諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

政治的浪漫主義者としてのマルクス

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最初に恋愛とロマンスを結びつけたのは「ジュリまたは新エロイーズ(Julie ou la Nouvelle Héloïse、1761)」のルソー(Jean-Jacques Rousseau、1712年〜1778年)といわれています。詳細は未確認ですが「各人のセルフイメージは幻想である」「恋愛は幻想共有に向けての試行錯誤である(成功は保証されてない)」的発言を多数残しており、マルクスの「上部構造論/下部構造論」や吉本隆明の「共同幻想論」に最もプリミティブな形での祖型を提供したとも。
*今読み返すと「自己幻想・対幻想・共同幻想の3階層構造」と「人は誰しも自らの歴史を築く。ただし自由にではない」あたりが一つの到達点?

ただ今日ではジュリまたは新エロイーズ」そのものが読み返される事はあまりありません。(未知の知識に接っしてパラダイムシフトを強要される事を社会単位でヒステリックに恐れるあまり)全ての知識を包括的に網羅しようとした18世紀フランス啓蒙主義の精神。それは「絶対王政期フランスでは疑う事を許されなかった)教会や国王の権威を裏付けとする領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」と表裏一体の関係にあり、その寿命が既に尽きてしまっているからです。現代人の再読に耐えるのはゲーテ「若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers、1774年)」以降。というのも「初めて世界に直面した若者は、いかに自らの世界観を構築するか?」という切り口なら現在なお有効だからです。そして何より短い。これ案外重要…
*ただし疾風怒濤期(Sturm und Drang)の苦悩に耐えかねた作家達はその後「自らの民族的原点たるギリシャ・ローマ古典の世界」へと逃避。これはこれで現代人の再読に耐えない事は、何よりもまずビーダーマイヤー期(Biedermeier、1815年〜1848年)の享楽的小市民がそうした重厚な作品に興味を持たなかった一方で、疾風怒濤期の詩が歌謡曲という形でリバイバルされると、それには喜んで飛びついた事によってはからずしも証明される結果に。

後世にはこうした「享楽的小市民の発想の貧困」に「王政復古期には世界をコントロールする力を回復したかに見えた)教会や国王の権威を裏付けとする領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」を全面肯定する立場から「君達はそのままでいいんだよ」と媚を売った因循姑息派の代表がヘーゲル、「君達が自由意志だと信じているそれは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない。本当の自分を回復したければすべてを破壊するのだ」と言い出した空前絶後の革命英雄がマルクスとされています。

しかし当時実際にフランスにロマン主義を伝播させたのは「ドイツ国民創出運動の創始者」フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンを擁護したE.T.A.ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann、1776年〜1822年)などでした。

*あくまで「自らの民族的起源を熱狂的に追求する」ドイツ・ロマン主義ヤーンの国民運動が直接伝播した訳ではない。フィレンツェルネサンスの最終到達点は異教秘儀的魔術世界だったし、ローマ・ルネサンス最終到達点はマニエリスム(maniérisme)的寓意世界だった。これらを摂取した上にデカルトフランシス・ベーコンの合理主義思想の薫陶を受け、それまで啓蒙主義運動を展開してきたフランスの反体制派には、当時のドイツ文学のうちE.T.A.ホフマン作品やゲーテファウスト(Faust、第一部1808年、第二部1833年)」が描く「狂気スレスレの世界」だけが輝いて見えたのだった。この「錬金術」を仲介したのが「狂詩人」ネルヴァルだった事も、そうした展開を加速した。「ドイツ国民運動の組織者」にして「体操の父」フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンを巡る諸問題はあくまで、E.T.A.ホフマンアンガージュマン(Engagement、有識者の政治参加)精神を担保する実例としてフランスへと伝わったに過ぎないのである。

それでは歴史のこの時点におけるマルクスは一体どういう人物だったのか?

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 若い頃のマルクスはイケメンで浪費家で、当時の流行に流されて詩とかも沢山残しています。ただ良い意味でも悪い意味でも熱狂的で、アンデルセン同様、恋愛詩とか執筆するとストーカーめいた微に入り細を穿つ不気味な超大作となり、捧げられた相手が「無理!! こんなの絶対無理!!」と裸足で逃げ出したとされてます。
*そういえば後世のパトロンも男ばっかり。実際ネット上でこの点に注目した腐女子の二次創作も目にした事がある。「君はマルクス×エンゲルス派? それともマルクス×ラッサール派?」。以降の共産主義思想家も次々と餌食に…

彼を無神論者に追い込んだのは、あるいはビーダーマイヤー期(Biedermeier、1815年〜1848年)に大量出没した軍人と官僚の指示には従順に従う享楽的小市民およびそれを容認するエドモンド・バーク保守主義思想だったかもしれません。意外かもしれませんが、当時のドイツにも英国王の統治下にあったハノーヴァーを震源地として伝播し、大きな論争を巻き起こしているのです。

それでマルクスおよび当時の大陸の政治的浪漫主義者達はすっかりひねくれてしまいます。例えば、こんな風に。

カール・マルクス「絶望者の祈り(1837年)」

 神が俺に、運命の呪いと軛だけを残して
 何から何まで取上げて、
 神の世界はみんな、みんな、なくなっても、
 まだ一つだけ残っている、それは復讐だ!
 俺は自分自身に向かって堂々と復讐したい。

 高いところに君臨してゐるあの者に復讐したい、
 俺の力が、弱さのつぎはぎ細工であるにしろ、
 俺の善そのものが報いられないにしろ、それが何だ!

 一つの国を俺は樹てたいんだ、
 その頂きは冷たくて巨大だ
 その砦は超人的なもの凄さだ、
 その指揮官は陰鬱な苦悩だ!

 健やかな目で下を見下ろす人間は
 死人のように蒼ざめて黙って後ずさりをするがいい、
 盲目な死の息につかまれて
 墓は自分の幸福を、自分で埋葬するがいい。

 高い、氷の家から
 至高者の電光がつんざき出て
 俺の壁や部屋を砕いても
 懲りずに、頑張って又立て直すんだ。

 Karl Marx and Fredrick Engels, Collected Works
 [New York; International Publishers, 1975-]
 1:563-64. 改造社版『マルクスエンゲルス全集』第26巻

下手なフランス人の政治的浪漫主義者より「政治的浪漫主義」っぽい語り口調ですね。でも歴史のこの時点においては、当時のドイツじゅうにいた無数の無神論者の反王権主義者の一人に過ぎません。

  • マルクスは最初から「高いところに君臨してゐるあの者に復讐したい」の一念で戦っていた。伝統的権威が絶対視される時代が終わった後、多くの政治的浪漫主義者(Political Romanticism)を見舞った「対消滅現象」を免れたのはそのせい?
    *かといって途中で見限って離脱する事もなかった。復讐心がまだ満たされていなかったから?

  • 当時の政治的浪漫主義者には多かれ少なかれ「いかに自分を内側から突き動かす衝動に忠実に身をまかせるか」競い合ってる側面が見受けられたが、ボードレール同様(少なくとも表現者としては)そうしたチキンレースに身をまかせたがる傾向が全く見受けられない。これもまた対消滅現象」を免れた要因の一つ?
    *というかドイツ語圏ではすぐ官警が動くので、そうした文化が発展する余地などなかったとも。マルクスも無心論者で反王権主義者ながら宗教や王権そのものの批判は慎重に避けており、その分矛先がヘーゲル批判に向かった問いう側面もなきにしもあらず。

  • しかし当時のロマン主義者が抱えていた制約から完全に逃れる事は出来なかった。自分が救われる事に手一杯で、他人に関心を持つ余裕が一切持てなかったのである。
    *まぁ恋人に死なれて悲しんでるエンゲルスに「いいから金をくれ」と言ってのけたり、政治的見解の相違から絶交したラッサールに「それでも送金は絶やすな」と平然と言ってのけた人物。「プロレタリアート解放」について最初に触れたのが1844年で、これ以降は急速に関心を経済問題と共産主義にシフトさせていったが、その背景にあったのは「出稼ぎドイツ人に対する外国での搾取」への復讐心だけで、外国人労働者への同情など、丸っ切りなかったとも。そもそもラッサールとマルクスが絶縁したのは「イタリア人にも良心が命じるままに独立する権利がある」と主張するラッサールに対してマルクスエンゲルスが揃って「この人間の屑めがっ!! 貴様はそれでも神聖ローマ帝国臣民か!! 愚鈍なイタリア人はハプスブルグ家の隷属化にあり続けることによってしか人間としての幸福が手に入らないのだ!!」と反論した事に端を発するのである。これはまさしく、アメリカの南部地主が家父長制や奴隷制を擁護するのに用いた論法に他ならない。

とりあえずざっと読み取れるのはこんな感じ? それでは別の切り口から俯瞰してみましょう。

青年マルクスヘーゲルをすみからすみまで読んでいたし、また、彼がフランス革命と出会ったのは何よりもヘーゲルを通じてであった。(略)

1818年の『法哲学綱要』におけるヘーゲルは、フランス革命の挫折が国家という「思考された概念」に対する無理解に起因していたことを、それまで以上に強く確信していた。そしてマルクスは、このヘーゲルの国家概念を批判することによって、フランス革命という問題に不可避的に立ち戻るのである。


法哲学綱要』は何を語っているのか。(略)ザヴィニーとともにバークが拒否される。つまり、国家を慣習すなわち何世紀にもわたって蓄積されてきた慣習的行為によって基礎づけることは、国家を社会の偶然的な産物というかたちで考えることへの逆戻りである。(略)


ヘーゲルから見れば、イギリスはけっして市民社会の枠を超えて国家の水準に到達しなかった。国家の概念のもうひとつの古典的な基礎である宗教に関していえば、その私的な性格や彼岸を称揚する性質ゆえに、宗教が果たすとされる公的な機能にはほとんど適さない。その論理は逆に、公的世界と私的世界とを分離し、公的な事柄に対する無関心を帰結する。臣民とは、信者の公的な外面なのである。


だが実のところ、ヘーゲルがとりわけ不快に感じているのは、経済学すなわち国家を公民の所有と安全の保証とみなす功利主義的な考え方であった。それは、啓蒙思想が宗教を掘り崩してしまった結果、欲求の普遍性によって定義されるホモ・エコノミクスだけが生き残った18世紀末に支配的となった考え方である。だが、欲求の普遍性は社会の統一原理を構成できそうにない。有用性のみを認める考え方の行き着く先には、ただ諸個人の分断だけがある。なぜなら、あるものにとって有用なものは、別のものにとってはそうではないからである。こうして、権力の不安定性が帰結する。(略)


国家に関するこれらの解釈をひとたびしりぞけてしまえば、もはやヘーゲルにとっては一人の特権的な対話者だけが残る。すなわち、ルソーである。このジュネーヴ出身の哲学者は、理性のなかに国家を基礎づけ、国家に意志という霊的原理を与えることを試みた。(略)これこそが、ヘーゲルから見れば、ルソーを近代最初の国家理論家たらしめている巨大な進歩なのである。だが、ルソーの誤りは、その先駆者たちから契約の観念を引き継いだ点にあった。なぜなら、一般意志が契約に由来するのであれば、一般意志は諸個人の意志に対して二次的なものになり、したがって、国家は市民社会に対して偶有的であり続けることになるからである。もっとも、こうした見方は、『社会契約論』の著者が一般意志を全体意志から注意深く区別していたことを念頭に置くならば、ルソーをいささか単純化している(略)


[ルソーとヘーゲルの根本的な違いは]人間を公民にするためにはその「変質」が避けられないとする考え方にある。(略)


ヘーゲルにとって人間とは、生まれながらにして、すなわち、本質的に国家公民であり、自己意識がその実質的な自由を見いだすのは国家においてだからである。(略)


ヘーゲルにとって、フランス革命はまさしく「国家における諸個人の結合を、契約、すなわち、諸個人の恣意的な意志のなかにその基礎をもつ何かへと還元してしまった」ルソーの誤りを例証するものであった。(略)

ルソーの作品は、フランス革命の「未曾有の」偉大さとその宿命的な挫折を予告していた。その偉大さとは、国家を思想の上に、しかもそれのみの上に築きあげるという目標を掲げ、歴史的な出来事に対してはじめて厳密に哲学的な性格を与えようとした企ての偉大さである。このフランス的大胆さによって、1789年は、バークがあれほど絶賛した1688年のイギリスの制度的つぎはぎ細工の水準をはるかに超える高みにまで達した。だが、一般意志を自然意志の疎外や変質や新たな開始として提示することによって、ルソーとフランス革命は、一般意志を純粋な外的な形式として出現させる。それは、国家における自由の実質的な性格を開示する代わりに、諸個人の自由を制約するのである。フランス革命を通じて見いだされるのは、このルソー的な抽象論である。それは、みずからがめざしたものとは正反対の結果をもたらすことになる。すなわち、自由の専制、恐怖政治である。(略)

国家は、フランス革命が試みて失敗したことを成功させなければならない。つまり、近代の歴史のなかで理性を実現しなければならない。重要なことは、国家の歴史的起源を探ることではなく、『社会契約論』の優れた部分、すなわち、国家とはみずから決断する一個の意志であるというルソー的な直観を維持しながら国家の概念を定義することである したがって、国家をそれに先行する現実から出発させるというのは本末転倒である。(略)社会が合理的に組織されることを可能にするのは、国家なのである。(略)

ヘーゲル的国家は、市民社会を包摂すると同時に乗り越える一個の全体性である。それは自由主義的国家とは何の関係もない。自由主義的国家は市民社会の産物であり、市民社会の諸々の「権利」をたんに保証するものでしかないからである。(略)

だが、ヘーゲルの国家概念に対するマルクスの批判は、ヘーゲルが設けた国家と市民社会の区別を自由主義的に解釈するという事態をまさしく招いてしまった。師匠の思想をフォイアーバッハ的に批判し、全体性としての国家という幻想の背後にあるブルジョワ的現実を見いだすために、マルクスは、イギリス経済学とテルミドール期のフランス自由主義すなわちアダム・スミスとバンジャマン・コンスタンヘと向かう。政治的なものに対する社会的なものの優位はこうして、マルクスにおいて思弁的な様相を帯びはじめる。(略)

ヘーゲルは、すでに見たように、国家こそが歴史の主役であり、観念を実現する主役であるという考えをもち続けている。市民社会は諸個人が争いあう場であり、したがって、政治革命がおこなわれる場である。これに対して、国家すなわち万人の利益の場は、より上位の合理性を体現する連続性と共同性の中心的制度である。市民社会と国家の矛盾は、観念における対立物の統一を覆い隠してしまうが、国家こそはまさにその和解の場にほかならない。ヘーゲルのこうした考え方から、あらゆる人民主権に対する拒否や、普遍精神の担い手として概念化されたナポレオンに対する礼賛や、プロイセン国家が体現する合理的な君主制国家といった観念が生じてくるのである。ヘーゲルにおいては、青年マルクスの言葉でいえば、政治的なものが社会的なものに覆いかぶさっている。なぜなら、前者が後者に意味を与えるからである。


マルクスにおいては、フォイアーバッハ的転倒がおこなわれた結果、それが逆になっている。そこにあるのは国家に対する市民社会の優位であり、近代性を何にもまして特徴づけているのも同じこの優位である。なぜなら、社会と国家の分離によって特徴づけられる近代文明における現実とは、自己の欲求や利害に身をまかせる個人であり、市場の人間にほかならないからである。(略)

社会的なものと政治的なものが近代において大きく分裂したことは、青年マルクスの考えでは社会的なものにとって有利に作用する。この分裂は、ヘーゲルにおいては、対立物を和解させる国家という概念を無傷のままに残したが、マルクスにおいては、この分裂は何よりも、富の増大や貨幣が引き起こす人間関係の解体によって規定される新たな社会の誕生を意味している。そして、個別利害に基づくこの個人主義的社会のなかから、従属的な役回りとしての近代国家が立ち上がるのである。(略)

フランス革命は、アンシアン・レジームを覆すことによって、商品社会特有の近代政治というものを創りだした。だが、この政治的なものは、「民主主義的な」公民たちが新たな国家へと疎外されることによって生じるひとつの幻想であるから、フランス革命はいずれ「真の」革命にその場を明け渡すことになるはずである。そして、この「真の」革命は、政治的なものを社会的なものへと吸収することによって政治的なもの自体を破壊するであろう。それは、この真の革命が実現するはずのものが、もはや国家の変革ではなくて国家の廃止であるということ、またこの革命が、政治的幻想へと人間が疎外されている過渡的形態すなわち公民性を破壊することによって、人間にマルクスのいう「類的存在」すなわち人類を取り戻させるはずだということを、意味している。(略)

フランス革命は、政治的精神すなわち政治的なものに特有の幻想の行き着く果てを表現している。政治的なものは、市民社会の現状を変えることができると信じているが、実際にはその反対に、政治的なものは、市民社会を欺瞞的に表現するものでしかない。政治的なものは、不平等と貧困を是正できると思っている。なぜなら、それは定義によって何でもできると信じ込むからである。だが、市民社会がもつこの「反社会的な本性」は、非常に厳密な意味で市民社会の存立条件なのである。こうした暴露を通じて、マルクスフランス革命に対する体系的な批判を構築したが、それでもなお彼は、フランス革命のラディカリズムとりわけ1793年をたえず賞賛し続ける。(略)

政治的解放が暴力によってなされるとき、それはすべての私的領域を公的領域によって覆い尽くし、すべての個人の活動全体を公民にふさわしいものへと還元しようとする傾向がある。こうして、公民性をうち立てる革命のために宗教の廃絶を宣言することは、最高価格や財産没収の通達を出したり、「さらには、生命の廃止すなわちギロチン」を宣告したりすることと大差ないものになった。ここでもマルクスは、ヘーゲルの分析をみずからの言葉に置き換えながら、恐怖政治を「政治的生活」が「みずからを生みだした原理すなわち市民社会を窒息させる」ための試みとして説明しているのである。(略)

マルクスは、「政治的」革命すなわちフランス革命のなかで、生産の諸条件がしだいに熟し、さまざまな利害や欲求が発達し、個人主義が確立していくのを見いだす。近代的公民性は、18世紀が「文明」とよんだものの産物である。この公民性は、諸個人の利害やエゴイズムを消し去るどころか、むしろそれ自身がこれらの利害やエゴイズムの抽象的な産物にほかならない。それは、宗教を引き継ぐと同時に、宗教の機能を集合的なレベルにおいて完成させる何かである。なぜなら、公民性は宗教と同様に、共同体や普遍的なものを求める人間の願望に由来するからである。民主国家は、キリスト教の人間的な基礎を一時的に実現するが、その代償として、新たな偽装がもたらされる。その偽装は、政治的解放が人間を全面的に解放するものであると信じさせるが、実際にはその解放は、疎外の新しいかたちでしかないのである。(略)

マルクスから見れば、ルソーは抽象的な民主国家の理論を作ったにすぎなかった。そこで今度は、ヘーゲルに学んだマルクスが、人類学的歴史観のなかでこの民主国家に対する批判に着手するのである。政治的なものは、近代における疎外の新たな形式であると同時に、ブルジョワ社会と一体化したブルジョワ社会についての想像的思考である。貨幣によってたえず解体され、互いに孤立させられたものたちの寄せ集めからなるこの社会は、定義によって、みずからをこのようなものとして考えることができない。それは、国家すなわち虚構的だが不可欠な自己統一の場を設立することができる想像上の空間をみずからに与える。それがまさに公民性であり、民主主義的な平等性なのである。フランス革命の意味は、それが近代社会の政治的形式を発明したという点にある。


その反対に、国家と宗教の同一視と、神の代理人たる王の存在によって特徴づけられるアンシアン・レジームは、至上者たる人間の不在に基づいていた。それは、臣下しか知らなかった。そこでは人間は、みずからの人間性を宗教という想像上の王国へと投影していた。近代国家は、キリスト教的な平等観を政治的なレベルヘと移しかえることによって、宗教的精神を世俗化する。(略)

「政治的生活は、[と、マルクスは注釈する]みずからがたんなる手段にすぎないと宣言する。その目的は、市民社会の生活なのである。」だが、実際に革命でおこなわれたことは、人間の諸権利の理論と矛盾する事例に満ちている。たとえば、通信の秘密の侵犯や所有物の徴用、個人の自由の侵害などは.フランス革命においては当たり前のようにおこなわれていた。だが、政治的なものが市民的なものに対して、一時的にではあれ、こうした簒奪をおこなったことは、マルクスにとってはまさしく、革命がもたらす解放の特徴を示すしるしのひとつにほかならないのである。事実、フランス革命は、封建社会において政治的なものと市民的なものとを結びつけていた絆を断ち切る出来事であった。フランス革命とはまさにこの[切断をおこなう]緊張であり、この[切断がもたらす]裂け目であって、そのなかで公民は、まず何よりもマルクスが「国家の観念論」とよぶものを確立するのである。(略)

このとき革命は、新しい共同体観念が市民社会の個別利害に対して絶対的な支配を及ぼすということを明確に示した。だが、政治的なものを自律的な領域として構成するこの運動によって、社会もまた、譜個人のエゴイズムの自由な戯れに歯止めをかけるものから解放されるのである。政治的解放はさらに、市民社会を政治からも解放することによって、諸利害の織りなす物質主義へと道を開け放つ。この不平等な戯れのなかでは、社会的人間こそが政治における想像的人間の現実的基盤にほかならない以上、社会が、政治的革命によって一時的に奪われていたものをいずれ取り戻すことになるのは当然であった。そこから、共和暦二年に始まりテルミドール反動に至るまでの一連の出来事が生じる。政治的なもののフォイアーバッハたらんとして出発した青年マルクスは、こうして最終的に、フランス革命に関する批判的理論の輪郭を描き出すに至った。(略)

ブルーノ・バウアーは、国家とりわけロベスピエールサン=ジュストの有徳な国家を、社会の種々雑多なエゴイスト的原子をつなぎとめておくための手段とみなした。だが、この徳なるものを義務づける手段は恐怖政治以外になかったために、この矛盾は独裁体制を破滅に導いたのである。マルクスは、こうしたあまりに単純化された見方に対しては反旗を翻す。諸個人を結びつけているのは、国家ではなくて利害、すなわち、あるものが自分自身の欲求を実現するために他のものに対して抱く欲求であり、市民生活であって政治的生活ではない。国家が必要[必然]であるということは、これら諸個人がみずからを同類たちから切り離された自己充足的な存在であると想像するということ、また、その彼らが自分たちのことを共同体として想像することができる空間を作りだすということである。国家が市民社会を維持するのではなく、その逆である。バウアーは、想像上の天国を現実の地上と取り違えているのである。(略)

マルクスは『聖家族』のなかで一種の文化論的な説明もおこなっている。(略)

ロベスピエールとその仲間たちが敗北したのは、彼らが、現実の奴隷制という土台の上に成り立つ現実主義的かつ民主主義的な古代共和政と、解放された奴隷制、すなわちブルジョワ社会の上に成り立つ精神主義的かつ民主主義的な近代代表制国家とを混同したからである。」(略)

[古代共和政では生産労働は奴隷が担い]自由人はもっぱら政治の担い手であり、また政治のみによって定義されていた。(略)

つまり、古代共和政は「現実主義的」なのである。その反対に、近代市民社会は賃金労働の上に成り立っているが、その賃金労働は、諸個人間の契約という見せかけだけの自由のもとで有産ブルジョワジーによる支配を隠蔽する。そこから、平等な政治的権利という共同幻想的な外観のもとで、「代表制」国家、すなわち、それに主権を与えるとされる当の人々から疎外された国家が、立ち現れる。なぜなら、そこには直接選挙が存在しないからである。(略)

その民主政の根底には賃金労働があり、その政治的平等の根底には社会的不平等がある。ロベスピエールは、近代社会特有の人間の諸権利によって、古代にならった民主政を基礎づけることができると信じた。(略)


したがって、その試みの宿命的な挫折は、近代民主政が想定する抽象的な平等性と、ブルジョワ社会を特徴づける現実の不平等性とを分け隔てる深淵に起因するのである。コンスタンが認識していたように、近代世界においてはもはや、公民性と自由は同義ではない。だが、ジャコバン派は恐怖政治に訴えることによって、歴史が生みだすこの隔たりを何とかして埋めようとしたのである。

ドイツ人もフランス同様、どうしても真っ先に「とにかくイギリスだけは手がつけられないほど駄目だ」と口にせずにはいられない様ですね。しかしその一方でビーダーマイヤー期(Biedermeier、1815年〜1848年)ドイツにおける「観念論」は、全てその枠を一歩も超える事がなかったのです。
678夜『ビーダーマイヤー時代』マックス・フォン・ベーン|松岡正剛の千夜千冊

http://webpages.cs.luc.edu/~dennis/300_Germany_19th/04-Biedermeier-Doppelmayr-Family%20Portrait%20%281830%29.jpg

  • ドイツにおけるブルジョワ階層登場は一般にプロイセン王国を中心に1834年に関税同盟が成立して以降とされる。やがて他国同様に収入制限選挙を利用して議会を牛耳る様になり、自らの既得権益を墨守しつつ私利私欲を貪る様になった。二月/三月革命(1848年〜1849年)に際してはフランクフルト国民議会(Frankfurter Nationalversammlung、1848年〜1849年)も成立している。これについてヘーゲルは「近代においては政治的国家と市民社会が分離しているが、市民社会は自分のみの欲求を満たそうとする欲望の体系であるため、そのままでは様々な矛盾が生じる。これを調整するのが国家であり、それを支えるのが優れた国家意識をもつ中間身分の官僚制度である。また市民社会は身分(シュタント)という特殊体系をもっており、これにより利己的な個人は他人と結び付き、国会(シュテンデ)を通じて国家の普遍的意志と結合する」と述べた。マルクスは「ヘーゲル国法論批判(Kritik des Hegelschen Staatsrechts、1843年)」の中で国家と市民社会が分離しているという議論には賛同しつつ、官僚政治や身分や国会が両者の媒介役を務めるという説には反対している。
    ドイツ関税同盟
    *歴史のこの時点ではマルクス自身が「ルイ・ボナパルトブリュメール18日(Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte、1852年)」の中で詳細に分析した「サン=キュロット層(農奴より不安定な生活を強要される浮浪小作人)」の動向が完全視野外。彼らはフランス革命戦争期からナポレオン戦争にかけて兵士の主要供給源となり、ジャコバン派の政権獲得と政策過激化に多大な影響を与えた一方で恩給よって自作農となり「恩に報いる為に」ルイ・ナポレオン大統領(後の皇帝ナポレオン三世)を当選させたのである。
  • マルクスエンゲルスの初の共著「聖家族(Die heilige Familie、1844年)」で展開されたブルジョワ(市民)論もあくまでこの枠内に留まる。
    *この段階に至ってなお「ドイツ人の知ってるブルジョワ階層は他国で台頭しつつある新興産業階層と別物」という認識が清々しいまでに芽生えていない。

    *最近ではそもそも「フランス革命ブルジョワ革命ではなかった」が通説。
    ルネ・セディヨ 『フランス革命の代償』
    *フランスでは7月革命(1830年)時点で宮廷銀行家の様な大ブルジョワが政権を握り、二月/三月革命(1848年〜1849年)時点では中小ブルジョワがそれに反旗を翻した。こういう歴史的動きもまた完全視野外だったのである。

  • パリ在住時代にハイネやエンゲルスと知り合ったマルクスは「独仏年誌(1844年、編集長ルーゲ)」に「ユダヤ人問題によせて」「ヘーゲル法哲学批判序説」の2論文を掲載。その中では「哲学が批判すべきは宗教ではなく、人々が宗教という阿片に頼らざるを得ない人間疎外の状況を作っている国家、市民社会、そしてそれを是認するヘーゲル哲学である」「今や先進国では近代(市民社会)からの人間解放が問題となっているが、ドイツはいまだ前近代の封建主義である。ドイツを近代の水準に引き上げたうえ、人間解放を行うためにはどうすればいいのか。それは市民社会の階級でありながら市民から疎外されているプロレタリアート階級が鍵となる。この階級は市民社会の他の階級から自己を解放し、さらに他の階級も解放しなければ人間解放されることがないという徹底的な非人間状態に置かれているからだ。この階級はドイツでも出現し始めている。この階級を心臓とした人間解放を行え」と主張。これがプロレタリアート階級に関する初言及となった
    *「宗教は阿片」はドイツ・ロマン主義の重鎮ノヴァーリス起源とも。原文は「俗人のいわゆる宗教は、阿片と同じ作用をもつだけである。すなわち、刺激し、麻痺させ、弱さからくる苦痛を和らげる。朝晩の祈りは、朝晩の食事と同じく、彼らには必要不可欠のものであり、もはや手放すことはできない。凡庸な俗人は、天国の喜びというと、教会開基祭とか、婚礼とか、旅行とか、舞踏会の光景を思い浮かべる。洗練された俗人は、天国というと、美しい音楽と華やかな装飾がたくさんあって、平民には平土間の席が、身分の高い者には礼拝堂や上階席が設けられている豪華な教会だと思う。

    *当時パリには10万人のドイツ人がいたが、結局この雑誌はハイネの詩が載っている事以外話題にもならなかった。しかし駐フランス・プロイセン大使だけは隅々まで目を通して本国に報告。プロイセン政府は国境で待ち伏せて、プロイセンに送られてきたこの雑誌を全て没収した上で(したがってこれらの分は丸赤字)「マルクス、ルーゲ、ハイネの三名はプロイセンに入国次第、逮捕する」という声明まで出した。ちなみにエンゲルスの影響でマルクスの興味が経済方面と共産主義に推移したのはこの年以降。

さてここで問題。マルクスが「プロレタリアート」の存在に言及した途端にプロイセンの警戒レベルが一気に引き上がったのは事実です。では当時の当局側にとってマルクス唯一無二の抵抗者だったのでしょうか?

  • 当時のプロイセンが最も恐れたのはマルクスと彼が言及した「プロレタリアートフランス革命当時におけるサン=キュロット層の如き労働者階級)の一斉蜂起」だったのか?…答えは否である。そもそも今日では「フランス革命ブルボン家オルレアン家の内紛から起こった」とする説まであるくらい。 サン=キュロット層が政治的影響力を備えたのはあくまで革命戦争が始まり、兵士の主要供給階層として彼らの存在が無視できなくなって以降。しかも彼ら自身は(義憤から)当時開明派革命貴族達が目指した穏便な「フランスの(イギリスの如き)立憲君主国家化」路線を頓挫させる一方で、戦功によって自作農にしてもらった恩寵に報いる為にルイ・ナポレオン大統領/皇帝ナポレオン三世を当選させ「フランス初の普通選挙」を台無しにしてしまっている。これをあくまで「ブルジョワ革命」と信じ続けた(ヘーゲルに代表される)当時のドイツ観念主義者達よりは、既に「諸個人を結びつけているのは、国家ではなくて利害、すなわち、あるものが自分自身の欲求を実現するために他のものに対して抱く欲求であり、市民生活であって政治的生活ではない」という考え方に到達していたマルクスの方が若干は真相に近づいていたかもしれない。しかしその彼でさえ、二月/三月革命(1848年〜1849年)において要求を満たされた農民達が早々と戦線離脱し、孤立した都市住民達が「官軍」に次々と殲滅されていく様を「馬鹿どもめが。分際というものを知らないからそういう目に遭うのだ」と嘲笑しながら高みの見物を決め込む展開までは予測し得ていなかった。そしてこの時の衝撃こそが「ルイ・ボナパルトブリュメール18日(Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte、1852年)」執筆の最大の動機となっていくのである。その意味では、歴史のこの時点におけるドイツ観念論はあくまで「餅の絵を描く大会」の域を出なかったとしか言い様がない。

    *江戸時代日本においては無数の百姓一揆が勃発した。革命前夜のロシアでもそうだった。しかしそれらが体制転覆どころか弛緩した体制の再引き締め的役割しか果たさなかったのも農民のこうした保守性と姑息さが原因とされる。そしてドストエフスキーがそうした農民達に父親を謀殺されながらなお「だが彼らをも救わねばロシアの未来などないのだ」と悲壮な決意を固めたのに対し、レーニンは「農民を革命に参画させるのは危険だ。彼らはブルジョワ階層やプロレタリアート階層下層部同様、全財産を取り上げられた上で我らプロレタリアート階層上層部に未来永劫奴隷奉仕を続けるのふさわしい」とし民主集中制を提唱。ロシアを穀物輸出国から穀物輸入国に転落させる一方でノーメンクラトゥーラ(ロシア特権階層)だけが革命の恩恵に与れるスパルタの様に強烈な身分制社会を現出させる事になる。だがこうした体制は(ポルポト政権や北朝鮮の様に)最貧の状態においてのみ安定するのであって、スパルタ身分制もペロポネソス戦争においてアテナイに勝利して経済的覇者を継承した直後に瓦解してしまった。魯迅が指摘した「奴隷と主人が立場を変えるだけでは奴隷制は無くせない」というジレンマの爆発。そうした経験からロシアでは以降次第に「ソ連とは最初から帝政ロシアの残した傷口が癒えたら自然に剥がれ落ちる事を宿命付けられていた瘡蓋(かさぶた)の様な存在だったのだ」とする歴史観が主流になっていったという。

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  • 当時のドイツにおいてプロイセン及び関税同盟締結による経済的恩恵を受けつつあったブルジョワ(市民)階層が本気で恐れたのは「国民の創設運動」だった…この辺りの感覚、江戸幕藩体制下においてすら御家騒動百姓一揆頻発を招く様な「無能な藩」が容赦なく「改易」や「御取潰」という形で罰され続け、明治維新後には「版籍奉還(1969年)」「廃藩置県と藩債処分(1871年)」「秩禄処分(1876年)」をあっけなく成功させて欧米人を「この国は歴史上欧州に現れた如何なる絶対君主も及ばないくらい強烈な絶対権限の統制下にある」と感嘆せしめた日本人には到底想像がつかない。そもそもこれをフランスに持ち込んだ政治的浪漫主義者(Political Romantist)達でさえ当人が「教会の権威や王権と自分の関係にしか興味を持たないエゴイスト集団」だったが故に、その強度に注目しただけで内容の深刻さを見落としている。だがそれでも当時のプロイセン王国(を筆頭とする行政区画)や関税同盟締結による経済的恩恵を受けつつあったブルジョワ(市民)階層(自由都市参事員や軍人や官僚)が最も強く固執したのが(その歴史を神聖ローマ帝国まで遡る)伝統的分邦状態の存続であり、これを脅かす最大の脅威がフィヒテが着手し、フリードリヒ・ルートヴィヒ・ヤーンらが継承し、E.T.A.ホフマンが擁護した「ドイツ国民創設運動」だった事実は決して動かないのである。

    フィヒテヤーンも「ドイツ人の教育」について語り、実践しようとしただけだから、これを「政治運動」に分類する歴史家は少ない。しかしその一方で当局側が(身分違いの恋や不倫を含む)猥褻物を「既存秩序を脅かす反体制運動」と認識して取り締まったのと同様、体制側の過剰反応を引き出したという点では前近代段階においてこれほど「政治的」だった運動もまたたなかった。
    390夜『ドイツ国民に告ぐ』ヨハン・ゴットフリート・フィヒテ|松岡正剛の千夜千冊

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 結局「ドイツ国民の創設運動」は失敗に終わり、その結果発生した混乱をナチズムが回収する事になります。以前別の投稿で触れた「ディズニーランドとしてのナチスヒトラーが祖国オーストリアハンガリー二重帝国で見知っていた多民族帝国でしばしば採用されるパラソル構造型統治)」とはまさにこの話。

ドイツロマン主義とナチズム―遅れてきた国民 (講談社学術文庫) 文庫

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人間生活に如何なる安らぎも与えず、ただひたすら前へ前へと追い立てていく産業の発展。まさにその革命的性格が人間の心に移ろう時の儚さを思い知らせ、過ぎ去った過去への憧憬と新たな歴史主義を生み出した。ただしここでいう歴史主義は、もはやドイツ古典主義が目指した古代ギリシャ・ローマ時代の理想への回帰や、ドイツ・ロマン主義が目指したゲルマン民族としての原点への回帰といったインテリ層の言語遊戯との関係を維持してない。実際にその起源となったのはビーダーマイヤー期(Biedermeier、1815年〜1848年)に軍人や官僚の指図には従順に従いつつ個人消費を楽しんだ享楽的小市民達、グリュンダーヤーレ期(Gründerjahre、1871年〜1873年、直訳すると「設立者の時代」。ドイツ帝国成立から1873年における大恐慌発生に至る間における「普仏戦争に勝利してフランスから分捕った賠償金でドイツ産業が急速発展した時期」)に大量出現した成金階層が傾倒した「(ドイツ史においては市民による都市文化が最後に栄えた時期、すなわちハンザ同盟黄金期を意味する)16世紀の伝統への回帰」願望などであった。ああ、あの円形窓ガラス様式(Butzenscheibenstil)の力感のなさと不安定!! それは経済力を増しながら、クルップ社の様に軍事に貢献しない限り新帝国から黙殺された新興ブルジョワ階層にとって、これらは全てせめてもの補償行為だったという訳である。

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かかる国家次元における伝統の欠如は、ドイツ史におけるその欠如の産物ではない。むしろ神聖ローマ帝国時代における領邦国家ごとの分断状態の産物、すなわちあまりに多過ぎ、かつ実力が拮抗していたせいで調停が不可能だった各地域の伝統の拮抗状態が生み出したものなのだった。そもそもプロイセン王統ホーエンツォレルン家を皇統に迎えたドイツ帝国は、諸領邦や諸族の真の合体の結果どころか、互いに干渉を恐れ合うこれらの集団の妥協の産物に他ならなかった。確かに軍人、官僚、エルベ川以東のプロイセン・ユンカー(地主貴族)は絶大な権利を獲得したかもしれない。しかし帝国議会、南ドイツ領邦群、ライン川流域に雨後の筍の如く大量出現した工業領主達を筆頭とする経済中心地の住民達が彼らに敬意を抱く事は最後までなかった。それに加えて新たに(極めて急速に形成されたが故に故郷との縁を失った)産業プロレタリアート(工場における役割からみても、伝統的生活から全く無縁な新人類)が論争に加わり、(ビスマルクの仕掛けた文化闘争に端を発する)カトリックプロテスタントの対立激化問題も泥沼化。包括的な国家理念なきまま、これらの層は諸所のパースペクティブ闘争、つまり国内における割拠主義を理想視し、伝統あるいはその欠如をそれぞれ絶対視する様になっていく。そしてむしろその結果としてドイツ庶民はその弊害に堪忍袋の緒が切れ「本当の意味での国家統一、すなわちあらゆる層に渡るドイツ人の理念の統一」を志向する様になっている。
第一次世界大戦後に発足したワイマール政権の中核をなした社民党はこうした社会的変化にあまりにも疎かった。それで「ドイツは再び神聖ローマ帝国時代の領邦割拠状態に戻るべき」と主張するインテリ達が結成した「スパルカタス団」や、ソ連からファシズム政権の烙印を押されたワイマール政権打倒に邁進したベルリンの金属労働組合員を中核とする「革命的オップロイ テ」といった極左勢力との闘争に専念するあまり、両者が殲滅を宣言していた国内勢力の圧倒的大多数、すなわち資本家、中産階層、国防軍軍、(ワイマール政権自らが招聘したにも関わらず、都合が悪くなるとあっけなく切り捨てた国防軍軍の数倍の規模を誇る)フラーコール(ドイツ義勇兵団)の大同盟を許してしまう。その元締として暗躍したのがヒトラー率いるナチス(Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei 、略称: NSDAP国家社会主義ドイツ労働者党)だったので、彼らが政権奪取に成功して以降のドイツをナチス・ドイツと呼ぶ訳だが、悪名高い「指導原理に基づく独裁」すらNSDAPでなくワイマール政権の発明であった。今日なおしばしば「本当に当時のドイツ国民はヒトラーを選んだのか?」が話題となるが、ヒンデンブルク大統領にヒトラーが首相として任命された時点でナチス・ドイツワイマール政権の継承者となった事実は動かない。またワイマール政権が続く限りドイツ経済の中枢を握る資本家と中産階層が「ドイツを滅ぼす敵」としてスケープゴート的に粛清される恐怖から逃れられなかった事実もまた動かない。

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 よく考えてみたらディズニーランドを「ただ楽しいだけのエンターテイメント空間」たらしめているのは受け手側の諦観だったりします。

  • 日本では既に十返舎一九滑稽本東海道中膝栗毛1802年〜1814年)」の中で既に登場人物が「常識って地域によってこんなに違うんだぁ。楽しいなぁ」と発言している。ただしこうした著作が出版可能になったのは、皮肉にも「都市文化の田舎文化への優越」を最後まで守ろうとした蔦屋重三郎(1750年〜1797年)ら都市ブルジョワ側が、逆にその狭量を当局側に責められて取り締まられた結果であった。
    南町奉行根岸鎮衛が、天明から文化にかけて30余年間渡って記し続けた随筆「耳袋」には「富農・富商の現地妻問題(旅暮らしの当主が拠点ごとに妾を置いて現地経営を任せる問題)」について倹約令に伴う「町人ごときに蓄妾を許していては武家として示しがつきませぬ。是非取り締まりを!!」といった要望の高まりに関連して「馬鹿な、あれはあれで当人同士が納得ずくで上手く回ってるシステムである。下手に首を突っ込んで殺られるのは我々体制側ぞ」という結論を下したという記載がある。海外の人間の目には「この国は歴史上欧州に現れた如何なる絶対君主も及ばないくらい強烈な絶対権限の統制下にある」と映ったそれの実態は、むしろエドマンド・バークフランス革命省察(Reflections on the Revolution in France、1790年)」いうところの「時効の憲法(prescriptive Constitution)」そのものだったのである。この基準に従って都市ブルジョワ側の「都市文化の田舎文化への優越」を最後まで守ろうとする努力が取り締まられたのは想像に難くない。

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  • アメリカにおいては、多数の移民を受け入れる事で発展してきた歴史的背景から「アメリカにはあらゆる民族がマイノリティとして存在する。楽しいなぁ」と思わねばならない社会的同調圧力が存在する。これには良い側面も悪い側面もあり、実際「アメリカの発展はWASPWhite,Anglo‐Saxon,Protestant)層が主導してきた」という信念を有する東海岸守旧派とのイザコザが絶えない。
    *「アメリカにはあらゆる民族がマイノリティとして存在する。楽しいなぁ」…ただしその風潮はあくまで1960年代以降現れたものだった。それ以前は「WASP指導者原理」を信奉している国だった。

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    ウォルト・ディズニーがどれだけこれを意識していたか議論が絶えないが、いずれにせよ会社としてのディズニーはその後ありとあらゆる人種を「ディズニー・プリンセス」に迎え入れ、益々経済的発展を遂げる事に。

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こうした覚悟が十分でなかったばっかりに、ナチス・ドイツは案の定暴走状態に陥っていく訳ですが、20世紀後半になるとそうした黒歴史から目を背けるべく当時についての語られ方がガラリと変貌を遂げる事に。

652夜『革命的ロマン主義』アンリ・ルフェーブル|松岡正剛の千夜千冊

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1950年代 フランス・パリのスナップ写真 - ポッケ君の面白ニュース

この1958年の論文はいま読むとまことに過渡期的な「思想の懐旧」を伝えてくれている。論議の視点は、ロマン主義の歴史の変遷から新たなロマン主義の方向を模索することにある。

ルフェーブルはまずドイツ・ロマン主義の特徴を、①ブルジョワ民主主義革命の回避、②ドイツのブルジョワ社会の拒否、③イロニー・夢・神話・魔術・宇宙瞑想の重視、④自然の宇宙論的把握におき、そこから遅れてやってきたフランス・ロマン主義を、①フランス革命から美学的帰結をもたらそうとした運動、②啓蒙の根底にロマン主義を見出そうとした意図、③自然を人間学的に見ること、というふうに捉える。

こうしてノヴァーリスの鉱物感覚をフランスに入れてそこに文学のテロリズムを加えたのがボードレールだったこと、ホフマンにひそんでいた存在における他者性を緻密な言葉の錬金術に変えたのはランボーだったということになる。このような準備をもとに、フランスに物体にロマン主義を注入したシュルレアリスムと、存在からロマン主義剥奪した実存主義とが登場したというふうに、ルフェーブルは読んだ。
*正直、フランス人はなまじローマ帝国統治期に民族的過去を切り捨ててる分、海外から流入してくるオカルト(神秘主義)に弱い気がする。フロンドの乱後のモンフォーコン・ド・ヴィラール「ガバリス伯爵」の流行、フランス革命前夜における交霊会やノヴァーリス(Novalis、Georg Philipp Friedrich von Hardenberg、1772年~1801)の受容、そして19世紀末のオカルトの流行…

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この古いロマン主義に対して、新たなロマン主義の出現が予告できるのではないかというのが、この論文の主旨である。


ついでルフェーブルは、ドイツ・ロマン主義からシュルレアリスムにおよぶ古ロマン主義の底辺が、そもそも「過去にとりつかれた人間」につながっていると見る。人間から奪いとられた本質が過去にひそんでいたとするのが、総じて古ロマン主義の特色になっているのだと見た。


それゆえ古ロマン主義はもっぱら孤立を好み、輪郭を曖昧にし、様式を混同させてきた。また「眠り-覚醒」「社会-個人」「幼年-成熟」「存在-無」「痙攣-硬直」を対比させてきた。

これに対して新ロマン主義が出てくるとすれば、それは「可能なものにとりつかれた人間」がおこすこととなり、そこでは関係を求め、輪郭を生み、コミュニケーションの多様性に挑むことになるのではないかと見た。加えて、その新たなロマンを探求することがさまざまな社会的停滞にクサビを打ちこむことになるのではないかと見た。

したがってそこでは、「現前-距離」「拒否-容認」「順応-離脱」「侮蔑-了解」「部分-全体」などの対比の突破こそが浮上してくるのではないか。そう、ルフェーブルは予想したのである。それが革命的ロマン主義という意味だった。

この予想はある程度あたっていた。けれども、どこかに無理と古めかしさもある。また、あたっていないことも多い。それはルフェーブルがここでもなお、頑固に弁証法の凱歌を確信しすぎていたからである。


しかしながら、あらためて当時をふりかえってみると、ルフェーブルが「革命的ロマン主義」をさえマルクス主義の陣営にもちこもうとしていた意図には、当時の凡百の政治的マルクス主義の地平を抜きん出て自在な思索をしようとしていたルフェーブル自身の孤独な古ロマン主義も見えてきて、そこが興味深いのだ。アンリ・ルフェーブル、あなたこそマルクス主義戦線における古いロマン主義者ではなかったのか。

アンリ・ルフェーヴル(Henri Lefebvre、1901年〜1991年)…フランスのマルクス主義社会学者、知識人、哲学者。フランス南部アジェモー(ランド県)生。母親は農家出身でカトリック父親中産階級出身でリベルタン(無信仰家)もしくはヴォルテーリヤン(ヴォルテール主義者)である。ルフェーヴルが生まれ育ったピレネー(特にバスク)地方では母方の影響が強い(渡部哲朗『バスクバスク人平凡社新書、2004年)。ルフェーヴルがマルクス主義者となる一因は、宗教への反発があった(『総和と余剰』)。

  • もともとは技術者を目指していたが、第一次大戦後の混乱と自身の病気(肋膜炎)が進学試験準備期に重なったため断念する。エクサン=プロヴァンス大学へ進学。1928年、フランス共産党に加盟。以後、ながらく在野の哲学者・社会学者として活躍。

  • 1930年からリセの哲学教員として教壇に立つが、1940年のドイツ軍によるパリ占領にともない、ナチス・ドイツを批判する「欺かれた意識(1936年)」「ドイツにおけるファシズムの五年 権力の座についたヒトラー(1938年)」などの著作がオットー・リスト(禁書目録)に登録され、あわせて共産党員だったこともあってヴィシー政権によって公職すなわち教職から追放される。

  • 1944年から1949年にかけてトゥルーズのラジオ局ラディオディフュジオン・フランセーズの局長をつとめる。47年、トゥルーズのリセで教職に復帰。翌48年、フランス国立科学研究センター(CNRS)の研究員となる。農村社会研究をつづけるためだったが、やがて社会状況の変化にともない都市社会に関心を移す。

  • 1950年代、正統派マルクス主義から一線を画する姿勢が特にスターリン主義批判というかたちで表面化。これがきっかけとなり1958年、フランス共産党からに除名される。

  • 1962年にストラスブール大学、次いでパリ第十大学ナンテール校で社会学教授になり、最終的にはパリ都市計画研究所教授。日本で最もよく知られているかれの著作のほとんどは、この時期のものである。

  • 彼流に仕上げられた「弁証法唯物論」のなかでは、個人と具体的なプラクシス(prāxis、アリストテレス哲学においてはテオーリア(観想)・ポイエーシス(制作・創作)と区別される政治的、道徳的実践行為)が関心の中心を占める。正統派マルクス主義的アプローチの伝統に従って代替的社会人類学として支配的諸階級が集団生活に押し付けた日常性(quotidienneté)の特徴・性格の再生産からの解放を訴えた。彼に言わせれば習慣(habitude)はその非歴史的ゆえに時間性が真正でなく、支配階層は統治を安定させる為にそれが再生産され現状を永続させようと企む。しかし実際のそれは一種の地下鉱床のようなもので諸々の協約や権力の諸々の嘘の堆積に過ぎず、夢想(fantaisie)や創意工夫の能力(inventivité)が固有の自律的表現に向かう障壁となる。だからこそ「美的経験によって、毎日の生活様式の自律性以上に、その協約性の無根拠性を暴く」「日常性の廃絶に諸条件を提起する」近代芸術の特権的機能を高く評価した。この思考様式は彼が若い頃にシュルレアリスム運動に関係した事と深く結びついている。の経験と洞察に関連している。こうした考え方は「日常生活批判」三部作(1947年、1961年、1981年)の発表を通じて提示された。

  • 1991年、ナヴァラン(ピレネー=アトランティック県)で没。ルフェーヴルの訃報を受けてRadical Philosophy誌は次のように報じた。「フランス・マルクス主義知識人たちのうちで最も多作な人物が、1991年6月28日から29日にかけての夜に、その90歳の誕生日の直後に亡くなった。長い経歴のあいだにかれの仕事は、時代・時期に応じて時に広く受け入れられ、あるいはそうでなくなったりした。だが、哲学だけでなく社会学・地理学といった政治諸科学と文学批評の発展にも同様に影響を与えた」

「日常生活批判」はアンテルナシオナル・シテュアシオニスト(Internationale situationniste、1950年代から70年代初頭にかけてフランスを始めとするヨーロッパ諸国で芸術・文化・社会・政治・日常生活の統一性についての批判の実践を試みた前衛集団。また1952年から1972年にかけて刊行された彼らの機関誌の名称)、「支配関係の再生産」はピエール・ブルデュー(Pierre Bourdieu、1930年〜2002年、「日常経験において蓄積されていくが、個人にそれと自覚されない知覚・思考・行為を生み出す性向」を意味するハビトゥス (habitus)概念の提唱者として知られるフランス社会学者)、「芸術による解放」はベルナール・スティグレール(Bernard Stiegler、1952年〜、「人間の生み出した技術が作り出した時間と、その時間に支配される人間の対峙」に注目するフランス哲学者)のうちにも見出される。

この系譜、吉本隆明共同幻想論(1968年)」にも相応の影響を与えてる気がします。とはいえそもそも参加者の誰もが自己実現にしか関心がなく、 互いの自由を尊重し過ぎるあまりコンセンサス形成に向けての努力も殆ど行われなかったロマン主義運動をここまで組織的に活動した総体として扱うのはさすがに無理があるのでは…
コンセンサス形成に向けての努力が殆ど行われなかった…いずれの系統が勝利しても、たちまち「究極の自由は専制の徹底によってのみ達成される」というジレンマが表面化してくるのはそのせい。多くの革命が成功後に粛清合戦になるのもそのせい。

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また芸術と共産主義の関係というとカンデンスキーの辿った数奇な運命を思い出さざるを得ません。
ワシリー・カンディンスキー(Wassily Kandinsky、1866年〜1944年)

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ロシア出身の画家、美術理論家。一般に、抽象絵画の創始者とされる。ドイツ及びフランスでも活躍し、のちに両国の国籍を取得した。

  • モスクワに生まれ子供時代をオデッサで過ごした。1886年から1892年まで、モスクワ大学で法律と政治経済を学ぶんでいる。

  • 1896年にミュンヘンで絵の勉強を始め、象徴主義の大家フランツ・フォン・シュトゥックに師事。1902年にはベルリンの分離派展に出品。1904年からはパリのサロン・ドートンヌにも出品している。1909年には新ミュンヘン美術家協会会長となるが、1911年にはフランツ・マルクとともに脱退して「青騎士(der Blaue Reiter=デア・ブラウエ・ライター、1911年〜1916年)」を結成。その間の1910年に最初の抽象画を手掛け、絵画表現の歴史の新たな一歩を記す。代表作とされる『コンポジション』シリーズはこの最初のドイツ滞在期に制作された。
    *19世紀以前の西洋絵画は、多様な主義主張がありながら対象を客観的に描くという点では共通していた。しかし19世紀末に入るとそれまでの伝統を乗り越えようとする試みが現れる。ドイツ語圏では、当時のアカデミズムに支配されたサロンに反抗し、同時代のヨーロッパ各地の芸術運動から影響を受けた分離派と呼ばれる芸術家グループがいくつも誕生する展開となったのである。

  • 革命後、1918年にモスクワに戻った。当時のソ連では前衛芸術はウラジーミル・レーニンによって「革命的」として認められており、カンディンスキーは政治委員などを務めた。しかし、ヨシフ・スターリンが台頭するにつれ前衛芸術が軽視されるようになり、スターリン共産党書記長に就く直前の1921年に再びモスクワを離れてドイツへと向かった。なお、1928年にはドイツ国籍、1939年にはフランス国籍を取得。

  • 1922年からはバウハウスで教官を務め、1933年にナチス・ドイツによってバウハウス自体が閉鎖されるまで勤務。1941年にフランスがナチスによって占領されたのにも関わらずアメリカへの移住を拒否し続け、パリ郊外に位置するヌイイ=シュル=セーヌでその生涯を閉じた。

ピエト・モンドリアンカジミール・マレーヴィチとともに彼は抽象絵画の先駆者として位置づけられている。また、多くの著作を残しており、美術理論家としても著名である。ナチス占領下のフランスでは、作品の展示を禁止されたり、彼について論じることを禁止されるなど、不遇のまま亡くなった。1967年に未亡人のニーナが、晩年の彼を支えた事でレジオンドヌール勲章を受け、完全に復権。

 結局「共産主義圏における芸術への評価」は権力者によってまちまちで、到底定式化の可能な状況ではなかったのですね。特にスターリニズムとの相性は最悪で、ポーランドのSF作家スタワニフ・レムも「欧米社会が捨てた前近代的権威主義を拾って金科玉条の様に大切にしている」と暗に批判したほど。コンピューター科学が遅れたのも、そのせいでネットワーク技術の発達に必要不可欠な「柔軟な対応」が取れなかったせいといわれています。

 さて、私達はどちらに向けて漂流してるんでしょうか…