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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「赤いチョッキ伝説」と日本の学生運動の盛衰

政治的浪漫主義運動の象徴は「赤いチョッキ」とされています。

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第180回 フランスロマン派文学 - 山下敏明さんのあんな本、こんな本

ユゴーはね、文学的には『ロマン主義文学』と言われる文学運動の一派の。まあ、親玉みたいな人だった。そのユーゴーが自分達『ロマン派』の前に立ちはだかる『擬古典派』と呼ばれる大家達を打倒すべく作りあげたのが『エルナニ』なの。

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この劇、初演と言う時に、これ叉「文学史的」に「エルナニ事件」とよばれる騒ぎが起きた。と言うのは、この劇が「コメデイ・フランセーズ」で上演と決まると、古典派が妨害するとの噂が立った。怒ったユーゴーは、友人達を総動員して、見物席からの声援を頼んだ。

その時にこれを引き受けてリーダー格をつとめたのが、作家テオフィル・ゴーチエで彼の指揮のもと、若い詩人や画家などユーゴーの讃美者たちは、平土間と第二回廊とにわかれて古典派のヤジ封じに対抗した。この結果は『ロマン派』の勝利に終わったのだが、この時ゴーチエが真紅のチョッキを着込んでライオンのたてがみのように伸ばした長い髪の頭を振り立てて陣頭に立ったと言う話は有名で、先述『ユーゴー博物館』にはベナ−ルなる画家が描くところの『エルナニ合戦の図』があって、赤チョッキのゴーチエも当然描かれている。

しかしこの「真紅のチョッキ」のことは、ゴーチエ自信によって否定されているから、面白い。

現在における炎上マーケティングの先祖筋みたいなもの? そういえば「赤いチョッキを着た先導者」の姿なら「レ・ミゼラブル」における六月暴動(1832年)の場面にも…

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ワーグナードレスデン蜂起に参加した理由もそうですが、彼らが「政治的に」打倒を目指したのは「(あらゆる大義名分を掲げて)社会変革を阻止しようとする守旧派の老人達による支配体制」でした。そしてこうした始まった「青年フランス」あるいは「小ロマン派」は、未来に待つ破局を察知してユーゴーやゴーチェが離脱して以降も快調に暴走を続けます。

しかし二月/三月革命(1848年〜1849年)以降「国王や教会の権威が絶対視される」政治的風潮が吹き飛ぶと、打倒目標を見失った抵抗者達は次々と自壊。その事自体については誰もが書いてますが、社会の空気が変わった瞬間を捉えた証言は意外と少ない…と、思ってたらフローベール「感情教育(L'Éducation sentimentale、1864年〜1869年)」の中にありました
フローベール「感情教育(L'Éducation sentimentale、1864年〜1869年)」

人びとは 田舎を讃美し、無学な人間のほうが、そうで ない人たちよりも生まれながらにしてより 良識を身につけているとされた。憎しみが世にはびこっていた。小学校教師に、酒屋にたいする憎しみ。哲学の授業に、歴史の講義に、小説に、(ロマン主義文学者が好んで着た)赤いチョッキに、(聖職者を連想させる)長いひげにたいする憎しみ。そして、独立不羈をとなえるあらゆるものに、すべての個性の表明にたいする憎しみである。

想像以上に物騒なレベルの反知性主義ですね。ジャコバン派独裁時代の再来?

まずは、どうしてここまで至ったかについて辿る必要がありそうです。

 坂口安吾は戦前「感情教育」を読んで「何分彼は近代的な心理解剖や観察法の最も先駆者的な位置に立つ人だから、さういふ功績の世俗的な華々しさに比べて、その業績はもはや常識的なものとなり、彼が示した程度の人間観察や心理解剖の深さはもはや我々に多くのものを教へないといふ結果になつてゐるのだと思ふ」と述べています。現代人が「手塚治虫大友克洋のどこが先進的だったんだ? 今やどこでも見掛ける表現ばかりじゃないか」と叫ぶ様なもの。「未来のありきたり」を広める立場に立ったからこそ先駆者なのであって「そんなの偉い人でも何でもない」と心の底から思い込めてしまう人が未来を切り拓く事は決してありません。

ただ、ざっと読み返してみてこの「感情教育」という作品についてもそう考えてよいのか分からなくなってしまいました。そこに描かれていたのは「未来の(すなわち現在の)ありきたり」ばかりでなかったからです。
ギュスターヴ・フローベール『感情教育』におけるフィクションとしての制度と言説について
*ここではマルクス「ルイ・ボナパルトブリュメール18日」において収入制限選挙だけでなく普通選挙すらブルジョワ独裁状態を打破できなかった点が指摘されている。彼に言わせると議会制民主主義において「代表するもの」と「代表されるもの」の間には何の必然性もなく恣意的つながりが存在するに過ぎない。「民主派の議員たちはみな商店主であるか、あるいは商店主を熱愛している、と思い描いてもいけない。彼らは、その教養と知的状態からすれば、商店主とは雲泥の差がある。彼らを小市民の代表にした事情とは、小市民が実生活において超えない限界を、彼らが頭のなかで超えない、ということであり、だから物質的利害と社会的状態が小市民を[実践的に]駆り立てて向かわせるのと同じ課題と解決に、民主派の議員たちが理論的に駆り立てられるということである。これがそもそも、ひとつの階級の政治的・文筆的代表者と彼らが代表する階級との関係というものである」。この傾向が頂点に達するのが「自らの代表者を持ちえず、そのために常に誰かに代表してもらわなければならない事こそがその徴候というべき階級」すなわち(ジャコバン派独裁の後ろ盾にして、革命戦争とナポレオン戦争の軍功を通じて自作農化し、ルイ・ナポレオン大統領の当選と皇帝即位に重要なや役割を果たした)サン=キュロット(浮浪小作人)階層なのだった。「分割地農民はひとつの階級をなす分割地農民の間には局地的な関連しか存在せず、彼らの利害の同一性が、彼らの間に連帯も、国民的結合も、政治的組織も生み出さないかぎりでは、彼らは階級を形成しない。だから彼らは、自分たちの階級利害を、議会を通してであれ、国民公会を通してであれ、自分自身の名前で主張することができない。彼らは自らを代表することができず、代表されなければならない。彼らの代表者は、同時に彼らの主人として、彼らを支配する権威として現われなければならず、彼らを他の諸階級から保護し、彼らに上から雨と日の光を送り届ける、無制限の統治権力として現われなければならない」。すなわち歴史のこの時点で既に「プロレタリアート独裁」とは王党派、カソリック勢力、ブルジョワ階層だけでなく彼らの様に「自己都合によって急進派共和主義と因循姑息な守旧派の間を恣意的に揺れ動く頼りない庶民」とも決別した政治的革命的エリートによる絶対超越的統治でなければならない事はマルクス自身によって高らかに預言されていたのであり、そこから(ワイマール時代の大統領内閣制やナチズムを肯定した)カール・シュミットの政治哲学や(ボルシェビキ革命のさらなる進化形としての)スターリニズムに至る道筋はほぼ一直線だったのである。

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とにかく物語の進行が現代人には耐え難いほど緩慢。登場人物全員がディズニー映画「ズートピア(Zootopia、2016年)」に登場するナマケモノ状態。そんなノロノロとした描写が延々と(物語の3分の2ほど)続いた後、突如として革命が始まり、人々が嬉々として殺し合い始めます。むしろシュール。しかも物語は一向に加速しないのです。別に新たな政治的段階に到達する事はなく、それまで同様のダラダラとした日常がただひたすら続き、そしていかなる結論にも到達する事なく幕となります。

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既視感があると思ったらドイツ人作家ギュンター・グラスブリキの太鼓(Die Blechtrommel、1959年)」でした。名目上はドイツでもオーストリアでもポーランドでもない自由都市ダンツィヒの日常にじわじわとナチズムが浸透し、ユダヤ人迫害が始まり、ヒトラーが熱狂的に礼賛される様になり、気づいたら戦場になっていて、ソ連軍の占領下に置かれている…見事なまでの蛙の姿煮の出来上がりです。

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フローベールが「感情j教育」の中で扱った二月/三月革命(1848年〜1849年)から皇帝ナポレオン三世を戴く第二帝政(1852年〜1870年)」に至る時代は、いうなれば無数の理想が失望を伴いながらも現実に着地していく過程。明治維新後の大日本帝国も同様の経過をたど李ました。それが戦前の日本人の目に「未来の(つまり当時の)ありきたり」に映った理由かもしれません。具体的にはこんな感じ。

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フローベール「感情教育(L'Éducation sentimentale、1864年〜1869年)」

革命成立直後の「いつもの景色」

女は自分も共和国に賛成だと言った。パリ大司教猊下がそう宣言しているように。また、行政官、国務院、学士院、元帥たち、シャンガルニエ( アルジェリア征服戦争における猛将にして、オルレアン派の代議士)、 ド・ファルー 氏(カソリック勢力の教育参加に尽力した正統王朝派政治家)、 それにすべてのボナパルト派(皇帝ナポレオンが遂行した統治形態や政策を回顧する立場の人々。軍功によって自作農に成り上がる事に成功した元サン=キュロット(絶対王政時代の放浪小作人)に多く、彼らの報恩精神が後に普通選挙におけるルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世の勝利に貢献する) や正統王朝派、さらにはオルレアン派の大多数が、驚くほどの熱意をこめて、すかさずそう宣言することになるように。

七月王政の崩壊があまりに急であったので、最初の茫然自失の状態がすぎ去ると、ブルジョワたちは自分たちがまだ生きていることに驚いたほどだった。盗みをはたらいた者 たちが、裁判にかけられることもなく即決で銃殺刑に処されたのも、しごく当然のこと のように思われた。一カ月のあいだ、ラマルティーヌの言ったことば「 赤旗はシャンドマルスを一周したにすぎない、しかるに三色旗は…(「祖国の名と栄誉と自由をたずさえて、世界を一周したのだ」と続く。1848年2月15日、三色旗に代わって赤旗を掲げることを要求して労働者が市庁舎におし寄せた。それに反対するラマルティーヌがおこなっ た演説の最後の文句)」は、くりかえし人びとの口の端にのぼった。だれもが 三色旗のもとに結集したのもとに結集したのだが、三色のうち、各党派はもっぱら自分たちの色しか見ようとしなかった。自分たちの党派がもっとも強くなれば、ただちにほかの 二色をひきはがす魂胆だったのだ。
*当時のブルジョワ層は本来なら「盗みをはたらいた者 たちが、裁判にかけられることもなく即決で銃殺刑に処された」事によって法治主義の原則が否定された事実を問題視すべきだった。
彼らが最初共産主義者を攻撃したとき - Wikipedia

日常の業務が停止しているので不安になり、また好奇心に駆られて、だれしも自分の家 にじっとしていられなかった。身なりにかまっていられないから、社会的地位のちがいも目立たない。憎しみは影をひそめ、希望がひろがって、群衆は満足感にひたってい た。その顔は、権利を勝ちとっ た誇りで かがやいていた。人びとはカーニバルのとき のように陽気で、野営でもしているようにふるまっていた。革命初期のこうしたパリの 情景ほど興味ぶかいものはなかった。
*実は日本人は意外と伝統的にこうした「大破壊の後の訪れる多幸感」に相応の免疫がある。大災害直後に必ず現れる景色であり、しかもその毎にこれを復興を志向する激烈なモチベーションの源泉として利用してきた歴史が存在するからである(安政地震当時流行した「鯰(天災)の切腹が小判(復興景気)を生む」風刺絵が端的にそれを象徴している)。むしろ逆にこれを政治的な勝利や敗北と結びつけ様とする心理そのものが分からない。太平洋戦争中の大空襲から立ち直る過程ですらそうだったのだから、まさに「本物」。ただし、どちらも現場に赴く事さえないインテリの発する妄言が蔑視しかされない点は共通している。

http://kumaya.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_d17/kumaya/namazu-c48d0.jpg?c=a0

私有財産否定への恐怖の蔓延

現在、 反動の連中はその正体を明らかにしている。ヌイイやシュレーヌの城館の略奪(どちらもパリ近郊の町で前者にはルイ・フイリップの、後者にはロスチャイルド家の居館があったが1848年2月25日ともに暴徒の襲撃を受けて略奪され尽くしている)、バティニョルの火事、リヨンの暴動(2月革命の報に接した工場労働者達が興奮のあまり短らの職場たる工場を次々と焼き払った)が起き、いまや過激な行動、不平不満がことごとく目にあまるものになっているではないか。おまけに、ルドリュロラン(1848年に臨時政府役員達に共和主義強化を提言した内務省大臣)は回状をだし、紙幣の強制通用がさだめられ、国債は六十フランに暴落するしまつだ。そして、不公平のきわみというか、とどめの一撃というか、それらに増して恐るべきものとして、四十五サンチームの課税(財政悪化によって破綻の危機に瀕した臨時政府は3月18日、直接税の45%増税を決定した) がある。そればかりではない、 社会主義なるものを忘れてはいけない。こうした理論は鵞鳥双六(18世紀に流行した絵双六の一種)とおなじくらいの歴史しか なく、四十年来、いくつもの書架をいっぱいにするほどたっぷり論議され てはいるが、まるで降りそそぐ隕石のように、ブルジョワどもをびくつかせている。いかなる思想が到来しても、それが思想であるという理由だけでひきおこされる嫌悪感から、人びとは憤慨した。

かくして、所有権は宗教と同列にまで崇められ、神と同一視されるにいたった。所有権にたいする攻撃は瀆聖であり、人肉嗜食も同然の行為と見なされた。かつてないほどの人道的な法制が布かれたにもかかわらず、1793年(ジャコバン派独裁が始まった年)の亡霊がふたたび姿を現わし、共和国という語の音節のひとつひとつでギロチンの刃が鳴動した。それでも人びとはその弱体さゆえに共和政を軽蔑した。フランスは指導者をうしない、さながら杖をうしなった盲人か、子守にはぐれた子どものように、おろおろと泣きさけびはじめたのだ。
*当時プルードンは「所有とはそれ自体悪である」としてあらゆる略奪行為の蔓延を肯定した。これを最も喜んだのは失業者対策として活用され、兵舎において財産私有と無縁の生活を送ってきた国民衛兵達。彼らは人間としての許容範囲を超えた最低の生活を送る事を強要されてきた工場労働者や放浪小作人の声援を受けて大ブルジョワ(銀行家や工場経営者)ばかりか中小ブルジョワ(商店街で家族経営の店舗を営んだり、国内に行商ネットワークを張りめぐらせる事に成功した商人および工房)すら「未来の為に滅ぼすべき犯罪者」と考えた。まだまだ農本主義的段階に留まっていたフランスにおいて、彼らはあくまでマイノリティに過ぎなかったので抵抗力を持たない殲滅対象としてスケープゴートにするには格好の標的だった点も見逃せない。こうした暴走に歯止めを掛けたのは(ナポレオン戦争時代に軍功によって放浪小作人状態からの脱却を果たした)当時のフランス国民における圧倒的多数派、すなわち零細自作農達だった。なにしろ当時フランス社会主義者達が掲げた「所有とはそれ自体悪である」なる抽象的理念は、彼らの「確かに俺達が私有してるのは猫の額ほどの広さの土地に過ぎないが、それを奪おうとする者が現れたなら命を賭して戦う」なる具体的かつ強烈な土俗的信念を脅かす事すら出来なかったのである。後に共産主義が労働者独裁を掲げ「農民の言葉には一切耳を傾けてはいけない。革命の阻害要因に過ぎないから、あらゆる暴力を用いて屈服させる事のみが彼ら自身の幸福にもつながると信じよ。それが出来ない者は彼らの同類とみなされ粛清対象とされる」などと言い出すのも、当時の絶望的敗北が生んだ不信感が原因であった。

絶望的敗北…二月/三月革命(1848年〜1849年)においては、欧州中のあちこちで政府から要求を満たすだけの妥協を引き出した農民達が離脱した後、最初から政府を転覆させるまで徹底抗戦を続ける事しか考えていなかった労働者や中小ブルジョワ層(圧倒的多数派を占めた農民が抜けてしまうと悲しいまでの少人数)が武力によって完膚なきまでに殲滅される悲劇が相次いだ。江戸幕藩体制下で生じた一揆の大半も、蜂起を主導した富農や富商側は最初から「その気にさえなれば相手にも飲める要求」しか掲げず、それが満たされると手早く解散している。彼らの念頭にあったのは冷徹なまでに経済効率に過ぎず、藩など転覆しても経済的損失しか生まない事が最初からコンセンサスとして成立していた。当時の藩はその多くが領民からの借金によって傀儡化していたが、それゆえに所領替えによって強制的に借金を清算しようという試みが数多く試行され、その都度こうした一揆によって挫折を強いられてきた。「日本においてプロレタリアートだったのはむしろ武家の方だったのでは?」という疑念がここから生じる。どうして日本の工業製手工業の歴史は大名屋敷の下士長屋における内職(金魚、鈴虫、コオロギなどの養殖、朝顔ツツジの栽培、傘張り、提灯、凧などの手工業)の分業から始まらねばならなかったのか? 私たち日本人は自らの胸に手を置いてその事を思い出すところから始めねばならないのではあるまいか?

19世紀後半、こうしたジレンマをマルクス主義が克服する。しかしここで勝者となったのはあくまで「誰もが自らの自由意志を自分固有のものと誤解しているが、実は社会の同調圧力によって型抜きされた量産型既製品に過ぎない」とし「社会とは上部構造と下部構造の違いを規制下に置こうとする鬩ぎ合いである」としたマルクスの慧眼そのものは継承しつつも、私有財産理念についてはマルクスパトロンでもあったラッサールなどが広めた「人類の私有財産概念は進化する。伝統的権威を背景に領主が領土と領民を全人格的に代表する時代はすでに過去のものとなり、今や経済的発展の保障を大義名分として掲げたブルジョワ階層が富と従業員を使役する時代に入った。進化はまだまだ続くだろう。我々の世代には私有財産理念の放棄としか見えないシステムが普通となる時代が訪れても不思議ではない」といった社会進化論に立脚する修正主義だった。ロシア革命の最終勝者となったレーニンが「そんな甘ったれた考え方などやがて国際的に全面否定される時代が訪れる」と予言し、ユーロコミュニズムの祖とされるグラムシが「この問題への正解は時代と地域によって異なるから、最終回答が収束する事はないだろう」と予言した案件である。
レーニン以前のマルクス経済学 - 諸概念の迷宮(Things got frantic)

 議会制民主主義への嫌悪感の広がり

*臨時政府所属ゆえに地方炭鉱への赴任を余儀なくされた弁護士の愚痴。

「 あの連中のやることときたら、まことに見あげたものでね。リヨン、リール、ル・アーヴル、パリ、どこでもそうさ。外国製品を締めだそうとしている製造業者に倣って、やつらはイギリス、ドイツ、ベルギー、サヴォワ(当時はイタリア統一運動の中心地サルディーニャ王国の一部に過ぎずフランス領ではなかった)の労働者の追放を要求しているんだからな。頭の程度にしたって知れたもんだろう。王政復古のとき話題になった連中の同業職人組合にしたって、いったいなんの 役にたったんだ? 1830年にはこぞって国民衛兵に入ったわけだが、これを掌握するだけの良識すら持ちあわせていないじゃないか。1848年の革命にしたって、その直後、またまた同職組合なるものがそれぞれの旗をかかげて現れただろう。しかも、自分たちの 息のかかった民衆代表を、自分たちの利益だけを主張する民衆代表を要求したんだ。砂糖大根地区の議員が砂糖大根のことしか気にかけないのとおなじことさ。まったく、うんざりするよ。ロベスピエールの断頭台、皇帝ナポレオンのブーツ、ルイフィリップの 雨傘と、次つぎになんにでも平伏するやからにはね。パンさえもらえれ ば、だれにだって永遠の忠誠をちかう卑しいやつらだ。タレーランミラボーは金に汚かったと言って あいかわらず批難する声が高いが、いいか、下の階の使いはしりの男に、ひと走りに 三フランはずんでやると言ってみろ、五十サンチームで祖国を売りわたしかねないぞ。 とにかく、大失敗だった。われわれはヨーロッパ全土に火を放つべきだったんだ」

フレデリック が それに応えて「火種がなかったのさ。けっきょく、きみたちはただのプチブルだったわけだし、いちばんましな連中にしたって知ったかぶりをしていたにすぎない。もっとも、労働者が不平を訴えるのもむりはないな。 国家元首の特別歳費を百万フランほど削って、いやらしいお追従をふりまきながらその金をまわしてやったことをのぞいたら、あとは美辞麗句をならべただけで、きみたちは労働者になにひとつしてやらなかったじゃないか。 労働手帳(労働者の職務内容、職歴などが記載されており、これを所持していないと労働者は職場を変えることができなかった)は依然として雇い主の手の内にあるし、雇われている者のことばは信じてもらえないことになっているわけだから、かれらは(法的にすら)主人の下に置かれたままだ。ようするに、共和政なんてもう時代おくれなんだろう。進歩なんてものは、貴族階級か、さもなければひとりの偉人の力によらないないかぎり実現できないのではないかな。率先的行動は つねに上からくるじゃないか。なんと言っても、民衆は未熟だよ」

フレデリックに言わせると、市民の大半は平穏な生活しか望んでいないから勝機は保守 派にある。

*後に英国や日本で普通選挙が履行された時、保守派大勝利に終わった未来を予見しているかの様に見える。特に英国においては当時すでに労働者が最大の票田となっていたにも関わらず(産業革命完遂によって国民の大多数が労働者に転換された大英帝国に比べると、戦前の大日本帝國は「我田引鉄」政策で全国の在地有力者を味方につけるだけで選挙に勝利出来てしまう程度の農本主義国家に過ぎなかった)「これまで通り私達に政治を任せておいてくれれば安心です」なるプリムローズ・リーグのキャンペーンが功を奏して保守派が大勝利を収めているのである。

 権威回復への渇望

帝政を望む人びとがいれば、オルレアン家の再興を願う者、シャン ボール 伯をかつぐ者 もいる。

オルレアン家ブルボン家の傍系で、7月王政で国王に選ばれたルイ・フィリップもその流れを汲む一人。一方シャン ボール伯は(その7月王政に追い落とされた復古王政時代に王統だった)正統王朝派の代表者。

しかし、地方分権化が緊急の課題であることは衆目の一致するところで あり、その方策もいくつか提案されていた。たとえば、パリを無数の大きな区域に分割して、それぞれ をひとつの村にする。政府を(絶対王政下では政治の中心だった)ヴェルサイユに移転する。学校はことごとく(大司教座の置かれていた)ブールジュに移す。図書館を廃止する。各師団の長に全権をゆだねる、といっ たものだ。人びとは 田舎を讃美し、無学な人間のほうが、そうで ない人たちよりも生まれながらにしてより 良識を身につけているとされた。憎しみが世にはびこっていた。小学校教師に、酒屋にたいする憎しみ。哲学の授業に、歴史の講義に、小説に、(ロマン主義文学者が好んで着た)赤いチョッキに、(聖職者を連想させる)長いひげにたいする憎しみ。そして、独立不羈をとなえるあらゆるものに、すべての個性の表明にたいする憎しみである。権威主義を立てなおす必要があったからだ。それがいかなる名のもとに行使されようと、 どこから到来するものであろうとかまわない、力であり、権威でありさえすれ ばよかった。
*「感情教育」はこうした状況下(政治的浪漫主義者の様な)国王と教会の権威に対する絶対反逆を誓った人々から真っ先に「信心深い人々の世界」に逃げ込んでいく様子を冷徹な筆致で捉えている。要するに彼らの視野には最初から社会全体などなく、個人主義を絶対視する立場から(マルクスのいう「社会的同調圧力によって型抜きされた形ばかりの自由意思」から解放されて)自分なりの信仰形態を回復したいという渇望だけが存在したという事になるのかもしれない。

*そして当時のフランス庶民の目には、国威高揚の為にあらゆる知識を中央主権的に統合しようとする百科全書派的啓蒙主義も、自らの個人主義を貫く為に彼らの不条理や神秘主義の黙殺への全面反逆を誓った政治的浪漫主義者達も、等しく「愚民支配を目論むインテリの陰謀」としか映っていなかったのである。壮絶なまでの生活苦と表裏一体の関係にあったが故に、それはまさに共産主義ファシズムやナチズムといった全体主義思想の原風景となった。

ここで冒頭に掲げたあの描写に至る訳ですね。当時文学者や芸術家や思想家や革命家といったインテリ層は自分達こそ運動を主導していると信じていた訳ですが、実在していたのは「何が起こっても同じ反応を見せるパリ市民」などだけであり、ルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン3世の手になるパリ大改造産業革命の本格的導入という、当時のインテリ層には想定外の手段で駆逐されていった訳です。

ochimusha01.hatenablog.com

日本が近代化を急いだ背景には「一国も早く文明化しなければ列強に植民地化される」という緊張感や、間近を跋扈する清朝やロシアの具体的軍事的脅威がありました。オランダ史や英国史を辿っても「圧倒的ライバル」の存在が欠かせません。しかしフランスや中国の様な大国の歴史は若干異なる様です。しばしば国際的発展から取り残されてきたのはそのせいかもしれません。まぁ最近は英国や日本にとっても他人事ではなくなりつつある問題ですが…

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どうしてこうした景色は「未来の(すなわち現在の)ありきたり」にならなかったのでしょうか?

もしかしたら第二次世界大戦後世界で「戦前において社会主義思想は圧倒的勝利を収め、戦後も繁栄を続けてきた。その正義を疑う事は一切許されない」なんて主張が繰り返されてきたせいかもしれません。これを通すには自ら猟銃を手にして二月/三月革命(1848年〜1849年)の銃撃戦に参加したフローベールが目撃した「どさくさに紛れて自説を売り込もうと演説する論客が、邪魔臭いので次々とぶっとばされていく」景色や(ロマン主義者を象徴する)赤いチョッキが侮蔑の対象となる景色が邪魔だったという次第。まぁ本国でもサルトルが先頭を切ってこれをやってます。「プチブル精神脱却を施行した筈のフローベールなのに、それから一歩も脱却しなかったのはフランスの恥である」云々…
アンガージュマンの思想と実践

「それではアンガージュマン(Engagement)は戦前どこで勝利したのか?」と誰かが質問したら「スペイン内戦(Guerra Civil Española、1936年〜1939年)に知識人が次々と義勇兵として参戦しただろ?」と答えるのがルールだった時代でした。まさしく理想視されたのはジョージ・オーウェル「カタロニア讃歌(Homage to Catalonia、1936年〜1937年)」やヘミングウェイ「誰が為に鐘は鳴る(For Whom the Bell Tolls、原作1939年、1943年)」の世界。フローベールも猟銃片手に二月/三月革命(1848年〜1849年)の銃撃戦に参加した上で色々書いてる訳ですが…むしろそれ故に当時は決して認めてはいけなかったのかもしれません。

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野呂栄太郎『日本資本主義発達史講座』趣意書(1932年06月)

世界経済恐慌の発展は全資本主義体制の、従ってまた日本資本主義制度の根底を揺り動かしている。資本主義の一般的危機の先鋭化、その上に進行しつつある恐慌の破局的深刻化、国際的諸対立の脅威的緊張、そして階級対立闘争の不可両立的激化――すべてこれらの、もはや蔽わんとして蔽いがたき事態の急激なる悪化は、支配階級及びその代弁者どもをして今さらのように国難来を叫ばしむるにいたった。

 曰く、経済国難!
 曰く、思想国難!
 曰く、建国以来未曽有の国難!

急迫せる情勢に転倒せる帝国主義者の脳裏には、恐らく戦争とファシズム以外の考えは浮かび得ないであろう。しかしながら、経済的発展の行詰まり、政治的支配の動揺、社会情勢の不安等々の解決は、かかる一連の事態の変化を必然にし、不可避にしたところの根本的矛盾を究きわめることなしには、問題解決の糸口をつかむことこそ不可能であろう。日本資本主義成立の歴史を顧み、その矛盾に満ちた発展の諸特質を究めることは、それゆえに、日本資本主義が当面せる諸問題の根本的解決の道を見出すべき鍵である

【Wikipedia】講座派(こうざは)

日本資本主義論争において労農派と対抗したマルクス主義者の一派。32年テーゼに従って年岩波書店から1930年代前半に出版された、『日本資本主義発達史講座』を執筆したグループが中心となったのでこう呼ばれる。

①明治政府下の日本の政治体制は絶対主義であり、また当時の社会経済体制の実態は半封建的地主制である、と捉え、天皇制を打倒するブルジョワ民主主義革命が社会主義革命に強行的に転化する、とする「二段階革命論」を唱えた。これはコミンテルンの32年テーゼを擁護するものとなり、当時の日本共産党の基礎理論となった。

②1936年のコム・アカデミー事件で一斉検挙され転向者を大量に出した為、一旦は途絶える。

 岡野(野坂参三) 田中(山本懸蔵)「日本の共産主義者への手紙(36年テーゼ:1936年02月10日)」

親愛なる同志諸君 我が党はプロレタリア独裁を目指し、先ずブルジョア民主主義革命を遂行せんとしている。この基本方針は全く正しい。けだし今日の近代的我が日本にはなお非常に多くの封建的残滓があるからである。我が国には軍事的、警察的天皇制があり、寄生的封建的土地所有制度が存在し、亦封建的遺制は労資関係にさえも残っており、社会生活、家族関係の全面に亘って存続しているからである。封建制度の残滓がかくも強力に存在するという事実によって、まずブルジョア民主主義革命任務解決の為の闘争が必要である。

換言すれば君主制の打倒と労働者農民の革命的民主主義的独裁の樹立、地主の土地無償没収と土地の農民への分配、8時間労働制と労働者及び全勤労民の生活の急激なる改善、即ちこれらのために闘争することが重要である。ブルジョア民主主義革命の発展と、それを更に社会主義革命にまで押し進めるための闘争こそが、日本プロレタリヤ独裁、ソビエト社会主義制度の樹立、人による人の搾取制度の撤廃への唯一可能の真実の道である。これこそが社会の全成員が享楽し得る裕福と文化生活への道である。

◇ 過去のセクト的誤りを正せ
昔の如き正しい戦略的方針によって、我が党は進んでいるが未だ党は大衆を彼らを当面の利益のための闘争に動員し、これによってブルジョア民主主義革命の基本的任務達成のための闘争に導くように巧妙に具体的に大衆に接近するということは成功していない。我々は大衆的方法を用いる代わりに、革命の基本的スローガンの抽象的宣伝に甘んじるという嫌いがあった。またこれと関連して広汎な大衆はまだ天皇制打倒のために直接公然たる闘争を行う用意をまだしていないという事実を考慮に入れなかった。というのは広汎な大衆は排外主義的偏見や天皇制に関する一切の幻影からまだ完全に脱し切っていないという事実をはっきり見なかったのだ。大衆は自分自身の政治闘争の経験によってのみこの幻影を打ち破ることが出来るのだ。

◇ 当面の主要敵は軍部

コミンテルン第7回世界大会の決議及び現下の国際情勢の具体的分析に基づいて、我々はこの戦術的方針を是正し、一層適確なものたらしめなければならない。(中略)

さて今日於いて闘争を敢行せねばならぬ主要な敵がファシスト軍部だということは極めて明瞭である。軍部は天皇制機構のうちの最も反動的な最も野蛮な帝国主義者である。

軍部は中国に於いて開始した過去4年間の侵略的軍事行動を利用して、彼らの特権、時には独裁権をも拡張し、自由と民権の最後の片鱗に対してさえも極度の攻撃を加え、美濃部博士の如き天皇主義者さえも処罰するという程度にまで発達した。軍部は軍事費を未曾有に膨張させ、国富を放蕩し、国民大衆を塗炭の苦しみに陥れた。だがこれらの戦争気狂共にとっては国民の惨苦などはどうでもよい。彼らの代表者が公言している如く「天の使命」たる「新大戦争」の準備促進のためには国の経済的破綻の危険を考慮する必要なく、そのためには日本を「焦土」と化すことも敢えて辞せずといっている。

ファシスト軍部は我が国を「ファシスト的野蛮」、経済的軍事的惨禍に導き又我が国民を、国際反革命の肉弾たらしめんとしている。


◇ 軍事独裁の危険を過小評価するな。
以下略

「世の中を横に切って上下に分けて、下に味方するのが左翼」、「世の中を縦に切ってウチとソトに分けて、ウチに味方するのが右翼」。で、左翼は右翼のことを「世界を上下に分けて、上に味方するヤツラ」と思ってる。右翼は左翼のことを「世界を内外に分けて、外に味方するヤツラ」と思ってる。でも世界の切り方がお互いに違うので、相互誤解しているという。お互いに自分の切り方で世界を見ているわけ。

 
さらに、世界を上下に分けて上の味方をするのは何と言うべきか。これは「逆左翼」と呼ぶべきだと言う。下の味方ではないけど、世界の切り方は左翼と同じなのである。一方、世界を内外に分けて外の味方をするのは「逆右翼」。問題は、自称「右翼」の中に「逆左翼」が紛れ込んでいることだという。右翼的なことを言ってるつもりで、やってることは「世界の上の方の味方」という存在。一方、自称「左翼」の中にも、世界を横に切らずに縦に切ってソトの味方をしてしまう人々がいると言う。

大日本帝国時代のインテリは、思想の左右に関わらず江戸幕藩体制下における士族の思考様式の延長線上で「農民も労働者も我ら政治的エリートとの善導に盲従するのが当然」と考える一方で内部党争に勝利する事を最優先課題と考えていた。その意味では講座派は完全に「逆左翼」という事になる。
*日本が昭和25年(1950年)まで旧制中学まで進級するのが全若者人口のうち1割~2割、旧制高校を経て大学にまで進級するのが1%未満という超教育格差社会だった事を決して忘れてはならない。これが教育改革によって2人に1人が進学するほど大学大衆化の進んだ社会に変貌していく訳だが「先代から続いてきた権威主義的思考様式の継承」がやっと切れ目を見せ始めるのは1970年代に入ってからともいわれている。奇しくも学生運動が過激化と内ゲバで自滅していく時期と一致している。

それと軸を同じくして講座派的思考様式はじわじわと居場所をなくしつつ「逆右翼」すなわち日本を弱体化して何としてでも外国勢力の支配下に入れようとする姿勢を強めていく。そうなる下地は既に戦前には出来ていたという。

【戦前日本共産主義史】22年テーゼ〜36年テーゼ(講座派と労農派の起源と最期)

1919年にコミンテルンが創立されると、モスクワで極東民族大会(1922年1月)が開催された。この大会には日本代表として徳田球一らが参加し、スターリンから共産党組織を結成する様に指示を受ける。

①徳田の帰国後、山川均、堺利彦野坂参三、佐野学らによる代表者会議が行われてコミンテルンの方針を承認しすると,1922年7月に第一次日本共産党が創立される。そして1922年11月の第4回コミンテルン大会でコミンテルン日本支部してと認められ、コミンテルンの理論家ブハーリンが起草した「日本共産党綱領草案(22年テーゼ)」が示された。その内容は君主制の廃止、軍隊の廃止、労働者の武装権、朝鮮・中国からの撤退、土地公有化などであり、日本に持ち帰って議論が重ねられたが(石神井会議,1923年)理論的においては異論ないものの「君主制の廃止」の項目は国体改造を憲法で禁じる日本においては弾圧を招くだけだという指摘があって審議未了となった。間もなく共産党の検挙(1923年6月)があり、関東大震災後の解党論の盛り上がりもあって。1924年2、3月頃「現在の日本には共産党結成の条件はない」として解党を決定する。


荒畑寒村は解散に反対し、事後処理のための少人数の委員会(ビューロー)を作ることを主張し認めさせる事に成功する(ビューロー派)。そして1924年5月には合法研究誌『マルクス主義』を創刊。一方、山川均らは大衆から切り離された少数の革命党ではなく、あらゆる反ブルジョア階級、社会層を含む広範な無産階級政党を組織し、大衆を成長させながら前衛政党を作っていくことを考えたが当初は『マルクス主義』出版に協力を惜しまなかった。


③ところが1924年になると文部省在外研究員として英独仏に2年半留学していた福本和夫が帰国。福本イズム、すなわち「労働者や農民の蜂起そのものに革命を成功される力はない。インテリゲンチャの主導が不可欠」とする大衆蔑視の立場と「外敵との抗争より獅子身中の虫の始末を優先すべし」とする急進的セクト主義から『マルクス主義』 1926年2・5月号への「山川氏の方向転換論の転換より始めざるべからず」掲載より公然と山川派攻撃を開始して身分意識が今より遥かに強かった当時の学生や知識人をすっかり魅了する。

④やがてビューロー派は1925年1月共産党再建の方針を決定し,1926年12月共産党を正式に再建(第二次共産党)。しかし、新執行部がモスクワに向かうと、ニコライ・ブハーリンが主導するコミンテルンは福本イズムに関しては「プロレタリアートも農民も置き去りにしてインテリ同士の内輪揉めを優先せよとは気違いか」、山川イズムに関しては「日本はもう明治維新ブルジョワ革命は達成済みだから、後はプロレタリア革命を遂行するだけでOKとは舐めてるのか」とそれぞれ全面否定され「日本は半封建的国家であり、近代国家として熟成しているとは言いがたい。だから日本共産党は当分の目標としてブルジョワ革命による君主制廃止(天皇制という用語が使われるのは32年テーゼ)を目指すが、それを主導するのはインテリでなくプロレタリアートや農民でなければならない」という日本の全本共産主義者の意に沿わない現場完全無視の綱領を押し付けられてしまう。これがた「日本問題に関するテーゼ(27年テーゼ)」の実態だった。

*これを契機に失脚した福本和夫は1928年(昭和3年)に逮捕され14年間入獄。1950年(昭和25年)復党し統一協議会を結成して独自の活動を展開するも綱領規約決定などで党の中央路線と対立。 1958年(昭和33年)頃に除名処分となって以降は農業問題や日本ルネッサンス史の研究に専念した。

*同様に第二次共産党に合流しなかった山川均は堺利彦荒畑寒村、猪俣津南雄らと1927年(昭和2年)に「労農」を創刊し「労農派」と呼ばれる事に。その後も大衆との結びつきを重視する共同戦線党論を展開し続けたが1937年(昭和12年)の人民戦線事件で検挙された。敗戦によって治安維持法がなくなった1945年(昭和20年)に免訴となり,1946年(昭和21年)には三浦銕太郎や石橋湛山らと民主人民戦線を結成。民主人民連盟委員長となるも病気で活動できず、社共両党の対立を解消できぬまま連盟は雲散霧消した。その後は社会党左派の理論家として活動し,1951年(昭和26年)に社会主義協会が発足した際には大内兵衛と共に代表を務めた。向坂逸郎らと共に社会主義協会において非武装中立論を説いて日本社会党に強い影響を与えたが、山川の非武装中立論は永世非武装国家を志向したものではなく、あくまで日本が復興する間のみの非武装(復興時非武装中立論)を説いたものであった。現実の脅威を十分に認識した上での構想だったが、むしろ日本がソ連や中国といった社会主義陣営に軍事的に併合される事を望む向坂らはあえて非武装中立論の定義を「日本が社会主義陣営に立つまでの手段」と書き換えてしまう。

⑤1932年5月になるとコミンテルンが「日本における情勢と日本共産党の任務に関するテーゼ(32年テーゼ)」を発表。日本では「赤旗」1932年7月10日特別号に発表された。基本的スタンスは27年テーゼを継承する。すなわち大日本帝国の支配体制を、絶対主義的天皇制、地主的土地所有、独占資本主義の3ブロックの結合と規定し、地主階級と独占資本の代弁者かつ絶対主義的性格をもつ政体とし、それ故に当面革命は絶対主義的天皇制を打倒するためのブルジョア民主主義革命(反ファシズム解放闘争)になるとし、プロレタリア革命はその次の段階と位置づけた(いわゆる二段階革命論)。また、反天皇制に加え、寄生的土地所有の廃止や7時間労働制の実現なども柱としており「帝国主義戦争と警察的天皇制反対、米と土地と自由のため、労働者、農民の政府のための人民革命」をスローガンとした。

*前年に草案として提示されたいわゆる「31年政治テーゼ草案」を作成したゲオルギー・サファロフが失脚した為、急遽日本から片山潜野坂参三、山本懸蔵らが参加して討議された結果である。発表以降,1936年2月に岡野(野坂参三)・田中(山本懸蔵)という変名で「日本の共産主義者への手紙」がモスクワにおいて発表されるまで日本共産党の綱領的文書として扱われた。

*伊藤晃の研究によれば日本とフランスをひどく恐れるスターリンの意図が強く働いたとされる。実際そこにはフランスと日本という「二個の帝国主義憲兵」の同盟が、ソ連を攻撃すると書かれており、谷沢永一は「他国と比べて圧倒的に多いテーゼが日本向けに乱発されたのは、コミンテルンにとって日本問題が最優先課題だったからである」という立場をとる。

*そして野呂栄太郎らがこれを裏づける形で『日本資本主義発達史講座』(岩波書店)を発表し(刊行計画の具体化はテーゼの発表前であった)、いわゆる「講座派」を形成する事になった。

セクト間党争を最優先課題とする福本イズムに未だ心酔したままの知識人や学生達の間に「社会ファシズム論」が浸透すると、たちまちこれに反対する労農派との正面対決が激化する。

⑥フランスやスペインにおける人民戦線政府の成立を契機とし、コミンテルンナチス・ドイツの台頭に対抗すべく第7回大会(1935年)で「民主主義勢力の統一戦線によりファシズムを阻止する」反ファシズム統一戦線を定式化する。しかし1939年に独ソ不可侵条約が締結されるとコミンテルンソ連の配下の機関と化し、再びイギリス・フランス主敵論を展開する様になった。

*日本では当時ソ連に亡命していた野坂参三がひそかに渡米して加藤勘十に会い、日本での実現を図ったが、実行はできなかった。また、共産党とは独立に、京都における真下信一久野収の動きが、この思想の体現化とする意見もある。

*いずれにせよ身勝手なコミンテルンの思惑で「財閥を扇動して天皇制を倒させる」などという不可能に無理矢理取り組まされた講座派は1936年のコム・アカデミー事件で一斉検挙され、大量の転向者を出して壊滅してしまう。

*またこれ以降、当局側は「コミンテルンの反ファシズム統一戦線の呼びかけに呼応する形で日本においても国体変革と私有財産否定を主目的とする人民戦線の結成が企てられている」と疑心暗鬼になり、それまで容認してきた非共産党マルキスト社会主義者一般まで検挙対象とする様になっていくが、その嚆矢となったのが1937年(昭和12年)には400人を超える労農派系の大学教授や学者グループが一斉検挙される人民戦線事件なのだった。

そして…

①講座派は、なまじ日本の現状を無視してコミンテルンの方針に馬鹿正直に従おうとしたが故に「社会主義は当面やらなくて良い。今は財閥と手を結んで天皇制を打倒するのが最優先課題」と主張して自ら徹底弾圧の引き金を引いてしまう。その一方で「対立セクト」労農派の「天皇制は既に日本の資本主義システムの中にガッチリ組み込まれているので打倒を目指すだけ無駄。それより財閥との対決を対決を最優先課題とすべし」という主張は統制派軍人や統制派官僚の思惑と合致する部分もあり、すぐには弾圧対象とならなかった。この待遇の差が(ただでさえ党争での勝利を最優先課題とする知識人や学生達を主体とする)福本イズムの信奉者達の間に強烈な復讐への欲求を残したとされる。唐代にあった「牛李党争」の再襲来?

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②本当に革命を成功させた現地のマルクスレーニン主義は、その成功過程において「体制側の勢力や力も上手く利用すべし」といったリアリズムに到達する事が多かった。しかしながら、まさにその事が純粋理念としてマルクスレーニン主義を信奉する日本の社会主義者達の目にはこれが単なる裏切り行為としか映らず、それで戦後には破壊の為の破壊にのみ関心を集中させ、内ゲバと粛清合戦に明け暮れる日本型左翼運動が台頭する事態となった。福本イズムの怨霊が若者達の生き血を求めたのだとも。

http://ks.c.yimg.jp/res/chie-que-13103/13/103/867/683/i320

③その一方で「日本の資本主義は良くも悪くも日本独自のシステムであり、今後何があっても変わらない」なる信念が芽生え、これが容易に正反対の「熱烈な天皇主義」に転換可能だった事から転向者が続出した。それで「大東亜戦争肯定論」を著した林房雄、元共産党幹部の佐野学や鍋山貞親(1933年、獄中において共同で転向声明「共同被告同志に告ぐる書」を発表。その中で「ソ連の指導を受けて共産主義運動を行うのは誤りであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動(一国社会主義運動)を行うべし」と主張して釈放を勝ち取った)。こうして日本型社会主義は左翼陣営ばかりか右翼陣営にまで及んでいくのである。

全学連の登場と日本共産党との決別

その誕生の景気はGHQの打ち出した国立大学の地方自治体委譲案、また反対を受けての代案である大学理事会法案、国立大学の授業料3倍値上げ間に対する抵抗運動だった。

1948年6月1日、こうした案に反対する5000人が日比谷音楽堂に集まり、「教育復興学生決起大会」を開き、デモを決行。また全国官公立大学高等自治会連盟が結成され、一斉ストライキを決議、私学系もこれを支援し、全国で114校でストが行われた。抗議活動はその後も続き、同年9月、全学連全日本学生自治会総連合)は結成された国公私立145校、30万人が参加。本部は東大内に置かれ、初代委員長には東大自治会委員長・武井昭夫が就任している。他の中心的なメンバーには安東仁兵衛、力石定一、沖浦和光不破哲三上田耕一らがいた。当初幹部は日共党員で占められていた。

1956年10月、ハンガリー首都ブダペストでの反政府(反共産党政権)デモが起こり、ソ連が軍事介入(ハンガリー闘争)。日本共産党がこれを支持したことで、全学連や学生党員らが反発。離反の要因のひとつとなる。

1957年1月、元・日共党員らが「日本トロツキスト連盟」結成。10月には「革共同日本革命的共産主義者同盟)」(後に革マル派中核派に分派)に改称する。

1958年12月、日本共産党を除名された全学連主流派の学生党員を中心に「共産主義者同盟(第1次ブント)」結成。

1960年、この年の大会で共産党の方針にあきたらなくなってきた活動家達が事実上離別を果たす。

1959年6月、全学連第14回大会で、ブント執行部・唐牛健太郎が主導権を奪う。唐牛委員長―北小路敏書記長ラインで主流派構成し、安保問題にとりくみはじめた。

60年安保反対闘争では、たびたび警官隊と衝突、国会に乱入、羽田空港座りこみなどの行動を続け、「ゼンガクレン」の名を世界的に知らしめた。

ところが実際に戦後日本を変貌させたのは(セクト争いに勝利さえすれば大衆は勝手に自分達についてくるものと考えていた)彼らではありませんでした(別に思想の左右を問わない)。それを成し遂げたのは良くも悪くもある意味、太平洋戦争に勝利して日本を占領下に置いたGHQだったとされています。

彼らは当時の日本の全体像を俯瞰して「大日本帝國のグランドデザインの間違いは、江戸時代以前の伝統まで遡る"その正しさを誰からも決して疑われる事のない高学歴エリート達が愚民を導く"基本イメージそのものにある」と考え、そして教育制度そのものに不可逆的な形でメスを入れていったのです。発想が根本から違ったのですね。

http://shinhakken-blog.up.n.seesaa.net/shinhakken-blog/image/GHQ.jpg?d=a2

教育基本法(昭和22年法律第25号)

日本は昭和25年(1950年)まで旧制中学まで進級するのが全若者人口のうち1割〜2割、旧制高校を経て大学にまで進級するのが1%未満という超教育格差社会だった。これが2人に1人が進学するほど大学の大衆化の進んだ社会に変貌したのだから動揺がなかった方がおかしい。

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①敗戦後の日本に送り込まれてきたGHQ大日本帝国が超格差社会だったが故に(世界的不況を背景として)社会全体から「学士様」と尊ばれる大卒者でさえ就職出来ない「大学は出たけれど」時代の到来が「とりあえず戦争さえあれば昇進が早まる軍人や政商」を新たな(自分達も目指し得る)政治的エリートとして推戴する軍国主義時代を準備したと考えた。その結果、昭和25年(1950年)に旧制中学や旧制高校は廃止となり、教育の均等性をより高めた所謂「6.3.3制」がスタートする。

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②当時教育を受けた世代は「1%〜20%のエリート」と「80%〜99%の一般人」から構成されていたが、さらに以下の様な世代に分類される。

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◎そもそも曲がりなりにも戦前の安定期に相応の教育を受け、終戦直後の第一次出産ブームに乗じて所謂「全共闘世代」を生み堕とした親世代(現在は90代?)は「政治的エリート」が愚民を善導するのは当然と考えており「聖戦」が敗北に終わっても政治不信を強める事はなかった。しかし、だからこそ逆に昭和54年(1979年)に共通一次試験が導入されるまで「(東大をはじめ旧帝国大学が集中する)1期校に入れなければ、革命でも起こさない限り一生落ちこぼれのまま」という危機感が2期校の大学生の間に蔓延。焦燥感から「よど号ハイジャック事件(1970年)」「山岳ベース事件(1971年)」「テルアビブ空港乱射事件(1972年)」「あさま山荘事件(1973年)」などを次々と引き起こす過激派への人材提供の温床になっていく(現在では60代〜40代)。

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◎一方、戦間期に若者時代を過ごしたせいでロクな教育を受けられず、最前線と銃後で下っ端として酷い目に遭わされ続け、生活不安に明け暮れる終戦直後の焼け跡期に子供を産んだ親世代(現在は80代?)は「(それが学士様だろうが大日本帝国時代の将校様だろうが)政治的エリート」への不審感が強い一方で自分達の子供には真っ当な教育を受けさせてやりたいと考える生活保守派(その自分中心主義故に犯罪率も前後の世代に比べて格段に高い)の温床となった。この傾向はその子供の世代(大衆が新左翼運動に見切りを付け、海外旅行ブームの前史的にカニ族(北海道を巡るバックパッカー)が流行した1970年代前半に青春時代を送り、資質ある人が作家などより官僚や学者や金融損保関係といった手堅い方面に向かった一方で「競争は嫌いだ」などと口にしつつ常に競争してしまう現代の50代)にまで継承される事態となる。

*統計上の数字だけ眺めていると第一次ベビーブーム前後の出生者を「団塊世代」とか「全共闘世代」といったキーワードでまとめて扱えそうな気もするが、いかんせん「大学のマスプロ化」が掛け声だけで完成途上にあった時期に育った人々なので中身はかくのごとしという訳である。

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*こうして全体像を俯瞰してみると、むしろ所謂「毛沢東テーゼ」すなわち「余裕ある金持ちは社会がどうなろうと柔軟に立ち回る。新興階層はかえって体制に従順な生活保守派の温床となりやすい。革命家を輩出するのは常に従来の生活レベルが保てなくなる恐怖に脅える没落層、しかもそれに属する若者層」なる指摘通りなのが興味深い。ちなみに「毛沢東テーゼ」は「生活保守派を革命に有用な没落層に転じさせるには匪賊をけしかけて破壊と殺戮の対象とし守るべき日常生活を奪い尽くしてやれば良い。その後匪賊を討ち果たせば、彼らは歓喜の涙を流しながら革命の戦列に加わるのである」と続く。実際に実践した結果、むしろ八路軍側が匪賊の親玉として現地住人から追放された地域もあったという。まぁ普通はバレるわな。

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ナチスドイツ成立時には未曾有のハイパーインフレ到来によってそれまで資本主義化を支えてきた中間階層全体が没落層に分類される事態となり、しかも第一次世界大戦時に大量の戦死者を出した事からその平均年齢も大幅に下がっていた事から「共産主義化か、あるいはそれに抗し得るだけの強権的な反共保守政権か」しか選択肢のない極端な状況が現出した。

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*こうした先例と比べると当時の学生運動が生活保守派を説得出来る可能性は皆無に等しく、だからこそ革命を志す若者達は焦燥感から高圧的かつ暴力的となり、最終的には過激派に転じていかざるを得なかったのもやむをえない事だったのかもしれない。

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◎そしていよいよ1970年代に入ると高度成長の恩恵がやっと実感される様になった昭和30年代(1955年〜1965年)に生を受け、小学校時代に「エンターテイメント文化の世代交代」を経験し、マスプロ化された中学、高校、大学に通いつつ1970年代後半には第一世代アニメファンやジュネ派といった最初期サブカル層を輩出する真の意味での戦後世代(現在の四十代)が登場してくるのである。
*現代人の感覚からすると、まだまだ前時代のレトリックを引き摺ってたりするのが興味深かったりする。「趣味こそ僕らの世代の主義」だって? 

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いうなれば教育改革によって「大衆はセクト争いに勝利したエリートに勝手についてくる」という前提そのものが、根幹から破壊されてしまった訳です。こうしてやっと私達が知る現代日本が姿を現したという次第。

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ところで19世紀パリにおいても、フローベールが活写した様な「事あるごととに猟銃を手に街頭へ飛び出してきた人々」はほどなく途絶えてしまいます。

まぁどちらもあったのでしょう。そしてサルトルが「合格」の太鼓判を押したエミール・ゾラですら(1887年にパリのオペラ座をモデルに再改装を行い、パリ万国博覧会を参考にした派手なショーウィンドウと大安売りの季節物の陳列で客を呼び込む)ボン・マルシェ百貨店の登場に驚き「消費信者のための消費の大伽藍」を讃えざるを得ない状況へと追い込まれてしまったのでした。

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こうした展開についてフローベールは相当怒っていた様で「感情教育」にはたった一言たりともルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世の名前が登場しません。産業革命が人々の生活を変えていく柚須も一切描かれません。むしろそうしたスタンスの徹底によって「時代を超越して読み継がれる力」を得た感さえあります。小津安二郎タルコフスキーの映画の様に…

さて私達はどちらに向けて漂流しているのでしょうか?