諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「無慈悲なスペイン貴族」が登場

どうして欧州貴族ってすぐ武器密輸とか非合法ビジネスに手を出しちゃうの?

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無慈悲な独身貴族 (ハーレクインコミックス)

dailynk.jp

北朝鮮の事実上の対外広報担当を務め、「北朝鮮初の外国人公務員」などと呼ばれたスペイン人男性が、武器の違法取引に関わった容疑でスペイン当局に逮捕されていたことが明らかになった。スペインのエル・ムンド紙が報じた。

この男性は北朝鮮の対外文化連絡委員会の特使と、スペインの朝鮮親善協会の委員長を務めるアレハンドロ・カオ・デ・ベノス氏。

スペインの治安警備隊(国防省所属の準軍事組織)は、武器密売組織に対する全国的な摘発作戦を行った。その結果、スペイン・カタルーニャ州南部のタラゴナのベノス氏の自宅から、改良型銃器4丁と弾薬箱2000個を発見し、べノス氏本人と42歳のルームメイト、ムルシア在住の武器密売組織の中心人物など、12人を逮捕した。捜査当局に近い情報筋によると、彼は護身用に密売業者から銃を購入したと述べている。この違法取引が、北朝鮮と関連したものであるかは明らかになっていない。


レス男爵、アルヘレホ伯爵、ロサルモンテ公爵の御曹司にあたるべノス氏は、家柄に反発し極左思想の持ち主となった。それがいつしか、北朝鮮へのシンパシーへとつながっていった。

朝鮮一(チョ・ソニル)という朝鮮名を持ち、1年の半分を平壌で過ごし、海外からの訪問団や投資の誘致を行っていた。また、海外メディアの取材にも積極的に応じ、北朝鮮の体制を擁護する発言を続けてきた。 

エル・ムンドによると、彼は北朝鮮の公務員の肩書を持っているが、業務は行っておらず、実質的には旅行代理店の役割を果たしていた。

 【参考動画】アルジャジーラに出演したベノス氏

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とっさにこの人を思い出したけど、全然格が違った。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア(Vittorio Emanuele di Savoia) - Wikipedia

http://www.giornalettismo.com/wp-content/uploads/2015/12/licio-gelli-p2-vittorio-emanuele-di-savoia.jpg

イタリア王国において最後の国王となったウンベルト2世の長男で、現サヴォイア家当主及び王位請求者。1946年の共和制移行により成立したイタリア共和国において、王位のみならず全ての貴族称号は承認されていないが、イタリア王位やナポリ公位以外にも、様々な称号や継承権を父から継いでおり、その中にはエルサレム王位の請求権も含まれている。名誉ある血筋と継承権を持ち、欧州に数多くいる「没落貴族のコミュニティー」でも大物の一人と見なされているが、その一方で亡命先のスイス・フランスなどで銀行業や航空機会社からばかりか武器密輸などの非合法事業に加わる身辺に問題の多い人物でもある。

  • 1937年2月12日、王政時代のイタリアで、当時はまだイタリア王太子であった父ウンベルト2世と、その妻であるベルギー王女マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョとの長男として、ナポリ離宮で生まれる。祖父である第3代イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は男児の孫を授かったことを喜び、赤子のヴィットーリオを膝に乗せている写真が残されている。祖父からはナポリ公の称号を与えられ、父が即位すると王太子の称号を譲られた。
  • だが9歳の時、王政廃止によってサヴォイア家や他のイタリア貴族たちは亡命を強いられ、没落貴族に仲間入りせざるを得なくなった。祖父母はエジプトへ、王位を継いでいた父と母はポルトガルへと亡命した。しばらくして両親は実質的な別居状態に入り、母マリーア・ジョゼに引き取られて妹たちとスイスへと移住(現在でもヴィットーリオはスイスに邸宅を所有している)、幼少期を送った。
  • 20歳の時、スイス人の女性スキー選手マリナ・リコルフィ・ドーリアと結婚する。平民(非貴族)との貴賎結婚はいかに亡命王族とはいえ家格を貶めると考えられ、父ウンベルト2世からは強く反対されたが、ヴィットーリオはこれを無視した。間に生まれた息子エマヌエーレ・フィリベルトにピエモンテ=ヴィネツィア公の称号を分与した。1969年、自身が第5代イタリア王として国家主権を有すると宣言。貴賎結婚を巡る父との対立と家督問題が背景にあったと言われている。王位請求者としての権限でリコルフィ・ドーリアナポリ公爵夫人として強引に家格を引き上げさせる行為も行われた。

  • 1970年代にはネオ・ファシストや右翼軍人やマフィアらの秘密結社でバチカンを巻き込んだマネーロンダリングや、南アメリカの軍事政権に違法な武器密輸や資金援助を行っていた「ロッジP2」のメンバーであった事が暴露されてイタリア国内のみならず世界的な大スキャンダルとなった。

  • 1978年8月18日にはコルシカ島のカバルロで停泊していたヨットに乗り込み、乗船していた青年を誤ってライフル銃で射殺する事件を起こした。射殺された青年はディーク・ハマーという資産家の息子で、本来ヴィットーリオ・エマヌエーレが撃ったとされるヨットのオーナーの友人であったが、銃弾の流れ弾に当たって死亡したという。1978年8月28日、ヴィットーリオ・エマヌエーレは事件への関与を否定していたものの、被害者の資産家からの民事訴訟を受けている。

  • 1989年10月11日にフランス警察から襲撃と武器の不法所持により逮捕されるが、被害者が麻薬を摂取していたためにその証言能力に疑問があったこと(さらに被害者が仲間同士で誤って撃ったとの証言もある)や、13年前の事件ということもあって、武器のM1ガーランド銃の不法所持のみが罪に問われた。内容は6ヶ月間の禁固刑と極めて軽い内容であった。

  • 2004年5月21日、アオスタ公アメデーオ殴打事件。これはスペイン国王フアン・カルロス1世がサルスエラ宮殿で開いた晩餐会の席上で王位継承権を争うライバルであるアメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタと口論になり、アメデーオの顔面を殴り飛ばした事件。殴られたアメデーオは鼻血を出してその場に倒れ、階段を転げ落ちていったという。

2006年6月16日にはマフィアの犯罪事業に関わっていたとしてイタリア警察に拘束された。事態に呼応して7月7日、アオスタ公アメデーオは「サヴォイア家家長」および「サヴォイア公」を自らが名乗ることを宣言。ヴィットーリオ・エマヌエーレはすかさずアメデーオがサヴォイア公を称するのを差し止める裁判を起こし、2008年6月6日に最初の審理が開かれた(現在も裁判中)。

南イタリア出身者は王族でもマフィアですか?

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それとも犯罪者に仕立て上げられちゃうんですか?

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歴史に名を残した名監督が残した名言まで「大衆は小さな真実より大きな嘘を信じる」だったりして。

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さて私達はどちらに向けて漂流しているんでしょうか?

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