諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ロマンチック(Romantic)な「夢のハワイ」の起源

どうして日本人はハワイが大好きなのでしょうか?
ついついロマンを感じてしまうのでしょうか?
海外反応! I LOVE JAPAN : なぜ日本人はハワイが好き? 海外の反応。

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実は(高度成長期を背景とする)日本のレジャーブーム(1960年台~1970年台)とハワイが観光地として開発された時期はぴったり重なっています(日本人の海外渡航が許可されたのは1964年以降)。

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 歌謡曲「憧れのハワイ航路(1948年、横浜とホノルルとサンフランシスコを結ぶ戦前日本郵船の花形航路)」と新東宝映画(1951年)」

  • 「憧れのハワイ航路」は、1948年(昭和23年)にキングレコードより発売された歌謡曲(歌唱:岡晴夫、作詞:石本美由起、作曲:江口夜詩)。また、それを基にした1950年(昭和25年)公開の新東宝映画。

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    • 石本自身は、作詞当時までハワイ航路(横浜 - ホノルル - サンフランシスコ。戦前は日本郵船の花形航路)には乗船の機会が無かった。そのため、瀬戸内海を航行する大阪商船の別府航路と、東海汽船伊豆七島航路をイメージして作詞した(客船が行く:朝日新聞社刊より)
    • 岡の没後は、岡を敬愛する若原一郎が番組で披露した他、坂上二郎が歌い継いでいる。近年では氷川きよしもカバーしている。サザンオールスターズが1981年に行ったコンサートツアー「そちらにおうかがいしてもよろしいですか?」のオープニングでこの曲をカバーしている。 

ロコモコ丼 (locomoco、Loco Moco) 

ハワイの料理のひとつ。日本の丼ものに近い。日本国内では日本語化してロコモコ丼と呼ぶこともある。もとは学生向けの安価なファーストフードだったが、ハワイの郷土料理としての色彩も濃くなってきている。

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白飯の上にハンバーグと目玉焼きを乗せ、グレイビーソースをかけたものが基本である。近年誕生した店の中には、テリヤキチキンやマヒマヒ(シイラ)などハンバーグ以外の具材を用い、それに合わせたソースなどのアレンジを加えたものを「~ロコモコ」と称する例もある。こうしたバリエーションを持つ新しい店では、レタスなどの生野菜が追加されることもある。

ルーツは完全には明らかになっていない。ハワイ大学のジェームズ・ケリー教授の研究によれば、これは1949年にハワイ島のヒロで小さなレストランを営んでいた日系人のイノウエ夫人によって発案されたとしている。日本の伝統的な流儀で、白飯をよそった丼に焼いたハンバーガー・パティを載せ、自家製のグレイビーソースをたっぷりとかけて若者向けの安価な食事として出したというのである。"Loco" とはイカレた奴、あるいはLocal(地元)との掛詞で、このレストランの常連の高校生のひとりのあだ名に由来するとも言われている。また、"moko" にはハワイ語で入り乱れる、混ざるという意味があるが、この料理名への関連は薄く、単に語呂がよかったので定着したというところであろう。

ロコモコは今ではハワイにおいて非常にポピュラーな料理となっている。ハワイ以外の地ではほとんど知られていなかったものの、ファミリーレストランなどのメニューに加わることで、漸次その知名度は上がってきている。

*ちなみにハワイ現地には「スパムエッグ丼」とか「スパムむすび」も…

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そしてMBS毎日放送制作のアップダウンクイズ(昭和38年(1963年)~(1985年))でも「夢のハワイ」。「兼高かおる世界の旅」の夢の様なハワイ旅行。そして止めが船木一夫「夢のハワイで盆踊り(1964年)」。

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ニューズウィーク日本語版2016年02月23日号
合衆国入りを夢見たハワイが「州」になるまで

立州運動

ハワイをアメリカの領土の一部から、明確な州として確立させようという動きは、ハワイ王国、カメハメハ3世時代から何度も持ち上がった意見であった。

1854年、親米派として知られるカメハメハ3世は、内部勢力や欧州列強の圧力からの保護を求め、ハワイ王国をアメリカの一州として併合するようアメリカ政府との交渉に乗り出した。しかし、次代のカメハメハ4世が親英であったことなどからうやむやのまま、カメハメハ3世死後、この話は立ち消えとなる。1900年のハワイ併合時にも議題としてハワイ立州案が挙げられ、サンフォード・ドールは知事就任演説でハワイの立州化について言及した。1903年、ハワイ領土議会は連邦議会に対し、ハワイ立州法案の審議を請願した。1919年にはハワイ選出の連邦議会代議員であったジョナ・クヒオがハワイ立州を訴え、連邦議会による立州に向けた調査が開始された。

そんな中、1931年9月、トーマス・マッシー中尉の夫人タリア・マッシーがハワイの地元の若者集団「カリヒ・ギャング」に暴行を受けたとして訴え、5人の若者が容疑者として逮捕された(マッシー事件)。タリア・マッシーはこの5人に間違いないと証言したが、弁護側が5人のマッシー夫人の証言とは矛盾する材料を証拠として提示したため「陪審不一致」として5人の若者は無罪となった。この事件はアメリカ本土でセンセーショナルに報道がなされ「ハワイの警察制度は古臭く、治安を維持する能力に欠ける」といった世論が形成された。マッシー中尉はこの結果を不服として、仲間と共に容疑者の一人ジョセフ・カハハワイを誘拐、拷問の末、殺害してしまう。陪審は加害者らを懲役10年の有罪としたが、世論はマッシー中尉の行為を「正当防衛」「名誉ある殺人」とし、ハワイの裁判過程に不満を評した。これを契機とし、連邦議会ではハワイの自治権剥奪などを盛り込んだ改正法案の提出がなされるなど、この事件はハワイ自治権の危機にまで発展し、ハワイ知事はマッシー中尉らを「禁固1時間」に減刑するに至った。

国連邦議会の従属的な立場にあると痛感したハワイの指導者層は活発なロビー活動を行うようになる。1934年に選出された代議員サミュエル・キングによって1935年、立州法案が正式に提出され、ハワイ立州承認問題の調査委員会が組織された。1940年には立州に関する住民投票が行われ、有権者の3分の2以上が立州を望んでいることが判明した。こうした動きは第二次世界大戦により一時中断されるが、軍事政権下での抑圧とその解放を経験したハワイの市民は、アメリカ合衆国の国家の一員としての意識が高まり、戦後はさらに声高に立州運動が叫ばれるようになった。

ハワイ出身の代議員ジョセフ・ファーリントンの強い働きかけにより、また、ハリー・S・トルーマンの支持もあったことから、1946年連邦議会はハワイをアメリカ合衆国の正式な州とすべきかどうか、再度検討をはじめた。ファーリントンは翌年、ハワイ立州法案を連邦議会に提出したが、上院で廃案となり未達に終わった。しかし、これをきっかけとして立州化は共和党や民主党マニフェストに組み込まれるなど、大きな動きを持つようになる。一方で立州化反対派は、ハワイを東西冷戦を背景とした共産主義者の活動拠点であると断じ、その分子をアメリカの政治経済の中に取り込むことは危険であるとした。

1950年代に入ると公民権運動が活発化し、これに便乗する形で、ハワイおよびアラスカの立州化運動が行われ、1959年3月11日、連邦上院で賛成76、反対15で可決、連邦下院で賛成323、反対89で可決し、連邦議会ハワイ州昇格を承認した。ドワイト・D・アイゼンハワー大統領が1959年8月21日、宣言書調印を行い、正式にアメリカ合衆国の50番目の州に認められることとなった。「今や私たちは皆ハオレ」といった流行語が誕生するほど歓迎ムード一色となり、ハワイ市民は達成感と新たな期待に酔いしれた。

観光都市ハワイとしての発展

1959年に立州化して10年間で、ハワイはホテルやマンションの立ち並ぶ都会へと変貌するため、総額34億ドルにも上る建築が行われた。ディリンガムのハワイアン・ランド社による初の大型ショッピングモール、アラモアナショッピングセンターの開業、ジェット空路の連絡、貨物、旅客、車両を運搬する大型船舶のための埠頭の建築、陸上幹線道路や水道の整備など、リゾート観光開発とそれに伴うインフラの近代化が加速した。

1963年のアメリカ人に対するギャラップ調査「金銭的なことを考えずに休暇を過ごしてみたい場所」において、2位カリフォルニアに2倍近い差をつけた1位を獲得するなど、立州を契機として観光産業が繁栄し、アメリカ国内外を問わず、観光客の来州は着実に増加し、1967年12月28日、100万人目の観光客を記録した。

日本が旅行規制を解除した1964年、日本人観光客を見込んだハワイでは日本語表示の導入や従業員への日本語教育を本格的に導入する。1970年からはパッケージツアーが本格化し、日本資本がハワイには欠かせない収入源となるほどになった。

こうした日本の動きは投機面においても無視できない存在となる。日本の実業家小佐野賢治が1962年、ワイキキのモアナ・ホテルとプリンセス・カイウラ・ホテルを1940万ドルで買収したのを皮切りとして1972年までの10年間で50以上の日本の会社がハワイの不動産や企業を買収し、ハワイ支店を開設した。1974年にはハワイ州上院議員アンダーソンらが「日本の経済侵略」として警鐘を鳴らすなど、社会問題として取り上げられるようになった。1980年代に入ってもこの動きは加速の一途を辿り、川本源司郎や、川口勝弘といった日本人投資家の不動産買収の話題が紙面上で踊った。

「ジャパンマネー」に対する世論は非常に硬化し、ハワイ大学イースト・ウエスト・センターの研究者や経済評論家クライド・プレストウィッツなどが「ジャパンマネー」がハワイに与える影響やその問題を強く憂慮した。

また、高級リゾートホテルと並び、開発のシンボルとされたのがゴルフ場で、1992年時点で68のゴルフコースがあり、さらに当年、州政府に対して93件のゴルフ場開発の申請が出されるなど、ゴルフ場建設ラッシュとなった。しかし、ゴルフ場の開設は素朴で質素な生活を求める地元住民との摩擦を生み、問題となった。これに対しファシ市長は、公共設備開発使用料(インパクト・フィー)としてゴルフ場1件の開設につき1億ドルを支払うよう開発者側に求め、それを地元へ還元することで、摩擦の解消を図った。

1980年代の後半になると、日本の国内外での投機的不動産投資の影響により、土地・住宅価格の高騰が起こった。しかし、インフレを懸念した日本政府や日本銀行の締め付けにより投資欲が減衰し、1989年10月、東京株式の暴落(バブル崩壊)が起こり、ハワイにおいても日本企業、日本人投資家からの投資が減退。進行していた数々のホテルやゴルフ場の開発プロジェクトがその計画半ばにして頓挫し、棚上げされた。そして1967年に砂糖・パイナップル産業の収入を超え、名実共にハワイ最大の産業となって右肩上がりを続けてきた観光業は、1991年に初めて前年比1.2%減という落ち込みを記録する事になる。

「夢のハワイ」誕生までの前史

ハワイの島々は火山の活動により海底から隆起して誕生したもので、北西部の古い島々は500万年前から100万年前、ハワイ島などの新しい島は約50万年前に形成された。他の大陸と陸続きであったことはないため無人の島であり、ジェームズ・クックがハワイに到達する以前の先住民たちは、どこかから海を渡り、この地へやってきたことになる。

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先史時代のハワイ諸島

他の太平洋の島々の多くがそうであったように、19世紀にアメリカの宣教師がアルファベットを伝えるまで文字を持たない文化圏だったので、これらの問いに直接答える歴史文書は存在しない。言語学的な推測、熔岩に描かれたカハキイ(ペトログリフ)などの研究から、最初にハワイへやってきたのはオーストロネシア語族ポリネシア人であると考えられており、マオリタヒチ人と同じ起源にさかのぼる。その年代については諸説があり、遺跡の放射性炭素年代測定にもとづき紀元前500年前後から3世紀頃までと考えられている。
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①ハワイに伝わる神話クムリポからも考古学的な考察と検討が行われている。クムリポは伝記(クアウハウ)、お伽話(カアオ)、歴史伝承(モオレロ)といったジャンルの神話が歌や舞踏、チャントなどで代々の王家に伝承されたものであり、1700年頃に作られた。公式な発表としては1881年にカラカウアが公表したもの、1889年にリリウオカラニによって英訳されたものなどがある。クムリポでは創作された寓話を交えつつハワイ人の起源から13世紀前後の出来事までが語られている。


言語学的見地、歴史遺構や伝承神話などからの類推により、ポリネシア人はカタマランやアウトリガーカヌーを操り、マルキーズ諸島を経由してやってきたと見られ、さらに数世紀後900年ごろに、タヒチ島を中心とするソシエテ諸島からやってきたポリネシア系移民が定着したのが始まりとされている。なお、このポリネシア人たちの航海が本当に可能だったのかどうかについて、1976年から検証航海が行われた。ピウス・マウ・ピアイルグら17人の男女が乗り込んだ丸木舟「ホクレア号」は、マウイ島を出発し、31日目にタヒチに到着、1978年にはタヒチからマウイ島への航海も成功させ、ポリネシア人たちの太平洋の航海が不可能ではないことを証明した。ただし、なぜ彼らが移動する必要があったのかについては、ハワイの神話やペトログリフを紐解いてみても遠方への航海や交流を暗示するものはあっても明確な記述は無く、それまで居住していた島が手狭になった、飢饉になった、他の島との戦で追放された、といった後年の歴史家による根拠の薄い仮説が複数並列して存在しているに過ぎない。彼らはハワイ諸島に定住する為にタヒチ島との間を断続的に往復し、タロイモ、ココナッツ、バナナといった植物や、豚、犬、鶏といった動物を運び込んだ。この「大航海」は14世紀頃まで続いたと推測されており。フラをはじめとする古きハワイの文化もこの交流の過程でもたらされたと考えられている。

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③12世紀頃には族長による土地の支配と統制がはじまり、階級社会が誕生した。王族(アリイ)を頂点とし、神官(カフナ)、職人や庶民(マカアイナナ)、奴隷(カウバ)がそれに従った。土地の支配はアフプアアと呼ばれる制度で規律され、山頂と海岸を結ぶ二本の線を土地の基本単位とし、境界線には豚(プアア)をかたどった像(アフ)が備えられた。

アリイ(族長)…ヘルメットを被り、羽編みのマントを身に付け、マナという特別な力を持つとされた。

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カウバ(奴隷)…共同生活の規律を乱す犯罪者や他の土地の捕虜で構成される階級で、顔に入墨を彫られ、他階級との交わりが禁じられていた。カフナの行う呪術の生贄の供給階層でもあった。

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不幸な結末に終わったクック船長との邂逅
1778年、イギリスの海洋探検家ジェームズ・クックによって、1月18日にオアフ島が、1月20日にカウアイ島が「発見」され、ワイメア・ベイにレゾリューション号、ディスカバリー号を投錨し、ヨーロッパ人としてハワイ諸島への初上陸を果たした。クックは上官の海軍本部長サンドウィッチ伯爵の名から、サンドウィッチ諸島と命名。しかし、クックがサンドウィッチ諸島と名づける以前より、現地ハワイ人の間では既にハワイという名称が定着していた。

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①突然の見たこともない大きな船の到来と、そこに佇む異様な衣を纏う乗組員に先住民は驚きおののいた。新しい海路の発見を目指す一行は同年2月に一旦ハワイを離れ、北西へと旅立った。その後、同年11月にハワイを再訪したクックは、マウイ島オアフ島の船上調査後、1779年1月17日、ハワイ島ケアラケクア湾へ上陸した。ハワイ島の王であったカラニオプウはクックをロノの化身と錯誤し、ヘイアウの奥に鎮座する祭壇へ案内し、神と崇めた。クックは先住民に神と間違えられる事は何度も経験しており、先住民らが望みそうな振る舞いを演じてみせた。先住民らにより豊穣の神ロノを讃えるマカヒキの祭が執り行われ、クックらに酒池肉林のもてなしを行う。長い航海で女に飢えていた乗組員らは現地の若い先住民の女を侍らせ、約3週間宴に興じた。

②2月4日、クック一行は必要な物資を積み込み、北洋へ漕ぎ出したが、カワイハイ沖で遭遇した暴風雨にレゾリューション号のメインマストが破損したため、2月11日、再度ハワイ島へ戻り修繕にあたろうとした。しかし、先住民らは「クックはあまりにも人間的な肉欲を持っている」「ロノ神の乗る船があのように傷つくものだろうか」といった疑念を持ち始める。先住民らが険悪な様相でディスカバリー号のボートを奪い取ろうとしたため、クックはカラニオプウを人質として拘束した。

③この諍いは乱闘へ発展し、1779年2月14日、クックは4名の水兵と共に殺害されるに至った。ディスカバリー号を率いていたチャールズ・クラークは、大急ぎで船の修復を終え、イギリスへと舵を取った。クラークは同年8月に結核で死亡したため、その後はジョン・ゴアが指揮を取ってイギリスに帰還。海軍本部、英国王立協会にクックの死、北方海路探索の失敗、そしてサンドウィッチ諸島の発見を報告し、欧米にその存在を知らしめた。

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親英国家ハワイ王国の成立

クック一行と邂逅した頃のハワイ諸島では大族長(アリイ・ヌイ)による島単位での統治が行われていた。ハワイ島をカラニオプウが、それ以外の島をマウイ島の大族長カヘキリが支配していた。大族長は世襲制であったため、1782年にカラニオプウが没すると息子のキワラオが王位を継承した。軍隊の指揮で頭角を現しつつあったカラニオプウの甥にあたるカメハメハはこのとき戦争の神(クカイリモク)という称号を授かり、コハラおよびコナの領地を譲り受けた。これに立腹したキワラオはカメハメハに戦争をしかけたが、モクオハイの戦闘で負傷し、逆に1790年、カメハメハによるハワイ島統一が成される。

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①「サンドウィッチ諸島発見」以降、交易を求める者や植民地主義の帝国からの来航が頻繁に発生していたが、カメハメハは、外交手腕に優れ、欧米列国の領土的野心を封じる先見性も持っていた。カメハメハはクックの後継者とも言えるジョージ・バンクーバーと懇意にし、1794年2月24日、ハワイにおけるイギリス人水兵の安全保障の見返りとして外国のハワイ侵略をイギリスが防衛する防衛援助協定を取り付けることに成功する。これを契機に、イギリスから仕入れた銃器を手に1795年2月、カメハメハはハワイ諸島統一に向けて動き出し、同年4月までにニイハウ島とカウアイ島を除くすべての島を制圧し、ハワイ王国を誕生させたのだった。

②1800年、残りの島の制圧を目指したが嵐や疫病の発生により不調に終わった。1810年、アメリカ人ウィンシップ兄弟の協力を得てカウアイ島大族長カウムアリイとの交渉を行い、カウムアリイの終身統治を条件としてカウアイ島およびニイハウ島の割譲に成功し、ハワイ諸島の統一を成し遂げた。

③カメハメハが1819年5月8日に他界すると長男のリホリホ(カメハメハ2世)が王位を継承したが、その執政能力に不安を感じていたカメハメハは摂政(クヒナ・ヌイ)の地位を新設し、リホリホの義母にあたる妻のカアフマヌをその地位に充てた。カアフマヌは、リホリホの妻であるケオプオラニと協力し12世紀以降続いていた禁令制度(カプ)の廃止を進めた。土着信仰として根付き、かつカフナたちの立場的優位性を築いてきたタブーを率先して破り、神および神官の存在を否定。こうして古代宗教の神殿は破壊され、礼拝や生贄といった儀式も中止されることとなったが、階層構造により保たれていた秩序や規範も崩壊し、ハワイ王国は波乱の時代を迎える事になる。

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④1820年3月31日、アメリカ海外伝道評議会が派遣した聖職者ハイラム・ビンガム、アーサー・サーストンらを乗せたタディアス号がニューイングランドよりコハラに到着。彼らはそこで見たハワイ先住民たちの非道徳的な振舞いに衝撃を覚える。男はマロと呼ばれるふんどしのような帯のみを身につけ、女は草で作った腰みのだけを身に付け、フラダンスという扇情的な踊りを踊り、生まれた幼児を平気で間引く彼らの文化は、無知で、野蛮で、非人道的なものであると理解するに十分であった。こうした風紀と社会秩序の乱れを回復すべく、ビンガムを主導として宣教師らはプロテスタンティズムによる社会統制を試みた。こうしたアメリカ人宣教師らの影響は次第に教育、政治、経済の各分野へ広がっていく。

⑤外交の発展により、ハワイ王国では貨幣経済が急速に浸透し、後払いによる外国製品の輸入を続けたため、みるみる負債が膨らんでいった。この状況を打破しようと、1823年11月23日、リホリホは王妃のカママルを連れ、貿易問題の解消を求めてイギリス・ロンドンへ赴いたが一行は滞在先で麻疹に感染し、カママルは翌年7月8日に、リホリホは7月14日に他界してしまう。リホリホの死を受け、わずか10歳の弟、カウイケアオウリが翌1825年6月6日に大王に即位する(カメハメハ3世)。宣教師たちは実質的な実権を握る摂政カアフマヌに近づき、ハワイのキリスト教化をすすめることに成功した。

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1827年、フランスよりカトリック教会の宣教師がハワイへ上陸したが、すでにプロテスタントが浸透しつつあったハワイでの他宗派の影響による混乱を危惧し、カアフマヌは退去を命じる。しかし1837年、再びカトリック司祭が来航したことから同年12月18日、ハワイでのカトリックの布教と信仰の禁止の命がカウイケアオウリより下された。この命は1839年に解除されたが、太平洋の他の諸島と違い、ハワイにおけるプロテスタントの影響は優勢であり続ける。プロテスタントの宣教師らはまずハワイ人に読み書きから教え始め、1822年にはアルファベットによるハワイ語が確立、1834年には太平洋地域で初となる新聞「カ・ラマ・ハワイ(1834年6月、マウイ島)」「クム・ハワイ(1834年10月、ホノルル)」が発行され、1839年には聖書が出版された。徹底した文教政策が奏功し、ハワイ住民の教育水準は飛躍的な高まりを見せ、近代化が加速度的に進行したが、これは同時にハワイの伝統的な文化の断絶を意味していた。

1832年、カアフマヌが没したため、摂政の後任としてカメハメハの娘にあたるキナウが就任。ハワイ王国は西欧的社会の移入を押し進め、イギリスのマグナ・カルタを基に1839年に「権利宣言」を公布、翌1840年10月8日にハワイ憲法が公布され、立憲君主制が成立した。1845年には基本法によって行政府として王、摂政、内務、財務、教育指導、法務、外務の各職が置かれ、15名の世襲制議員と7名の代議員からなる立法議会が開かれた。しかし、なじみの浅い西欧文化に戸惑うハワイ人を他所にハワイに帰化した欧米の外国人がハワイ政府の要職に就く様子が見られるようになる。こうした土壌で1852年にはハワイ新憲法が採択されることとなった。この新憲法にはエイブラハム・リンカーン奴隷解放宣言を行うはるか前に奴隷制禁止条項が盛り込まれるなど、リベラルなものとなった。こうした西欧化はアフプアアを伝統とした土地制度にも及び、欧米的な土地私有の概念が取り込まれた。1848年には土地法が制定され、ハワイの土地は王領地、官有地、族長領地に分割される。しかし1850年に外国人による土地の私有が認められるようになると、対外債務を抱えていたハワイ政府は土地の売却で負債を補うようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島の約75%の土地が外国人の支配する土地となり、生活の基盤を失った。

⑧1854年にカウイケアオウリが没っすると1855年1月11日、摂政であったキナウの次男アレクサンダー・リホリホが王位に就いた(カメハメハ4世)。この頃の行政府内にはアメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの対立したグループが形成されていた。前王が採択した一般成人男子の参政権獲得による王権の失墜を危惧したアレクサンダー・リホリホは兄のロト・カメハメハと協力し、貴族主義的な君主制の確立を目指した。イギリスの王制を高く評価していたアレクサンダー・リホリホは1860年、「ハワイアン改革カトリック教」という名のエピスコパルをハワイに設立し、イギリス本土よりトーマス・ステイリーをはじめとする英国国教会の聖職者を招聘した。この背景には息子アルバートを洗礼させ、イギリスのヴィクトリア女王を教母として立てることで列強諸国と対等の関係を築こうとした政治的思惑があったとされる。
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⑨しかしアレクサンダー・リホリホ1862年に溺愛する息子を亡くし、そのショックから立ち直れぬまま翌1863年11月30日に自らも死亡し、この目論見は未達に終わる。王位は即日兄のロト・カメハメハが継承した。

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ハワイ王国の「親米化」とハワイ共和国成立

王権復古を目指すロト・カメハメハは1864年8月20日に新憲法を公布。親英の王が続いたことでハワイ王国がイギリスに傾斜することを危惧したアメリカ合衆国は、極秘裏にハワイ王国の併合計画を始めた。こうした中、次代の王位継承者を指名することなくロト・カメハメハが1872年に急逝。王位決定権が議会に委ねられ、親米派のルナリロが1873年1月9日に即位した。ルナリロはアメリカ人を閣僚に据え、アメリカからの政治的、経済的援助を求める政策を執った。アメリカとの互恵条約締結を目的とし、交渉がなされたが、ルナリロが結核に罹り、そのまま没したため、王位は再び議会に委ねられることとなった。選挙の結果、カメハメハの有力な助言者カメエイアモク、ケイアウェアヘウルの子孫に当たるカラカウアが当選し、1874年2月13日に即位した。
*カラカウアは1881年(明治14年)3月、世界一周旅行の一環として来日し、赤坂離宮明治天皇と会談。以下の様な提案を行った。「カラカウア王の姪で王位継承者のカイウラニ王女と、山階宮定麿親王(後の東伏見宮依仁親王)との縁組」「日本・ハワイの合邦(連邦)」「日本・ハワイ間の海底電線(ケーブル)敷設」「日本主導によるアジア連邦の実現」。ちなみに日本人が最初にハワイに渡ったのは1868年(明治元年)、サトウキビ農園で働く為に向かった153名。後に元年者と呼ばれ事になるこの最初の移民達が日本人社会の礎を築き上げ、1890年(明治23年)にはハワイ総人口の40%が日本移民となり、1924年に排日移民法が成立するまでさらに多くの日本人がハワイへと渡り続ける。

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①カラカウアは前王の意思を継ぎ、1875年6月3日、米布互恵条約締結を成し遂げる。この条約によりハワイの全ての生産品は非課税でアメリカへの輸出が可能となったが、第4条として「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない」との文言が組み込まれ、ハワイのアメリカ傾倒へ拍車が掛かることとなった。有効期限を7年と定めていた最初の条約の期限が近づいた1883年、この条約は米や砂糖の生産業者などアメリカ国内において、合衆国の利益を損失するとして少なからぬ批判が噴出したが、上院議員ジョン・モーガンなどの帝国主義的拡張論者らにより「その他の、より高次元な益がある」として反対勢力を押さえ込み、かねてよりモーガンが主張していた真珠湾の独占使用権を獲得することを条件として1887年11月に条約の更新がなされた。

②1887年、野党議員ロリン・A・サーストンが中心となって急進的改革を志向するアメリカ系経済人・政治家・サトウキビ農場主らが秘密結社ハワイアンリーグ(ハワイ連盟)を結成。同年6月30日、ハワイの白人市民義勇軍ホノルルライフルズ(米国系白人市民の民兵部隊「ホノルル・ライフル連隊」)と協力しカラカウアに対して首相であったウォルター・ギブソンの退陣と新憲法の採択を要求した。これに対し有効な対策が取れなかったカラカウアは自ら組閣した内閣を解散。その後、ホノルルライフルズが起草した新憲法を半ば強引にカラカウアに承認させ、1887年7月6日に通称ベイオネット(銃剣)憲法が成立し、王権の弱体化がさらに進んだ。
*「銃剣憲法」には「国王は議会の承認無しに政治に関与できない」「ハワイ人・アジア人には選挙権を与えない」といった条項が盛り込まれていた為。1889年には混血ハワイ人で王国の軍人ロバート・ウィリアム・ウィルコックスらの抵抗もあったが失敗に終わった。

③カラカウアは強大化するアメリカ系勢力を牽制しようと日本を盟主とする東洋諸国との同盟やベイオネット憲法の廃案を画策するなど王権の復古を試みたが、1891年1月20日、志を貫徹することなくサンフランシスコにて客死してしまう。
*アメリカ本国の連邦議会が1890年新たに関税法案を通過させるとハワイの製糖業は大打撃を受けた。ハワイから輸入した砂糖は無関税であったが、アメリカ国内で生産された砂糖には奨励金がつけられた為にハワイの砂糖生産はふるわなくなり、サトウキビ農園の地価も暴落し農園労働者の賃金も低下、さらには失業者も現れたのである。あらゆるものが砂糖に依存していた為にハワイ経済は深刻な不況に陥った。とりわけ、農園を所有して製糖業を経営していた者の多くがアメリカ人であった為に本国の関税法案通過に対して不満をつのらせ、アメリカの保護領となるか、編入してもらうかして事態を解決するよりほかに道はないと考えるようになった。

④1891年1月29日、後任としてカラカウアの妹に当たるリリウオカラニが王位に就いたが、リリウオカラニの指名した閣僚が再三にわたりそれを拒否し、内閣が成立しない政治危機が続き、1892年11月8日、ようやく組閣のための閣僚承認がなされる。リリウオカラニは山積する問題のうち、財政難打破の対策として宝くじやアヘンの売買を認可制度の下に許可するという法律を制定したが、この政策に対し、アメリカ系白人勢力から道徳的観点からの批判が噴出した。また、ベイオネット憲法に不満を募らせる王権派ハワイ人たちへの対策として1864年の憲法をバックグラウンドとした新憲法の制定を計画した。こうした動きに危機感を覚えたアメリカ公使ジョン・スティーブンスはロリン・サーストン、サンフォード・ドールらと接触し、ハワイ併合(United States Annexation of Hawaii)に向けてのハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立という具体的な計画に着手する。
*カラカウアの妹だった「ハワイ王朝最後の女王」リリ・ウオカラニは「アロハ・オエ(Aloha Oe)」の作者としても知られる。

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1893年1月15日、サーストンらの呼びかけで前日結成された「公安委員会」を名乗る組織が、一般大衆に対し、ホノルルライフルズ部隊本部にて市民集会を開く旨の呼びかけを行った。これに対し王権派の閣僚は反逆罪の適用を検討したが、衝突を避けるよう主張するアメリカ系閣僚の声もあり、対抗する集会をイオラニ宮殿で行うことが決定された。目的はこの集会にてリリウオカラニによる「憲法を公布しない」という声明を発表するものとし、これ以上の混乱を阻止しようというものであった。翌1月16日、ホノルルライフルズで開始された集会でサーストンは女王を糾弾し、自由の獲得を市民に訴えた。この動きに呼応し、スティーブンスは米国軍艦(USS)ボストン艦長ギルバート・ウィルツへ「ホノルルの非常事態を鑑み、アメリカ人の生命および財産の安全確保のため海兵隊の上陸を要請する」と通達した。同日午後5時、将校を含む武装した海兵隊164名がホノルル港へ上陸。

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⑥1月17日、サンフォード・B・ドールは新政府樹立の準備のため、判事を辞任した。午後2時、政府庁舎に公安委員会一同が集結すると、ヘンリー・E・クーパーによりハワイ王国の終結及び暫定政府の樹立が宣言された。駆けつけたホノルルライフルズらによって政府庁舎および公文書館が占拠され、戒厳令が布かれた。ドールは暫定政府代表として各国の外交使節団およびリリウオカラニに対し、暫定政府の樹立を通達した。リリウオカラニはスティーブンスに対し特使を派遣し、アメリカが暫定政府を承認しないよう求めたが、スティーブンスは「暫定政府は承認され、アメリカはハワイ王国の存在を認めない」と回答した。これを受け、リリウオカラニはドールに対し、以下の文書を送付する。

私、リリウオカラニは、神の御恩寵によって、また王国憲法のもとに、女王として、この王国に暫定政府の樹立を求める特定の人々が私およびハワイ王国立憲政府に対しておこなった反逆行為すべてに対して、ここに厳重に抗議します。

……(中略)…… 軍隊の衝突と、おそらく生命の喪失となることを何としても回避せんがため、米国政府が事実を提示されたうえで、アメリカの外交使節のとった行動を取り消して、ハワイ諸島立憲君主としての権威の座に私を復位させる時が来るまで、私はこの抗議をもって、私の権限を放棄いたします。紀元1893年1月17日 R・リリウオカラニ

 暫定政府樹立宣言後、ドイツ、イタリア、ロシア、スペイン、スウェーデン、オランダ、デンマーク、ベルギー、メキシコ、ペルー、イギリス、日本、中国といった国々が暫定政府を事実上の政府として承認した。ハワイをアメリカの保護下に置くよう併合交渉を進めていた暫定政府に対し、2月1日、スティーブンスは米国公使としてその要求を承認し、ハワイ政府庁舎に星条旗が掲揚される。しかし、リリウオカラニの抵抗や、アメリカ国内における女王支持派、およびスティーブンスの取った強引な手法に対する世論の反発などで、すんなりと併合にはこぎつけられなかった。この事実を知ったグロバー・クリーブランド大統領は、スティーブンスの更迭を行い、アルバート・ウィリスを公使に任命。ウィリスはクリーブランドの指示のもと、道徳的観点から暫定政府の取り消しとリリウオカラニの復位の道を模索した。1893年11月4日、ウィリスはリリウオカラニが軟禁されているホノルルへ赴き、国家を転覆させた反逆者の処遇をどのように希望するかを確認した。リリウオカラニは「法律上は死刑であるが、恩赦を認め、国外追放に止めるべきである」との認識を示したが、後日の新聞紙面上には「女王が暫定政府の死刑を求める」との文字が躍った。この捏造報道はその後訂正がなされ、ウィリスは12月20日、ドールに対し、「リリウオカラニを正式なハワイの統治者であることを認め、現地位と権力の全てから退くこと」というクリーブランドのメッセージを伝えた。
*ハワイ事変に際して王党派は日本の援助を求め、駐日ハワイ公使は日布修好通商条約の対等化を申し出た。日本政府はハワイ公使の申し出を受け入れ、両国は1893年(明治26年)4月に改正条約を締結。これは、日本にとってメキシコに次いで2つ目の対等条約であった。そして日本政府はアメリカによるハワイ併合の動きを牽制すべく1893年11月、邦人保護を理由に東郷平八郎率いる防護巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇させた。この行為について女王を支持する先住ハワイ人たちが涙を流して歓喜したといわれている。日本海軍は、翌年には「浪速」を「高千穂」と交替させているが、1894年3月、日本政府は巡洋艦高千穂の撤収を決めた。大日本帝國はこの「帝国主義国家間の戦い」では敗れたのである。

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⑦こうした状況からドールらは、クリーブランドの在任中の併合は不可能であると判断し「過ちがあったのはアメリカ政府の機関であり、暫定政府とは無関係である。クリーブランド政権の要求は内政干渉に当たる」とした回答を12月23日に発表した。さらに、暫定政府を恒久的な政府として運営するため、ハワイ共和国と名を変え、1894年7月4日、憲法の発布と新しい国の誕生を宣言した。初代大統領はドールが継いだ。
*近代以降広まる「帝国主義(Imperialism)」概念の初出は、南アフリカ戦争を記者として取材した経験に基づいてホブスンが1902年に発表した「帝国主義論(Imperialism: A Study)」。そこでは「大英帝国ボーア戦争の泥沼に引き込んで孤立主義の維持が不可能となるほど没落させたのは、愛国心を煽りつつ国民の注意を外部に向けさせる事で失政を隠そうとする売国的国内政治家と、私益を得る為に恣意的に大映帝国を巻き込んだ現地入植者の不愉快な共犯関係であった」とされている。つまり「帝国主義(Imperialism)」そのものではなく、これを私物化して国益以外の目的に使おうとする「帝国主義者(Imperist)」のみを悪としたのである。19世紀末に展開したハワイ諸島をめぐる一連の騒動もこの類型に完全に一致。他には一般に以下の様な歴史展開がこの分類に入るとされる。

◎英国東インド会社(1800年〜1870年)によるインド征服事業

米墨戦争(Mexican-American War、1846年〜1848年)の引き金を引いたテキサス共和国(Republic of Texas、1836年〜1845年)の建国と併合。


アレックス・コックス監督映画「ウォーカー(Walker、1987年)」によって再照明の光が当たった19世紀南米におけるフィリバスターの暗躍とエルサルバドルドミニカ共和国キューバ独立運動

ユーラシア大陸の覇権を巡って大英帝国とロシアが繰り広げたGreat Gameを背景とするキプリングの「王になろうとした男(The Phantom 'Rickshaw and other Eerie Talesの一編たるThe Man Who Would Be King、1888年)」の世界。ボルネオ島北部に白人王国「サラワク王国」を建国しその初代国王(在位1841年 - 1868年)に収まった英国人探検家ジェームズ・ブルック(Sir James Brooke, 1803年〜1868年)やアフガニスタンとパンジャーブで王になろうとした米国人探検家ジョサイア・ハーラン(Josiah Harlan1799年〜1871年)をモデルとするが、国際社会から孤立した僻地において「イスカンダルアレキサンダー大王)の再来」として歓待されつつ期待を裏切って生首にされてしまう展開は「サンドイッチ諸島」におけるクック船長の悲劇そのものだったりもする。

第一次世界大戦(1814年〜1918年)に連動する形で中東諸国をオスマン帝国から分離独立させたアラブ反乱(Arab Revolt、1916年〜1918年)を背景とする英国映画「アラビアのロレンス(Lawrence of Arabia、1962年)」の世界。結局ロレンスらが建国を支援した「ハーシム家ヒジャーズ王国(1916年〜1925年)」はその後の政争で敗れ(大英帝国情報部の別部門が後援していた)サウド家のアラビア(サウジアラビア)が最終的勝者となる。

◎中国内乱に付け込んだ関東軍による満州国建国(1932年〜1945年)。ただし以降大日本帝国陸軍は「胃袋が脳になった」「湖を飲み干さんとする狼になり果てた」狂奔状態に突入。中国全土を手中に収めんとして果てしのない消耗戦に巻き込まれていく。

それがロマンチック(Romantic)かどうかはあくまで主観によって決まる。従って関わる「事業家」が淡々と事を進めたに過ぎない「英国東インド会社によるインド征服事業」や「Great Gamesのロシア帝国側展開」や「関東軍による満州国建国」などには原則としてロマン(Roman)の要素は欠片も存在しない。

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皮肉にも「恋心に駆り立てられて放火という善悪の彼岸を超越した大罪に走る八百屋お七の人形振り」がソ連エイゼンシュテイン監督の手によってイヴァン雷帝やスターリンと重ねられた為に「抜け道」が用意される形になった。

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しかし原則的にはあくまで「政治的状況と経済的状況の不一致を解消せんとする冷徹な政治的判断(ハワイ諸島の場合はアメリカの一部として編入される形でしか、アメリカの関税障壁を克服出来ないと考えた現地の白人砂糖栽培農家の思惑)」と「マニフェスト・デスティニー(Manifest Destiny、「明白なる使命」。白人には他民族を征服して教化する義務があるとした白人種中心主義)」理念を重ねる偽善的ロマンティズム(Romantism)は英米の様なアングロサクソン系諸国の方が俄然根強い。ただそれはあくまで概ね当初の期待を裏切り尽くされた末の悲劇的結末に終わるという冷徹な認識と表裏一体の関係として描かれる事が多かったりする。

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フィリバスター(filibuster)もしくはフリーブーター(freebooter)…非合法の革命扇動家で、特に反乱や領土拡張を支援するための非正規軍事探検に従事する者、あるいは彼らによって行われた行為を指す。一般的用法としては、政府の私掠許可なく外国領などを襲い、金品を奪う者をいう。原義としてはスペイン語の「filibustero(意味は「海賊」、「バッカニア」)」が英語に持ち込まれたものだが、さらなる語源はオランダ語の「vrijbuiter(freebooter)」で、当初は西インド諸島においてスペインの植民地と船を襲う者を指す用語だった。 1573年にパナマのノンブレ・デ・ディオスを略奪したフランシス・ドレークが特に有名。 18世紀前半にカリブの海賊が終焉を迎えると、この単語も陳腐化したが、19世紀半ば、アメリカに領土拡張の機運が高まってアングロアメリカ人の冒険家が武力を以てカリブ、メキシコ、中米などの地域に侵入して支配下に置こうとする機運が高まるとこの単語が復活した。メキシコのバハ・カリフォルニア州ソノラ州ニカラグアホンジュラスなどに独立国を建国しようとしたウィリアム・ウォーカー(William Walker、1824年〜1860年)、ベネズエラキューバ、スペイン内戦で暴れ回ったナルシソ・ロペス(Narciso López、1797年〜1851年)、米西戦争(英語:Spanish–American War、スペイン語: Guerra hispano-estadounidense、1898年)に先駆けてキューバ独立を果たそうとしたジョン・クイットマン(John Anthony Quitman、1798〜1858年)の3人が著名。これが転じて後にアメリカ合衆国上院で議事妨害を指す比喩的な表現として「フィリバスター(filibustering)」が用いられるようになった。

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⑧1895年1月6日、王政復古を目指すロバート・ウィリアム・ウィルコックスをはじめとする先住ハワイ人たちが共和国に対し武装蜂起した。ワイキキでの小さな衝突が発端で2週間で武装蜂起は鎮圧されたが(多くの先住ハワイ人が虐殺されたともいわれる)政府軍にも死亡者が出た。リリウオカラニはこの件に直接関与していなかったが反乱を知りながら黙っていた事が問題視され、1月16日、弾薬や銃器を隠し持っていたという理由で]他の王族とともに反逆罪によって逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。1月22日リリウオカラニは約200人の命と引き換えに王位請求を断念し、今後は共和国への忠誠を誓い、一般市民として余生を送る趣旨の宣言書に署名した。こうしてハワイ王国は名実ともに滅亡したのである。リリウオカラニは2月27日、反乱に加担した罪で5,000ドルの罰金と5年間の重労働の判決を受けたが、9月6日に釈放された。

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「ハワイ併合」とハワイ領土政府樹立
1898年1月のハバナで起きた暴動をきっかけとして、米西戦争が勃発。この戦争は太平洋上のスペイン領土を巻き込み、そこに戦局を展開するための恒久的な補給地が必要であるとする世論が巻き起こる。アメリカはすでにハワイの真珠湾独占使用権を獲得していたが、これをより強固にするものとして俄然ハワイ併合派の声が大きくなった。そして7月7日、ウィリアム・マッキンリー大統領はハワイ併合(United States Annexation of Hawaii)のための決議案に署名し、ハワイの主権は正式にアメリカ合衆国へ移譲された。1900年4月、ハワイ領土併合法が公布され、同年6月にハワイ領土政府が設立される。要職にはハワイ共和国下の官僚が就くこととなり、初代ハワイ領土知事として、元ハワイ共和国大統領であったドールが就任した。その後1900年基本法と呼ばれる新法が布かれ、ハワイにもアメリカの諸法が適用されることとなった。

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アメリカ合衆国の併合により、既存の労働契約が無効化され、契約移民としてハワイに多数居着いていた日本人労働者がその過酷な労働契約から解放された。彼らは洪水のようにアメリカ本土への渡航をはじめ、1908年までに3万人強がアメリカへ移住したとされている。こうした日本人移民が問題視されアメリカにおける排日移民運動が始まったのだった。1907年に転航禁止令が布かれ、翌1908年には日米間で行政処置としてアメリカ行き日本人労働者の渡航制限を設ける日米紳士協約が交わされた。また、ハワイ本土においてストライキが法的に有効になったことを受け、これを挙行する労働者が増加した。

②アメリカでの排日運動が活発化するにつれ、ハワイにおいても日本人に対する風当たりは日に日に厳しいものとなっていった。当時ハワイに住む2万人を超える日本人の子供たちのためにハワイでは150校以上の日本語学校が開設されていたが、国粋主義を吹き込んでいるとの批判がなされた。こうした日本人の生活形態や日本人労働者やその子供に対する批判は英字新聞によって頻繁に取り上げられ、日本人排斥論として世論を形成していった[47]。こうした批判からくる不信感はやがて共産主義者陰謀論などと結びつけて日本人に対する恐怖感や嫌悪感を市民に助長する結果となった[48]。そんな中で第一次世界大戦が終結し、生産の機械化や合理化が労働を奪いアメリカに不況の波が押し寄せると、移民の数を制限しようとする動きが出てきた。1924年には移民数の上限を15万人に制限する法案が可決され、その割当数は北欧系に有利なものとされた。

③1941年12月7日、日本軍による真珠湾攻撃が行われた。約8時間半後の午後4時半にはハワイ全土に戒厳令が布かれ、1944年10月24日に解除されるまで、多くの戦時規制がなされた。ハワイは重要な軍事拠点としてその役割を果たすこととなり、軍事基地の建設が加速し、太平洋戦遂行の本部としてイオラニ宮殿に軍事政府が新設された。裁判権も軍の管理下におかれ、逮捕令状無しでの拘束が認められた。住人には門限が設定され、身分証の携帯が義務付けられ、指紋登録が強制された。電話の盗聴が実施され、全ての出版物、手紙が検閲の対象となり、日本語によるラジオ放送などは即座に禁止された。

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④同時に、日系人に対する不信感はさらに高まり、1942年1月5日には徴兵年齢の日系2世男子は4C(敵性外人)に分類され、すでに徴兵・編入されていた日系兵士は解任・除隊させられた。日本語学校教師やジャーナリストなど「特に危険」とされた1500人にも上る日本人・日系人強制収容所へ送られた。ハワイ地方防衛軍として国防に従事していた日系2世シゲオ・ヨシダは防衛総司令官デロス・エモンズにアメリカに対する忠誠を誓う嘆願書を送付し、日系人による陸軍部隊である第442連隊戦闘団の前身となる大学勝利奉仕団 (V.V.V) を結成した。

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⑤また、当時人口約26万人だったハワイに、100万人とも言われる兵士と10万人近い新しい労働者たちがやってきた。軍需景気に沸くかたわら、男女比は著しく不均衡となり、アメリカ本土では1941年に兵士に対する売春行為が禁止されていたにもかかわらず、特例的に認可される程であった。こうした現象は地元の女性にとっては脅威となり、アメリカ人兵士によるレイプ犯罪が後を絶たなかった。

*米国映画「地上より永遠に(From Here to Eternity、1953年)の舞台(1941年時点のホノルルとワイキキ)。原作は「大突撃(1964年)」「シン・レッド・ライン(1998年)」を書いたジェームズ・ジョーンズの小説。第26回アカデミー賞作品賞、監督賞(フレッド・ジンネマン)、助演男優賞フランク・シナトラ)、助演女優賞(ドナ・リード)、脚本賞(脚色部門:ダニエル・タラダッシュ)、撮影賞(バーネット・ガフィ)、録音賞(コロンビア映画サウンド部門)、編集賞(ウィリアム・ライアン)の8部門を獲得した。また1994年米国連邦議会図書館においてアメリカ国立フィルム登録簿に登記された。

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⑥1942年6月、ミッドウェー海戦でアメリカ軍が勝利を掴み、日本軍によるハワイ侵攻の可能性が低減すると、1943年に灯火管制が解除され、1944年10月に戒厳令が解除された。

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翌年、第二次世界大戦が終結すると、ハワイでの日常に変化が見られるようになる。それまで白人に牛耳られていた政治・経済体制が、一時的にせよ権力を取り上げられたことで弱体化し、1946年に発生したストライキでは初めて労働者側が賃上げに成功したのである。また、アメリカ本土からやってきた兵士たちにとって、戦地へ赴くための一時の安息地として機能したハワイは彼らに「ハワイは身近な楽園」というイメージを広めた。これを契機として、戦争特需に代わるものとしてハワイは観光施設の拡充に着手し始め、後の観光都市としての第一歩を踏み出すのである。

 アロハ・オエ(ハワイ語:Aloha `Oe)

ハワイ王国第8代女王リリウオカラニによって作られた歌。ハワイを代表する曲として世界中で広く親しまれている。www.youtube.com

雨が誇らしげに尾根を横切り
森の中を通り抜けていく
未だ開かぬ蕾を探しているかのように
山あいに咲くレフアの花よ

あなたにアロハ あなたにアロハ
木の陰に佇む心優しき人
去っていく前に
もう一度あなたを抱きしめよう

懐かしく暖かい思い出が胸をよぎる
ついこの間のことのように
愛する人よ 我が愛しき人よ
真心は決して引き裂くことはできない


私はあなたの素晴らしさをよく知っている
マウナヴィリに静かに咲くバラの花
そこにいる啼かない鳥たち
そして木の陰にいる美しい人

あなたにアロハ あなたにアロハ
木の陰に佇む心優しき人
去っていく前に
もう一度あなたを抱きしめよう
また会えるその時まで

*この曲の譜面は1895年に発売され、たちまちミリオンセラーの大ヒットとなったが、製作された時期に関しては1883年にサンフランシスコで初演されたという説と、ハワイ王国が白人勢力の圧力により崩壊する前後[注釈 3]に作られたとする2つの説が存在する。歴史家のラヒラヒ・ウェッブの記録によれば、1878年にまだ若い王女であったリリウオカラニが、オアフ島北部のマウナヴィリという場所で、ある少女と軍人との別れの光景を目にして書いた詞であるとされており、一般的にはこれが定説となっている。しかしながら歌詞の内容が、雨を共和制実現を目指す白人勢力、花を国民の暗喩と考えれば、王国の滅亡が目前となった当時の状況や女王の心情に驚くほど見事に符合することから、1883年初演説は強引な従属国化・併合に対する世論の反発を恐れた当時のアメリカ人による捏造ではないかと考える人も存在する。少なくとも、仮に1878年に原型となる詞が作られていたとしても、クーデターにより王位を追われ、支持者の多くが投獄され、自らも反逆罪の汚名を着せられイオラニ宮殿に幽閉された女王が、この歌に滅びゆく祖国の悲哀を重ね合わせ、国民への感謝と惜別、あるいは再決起や支持を求める思いを込めていたであろうことは想像に難くない。このような経緯もあってか、アロハ・オエのメロディーは後に、イエス・キリストの再臨による平和の回復を待望するという内容の歌詞が新たに付けられ、讃美歌としても使用されている。

 こうして「夢のハワイ」の時代は始まったのでした。

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オバマ大統領の出生地でもありますね。例の広島スピーチにも上掲の様な歴史に触れているとも読めない事もない箇所が存在します。

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Artifacts tell us that violent conflict appeared with the very first man. Our early ancestors having learned to make blades from flint and spears from wood used these tools not just for hunting but against their own kind.
遺物を見れば、暴力的な衝突は人類の歴史が始まった頃からあったことがわかります。黒曜石から刃を、木から槍を作るようになった私たちの初期の祖先は、それらの道具を狩りのためだけでなく、自分たち人類に対しても使ったのです。

On every continent、 the history of civilization is filled with war、 whether driven by scarcity of grain or hunger for gold、 compelled by nationalist fervor or religious zeal. 
どの大陸でも、文明の歴史は戦争で満ちています。戦争は食糧不足、あるいは富への渇望から引き起こされ、民族主義者の熱狂や宗教的な熱意でやむなく起きてしまいます。


Empires have risen and fallen. Peoples have been subjugated and liberated. And at each juncture、 innocents have suffered、 a countless toll、 their names forgotten by time.
多くの帝国が勃興と衰退を繰り返しました。多くの人間が隷属と解放を繰り返しました。そして、それぞれの歴史の節目で、罪のない多くの人たちが、数えきれないほどの犠牲者を生んだこと、そして時が経つに連れて自分たちの名前が忘れ去られたことに苦しめられました。

 さて、私達は一体何処に向けて漂流してるんでしょうか?

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