諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「尊敬されたい」マッドチェスターの雨

年表なんてスラスラ書けてるうちはちっとも面白くありません。それこそ暗記中心の受験勉強みたい。書いているというより、嬶されてるという感じ。しかも多少視点を変えたくらいでは、やっぱりスラスラ書けてしまうのです。あたかも「それくらい織り込み済みだよ」と言わんばかりに。そう簡単に歴史は裂け目なんて見せてくれません。

14世紀後半に入るとイギリス低地地帯(特に1301年に特許状を受けたマンチェスター)が次第に次第に羊毛の直輸出だけでなく比較的厚手の旧毛織物を半完成品状態で輸出する様になり毛織物の生産・輸出国へと転じる。それは大陸におけるギルド的規制の及ばない所で農村のヨーマンや都市から農村へ移動した小親方が「農村の織元」として農村工業を勃興させていく過程であった。特に北部・東南部・西部では、あくまで問屋制との複雑なからみの枠組みの中でだがマニュファクチュア的な生産形態も出現してきて著しい発展を見たとされる。

フランドル地方からの移民がこの動きを推進したと考えられている。

 単体でこれだけ目にしてもどうとも思わないで事でしょう。イングランドとフランスの国境が定まった百年戦争(英語: Hundred Years' War、フランス語: Guerre de Cent Ans、1337年〜1453年)の時代、フランドルはブルッゴーニュ同様両者の間をフラフラとしてました。そのせいで戦争終了後もフランス王家から忠誠心を疑われ続け、公益同盟戦争(1465年〜1477年)に際して手厳しい粛清を受けています。そうした時代の狭間にあって、故郷において居心地が悪くなったフランドル人がイングランドに移住してきても何ら不思議はなかったからです。

【政治】1602年  オランダ東インド会社が3月に設立される。史上初の近代的な株式会社で(アラビア商人からヴェネツィア商人に伝わる過程で洗練されてきた)複式簿記を初めて公式に採用したことでも知られる。会社の株式は7%を重役が所有し、残りは一般に公開された。取締役60名(後に73名)から選ばれた17名が最高決議機関で、これは資本金比例で都市に割り当てられ、アムステルダムが8名を占めた。彼らはレヘントといわれる都市貴族的門閥に属しており、会社の幹部であるとともに議会の有力者であり、会社が民主的に進化する途を閉ざしていた。交易実務は総督に任せらた。
*1602年から1650年頃のオランダ東インド会社によるヨーロッパへの主要輸入品は「胡椒、スパイス(チョウジとナツメグ)、絹糸布、木綿織物、砂糖、日本銅、コーヒー、茶」であったが輸入金額で見ると胡椒、スパイス(チョウジとナツメグ)だけで70~75パーセントをしめていた。

 

【砂糖】1807年 イギリスで奴隷貿易禁止法が制定される。
リヴァプールの商人たちは地域の経済に重要な役割を果たしている奴隷貿易を廃止しないようにとの請願書を議会に提出した。

【砂糖】1833年 イギリスで奴隷制度廃止法が制定される。

*それまで産業革命を推進してきたマンチェスターなどの工場経営者が(高関税にこだわる)西インド諸島派を倒す戦略の一環として合流。まず西インド諸島で大農園を経営している様な有産者が不利となる第1回選挙法改正(1832年)が成立し、それに続く形で制定。そして1842年に一旦失敗したものの、1844年に至って関税は30パーセントに引き下げられ、1852年には内外の砂糖関税が同率となった。

 こうした話も単体では別にどうという事もありません。オランダが案外王侯貴族の国だったのは有名な話。その絶対王政化を志向するオラニエ=ナッサウ家と「貴族共和国」維持を志向するレヘント(都市ブルジョワ貴族)の衝突がフランス革命勃発の遠因の一つに数えられてるくらい。また英国福音派マンチェスターなどの工場経営者が実利から手を組んで「西インド諸島」閥を倒した話自体も至る所で語られています。

19世紀半ばに穀物法が廃止された。

①イギリスでは中世末期から穀物の輸入を規制する法律があったが、1815年ナポレオン戦争終結の際、地主が優勢だった議会は戦後も穀価を高く維持するため、国内価格が1クォーター80シリングに達するまで外国産小麦の輸入を禁止する穀物法を定めた(その後、穀価の騰落に応じて輸入関税を増減する方式に改められる。


②1819年8月には、マンチェスターのセント・ピーター広場で穀物法の撤廃と議会改革をもとめる人々が市当局に殺害された「ピータールーの虐殺」が勃発。この街は次第に「(西インド諸島の砂糖農園関係者を含む)関税庇護を求める守旧派地主層」と対立する政治改革運動の中心になっていく。それに連想する形で公的教育機関の発展もみられた。

マンチェスターでコブデン、ブライトらが1839年反穀物法同盟を組織してからは産業資本家層が中心となって激しい運動を展開。1846年にはピール内閣により穀物法廃止が行われた。
*産業資本家が穀物法に反対した背景としては、当時、工場労働者の賃金は最低限の生活費が基準になっており、穀物価格の高騰は賃金水準の上昇を意味していた事が挙げられる。特に当時のイギリスにおいては長期に渡る保護貿易の結果として大陸に比べ穀物価格が高くなっており、安価な穀物の供給により賃金の引き下げを狙う産業資本家と単純に安価なパンを求める労働者は、穀物法廃止という点について利害の一致をみていた。

穀物法廃止は航海法撤廃とともに保護貿易から自由貿易主義への転換点であり、かつては地主貴族に対する産業資本家の輝かしい勝利であるとされたが、南部地主貴族・金融サーヴィス資本の北部産業資本に対する一貫した優位という見地が一般化した現在では、一定の勝利である事は疑いないものの、むしろ独立した階級として勢力を形成しつつあった労働者階級の取り込みを図ったものでもあると考えられている。産業革命の進展は一方ではスラムなどの深刻な都市問題を引き起こし労働者達の怒りは頂点に達していた。ドイツのフリードリヒ・エンゲルスが「イギリスにおける労働者階級の状態」を著したのも、この街に2年ほど滞留した経験に基づいたものである。

それでもなおイギリス農業は農業技術の進歩とともに「黄金期」と呼ばれる空前の繁栄期を迎える。輸送手段の遅れからロシアや東欧が地主支配体制への直接的な打撃となる事はなかったからである。しかし水面下では、現実的な影響はなくとも穀物法廃止に不安を覚えたジェントルマンたちは少しずつ金融サーヴィスへ重心を移し始めていた。

その後、続く農業生産の増加から穀物価格は低下を始め、農業分野での利益率の低下から、金融サーヴィスに新たな財源を求めるジェントルマンはますます増加した。これらの新たな富の源泉となった分野は「ジェントルマン資本主義」と呼ばれる。

大陸側の欧州人にイギリス人が「いやらしい多重人格者」としか映らないのは、議会民主制の公式導入以前から保護関税を求める地主層と自由交易を求める産業従事者の利害関係があたかも申し合わせたか様に巧みに調整されてきたからです。そして19世紀後半に入ると遂に守旧派地主の代表格にして英国王国の藩屏たるジェントリー層までが資本家化します。 同時代のフランスで「馬上のサン=シモン」ルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世が最初は「あん? 俺達ゃ王侯貴族や教会みたいなしっかりと実績ある後ろ盾があるからこそ融資するんだぜ?」と、踏ん反り返ってぐずる自国の宮廷銀行家から相手にされず、ポルトガルのペレール兄弟の様な外国人サン=シモン主義支持者の融資に頼って上からの産業革命導入を始めざるを得なかったのとは雲泥の差。まぁドイツ帝国ドイツ帝国で大不況(1873年〜1896年)の緊迫感を背景にラインラントの工業貴族と東部のユンカー(農場領主)層が鉄と穀物の同盟を締結してケロッと産業革命導入に成功し「これだからサクソン系の奴らは主義がねぇって馬鹿にされんだよ!!」とフランス人を涙目で歯ぎしりさせる訳なんですが。

産業革命を加速させた冷蔵技術 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

1830年 リヴァプールとの間に鉄道が開通し、マンチェスターで生産された綿織物がリヴァプール経由で世界中に輸出される様になった。それまで英国第4位のランカスター港も、川からの沈泥で港が埋まり始めるまで綿織物輸出によって栄えた


1819年にマンチェスターの事業家ロバート・オーウェンの努力で紡績工場法(木綿工場法)ができ、9歳以下の労働の禁止と16歳以下の少年工の労働時間を12時間に制限された。その時点では監督官制度が無かった為に実効力がなかったが、ホイッグ党のグレイ内閣時代の1833年、一般的な(どのような工場にも当てはまる)工場法の制定が実現。それは選挙法改正(第1回)(1832年)、奴隷制度廃止などの自由主義的改革の一環であった。

そろそろ「違和感」が頂点に達っしましたか? 奴隷制が廃止されても大西洋三角貿易で大儲けしてきた港町は困りませんでした。なぜならそれは既に衰退期に入っており、以降はキャラコ(国産綿織物)の輸出拠点として栄えたから。とどのつまり…

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ここに既成観念に囚われたありきたりの年表ではそれぞれピントが合わず視野外に追いやられてきた要素が統合され「英国産業史を実際に動かしてきたのはマンチェスター」なる歴史観が浮かび上がってくる訳です。

マンチェスター中心史観
実際に英国産業史を動かしてきたのはマンチェスター

  • 欧州経済の中心地が地中海沿岸から大西洋沿岸に推移した大航海時代到来の前夜から、イングランドが「外国商人に交易を丸投げする羊毛輸出国(現代人の観点では従属経済によってイタリア北部やフランドルやハンザ同盟に搾取されるモノカルチャー植民地そのもの)」より「(半完成品ながら)毛織物輸出国」へと変貌し始めたのは、1301年に特許状をうけたばかりの新興都市マンチェスターへと移住したオランダ移民(それも王侯貴族階層でなく庶民)のせいだった。
    *一般には外国商人を駆逐し、私掠行為で英国王室を富ませたウェールズ海商の手柄とされている。何しろウェールズ人やアイルランド人は口達者!!
    羊毛をめぐる冒険 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
  • 東インド会社がイギリスに持ち込んだキャラコ(綿織物)が流行すると、真っ先にその国産化に取り組んだのも彼らだった。そればかりか(リヴァプールやランカスターといった奴隷交易で儲けていた港町に綿織物の輸出という代替産業を差し出しつつ)奴隷制度廃止(1833年)によって既に衰退期に入っていた砂糖産業に引導を渡し、既に関税障壁による庇護を必要としない段階に入っていた英国農業の為に1846年に穀物法を廃止に追い込み、英国産業革命が持続するのに不可欠な法整備も手掛けた。
    綿織物をめぐる冒険 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
  • それでも彼らが従来の伝統に従ってジェントリー階層の仲間入りを果たす事はなかった。それどころか彼らに「ただの地主」として存続し続ける事への不安を与え、金融業界への進出を促すのである。
    英国のジェントルマン資本主義 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)
  • それでも彼らが敬意を勝ち取る事はなかったのである。世間はむしろ当時フランスやイギリスにおいて社会学の発展に貢献した人々の名前をローレンツ・フォン・シュタイン著「今日のフランスにおける社会主義共産主義(Der Sozialismus und Kommunismus des heutigen Frankreich, Leipzig 1842, 2. Aufl. 1847年)」から仕入れ、まとめてこき下ろし「こんな馬鹿達と違って、オレ達なら本当の資本主義の倒し方知ってるから!!」と大言壮語を吐いたマルクスエンゲルスに喝采を送った。そして「ダーバヴィル家のテス」では(いかにもマンチェスター出身っぽい)成り上がり者の下品な産業資本家が、コンプレックスのあまり爵位を欲しがって純真な没落貴族の小娘を弄んだ末に(より良い家系の良家と縁談がまとまったので)捨てる。そして当然の報いとして復讐され、誰からも同情される事なく「(おそらくメッタ突きの結果)下の部屋の天井を血で真っ赤に染め上げる」壮絶な最期を遂げていく。
    *トーマス・ハーディ「ダーバヴィル家のテス(Tess of the d'Urbervilles、1891年)」…まさに英国版四谷怪談。イメージ的に一番近いのは若い頃の仲代達矢演じる伊右衛門が、死に際になっても血塗れの姿でズルズルと這いずりながら「負けはしねぇ 首が飛んでも動いてみせるわ‼」と豪語するのをお岩(岡田茉莉子)の亡霊が悲嘆にくれた視線で見守るラストが鮮烈だった1965年版(豊田四郎監督)あたりだろうか。源氏鶏太のサラリーマン小説や山田風太郎忍法帖シリーズ同様、高度成長期日本にしか生み出し得なかった何か…

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そういえば20世紀前半に過激な女性参政権運動でその名を知られた新組織女性政治社会連合(Women's Social and Political Union、 WSPU)、通称サフラジェット (Suffragettes)もまた、最初は1903年にマンチェスターで組織され、その後ロンドン進出を果たしたのだった。

これをさらに発展させると「ランカスター中心史観みたいなもの」が浮上してきます。近代人の所謂「ジェントリー的スノビズム」への反感が生んだカウンター・カルチャーの一種という位置付けになるのかな?

 それにしても、どうしてマンチェスターは(祖国イングランドですら)ここまで徹底して敬意を受けられないのでしょうか? それは彼らが常に英国における「異物」であり続け「ただの変人集団」と蔑まされてきたせいかもしれません。

マッドチェスター (Madchester)

音楽のジャンルのひとつ。イギリスの都市・マンチェスター(Manchester)と、「狂った」という意味のマッド(Mad)からの造語。1980年代後半から1990年前後にかけて、マンチェスターを中心に起こったムーブメントに由来する。マンチェスター・サウンドとも呼ばれ、ダンサブルなビートとドラッグ文化を反映したサイケデリックなサウンドが特徴とされるロックのスタイルを指す。

当時のダンス音楽のレイブ文化とエクスタシー(MDMA)などの多幸感をもたらすドラッグの流行とあいまって、それまでのイギリスにはなかったオープンで享楽主義的な音楽とオーディエンスが大量に発生した。レイブ同様に共同体意識のもと、アーティストと観衆の上下関係や垣根を取り払うことを目指し「これからは(ステージの上のバンドではなく)オーディエンスの時代だ」とも言われた。セカンド・サマー・オブ・ラブと呼ばれるムーヴメントの影響を受けており、ハウスを中心としたダンス・ミュージックの発展とも大きく関わっている。音楽的には伝統的なロックのフォーマットを取りながらも、ハウスの4つ打ちのビートを導入し、それまでのリスナーにとっての受身のロック音楽と異なり「オーディエンスが踊れるかどうか」をという機能性を重視した。この系統の有名なレーベルとして、ファクトリー・レコードなどがある。

ストーン・ローゼズのアルバム『セカンド・カミング』での大幅な方向転換や他のムーヴメントの台頭などにより存在は薄れ、当時低迷していたUKシーンをメディアが誇張し持ち上げたという印象をリスナーに与えてしまい、短命に終わったが、現在UKシーンで大御所として活躍するバンドのオアシスやブラー、レディオヘッドなどの多くは、ちょうど世代的にこのムーヴメントを潜り抜けて来ており、後継のバンドに絶大な影響を与えたとも言われる。

マンチェスター (Manchester)

今日では商業・高等教育・メディア・芸術・大衆文化などの北部の中心地であり、第一次世界大戦後はバーミンガムがイギリス第二の都市とされていたが、第二次世界大戦後にグレーター・マンチェスターに再編されてからはバーミンガムと人口では拮抗、経済的にはバーミンガムを追い抜き現在ではイギリス第二の都市といえばマンチェスターを指すことが多い。2007年のイギリスの世論調査によると、マンチェスターバーミンガムを凌ぎ、イギリス第二の都市として評価された。

バーミンガム(Birmingham)

イングランドウェスト・ミッドランズ (West Midlands) に属す工業都市。近隣の都市としては、約55キロ北東にダービー、25キロ東にコヴェントリー、55キロ東にレスターが位置する。人口は100万人ほどで、近郊を含む都市的地域の人口は229万人であり、同国第2位。イギリスの世論調査ではマンチェスターを第2の都市とする意見のほうが多かったが、地元においては首都ロンドンに次ぐ第2の大都市とされており、実際にロンドンに次ぐ市域人口・都市圏人口を有しており、1998年のサミット開催地でもあった。

ロンドンとリヴァプールを結ぶ線のちょうど中間点あたりに位置し、昔から交通の要衝として重要視されてきたが、18世紀までは特徴のない小さな村に過ぎなかった。1838年にロンドンとリヴァプールが鉄道で結ばれ運河も整備されると工業都市として発展。蒸気機関を発明したジェームズ・ワットや、金属加工のマシュー・ボルトンなどが活躍した。

なんて醜い殴り合い…「内需があてに出来る」国の内幕なんてどこもこんなもの? で、当人がその「変人性」についてどう考えているかというと…

マンチェスター (Manchester)

雨が降ることが多い場所であり、それがマンチェスターの歴史を生んだ。すなわち、雨の日には人々は屋内で活動することになるので、ギターなどの楽器の演奏をしたり、自分自身の内に向かい思索や瞑想を重ねることになり、文化がはぐくまれるのである。

そういえば…

  • マンチェスターで毛織物産業が発展が始まった)14世紀とはケルンでゲルマン神秘主義が生じて(大黒海時代の幕を開ける)ポルトガル人に「アフリカ十字軍」着手を決意させた時代、そして(マンチェスターで綿織物産業の発展が始まった) 18世紀中旬はそれまで小冊子(パンフレット)配布合戦によって英国政治を動かしてきたコーヒーハウスの衰退期に該当する。

  • 共通点はなにか? どちらもペスト流行が原因で、感染を恐れる人々はそれぞれ自宅に引き篭もり、読書への耽溺や屋内で実験可能な技術改善に取り組む内省的生活を強いられたことだった。

要するにその結果、それまでの「集団の同調圧力に流されるだけのありふれた日常」に復帰出来なくなってしまうという事なのかもしれません。

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そういえばイギリスの18世紀後半といったら、西カリブ海砂糖農園のフランスへの敗退に何ら打つ手を思いつけず現実逃避に走ったホレス・ウォルポール「オトラント城奇譚(The Castle of Otranto、1764年)」やベックフォード「ヴァセック(Vathek、1875年)」といったゴシック・リヴァイバル(Gothic Revival)開闢期、19世紀前半といったら(欧州大陸側象徴主義の先駆とされる)中世へのノスタルジア色と秘密結社色の強いラファエル前派(Pre-Raphaelite Brotherhood)に該当します。

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ドイツにユダヤ人として生まれ、フランスにおいてカソリックとして死んだ詩人ハイネは「深い思索を重ねながら人間性を磨いてきた大陸の欧州人と異なり、獣と一緒で本能の赴くままに生きてきたオランダ人や英国人には、内面性など一切存在しない」と断言しましたが、むしろここではそのオランダ人や英国人の内面性が問題となってくるようです?

 さて、私達はどちらに向かって漂流してるんでしょうか?