゴ自由国(1884年〜1908年)や、オランダのインドネシア統治だって、最初から悲惨だった訳ではない。収益が悪化し、どこまでも際限なく冷徹に現場への転化を続けた結果とんでもない事になってしまっただけである。この顛末自体は、同時期ユダヤ人ゲットーやドイツ東部や東欧の再販農奴制を地獄へと変貌させた経緯と酷似している。カリブ海の砂糖農園の非道を責めるのは容易だが、それなら薩摩藩琉球王朝で経営した砂糖農園や、松前藩や幕府のアイヌ政策はどうなのか。日本人ならそういう観点からのアプローチも必要になってくる。
    思考停止こそ歴史的悲劇の源泉(18世紀) - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
    *このあたりについてはマクニール「世界史講義」に収録されているフロンティア論でも様々な吟味が試みられている。上掲の問題を客観的に俯瞰する視点を確立しようという意欲的な試みで中々興味深い。多くの本屋で平積みになってるのも分かる気がする(何よりマクニールの著作にしては薄いのが良いとも)。
    マクニール世界史講義 (ちくま学芸文庫)

    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/ad/Fallen_timbers.jpg

  • よく茶や砂糖は「世界商品」と言われるが、こうして全体像を俯瞰してみると「まず王侯貴族が愉しんでステイタス・シンボルとなり、ブルジョワ階層や一般庶民がこぞって真似する。その過程で大量生産による値段の低廉化が進行する」なんて商品のライフサイクルをきちんと現出させるには、案外英国人や日本人の様なスノビズム気質が欠かせない気もしてくる。
    「小京都主義」VS「小京都」 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
    *フランス絶対王政下で試みられた馬鈴薯振興策もこれだったが、思うより大した成果は出なかった。その一方で日本に目を向けると「製紙文化」「お茶の間文化」「海苔文化」全てこれ。一方、階層の流動性が「新興ブルジョワ層のジェントリー階層への吸収」に限定される英国は案外実例が少ない。
    英国のジェントルマン資本主義 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
    というより「幕末には富農や富商まで武士を真似て二本差しで闊歩していた(しかも格好だけでなく、ちゃんと道場に通って相応の腕前も身につけていたりした)」というエピソードが自体がおかしい。町人でも金さえ払えば相応の腕前が身につけられる様な道場がそれほどの数栄えていたというエピソードが自体もおかしい。
    北斗の人 (角川文庫)
  • そして、それとは別に「スペイン全盛期の裏にポトシ銀山、オランダ全盛期の裏に日本の銀、イギリス全盛期の裏にブラジルの金」みたいな覇権と資金のシビアな関係が浮かび上がってくる。この時代、いわゆるコルベールの重金主義(Bullionism)」が台頭してきたのも無理はない。現代社会においてなお「商品購入を通じて市場動向を支配する消費者戦略」と「金を溜め込み続ける事で市場への影響力を確保する金融戦略」の境界線を見出すのは結構難しいのだから。
    重商主義 - Wikipedia
    *そうした状況下、発想の天才的飛躍を見せたのがスペイン継承戦争(Guerra de Sucesión Español、1701年 - 1714年)とポーランド継承戦争ポーランド語:Wojna o sukcesję polską, ドイツ語:Polnischer Thronfolgekrieg、1733年〜1735年)の狭間においてスペインの支配を逃れた南イタリアに開花したナポリ経済哲学だった。ここでは国家(国王)こそ経済の主体と考え、国家(国王)の内容や他の国家(国王)との関係のあるべき姿を探っていく。フランスの新コルベール主義や、神聖ローマ帝国領内で流行した官房学(Kameralwissenschaft、独: Kameralismus, 英: Cameralism)といった絶対王政下の経済経営に影響を与えたばかりか、税金の重さとその対価たる公的サービスへの国民の満足度で国家の安定度を計測するイタリア経済哲学の祖となった。
    効用主義者たち (The Utilitarians)
    *実はこれ、当時は「国民の幸福は、搾取によって(貧富の格差を拡大する)経済発展から遠ざけられるほど増大する」と斜め上の解釈を加えられて当時の再版農奴制の惨状を正当化するのにも用いられたのだけど(この考え方を応用すると「奴隷の幸福は虐待によって反逆可能な状態から遠ざけられるほど増大する」となり、最終的には「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」というジレンマに行き着く。コンゴ自由国、そして北朝鮮…)、その一方で第二次世界大戦特需がアメリカ経済に引き起こしたインフレ状態を、愛国心を煽って戦時国債を売りまくる事で沈静化させた実績もあるから無碍には出来ない。
    「歴史における危機」と経済的破局 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

    http://www.y-history.net/gazo/0901/potosi.jpg

 とはいえ悩むまでもなく日本人は選んでしまっています。「国民のうち尊ぶべきは国防も担う覚悟が出来ている武家と農家のみであり(貧富格差を拡大する産業発展をもたらす)商人と職人は一刻も早く国内から駆逐し尽くべき害虫に他ならない」なる建白書を明治政府に提出した西郷隆盛は既に西南戦争(1877年)で殉死してしまっている訳ですから。

さて、私達は一体どちらに向けて漂流してるのでしょうか…