諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

幕末まで生き延びた元キリシタン大名

遠藤周作「沈黙(1966年)」

「どこ」

もう一度、大声できくと、

「ヨコセのウラ」

一人が恥ずかしそうに小声で答える。ヨコセウラという地名はヴァリニャーノ師から幾度も聞かされていた。フロイス師やアルメイダ師たちがこの附近の領主から許しをもらって開いた港で、それまで平戸を訪れたポルトガルの船は以後、この港にだけ寄港するようになった。丘の上にはイエズス会の会堂がたち、神父たちは、その丘に大きな十字架を作った。その十字架は遠い海を幾日もかかって、やっと日本に到着した宣教師たちに、船の上からも、はっきりと見えるほど大きなものであった。復活祭の日には、日本人の住民たちも、手に手に蠟燭をもって、その丘まで唄を歌いながら詣でたという。領主さえもここをたびたび訪れ、やがて洗礼を受けたのである。

司祭は舟からその横瀬浦らしい村や港をさがしたが、海も陸も、黒一色に塗りつぶされて、灯一つみえない。何処に村や家があるのかわからなかった。だが、ひょっとすると、ここにもトモギや五島の部落のように信徒たちがひそかにかくれ残っているかも知れなかった。今、海を通過していくこの小舟の中に、彼等は野良犬のように一人の司祭が震えながら蹲っているのを知っているのだろうか。司祭が番人たちに横瀬浦は何処だと聞くと、しばらく、ためらった後、櫂を漕いでいる男が答えた。

「なにもなか」

村は焼かれ、それまで住んでいた者たちはすべて追い払われたというのである。舟に波が鈍い音をたててぶつかったほかは海も陸も、死んだように黙っていた。

「最後の肥前大村藩藩主」大村純熈の幕末時の勇姿

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考えようによっては「外国に長崎を売った売国奴」とも。小国という名の原罪(生き延びる為に幾度となく善悪の彼岸を超越する事を強いられる)…

 肥前大村藩」の概略

  • 当藩の藩主である大村氏は古来よりこの地で伝統的支配力を発揮してきた家系であり、それゆえに天正15年(1578年)の豊臣秀吉の九州平定後もこの地を領することを許された。そして「キリシタン大名」として出発しながら江戸幕府開府後も引き続き27,900石を有する領主として存続して明治維新を迎えている。極めて稀な例といって良いだろう。

  • 戦国時代にはイエスズ会に長崎を寄進した代わり南蛮貿易を通じて潤っていたが、これを豊臣政権に直轄領として接収されて以降、貿易利潤を喪失する事になった。

  • しかもそれだけでなく当初は藩主直轄領が僅か4千余石しかなく、残りの8千余石は全て大村庶家15一門家の手に渡っていたのである。

  • 4代藩主純長の明暦3年(1657年)城下北部の郡村3村より多数の隠れキリシタンが発覚し逮捕されるに至った。「郡崩れ」と呼ばれるこの事件は、キリスト教禁教令より45年を経過した後のことであり藩の存亡を揺るがす重大事件となった。しかし、純長の実父であり勘定奉行を務めるなど幕府の要職にあった旗本・伊丹勝長を通じ、幕府に対し即座に事件の実情報告を行い恭順したため咎を受けなかった。これ以後、キリシタンへの徹底した予防と探索を行い、領民に対し仏教神道への信仰を強化した。 

戦国大名大村純忠(1533年~1587年)

  • 戦国時代のキリシタン大名である。実父は有馬晴純。有馬義貞の弟。幼名は勝童丸。官職は元服時に民部大輔、のち丹後守を自称。洗礼名はバルトロメオ。三城城主。娘は江上家種の妻。日本初のキリシタン大名で長崎港を開港した人物として知られる。

  • 大村氏の先祖は藤原純友であるという(外山幹夫氏による平直澄祖先説もあり)。この祖と同じ名前を持つ純忠は肥前国有馬の出身で、1538年、肥前の有力豪族であった大村純前の養嗣子となり、1550年に大村氏の家督を継いだ。

  • これは純前に嫡子がなかったためであり、かつ大村家は有馬家から出てきたという歴史的背景があったからである。純前の実子(庶子である又八郎、後の後藤貴明)は武雄に本拠を置いていた後藤氏に養子に出され、大村家と有馬家の間には姻戚関係が成立した。

  • 実子をおしのけて家督を継いだというプレッシャーを、純忠は一生感じ続けることになる。また当時の大村領は、攻撃的な肥前佐賀の龍造寺隆信などによる周囲の圧迫もあり、打開策を模索していた。その中で彼が見出した答えがキリスト教であった。

  • 1561年、松浦氏の領土であった平戸港でポルトガル人殺傷事件が起こると、ポルトガル人は新しい港を探し始めた。それを知った純忠は1562年、自領にある横瀬浦(長崎県西海市)の提供を申し出る。イエズス会宣教師がポルトガル人に対して大きな影響力を持っていることを知っていた純忠はあわせてイエズス会員に対して住居の提供など便宜も図り、結果として横瀬浦はにぎわい、純忠のこの財政改善策は成功した。

  • 1563年、宣教師からキリスト教について学んだ後、純忠は家臣とともにコスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受ける。純忠の信仰は過激なもので、受洗後は妻以外の女性と関係をもたず、また横瀬浦を開港した際も、仏教徒の居住の禁止や、貿易目的の商人に十年間税金を免除するなどの優遇措置を行ったばかりか領内の寺社を破壊し、先祖の墓所も打ち壊し、領民にもキリスト教の信仰を強制した。その結果、大村領内におけるキリスト信者数は最盛期には6万人を越え、日本全国の信者の約半数が大村領内にいた時期さえあったとさえされるが、この行過ぎたやり方は当然家臣や領民の反発を招いた。そしてその結果、純忠に恨みを抱く純前の庶子後藤貴明が大村家の家臣団と結託して蜂起し、横瀬浦を焼き払うという事件まで起こってしまったのである。

  • 純忠は同様の事態の再発を防ぐ為、1570年にポルトガル人に新しい良港を提供した。当初は百戸にも満たない寒村にすぎなかったが、後に大発展を遂げたこの港こそが長崎である。

  • 1572年には松浦氏らの援軍を得た後藤貴明の軍勢1500に居城である三城を急襲された。当時城内には女子供も含めて約80名しかいなかったが、援軍が来るまで持ち堪え、これを撤退に追い込んでいる。

  • 1578年には長崎港が龍造寺軍らによって攻撃されたが、純忠はポルトガル人の支援によってこれも撃退している。そして1580年、純忠はついに長崎港周辺をイエズス会に教会領として寄進したのだった(そしてイエスズ会は後に秀吉によって接収されて直轄領化されるまでこの地を最重要拠点として活用され続ける)。

  • 巡察の為に日本を訪問したイエズス会員アレッサンドロ・ヴァリニャーノと対面し、1582年における天正遣欧少年使節の派遣を決めている。その際に彼の名代として甥にあたる千々石ミゲルを指名した。まさか彼が欧州に向かう途中で「(おそらく一部戦国大名が戦費を調達する為に売り渡したと思われる)数多くの日本人奴隷」を目撃して西洋人不信症に陥り、後に罪悪感のあまり棄教する事になるとはこの時点で誰も考えていなかった事だろう。

  • 1576年~1577年頃から龍造寺氏の圧迫を受ける要になり、喜前(サンチョ)、純宣(リノ)、純直(セバスチャン)、純栄(ルイス)の四人の息子のうち3人までも人質に出さねばならない程の従属状態に置かれる要になった。「沖田畷の戦い(1584年)」にも龍造寺方として従軍せざるを得ず、親族である有馬勢と戦う事を余儀なくされたが、この時は空鉄砲を撃って誤魔化したとされる(この為、隆信の戦死後も、大村勢は島津軍の追撃も受けずに開放されたという説もある)。

  • 豊臣秀吉九州征伐(1585年)」では秀吉に従って本領を安堵された。そして1587年5月18日、坂口の居館において55歳でこの世を去った。死因は肺結核バテレン追放令の出る直前の死であった。 

肥前大村藩初代藩主(在位 1587年~1616年 )大村喜前

  • 大村純忠の長男。母は西郷純久の娘。正室は有馬義純の娘。子に大村純頼(長男)、娘(松浦隆信正室)、娘(大村純茂室)、娘(大村敏武室)、娘(大村公頼室)、娘(福田兼則室)。官位は従五位下、丹後守。嘉前とも表記される。ドン・サンチョという洗礼名を持つキリシタンでもあった。

  • 文禄元年(1592年)からの朝鮮出兵にも出陣している。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍について所領を安堵された。

  • 慶長7年(1602年)、熱狂的な日蓮宗徒であった加藤清正の薦めもあってキリスト教を捨てて日蓮宗に改宗し、領内におけるキリシタンを弾圧した(「フロイス日本史」によると、喜前は父の存命時代にも龍造寺隆信の圧迫に屈してキリシタン弾圧に踏み切った事があるという)。

  • このため、それを恨んだキリスト教徒に毒殺されたとされる。

 肥前大村藩2代藩主(在位 1616年~1619年 )大村純頼

  • 文禄元年(1592年)に大村純忠の孫、大村喜前の長男として三城で生まれた。

  • 早くから父と共に共同政治を行なっており、慶長12年(1607年)には徳川家康の許しを得て、財源確保と藩主権力強化のために「御一門払い」と呼ばれる一門の領地没収を強制的に実行している。大坂の役では徳川方として参戦し、長崎の警備や豊臣氏残党追捕に務めた。

  • 元和2年(1616年)、父が急死したため、家督を継いで第2代藩主となる。しかし元和5年(1619年)11月13日には早くも玖島城で急死してしまった。享年28。後を長男・純信が継いでいる。

  • 父と同様にキリシタンを弾圧を続けたので父同様に宣教師から毒殺されたとする説もある。

肥前大村藩3代藩主(在位 1620年~1650年 )大村純信

  • 元和4年10月9日(1618年11月25日)に2代藩主大村純頼の長男として生を受けた。母は大村頼直の娘。正室は伊丹勝長の娘・松。官位は従五位下、丹後守。

  • 純頼が元和5年(1619年)に早世したとき、純信はまだ2歳であり、大村藩はいきなり改易の危機を迎えたが家臣の奔走により、江戸幕府に純信の襲封を認めさせることに成功し、元和6年(1620年)に藩主となった。

  • しかし、その純信も慶安3年(1650年)に子が生まれないまま33歳で若死にしてしまい、再び改易の危機に瀕する事になった。

肥前大村藩4代藩主(在位 1651年~1706年 )大村純長

  • 甲斐徳美の藩主だった伊丹勝長の四男。母は井上氏、養父は3代藩主大村純信。正室は大村藩藩士・大村政長の娘・都智、後室は延岡藩主・有馬康純の娘・亀。子に大村純真(長男)、大村純尹(次男)、大田原清勝(三男)、大村純庸(四男)、西郷寿員(五男)、娘(生駒親興正室)、娘(久世広隆正室)、養女(平岡頼雄正室)。官位は従五位下因幡守。

  • 先代である純信が慶安3年(1650年)に33歳で若死し、しかも子供がいなかったことから大村藩は再び無嗣断絶の危機に立たされたが、正室・松の兄弟である大村純長(勘定奉行伊丹勝長の四男)を末期養子に迎える事で何とか危機を切り抜けた。

  • この頃は末期養子が禁じられていたが、そもそもこの養子縁組自体が江戸幕府の斡旋だったとされ、慶安4年(1651年)に無事襲封が認められた。これに感謝して、その翌年に当たる承応元年(1652年)には領内に徳川家歴代将軍を祀る「円徳寺」(現在廃寺、跡地は大村護国神社)を建立している。これにはおそらく本人が譜代出身であった事も関係していたと思われる。

  • 明暦3年(1657年)には藩内で大勢の隠れキリシタンが検挙される「郡崩れ事件(603人の隠れキリシタンが郡地区を中心として発見され、最終的に406人が処刑、釈放されたのは99名だけという島原の乱以後では最大級のキリシタン弾圧事件)」が起こっている。本来ならキリシタンが領内にいたと言うだけでお取りつぶしなのだが、純長は実父・伊丹勝長を通して直ちに幕府に報告し、その行為を殊勝とみなされて全くおとがめなしに終わった。

  • その後は更にキリシタン処罰を進めると同時に領民に対する仏教改宗政策を強化した。その一方で藩校「集義館(もっとも早く開設された藩校の一つで、後の長崎県立大村高等学校の母体となる)」を開校して門戸を藩士の子弟ばかりでなく一般庶民にも開放する事で硬軟のバランスを取ろうとした。

  • 宝永3年(1706年)に71歳で死去し、跡は次男・純尹が襲封した。長男の大村純真は延宝2年(1674年)徳川家綱に拝謁し、延宝6年(1678年)に叙任したが家督相続前の元禄2年(1689年)に廃嫡されている。理由はよく判らない。

肥前大村藩5代藩主(在位 1706年~1712年 )大村純尹

  • 寛文4年(1664年)3月21日、第4代藩主・大村純長の次男として江戸藩邸で生まれる、兄の大村純真が廃嫡されると元禄2年(1689年)4月26日に世子に指名され、12月27日に従五位下筑後守に叙位・任官された。そして宝永3年(1706年)、父の死去により家督を継いで第5代藩主となったが、この時弟の大村純庸に3000石を分与している。

  • 藩財政窮乏の為に家臣団のリストラを断行したが、江戸幕府の手伝い普請や軍役や参勤交代による出費のせいで状況は一向に改善しなかった。

  • このため新田開発や年貢増徴を遂行したが、凶作や捕鯨業の不振のせいで借金を余儀なくされる。しかしあまりに借り過ぎて遂には商人から拒絶された事まであったという。

  • 正徳2年(1712年)10月14日に死去。享年49。実子は全て早世したため、異母弟で養子の大村純庸が後を継いだ。ちなみに廃嫡になった長男の大村純真もこの年に51歳で没している。 

肥前大村藩6代藩主(在位 1712年~1727年)大村純庸

  • 寛文10年(1670年)1月13日、第4代藩主大村純長の四男として玖島城で誕生。

  • 宝永3年(1706年)に父が死去すると、家督は異母兄の大村純尹が継ぎ、純庸は3000石を分与された。やがて異母兄の実子が全て早世した為に兄の養子となり、正徳2年(1712年)に兄が死去すると家督を継いで第6代藩主となった。

  • 享保4年(1719年)5月3日から行き詰まった藩政を立て直すため、地方知行制(家臣が所領を知行地として分与される行政型式)を蔵米知行制(家臣が俸禄として蔵米(幕臣の場合は廩米)を支給されるだけの行政型式)に変更して年貢増徴を実現した。

  • 享保12年(1727年)閏1月9日、家督を次男・純富に譲って隠居する。以後は蘭台と号して俳諧の世界で余生を過ごした。元文3年(1738年)5月13日に大村の向屋敷で死去。享年69。

肥前大村藩7代藩主(在位 1727年~1748年)大村純富

  • 宝永8年(1711年)4月5日、第6代藩主・大村純庸の次男として江戸藩邸で生まれる。そして享保12年(1727年)閏1月9日、父の隠居で家督を継いで第7代藩主となった。

  • 父の政策を推進したが、享保17年(1732年)5月に享保の大飢饉が起こり、水害や虫害などが凶作とると、甘藷栽培を奨励し、江戸幕府から3000両を借用したり、樹木の自由伐採を許可したりして対処している。

  • 寛延元年(1748年)11月16日に死去。享年38。後を長男・純保が継いだ。

肥前大村藩8代藩主(在位 1748年~1760年)大村純保

  • 第7代藩主大村純富の長男で母は笹井氏。正室は植村家包の娘。子は大村純将(長男)、大村純鎮(次男)。官位は従五位下弾正少弼。幼名は幾之助。

  • 享保19年(1734年)2月22日、大村で生まれ、寛延元年(1748年)に父の死去により後を継いだ。

  • しかし宝暦10年(1760年)12月16日に27歳の若さで死去し、次男・純鎮が後を継いだ。 

肥前大村藩9代藩主(在位 1761年~1803年)大村純鎮

  • 宝暦9年(1759年)8月20日、第8代藩主・大村純保の次男として江戸で生まれ、宝暦10年(1760年)12月16日に父が死去したため、宝暦11年(1761年)2月16日に家督を継いで第9代藩主となった。

  • 寛政元年(1789年)8月より倹約、文武の奨励などを中心とした藩政改革に着手し、寛政2年(1790年)には藩校・静寿園を五教館と改称し、藩士だけでなく百姓・町人の入校も認めた。

  • 享和3年(1803年)1月23日、家督を長男・純昌に譲って隠居する。文化11年(1814年)7月16日に死去。享年56。

肥前大村藩10代藩主(在位 1803年~1836年)大村純昌

  • 天明6年(1786年)1月25日、第9代藩主・大村純鎮の長男として玖島城で生まれ、享和3年(1803年)1月23日、父の隠居により家督を継いで第10代藩主となった。

  • 財政再建を目指して藩政改革を行なうが失敗し、かえって財政窮乏を促進した上、家臣団の反発も招いてしまう。

  • このため、倹約や定免制の採用、他国製品の排除と自国製品の保護、生産化奨励などを行なっていくらかは成功させた。

  • 天保7年(1836年)11月23日、家督を四男・純顕に譲って隠居する。天保9年(1838年)10月5日に大村で死去した。享年53。

肥前大村藩11代藩主(在位 1836年~1847年)大村純顕

  • 文政5年(1822年)11月5日、第10代藩主・大村純昌の四男として玖島城で生まれる。天保7年(1836年)11月23日、父の隠居で家督を継いで第11代藩主となる。

  • 職制改革・知行制改革、商業流通統制など、様々な藩政改革を行なったが、弘化3年(1846年)12月18日、病を理由に隠居する。

  • 家督は弘化4年(1847年)2月21日に同母弟で養子の大村純熈が継いだ。

  • 明治15年(1882年)、養子・純熈の後を追うように4月2日に死去した。享年61。

肥前大村藩12代藩主(在位 1847年~1871年)大村純熈

  • 文政13年(1830年)11月21日、第10代藩主・大村純昌の十男として玖島城で生まれる。弘化3年(1846年)に兄で第11代藩主である大村純顕の養子となり、12月18日に兄が病気で隠居すると、弘化4年(1847年)2月21日に家督を継いで第12代藩主となった。

  • 蘭学に通じ、文武や学問を奨励した。文久2年(1862年)には平戸藩と同盟を結んでいる。

  • 幕末期は藩内で佐幕派尊王派が対立し、文久3年(1863年)に純熈が長崎奉行に任じられると佐幕派が台頭した。しかし尊王派はこれに対して改革派同盟を結成し、元治元年(1864年)、純熈の長崎奉行辞任により逆に尊王派が台頭する。

  • 慶応3年(1867年)、改革派同盟の盟主である針尾九左衛門・松林飯山らが暗殺されると、逆にこの「小路騒動」と呼ばれた闘争を契機に純熈は佐幕派を処罰した。これによって藩論が一気に尊王倒幕へと統一され、在郷家臣団を含む倒幕軍が結成される。

  • 以後、薩摩藩長州藩などと共に倒幕の中枢藩の一つとして活躍し、戊辰戦争では東北地方にまで出兵した。この功績により、明治2年(1869年)6月には賞典録3万石を与えられ、版籍奉還により大村藩知事に任じられる。

  • 明治4年(1871年)7月、廃藩置県で藩知事を辞職する。そして同年の岩倉使節団長崎県出身の長岡治三郎(物理学者の長岡半太郎の父)、朝永甚次郎(ノーベル物理学者・朝永振一郎の祖父)とともに留学参加した。

  • 明治15年(1882年)1月、従三位に昇叙されたが、1月13日に死去した。享年53。明治36年(1903年)に従二位を追贈された。

 私の父方は長崎出身で、原爆で親族が半減したりもしてるんだけど、これどう考えたらいいんだろう?