諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「天動説の時代」と「地動説の時代」の狭間

欧州の科学実証主義はイタリア・ルネサンス期にパドヴァ大学ボローニャ大学の解剖学部で流行した新アリストテレス主義、すなわち「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。逆を言えば実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」に始まるとされています。まさにこれこそが伝統的価値観を覆す事を一切許さない全人格的権威主義の完全打倒を目指す「地動説の世界」。
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ガリレオ・ガレリイが地動説の提唱を開始したのもまた、そうした空気の蔓延するパドヴァ大学においてでした。しかし次第にイエズス会設立に象徴される教皇庁の魔の手が迫ってきます。そしてガリレオ・ガレリイが餌食にされるとトマス・ホッブスデカルト撮った知人達も用心深くなり、そのせいで欧州における科学実証主義の歴史は(三十年戦争の泥沼化によって国王と教会の権威が再び地に落ちた)17世紀中旬まで足踏み状態が続くのです。これぞまさに伝統的価値観を覆す事を一切許さない「天動説の世界」。

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18世紀に入ると両者の妥協の産物としてフランス啓蒙主義あるいは百科全書派が登場。とはいえ両者の関係は全く対等ではありませんでした。「フランス絶対王政中心にありとあらゆる知識を統合する事により、将来の転覆パラダイム・シフトの可能性を除去し尽くす事を目指す」といった守旧派的側面を内側に抱え込みんでいたからです。
*いうなれば北欧神話において光の神バルドルが死の不安を払う為に「彼を傷つけるかもしれないありとあらゆるもの」と不戦協定を結ぼうとした様なもの。しかしもちろんバルドルヤドリギを、アウブスグルブの宗教和議(1555年)がカルヴァン派を見落としていた様に「完璧な対策」などないと考えるのが元来の意味での「地動説の世界」という事になる。

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「百科全書(L'Encyclopedie, ou Dictionnaire raisonne des Sciences, des Arts et des Metiers、1751年〜1772年)」

ダランベールが執筆した趣意書によれば、これは「技術と学問のあらゆる領域にわたって参照されうるような、そしてただ自分自身のためにのみ自学する人々を啓蒙すると同時に他人の教育のために働く勇気を感じている人々を手引きするのにも役立つような」事典であった。しかしこれは無味乾燥な事実の集成ではなく、ディドロらが採用した編集方針(思想的な主調)は、ジョン・ロック流の経験論とニュートンの打ち立てた新科学、およびこれから派生してきた感覚論、唯物論を核とするものであり、これらの思想にもとづいて当時の技術的・科学的な知識の最先端を集めた「百科全書」は、スコラ哲学、デカルト主義などの古典的世界観をうち破り、自由な考え方を普及するのに大きく貢献した。また企画段階から体制側との緊張関係のなかで刊行された「百科全書」は、そこに記された思想によって意味をもつだけでなく、その刊行自体が、一つの政治的な意味をもっており、18世紀のフランス思想界が成し遂げた金字塔といえる。

 「天動説」から「地動説へ」 - Wikipedia

17世紀になって望遠鏡が発明され、天動説に不利な観測結果が次々ともたらされる。しかし当時は望遠鏡を錬金術師が使う非科学的な呪具であると考える者が多く、また依然として残る宗教的圧力によって天動説を捨てる学者はなかなか現れなかった。天動説の優位性は、太陽の周りを地球が公転するなら月は軌道を保てずに飛んで行ってしまうであろうという批判に対し、当時の地動説が反証できなかった点にあった。しかし、1610年にガリレオ・ガリレイが望遠鏡を用いて木星に衛星があることを発見した。 この発見により、天動説は木星の月が飛んでいってしまわない理由の説明に窮した。

さらに、ヨハネス・ケプラーが惑星の運動は楕円運動であること(ケプラーの法則)を発見する。ケプラーの説は天動説やそれ以前の地動説モデルよりも遥かにシンプルに天体運行を説明でき、しかもケプラーの法則に基づくルドルフ表(天文表)の正確さが誰の目にも明らかになり議論は収束に向かった。恒星の年周視差が未だ観測できないという地動説モデルの弱点は、この大発見の前には些事でしかなかった。

ニュートンは、ケプラーの法則を支持する慣性の概念を始めとした運動の法則、および万有引力の法則という普遍的な法則を導きだした。これらの法則は天動説をとるにせよ地動説をとるにせよ大きな謎であった天体運動の原動力及び月が飛ばされない理由に回答を与えた。さらに、惑星に限らず、石ころから恒星まで、宇宙のあらゆる物体の運動をほぼ完全に予測・説明できる手段となった。これらの圧倒的な功績によって、地球中心説としての天動説は完全に過去のものとなった。

しかし人間社会はとそんなに合理主義的に動くものなのでしょうか? 例えば当時は「魔女狩り」の時代でもありました。読書は確かに人間の想像力を現実の拘束から解放する場合があります。問題は解放された想像力がどこに向かうか。常に最初からいきなり正しい方向に向かうとは限りません。

魔女狩り (岩波新書) 新書 – 1970/6/20

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魔女狩りは、“魔女狩りの手引書”といわれる『魔女の槌』が著わされた1480年代に始まり、その後一時停滞し、1580年代に再び、魔女についての新しい文献が出て再燃し、今度は大きな被害をもたらしたという。これを一続きの流れとして見がちである。しかし、実際には二つの大きな波としてみることができる。宗教裁判所が先頭に立って行ない、犠牲者は限られていた1480~1520年と、世俗裁判所(領主・国王)が行ない、被害は大きかった1580~1670年とである。仮に前者を前期魔女狩り、後者を後期魔女狩りとする。

  • 前期魔女狩り(1480年〜1520年)カソリック圏において、貨幣経済浸透による農村の共同体的風習の破壊と軸を同じくして進行。貨幣は余所者と一緒に流入してくるので次第に隣人が信用出来なくなっていき、疑心暗鬼が募った結果起こったヒステリーとも。
    *ちなみに伝統的な狼男のイメージもこの時期を境に「森の奥を彷徨う共同体からの追放者(そうした人物との邂逅そのものが物語の主題)」から「集落に人間として紛れ込んで隙あらば隣人を餌食にしようとする物騒な災厄(必ず未然に発見され、撃退される)」へと変貌。興味深いのは第二次ウィーン包囲(1683年)以降反撃に転じた神聖ローマ帝国オスマン帝国から回復したトランシルバニア地方などの東欧にはこうした伝承が古形のまま残っており、それが欧州に改めて流入して両者が混じり合う形で近代吸血鬼譚の原型が形成されたという事。

  • 後期魔女狩り(1580年~1670年)…その主舞台はプロテスタント圏、例えば薔薇戦争(1455年〜1485年/1487年)によって大貴族連合が崩壊して「絶対王政テューダー朝(1485年〜1603年)が成立し、その絶対王政性をステュアート朝スコットランド王統1371年〜1714年、イングランド王統1603年〜1707年、グレートブリテン王統1707年〜1714年)が継承しようとして清教徒革命(1638年〜1660年)や名誉革命(1688年〜1689年)が引き起こされたイングランドなどであった。
    *はからずしもチューダー朝時代に「王国の藩屏」として抜擢されたジェントリー階層が地方巡回判事や中央政界の廷臣として地歩を固めていった時期に該当。おそらくこれらの地域において「農村に浸透して共同体的風習を破壊した」主体は貨幣経済というより国家権力に裏打ちされたコモンローだったのだろう。

ちなみにエクソシスト(Exorcist、退魔師)が行う悪魔祓いの儀式をローマ教会は「カソリックの権威を高める為のデモンストレーション」、英国政府は宗教的因習に拘束された被害者の精神的解放の扶助行為」と規定しているとか。あるいはこの違い、そのまま「前期魔女狩り」と「後期魔女狩り」の性質の違いに重なってきそうな気がします。また前者が均衡と調和を求めるのに対して、後者が自由と解放を求めるといった比較も可能かも。

そういえば「イングランド王室の藩屏」たるジェントリー階層はローマ教会の神学の影響から逃れる為に大学においてギリシャ・ローマ文学を基礎教養として叩き込まれるそうです。ゲーテバイロン卿はその作中においてギリシャ(を含むオスマン帝国支配下の「未回収の欧州」)を吸血鬼の故郷としましたが、これも(ロマン主義的世界観と表裏一体の関係にある)古典主義的想像力のなせる技?
*ただしポリドリ「吸血鬼(The Vampire、1818年)」流行に便乗した演劇では舞台をスコットランドに移す事が多かった。そういえば森の精霊に変貌した娘の死霊が青年を道連れにしようとする筋書きはゴーチェ脚本のロマンティック・バレエ「ジゼル(Giselle、1841年)」と同じの「ラ・シルフィード (仏: La Sylphide、1832年)」も舞台はスコットランド。一方「三大バレエブラン(Ballet Blanc=白のバレエ)」の掉尾を飾るチャイコフスキーの「白鳥の湖(Swan Lake 1877年)」の舞台は「ジゼル」同様ドイツの山奥。チャイコフスキーワーグナーの大ファンでもあったので、白鳥の姿をした娘の死霊達は指輪4部作のワルキューレに重ねられているとも。「崖の上のポニョ(2008年)」同様、自意識を覚醒させたヒロイン以外は誰かへの隷属を続ける設定です。「究極の自由は専制の徹底によってのみ完成する」ルールがここでも?

近世における科学と出版の歴史
鈴木晃仁「魔女狩りと近代ヨーロッパ」

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1070年頃、イタリアで「学説彙纂」の写本(いわゆるフィレンツェ写本)が再発見されローマ法が見返される契機となる。

東ローマ帝国では、古代ローマ帝国最後の皇帝たるユスティニアヌス帝(在位527年〜 565年)が市民法大全を創造。

  • ユスティニアヌス1世は法務長官トリボニアヌスをはじめとする10名に、古代ローマ時代からの自然法および人定法(執政官や法務官の告示、帝政以降の勅法を編纂させ、完成した『旧勅法彙纂』を529年に公布・施行。ついでトリボニアヌスを長とする委員に法学者の学説を集大成させた。これが533年に公布された『学説彙纂』である。これと同時に、初学者のための簡単な教科書『法学提要』も編纂させ、これまた533年に公布・施行。このあと新しい勅法が公布され、かつ『学説彙纂』や『法学提要』の編纂によって『旧勅法彙纂』を改定する必要が生じたのでトリボニアヌスをして新たに勅法の集成を命じた。これで生まれたのが『勅法彙纂』であり、534年に公布・施行。東ローマ帝国においてはこれが法実務の基礎となった。

  • ウマイヤ朝イスラム兵を撃退した皇帝レオーン3世(在位717年〜741年)は、8世紀前半にエクロゲー (Ecloga) という新たな法典を公布。

  • 9世紀には、アルメニア農民から一代で成り上がった皇帝バシレイオス1世(在位867年〜886年)とその息子たる皇帝レオーン6世(在位886年〜912年)がユスティニアヌス法典中の勅法彙纂と学説彙纂を総合的にギリシャ語に翻訳させ、バシリカ法典として知られるようになった。ユスティニアヌス法典やバシリカ法典に記録されたローマ法は、東ローマ帝国の滅亡とオスマン帝国による征服の後でさえ、ギリシャ正教の法廷やギリシャにおいては法実務の基礎であり続ける。

西ヨーロッパでは、ユスティニアヌスの権威はイタリア半島イベリア半島の一部までしか及ばなかった。

  • 東ローマ帝国東ゴート王国を滅ぼし、わずかな間ながらイタリア半島を制圧したことから、ローマ・カトリック教会ユスティニアヌス法典の保存者となった。そして教会法に影響を与える事により細々と生き続ける。

  • その他の地域では、ゲルマン諸王が独自に法典を公布し、多くの事案で、かなり長い間、ゲルマン諸部族には彼ら独自の法が適用され続けた。その一方でローマ市民の末裔には卑属法が適用され続ける。それらの中にも東ローマの法典の先行影響が見て取れなくもないが、中世初期における法実務への影響力はわずかであった。

  • 西ヨーロッパでもユスティニアヌス法典のうち勅法彙纂と法学提要は知られていたが、勅法彙纂は雑多な法の集合にすぎず、法学堤要は初心者向けの内容にすぎなかった(それさえも当時のゲルマンの法律家にとっては難解で十分に理解できるものではなかった)。学説彙纂も何世紀もの間おおむね無視されていたが、それもやはりあまりに大部で理論的に難解だったせいだった。

十字軍派兵(1096年〜1272年)を契機としてヘレニズム文化がイスラムを通じて伝播してきた為、ようやく学説彙纂の真の価値が再発見される下準備が整う。

  • この頃から古代ローマの法律文献を研究する学者が現れ、彼らが研究から学んだことを他の者に教え始めたが、そうした研究の中心となったのがボローニャだった。そしてボローニャの法学校は次第にヨーロッパ最初の大学の一つへと発展していく。

  • 中世ローマ法学の祖となったのはイルネリウス(Irnerius)であり、難解な用語を研究し、写本の行間に注釈を書いたり (glossa interlinearis) 、欄外に注釈を書いたり (glossa marginalis) したことから註釈学派と呼ばれた。ボローニャ大学でローマ法を教えられた学生達は、皆ラテン語を共通言語に、後にパリ大学オクスフォード大学ケンブリッジ大学などでローマ法を広め、西欧諸国に共通する法実務の基礎を築いていく。

こうして欧州へのヘレニズム文化の流入が始まった。

11世紀〜12世紀 カバラー(ユダヤ神秘主義)の成立

この時期、プロヴァンスの現地ユダヤ人(アシュケナジムの先祖筋)はトーラーをイベリア半島からやってきたインテリユダヤ人(セファルダムの先祖筋)から学んだ教養と対応付ける作業に取り組んだ。その結果生まれたのがカバラー(ユダヤ神秘主義)で、これは元来単なる古代年表に過ぎなかった「春秋経」が精読され、深読みされ、膨大な注釈を付されて「春秋左氏伝」「春秋公羊伝」「春秋穀梁伝」などへと発展していったプロセスを思わせる。

ペストの流行によって検疫の都合上人が簡単に出歩けなくなった事は農奴制強化に繋がる一方で死を日常の一部として受け容れざるを得なくなった人々を時としてスケープゴートたるユダヤ人の迫害に走らせ、また時として表面上は平静さを保つ為の内省的な神秘主義に走らせたとされる。

  • 最近の研究によって魔女狩りはまだなかった事が明らかになっている。

  • 12世紀ルネサンスでヨーロッパに流入したヘブライ語文献やギリシャ語文献やアラビア語文献やそのラテン語訳の影響なら確実にあった。また中継貿易で栄えていたケルンなどライン川流域の諸都市のユダヤ人社会経由でカバラーが広まってゲルマン神秘主義に影響を与えた可能性も皆無ではないものの、いずれにせよこの時代まではカバラーもゲルマン神秘主義密教で言う雑密の様なもので体系立てられたものではなく、それ故に後世に与えた影響も限定的なものにならざるを得なかった。

  • この次元ではあくまで数秘術やセフィロトの樹を巡る様々な議論は出てこない。

いずれにせよ後世に名を残したパラケルスス錬金術士のヨハン・ファウスト博士、占星術師のノストラダムスなどが台頭してくるのは15世紀から16世紀にかけてであって、神秘主義全体の歴史から俯瞰すれば当時の展開など些細な前史に過ぎないとも。

1290年 英国王エドワード1世(在位1272年〜1307年7月7日)によるユダヤ人追放

リュジニャン一族を優遇し、ウェストミンツァー寺院を当時フランスで流行していたゴシック様式に建て替えさせた「親仏派」ヘンリー3世(在位1216年〜1272年)が第二次バロン戦争(1264年〜1267年)で打ち倒されると、第8回十字軍(1270年)に従軍中だったエドワード1世(在位1272年〜1307年)が即位して以降フランスとスコットランドとの戦争に明け暮れた。当然軍資金と国家運営資金の調達が問題となり,1275年にユダヤ人に対する借金を棒引きにし、以降ユダヤ人が金貸し業に携わる事も禁止する旨を宣言。さらにユダヤ人社会の指導者達を投獄し多額の身代金を要求し,1290年にそれが支払われると全ユダヤ人を国外に追放した。

  • イングランドでは、この時代までにすでに封建制(土地の接受を通して主君と家臣が主従関係を持ち、家臣が主君に対して軍役奉仕義務を負う制度)は消滅過程に入っていた。領主と土地保有者の間の土地接受関係は続いていたが、土地保有者が領主に対して負う義務は軍役奉仕より金銭に移行しつつあり、したがって両者の関係は「主君と家臣」というより、「地主と借地人」といったほうが適切になりつつあったのである。

  • この流れに拍車をかけたのは1290年に制定された再下封禁止法だった。これは国王や領主から土地を受封している土地保有者が土地を誰かに売却する再下封をした場合、購入者は売却者に対してではなく、国王や領主に直接に封臣としての奉仕責任を負うことを規定していた。

  • 国王や領主の封建的収入を上昇させる目的の法律だったが、これにより国王直接受封者の数が急増し、諸階層の水平化が進んで封建制度の精神の崩壊を招いた。すなわち国王の直接封臣であることがもはや何の自慢にもならなくなり、議会招集を受けることこそが自慢になったのである。
    薔薇戦争による大貴族連合没落後のジェントリー階層躍進を準備したとも。

  • これには封建社会から議会制国家への移行を促す効果もあったとされるが、いずれにせよ国王の封臣は急増し、国王の封建的収入は増え、王権強化に資したとされる。

「王室とユダヤ商人の関係の清算」もまた、こうした流れと同進行で進んだと考えられている。

  • 中世ヨーロッパにおいてユダヤ人はキリスト教会が禁じていた金融業によって財力をつけたが、高い金利で債務者から憎まれることが多く、ユダヤ人が頼れるのは国王の保護だけであった。保護を受ける代わりにユダヤ人は国王に命じられるままに金を献上せねばならなかった。ユダヤ人は国王の「私有財産」「奴隷」状態だった。もし国王が保護の手を引きあげればユダヤ人虐殺が起こるのが常だった。

  • イングランドユダヤ人が最初に入ってきたのはノルマン・コンクエストの時にウィリアム征服王に従ってであった。それ以前のアングロサクソン時代はあまりに原始的な社会だったので、金融業が入り込む余地はなかったが、フランスから来たノルマン朝プランタジネット朝の国王たちは他の大陸諸国の王たちと同じくユダヤ金融業者を必要とした。

  • ところが1290年になってエドワード1世はユダヤ人をイングランドから追放した。要因としては国王がユダヤ人を追放すると人々からは自己犠牲の行為として称賛されること、「微利金貸し」のキリスト教徒から金融を受ける目途が立ったため、財産没収による一時的な収入増加が見込めることなどである。

ユダヤ人追放後イングランド金融はフランドル人、イタリア人、さらに後にはイングランド人資本家によって担われるようになっていく。ユダヤ人が再びイングランドに移民するのは近世のステュアート朝以降である。

1306年 フランス国王フイリップ4世(在位1285年〜1314年)によるユダヤ人追放

国家運営資金とイングランドとフランドル伯に対する戦争の費用捻出に悩んでいたこの王がエドワード1世の政策を真似て遂行したもの。パリ高等法院を創設して売官できるようにしたり、三部会を設置して市中からも資金を吸い上げたりしたが、全て戦争を戦い抜く為とされた。しかし実際には国王が封建関係の頂点に立ち、従来の慣習を超えて国家の防衛や国益の為に動く先例が次々と積み重ねられていったのである。

  • この王は1307年にはテンプル騎士団のメンバーを一斉に逮捕して全財産を没収した上,1314年に団長ら最高幹部を異端として火刑に処したが同年死亡。「アナーニ事件(1303年)」でローマ教皇を憤死させ「アヴィニョン虜囚(1309年〜1377年)」を敢行した悪名高い人物であったが同時に官僚制度を整備しフランスで初めてキリスト教会も例外としない全国的課税実施にこぎつけている。
    *ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義(Liebe, Luxus und Kapitalismus、1912年)」によれば、こうして誕生したアビニョン法王庁における贅沢三昧の日々が個人主義と資本主義の起源という事になる。教皇の膝下は同時にユダヤ人庇護地区でもあり、その「連日の宴会」を経済的に支えたのも彼らとも。実際、プロヴァンスにフランス王権が及ぶにつれ彼らはこの地においても居場所をなくしていくが、アビニョン教皇直轄領だけは終始その例外であり続ける。

  • 次の王の治世には帰国を認められたが1320年には「羊飼いの十字軍」と称する民衆運動の襲撃対象となり、翌年には5000人が「井戸に毒を投げ込んだ復讐」と称して生き埋めにされてしまった。こうした一連の弾圧の結果1322年までにフランス全土からユダヤ人の姿がほとんど見られなくなり,1394年にはほぼ完全に追放される事になる。

ちなみに追放されたユダヤ人の多くは、当時まだフランス領ではなかったプロヴァンスに逃げ込んだと考えられている。英国から逃げ出したユダヤ商人も合流。一方、ドイツに逃げ込んだユダヤ人はさらにこの地からも追放されポーランドリトアニアといった東欧諸国に逃げ込み、現地貴族の管財人という新たな立場を得る事に。ナチスドイツのホロコーストによってドイツ本国の何倍もの規模で虐殺され、アメリカに大量に亡命した東欧系ユダヤ人とは要するに彼らの末裔だったのである。

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1300年代 ルネサンス(恋愛ロマンスを含む説話集中心)…イタリア文学の基礎がトスカーナ方言で執筆されたダンテ「神曲(La Divina Commedia、地獄篇1304年〜1308年頃、煉獄編1304年〜1319年、天国篇1316年頃〜1321年)」やペトラルカ(Francesco Petrarca, 1304年〜1374年)のラテン文学純正化運動、ボッカッチョの枠物語「デカメロン(Decameron、1348年〜1353年)」といったフィレンツェ人作家によって基礎づけられた。背景に「教皇庁のお膝元」としてのフィレンツェの経済的繁栄があった事はいうまでもない。

*その前史としてフランス国王ルイ8世(Louis VIII, 在位1223年〜1226年)が王権拡大に政治利用したアルビジョア十字軍(フランス語Croisade des Albigeois, オック語Crosada dels Albigeses, 1209年〜1229年)で討伐されたプロヴァンス宮廷から逃げ込んできたオック語宮廷吟遊詩人達が、ホーエンシュタウフェン朝(Hohenstaufen, 1138年〜1208年、1215年〜1254年)神聖ローマ帝国フリードリヒ2世(Friedrich II., 在位1220年 〜1250年)/シチリア国王フェデリーコ1世(Federico I、在位1197年〜1250年)の国際色豊かなパレルモ宮廷などに逃げ込んだ経緯が語られる事も多い。

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戸坂潤 「現代唯物論講話(1938年)」

ここでの自由は、ダ・ヴィンチミケランジェロ、或いはボッカッチョにおいて見受けられるような、芸術的創造の自由またはロマン的自由に他ならぬ。ロマンは俗語(ロマンス語)による世俗人情的物語で、浪漫主義の歴史的起源をなす。デカメロンが典型的なロマンスであることは人の知る通り。この自由の特色ははるか後になって、ドイツ浪漫派哲学者のシェリングの初期の思想の中心をもなしている。世界を構想(想像・幻想)する自由、自我の内から世界を出し、また世界の随処に自我を見る自由がこれだ。

ただしシェリングがその「人間的自由の本質に就いて」において語る自由は、もはや個性の自由ではなくまたなおさら政治の自由でもない。人格の倫理的自由が、ここでは人間の宗教的自由にまで押し進められている。自由なるものの興味は、他からの強制を否定する自己原因的な自律の内に存するよりもむしろ、完全に無原因なアービトラリネス(arbitrariness、恣意性)の内に、すなわち悪をさえなし得る自由の内に見出される。これは神学的自由である。懐古的な小ブルジョア反動分子のイデオロギーに過ぎないロマンティークの行きつく処は、文学的には中世的カトリックへの憧憬であったが、哲学的には神学へ赴かざるを得なかったのである。
*1930年代における日本のマルクス主義者の解釈。19世紀前半におけるロマン主義運動はしばしば「政治的」と表現されるが、それはある意味全ての価値観を国王や教会の全人格的統治下に置き続けたいと考える農本主義的伝統との全面戦争という側面があったからである。逆を言えば2月/3月革命(1848年〜1849年)によって国王や教会がそうした側面の代表者とみなされなくなると、これと戦ってきた政治的浪漫主義者もまとめて共倒れになった。その結果生じた「空白期」、あるいは「それでは個人的自由はどう行使されるのが正しいか」という新たな問題が浮上してきた視野逆転期に正しく適応し名前を挙げた理論家の一人がマルクスだった訳だが、後世のマルクス主義信者の中には、あえてこうした時代的背景を無視して「政治=マルクス主義こそ(それまで国王や教会が有していた)人類に対する全人格的代表権の継承者」と熱狂的に語ろうとする者が少なくなく、せっかくの歴史的意義を台無しにしてしまっている。魯迅が「主人と奴隷が立場を交換しただけでは奴隷制は無くせない」と嘆いて見せた様に、全人格的権威主義からの脱却はそこまで難しい。

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大飢饉が勃発(1315年〜1317年)…ロシアや南イタリアを含め欧州のほとんどの地域が大被害を被り、数百面人の餓死者を出したと推測されている。11世紀から13世紀にかけての成長と繁栄は完全に過去のものとなり、犯罪と疫病が蔓延。欧州はこの痛手から1322年まで回復する事はなかった。地域によっては幼児遺棄や共食いが横行。「ヘンゼルとグレーテル」の物語はこの地獄絵図の記憶から紡ぎ出されたと考えられている。

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  • 「大飢饉」以外にも地域的飢餓が慢性化していた時代でもあった。フランスの場合は1304年〜1305年、1310年、1330年〜1334年、1349年〜1351年、1358年〜1360年、1371年、1374年〜1375年、そして1390年。イングランドも1321年、1351年、1369年に食糧不足に陥る。英国王室の公式記録によれば1276年時点の平均寿命は35.28歳。それに対して大飢饉を挟んだ1301年から1325年にかけては29.84歳、ペストが大流行した1348年から1375年にかけては17.33歳(産業革命以前の社会では幼児死亡率は非常に高くて当たり前だったので、この数字が直接成人の平均寿命に対応する訳ではない)。
    *1300年以前の中世温暖期、欧州人口は爆発的増加を経験してきたが、一方小麦の生産効率の低下は早くも1280年から始まっていた。そして北ヨーロッパは1310年から1330年にかけて(約5年に渡って続いたニュージーランドのタラウェラ火山の噴火の影響もあって)厳しい冬と雨と冷夏を経験する。

  • 英国王エドワード2世(Edward II、在位1307年〜1327年)は英国史上最低の王とされる。優柔不断で政治への関心に乏しく全てをギャヴィストンやディスペンサー父子といった寵臣に丸投げして諸侯や議会との対立を深め(これらの寵臣は両性愛者の英国王と愛人関係にあると信じられていた)、1326年に王妃イザベラが起こしたクーデタで幽閉の身となり、その翌年に議会から廃位されたうえ、王妃の密命で肛門に焼け火箸を差し込む拷問などが繰り返された上で殺害されてしまうのである。そしてこれ以降、1330年までイザベラとマーチ伯はエドワード3世(在位1327年〜1377年)の摂政として権力を握り続ける。
    エドワード2世 (イングランド王) - Wikipedia
    *1301年、エドワード2世はイングランド支配下ウェールズの人心掌握を目的としてすることを目的として父王エドワード1世からウェールズ大公(プリンス・オブ・ウェールズ)の称号を与えられた。王太子ウェールズ大公となる伝統の始まり。

    イザベラ・オブ・フランス(Isabella of France、 1295年頃〜1358年)…その美しさから、広くヨーロッパの各宮廷に「佳人イザベラ」として知られたイングランドエドワード2世の王妃。エドワード2世を廃位に追い込みエドワード3世の摂政にして愛人だったロジャー・モーティマーと共に実権を握る。フランスと講和し、エディンバラノーサンプトン条約ではスコットランド王国の独立を認め、スコットランド王太子デイヴィッド(後のデイヴィッド2世)とエドワード3世の妹ジョーンの結婚による同盟を締結するなど数々の屈辱的外交を行い,1330年10月に親政開始を望むエドワード3世がクーデターを開始。ノッティンガムで逮捕されたモーティマーは11月末の議会で「悪名高き罪」により絞首刑を宣告され市中引き廻しの上、タイバーン刑場で処刑され遺体を切り刻まれた。王太后イザベラが一切の権限を剥奪されライジング城へ幽閉されただけで済んだのはカペー本家出身でフランス王位継承権まで主張可能な立場にあり、エドワード3世が傍系ヴァロワ家出身のフィリップ6世の即位に異議を唱え、自らフランス王位継承を求めていた立場上罪人として捌けなかったから。
  • 一方フランス国王ルイ10世(Louis X、在位1314年〜1316年)はフランドルやブルゴーニュ公国やイングランドとの戦争に明け暮れ強情王または喧嘩王と渾名された。しかし略奪による食糧状況改善にも穀物禁輸措置にも失敗。1316年にあっけなく崩御した後、後を継いだジャン1世もわずか1ケ月で崩御カペー朝の直系男子は断絶の憂き目を見た。ルイ10世の弟に当るフィリップ5世(Philippe V、在位1316年〜1322年)やシャルル4世(Charles IV、在位1322年〜1328年)の治世もあまりパッとせず、カペー朝は断絶。王位が従弟のフィリップ6世(ヴァロワ伯シャルルの子)に移り、ヴァロワ朝が開かれた。
    *シャルル4世はシャルル5世同様、あくまで領土拡大による問題解決を志向し続けたらしく、1323年にはフィリップ5世が1320年に中止した十字軍の計画を再開し(翌年頓挫)、1326年には反乱に苦しめられていた東ローマ帝国への介入を試みている(フィリップ4世崩御で頓挫)。
    ルイ10世 (フランス王) - Wikipedia
    フィリップ5世 (フランス王) - Wikipedia
    シャルル4世 (フランス王) - Wikipedia
    *ちなみにルイ10世はジュ・ド・ポーム(テニスの原型)好きで世界初の屋内競技場を建築した事でも知られる。

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  • 一方、新たにヴァロワ朝を開闢したフィリップ6世(Philippe VI de Valois、在位1328年〜1350年)はフランス王位継承権を有する英国王エドワード3世の政敵であるスコットランド王デイヴィッド2世の亡命を許し、1337年に始まる英仏百年戦争の引き金を引いてしまう。
    フィリップ6世 (フランス王) - Wikipedia
    *このフィリップ6世の時代に(王位継承権争いを抑え込む為に)ドーフィネ領を購入してフランス王太子に与え、フランス王太子が代々ドーファンの称号を継承していく伝統が始まる。そしてこれを契機として(それまでドーフィネ地方の郷土料理に過ぎなかった)グラタン料理がフランス宮廷に伝わる事になる。

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1324年 アイルランドで初めて魔女裁判が開かれる。訴えられたアリス・キテラは金持ちの男と結婚するが夫に死なれ、通算4回結婚する事になった。夫に死なれるたびに財産を増やしていったことを周囲から妬まれ「彼女の魔法の秘薬によって夫達は殺された」と告発されたのである。彼女はただちにイングランドに逃亡したが、召使いペトロニーラ・ディ・ミーズは捕まり火刑にされた。
*とはいえアイルランドやオランダでは何故か魔女裁判が激化する事はなかった。

英仏百年戦争(1337年/1339年〜1453年

(次々と改革を遂行し軍事作戦を成功させ英国を強国に育て上げてきた英国王エドワード3世がにフランスに挑戦状を送付したのが1337年。ギュイエンヌ、カンブレーにおいて実際の戦闘開始が始まったのが1339年で、以降英国がボルドーを失陥した1453年まで続く。フランス王国の王位継承をめぐるヴァロワ朝フランス王国と、プランタジネット朝およびランカスター朝イングランド王国の戦いで、これによって現在のフランスとイギリスの国境線が確定し、以降は各国において王室と大諸侯が対峙し合う時代へと推移した。
*最終局面におけるカスティヨンの戦い(フランス語:Bataille de Castillon, 英語:Battle of Castillon、1453年)は、ヨーロッパ史において大砲が戦争の決着をつけた主要な要因となった初めての戦いとされる事が多い。英国軍側司令官だったシュルーズベリー伯(Earl of Salisbury)の馬が被弾して倒れ、その下敷きとなった状態で発見されて止めを刺されたからである。

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1400年代 ルネサンス(絵画・建築~魔術)+活版印刷

人体解剖学の発達が美術と科学を牽引。ただし最初にその成果を大量の図版入り書籍「人体の構造について(1543年)」として刊行したヴェサリウス有識者層を「こんな危険人物をおめおめと生かしておいては我々が皆失業してしまう」と激怒させてしまい、カール五世の膝下に逃げ込む事でなんとか生涯を全うした。
*また新進気鋭の医学生が「新鮮な死体を求めて科学者が深夜墓漁りをする」おぞましい景色は当時もその後も揶揄の対象とされ続け、メアリ・シェリー「フランケンシュタイン(Frankenstein、1818年)」やラブクラフト「死体蘇生者ハーバート・ウェスト(Herbert West-Reanimator、1921年〜1922年)」によって「分別が足らず世界を滅ぼしてしまう危険なマッドサイエンティスト」の一類型例として刻印づけられる展開を迎える。

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1440年 隠遁修道士ガルフリドゥス「プロンプトリウム(言葉の宝庫)」刊行。
*英語に関する最初の本格辞書で見出し語、すでに12000語におよぶ。配列は(後にライプニッツが図書館に書籍を並べるにあたってそうした様に)アルファベット順。
6夜『辞書の世界史』ジョナサン・グリーン|松岡正剛の千夜千冊

1400年代中旬 大航海時代の幕開け…15世紀のうちは「ポルトガル西サハラ貿易への海路での関与」レベルにに過ぎなかったが(それでも見返りとしては充分すぎる程だったので「冒険」が続けられた訳である)15世紀末までに「アフリカ廻り航路」はインドまで到達し1500年代から1530年代にかけてポルトガル絶対王制に莫大な富をもたらした。それ以上繁栄が維持できなかったのは、小国過ぎて現地商人に徴税を強要し続けるだけの軍事力を用意出来なかったから。以降繁栄の中心が新大陸への進出に成功したスペインに移るのは、少なくともこの面ではスペインが秀でていたからで、こうした歴史が「スペインから独立したオランダが、せっかく築き挙げた海上交易帝国のマネタイズに失敗し(17世紀オランダの繁栄を支えたのはあくまでバルト海方面事業で得られる富に限られた)海上覇権をフランスやイギリスといった大国に奪われる(そしていち早く「厳格な会計監査制度運用によって信頼性を担保された国債発酵事業で吸い上げた積極的海外展開を支える近代的グローバル国家」への脱皮に成功したイギリスが最終勝者となる)展開」として再び繰り返される事になる。

1453年 コンスタンティノープル陥落
この事件により東ローマ帝国が滅亡してその遺産と遺臣が欧州に大量流入する様になり、またイタリア五大国(メディチ家支配下フィレンツェ共和国スフォルツァ支配下ミラノ公国ヴェネツィア共和国ローマ教皇国、ナポリ王国)の間でローディの和(Treaty of Lodi、1454年)が締結され、その後40年間に渡ってイタリアの諸都市国家間戦争が休止状態となった事から盛期ルネサンスが最盛期を迎えることになる。その一方でオスマン帝国ヴェネツィアレパント海における制海権を奪われたイタリア商人達の参入によって大航海時代の展開も加速した。
*この戦いには欧州宮廷では相手にされなかったウルバンというハンガリー人技術者が製造した巨大な攻城砲(砲身長が6mもあり、重さ300kgの石弾を1.6kmも飛ばすことが出来た)も投入されていた。連射性に難があって思うほど役に立たなかったという話も伝わるが、オスマン帝国に火砲の威力を知らしめるデモンストレーションにはなったとされている。

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薔薇戦争(1455年〜1485年/1487年)
ヨーク公リチャードがヘンリー6世に対して反乱を起こした事に端を発する薔薇戦争(Wars of the Roses)。百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱で、ともにエドワード3世の血を引く家柄であったプランタジネット家傍流のランカスター家とヨーク家の間で戦われ、ほぼ共倒れに終わる。
*偶然の成り行きという側面が強かったが、王弟グロスター公リチャード(後の国王リチャード3世)率いるヨーク朝側砲兵隊がサマセット公率いるランカスター朝側の無謀な突撃に壊滅的打撃を与えたテュークスベリーの戦い(Battle of Tewkesbury,1471年)こそ火砲の集中投入による殲滅戦の先駆けだったとも。

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1462年〜1476年 ワラキア公ヴラド・ツェペッシュの幽閉と弾劾…「正義王」マーチャーシュ1世(ハンガリー王1458年〜1490年、ボヘミア対立王1469年〜1490年)がヴラド三世(ワラキア公1447年、1456年〜1462年、1476年〜1477年)を幽閉し首都ブダの印刷所をフル動員する形で「ツェペシュ(串刺公)の残虐行為の数々」を弾劾する印刷物を大量頒布した。オスマン帝国の傀儡に過ぎないその弟ラドゥ美男公によるワラキア統治を正統化する為のイメージ戦略。要するに東欧統一を夢見ていたマーチャーシュ1世はオスマン帝国と戦って無駄に消耗したくなかったのである。

*このプロパガンダ戦略は「血の伯爵夫人」バートリ・エルジェーベト(1560年〜1614年)を弾劾する事で政敵バートリ家の評判を貶めるプロパガンダ戦略にも継承され、最終的に「おぞましきドラキュラ伯爵とその一族の物語」の元話に採用される事になる。

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公益同盟戦争(1465年〜1477年)

フランスにおいて王室の貴族連合に対する優位が確定したこの時代における「公益同盟の盟主」ブルゴーニュ公シャルル猪突公のヒステリックで奇矯な振る舞いについてはヨハン・ホイジンガ「中世の秋(1919年)」に詳しい。こうしてフランス王室が国内統合に成功した事が(最終的にはハプスブルグ家への敗北に終わる)イタリア戦争(1494年〜1559年)開始の遠因の一つとなった。
ブルゴーニュ公シャルル猪突公は諸兵科が連動して動く近代式軍隊の考案者として名高いが、当時は練度も規模も今ひとつで、巧みな偵察能力を併せ持つスイス槍歩兵部隊のポイントを押さえた密集突撃にあっけなく壊滅させられてしまった。

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携帯可能な小型書籍の大量印刷開始(1475年〜1495年)
「商業印刷の父」アルドゥス・マヌティウス(Aldus Pius Manutius, Romanus 1450年頃〜1515年)がヴェネツィアに印刷工房を設けて20年がかりでギリシア、ラテンの古典(約120点)を校訂し、携帯可能な小型本として出版。その過程でギリシャ文字の活字を製造し、イタリック体やアンティカ体を開発した。1494年にはアルド印刷所(Aldine Press)を設立して子や孫の3世代に渡って印刷文化を牽引。
*カナダの歴史家マクニールは「(観光客寄せの目玉として)豪華劇場で上演されるオペラ」「(土産物として量産される)キャンバス画」と合わせ「芸術家をパトロンから解放する三大発明」と絶賛。それらが起爆剤となって(1480年頃にオスマン帝国に決定的敗北を喫してレパント交易から閉め出された)ヴェネツィアを後期ルネサンス印刷文化の主要な担い手として台頭させたが、いかんせん独占は難しく17世紀までに完全に主導権をオランダ(アムステルダム)やフランス(パリやリヨン)に明け渡さざるを得なくなってしまった。

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1478年 いわゆる「スペイン異端審問」の始まり。ローマ教皇カスティーリャ以外の地域(すなわちカタルーニャアラゴン)で独自の異端審問を行うことを許可した。これを仲介したボルハ(ボルジア)枢機卿スペイン王の強力な後押しもあって後年のコンクラーヴェに勝利して教皇アレクサンデル6世(在位1492年〜1503年)となる。

1480年〜1520年
 前期魔女狩りカソリック教会の宗教裁判所が先頭に立って行ない、犠牲者も限られていた)。

1486年 インスティトリスとシュプレンガーという二人の異端審問官が、伝統的女性コミュニティが温存してきた女神信仰の残滓への徹底攻撃を扇動する「魔女の槌」を発表する。

1492年 グラナダ王国陥落でレコンキスタ完了。同年ユダヤ人追放令。現代ユダヤ人は英国王エドワード1世によるユダヤ人追放令(1290年)や、フランス国王フイリップ4世によるユダヤ人追放(1306年)よりこれを恨んでいる。

1495年 イタリア人マッテーオ・マリーア・ボイアルドの未完に終わった壮大な騎士道叙事詩「恋するオルランド(Orlando Innamorato)が刊行される。16版を重ねた後は約3世紀に渡り再版されることはなかった。フランテスコ・ベニー(Francesco Berni)が1542年に本作を改変した作品を発表。そして1830年頃にイタリア生まれのイングランド司書アントニオ・パニッツィが本作を復刻。それまでボイアルドの名前はほとんど忘れられていた。
*主にオルランドの恋と冒険を描く。素材としてはシャルルマーニュ伝説(トマス・ブルフィンチシャルルマーニュ伝説 中世の騎士ロマンス』に詳しい)や、アーサー王物語を題材とした上で、ボイアルド自身の創作を書き加えている。単一の物語を語るのではなく、複数のエピソードが複合的に語られる形式を採用している。主なエピソードとしては、アンジェリカを巡りオルランドをはじめとする騎士が彼女の愛を求めるエピソード、さらに、オルランド達はアンジェリカの父に協力しカタイ(契丹に語源をもつ、古代中国をモデルとした架空の国)の都市、アルブラッカを包囲するタタール人と戦ったりもする。終盤では、ムーア人はパリを包囲し、シャルルマーニュ軍と戦闘を繰り広げる。

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1494年 クセラバルドゥスの建築細部集『建築シレキシコン』出版

1499年〜1503年 チェザーレ・ボルジア(教皇アレキサンドル6世の息子)によるイタリア統一戦争。完全に領主化した教皇国家が直轄領回復を大義名分としてフランス軍の加勢を得て次々と近隣領主を攻め滅ぼしていったが疫病流行により挫折。

1500年頃 北ドイツおよびスイスで発行されたタンホイザー伝説を収録した書籍が、「バチカンローマ教皇に象徴されるカトリック教会の権力に反対するプロパガンダ文書」的な意味合いを持ち始める。

タンホイザーは宗教改革の前触れ

タンホイザー」といえばドイツの作曲家であるワーグナーのオペラが有名。その粗筋は以下の通り。

  • ヴァルトブルクの城で恒例の歌合戦が行われる。今回のテーマは「愛の本質」。それまで連戦連勝を重ねていたタンホイザーは官能的な「熱愛」を歌い、親友でライバルのヴォルフラムは「純愛」を歌う。ところが軍配はヴォルフラムのほうに上がった。これに納得のいかないタンホイザーは、ヴェーヌス山(Venusberg=ビーナスの山)の愛欲の女神のもとで経験した官能世界を披露。しかしその山に行くことは大罪とされていたので大顰蹙を買ってしまい、領主の指示によりローマへの贖罪の旅に赴く事になる。

  • ところが、つらい旅の甲斐もなくローマ教皇の許しは得られなかった。絶望したタンホイザーはヴェーヌス山に戻ろうとするが、その時に親友のヴォルフラムが恋人のエリザベトの事を思い出させ、間一髪のところで引き止める。しかしそのエリザベトは、自分の命と引き換えにタンホイザーの罪を許してもらう形で天に召される。そしてタンホイザーもまた彼女の亡骸の上で息絶える。

ところで、このオペラの主人公であるタンホイザーのモデルとなった人物、実はバーベンベルク家時代のオーストリア宮廷に仕えていた騎士のミンネゼンガー(恋愛詩人)だった。その名はダンフーザー(1200年〜1268年)。これを現代ドイツ語でいうとタンホイザー。日本語に直訳するとおそらく「樅の木の家の住民」。


ちなみにミンネゼンガーの「ミンネ」とは、「純愛(minne)」を意味する中世のドイツ語。しかし、タンホイザーの詩は異色で、むしろ官能的な熱愛(Liebe=リーベ、中世のドイツ語ではliabe=リアベ)を歌った。それ故に相当のインパクトがあった。この部分のキャラは確かに実物から継承されている。

一方、そのタンホイザーはドイツ語圏の中なら結構旅をしたものの、ヴェーヌス山に行った記録も、ローマに贖罪の旅に出た記録もない。そもそもヴェーヌス山の伝説は元々イタリア起源の別の物語で、これがゴチャゴチャになったのは、ドイツ語圏の沼沢地(Venne)にあった「沼池の徒(Vennesleute)」の伝承が「愛欲の徒(Venusleute)と似た綴りだったせいといわれている。

文献として残る最古のタンホイザーの物語は15世紀半ばの北ドイツ(口承はもっと古い)で書かれた。1515年にはこれがもっと南に下がり、ドイツのニュルンベルクでも印刷されている。ところで時はまさに宗教改革前夜。実はタンホイザーの物語が書籍化された背景には、バチカンローマ教皇に象徴されるカトリック教会の権力対する当てつけという意味合いもあったのである。「教皇に許されなかったタンホイザーを神は許した」下りがそれ。

  • 1500年頃に書かれたタンホイザーの物語には「(誤った判決をした)教皇ウルバン4世は 永久の破滅に沈んだぞ」なんて文句まで入っている。ドイツ同様に反カトリック勢力が意気盛んだったスイスでは物語は一層過激化。「山に篭ったタンホイザーは石のテーブルに着き、その髭が伸びてテーブルを3周したときに世界は最後の審判の時を迎える」。まさしくザルツブルクのウンタースベルクで眠るカール大帝の伝説の引き写し。
    *要するに北ドイツとスイスの人々は、タンホイザーの物語にある種の正義を託したのである。その一方で彼らにとっては罪を犯すタンホイザーも判決を誤る教皇も完全なる第三者。どっちが酷い目ににあっても他人事という側面が確実に存在した。

  • 一方、オーストリアに伝わるタンホイザーの物語にこういう側面は見られない。なにしろ長年にわたってこの地を治めてきたハプスブルク家はスペインと並ぶカトリックの守護役。あまり無茶は書けなかったのである。その代わり、タンホイザーに対する罪の追求も随分と緩和化されている。例えばケルンテン州のフリーザッハの近くに残る物語ではタンホイザーが何の罪で贖罪を求めているのか曖昧。その一方で教皇に駄目出しされた後もヴェーヌス山には寄り付かず、神様から「99人の善人より1人の悔悟者の方が偉い」と褒められ天に召される。もちろん教皇もお咎めなしで、みんながそれなりにハッピー・エンドを迎えるのである。「罪人にも名誉回復のチャンスをちょうだい」とおねだりしながらがら、結局はなあなあ。
    *ついでながら、オーストリアタンホイザー伝説の中には、主人公が騎士ではなく普通の人だったり、時には名前さえないというパターンもある。つまり、この物語を通じて一般人がタンホイザーの罪を自分の罪と重ね合わせる事が出来る様になっていいるのである。そして罪のない人なんてほとんどいないので、必然的に結末も甘くなる。

こうしてルネサンスがもたらした印刷革命は、プロパガンダを通じて宗教革命の時代を準備する事になったとも。

1502年 アンブロシウス・カレピヌス「最良の作品から文例を勤勉に集めた辞書」出版*この時代は、実用とは学問のことであり。学問とは神秘のことであり、神秘とは細部の複合性のことだったのである。
6夜『辞書の世界史』ジョナサン・グリーン|松岡正剛の千夜千冊

1503年 チェリニューラの戦い(Battle of Cerignola)ナポリ王国の継承権をフランスとスペインが争った第二次イタリア戦争(1499年 - 1504年)の一環として戦われ、第一次イタリア戦争(1494年〜1498年)の辛勝に引き続いてスペイン軍を率いたコルドバ将軍が圧勝。スペイン軍の塹壕築造技術とランツクネヒト神聖ローマ帝国の徴募した南ドイツ傭兵)の鉄砲隊の組み合わせが(それまで無敵とされてきた)フランス奇兵隊とスイス槍歩兵の密集突撃を粉砕した。以降、イタリア戦争はフランス王家とハプスブルグ家の直接対決の場へと変貌していく。

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1508年 ガーランド一族「学者の辞典」刊行。シノニマ(同義語)とエクィウォカ(多義語)に関心を寄せたフランスのガーランド一族による「コノテーション(内示)」機能への大胆な介入。
*ガーランド一族は日本でいえば菅原道真の一族にあたるような"家学"の一族で、ロジャー・ベーコンも一目おいている。
6夜『辞書の世界史』ジョナサン・グリーン|松岡正剛の千夜千冊

1511年 エラスムスが「痴愚神礼賛」を刊行

デジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus Roterodamus, 1466年~1536年)

パラケルススの同時代人で、同様に当時を代表するネーデルラント出身の人文主義者、カトリック司祭、神学者、哲学者。ラテン語名には出身地をつける当時の慣習から「ロッテルダムエラスムス」とも呼ばれる。なお、名前の「エラスムス」は洗礼名でカトリック教会の聖人フォルミアのエラスムス(Erasmus of Formiae)からとられているが、「デジデリウス」は1496年から自分自身で使い始めた名前である。

「キリストの哲学(Philosophia Christi)」という言葉にあらわされるエラスムスの思想は、知識重視と衒学趣味に走っていた当時の神学に警鐘を鳴らし、聖書を本来の姿に近づけ、聖書を学んでキリストを知ることを最大の目標とするものであった。ここにはエラスムスが受けた「デヴォツィオ・モデルナ」の教育の影響を見て取ることができる。低地諸国で栄え、共同生活兄弟団などの活動に結実していたこの思想運動は信心書の傑作「キリストにならう(トマス・ア・ケンピス著)」によってよくあらわされているが、まさに「キリストにならう」ことをエラスムスも目指していたのである。また、当時の聖職者と信徒の間の格差が広がりすぎていた現実についても、エラスムスは聖職者と信徒が共に聖書に親しむことで解決できると考えていた。

彼はまた絵画や彫刻の鑑賞を通して直接感覚的に得られるイメージより、聖書の記述といった文字情報を通じて間接的に想起されるイメージの方が精度が高く正確だと考えるある種の唯言論(言語神秘主義)者でもあった事で知られている。

1516年4月 ルドヴィーコ・アリオスト長編叙事詩「狂えるオルランド(Orlando Furioso)」初版がフェラーラで発行されて、アリオストのパトロンであるイッポリット・デステに捧げられた。その後、わずかに修正を加え、1521年に第2版が発表された。その後もアリオストは当時起きた事件などを書き加え、全46歌からなる完成版が1532年に発表された。なお、翌1533年にはアリオストが死去している。

*時系列的には、ボイアルドの『恋するオルランド』の続編で、『ローランの歌』、『大モルガンテ』の前日談。まず序盤で『恋するオルランド』あらすじが説明され、る。サラセン人の侵攻と戦うシャルルマーニュパラディンの活躍を背景にオルランドの失恋と発狂、エステ家の起源が語られる。歴史に忠実に物語を作成することはなく、また地理的な精度も大雑把。そもそもスペインのイスラム教徒がフランスへ侵攻してくるのはシャルルマーニュの父親、ピピン3世の時代であり、またシャルルマーニュの活躍した8世紀であるのにもかかわらず火縄銃が登場する。ことに東方世界への理解は甚だ怪しく、カタイ(契丹に由来する古代中国をモデルとした国)の姫の名前が西洋風に「アンジェリカ」だというように、時代考証は非常におおらか。また魔法使いや怪獣のたぐいも頻出し月へ旅行したりもする。今日ではファンタジーでおなじみのヒッポグリフなどが初登場したのはこの物語。複雑にいくつかのエピソードが縦糸と横糸のように絡みあい、全体として統一的な物語を形成するスタイルをとっている。

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1516年 トマス・モアが「ユートピア(1516年)」を刊行

トマス・モア(Thomas More、1478年〜1535年)

イングランドの法律家、思想家。カトリック教会と聖公会で聖人。フィチーノの著作に影響を受けた人文主義者であり、神学者ジョン・コレットとは友人であった。また1499年以降、デジデリウス・エラスムスとも親交があった。エラスムスの「痴愚神礼讃」は1509年、モア宅で執筆されている。その影響で着手し政治・社会を風刺した「ユートピア(Utopia、1516年)」の著述で知られる。またマルティン・ルター福音主義を否定し、カトリック教会による平和主義と社会正義を求めた。

ユートピア」は「痴愚神礼讃」や旅行記「新世界」に触発され、1515から1516年にかけてラテン語で執筆され、1516年に刊行された。ユートピア(Utopia)は、どこにも無いという意味の言葉で、古くは「理想郷」あるいは「無何有郷(むかうのさと)」などとも訳されている。ヒュトロダエウスなる人物の見聞を聞く、という設定で、第1巻でイングランドの現状を批判し、第2巻で赤道の南にあるというユートピア国の制度・習慣を描く。

  • アメリゴ・ヴェスプッチがカナリア諸島からアメリカ大陸までを旅行した記録「新世界」を深い関心を持って読んだモアは、自然に従って生き、私有財産を持たない共同社会が実在しうる事を確信した。自然法と自然状態が善である証明として書かれたその主著は、ユートピアという架空の国を舞台に、自由、平等で戦争のない共産主義的な理想社会を描いたものである。

  • また、イングランドでは地主や長老がフランドルとの羊毛取引のために農場を囲い込んで羊を飼い、村落共同体を破壊し、農民たちを放逐する現状を深く慨嘆し「羊はおとなしい動物だが(イングランドでは)人間を食べつくしてしまう(『ユートピア』第1巻)」という意味の言葉を残している。

カール・マルクスは『資本論』にモアを引用し、本源的蓄積について論じているが、かなり誇張された表現だという指摘もある。実際、カール・ポランニー「大転換()」は逆に囲い込みの過程について詳細に分析し、むしろ慎重に事を運ぶ英国保守主義の萌芽を見て取っている。

 

1516年 エラスムスが「校訂版 新約聖書(Novum Instrumentum)と9巻からなる「ヒエロニムス著作集」を出版。後に前者はルター聖書(Lutherbibel)の底本に使われた。

1517年〜1555年 ルター免罪符批判→宗教改革(異端審問批判)→アウブスブルグの宗教和議(領邦教会制が公認され神聖ローマ帝国領邦国家化がはじまる)。

*この間、ローマ略奪(Sacco di Roma、1527年)によるカソリック教会の権威喪失もあって魔女狩りが沈静化する一方でプロテスタント側からカソリックの残虐行為をで告発したジャン・クレスパン「殉教録(1554年)」や、その逆にカソリックの側からプロテスタントの残虐行為を版画入りで告発したヴェルステガン「世界残酷劇場(1587年)」の流行が「お互いを偏見の極みを以って抹殺しようと付け狙い合う憎悪の連鎖」を野火の様にどこまでも広げていく。

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1521年 バルダッサーレ・カスティリオーネ「宮廷人(Il libro del cortegiano、)」が出版される。
*宮廷人マナーの決定版。古典教養、音楽、詩、舞踏、作法、礼節といった広い領域における知識と素養が求められている。

1522年〜1545年 
ルター聖書(Lutherbibel)が刊行されドイツ文学を基礎付ける。
*ルターはヴォルムス帝国議会からヴィッテンベルクへの帰路、誤ってザクセン選帝侯フリードリヒ賢公のものであると考えられている誘いによって、ヴァルトブルクに招かれた後、当地で「ユンカー・イェルク(Junker Jörg)」として潜伏しつつルターは聖書翻訳を開始。1522年9月には翻訳が完了した新約聖書が大版で印刷された(「9月聖書」)が、既に同年12月にはテクストが改稿され挿絵も訂正されている。その後数年に渡ってこの聖書は少しずつ拡張され、改稿されていった。1524年10月にはモーセ五書・歴史書・詩書が完成され、おそらくは1526年3月にヨナ書、1526年6月にハバクク書、1528年1月にゼカリヤ書、1528年10月にイザヤ書が完成している。そして1529年、新約聖書が基礎から校正され、1530年には最終的な編集が行われた。諸書への取り組みはさらに進み、同時に注釈作成も行われた。1529年6月にはソロモンの知恵が、1530年4月にはダニエル書が浩瀚な注釈付の序言と共に完成され、同年6月にはエゼキエル書の注釈付きの38章・39章が成立した。1531年には詩篇が新たに最終的な形で作成された。1532年3月、ハンス・ルフトは預言書を印刷した。翌年の1月にはシラの書が、その後すぐに第一マカバイ記が、スザンナとダニエルの話及びベルと竜の話が補われて、ルターによる第2版として完成された。1533年には、完全版への直接的な準備があり、そこでは旧約聖書モーセ五書・歴史書・詩書、中でも創世記のさらなる校正が行われた。1534年の10月4日から11日にかけてはミカエル・ミサが開催されていたが、そこで900枚の未製本の完全原稿が6部構成でそれぞれにタイトルページとページ番号が付いた形で登場した。モーセ五書、歴史書及び諸詩書、預言書、外典、そして新約聖書である。1545年、ルター自らによる最後の修正が行われた。

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1525年 パラケルススバーゼル大学の医学部教授に就任。翌年には大学から追放され、以後放浪の身となる。

パラケルスス(Paracelsus、1493年か1494年~ 1541年)

本名テオフラストゥス・(フォン)・ホーエンハイム(Theophrastus (von) Hohenheim)。完全な名前として、フィリップス・アウレオールス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイム(Philippus Aureolus Theophrastus Bombastus von Hohenheim)が知られるが、存命中一度も使われていない。、ルネサンス初期のスイスの医師、錬金術師である。当時の主流であったスコラ哲学的解釈に対して自然の直接の探求を主張し、大宇宙と小宇宙(人間)の照応を基盤とする統一的世界観を、崩壊した中世農民世界の断片から形成することを目指した。そのためあらゆる領域で従来の考えと戦わねばならず、彼の著作のほとんどは論争書となった。

  • スイスのアインジーデルンで生まれ、医師であった父・ウィルヘルムから自然哲学を教わりながら育つ。

  • 1515年にイタリアのフェラーラ大学医学部を卒業した後、医療を施しつつ旅を重ね、当時の医学界で支配的な地位を占めていたガレノスを批判するようになり、そして「古代ローマの高名な医者・ケルススを凌ぐ」という意味を込めてパラケルススを自称するようになるが(由来は「ホーエンハイム」をラテン語化したなど諸説ある)、これはペンネームのようなものだと考えられている。

  • 1525年にバーゼル大学の医学部教授に就任したが、その翌年には大学から追放され、以後放浪の身となる。尚、追放の理由は「教室でガレノスの医学書を燃やしたことが反感を招いた」「キリスト教を批判した」と諸説あり、現在も明らかになっていない。

  • 1541年、ザルツブルクで没。遺体は聖セバスチアン墓地に埋葬された。

四大元素(火、風(空気)、水、土)とアラビアの三原質(水銀、硫黄、塩)を再発見し、亜鉛元素を発見したのが最大功績とされる。

1531年 トマス・エリオットが「為政者の書」を著す。
*そこではギリシア・ローマ的な西洋古典教養を備え、地方行政を担うことのできる人物が理想のジェントルマンとして描枯れている。

1534年 ヘンリー8世が国王至上法(首長令)を公布してイングランドの教会のトップに君臨。ローマ教会の影響下から脱する。
カソリック教徒の多いアイルランドにとっての悪夢の始まり。

1541年 イエズス会創設。トリエント宗教会議1545年3月15日〜1563年12月4日)開催と合わせ反宗教革命運動の狼煙となる。これに入れ込み過ぎたスペイン国王フェリペ2世(Felipe II、在位1556年〜1598年)/ポルトガル国王フィリペ1世(Filipe I、在位1580年~1598年)/イングランド国王フィリップ1世(Philip I,1554年〜1558年)が八十年戦争(Tachtigjarige Oorlog,1568年~1609年,1621年~1648年)を引き起こす。
*アジアにおけるイエズス会は伝教をスムーズに進める為、火器供給や火薬や弾薬の供給によって在地有力者を懐柔して現地最強集団に仕立て上げる事が多かった。一方新大陸におけるイエズス会インディオ達に伝教の一環として戦い方を教え、奴隷狩り部隊から集落を防錆させている。

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1555年 アウグスブルグの宗教和議。カール5世はドイツの新教諸侯連合を相手取ったシュマルカイデン戦争(1546年〜1547年)そのものには勝利したものの、以降の裏切りで敗退。オスマン帝国の脅威が迫っていた事もあって取り急ぎ新教諸侯の信仰の自由(自らの信仰の領民と領内での強制)を認める形の手打ちとなったが、これが契機となって神聖ローマ帝国領邦国家化が始まってしまう。カール5世は失意のあまり翌年引退。

1555年
 1550年代からサロン名士としてアルマナック(翌年1年間を予言する暦書)を手掛ける様になったプロヴァンスアヴィニョン在住の改宗ユダヤ人末裔ミシェル・ノストラダムス(Michal Nostradamus、1503年〜 1566年)が「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」を発表。これらが評判となって同年、国王アンリ2世と「フランス宮廷文化の母」王妃カトリーヌ・ド・メディシスからフランス王宮に招かれる。
*実は米国独立戦争当時、大陸で軍資金調達の任を果たしたベンジャミン・フランクリンも「毎日を格言で埋めた暦書」によって出版人としての最初の成功を収めている。書物普及期において、こうした付加価値付の暦が果たした役割は案外馬鹿に出来ない。

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1558年〜1603年 絶対王朝化と重商主義化が進行したイングランドチューダー朝黄金期を象徴するエリザベス1世治世。
大航海時代到来に伴うヨーロッパ経済の中心の地中海沿岸から大西洋沿岸への推移、フランス公益同盟戦争(1465年〜1477年)同様に多くの大貴族を没落させた薔薇戦争(Wars of the Roses、1455年〜1485年)を契機とするウェールズ海商の大抜擢、財政難に追われての公領転売を契機とする新興農地主階層の台頭などが重なって営利活動(Commercial)の実績が社会的地位に連結する身分流動性が比較的高い社会が実現。

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1559年 カトー・カンブレジ条約締結。第六次イタリア戦争(1551年〜1559年)での敗戦を受けてフランスがイタリアへの権利を放棄し、スペインのナポリ統治が確定した。また神聖ローマ皇帝オーストリアハプスブルク家)宗主下でスペイン王ミラノ公国領有も認められ、イタリア戦争が完全に終結

1560年〜1670年 後期魔女狩りの全体的ピーク。プロテスタント圏では世俗裁判所(領主・国王)が行ない、被害が大きかった。


1561年 バルダッサーレ・カスティリオーネ「宮廷人(Il libro del cortegiano、1521年)」が英訳される。
*そこでは古典教養に加え、音楽、詩、舞踏、作法、礼節などさらに広い領域における知識と素養が求められている。

1576年 ユグノー戦争(Guerres de religion、 1562年〜1598年)カトリック同盟とナヴァル家のアンリが対立した1585年頃から1594年頃にかけて同盟側ち王党派の双方が夥しいパンフレット類を刊行して文書合戦を繰り広げた。フランス出版史上最初の大規模な文書合戦であり、王党派の側にはエチエンヌ・パーキエなども参加している。

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また同時期、フランス人のジャン・ボダン(Jean Bodin、1530年〜1596年)が貨幣数量説に触れた「経済論(Economic thought: the Reply to Malestroit、1568年)」やバーソロミューの日の大虐殺(1572)からインスピレーションを得て王権神授説に基づく中央集権国家樹立を提唱する「国家論(Les Six livres de la République/The Six Books of the Republic、1576年)」を発表。その一方で宗派の違いにはあくまで寛容であった。

*1535年より利子論や公正価値論や貨幣数量説・購買力平価説に取り組んできたスペインのサラマンカ学派(西:Escuela de Salamanca、英:School of Salamanca)に続いて貨幣数量説を唱え、重商主義の先駆者的存在となる。中世以来、二元的な価値体系に分離して捉えられてきた商品と貨幣を一元的な価値体系の下に位置づけた点で、中世から近代への転換点であったとも評される。

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1563年、1580年 イングランドの女王エリザベス1世による魔女狩り強化令。

1563年 ドイツでヨーハン・ヴァイヤーが「悪霊の幻惑について (De Praestigiis Daemonum) 」を発表。魔女狩りに対しては当初から多くの反対意見があったが中でも特に大きな影響を与えた。『魔女に与える鉄槌』を「まったく根拠も信仰もない」と非難する一方で「やっかいな悪魔に誘惑された高位高官の人びとに対する真からの同情心」が執筆の動機であるとして、魔女狩りは悪魔の誘惑によるものであり責任は悪魔にあるとの説を展開し、これまで魔女裁判を行った者への配慮も怠らなかった。
*同書は大きな反響を呼び、多くの地方において魔女裁判が寛大かつ慎重に行われるようになり、魔女だとされたものが同書の論理で弁明をすることもあった。第三版の刊行時にヴァイヤーは皇帝フェルディナント1世に「不当な魔女裁判の助長を差し押さえる特権」を請願し認められている。しかしながら、次第に魔女狩りを行う地方が増加していき、ヴァイヤーが『悪霊の幻惑について』を執筆した地においても1581年には水審と拷問が復活している。ただドイツでは領邦ごとの君主の考え如何で魔女狩りの様相に違いがあった。

1568年〜1609年、1621年〜1648年 八十年戦争(Tachtigjarige Oorlog)あるいはオランダ独立戦争。最初は劣勢だったオラニエ=ナッサウ家率いるシーゴイセン(海乞食団)が最終勝利を飾る。オラニエ=ナッサウ家がルターのパトロンでもあったザクセン選帝侯と縁戚関係を結び、北欧とドイツから無尽蔵に傭兵を供給可能となった事が勝利の決め手となった。

1580年 フランス人のジャン・ボダンが狂信的に魔女狩りを推奨する『悪魔憑き(デモノマニア)』刊行。以降長く魔女狩りのバイブルとして用いられ、宗教の美名の下、無実の人間を殺害することを助長した。自らも裁判官(異端審問)として多くの無実の人間を宗教裁判によって殺している。

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*「魔女狩り」を地域別に見るとフランスは同じ国内でも地域によって差があった。イタリア、ヴェネツィアでは裁判は多かったが、鞭打ちで釈放され処刑はほとんどなかった。スペイン(バスク地方を除く)では異端審問が行われていたが、これが魔女狩りに発展することはなかった。オランダでは1610年を最後に魔女が裁判にかけられていない。ポーランド、少し遅れて18世紀のハンガリーでは激しい魔女狩りが起こった。

 

1576年 スペイン軍によるアントウェルペン略奪(Assedio di Anversa)。残忍な掠奪により数千の市民が虐殺され、数百の家屋が焼き払われ、被害額は一説によれば200万スターリングにも及んだとされる。アントウェルペンアントワープ)の経済的繁栄を終焉させ、この地を羊毛輸出拠点として利用していたイングランドに甚大な経済的被害を負わせ、復讐を誓わせた。

1581年 ポルトガル併合。ポルトガル王統断絶を契機に遂行され、ポルトガル領植民地をも手中に収めたスペイン王国はその領土が新大陸からアジアに至る地球を一周して分布する「太陽の沈まぬ国」となった。

1581年 オランダがスペインから実質上の独立を勝ち取る。まずセファルディム系(スペイン系)ユダヤ人が真っ先にアムステルダムに拠点を移した。

1588年 アルマダの海戦。イングランド本土懲罰の為に進発したスペイン無敵艦隊イングランド海軍に撃破される。以降もイングランドとオランダの海賊はスペイン海運事業を脅かし続けた。

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1590年代 イングランドで「魔女狩り」がピークを迎える。以降は急速に衰退。
*対照的にイングランドに隣接し1717年以降同君連合を形成していたスコットランドでは1590年代~1660年代と長きにわたっており、一方アイルランドではほとんど見られなかった。

1600年
 イギリスが東インド会社創設
*1602年に創設されたオランダ東インド会社の方がより現代の株式会社に近い体制で経営力も高かった。

1600年 ジョルダノ・ブルーノ、ローマ教皇庁により火あぶりの刑になる。

 

1604年 英ジェームズ1世の魔女狩り強化令(ジェームズ1世著『悪魔論』)

1604年 最初の英英辞書であるロバート・コードリーの「アルファベット一覧」が出版され、英国で辞書編集ラッシュが起る。
*この勢いが哲学をも政治をも揺さぶった結果、ホッブスの国家論「リヴァイアサン(1651年)」の第一部第四章でも「言葉の定義こそが政治哲学である」という告白をせざるをえなくなった。
6夜『辞書の世界史』ジョナサン・グリーン|松岡正剛の千夜千冊

1609年 モリスコ(改宗イスラム教徒)追放令。小作人を大量に失って農地経営に支障をきたしたスペインは連年の様に飢饉に見舞われる様になり、ますます衰退が加速する。

1612年 カンパネラが「太陽の都」を刊行

トンマーゾ・カンパネラ(Tommaso Campanella、1586年〜1639年)

ヘルメス文書と新プラトン主義を奉じた自然魔術師にして革命家。生涯の半分近くを獄中で過ごし、恐ろしい拷問を経験し、死刑を寸前で免れる壮絶な一生を送った。

  • 1586年南イタリアカラブリア州ティーロに貧しい靴屋の子として生まれる。父親は無学な男だったが、早くから息子の非凡さに気付いており、たまたま法律を学んでいた叔父の一人に弟子入りさせることを望んでいた。

  • しかし当人は法律より神学に惹かれる。偶然聞いた説教師の演説に感動したためとも言われている。12歳で聖職志願者となり、14歳でドミニコ会に入会。

  • 猛勉強を重ね、当時としては少数派の反アリストテレスの学派を支持し、自然哲学者のベルナルディーノ・テレージオの「固有の原理に基ずく事物の本性について(自然論)」を読んだのがきっかけで、その思想の熱狂的支持者となる。1588年には憧れのテレージオをたずねているが、タッチの差で死去してしまっておりこの会見は実現しなかった。一方、ユダヤ人のラヴィであるアブラハムから、魔術(おそらくカバラ)と占星術の指南を受ける。

  • 1589年にナポリに赴き、自然魔術師ジャンバッティスタ・デッラ・ポルタの影響のもとに魔術・錬金術占星術天文学・哲学・ヘルメス文書などについて、その地の知識人たちと討論を重ねる。カトリック教徒でありながら、輪廻転生思想を支持したという。

  • 1591年にすでに書き上げていた「感覚哲学」を出版。この出版はドミニコ会全体を震撼させ、宗門裁判所に召喚され、1592年8月28日の裁判により、主張を捨て1週間以内にカラブリアに戻るよう命じられる。しかし、この命令に抗してフィレンツェボローニャをへてパドヴァ大学に学生として籍を置き、ガリレイなどの学者たちとの親交を深め、1593年からいくつかの著作をおこなう。この中には後に紛失した「カトリック教徒の君主制度」というものなどもあったという。ユダヤ教徒と信仰について議論した疑いで友人とともにローマ教皇庁の牢獄に拷問の末に投じられ、1595年5月16日に釈放された後、サンタ・アヴィーナ修道院で謹慎を命じられた。その間に「ルーテル派、カルヴァン派、その他の異端にたいする対話」を著す。これが原因で今度は異端者の疑いにより2度にわたる宗教裁判にかけられ、有罪判決を受ける。

  • 1597年、信仰上の疑義により教皇庁に再度捕らえられ、その牢獄で宗教改革者フランチェスコ・プッチを知り、その処刑の場面にも立ち会い、その信念に殉じた死に共感をおぼえる。そのころ南イタリアはスペインの支配下にあったので同年南イタリアからスペイン勢力の影響を排除することを志し、占星術に基づいて計算した1599年8月に起こるはずの革命に合流し、共和政国家を樹立する企てに没頭した。

  • 「計画」は、壮大なもので、かなり現実を帯びたものだった。多くの農民指導者達、改革派の聖職者達、一部の貴族、終いには盗賊団のボスまでもが加わり、さらにはイスラム国家のトルコ帝国の支援も受ける手はずであった。カンパネラは、フィオーレのヨアキムの「世界の変革」を信じる「千年王国」主義者でもあり、この「革命」は単なるスペインへのレジスタンスではなく、世界の変革の始まりともなる「革命」ともなるはずと信じていた。

  • また、あわせて腐敗したローマ教会や修道会の改革を目指したが、同志2人の裏切りにより事が露見して1599年9月6日に逮捕される。1601年までつづいた審問と拷問に耐え、正気を失ったふりをして処刑を免れたものの、狂人とみなされたカンパネッラは終身刑となるり、1626年まで投獄されることになった。

  • やがてその学識と人格から刑務所の看守達から尊敬を受けるようになり、演技の必要もなくなり、執筆活動の自由すら与えられる。宗教的関心をさらに深め主著「太陽の都(1602年)」を執筆したほか、数多くの著作と詩が書かれた。

  • ところが脱獄計画をたてたことが発覚し、最悪の待遇の地下牢へ移され、そこで4年間過ごす。その後、再び待遇の良い牢へ移され、執筆の自由も与えられ、ガリレオの地動説を弁護する「ガリレオの弁明(1616年)」を執筆。

  • 1628年7月27日、教皇ウルバヌス8世の好意によって釈放される。その著作を読んだ支持者達が激しい釈放運動を繰り広げた結果とも。猜疑心の強いウルバヌス8世は、占星術師にローマ在住の枢機卿の死期を占わせるようなことをしていたが、巷間では自分の詳細な運勢図が流れていることを知り、天界から悪意を受けないようにするため、トマソ・カンパネッラの力を借りて、間近にせまった月食の悪影響を除去する儀式をおこなった。ローマのラテラーノ宮殿の「教皇の間」でおこなわれたそれは、密室の壁に白い絹がかけられ、薬草が焚かれ、太陽と月を意味する2つのランプと十二宮が用意されて占星音楽が奏でられるというものであり、キリスト教の教義からは逸脱いちじるしい魔術的な儀式であった。

  • 釈放され、教皇の御前で儀式もおこなったカンパネッラであったが、著作の刊行準備、討論、宣教師学校の設立などの活動をやめず、教皇庁内の反カンパネラ勢力によって著作の出版を禁じられてしまう。

  • 1634年12月、再逮捕の危険を感じたのと教皇からの勧めもあった為、フランス王国に亡命。フランスには支持者が多く、哲学者ピエール・ガッサンディ枢機卿リシュリュー・国王ルイ13世に迎えられた。

  • 1639年、自分のホロスコープを見て、年内に寿命が尽きるだろうと予言。以降寿命を延ばす自然魔術を試みたものの、予言通りパリのサン・トノレ通りにあるドミニコ修道会で大勢の友人や弟子達に見取られながら、その波乱に満ちた一生を終えた。

彼の思想の中核は、当時あらゆる学問を支配していたアリストテレス主義への反逆心と自然魔術全てに共通する「自然」を「生き物」とみなす発想に支えられていた。

  • テレジオは、自然は「熱」と「冷」という2つの原理から成り立っていると考えた。「熱」も「冷」も感覚を持った生き物であり、「熱」が強まると「冷」が、「冷」が強まると「熱」が、これを拮抗し、せめぎあう。どちらも「自己保存」の欲求をもっており、お互いを消さない程度に責め合ってバランスをとる。これによって、万物が生じる、という考え方であ、この「熱」の大本が太陽であり、「冷」の中心が地球であるとした。

  • カンパネラはその理論に「世界霊魂」の概念を加えている。これは太陽の熱によって生み出された存在ながら「熱」を管理し、万物に生命が与える。地球の自転現象ですらこれがもたらすとした。ある種の太陽崇拝である。

またその思想には正統と革新の相反する2要素が共存しているという指摘があり、ここに彼の二重人格をみたり、一方を一種の仮面であるとする立場も存在する。

  • 若い時分には諸事象よりあらゆる超自然的な要素を除去して、宗教を純然たる自然に還元しようと試みたが、年を経ると同じ自然的要請のなかにも精神と超自然的なものとの連結点を見出そうとする様になったという解釈がなされることもある。

  • たとえば認識の問題についても、テレジオ的感覚論から発しながらも、それに対する方法的懐疑を通して、知識や確実性の基礎となるものを自己の意識のなかに追い求め、最終的には神へと達するアウグスティヌス的な思索への深化したとも見て取れるのである。

後者の立場に拠れば、彼は、神、宇宙、人間、あるいは倫理そのもの、政治一般などにかかわる彼の哲学全体にわたって、テレジオを中心とした自然主義的な思想と、古典古代のプラトンおよびアウグスティヌス的伝統との新しい総合を目指した可能性が浮上してくる。

「太陽の都(1612年)」

トーマス・モアの「ユートピア(1516年)」とならぶ社会主義思想の先駆とされる。

その都の形は、新プラトン主義、自然魔術の宇宙観に基ずいた象徴的なものである。街は七つの惑星に基ずいた七重の環状地帯から成るのは宇宙の象徴で、都の中心の神殿には本来なら祭壇があるべきところに、天球儀と地球儀が置かれている。これは「神とは、自然以外のものでは、あり得ない」とする自然魔術の思想に由来する。

この街は祭祀を司る主権者の下に、「力」と「智」と「愛」を司る三人の高官がおり、彼らは自分より優れた者が現れると、喜んでその地位を譲る。これは「自我意識からの脱却」なるヘルメス哲学に基ずいた思想であるが、同時に当時の横暴な権力者達に苦しめられていた貧民層達の叫びも含めてのものだったと考えられている。

労働、教育、性、宗教など生活上のすべてにわたって規則があり、多くの事物が共有される農本主義的ないし共産制的な共有制のシステムを描き、教育の機会均等や勤労に対する敬意と労働時間短縮などを記す。

ガリレオの弁明(1616年)」

ガリレイが天体観測のデータから地動説を証明しようとしたのに対し、カンパネラは新プラトン主義の「信仰」に基ずいた形而上学的な、哲学的な理論からこれを証明しようとした。

太陽中心説に惹かれる彼は、天文学的というよりは、ピタゴラスプラトンアリストテレスアリスタルコス、プトレマイオスといった古典、アウグスティヌストマス・アキナス等の神学書なども縦横無尽に引用しながら、人文学的なコスモロジー論を展開。ガリレオの説、ひいては自然界の真理は「聖書」とは矛盾しないことを証明しようとしている。

1614年 神聖ローマ帝国(ドイツ)のカッセルで怪文書「全世界の普遍的かつ総体的改革」とその付録「友愛団の名声、賞賛すべき薔薇十字団(Fama Fraternitatis, deẞ Löblichen Ordens des Rosenkreuzes)」が刊行される。

薔薇十字団(Rosenkreuzer)

中世から存在すると言われる秘密結社。17世紀初頭のヨーロッパで初めて広く知られるようになった。

始祖クリスチャン・ローゼンクロイツ (Christian Rosenkreuz) の遺志を継ぎ、錬金術や魔術などの古代の英知を駆使して、人知れず世の人々を救う組織と規定されている。

その実際の起源は極めて曖昧だが中世とされ、錬金術師やカバラ学者が各地を旅行したり知識の交換をしたりする必要から作ったギルドのような組織の1つだとも言われている。

クリスチャン・ローゼンクロイツ(Christian Rosenkreutz,1378年〜1484年)

1610年頃執筆され、1614年に神聖ローマ帝国(ドイツ)のカッセルで刊行された怪文書「全世界の普遍的かつ総体的改革」とその付録「友愛団の名声、賞賛すべき薔薇十字団(Fama Fraternitatis, deẞ Löblichen Ordens des Rosenkreuzes)」で初めてその存在が語られ、一気に全ヨーロッパで知られるようになる。

  • ルター派神学者ヨーハン・ヴァレンティン・アンドレーエを中心とするチュービンゲンの急進的学者グループの周辺で生まれたと考えられている。

  • そのうち「全世界の普遍的かつ総体的改革」はギリシア学者でアンドレーエの師ベゾルトChristoph Besold(1577年〜1638年)の手になるイタリアのカンパネラ主義者ボッカリーニ(Trajano Boccalini、1556年〜1613年)の風刺小説「パルナッソス詳報」の一部の抜粋訳と目されている。

この人物の生涯については「友愛団の名声」で語られているが、同書では「同志C.R.」や「C.R.C.」の名で言及されており、クリスチャン・ローゼンクロイツの名はまだ出てこない。

  • C.R.C.はドイツの貴族の家系に生まれた。貧乏のため5歳にして修道院に入り、ギリシア語とラテン語を習得。後に友愛団をともに結成することになる3人の盟友もこの修道院の同僚であった。

  • 若くしてエルサレムへ巡礼に向かうが、その途中、アラビア半島の賢者について耳にし、ダムカルに向かう。ダムカルの賢者たちは、C.R.Cのことを長いこと待ち望んでいた人物として手厚く迎えたという。この時かれは16歳であった。

  • C.R.Cはダムカルでアラビア語、数学、自然学を学び、『Mの書』という書物をラテン語に翻訳、その後モロッコのフェズで「諸元素の住民」と呼ばれる人々と出会った。多くの知識を得た後ドイツに帰国し、3人の盟友とともに友愛団を結成して、さらに4人の同志を加えた。

  • ある時、ひとりの会員が彼の秘密の墓に通じる隠し戸を偶然発見した。その扉の上には「我は120年後に開顕されるであろう(Post CXX ANNOS PATEBO)」と記されており、中に入ると、七角形の地下納骨堂の天井には永遠に消えることのないランプが輝き、C.R.Cの遺体は腐らず完全なままに保たれていたという。それは、C.R.C死去の120年後と仮定すれば1604年のことであった。

  • 翌年「名声」のラテン語版とともに出版された「友愛団の信条告白(Confessio Fraternitatis)において、C.R.Cの生誕年が1378年であることが明らかにされた。

クリスチャン・ローゼンクロイツの名は、第三の薔薇十字文書とされる「クリスチャン・ローゼンクロイツ化学の結婚(Die Chymische Hochzeit Christiani Rosenkreuz)によって初めて世に出た。

  • 同書は1616年にシュトラースブルクにて出版され、クリスティアヌス・ローゼンクロイツという名の人物を語り手とする錬金術的寓意小説という体裁を取っているが、その実質的な著者は後年の版に編者として記されているアンドレーエであったと考えられている。

  • フランセス・イェイツによれば、この背景には薔薇すなわちイングランド王家をカトリックハプスブルク皇帝家の支配からの救世主として迎え入れようとする大陸諸小国の願望があったという。

なお、この怪文書の刊行から4年後の1618年にドイツを舞台とした宗教戦争三十年戦争(1618年~1648年)」が勃発。

ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世 (Rudolf II、在位1576年~1612年)、ハンガリー王(在位:1572年〜1608年)、ローマ王(在位:1575年〜1576年)、ボヘミア王(在位:1575年〜1612年)

政治的には無能で三十年戦争の遠因を造ってしまった人物ではあったが、教養に富んでいたことから文化人としては優れていた。

  • ルドルフ2世が芸術や学問を保護した結果、その下にはルーラント・サーフェリー、バルトロメウス・スプランヘル、ジュゼッペ・アルチンボルド、ハンス・フォン・アーヘン、アドリアーン・ デ・フリースといった欧州における多数の芸術家が集まり、帝国首都のプラハ(ルドルフ2世が、在位途中でウィーンからプラハに遷都した)は文化的に大いなる繁栄を遂げた。

  • プラハは国際マニエリスム様式の重要拠点でもあり、ここを起点にマニエリスム様式が1600年前後のヨーロッパ各国に拡散していく。

  • チェコのガラス工芸(ボヘミアングラス)を世界的レベルに発展させたのもまたこのルドルフ2世である。

  • ルドルフ2世自身は、特に錬金術に大いなる興味を示しており、実際に多くの錬金術師のパトロンとなっていた。

  • また、天文学者のティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラー、植物学者のシャルル・ド・レクリューズなどもルドルフ2世のもとに出入りしていた。

その一方で時勢も顧みず徹底してプロテスタントを弾圧。これが原因で国内情勢は一気に不安定化し、国内各地で反乱が勃発。特にハンガリーの反発は凄まじく、ルドルフ2世は穏健政策として1606年、同地域における信教の自由を認めたが、もともと政治能力に欠け、国政を重臣に任せきっていたルドルフ2世の政策は不徹底だったため、1608年にハンガリーで大規模な反乱が勃発。ルドルフ2世はハンガリー王位を放棄し、弟のマティアスにその王位を譲らざるを得なくなる。翌1609年、ハンガリーのように反乱が起こることを恐れたルドルフ2世は、ボヘミアにおける信仰の自由を認めたが、これもハンガリーと同様に政策が不徹底だったため、ルドルフ2世の死後一気に不満が爆発し、三十年戦争が勃発する事になる。

 

1615年 ガリレオレリイが地動説をめぐりドミニコ会修道士ロリーニと論争になる。

1618年〜1648年 ドイツ三十年戦争(独: Dreißigjähriger Krieg)宗教戦争として始まったが、次第に産声を上げたばかりの国家群(それぞれ王統を奉じる中央集権集団)の領土確定紛争へと変貌。しかも最後に勝利したのは途中参加で漁夫の利を得たフランスと(八十年戦争に参加した傭兵の活用によって軍事的優位を得た)スウェーデンだった。ヴェストファーレン条約締結によって国際協調時代の幕を開けると同時にハプスブルグ家はスイスとオランダの独立を公式に認めざるを得なくなる。

スウェーデンでは強力な王権のもとで「魔女狩り」の裁判手続が厳守されていた。三十年戦争期、その占領下に入ったドイツ領邦でもそれは抑止されたが、反動からか17世紀中頃より大規模な魔女狩りが発生。

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1620年 フランシス=ベーコン「ノヴム=オルガヌム」を発表。
ボローニャ大学パドヴァ大学の解剖学者が15世紀後半から16世紀初旬にかけて到達した新アリストテレス主義(人間の認識はその累積によってパラダイム・シフトを繰り返す。人間の倫理はこれを拾い集める形で半歩遅れてついてくる)」が、主著「ノヴム・オルガヌム(Novum Organum、新機関論、1620年)」で提唱した科学実証主義に基づく帰納論で名を成し「(現世における全ての事象の体系化を試みた)フランス百科全書派の祖千筋」と目される英国の哲学者・神学者フランシス・ベーコン(Francis Bacon, Baron Verulam and Viscount St. Albans、1561年〜1626年、「知識は力なり(Ipsa scientia potestas est)」という言葉で有名)を準備したともいわれている。1620年にはトマス。ホッブスを一時期秘書として使っており「法実定主義(legal positivism)」との兼ね合いも興味深い。

1626年頃…フランス文学者達が王室秘書ヴァランタン・コンラール邸で会合を持つようになり、これが宰相リシュリューに認められてルイ13世治下の1635年2月10日アカデミー・フランセーズが正式結成される。この事からコンラールはアカデミー・フランセーズの父と言われる事も。当初の役割はフランス語を規則的で誰にでも理解可能な言語に純化し統一することであり、その目的を達成するために辞書と文法書の編纂を重要責務としていた。

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1637年 ルネ・デカルトが「方法序説」を発表。
*フランス語で書かれた初めての哲学・科学論文。「すべてを『自然の光』によって検証し、そこにだけ真理を見出していく」合理主義(rationalism)と、イタリア・ルネサンスの影響で古典を題材に選びつつも「(様式美に従って)均衡と調和を求める」フランス人の保守的傾向を反映したフランス古典主義や(フランス革命を暴走に追い込んだ)理神崇拝の誕生の契機となる。

1638年〜1660年 英国清教徒革命(Puritan Revolution または Wars of the Three Kingdoms)。チューダー朝断絶後にイングランドを継承した親カソリック的でフランス型絶対王制を志向するステュアート朝は1603年以後はイングランド国王を兼ねて同君連合体制となり、1707年にグレートブリテン王国(イギリス)を成立させるが、その間には国王が処刑されたり外国王が招聘される様な混乱期もあった。コーヒーハウスで小冊子(パンフレット)を大量投下してのプロパガンダ合戦が展開する様になるのはこの頃から。
*当時の英国はしばしば資本主義の起源とされる。それで「ヨーマン(自由農民)資本主義起源論」とか「ピューリタン・ジェントリー資本主義起源論」などが乱れ飛ぶ事に。むしろ歴史上重要なのは、クロムウェル卿が王党派を支える上流人士(騎士として訓練された貴族で熟練騎兵を率いていた)に対抗すべく私財(1,100から1,200ポンド)を投じて「宗教信者」のみで編成した鉄騎隊(Ironside)がウィンスビーの戦い(Battle of Winceby、1643年)で勝利し、これを原型とするニューモデル軍(New Model Army、新型軍あるいは新模範軍とも)がイングランド初の常備軍となった事かもしれない。

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*17世紀中旬は(恐怖を克服した)重騎兵の密集突撃が有効だったギリギリ最後の時代とされている。そして王党派は随伴歩兵を伴なわない騎兵のみの編成だったので機動力が高く、同じ騎兵でしか捕捉出来なかったとか。

1640年〜1652年…カルターニャ農民戦争。収穫用の大鎌を持って戦ったので「収穫人戦争」ともいう。便乗して介入したフランスにピレネー以北を奪われた。
カタルーニャの反乱

1640年〜1668年…ポルトガル王政復古戦争。衰退する一方のスペインに見切りをつけたポルトガルが独立を決意。ポルトガル新王統はハーグ条約(1661年)によってオランダと和平を結び(ブラジル完全回復の代償にセイロン島とモルッカ諸島を割譲)、イングランド王室に入嫁するカタリナ王女の持参金の一部として港湾都市タンジールとボンベイを譲渡。最終的にメシュエン条約(1703年)締結によって大英帝国経済圏に完全に組み込まれてしまう。

1642年 まだ十代だったブレーズ・パスカルが機械式計算機の先駆的研究を始め、3年後に完成させて50台の試作機を作った。このため一般にパスカルが機械式計算機の発明者とされている。その後10年間に20台の(Pascaline と称する)計算機を作った。
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1648年〜1658年 フランス貴族の反乱(フロンドの乱)。同時期にはマザリナード(Mazarinades。「フロンドの乱」当時大量に発行されて頒布された「外国人宰相」ジュール・マザランの弾劾と擁護を主題とする小冊子群)が飛び交った。それと前後してサロン文化が台頭し、アカデミー・フランセーズ同様にフランス語文学発展上重要な役割を果たす事になった。そこではデカルトが1649年から1650年にかけてスウェーデン女王クリスティーナに招聘されたのに勇気付けられて政策論も活発に議論されたとされている。

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1649年〜1653年 クロムウェルアイルランド侵略 (The Cromwellian conquest of Ireland)。戦争、飢饉、そして疫病の組み合わせがアイルランド住民の大量死に結びついた。ウィリアム・ペティは1641年以来のアイルランドにおける犠牲者数を618,000人以上、もしくは戦前の人口の40%と見積持っている。このうち400,000人はカトリック教徒で、167,000人は戦争や飢餓で直接的に殺され、残りは戦争に関連する疫病で死亡したとした。
アイルランド人の戦争捕虜を年季奉公人として西インド諸島に売り払う慣習も始まる。イングランド共和体制のもと合計12,000人が奴隷としてバルバドス中心に売払い、現地でその子孫はレッドレッグ(Redlegs)と呼ばれた。


17世紀後半 
イングランド商業革命。清教徒革命期(1638年〜1660年)を契機にイングランド交易の主舞台が欧州内から欧州外に推移。特に砂糖の輸入は1640年頃には取るに足らない量であったのがこの世紀の中旬よりカリブ海の植民地で砂糖革命が起こり生産量が飛躍的に急増。1660年代には輸入全体の一割近くを占めるに至った。供給量も1700年頃までに倍増、17世紀後半までに5倍、アメリカ独立戦争後にはさらにその4倍に拡大(値段も17世紀中頃までに1620年代の半値となり、17世紀後半にはさらにその半値に)。結果として18世紀中旬のイギリス人は平均するとフランス人の八~九倍の砂糖を用いる国民になっていたという。

1651年 英国でトマス・ホッブスが小冊子形態で「リヴァイアサン」を発表。「法実定主義(legal positivism)」普及の端緒となる。

1652年〜1674年 第一次英蘭戦争

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1660年 英国王政復古。共和政が倒れ、ステュアート朝王政が復活した。
王政復古(イギリス)

1661年 アイザック・ニュートン卿が万有引力の法則を発見。

1664年 ロシュ・フーコーのいわゆる「箴言集」刊行が始まる。

  • 正式名称は「考察あるいは教訓的格言・箴言」。単に「箴言集」や「格言集」とも呼ばれる。1659年頃から執筆を始めたと推測されており、その後いくつか写本も作成された。印刷物として刊行されたのは1664年のことであるが、これは先行して無許可の海賊版が出されたことに対抗したためである。その後、箴言は増補される一方で一部が削除され、生前に第5版(1678年)までが刊行された(死後1693年には第6版が出された)。

  • 彼の作品に見られる辛辣な人間観察には、リシュリューと対立して2年間の謹慎処分を受けたことや、フロンドの乱マザランと対立したことなどで味わった苦難が反映されているとも言われる。こうしたモラルハザードからリベルタン(Libertin=自由人、虚無的感情に呑まれ、あらゆる既存秩序への反逆と刹那的快楽のみを求める様になった放蕩貴族への蔑称)の暗躍が始まるのである。
    *その怪しげな雰囲気が後世になってからマルキド・サド「ソドム百二十日あるいは淫蕩学校(1785年)」やE.T.A.ホフマン「スキュデリー嬢、ルイ14世時代の物語(1814年)」に活写される事になる。

1670年 モンフォーコン・ド・ヴィラールの「ガバリス伯爵 - 或いは隠秘学をめぐる対話.(1670年)」がフランスで刊行される。

  • 「薔薇十字騎士団の秘密を暴いて著者が処刑された」という触れ込みで売られ、フロンドの乱(1648年~1653年)に際してマザリナード(Mazarinades;愛国心からイタリア人宰相ジュール・マザランや彼に味方するアンヌ・ドートリッシュやコンデ公を弾劾した小冊子の一群)を書き散らしてフランス絶対王制を敵に回した帯剣貴族や法服貴族の間で貪る様に読まれる。

  • 18世紀に入ると薔薇十字団員を自称するカリオストロサンジェルマン伯爵などの人物、薔薇十字団を名乗る団体、薔薇十字団の流れを汲むと自称する団体が欧州宮廷を暗躍する様になって当時の人々を惑わせた。

  • その後もフランス貴族のオカルト好きは続き、降霊会の席で「恋する悪魔(Le Diable amoureux;1772年)」で有名なジャック・カゾット(Jacques Cazotte、 1719年~1792年)がフランス革命を予告したなどの伝承が残される事に。
    *そして「ガバリス伯爵あるいは隠秘学に関する会話」は「(狂詩人ネルヴァルいうところの)ロマン主義文学の重要な源流のひとつ」ジャック・カゾット「恋する悪魔(1772年)」の種本の一つ。

1672年 ゴットフリート・ライプニッツがPascaline を改良して乗除算を直接計算できるようにした Stepped Reckoner を発明。

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1674年 オラトリオ会修道士ニコラ・ド・マルブランシュ(Nicolas de Malebranche,1638年~1715年、奇しくもルイ14世と生没年が一緒)が「真理の探究(1674年~1675年)」を発表を開始。

1687年 アイザック・ニュートン卿が「プリンピキア」を発表。
アイザック・ニュートン(Isaac Newton、1642年〜 1727年)の「色の三元素説」に端を発し、青・赤・黄の色版を三枚重ねて鮮やかな色刷り画を生み出す事に成功したヤコプ・クリストフ・ル・ブロンが機械的多色印刷技術を確立する。

1687年 シャルル・ペローがこの年発表した「ルイ大王の世紀(Le siècle de Louis le Grand)」の中で「(オウィディウスウェルギリウスなどの)古典文学よりも現代文学の方がすぐれている」と公言(新旧論争)。
*これは同年ペローがアカデミーの会合でルイ14世をたたえる詩を読むや席を蹴って立ったボアローへの挑戦で、ボアロー側は「ロンギノス考(Réflexions sur Longin, 1694年)」の中で古代人と近代人の優劣について正反対の説を唱えた。その後、アントワーヌ・アルノーの斡旋で和解。

1688年〜1689年 イングランド名誉革命に続いて権利章典公布 英仏戦争開始(第2次百年戦争)。

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1690年 ジョン・ロック名誉革命を擁護する「統治論」を小冊子形態で発表しコーヒー・ハウスにおいて配布。

1692年 ニューイングランドのセイラムで大規模な魔女騒動(セイラム魔女裁判)が起こる。
*北アメリカの植民地で魔女狩りはあまり見られなかったが、この事件だけは例外で、それゆえに人々に衝撃を与えアメリカの歴史に暗い影を落とした。同時に魔女狩りの当事者による公的な謝罪が行われた唯一の事件ともなった。ちなみにセイラム出身の米国文学者ナサニエル・ホーソーンNathaniel Hawthorne 1804年〜1864年)は、父方の祖先である初代ウィリアム・ホーソーンがクエーカー教徒迫害に関与し、二代ジョン・ホーソーンがセイラム魔女裁判の判事を務めてきた歴史から善と悪と罪の関係を扱った宗教的内容の作品を多く残している。

1694年 イングランド銀行設立

1694年 アカデミー・フランソワーズがアカデミー辞書(Dictionnaire de l'Académie française)初版を出版。

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1695年 シャルル・ペロー1691年よりサロンで朗読披露してきた「韻文による物語(Griselidis, Nouvelle avec le Conte de Peau d'Asne et Souhaits ridicules)」に序文を加えて出版。続いて散文で「寓意のある昔話、またはコント集~がちょうおばさんの話(Histoires ou contes du temps passé, avec des moralités : Contes de ma mère l'Oye、1697年)を発表。
*民間伝承を詩の形にまとめ、教訓を加えたものだが、当時の風俗を反映させるなど子どもにも親しみやすく書かれており、子どもを意識して書かれた初めての児童文学であるともいわれている。当時サロンでは、昔話を元にした詩を書くことが流行していたが、他の文学者たちの作品は子どもが読むには難しいものであった。また元ネタをルネサンス期から爆発的人気が続いてきたイタリア説話集に求めた作品も含まれている。


17世紀も末期に入ると知識階級の魔女観が変化し、裁判も極刑を科さない傾向が強まったこと、カトリックプロテスタントともに個人の特定の行為の責任は悪魔などの超自然の力でなく、あくまでも個人にあるという概念が生まれてきた。依然として一般庶民の間では魔女や妖術への恐怖があって「魔女」の告発が行われても、肝心の裁判を担当する知識階級の考え方が変化して、無罪放免というケースが増えたことで、魔女裁判そのものが機能しなくなっていったのである。
イングランドで1624年に制定された魔女対策法が廃止されたのは1736年であり、最後の40年間はこの法律によって死刑となったものはいなかった。しかしこれを継承した妖術行為禁止令(1735年)は、1951年に詐欺的霊媒行為禁止令に取って代わられるまで存続。1944年にヘレン・ダンカンが最後の拘留者となったが、この逮捕は彼女によってノルマンディー上陸作戦の計画が露見するかもしれないことを恐れた軍情報部の要請によるものとも言われている。また実際に適用されることはなかったとはいえ、妖術行為禁止令は1983年までアイルランドで施行され続けた。それからパレスチナ委任統治していたイギリスの法制度を導入したイスラエルでは、現在でも施行され続けている。

1703年 ライプニッツイエズス会宣教師ジョアシャン・ブーヴェから六十四卦を配列した先天図を送られ、そこに自らが編み出していた2進法の計算術があること事を見出す。

  • 彼は微積分法をアイザック・ニュートンとは独立に発見・発明しただけでなく、これに優れた記号法(ライプニッツの記法)を与えた。現在使われている微分積分の記号は彼によるところが多い。

  • それと同等か、あるいはそれ以上に重要な業績は今日の論理学における形式言語に当たるものを初めて考案したことである。ライプニッツによれば、それを用いることで、どんな推論も代数計算のように単純で機械的な作業に置き換えることができ、注意深く用いることで、誤った推論は原理的に起こり得ないようにすることができるというものであった。彼は、優秀な人材が何人かかかって取り組めば、それを実現するのに5年もかからないと信じていたようであったが、現実には300年以上を要する事になる。

  • 彼は記号に取り憑かれていた人物で、論理学以外にも、例えば幾何学について、記号を用いて機械的に証明をする構想を得ていた(これも後世には現実となった)。また独自の機械式計算機を考案し、その死まで独自に改良を加え続けた。

1719年〜1720年 英国人作家ダニエル・デフォー(Daniel Defoe, 1660年〜1731年)が、「ロビンソン・クルーソー(Robinson Crusoe)」シリーズ三部作を発表。ここで「プロテスタントの克己精神」と「複式簿記による出納管理」を対応させる描写がある辺りに近代人意識の萌芽を見る向きが多い。ところで同時代の日本に目を向けると貝原益軒「和俗童子訓(1710年)」に「娘が伊勢物語源氏物語のような軽薄な恋愛絵巻に嵌まり、芝居に通って困ります」という商家の大旦那からの相談に「反対するだけ逆効果です。それより読み書き算盤を叩き込み、家計簿と日記をつける習慣を確実に身に着けさせなさい。そうやってしっかり自己管理が出来ていれば、そういうものに入れ込み過ぎて自らの人生を破滅させる心配もしなくて済むのです」と答える場面が出てくる。西洋式に考えるなら、ここに近代人としての日本人の起源があった事になる。

*そもそも国際的に「紙文化」の台頭は当初は「官僚による文書行政の徹底(欧米ではオスマン帝国が最初に着手し、スペイン経由でフランスや英国に伝播)」「商人による業務の簿記管理の徹底(欧米ではヴェネツィアが最初に着手し、オランダ経由で英国に伝播。前近代における日本では大福帳による売掛金管理を中心に発達)」に牽引されるのが常で、これが官僚による特権擁護の材料に使われなければ(オスマン帝国や中華王朝の官僚が発展させた「インテリ独占文体」がこれに当たる)過当競争が生んだ供給量過剰を捌く為に娯楽分野などへの進出を余儀なくされていく。まさにここに「科学的経営」に行き着く近代文明の萌芽が見受けられるという見方も出来るかもしれない。

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1725年 ジャンバッティスタ・ヴィーコが「新しい学(Principi di scienza nuova,1725年)」出版。

  • スコラ哲学を出発点として幾何学の様な「閉じた定理体系」だけが科学とする演繹法に行き着いたデカルト機械的宇宙論と、その思考分野を歴史に当て嵌め近代歴史哲学を基礎づけた。

マックス・ウェーバーゾンバルトはともにこれを「Rechenhaftigkeit」と呼んでます。英語のCalculating Spiritのドイツ語訳で「計算癖」を意味し、これが部分的判断からあらゆる判断を全人格的に代表する基本原理へと昇華される事を「資本主義化」としたのですね。

かくしてまず国家が資本主義化され、次いで個人が資本主義化される事に。「それではそれ以前は何だったのか?」についての統一見解はありません。もしかしたら上掲の年表の中にあるのかもしれません。

こうして「魔女狩りの歴史的展開」「宗教革命の展開史」「出版物年表」といった垣根を取っ払って全体像を俯瞰してみると「(小冊子を含む)携帯可能な書籍の大量頒布」がネガティブ・キャンペーン合戦を常態化させ、17世紀を戦争の世紀にしてしまった黒歴史が浮上してきます。そして最後には誰もが性根尽き果ててウェストファリア条約締結(1648年)によって国際協調時代へ。漁夫の利を得たのが途中参戦のスウェーデンと(カソリック国なのに新教側に加担した)フランスでは、もはや再び大義名分を振りかざす意欲も沸かなかった事でしょう。そしてスウェーデンが早々にフェイドアウトして大陸はフランス一強の時代に。

*フランスでは17世紀に軍事費が5~8倍に増え、イギリスでも16倍になった。オランダでは国家予算の90%を軍事費が占め、神聖ローマ帝国の予算に至っては実に98%までが軍事費だったとされている。

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しかし本当にフランスは勝者だったのでしょうか? 18世紀に入ると資金調達力が覇権の鍵を握る様になり、経済学の発展も加速。そうした状況下、オランダは中央集権化が遅れて財政が行き詰まり、フランス絶対王政もジョン・ローの中央銀行設立計画がバブルが弾けて水泡に帰してしまいます。一方、同時期の英国は南海泡沫事件(South Sea Bubble、1720年)と東インド会社の腐敗なる二大課題をクリアして財政健全化に成功。「ウォルポールの平和(1821年〜1841年)」と呼ばれる戦争回避期間を経て七年戦争(1756年〜1763年)の裏舞台でフランスの海外植民地をまとめて接収。こうした積み重ねが大英帝国の時代を現出させる事になるのです。まさしく「Rechenhaftigkeit=Calculating Spirit(計算癖)」の勝利。それでは英国はいつからそうだぅたのか? やはり統一見解がありません。「もしかしたら上掲の年表の中にあるかも?」です。
*これを遂行する為にホイッグ党は政敵たるとトーリー党に対するネガティブ・キャンペーンを徹底敢行。今日なお賛否両論分かれるその戦略だが、実は欧州同様に出版文化の発達していた当時の日本でも田沼時代(1767年〜1786年)から寛政の改革期(1787年〜1793年)には同種の小冊子(パンフレット)合戦が荒れ狂った。「田や沼や汚れた御世を改めて清らに住める白河の水」への返歌「白魚の清きに魚のすみかねてもとの濁りの田沼こひしき」とか、「世の中に蚊ほどうるさきものは無しぶんぶといふて夜も寝られず」なんて狂歌はその産物だったのである。

しかしヘルムート・プレスナーの指摘によれば、以下なども「天動説の世界」の仲間、というかその代替物として発達した世俗信仰(Die Weltfrömmigkeit)という事になってしまうのですね。

実際誰も「資本主義的なだけの世界」では生きてはないという事でしょうか?

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そして後に残された何か…まぁ、日本の妖怪も中国由来でなければ概ね似た様な出自だったりするみたいですが。商業利用が始まった時期が早かったので、記録に残されて生き延びた数も尋常ではなかったという…