諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

騎士修道会と「武人の覚悟」の奇妙な変遷

スター・ウォーズ/フォースの覚醒(STAR WARS: THE FORCE AWAKENS、2015年)」を鑑賞して「帝国(英国人が拗ねる)やナチス(ドイツ人がむくれる)の悪役抜擢はもう古い。これからの悪のイメージの中核は十字軍、それも騎士道修道会」という戦略を感じました。まぁ呼称からしてファースト・オーダー(First Order)もしくは単なるオーダー(The Order)ですからね。

http://www.hdwallpapers.in/walls/kylo_ren_and_first_order_stormtroopers-wide.jpg

ジェダイも騎士団(The Order)ですが、あえて「宗教騎士団」を意識すると固有の狂信的イメージが加わります。まぁ影響といってもその程度で、十字軍運動そのものに触れる事はないでしょう。

十字軍運動とヴェネツィアの覇権 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

http://livedoor.blogimg.jp/monochrome45/imgs/5/0/5099122d.jpg

悪役を演じる映画は、主に東欧やソ連で製作されてきました。そう、東方植民の最前線に立ったチュートン騎士団…そもそも第1作から「ストーム・トルーパーの元イメージの一つ」といわれおります。ドイツ人、そう簡単に逃がしてはもらえない…

  騎士道修道会の時代(12世紀〜15世紀)

騎士修道会 - Wikipedia

十字軍時代(11世紀~13世紀、イベリア半島におけるレコンキスタ完遂(1492年)を視野に入れるなら11世紀~15世紀となる)は騎士修道会の時代でもある。聖地エルサレムの防衛とキリスト教巡礼者の保護・支援を目的として創設された中世のローマ・カトリックの修道会の事で、一般に「○○騎士団」と呼ばれることから誤解を受けやすいが、あくまで修道会の一形態であり、その成員の公的身分は修道誓願を立てた修道士であって騎士ではない。後にはイベリア半島と東ヨーロッパでも異教徒との戦いのために活動した。

http://www.in-cuiul-catarii.info/wp-content/themes/newspro/timthumb.php?src=http://www.in-cuiul-catarii.info/wp-content/uploads/2015/01/cruciadele.jpg&q=90&w=634&zc=1

キリスト教は当初から殉教者を出したが、その当時から既に墓所に詣でて敬意を表する信者の姿があった。これをマルティリウム(martyrium)といい、礼拝場たる教会と並んでキリスト教コミュニティの重要な中心となっていた。そして4世紀にキリスト教が公認されると、キリスト教発祥の地であるパレスチナ、ことにキリストの生地であるベツレヘム、受難の地であるエルサレムへ、その遺構に参拝する信者が旅行するようになり、各地の殉教者記念堂も巡礼の対象となった。ちなみにカトリックの三大巡礼地は、ローマ(=ペトロの地)、サンティアゴ・デ・コンポステーラ、そしてエルサレムとされる。これが幾つかの騎士修道会の母体となった。

サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)…スペインのガリシア州ア・コルーニャ県にあるの州都。ガリシア地方は5世紀から6世紀にかけては、スエビ王国(ガリシア王国)の中心地であったが、584年に西ゴート王レオヴィギルドによって征服されている。この時代にガリシア北部ブリトニア(es:Britonia)にブリトン人移民による司教座ができた。アングロ=サクソン人のグレートブリテン島侵攻を逃れてきた人々とされる。8世紀に一旦イスラム教徒の支配下に入ったが、実効支配の及ばないまま739年にアストゥリアス王国のアルフォンソ1世(ガリシア語ではアフォンソ1世、Afonso I)が奪還に成功した。以降レオン王国の一部となり、カスティーリャ王国へと継承される。9世紀のサンティアゴ・デ・コンポステーラサンティアゴの聖遺物が発見されサンティアゴ信仰が盛んとなり、レコンキスタ運動の象徴となった。それ以降、巡礼路を巡ってヨーロッパ中からキリスト教徒が巡礼するようになる。人々の往来はこの地方にロマネスク美術や吟遊詩人の詩や音楽のの伝播といった文化交流をもたらした。9世紀から10世紀にかけては沿岸部がヴァイキング(北欧系諸族の略奪遠征)やノルマン人(ノルマンディー地方に定住して北フランス諸侯に加わった北欧系諸族)の標的とされている。アルフォンソ10世がカスティーリャ語を国語と定め、宮廷や政治の場で使用させた13世紀においてなお、ガリシア語は文学世界の標準語として君臨し続けたが、カスティーリャ優位の中央集権体制が進むにつれ徐々に衰退していく。おおまかに16世紀から18世紀中旬までの時期はセクロス・エスクーロス(Séculos Escuros、暗黒時代)と呼ばれ、書き言葉としてのガリシア語が使われる伝統の途絶していく時期に該当する。その一方で地中海沿岸からヨーロッパ各地にかけて諸聖人の遺骨(聖遺物または不朽体)または十字架、ノアの箱舟の跡などの遺物を祭ったとされる教会、聖堂を巡礼する伝統自体は決して衰える事なく、ヴェネツィア共和国の栄華を支えたり、ルターの宗教革命の庇護者としても聖遺物の収集家としても名高いザクセン選帝侯フリードリヒ(在位1486年〜1525年)の様な人物を輩出したりもしている。

ロマネスク聖堂に描かれた怪物達に担わされた象徴的役割 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

十字軍運動とヴェネツィアの覇権 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

http://para-viajar.com/wp-content/uploads/2011/05/Catedral-de-Santiago-de-Compostela.jpg

  • 古代後期から、殉教者の遺骨によって奇跡がおき、参拝した巡礼者に病気が治癒したり歩けなかった足が動くようになったなどの事例が報告されるようになる。そうした奇跡が起こったということから巡礼者が集まるようになった場所としてはピレネー山中のルルドカトリックの三大巡礼地の1つサンティアゴ・デ・コンポステーラなど。またライ麦につく麦角菌に起因する麦角病(四肢が壊疽したり、精神錯乱を招く)は「巡礼に赴くことで癒える」とされた。

  • 巡礼は多くの旅行者を集めたが(『カンタベリー物語』など)もっとも有名なのは、エレナが発見したとされる十字架の遺物、アルメニア王アブガルス3世に贈られ、エデッサ(en:Edessa)からコンスタンティノポリスにもたらされたマンドリオン(手で描かれたのではない聖像)、コンスタンティノポリス聖母マリアの衣、洗礼者ヨハネの首などである(宝物は中世後期に散逸)。

  • 巡礼者を惹きつけるために他の教会から聖遺物を盗んできたり、偽造するということもあった。また西方では、中世中期からミラノのキリストの聖骸布、聖杯(聖杯伝説や騎士道物語を生み出す元になった)などの伝承が生まれた。

  • キリスト教における巡礼は聖地への礼拝だけでなく、巡礼旅の過程も重視する。すなわち聖地への旅の過程において、人々は神との繋がりを再認識し信仰を強化するのである。サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼の物語を「時間と空間を越える神の存在への問いかけの物語」にしたフランス映画に『銀河』がある。

www.youtube.com

巡礼者はホタテの貝殻をリュックなどにぶら下げて目印としていた。そうした人々の中で病に倒れた人、宿を求める人を宿泊させた巡礼教会のうち小さなものを「hospice ホスピス」と呼んだが、そこでのもてなしから「hospitality ホスピタリティ(歓待)」の語がうまれ、病人の看護などの仕事をする部門が教会の中に作られるようになって今日の英語でいう「hospital(病院)」が派生する。ゆえに「hospital」は、「病院」だけでなく「老人ホーム」「孤児院」の意味も持つ。またhospiceは、現代では終末期の患者が残りの時を過ごす近代的な「ホスピス」の語源となっている。

http://dumit.net/wp-content/uploads/2012/08/Hospice-dove.gif
1118年に創設され1128年に公認されたテンプル騎士団を端緒とし、騎士であり修道士である会員、キリスト教の教会を守護するための戦士と、清貧を旨とする宗教的に優れた人格をともに実現することを目標とする。後には、聖地における巡礼者の救護を目的として設立された聖ヨハネ病院修道会やドイツ人の聖マリア病院修道会も騎士修道会へと発展し、それぞれが聖ヨハネ騎士団ドイツ騎士団に発展した。

「聖ヨハネ病院修道会(最終的正式名称:ロードスおよびマルタにおけるエルサレムの聖ヨハネ病院独立騎士修道会:Cavalieri dell'Ordine dell'Ospedale di San Giovanni di Gerusalemme:1023年~1798年)」

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e8/Prise_de_Malte_en_1530.jpg
1023年頃にアマルフィの商人がエルサレムの洗礼者ヨハネ修道院跡に病院を兼ねた巡礼者宿泊所(最大2,000人が収容可能といわれた)を設立したのが端緒とされる。
エルサレムの病院から分化した騎士修道会

テンプル騎士団キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち:Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici:1096年~1314年)」
http://img-cdn.jg.jugem.jp/df1/691292/20090123_2385259.jpg
ヨーロッパ人によって確保されたエルサレムへの巡礼に向かう人々を保護するために1096年の第1回十字軍の終了後の1119年に設立。クレルヴォーのベルナルドゥスに会則の作成と教皇庁へのとりなしを依頼する一方で聖ヨハネ騎士団修道会の先例にならい聖アウグスティノ修道会の会則を守って生活するという誓いを立てた。

所属騎士達の強さと勇敢さは伝説級であり聖地維持の為に何らかの貢献をしたいと考える当時のヨーロッパ貴族の注目を集める。フランス王だけでなく多くの王侯貴族から寄進を得て入会者も増えた。1139年に教皇インノケンティウス2世がテンプル騎士団に国境通過の自由、課税の禁止、教皇以外の君主や司教への服従の義務の免除など多くの特権を付与した事が勢力拡大の契機となった。

  • 1147年の第2回十字軍に際してはフランスのルイ7世を助け奮闘した為、十字軍終了後、ルイ7世は騎士パリ郊外の広大な土地を寄贈されここにテンプル騎士団の西欧における本拠地拠点を建設。この支部は壮麗な居館のまわりに城壁をめぐらした城砦に近いもので、教皇や外国君主がフランスを訪れる際には宿舎となり、王室の財宝や通貨の保管まで任されるようになった。1163年には教皇アレクサンデル3世が自らの選出に際し、尽力したテンプル騎士団に報いる形で回勅 Omne Datum Optium を出して、修道会と財産の聖座による保護、司教からの独立などの特権を賦与。そして1177年のモントギサールの戦いではサラーフッディーン率いるイスラーム軍を撃退し、フランスのフィリップ2世やイングランドのリチャード1世(獅子心王)とも共闘。イベリア半島でも対ムスリム勢力戦に従事して、その勇名を不動のものとする。

  • シリアで砂糖農園を接収し、欧州に最初に砂糖を伝達した集団としても名前を残す。「暗殺教団」との腐れ縁がこの時に出来たとも。
    「江戸時代の鎖国」とは、一体何だったのか? - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

  • しかし1187年までに中東情勢は悪化の一途をたどり、当時の総長ジェラール・ド・リデフォールは宿敵サラーフッディーンとの数次にわたる戦いに敗北するだけでなく、自らが捕虜となるという致命的な失態を演じてしまう。これにより「投降より死を選ぶ」という騎士団の勇名に泥を塗ったばかりか解放後再び捕虜となって斬首されヨーロッパにおけるテンプル騎士団の威信を地に落とした。

  • 1290年にアッコンが陥落すると、キリスト勢力は完全に聖地周辺の足がかりを失う。軍事活動なしには存続出来ない他の騎士団が存亡をかけて新たな目標を見つけていく中で、テンプル騎士団だけは特権と財産に守られ危機感がなく、スペインでのムスリム勢力との小競り合いを除けば、ほとんどすべての軍事活動を停止してしまった。

テンプル騎士団はまたその経済活動でも知られる。

  • 地域司教たちや他の修道会からの批判の声も何のその。一切の課税を免除され、自前の艦隊まで所有して商業活動や金融活動を行っていた騎士団テンプル騎士団の肥大化は商人や製造業者達まで怒らせた。財務機関としてのテンプル騎士団(会の活動目的が聖地守護と軍事活動であったとしても実際に前線で戦うのは会員の数%に過ぎず、残りの大半はそれを支援するための兵站および経済的基盤構築にあたる。

  • もともと入会者たちは、この世の栄華を捨てる証として個人の私有財産を会に寄贈して共有しており、この慣習はほかの修道会でも行われていた)は欧州から中東にいたる広い地域に多くの土地を保有してそこに教会と城砦を築き、ブドウ畑や農園を作り、自前の艦隊を保有し、最盛期にはキプロス全島すら所有していた。パリ支部は事実上フランス王国の非公式国庫となり、1146年にはルイ7世の命により王国の国庫が正式にテンプル騎士団に預けられている。

  • また(現金を持ったまま巡礼の道を移動する事により起るリスクを防ぐ為)巡礼者に対し自己宛為替手形(lettre de change)の発行等の銀行機関のようなサービスも行っていた。現在で言う預金通帳のような書類(bon de dépôt)もテンプル騎士団の当時の事務処理に遡るという。

そしてフィリップ4世の財政改革によってフランス・テンプル騎士団は破滅する。「国王より富裕になったから粛清された」とする説も。

  • 13世紀末頃、王権強化を進めていたフランス王フィリップ4世(美男王:在位1285年~1314年)は財政面で幾度も騎士団の援助を受けていたにもかかわらず、自らの新しいアイデアに夢中になっていた。それは当時もっとも勢力のあった2つの騎士団、テンプル騎士団聖ヨハネ騎士団を合併し、自らがその指導者の座について聖地を再征服。その後、自分の子孫にその座を継承していくことで自らの一族が何世代にわたって全ヨーロッパにおよぶ強大な影響力を及ぼす、という夢であった(テンプル騎士団総長ジャック・ド・モレーに提案したものの即座に拒絶)。

  • いずれにせよ現実のフランスは(英国との戦争によって抱えた多額の債務もあって)慢性的財政難にあえいでおり腹心のギヨーム・ド・ノガレの献策にしたがって、1296年に教皇庁への献金を禁止し、通貨改鋳をおこなった。さらに1306年にはフランス国内のユダヤ人をいっせいに逮捕、資産を没収した後に追放するという暴挙に出てまとまった資産を手に入れる。次に目をつけたのが富裕なテンプル騎士団であった。なぜならフランス王家にとってテンプル騎士団は最大の債権者でもあり、「債務の帳消し」と「テンプル騎士団の壊滅と資産没収(略奪)」の一石二鳥が狙えたからである。

  • そもそも何の罪もない人々を一般的な裁判形式で裁いても有罪の立証に持ち込むことは難しいので匿名の証言を採用できる「異端審問方式」を用いて有罪に持ち込む事を考える。異端審問遂行には教皇庁の認可が必要であるが、当時の教皇はフランス王の意のままに動くフランス人のクレメンス5世であり、テンプル騎士団を入会儀式における男色(ソドミー)行為、反キリストの誓い、悪魔崇拝といった容疑で起訴するのに何の問題もななかった。かくして1307年10月13日になるとフランス全土で一斉に何の前触れもなくテンプル騎士団の会員が一斉検挙され、不当な罪名を被せた上で罪を「自白」するまで拷問を行い、全資産を聖ヨハネ騎士団へ移行した上で以後の活動を全面禁止にし、資産没収を完了した1314年になると口封じの為に投獄されていた4人の最高指導者を生きながら火炙りに掛けている。

それ以外の国ではテンプル騎士団は姿を変えて生き延びた。

ドイツ騎士団(Deutscher Orden)チュートン騎士団(Teutonic Knights)(1191年~1523年)

http://www.gregorius.jp/presentation/charts_80/s80_09.jpg
その前身は聖ヨハネ騎士修道会に帰属していた「エルサレムのドイツ人の聖マリア病院」とも。創設者はおそらく世俗貴族と思われるドイツ人夫妻で、ドイツ語以外分からないドイツ人巡礼者の為にこの病院を創設したと言われている。多数の協力者がいたようで、この病院で働く者達は修道士として聖アウグスチヌス修道会の会則を守り、白衣に黒い十字の僧衣を纏っていたらしい。ただし自らの出自が自立していたと主張したいドイツ騎士修道会は今日なおこの病院が自らの前身と認めていない。
エルサレムの病院から分化した騎士修道会

やがて「リヴォニア帯剣騎士団(Schwertbrüderorden(Fratres Militie Christi de Livonia=リヴォニアのキリスト騎士修道会、1202年~1237年)」を接収した。

  • 当時リヴォニア(現在のラトビアからエストニアにかけての地域)ではキリスト教徒と現地異教徒の軋轢が日に日に高まり小競り合いも頻発していた。そんな最中、リヴォニア司教区の司教に任命されたシトー会のアルベルトが教皇インノケンティウス3世に十字軍の許可を願い出る(1199年)。アルベルトは十字軍兵士を集めて1200年3月にリガへと移動。十字軍の力によりその周辺の異教徒リーヴ人を服属させる事に成功したのである。そしてリーヴ人を使役してリガを増築し、1201年に自分のリヴォニア司教座の位置を以前のエクスキュルからリガに移転させる。翌1202年にはリガ城を本拠地とするリヴォニア帯剣騎士団を設立。

  • 当初の騎士団のメンバーはリガまで連れてきた十字軍兵士から勧誘され、入団した人間は永続的にリガに留まり防備に従事。この騎士団の目的はあくまでバルト三国周辺の異教徒達を服属させカトリックに改宗させることと、在留クリスチャンや宣教師(伝道者)を保護することと規定され、その点で聖地エルサレムの守護・奪回や巡礼者の保護を目的とする他の騎士修道会とは本質的に異なっていた。団員は白いマントを身に纏い、教皇インノケンティウス3世より賜った赤い剣と小さな十字の紋章を左肩につけており、この剣の紋章こそが騎士団の呼称「帯剣」あるいは「刀剣」の語の由来である。基本的な規則と内部構造はテンプル騎士団と同じく、騎士、聖職者、一般兵・職人の3階層に分かれていたが、他の騎士修道会とは違い、騎士修道会の総長のさらに上位にリガ司教が君臨していた。

  • 彼らの活動によりリヴォニアはあらかた征服され、エストニアの支配権を巡ってスウェーデンと争った。デンマーク王ヴァルデマー2世の支援を受けた騎士団はバルト海に浮かぶエストニア人が居住する島々と北部エストニアを占領し、1230年にデンマークが領有していたレヴァル(タリン)を占領。

  • 騎士団の征服活動はローマ教皇から正式な認可を受けて正当化されたが、エストニア土着部族の抵抗は一層激しくなり、また征服地の領有を巡って騎士団とアルベルトが対立しインノケンティウス3世からの仲介を受けた。困った事に征服した異教徒への過酷な搾取や、過度に残忍な戦いぶりや非道さがローマ教会でも問題になるほどであり、挙句の果てにそれを掣肘しようとした教皇特使にまで狼藉を加えてしまう。1236年にリトアニアのザウレ(シャウレイ)にてリトアニア軍に惨敗を喫し、翌年1237年にはドイツ騎士団に吸収合併され、リヴォニア騎士団として自治的な分団の地位に置かれた。

ドイツ騎士団領は次第に領民から敵意を向けられる存在に。そしてポーランド王国が彼らの救世主として台頭してくる。

  • 1224年、ドイツ騎士団は本拠地をマリエンブルク(現マルボルク)に置き、選挙で選ばれる総長を統領とする選挙君主制国家ないし宗教的共和国とも言える統治体制「ドイツ騎士団領」の経営を開始。14世紀に最盛期を迎える。

  • ホーエンシュタウフェン朝神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世は皇太子ハインリヒのドイツ王即位を認めさせる為に聖俗諸侯に出した特許状をドイツ騎士団にも与えた。1226年のリミニの金印勅書によって、ドイツ騎士団にクルムと隣接する地域、プロイセンの征服と支配を認められている。1233年のクルム特権状によって騎士団の権利が補完され、1234年にはグレゴリウス9世も騎士団に特権を授与した。フリードリヒはドイツ騎士団を信頼のおける一勢力に構築し、騎士団の総長を務めたヘルマン・フォン・ザルツァは彼の腹心として助言を与えた。フリードリヒがドイツに到着した当時微弱な勢力だった騎士団は、年代記に「帝国はもはや騎士団の団員の助言によって動いている」と書かれる一大勢力に成長。法的な権利を認められた騎士団は先住民と戦いながら東方への植民を行い、騎士団国家の建設を進めていった。

  • 騎士団勃興と同時期に規模拡大が始まった東欧から西欧への穀物輸出(古代ギリシャ世界におけるアテナイの繁栄が黒海沿岸からの、古代ローマ帝国の繁栄がシチリア島やエジプトからの穀物輸入に支えられていたのと同様の対応)を武器としてハンザ同盟都市と経済的に深く結びついていった。ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)、エルビンク(現エルブロンク)はこうした体制下で発展を遂げた貿易都市であり、いずれも大河の河口に位置し、川沿いの穀物を集散して栄えた。

  • 一方エルビンクとはライバル関係にあったダンツィヒ(現グダニスク)はドイツ騎士団による支配を極端に嫌悪し、ポーランドドイツ騎士団神聖ローマ皇帝の権威を後ろ盾にポーランド国王の権威を蔑ろにし、ポーランド北部のクヤーヴィ、ポモージェ、ドブジュンの諸地方を横領し、マゾフシェにまで触手を伸ばした事から関係かが完全に決裂していた)の庇護を望んでドイツ騎士団とは何世紀もの長い間抗争を繰り返す。そして14世紀後半に入るとエルビンクの住民だけでなく、あらゆる在地勢力や都市、地方領主がドイツ騎士団の狂信的で頭の固い専権的支配に反感を感じポーランド諸公国が統一されて誕生したポーランド王国を頼るようになっていく。

  • ドイツ騎士団がタンネンベルクの戦い(1410年)で敗北するとエルビンクは公にポーランド王国からの直接の庇護を求めるようになり、1440年にダンツィヒやエルビンクなどの20都市と領地つき僧侶53人はダンツィヒを盟主としてプロイセン連合を組織、ポーランド王国の準加盟組織となり、ポーランドプロイセン連合がドイツ騎士団と戦った十三年戦争後の講和条約である1466年の第二次トルンの和約を経て、1569年には正式にポーランド王国に加盟する。

  • ポーランド王国ポーランド王領プロシアにおける司祭の選定権をドイツ騎士団から剥奪した上でドイツ騎士団の主だった者達にポーランド国会(セイム)における議席を提供し国政への参政権を与えたが、司祭の独自選定権にこだわった騎士団はセイムに代表を送ることを拒否し、1467年に司祭戦争が勃発。この戦争も1479年にポーランドの圧勝によって終結し「ピョトルクフの講和(Treaty of Piotrków)」で王国側が騎士団が1467年に選出したニコラウス・フォン・チューンゲンをヴァルミア司教として認める代償として騎士団側はポーランドへの服属を再度誓わされる事となった。戦闘はその後も継続したが大した騒動には至らなかった。

宗教革命以降、ドイツ騎士団領はその姿を大きく変貌させる。

イベリア半島でも騎士修道会レコンキスタ期間を通して継続的に投入可能な常備軍として重宝され、ポルトガルのアヴィス騎士団に至っては大航海時代の先触れ役まで務めている。


カラトラバ騎士団 (Orden de Calatrava:1164年~1487年)
http://1.bp.blogspot.com/_hEVNz1cn3KI/S1SoQR1NgrI/AAAAAAAADEQ/xC0z-XrpnsA/s400/RDENES~2.JPG
1164年9月26日、ローマ教皇アレクサンデル3世より認可されたスペイン初の戦闘騎士団(ただし認可を教皇庁から受けたのは2番目)。カスティーリャでシトー会の傘下騎士団として設立され、カラトラバ・ラ・ヌエバに本拠の城をかまえた。「カラトラバ」とはアラビア語に由来する言葉である。シトー会派の騎士団は、多くが騎士や騎士の子息らで構成されていたが、カラトラバにおいては正反対に僧が騎士になった。

  • その働きに応じて騎士団の指揮官達にはカスティーリャ王から新所領が与えられた。隣国のアラゴン王からも救援を求められ1179年には新たにエンコミエンダ、アルカニスを与えられたが、不幸にもそれらの土地が原因でカスティーリャ王とレオン王の領土争いに巻き込まれ、アフリカのモーロ人に応援を頼んでまで失地回復を狙うイベリア半島イスラム勢力までも呼び寄せてしまう事になる。

  • ムワッヒド朝の強力な侵攻が始まるとスペイン側は敗北し、アラルコスの戦い(1195年)においてもカラトラバの防壁を手放さざるを得なくなった為、カスティーリャでは騎士団は没落したとみなされ、その噂を信じた隣国アラゴンでも冷遇が始まった。アルカニスの騎士団が新たな騎士団長を立ててカスティーリャに移り住みカラトラバの正統な継承者であると言い出したのである。

  • 最終的にアルカニス騎士団の団長は気高くも「アラゴンの偉大なる戦士」の称号をもって、カラトラバ継承から手を引く。その後も騎士団は歴代の王達とともにレコンキスタを戦い、勇猛をとどろかせ続けた。カトリック連合軍のめざましい勝利となった1212年のナバス・デ・トローサの戦いでも重要な役割を果たす。

  • 1474年になってカスティーリャエンリケ4世の王位継承問題が勃発するとアラゴン王フェルナンド2世とポルトガル王アフォンソ5世がすかさず介入。騎士団もどちらにつくかで内部分裂した。例えば騎士団長ロドリーゴ・ヒロンはポルトガルにつき、彼の部下ロペス・デ・パディージャはアラゴン側に立っている。

  • トーロの戦い(1479年)でアラゴン側が勝つとポルトガルは撤兵。アラゴン王と和解したヒロンは、グラナダ王国とロハ包囲戦(1482年)を戦った。その後、ヒロンの跡を継いだのはロペス・デ・パディージャだったがグラナダでの戦い(1487年)で戦死。

  • その後はアラゴン王フェルナンドが新騎士団長選挙の為(ローマ教皇インノケンティウス8世の教書をもって騎士団の管理者となっていた)と称して招集をかけ、候補者達に服従を要求。カラトラバ騎士団の政治的自治は、この時をもって終焉。1492年にはグラナダが陥落しムーア人に対するレコンキスタそのものが完了した。

ポルトガルのアヴィス騎士団(Ordem Militar de Avis)
http://wadaphoto.jp/kikou/images7/port028l.jpg
エヴォラのサンタ・マリア修道会、聖ベントのアヴィス騎士団、アヴィス王立騎士団などの旧称があるポルトガル騎士修道会ポルトガル王国は1128年にカスティーリャ王国から独立し、イベリア半島におけるレコンキスタに参加したがこの戦いに参加する十字軍騎士達の多くはピレネー山脈以北からやってきた外国人で一時的義務を負うのみであり、契約が切れれば戦争が終わっていなくても故郷へ帰ってしまうケースが後を立たなかった。1128年にテンプル騎士団がローマ教会の認可を受けるとポルトガル太后テレサ・デ・レオンがテンプル騎士団ポルトガルでの活動を許可。国王アフォンソ1世ムーア人から奪回したエヴォラの街を騎士団に与え、異母弟のペドロ・エンリケスを総長とした。ここから騎士団は「エヴォラのサンタ・マリア修道会」と呼ばれる事になる。

  • 「聖ベントのアヴィス騎士団」と呼ばれるようになったのは、アヴィス城を攻略してそこへ拠点を移し、ベネディクト会の戒律を採用した1162年以後のことである。カスティーリャ王国のカラトラバ騎士団のように、ポルトガルの騎士団はシトー会の慣習と規律に大きな影響を受けていた。白のマントに緑の百合模様のついた十字はその例である。

  • ポルトガル内のカラトラバ騎士団は、「カラトラバ騎士団の総長がアヴィス騎士団を訪れた際は彼に従う」ことを条件に、アヴィス騎士団へその拠点を明け渡した。このことから、アヴィス騎士団はカラトラバ騎士団の支流とみなされることもあるが、実際にはアヴィス騎士団の総長は常にポルトガル人であり、ポルトガル王の親族であり続けている。

  • 1383年、フェルナンド1世の死によりポルトガルカスティーリャの間に戦争が起き、アヴィス騎士団総長ジョアンが王位についた。アヴィス王朝ポルトガル(1385年~1580年)の開闢である。ジョアン王は騎士達にカスティーリャ人に従うことを禁じた。その後、カラトラバ騎士団の総長ゴンサロ・デ・グスマンがアヴィス騎士団を訪問したが、アヴィス騎士たちは彼を厚くもてなしはしたが、新たな総長とは認めなかった。グスマンは抗議し、論争は1431年のバーゼル公会議ポルトガル側の非が宣言されるまで続いた。しかし、カラトラバ騎士団の権利は結局行使されず、次のアヴィス騎士団総長ロドリゲス・デ・シケイラは自らの地位を守り続けた。

  • ポルトガル自体のレコンキスタは13世紀中旬に完了。スペインのそれも15世紀初頭に達成された。するとポルトガル王は騎士修道会を解散するどころか「海外進出の先兵」という新たに任務に投入する。ジョアン1世による1415年のセウタ攻略、その子ドゥアルテ1世の1437年のタンジール攻撃などにおいても、ともにテンプル騎士団を元祖とするアヴィス騎士団やキリスト騎士団はその宗教精神と、教皇の認可に基づいて行動して数多くの武勇と大きな功績を残した。前者はフェルナンド王子、後者はエンリケ王子に率いられており、ともにドゥアルテ1世の弟であるフェルナンドはムーア人に捕われ、6年間監禁された後死去したが殉教したとみなされて列聖されている。

  • しかし海外進出の主目的が富の蓄積となって国内が潤うにつれて宗教的情熱が次第に失われていく。アフリカ十字軍は単なる商業組織へと変貌し教会の支持は金銭調達のための建前に利用されるばかりとなり、1551年までに騎士団の全権限が国王に掌握される様になっていた。騎士団の収入は国王の手に渡り、陸軍、海軍の費用に利用されることになる。騎士団の宗教精神は消え、修道生活を送る者も少なくなり、1502年には教皇アレクサンデル6世が騎士達に妻帯を許し、1551年にはユリウス3世が財産所有を認める事になる。

  • こうした流れを受けてポルトガル王は当時対抗改革(カトリック教会の組織を建て直してプロテスタントの教勢拡大を食い止めようとした運動)の目玉となっていたイエズス会を彼らへの目付役に選ぶ。例えばフランシスコ・ザビエルは「西インド植民地の高級官吏たちの霊的指導者になってほしい」というポルトガル王の要請を受けて1541年にインドのゴアへ赴いた(その後、ゴアはアジアにおけるイエズス会の重要な根拠地となり、イエズス会が禁止になった1759年までイエズス会員たちが滞在していた)。ザビエルはインドで多くの信徒を獲得し、マラッカで出会った日本人ヤジローの話から日本とその文化に興味を覚えて1549年に来日。二年滞在して困難な宣教活動に従事する(その後、日本人へ精神的影響を与えるには中国の宣教が不可欠という結論にたどりつき、中国本土への入国を志したが、果たせずに逝去)。日本でのイエズス会事業は以降ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノ、ルイス・デ・アルメイダといった優秀な宣教師達に引き継がれた。

  • 1789年、アヴィス騎士団は教皇ピウス6世と女王マリア1世によって世俗組織に改められた。ポルトガル内戦によって絶対主義のミゲル1世が敗れ1834年に反カトリック政府が興ると立憲君主制下で財産を没収される。

  • 自由主義体制と新たな法律によって騎士団員の身分は単なる名誉勲位に変貌。かつて重要な役割を持っていた特権も実態を失う。1910年、王制廃止によって誕生した共和新政府は塔剣騎士団を除く全ての騎士団を廃止。

  • 1917年の第一次世界大戦の終結とともに、これらの騎士団は祖国への類まれな貢献、つまり共和国大統領の職に対しての名誉勲位となって再建される事になる。

考え様によってはスペインが新大陸に派遣したコンキスタドール(Conquistador)をその機能的継承者と考える事が可能かもしれません。ただしそこにはもはや宗教的熱狂はほとんど残っていなかったのです。

コンキスタドール(Conquistador)

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/b4/Landing_of_Columbus_%282%29.jpg

スペイン語で「征服者」を意味する言葉だが、とくに15世紀から17世紀にかけてのスペインのアメリカ大陸征服者、探検家を指す。1521年にアステカ王国を侵略したエルナン・コルテス、1533年にインカ帝国を侵略したフランシスコ・ピサロなどが有名。金銀を求めてアメリカ大陸を探索し、アメリカ大陸の固有文明を破壊し、略奪と乱暴の限りを尽くした。しかし皮肉にも同行した宣教師の告発を契機に本国で「インディオは人間か?」という論争が巻き起こり(ラス・カサスとセプルベダが争ったバリャドリッド論争、1550年)、これとサラマンカ学派のドミニコ会士フランシスコ・デ・ビトリア(Francisco de Victoria、1492年頃〜1546年)の講義「インディオについて」および「戦争の法について」が結びつく形で「人間の権利を自然権と見做し植民地の異教徒をも適用対象とする」「かかる国際法は、国家の法の上位に位置づけられる」といった近代法理の先駆けとなったのだった(近代国際法学および自然法の父たるグロティウスの主著「戦争と平和の法」でも「国際法の祖」ビトリア、およびその後継者であるソトの国際法理論は頻繁に引用されている)。

①その活動はスペイン王の認可を必要としたが、ほとんど財政的援助はなく、軍は小規模で征服自体が投機的な性格の企てであった。コンキスタドールが自ら資金を集めて組織した数百名の武装した私兵部隊であり、スペインの正規軍兵はほとんど含まれていなかった。コルテスで600名、ピサロで200名という少数で、莫大な財産を手に入れた一方で、エルナンド・デ・ソトのフロリダ遠征のように悲惨な結末に終わった例もある。少数の部隊でアステカやインカの大軍に勝利できた背景のひとつには、火器や剣、甲冑、騎馬兵(アメリカ大陸には馬がいなかった)など、ヨーロッパの科学技術の圧倒的な優位があった[1]。先住民同士の内部対立を巧みに利用したり、アステカの場合には宿命的な迷信が戦意喪失につながったことも理由に挙げられる。

②征服が完了すると王室は戦利品の5分の1(キント・レアル)を要求し始め、さらに征服地に官吏を派遣してコンキスタドールの権利を剥奪した。ペルーにおけるピサロの様に公然と反乱を起こす者も多く、特に(農奴制の一種ともいうべき)エンコミエンダ制をめぐって対立。しかし16世紀後半のフェリペ2世の頃には、副王制をはじめとした行政機構に組み込まれた。

③かつては「スペインは宗教的熱狂から商業を卑しみ征服によって本国の農本主義的統治体制に組み込む事しか考えなかった」とされていたが、最近では「そもそもアジアやアフリカと異なり交易網も徴税機構も発達しておらず、スペイン流を持ち込む以外に統治のしようがなかった」とする立場もある。実際労働力確保の為の奴隷狩りも自らの手で行わねばならず、インディオに伝教して「異教徒なら奴隷にしてよい」という方便を奪った上に、彼らに奴隷狩りとの戦い方まで教えるイエズス会士との対立を深めていく。

そもそもレコンキスタの産物というべきスペインの存在そのものが十字軍国家っぽいところがありますが、こうしたイメージの変遷をよく表してる言葉があります。

スペインで公式にイタリア語起源となっている。語源がはっきりしない言葉の常で、インドヨーロッパ語ではないバスク語に起源を求める俗説もある。一方、イタリア語辞典にはスペイン起源とも取れる解説がある。英語圏にはフランス経由で伝わったとされている。

概ねの国では「風変わりな」「奇抜な」が第一義だが、ポルトガル語における第一義は「上品な、高貴な」、スペイン語における第一義は「勇敢な、雄雄しい」で「風変わりな」「奇抜な」の意味で用いられる事はまれ。

騎士修道会的狂信性は「パイレーツ・オブ・カリビアン/生命の泉(Pirates of the Caribbean: On Stranger Tides、2011年)に登場するスペイン軍も漂わせていました。

http://vignette2.wikia.nocookie.net/pirates/images/e/e7/Ferdinandwhatisthis.jpg/revision/latest?cb=20111013045906

http://vignette2.wikia.nocookie.net/pirates/images/d/dc/Spaniards_OST.jpg/revision/latest?cb=20111021090822

時代が下るとスペイン人そのものの騎士道への触れ方も随分と自虐的になってきて、ミゲル・デ・セルバンテスドン・キホーテ(Don Quijote、Don Quixote、1605年、1615年)」が登場。bizarreの意味が「上品な、高貴な」「勇敢な、雄雄しい」から「風変わりな」「奇抜な」へと変貌していく過程と無関係とは思えません。

http://olekids.com/wp-content/uploads/quijote.jpg

そういえばバロック(仏: 英: baroque, 独: Barock)という用語もポルトガル語の「歪な真珠」が起源で、芸術様式としての源流も全盛期ポルトガル宮廷のマニエル様式(1500年〜1530年)やスペイン宮廷に仕えるジェノヴァ銀行家の黄金期(1535年〜1557年)にまで遡ります。

http://rinda.my.coocan.jp/html/2012/2012-05/Batalha/18.jpg

http://visitaly.jp/wp-content/uploads/2014/03/us-27bp4_01.jpg

様式云々というより、とにかく壮大さを強調しつつ装飾過多。こちらも時代が下ると「こけ脅しの見せびらかし」「即物的過ぎて優雅さが片鱗もない」「全体としてバランスが悪くグロテスク」と散々揶揄される様になっていきます。植民地の教会建築様式として広まったウルトラ・バロックに至っては…

http://vfg.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/tonanzintla_1.jpg

http://vfg.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/acatepec.jpg

同様に「国王と教会の伝統的権威への反逆」を誓ったロマン主義の評価も同様の乱高下を経験しました。ただ、より悲観的で内省的な方向への発展が見られます。まぁ自意識過剰なのはそのままなんですが…

大杉栄「近代個人主義の諸相(1915年11月)」

フランス大革命は、哲学的に言えば、社会本位説に対する個人本位説の叛逆であった。ルソーの民約論は、もっともよくこれを証明する、代表的思想である。もとよりこの民約論は誤謬であった。…彼等にとっては、国家と社会とは同一物であった。したがって彼等の個人本位説は、今日いうがごとき絶対の非社会的でもなく、また絶対の非国家的でもなく、ただ封建制度を基礎とする社会と国家とに対する叛逆であった。…要するに彼等にはまだ、今日いうがごとき真の意味における個人主義はなかったのだ。

当時の新勃興階級たる紳士閥は、封建の旧制度を倒壊するとともに、一面において強力なる中央集権的近世国家の建設に努め、他面において容赦なき紳士閥的個人主義すなわち利己主義の実行に耽った。…近代の個人主義は、この紳士閥社会の事実から当然に起こった、一反動である。

ロマンティズムとは、偉大や、力や、情熱や、歓喜や、自由や、幸福や、または美やの、漠然としたしかし崇高な理想に対する異常な憧憬であった。理想的であり、熱誠的であり、革命的であり、時としては狂気に近いほどの激情的であった。その内的欲望はさらに外的に拡がって、世界を征服し、世界を破壊せんと欲した。しかしこの憧憬も、ついには必然に絶望を、多くの詩人によって歌われ多くの哲学者によって論ぜられた渇望の見たし得ざる悲哀を、生まなければならなかった。文芸の上でのオーベルマン、ルネ、バイロン、レオパルディ、ハイネ、ヴィニー、また哲学の上でのショーペンハウアーなどは、すべてみなこのヴェルトシュメルツすなわち世界苦の苦悩者であった。ロマンティック・ペシミストであった。

かくロマンティズムは、一方にその感情の横溢から悲観説に傾かざるを得ざるとともに、他方にまた、その横溢せる感情を娯まんがために、自らの苦悩を強めてその苦悩を味わわんがために、そしてまたその苦悩を天才のしるしであるかのごとく崇め上げんがために、外に向うことをやめて自己の中に帰らなければならなかった。自己の中に閉じ籠もったロマンティズムは、必然にまた、個人的むら気を尚ばなければならなくなった。むら気は刹那的である。流動的である。

ロマンティズムは、かく悲観的となり個人的となるとともに、さらに哲学上の批評的精神と科学上の観察的精神とおよび芸術上の現実的精神との三重の影響によって、ついにネオロマンティズムと化した。ネオロマンティズムは、ロマンティズムと同じく実感から出て、感情をもって善悪の真偽のそしてまた美醜の標準とする。けれどもネオロマンティズムの尚ぶ実感は、もはやロマンティズムの無邪気なる理想的でもなく、激情的でもなく、叛逆的でもなく、その批評的精神によって自らに対してすらも不信を懐き、経験によって聡明にされ、反省と科学的教養とによって和らげられついにまったく純化された平静と観照との悲観説となり個人主義となった。

これを一言に言えば、ロマンティズムはより多くディオニシエンであり、ネオロマンティズムはより多くアポロニエンである。

 ギリシャ悲劇も同様の変遷を遂げました。

しかしニーチェロマン主義を擁護する立場から「悲劇の誕生(Die Geburt der Tragödie、1872年)」の中で「熱狂への没入を旨とするアイスキュロスの異教的英雄主義が、理性への隷属を旨とするエウリピデスキリスト教的奴隷主義に穢された」なんて激烈な弾劾を口にします。まさしくバガヴァッド・ギーターの世界…

時はまさに「ロマン主義」と「新ロマン主義」の端境期。マルクスが「我々の感情は自分の本来の気持ちではなく、社会の同調圧力によって型抜きされた既製品に過ぎない。本当の自分だけの気持ちを持ちたければ、まずこの社会をを打倒しなければならない」なんてヘーゲルから内省性を抜いた物騒なバリエーションを生み出したり、ボードレールが「人の心を動かす言葉の裏には普遍的なイメージ文法が存在する」と指摘して象徴主義への道を切り開いたりしたこの時代でした。

全体像を俯瞰してみると案外「どうやってもっともらしい理由をつけて内省による沈着状態から逃れるか」が主題だったのかもしれません。一方、文学の世界は「ハッピーエンドを望む大衆が消費の主体となる」という新たな展開があり、さらにややこしい事になっていきます。

こんな時代に再起を果たしたのが「新ロマン主義」だったという訳で…

ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ(1903年-1912年)」第七巻 家の中(1909年)
第一次世界大戦前夜のパリで暮らすドイツ人作曲家(ベートーベンがモデル)が主人公の大河小説

宗教的熱意は、宗教のみが有してるものではなかった。それはまた革命運動の魂であったが、この方面においては悲壮な性質を帯びていた。

クリストフがこれまでに見たものは、下等な社会主義――政治屋連中の社会主義にすぎなかったのだ。その政治屋連中は、幸福という幼稚粗雑な夢を、なお忌憚なく言えば、権力の手に帰した科学が得さしてくれると彼らが自称してる、一般の快楽という幼稚粗雑な夢を、飢えたる顧客らの眼に見せつけていただけであった。

そうした嫌悪すべき楽天主義に対し、労働組合を戦いに導いてる優秀者らの深奥熱烈な反動が起こってるのを、クリストフは見てとった。それは、「壮大なるものを生み出す戦闘、瀕死の世界に意義と目的と理想とをふたたび与える戦闘」への、召集の叫びであった。

それらの偉大なる革命家らは「市井的で商人的で平和的でイギリス的な」社会主義を唾棄して、世界は「拮抗をもって法則とし」犠牲に、たえず繰り返される常住の犠牲に生きてるという、悲壮な観念をそれに対立せしめていた。

それらの首領らの過激行為は、旧世界からの襲撃の歯止めとして出撃する辺境警備隊を思わせる何か、カントやニーチェに通底する神秘的戦意、そして(彼らはそんな表現を受け入れてはくれないかもしれないけれど)革命的貴族の突撃としか呼び得ない痛烈な光景を呈していた。彼らの熱狂的な悲観主義、勇壮な生への渇望、戦いと犠牲に対する熱烈な信念は、ドイツ騎士団や日本のサムライなどの軍隊的宗教的理想と同じであるかの観があった。
*「革命的貴族」って一体何を表してるんですかね?

ロマン・ロランは一般にあらゆる戦争に反対し続けた理想主義者として知られていますが、単純な平和礼賛者ではなくファシズムへの対決姿勢を終始崩しませんでした。実際、この文章など第一次世界大戦における浸透戦の英雄で「魔術的リアリズム」の提唱者でもあった武闘派のエンルスト・ユンガーの作品あってもおかしくない好戦的な仕上がり。フランスでは二月/三月革命(1848年〜1849年)以降「王党派(右翼)VS共和派(左翼)」といった既存の境界線が消滅してしまいます。そして共産主義ファシズムやナチズムの様な全体主義も嫌いだけど、同じくらい国家権力に迎合するブルジョワ議会政治や口先ばかりの社会民主主義も嫌いという新たなロマン主義者達が登場して「右翼」に分類される事に。

もちろん戦争の形態そのものがどんどん推移していくので、それに合わせて必要とされる「武人の覚悟」も変遷してきます。

  • 「重装槍騎兵(Heavy Shock Cavalry)の密集突撃」から「行動単位が兵士一人ずつにまで分解された散兵陣」へ…狂騒状態で皆一緒に突撃してれば済んだ時代から、各自が孤立して自分の頭で考えて戦わなければならない時代に。そりゃ内省的かつ客観的になるのは当たり前。ちなみに騎士も百年戦争の頃からはしばしば馬を降りて戦う様に。今日のRPGでいう「Tank」の起源?

  • 兵の供給源が「軍役を担う領主」から「傭兵」を経て「徴兵された国民」に…騎騎士修道会は、まさにこうした変遷の間に生まれた時代の徒花。「ボランティア(volunteer、自らの意志で参戦した義勇兵。徴募兵(drafts)の対語)」の語源でもある。常備軍の時代に入って軍役から解放されて以降も貴族は将校供給階層として軍事への関与を続けた。ノブレス・オブリージュnoblesse oblige)?

  • 「異教徒との聖戦」から「君主同士の領土争い」を経て「総力戦の時代」へバロック建築は宗教的権威が衰退していく時代、壮麗な謁見の間の威圧感でその分を補おうという意図から生まれたとも。その発想自体は時代遅れとなったものの、大規模な閲兵式や観艦式で兵士を鼓舞する伝統は現代なお残る。一方、一般市民にまで敵に対する偏見の極みを叩き込んで扇動する方式は一周して復活?

そして大衆向けエンターテイメントの世界は常にごっちゃ。スターウォーズの新シリーズに至っては、レイも、カイロ・レンも、フィンも立ち位置がブレ過ぎてて先の展開が全く予測つきません。最初に確信犯的に堂々とやってのけたのはトールキンとも?

http://usagi.be/coco/img/16030401/_img/campaign/20106/s3_summary_img3.jpg

こう言った流れ全てを併呑した金字塔として「巨人の星(1965年〜1971年)」「タイガーマスク(1968年〜1971年)」「あしたのジョー(1968年〜1973年)」といった梶原一騎原作のスポ根漫画が挙げられます。
60代のブログ奮闘記 : 星飛雄馬とベートーベン

http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/shins2m/20111130/20111130102529.jpg

スポ根マンガの端緒は、講談社が「長時間労働慢性化による父親の家庭不在が伝統的家父長制度の存続を危ぶませている」という旗期間を懐く様になり,1930年代に人気を獲得した吉川英治宮本武蔵」の様な「一つの道を究めライバルとの対決に打ち勝っていく人物を主人公とする物語」を志向した事だった。

その一方で文学青年として挫折した梶原一騎アレクサンドル・デュマモンテ・クリスト伯(Le Comte de Monte-Cristo,1844年〜1846年)」やロマン・ロランベートーヴェンの生涯(Vie de Beethoven,1903年)」「ジャン・クリストフ(Jean-Christophe,1904年 ~1912年)」といった新ロマン主義作品の世界観を日本に根付かせる機会を狙っていた。

この2つの系譜が合流する事により、スポ根マンガは誕生する。

 さて、この流れどこにたどり着いたやら…
http://drazuli.com/upimg/file10282.jpg

ビザールでござーる?