諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「外骨格生物とその中身」の変遷史?

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マックス・ウェーバーの「鋼鉄の檻(Gehäuse)理論」も、ヘルムート・プレスナーの「世俗信仰(Die Weltfrömmigkeit)論」も社会と人間の関係を「外骨格生物とその中身」に例えます。前者は「中身の成長に脱皮が間に合わねば全体として死ぬ」と考え、後者は「外殻は一緒でも、時代遅れになった中身は次々と交換されていく」と考えますが、要するにどちらの発想もマルクスの「上部構造/下部構造」概念のバリエーション。
*考え方によっては「社会なんて(ディズニーランドみたいに)時代遅れになったブロックだけこっそり交換し続けてれば案外回る」と英米人みたいにカジュアルには考えられないドイツ人のメンタル的硬直性の産物ともまとめられそう。

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https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/42/Philipp_Jakob_Loutherbourg_d._J._002.jpg

ヘルムート・プレスナーの イデオロギー懐疑(Ideologieverdacht)論の方のまとめはこちら。世俗信仰(Die Weltfrömmigkeit)論と一緒で出発点は「ルターの宗教改革」とアウクスブルクの和議(Augsburger Reichs- und Religionsfrieden、1555年)による神聖ローマ帝国連邦国家化です。

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しかし実は「ドイツ以北」と「フランス以南」の文化的相違の発生は帝政ローマ時代まで遡るとされるのが一般的だったりするのです。

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もちろんルター聖書の普及がドイツ語圏に共通文語をもたらしながら、それに政治的宗教的経済的統一が伴わなかったのは確かに問題ですが、ここでもう一つの重要な相違点が浮かび上がってきます。フランスが「ラテン化」によって帝政ローマ時代以前のゲルマン民族の伝統から決別したのに対し(むしろそれ故に)ドイツ語圏では「ゲルマン民族アイデンティティ」への執着心が残ってしまったのです。同様に「ラテン化」しなかったブリテン島は何とかこの問題を乗り越えてますから、別にそれだけで何かが確定するわけじゃありません。しかし中世までは欧州全体で共有されていた普遍史観にゲルマン神秘主義が深味を加え、それ故に英国の経験主義哲学やフランスの啓蒙主義に食指が動きにくい状況が生まれてしまったのは大きな問題となりました。

  • 普遍史観(universal history)
    叙述の対象を全世界にまで拡大して人類創世から同時代にいたる人類史を叙述する類型のこと。キリスト教世界においては聖書が叙述する内容に基づくキリスト教的史観から構成された世界史であり、天地創造に始まり最後の審判で終わる、未来をも含む有限の時間軸を範囲とし、空間的にはすべての世界を含んでいる。そこには目的があり、神による人類の教育と、その結果もたらされる救済に至る過程が骨格を成している。中世ヨーロッパまでは正しい歴史記述と広く認識されていたが、大航海時代啓蒙思想そして科学の発達などを通じて矛盾する要因が数多くもたらされ崩壊を迎える。しかし美術や文学などの芸術分野や哲学といった思想分野にも大きな影響を残した。
    *この歴史観領主が領民と領土を全人格的に支配する農本主義的伝統の裏付けとしての国王と教会の権威の源泉にもなっていた。また、またヘルムート・プレスナーは「中世の闇がルネサンスの照明によって吹き払われ、世界中に散らばる全ての知識が統合される啓蒙主義の時代が始まった」とする啓蒙主義史観にもこの普遍史観の余波を指摘している。この考え方を源流として欧州中心史観が発生し「ルネサンスの照明に浴した欧州人は、それに浴していない他民族と他国を全人格的に代表して良い」という発想に至ったとする考え方もある。
    普遍史 - Wikipedia
    http://www.updateordie.com/wp-content/uploads/2013/10/mapsync.jpg
  • ゲルマン神秘主義(German Mysticism)

    12世紀から13世紀にかけてイングランドや北フランスの迫害を逃れた南仏に逃げ込んだユダヤ人達が編み出したカバラ(קַבָּלָה qabbalah, Kabbala, Cabbala、ユダヤ神秘主義)などの影響を色濃く受けつつ、14世紀にケルンなどのラインラント(ライン川流域)で発祥。ただその秘教性故におもにドミニコ会士マイスター・エックハルトMeister Eckhart、1260年頃〜1327年/1328)の影響が強いとされるが、エックハルトの直接の弟子であったヨハネス・タウラー(Johannes Tauler、1300年頃〜1361年)やハインリヒ・ゾイゼ (Heinrich Seuse、1295年/1300年〜1366年)を除けば、はっきりとした思想的系譜ではなく、むしろ個別に発生したゲルマン精神の霊的流れを総称する文脈で使われることが多い。エックハルトの同時代にはベギン会、自由神霊運動などがあり、これへの影響も指摘されている。またヒルデガルト・フォン・ビンゲンのような女性の瞑想家もドイツ神秘主義に含むことが多い。そもそもイタリア・ルネサンスには古代ギリシャ・ローマ時代にまで遡る異教秘儀の再評価という側面があり、カトリック教会内に起原を持つにもかかわらず、ルター派の一部にも強い影響を与えたとされる。
    *「医化学の祖」とされるパラケルスス(Paracelsus)ことテオフラストゥス・(フォン)・ホーエンハイム(Theophrastus (von) Hohenheim、1493年〜1541年)もゲルマン神秘主義形成に重要な足跡を残したが、スイス人たる彼もまたユダヤ人同様に「領主が領地と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」とは無縁な存在だった。そのパラケルスはルターの事を「私をあんな下らない異端者と一緒にするな」と見下していたという。「真に世界を理解しているのは自分達だけ」という神秘主義的優越感の原風景として興味深い。
    ドイツ神秘主義 - Wikipedi

    http://www.ritmanlibrary.com/wp-content/uploads/2011/12/banner-mysticism1-page1.jpg

そしてここからが肝心。ヘルムート・プレスナーマックス・ウェーバーとは逆にルターが世俗の職業(Beruf)を神の思し召し(Berufung)とする事で宗教的生活と世俗的生活の間に親密性(Innigkeit)を樹立してしまった事を問題視します。その結果ドイツは「宗教的と見えるものが世俗的で、世俗的と見えるものが必ずしも世俗的でない」混沌が日常化。その結果、フランスや英国ではカトリシズム(国王と教会の権威を背景に領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統)がプロテスタント啓蒙主義と激しい衝突を繰り返数値に新たな妥協点を探り当てましたが、そうした展開が起こらなくなってしまったというのです。「すなわち教会から自由になる時期が早すぎた為に、宗教的拠り所を求める気持ちだけが、宗教自体が力を失った時代にも残ってしまった」それがドイツ人の世俗信仰(Die Weltfrömmigkeit)正体であり、ドイツ人の不幸の源なのだと。これがヘルムート・プレスナーの主張の骨子です。

塩野七生「神の代理人(1975年)」はドイツ宗教革命勃発を「ルネサンス期ローマ教会の世俗君主化に対する抗議を込めた反動運動」として描いたが、ドイツ農民戦争(Deutscher Bauernkrieg、1524年〜1525年)を見殺しした事によって「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」の維持を至上命題とするドイツ領主層の間に宗派の枠組みを超えた新たな形での妥協の余地が生じ、アウクスブルクの和議(Augsburger Reichs- und Religionsfrieden、1555年)に行き着いたと考えると景色的にほぼ一致する。

マックス・ウェーバーは「カルヴァン主義こそが資本主義の出発点となった」と必死に結論づけようとしましたが、ヘルムート・プレスナーの観点からすれば「カルヴァン主義はドイツに根付かなかった。従ってドイツの資本主義化は遅れてしまったと信じ様としたに過ぎない事になってしまいます。

  • カルヴァン派プロテスタントさえ居つけば資本主義化のプロセスが勝手に始まるなら、フランスからまとめて大量に追放されたユグノーの受け入れ先となった時点でドイツでも始まってしかるべきだった。

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  • イングランドは国教会設立によって、フランスはガリカニスム(Gallicanisme)によってローマ教会から適切な距離を保つ事に成功しただけでカトリシズムと全く無縁の国に変貌した訳ではない。そもそも普遍史観の護持者としてのカトリシズムの崩壊は14世紀まで遡るローマ教会の領主化にまで遡る。それを再建せんとするハプスブルグ家の野望も宗教戦争の時代を経て潰えている。プロティスタンティズムは逆にスコットランド啓蒙主義/経済哲学を粛清によって根絶やしにしたりと反動的足跡も残している。

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  • 17世紀から18世紀にかけては啓蒙哲学と並んで経済学が発展した時代だったが、それにはハプスブルグ帝国の手で一時的にスペインの支配下から脱したナポリ王国も参加していた。その影響はフランスの新コルベール主義だけでなく、神聖ローマ帝国支配下の領邦国家を預かる家臣達の官房学(Kameralwissenschaft、Kameralismus)にまで及んでいる。

    cruel.org

そこでヘルムート・プレスナーは「領邦国家化そのものがドイツの政治的、経済的、宗教的発展を妨げた」という考え方に至る訳です。

  • 日本の幕藩体制も戦国時代が終わったばかりの時点では同様の状態にあった。ただし参勤交代の為に交通網が整備され、全国の富商や富農がこれを介して結びついて株仲間を形成し、およそ百年の歳月を費やして大名と癒着する御用商人達を殲滅し「各藩ごとの自律経済」を破壊し尽くしてこの状態を解消。
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  • イングランドイングランドでノルマンコンクェスト以降、所領が細分化されすぎたせいで「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」が築かれる可能性そのものが最初からなかった。代わって地主と現地を耕す小作人と両者を統合する土地経営者が分化し、効率の追求が最優先課題となったとされる。

ドイツではこれが起こらず、それが近代化の障害となったとするヘルムート・プレスナーの説は、マックス・ウェーバーの説より日本人の心にしっくりくるとは思いませんか?
*マックスウェーバーが「資本主義の創始者」と信じたかったタイプのプロテスタンティズムが、実際には近代化に失敗してただ消滅していっただけに過ぎなかった実例としては17世紀から19世紀初頭にかけて栄えた捕鯨産業が有名。その偏狭なまでの反知性主義が最初こそ成功を切り拓く鍵となったが、最後は全員を破滅に導く碇へと変貌していく様子がメイヴィル「白鯨(Moby-Dick; or, The Whale、1851年)」のモデルとなった「エセックス号漂流事件(1821年)」に取材したナサニエル・フィルブリック「白鯨との戦い(In the heart of sea、原作2000年、映画化2015年)」には克明に描かれている。

こうした状況にあったドイツ語圏で最初に開花したのは(宗教の代替物として発生した)音楽と哲学でした。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/48/Arts_and_the_Muses_by_Pierre_Puvis_de_Chavannes.jpg

ドイツ音楽の台頭

ようやくドイツ的運動の時代(1770年〜1830年)が訪れた。貴族文化の後ろ盾なしに思想家が民衆の中から登場した。読者こそ持てるが社会的特権など与えられるはずもない孤立した人々だった。しかし内容からいっても語りの型からいっても、社会に認められた洗練された言葉を駆使して組み立てる近代小説の発展は望めない状況だった。それを用意してくれる筈の社会自体がまだ存在していなかったからである。彼らの内面化と主観的精神化を支え、展開させ、発展させ得る舞台は音楽の世界だけだった。言語表現も視覚表現も伴わず、それまで教会の慣習や規律に長い間拘束されてきたからこそ「解放」の余地に溢れていた。だからこそ、それは彼らの「語り」にとって天与の遊戯空間となり得たのである。

ドイツ哲学の黄昏

他に至高の価値判断基準が存在しなかった古代ギリシャ時代ならともかく、哲学というのはその役割からしてまるで王にも似た地位を自負し、相応の権利を主張する割には単独で自立している訳では決してない。教会が支配した時代の哲学は神学の婢(ancilla theologiae)だったが、ルネサンス宗教改革以降は科学の婢(ancilla scientiarum)へと変貌した。神という宗教権威が絶対視されていた時代には、諸学問との関係もせいぜい世界像の推移や観点の変化といった程度で済んだし、それが根底から崩れた17世紀から18世紀にかけてなお信仰や国家の側からの束縛は強かったので、すでに始まりつつあった意識の解放が実社会まで及ぶのは阻まれ続けてきた。しかし経験科学の登場によって状況は一変する。哲学は失われた宗教的権威の代替物と認められ、実社会に影響を与える事を阻む障害も取り除かれたのである。その一方でドイツ民族は国家や学問といった世俗的諸力については深い権威崇拝の念を保ち続けた。まず最初に発達したのは言語学や古典学やドイツ学といった歴史文化方面の諸学だったが、すぐに専門ごとの細分化によって当初の秋大な指導的パースペクティブを喪失し、国民経済学と社会科学にその思弁性と宗教性を譲り渡してしまう。一方当時は進歩を自覚した実証主義ダーウィン主義、進化論の全盛期であり、こうした遺伝生物学的パースペクティブも次第に重ねられ、人種生物学や先史研究や人類学といった頽廃した生物学の思考様式がその中心を占める様になっていく。こうして学問の専門化が進んで最後の活動領域まで奪い尽くされた哲学が今日なお存続しているのは、何よりもまず自らの不必要性との闘争を戦い抜かねばならない状況に追い込まれたからであり、かつまたかつて世俗信仰の一端を託された事もある実績ゆえである。そして形而上学への撤退か、経験科学への解体を迫られると批判任務に立脚する存続という第三の選択肢を「発見」するのである。
*本文は「以前のいかなる時代にも哲学がこの様な戦いを強いられた事はなかった」と続くが、実は意外とそうでもない。イスラム文化圏においてスーフィーイスラム神秘主義者)にして大法学者のガザーリーに睨まれたアラビア哲学、朝鮮朱子学の完成者宋子に睨まれた朝鮮性理学などがその実例だが、これらには党争などの「政治的」要因も絡んでいる。「単純に比較出来ない」と言われたらそれまで?

どちらも「一般人に広く訴えかける形で言語化される事はなかった(というよりむしろ、秘儀牲を高める為に一般人には理解不能な韜晦な表現形式が目指された)」点が問題だったとヘルムート・プレスナーは指摘します。とはいえ当時「誰にでも分かる言葉で読者や視聴者に訴えるかける」事に何の価値も存在しなかった事実もまた認めざるを得ません。

  • 17世紀における歌謡の世界は伝統ある老舗イタリアの言葉、文芸の世界は1635年にアカデミー・フランセーズ(l'Académie française)を創立し自国語の洗練を図ってきた大国フランスの言葉に独占されていた。そして哲学にはまだ輸出需要が存在していなかった。

  • ドイツから追放されてフランスへのドイツ文化紹介者となった詩人ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine, 1797年〜1856年)も皮肉たっぷりに「ドイツでは誰が読んでも意味が分かる文章を書いて人に影響を与えるとすぐ官警に難癖をつけられて逮捕されてしまうし、誰が読んでも意味が分からない文章しか発表しないと敬意を集めやすい」なんて述べている。

  • その一方で当時のドイツ人の大半はまだまだ「領主が領民と領地を全人格的に代表する農本主義的伝統」の枠組みに安住しており好奇心が恐ろしく低かった。この現実を生き延びる為には従来通りパトロンにすがるしかなかった一方で、間違っても当局を敵に回す事は出来なかった。
    *(ヘルムート・プレスナーの指摘とは異なり)初めてパトロンに頼らず市場に依存して生計を立てる事に成功したのはベートーヴェンLudwig van Beethoven、1770年〜1827年)といわれている。ちなみにその父は無類の酒好きであったため収入が途絶えがちだった上に息子の才能を当てにして虐待とも言える苛烈なスパルタ教育を施した。「巨人の星星飛雄馬の父星一徹のモデルである。考えてみれば「巨人に入団しろ」と育てられ、そのまま巨人に入団した星飛雄馬より「金持ちのパトロンを見つけろ‼︎」と育てられ、自活の道を切り開いたベートーヴェンの方が人間としてレベルが上?

    http://ks.c.yimg.jp/res/chie-ans-328/328/084/678/i320

これではカント(Immanuel Kant、1724年〜1804年)の残した「純粋理性批判(Auflage der Kritik der reinen Vernunft、1787年)」「実践理性批判(Kritik der praktischen Vernunft、1788年)」「判断力批判(Kritik der Urteilskraft、1790年)」も、ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel、1770年〜1831年)の残した「精神現象学(Phänomenologie des Geistes、1807年)」「大論理学(Wissenschaft der Logik、1812年1816年)」「エンチクロペディー(Enzyklopaedie der philosophischen Wissenschaften、1817年、1827年1830年)」「法哲学(綱要)(Grundlinien der Philosophie des Rechts、1821年)」がその韜晦な表現故に難読書中の難読書として知られる事になってしまったのも仕方がありません。まずはこれが原風景となります。

*当時のドイツはランツクネヒトの様な精強な傭兵の供給国でもあったので、剣術指南方面でもその名を知られていたが、状況はほぼ同じだったというのが興味深い。
J.S.バッハの信仰とドイツ神秘主義

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 こうした閉塞感を打破したのは、一般にヴォルフガング・アマデウスモーツァルトWolfgang Amadeus Mozart、1756年〜1791年)とされています。

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実際逸話には事欠きません。

  • フランス以外の全ヨーロッパの音楽界を牛耳っていたナポリ派の巨匠ハッセ(Johann Adolf Hasse、1699 年〜1783年)が晩年15歳の彼に演奏会で完敗して「この子は今に我々みんなを忘れさせてしまうだろう」と予言した。

  • 手紙の中でわれわれドイツ人が、ドイツ風に考え、ドイツ風に演技し、ドイツ語で語り、ドイツ語で歌うことを今やっと始めたのだとすると、それはドイツにとって永遠の汚点となるに違いない」と宣言した。

  • フリーメイソンのパトロネージを受けており、作中にフリーメイソン的比喩を盛り込んだ作品も残した。

そのさらなる背景に外交革命(1756年におけるフランス王家とハプスブルグ家の歴史的和解)を契機とするパリの宮廷文化とウィーンの宮廷文化の接近を見てとる向きもあります。

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正直「パリの宮廷文化にウィーンの宮廷文化が与えた影響」についてはマリー・アントワネット王妃を介した影響に集約してる感が強いのです、しかその逆はもっと広範囲、というよりむしろ宮廷外に広がっていきました。

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ドイツ語オペラ

17世紀後半になると(ルイ14世が1669年に設立を許可した音楽アカデミー(Académie de musique)がガルニエ宮オペラ座)を本拠地とする様になったり、1680年にパリのゲネゴー劇団(Hôtel de Guénégaud)とブルゴーニュ劇団(Hôtel de Bourgogne)の統合を命じて王立コメディ・フランセーズ劇団が設立された影響で)ドイツ語圏各地に宮廷劇場ができるが、1678年に三十年戦争(1618年 - 1648年)の影響が少なかったハンブルクに公開オペラハウスが建設されると、ドイツ人作曲家によるドイツ語オペラが数多く上演されるようになった。

ジングシュピール(Singspiel)

18世紀後半に入るとフランスのオペラ・コミックやイギリスのバラッド・オペラを翻訳した旅芸人の公演の流行を皮切りに喜劇的な内容を持ち、レチタティーヴォの代わりに台詞を語る国民人気も高いジングシュピールSingspiel)が誕生。この様式はヒラー(1728年〜1804年)によって完成され、その後ハイドン(1732年 - 1809年)やディッタースドルフ(1739年 - 1799年)によって音楽性が高められ、モーツァルト(1756年 - 1791年)がドイツ語オペラとして完成させたとされる。中でも歿年に発表された「魔笛(Die Zauberflöte、1791年)」は、ジングシュピールの様式による非常に優れた作品である。それまでのジングシュピールが台詞による劇の進行のところどころに歌を配した文字通りの「歌芝居」である傾向が強いのに対し、モーツァルトがウィーン時代の初期に作曲した「後宮からの誘拐(Die Entführung aus dem Serail、1782年)」は、すでに堂々たるオペラになっている(音楽が主、語りが従)。伝えられる逸話によれば、上演に接した神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世はモーツァルトに対し「音符が少々多い」と感想を述べたところ、彼は「音符はまさに必要なだけございます」と答えたという。真偽はともかく、このジャンルに対する一般の認識と、作曲者の対抗心が対比されており興味深い。そのモーツァルトも、残した作品の比率としてはイタリア語作品が多くを占めるが、様式的にもイタリアオペラの伝統とは異質なこともあり、今日ではこれらもドイツオペラの枠で論じられることが多い。しかし「ドン・ジョヴァンニ(Il dissoluto punito, ossia il Don Giovanni、1782年)」は初演後100年間でドイツ圏での上演6600回に対しイタリアでの上演は200回弱にすぎず、「コジ・ファン・トゥッテ(Così fan tutte、1790年)」に至っては1816年から126年間、フランスの劇作家ボーマルシェが1784年に書いた風刺的戯曲を原作とする「フィガロの結婚Le Nozze di Figaro、1786年)」も1815年から20世紀まで、総本山ミラノ・スカラ座で一度も上演が行われないなど、イタリア人はこれらの自国語作品を殆ど受け入れようとはせず影響も受けなかった。

この時代はルソーの影響を受けたゲーテフィヒテが活躍した疾風怒濤期(Sturm und Drang)とも重なります。秘教主義の起源もスイス人でしたが「古典主義や啓蒙主義に異議を唱え、理性に対する感情の優越を主張したロマン主義の源流」とされるこの運動の起源もまたスイス人…

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ゲーテの「若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers、1774年)」の流行は自殺者を急増させましたが、それは社会的同調圧力が全てを律する「領主が領民と領土を全人格的に代表する農本主義的伝統」の下においては、それだけが(奴隷と同様に)個人が私的体験として選び得る唯一の選択肢だったからとヘルムート・プレスナーは指摘します。フランス革命が勃発するとこれに「社会全体の転覆」という新たな選択肢が加わりました。しかし文芸活動としてのロマン主義運動は(そういう成功の見込みのない暴挙より)タナトス(Thanatos、死への誘惑)そのものに魅せられていきます。容赦なく殺し殺される山賊や海賊の生活、肺病による死、神経質が極まった末の発狂、清純な乙女に突然襲いかかる理不尽な暴力…「本当は恐ろしいシューベルト歌謡」の世界です。

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日本でも近松門左衛門(1653年〜1725年)の心中物の人気が自殺者を急増させましたが、その人気は「死が二人を一緒にする事(出来るだけ個性的な死に方をして死後も長らく騒がれたいと自殺方法も色々工夫された)」に加え、その二人が最後の瞬間まであちこち逃げ回る場面に支えられていたのです(それで別名が「道行物」)。
*江戸期日本にその後未曾有の観光ブームが訪れたのは決して偶然ではない。

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絶対王政下フランスで流行した「軍隊や教会に押し込められた次男坊以下が、政略結婚に使われず修道院に押し込められた娘を攫って駆け落ちする恋愛物」もまたイタリアに逃げ込無のが常で、そこからはイタリア観光物に変貌。このフォーマットは律儀にマルキ・ド・サド作品にも踏襲されます。もしかしたら発想がこうしたロード・ムービー方面に向わない辺りも、ドイツ・ロマン主義の閉塞感というべきかもしれません。ナチスが政権を獲って真っ先に力を入れた政策の一つが「(生まれてから一度も生まれた土地を一歩も出ずに死んでいく前近代的国民を殲滅する為の)慰安旅行の大規模実施」だったのは決して偶然ではないでしょう。「それがドイツを駄目にした!!」という意識が強く存在した証拠といえそうです。

*欧州でアンデルセンの「即興詩人(Improvisatoren、1835年)がベストセラーとなったのも決して偶然ではなかった。

むしろロマン主義自体より、こういう話こそが各国の「ロマンス」概念の起源とも?

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実際ヘルムート・プレスナー自身も(外国を知らないが故の)理不尽な外国嫌いを当時のドイツ民族の欠陥の一つに挙げています。外国との関係というと、真っ先に思い浮かぶのが、ゲルマン諸族がローマ軍団を破ったトイトブルク森の戦い(羅: Clades Variana、ドイツ語: Schlacht im Teutoburger Wald、紀元9年)、カール大帝ザクセン併合(Sachsenkriege、772年〜804年)、宗教戦争、対ナポレオン戦争あたりだというのですから、下手な鎖国時代の日本よりよほど重症。「事あるごとにローマへの怨念が燃え上がる」という表現を見ていると、ランツクネヒトが嬉々としてローマ略奪(Sacco di Roma、1527年)を遂行したという話もさもありなんという感じもしてきます(ハイネも「中身はカール大帝に討伐された当時のザクセン人そのまま」と嘆いている)。

*ワールシュタットの戦い(蒙: Легницийн тулалдаан、波: Bitwa pod Legnicą、独: Schlacht bei Liegnitz、またはレグニツァの戦い、1241年)やオスマン帝国地の戦いがここで挙がらない辺りが興味深い。おそらく当時のドイツ人の想像力の中でモンゴル帝国オスマン帝国は「外国」の範疇に含まれていなかったのであろう。

こうしたドイツでの動きがフランスに伝わっていわゆる政治的浪漫主義運動が始まる訳ですが、疾風怒濤期の熱狂がそのまま伝わった訳ではありません。「狂詩人」ネルヴァルが翻訳してフランスの若手芸術家の間にセンセーションを巻き起こしたのは以下の様な作品でした。

  • ゲーテJohann Wolfgang von Goethe、1749年〜1832年の「ファウスト(Faust、第一部1808年、第二部1833年)」。すでに古典期に入りロマン主義運動とは距離を置いていた。
    *ワイマール公国宰相としてロマン主義者を優遇していた事が評価を上げたとも。

  • E.T.A.ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann, 1776年〜1822年)の「夜曲集(Nachtstücke、1817年)」や「ゼラピオン同人集(Die Serapionsbrüder、1819年)」など。特に「夜曲集」収録の「砂男(Der Sandmann、バレエ「コッペリア(Coppélia、1870年)」原作」、「ゼラピオン同人集」収録の「スキュデリ嬢(Das Fräulein von Scuderi、ルイ14世時代の連続強盗殺人事件を扱った最古の推理物の一つ)」「くるみ割り人形とねずみの王様(Nußknacker und Mausekönig、1816年、バレエ化1892年)」は有名。当人はドイツ的伝統に従って自らを音楽家としか考えておらず(それで名前に「アマデウス」が入っている)フーケ「ウンディーネ(Undine、1811年)」を1814年にオペラ化した事を人生最大の仕事と考えていた。ちなみにベートーヴェンLudwig van Beethoven、1770年〜1827年)もロマン主義派の仲間に加え様と勧誘したものの、向こうから断られたという逸話も残す。小説家としては自動人形に対する神経症的恐怖や自分の作品に執着する宝飾職人の暴走といった異常心理を描くのを得意とし、森鴎外によって初訳され江戸川乱歩などの怪奇系作品に大きな影響を与える。
    *晩年(1819年〜1822年)に反逆罪で起訴された「ドイツの体操の父」フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーン(de:Friedrich Ludwig Jahn)を擁護して自らも逮捕されかけた事が義挙として礼賛された。

  • ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine, 1797年〜1856年)の詩集。問題発言でドイツを追放され、パリに流れ着いてネルヴァルの友人となった。ユダヤ教徒として生まれカソリック教徒として死んだ人物らしく(プロテスタントの)オランダ人には好意を持っていなかった様で「彷徨えるオランダ人(Flying Dutchman))」や「古代ギリシャの神々を孤島に置き去りにしたオランダ商人」といったオランダ人に酷い役割が振られた伝承を好んで収集して記録に残した。
    *まぁ政治的亡命者というだけで英雄?

一方、当時のフランスにはE.T.A.ホフマンと作風が近いメリメ(Prosper Mérimée、1803年〜1870年)がいて、後世においては(政治的浪漫主義者結集の契機となったユゴーの戯曲「エルナーニ(Ernani、1829年)」より有名になってしまった「カルメン(Carmen、1847年)」や、近代狼男譚の起源となる「熊男(Lokis、1870年)」を残しましたが、官僚と二足草鞋だったせいか政治的浪漫主義者達との間には何の接点もなかった様です。これではドイツ・ロマン主義とフランス・ロマン主義の連動性が皆無なのは認めるしかありません。

*そもそもラテン化の過程で古代まで遡る伝統を失った北フランス人は、その欠損を絶えざる文化輸入によつて補ってきた。南仏からはウェールズブルターニュに伝わるアーサー王伝説を含む騎士道吟遊詩を、イタリアからはルネサンス文化を、(十字軍運動で縁深い)シリア移民からは千夜一夜物語をそれぞれ輸入してきて、これを材料に大胆なアレンジを加える事で自文化を構築してきたのである。今更輸入元にドイツが加わってもどうという事はなかったと思われる。

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しかしその一方で(というかむしろ外国での動きへの対抗上)ドイツロマン主義は「(民族ナショナリズムを高める為に)自らの民族として起源を探す」方向にのめり込んでいきます。こうした流れの果実の一つがワーグナーのロマンティック・オペラや楽劇。ところがこちらの方は(フランスの政治的ロマン主義運動と異なり)互いの連携が見事です。

  • 「ドイツ史の父」ヨハン・グスタフ・ドロイゼン(Johann Gustav Droysen,1808年~1884年)アレクサンドロス大王以後の時代について「ヘレニズム」と呼ぶ事を提唱した実績で知られる歴史学者でギリシャ史を研究し「アイスキュロス悲劇集(Tragödien 1832年)」において「プロメテウス四部作」を完全複刻。ワーグナーなどに大きな影響を与えた。その一方で祖国プロイセンへへの熱烈な愛国心も備え、自らの歴史研究もプロイセンドイツ統一の義務に目覚めさせる為の啓蒙活動の一種と捉えていた。
    *とはいえドイツ人が突如「我々の先祖はギリシャ人。何としても当時に回帰する!!」と思いつめて努力しても悲劇が生み出されるだけ。実際ボロボロになって抜け殻状態になり果てるのがオチで、その過程を描いたのが最初期の教養小説(Bildungsroman)という事になる。「フランダースの犬」が悲劇的結末を迎えるのも、こうした系譜の末端に位置しているから。ノヴァーリス青い花(Heinrich von Ofterdingen、1801年)」は違うという意見もあるが、あれは「苦行」が始まる前に作者の方が先に死んでしまっただけである。
    132夜『青い花』ノヴァーリス|松岡正剛の千夜千冊

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  • ゲッティンゲン七教授事件(1837年)に連座したグリム兄弟(独: Brüder Grimm)…疾風どどう運動の提唱者であったヘルダー自らが「民謡集(1778年〜1779年)」を編纂したのに倣ってヘッセンユグノー末裔などに取材してグリム童話(Grimms Märchen、1812年初版第1巻、1815年初版第2巻)を編纂。また「ニーベルングの指環(Ein Bühnenfestspiel für drei Tage und einen Vorabend "Der Ring des Nibelungen"、作曲1848年〜1874年)」の元話となった「ジークフリートの死」伝承の提供者でもあった。
    *ちなみにユグノーの末裔の伝承にはシャルル・ペローの童話も含まれていた。その意味ではドイツのメルヒェンの起源はフランスのフェアリーテールだったりもする訳である。

  • ハイネ(Christian Johann Heinrich Heine, 1797年〜1856年)…亡命後も独自に物語収集を続けただけでなく「古代ギリシャローマ神話の神々が巨大化したり小人化したりして北欧神話の巨人や妖精達の起源となった」といった推察も行い柳田國男民俗学に影響を与えている。「彷徨えるオランダ人(Der fliegende Holländer、1843年初演)」に元話を提供したが、バリエーション豊富な「タンホイザー(Tannhäuser)」伝承も集めていた。

こうして生まれたワーグナーのロマンティック・オペラや楽劇ですが、しかし社会にどう影響を残したかは大変評価が難しかったりします。確かにチャイコフスキーの様な追随者は次々と現れました。パトロンバイエルン王ルードウィヒ2世なら無条件に喜ばせました。しかし当時ブルジョワ婦人達が世界初のファンクラブを結成した「リストの超絶技法」ほどの大衆人気を勝ち得た証拠は何も残っていないのです。
*ドイツ人男子がハリウッドで最初に射止めた当たり役も(人間の言葉などまともに話せない)類人猿ターザンだった。女子はサイレント時代にヴァンプ(毒婦)役をほぼ席巻した後、トーキー時代に入ると一斉消滅。ドイツ人を束縛する「言葉の壁」問題はそこまで祟り続けたのだった。

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そもそもフランスでもロマン主義運動は大衆から乖離してました。

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例外中の例外がバレエ・リュス(Ballets Russes、1909年〜1929年)の国際的成功。ただし天才振付け師にして舞踏家だったニジンスキーや作曲家ストラヴィンスキーの個人的人気、「庶民初のパトロン」ココ・シャネルのパトロネージなどに帰して済ます流れもあるから要注意。とにかくこのバレー団がロマンティック・バレー「ジゼル(Giselle、1841年)」の脚本も手掛けたゴーチェの作品、マラルメ象徴詩などをテーマとするバレエを踊った事こそロマン主義運動の最終到達点だった事を忘れてはいけません。ただしそれはあくまで彼らにとってはフランスの観客の視線を集める為の前座の様なもの。実際、やがて彼らは「ロシア人によるロシア人の為のロシアのバレエ」を踊り始めます。
*ちなみにラフカディオ・ハーンは、国際的にはゴーチェ作品の英訳で文学史上に名前を残してたりする。コズミック・ホラー創始者ラブクラフト当人が「ラフカディオ・ハーンなしにクトゥルフ物なし」と断言していたりする。

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一方、当時のドイツ社会では世俗信仰に思いもかけぬ変化が訪れ様としていました。

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678夜『ビーダーマイヤー時代』マックス・フォン・ベーン|松岡正剛の千夜千冊

ビーダーマイヤー(Biedermeier)時代はぴったり王政復古期のことで、ウィーン会議の1815年から三月革命の1848年に至る33年間をさしている。日本でいえば文化文政期というようなものである(実際にもその時期にあたる)。ドイツの歴史ではメッテルニヒの時代ともフランクフルト連邦会議の時代ともいえるのだが、ビーダーマイヤーがもともとは「愚直な奴」という意味であるように、ドイツの家庭が簡素・朴直・平凡の中にあって、徒らに虚飾に走ることを堪(こら)えていた時代だったので、そういう生活文化の時代感覚をあらわす用語となった。

フォン・ベーンの600ページにおよぶ記述にしたがって順に選び抜いていくことにするが、まずもって、これまでドイツ人が頑なに重視してきた宗教事情は、この時期にいっさいの神秘性と魔術性を失っていた。宗派間の議論は絶え、プロイセン国王はカトリックプロテスタントの合同会派をつくろうとさえしていた。しかしその「寛容」はあっけなく崩れていったのである。フリードリッヒ・ウィルヘルム4世は保守的なルター派正当主義を奉じ、ついにドイツの宗教文化を根こそぎにありきたりな、退屈なものにしていった。愛国心も、この時期は単なる体制擁護の便利なキャッチフレーズで使われるだけとなっている。
 
フォン・ベーンが次に指摘するのは、ジャーナリズムのいかがわしい「匿名批評性」と市民による「教養願望」の盛行と「コピー文化」の隆盛である。新聞は匿名のときにのみ時代を罵り、町では公開講座の花が咲き、ヘタウマめいた特有の文体がもてはやされて、古典的な様式はことごとく失われていった。建築建材で使われるのは模造素材ばかりなのである。

いまの日本がそうであるように、大学の質は最低のレベルまで落ちていた。しかしながらだからこそ、ビーダーマイヤー時代は初めて書店が町にいくつも登場し、銅版画がリトグラフに生まれ変わり、肖像画が写真に飛び移っていった時代でもあった。

いわば「思索の価値」よりも「展示の価値」が勝った時代なのである。

それゆえせっかくの書物と書店の爆発は、ただちにヴィジュアルな絵入りや挿絵や写真に覆われて、はやくも活字文化の曲がり角が伝統派の知識人によって懸念されたのだった。

こういうときは、むしろポップスが流行するものである。やっとドイツ語で日常会話することのほうに関心が進んだのも、その傾向のひとつなのであろう。それゆえ音楽という音楽はポップで気分のよいディレッタンティズムに二日酔のような感覚の背中を押され、家庭でも公共の場においてもやたらに流行した。ピアノが家庭に普及したのはビーダーマイヤー時代の貢献である。そうしたなかでフランツ・リストは英雄扱いさえされた。

では、民衆は何を喜ぶかといえば、家庭では質素にしている代わりに、賭博ができる温泉、クリスマスは賑やかに飾る菓子屋をいそいそと訪れ、すぐに平均値が獲得できる無印良品めいた国民服を着たり、男たちは髭と帽子を凝り、女たちは「豪華と流行」などの服飾雑誌を眺めるのを趣味とした。

とくに男たちが額からこめかみにちょうどかかるように巻き毛を垂らすのを得意がっていることと、女たちが袖をどんどんふくらませてその具合を気にしていたことを、フォン・ベーンは皮肉に描いている。

 その一方でドイツ臣民は「外国とか危険思想とか得体の知れない危険から守ってくれる」官僚や警官や軍隊には従順に従った、とヘルムート・プレスナーは指摘します。むしろこの大多数の均質さゆえに、それに溶け込めない異端分子は否応なく目立って容易く摘発され、その精神的孤立ゆえに過激化していったとも。バクーニンに乗せられてドレスデン蜂起(1849年)に参加したワーグナーも、そうした意味で過激化した孤立者の一人でありました。とにかく彼は自分が発明でいた新しい音楽性が聴衆に受けないことに事に物凄く腹を立て、それを社会のせいにしたがっていたのです。これぞまさに政治的浪漫主義者の典型例…

*おそらく当時のワーグナーの目には当時のドイツ臣民達の姿が「ラインの黄金(Das Rheingold、作曲1854年、初演1869年)」に登場する「黄金の指輪の力で隷属させられた魂なきニーベルング族」や「ヴァルキューレ(Die Walküre、作曲1856年、初演1870年)に登場する「ヴォータンに隷属する魂なきヴァルキューレ達」の様に映っていたのである。後に左翼陣営はニーベルングを「奴隷の様に酷使される労働者達」に擬える様になるが、「ワルキューレの騎行」におけるワルキューレ達の会話の楽しげだが空疎で冷酷な会話を援用するに、もっとおぞましい(だが見た目だけは楽しげな)景色がイメージされていた可能性が高い。

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ナチス・ドイツ時代の宣伝省大臣ゲッベルスは、どうやらこういう余計な心配の一切を権力者に押し付ける無責任さと表裏一体の関係にある享楽的性質こそがドイツ民族の素顔であると見定めていた様です。ビスマルクにもそういう側面があり、だからこそ労働者運動を率いていたラッサールとの間に妥協点が見つかったのでした。

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こうした状況が「社会発展の終着地点」と映ってしまったのがヘーゲルの最終到達地点。その一方で領主が領民と領地を全人格的に代表する農本主義的伝統がそのまま工業化社会や消費者社会にスライドしていく光景を目の当たりにして「人間が普段自由意志と思いこんでいるものは、実は社会の同調圧力によって型抜きされた既製品に過ぎないのではなかろうか?」という疑問を持ってしまい「上部構造/下部構造」の着想を得たのがマルクスの出発地点。これもヘルムート・プレスナーの指摘となります。

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マルクスはこの構造は暴力革命によってしか破壊不可能と考えましたが、同時に機が熟して社会の構成員自らが率先してそれに参加する状況が生まれない限り何も変わらないとも考えていた様です。そして「革命はイギリスの方が先に起こる」と予言しました。しかしその発想には先人がいます。ドイツの作家テオドル・フォンターネ(1819年〜1898年)の「イギリス人は口ではキリストと言いながら、心の中では木綿の事しか考えてない偽善者である」、ハイネの「オランダ商人には魂がない」「英国人は魂と身体がバラバラだから何一つ成し遂げられない」…要するに「トイトブルグの戦いをもう一f度」?

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江戸初期に来日したイギリス人は毛織物の事しか話さず、それ故に取引が成立せず諦めて撤収しました。日本人がしたかったのは生糸の話で、オランダ人とは話が通じて幕末まで続く長い取引が始まります。宗教の話しかせず「交易の話など口にするのも汚らわしい。大事なのはただひたすら正義のみですぞ」と断言したスペイン人は問題外。謁見後、徳川家康から「あれは何だったのか?」と尋ねられた三浦按針(通訳として同席していた)は「ただの馬鹿で御座います」的な発言を残していたりします。「価値観の共有が出来なかった」典型的状況ですね。
*ちなみに三浦按針はラシャならに日人も欲しがる事を発見し、オランダ人や本国に知らせている。そして黒船が来航すると通商条約が結ばれる以前から日本の市場にラシャが大量に出回り始めるのである。日本よ、これが西洋商人だ?

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これはもはやドイツだけの問題ではありません。フローベールによれば二月革命後フランスで行われた初めての普通選挙においても「地元の砂糖大根栽培農家の利権を代表して当選した、砂糖大根の事しか考えてない代議士なんて何の役に立つんだ?」といった批難が大っぴらに語られていました。

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ナチス政権台頭期にカール・シュミットが展開した「特定団体の利権しか代表しない議員をいくら寄せ集めたって何も見められない」 という主張も発想は同じです。

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これについてヘルムート・プレスナーはどう記しているのか。「結局(関税同盟結成に始まる)実利誘導戦略ではドイツ人の心から世俗信仰心を追い出す事は出来なかった」と指摘しつつ、英国自体についてこういう評価を下します。 「ドイツ人の視点からすれば国家権力が国家を超えた理想を標榜するのは偽善と映る。大英帝国の問題は人類の問題などと英国人に涼しい顔で告げられたり、正義・平等・友愛といった美辞麗句を並べて上から目線で説教するフレンチ・エゴイズムに直面すると、それだけで虫唾が走ってしまうのである。しかし現実路線と国家理念に基づく正当化を並行させるやり方には、むしろ「誠実な」側面がある。仮面が仮面である必要がなくなるからで、実際アングロ・サクソン系国家においては政治上の対立構造と経済上の対立構造の不一致に苦しむという事がない。ある意味経済支配こそが政治支配であり、かつ経済力そのものが人道的な力、道徳的な力、民族結集力、政党脱却力と信じて日々の問題解決に取り組んでいるのである。」と。
*ヘルムート・プレスナーは「ドイツロマン主義とナチズム」の補筆の中ではっきり「マックス・ウェーバーが称揚するカルヴァン様式とは要するにアングロサクソン的行動様式の事」と指摘している。そういう観点からは同志? 

以前紹介したエマニュエル・トッド氏のインタビューの内容を再紹介します。

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権威主義的文化はつねに二つの問題を抱えています。 一つはメンタルな硬直性、そして、もう一つはリーダーの心理的不安です。

すべてがスムーズに機能する階層構造の中にいると皆の居心地がよいのですが、ピラミッドピラミッドの頂点にいるリーダーだけは煩悶に苛まれます。


─ ─ あなたの念頭にあるのはヒトラーですか?

いや、むしろヴィルヘルム二世です。また、誰ひとりとして誰がそう決めたのか知らないうちに戦争に突入してしまった日本軍のことも考えています。

硬直性のほうは、しばしば乗り越え得るものです。ドイツ経済界のトップたちは、ユーロの死が彼らを危険に陥れることをよく理解してい ます。ユーロがなくなれ ば、フランスやイタリアが平価切り下げ に踏み切る可能性をふたたび手に入れ ますからね。

そうすると、それらの国の企業がドイツ企業に対しても競争力で上回るかもしれない。 ですから、ドイツ経済界のトップたちの振る舞いは合理的かつ実際的です。彼らの意向はユーロの救出であり、アンゲラ・メルケルはそれ に従う。

しかし、各国の憲法にまで経済運営の絶対的規則を書き込もうとする意志の内に、私は 不安の表現を感じ取ります。まるで自由な人民と理性的な最高指導者を退場させ、その代わりに、最終的な権限をもってドイツ人たちの問題を決定する自動的な権威を戴こう としているかのようです。

「財政のゴールデン・ルール」と呼ばれている概念は、人間活動のうちの一つの要素をいわば「歴史の外/問題の外」に置いてしまおうとするもので、本質的に病的だと言わなければなりません。それなのに、フランスの指導者たちはこの病理を助長し、励まし、ドイツの権威主義的文化をそれがもともと持っている危険な傾斜の方へと後押ししたのです。

*これって要するにドイツ人が最も「怖い状態」に陥るのは、上から目線で「ルールは用意してやるから何も考えず「♪Hiho Hiho 仕事が好き!!」と歌いながら働け」と言い出す時という話かと。

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ヘルムート・プレスナーを苦悩させた 「事あるごとに政経不一致に悩まされる」問題、実は明治維新直後の日本にとっても全然他人事じゃありませんでした。

  • 明治維新直後に西郷隆盛が抱いていた「士族を中心とする強兵策」構想の中身は「あくまで身分制社会を固持し続け、商人と職人を厳しく統制しつつ農民を大切にして予算は軍事力増強に注ぎ込めるだけ注ぎ込む」といった儒教原理主義軍国主義の折衷案みたいな内容だったとされている。もし西南戦争(1877年)で士族側が勝利していたら以降の日本はそういう社会になっていた可能性が極めて高い。しかも実は当時の陸軍の主力装備だったスナイドル銃の弾薬は、日本で唯一その大量生産に生産に成功していた鹿児島属廠がほぼ独占的に供給していた。もし前哨戦段階で士族側がここを押さえる事に成功していたら一体どうなっていたやら…

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  • しかし真打は宮中にいた。西南戦争後、天皇への取り次ぎ権を有する侍補達が天皇親政を実現すべく運動を開始したのだった。何とか伊藤博文明治天皇の説得に成功したので計画は未然に終わり、大日本帝国憲法制定により天皇のそういう形での政治利用が不可能となったが、これもこれでかなり際どい展開だったとする説もある。
    政治勢力としての侍補の再評価

確かに日本はキリスト教国じゃありませんが、儒教原理主義も突き詰めると五十歩百歩。これに社会主義思想を絡めるとたちまち2.26事件(1936年)で蜂起した青年将校達に北一輝が吹き込んだ政体改造論などの出来上がりです。

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 ヘルムート・プレスナーは「アングロサクソン国家は少なくとも正解の一つ」と考えました(ただしそれが唯一の正解とは信じたくなかったらしく、他にも幾つかの候補案を導出している)。エマニュエル・トッド氏式の考え方だと「正解は国ごとに異なる」となります。それでは現代日本にとっての正解は? まぁそれが分かっていれば、とっくにこのブログに投稿してます。