諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

夢の王国(Magic Kingdom)としてのサウジアラビアの終焉?

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まずは亡くなった方全員の御冥福をお祈りさせて頂きます。聖地メディナ自爆テロがありました。日本では日本人犠牲者も出たダッカ・レストラン襲撃人質テロ事件の方が話題となってますが、実は深刻度が一段違ってたりします。

日本のネットには「昔と違って日本人と名乗っても撃たれた。日本国民が助かるにはもう、一刻も早くISISの要求に応じる形で日本国民が一斉蜂起し、現政権を転覆して国会議事堂の門にアベの生首を掲げて民族的決意を世界に示すしかない!!」と扇動してる人達がいます。

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彼らのいう「昔」とは、要するにダッカ日航機ハイジャック事件(1977年)の事。「超法規措置」によりテロ行為拡散を容認し続ける日本政府が世界中から弾劾された、逆にテロリスト側からすれば何人殺しても無罪放免される夢の様な黄金時代だったのです。

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日本赤軍のテロに便乗して国家転覆を図ったクーデター軍が日本人への攻撃を控えたのは、日本赤軍への親近感からだったとも、戦いを内戦に留めたかったからとも言われています。こうした経緯もあって、おそらくダッカ・レストラン襲撃人質テロ事件に接して当時を思い出した人達は「日本でも同様の革命を成功させる最大の好機!!」と思いついたのでしょう。北朝鮮に亡命した「よど号ハイジャック事件(1970年)」の犯人達が今日なお「あしたのジョーの末裔」を名乗り続け「国民への不当な弾圧を続ける日本ファシスト政権に一矢報いた我々にだけ、日本人を代表する権利がある」と主張し続けているエピソードと重なります。
はいつの漫画エッセイ「あしたのジョーの孤独性」

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掲げる聖典コーラン梶原一騎か違うだけで、基本的にイスラム過激派と同じ精神構造。掲げられる「聖典」側の方がいい迷惑。というか「テルアビブ空港乱射事件(1972年)」などを引き起こし「アラブ人の覚醒」を促してきた彼らこそ、イスラム過激派のオリジナルという側面もある訳で、それを思えば共感を感じ、応援したくなり、便乗を考えるのは当然の心理というべきなのかもしれません。イスラム過激派の活躍によって日本が超法規時代を乱発した時代に逆戻りさえしたら、それまで何人殺してきたとしても、これから何人殺そうと罪の意識に問われる必要そのものがなくなる訳ですし。
*それって軍部の暴走に日本政府が適切な対処が取れなかった「決して繰り返してはいけない戦前」の復活願望に他ならないのだけど、自分が特権享受者ならOKという辺りかなりブルジョワ的発想だったりする。とどのつまりロマン主義は必ず「究極の自由は専制の徹底によってのみ達成される」というジレンマに立ち返る羽目に陥る事になるのであった。

www.okinawatimes.co.jp

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ダッカ日航機ハイジャック事件 - Wikipedia

バングラデシュ軍部中枢を含む政府首脳がこの事件の対応に追われている隙間を縫って、10月2日早朝軍事クーデターが発生した。政府の要人の多くがこの事件に対応するため空港の管制塔に集まっていたことを利用したもので、その後戒厳令が発令され、市内および郊外における戦闘の末に最終的に2時間ほどで反乱軍は鎮圧されたものの、ダッカ国際空港近辺でも戦闘があり、管制塔内も日本の政府関係者や報道各社の人員の目の前で銃撃戦が行われ、政府軍の士官11名が死亡したほか、事件解決の陣頭指揮を執っていた政府軍の司令官が負傷するなどしている。ただし「日本人だ」と言うと相手は謝って引いたという。

*「戦いを内戦に留めたいが故に外国人への攻撃を控える/外国人に攻撃を加えた者を厳罰に処す」という対応自体は日本の明治維新に際しても、中国の辛亥革命(1911年)に際しても見られた当然の配慮に過ぎない。皮肉にも日本の「(武士の名誉刑としての)切腹」「(武士からそうした最後の名誉さえ奪う)斬首」が世界中に知れ渡ったのはこの時期の事。こうした歴史が積み重なって「清教徒革命もフランス革命も国王斬首こそが勝利だったのだ!!」「日本国民に告ぐ!! ついに時は満ちたり!! 日本人が日本人であり続ける為に一刻も早くアベを斬首せよ!!」という現在のプロパガンダにつながっていくという次第。「万物に歴史あり」の世界。
堺事件(1868年) - Wikipedia
森鴎外「堺事件(1914年)

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もうこの時点で既に物騒なのに…マスコミ報道だけでなく国際SNSの世界上においてさえ日本人が置いてけぼりにされている感がありますが「聖地メディナ自爆テロ事件」の方が「ダッカ・レストラン襲撃人質テロ事件」と桁違いに深刻なのは、Twitter上における#Medinaattackタグのついた投稿を見ても明らか。ISISは確実にイスラム諸国間の不和と欧米のイスラム諸国への不信感を再燃させる事に成功しつつあります。何故そうなったか知るには、そもそもサウジアラビアの国教たるワッハーブ派(Wahhābiyyah)とは何かまで遡らねばなりません。

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メディナ【Medina】…サウジアラビア西部の都市。アラビア語ではマディーナal-Madina。水の豊富な土地で農業地帯の中心。メッカの北方350kmにあり,古くからヒジャーズ地方の交易の要地であった。メッカとともに,イスラムの〈二聖都〉と称される。アラビア語でマディーナal‐Madīnaといい,預言者の町Madīna al‐Nabīの略。預言者ムハンマドが没した地で,現在でも彼の墓廟がある。その墓廟は預言者のモスクと呼ばれる豪壮な建造物の一隅にあり,モスク自体は生前のムハンマドの住居兼モスクの位置にあたる。市街は南から北に向かう緩い斜面をなす平原のなかにあり,平原の東西は溶岩台地で区切られ,北は山並みによって区切られている。メッカ同様、世界中から訪れるムスリムの巡礼者達へのサービスとして、夜はディズニーランドのシンデレラ城の如くライトアップされる。

正直、こことメッカが襲撃されるのは今回が初めてではありません。そして、当時の状況が曲がりなりにも再現された事で恐るべきパンドラの箱が開こうとしている訳です。

ワッハーブ派(Wahhābiyyah)

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18世紀にアラビア半島内陸のナジュドに起こったイスラム教の改革運動。宗派としてはスンナ派に属するが、その下位宗派に数えられる場合もある。法学的には、イスラム法学派のうち厳格なことで知られるハンバル派に属す。


創始者ムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブワッハーブ)。一般にイスラム原理主義と呼ばれて知られている復古主義純化主義的イスラム改革運動の先駆的な運動であると評価される。18世紀半ばに、コーランムハンマドのスンナに戻り、イスラム教を純化することを説き、当時ナジュドで流行していた聖者崇拝、スーフィズムを、タクフィールにより異端者として激しく排撃した。

アブドゥルワッハーブは1745年にワッハーブ派の守護者を意味する聖剣ラハイヤンをナジュドの豪族であったサウード家ムハンマド・イブン=サウードに授け盟約を締結。これ以降から現代にいたるまでサウード家ワッハーブ派の守護者となり、教えを受け入れてワッハーブ派を保護し、ワッハーブ派の運動を広げつつ勢力を拡大した。こうして形成されたサウード家の国家をワッハーブ王国と呼ぶが、19世紀初めにカルバラー、メッカを破壊して大虐殺を行った結果オスマン帝国と敵対してムハンマド・アリーに滅ぼされた。

18世紀前半にはメッカ巡礼者サイイド・アフマドによってインドにも伝えられた。しかし1824年以後シク教徒に対するジハードを宣言。彼の没後その勢力拡大を危惧したスンニ派シーア派がイギリス当局とともに抑圧し1870年代には消滅に至った。

その後アラビア半島ワッハーブ派は20世紀初頭にサウード家のアブドゥルアズィーズ・イブン=サウード(イブン・サウード)がリヤドを奪回して復興。サウード王国がナジュドヒジャーズを征服してサウジアラビア王国を建国すると、ワッハーブ派シーア派が強いイエメンを除いたアラビア半島の大部分に広がった。

現在なおサウジアラビアの国教であり、その教義に基づいて宗教警察が国民に対して目を光らせており、これが「王家が国庫を私物化している」という不満を表面化させない役割も担っている。同国出身のオサマ・ビンラディンも元々ワッハーブ派に属する信徒であった。

中央アジアウズベキスタンなどではワッハーブ派というと特別な響きを持つ(反政府的な態度を取る人たちにレッテル張りをし、矮小化する為にこの言葉が使われている)。

とはいえ現代では英国に政治亡命した法的権利擁護委員会などワッハーブ派サウジアラビア政府から弾圧を受けていると主張する団体もある。彼らに言わせれば(ワッハーブ派の主張に従って)モスクで行われるウラマーの説法やファトワーにおいてジハードを主張し他国への侵略やテロを正当化するような発言をすればサウジアラビア政府から公職追放などの厳しい処罰を受け、かつ(本来のワッハーブ派の主張と相容れない)西洋的人権擁護や女性の権利擁護といった法制度が次々と整備されていくサウジアラビアの現状の方がおかしいのであった。

サウジアラビア王国 - Wikipedia

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全ての始まりは、アラビア半島内陸の街ナジュドにおいて18世紀、自派以外の全てをシルク(神の唯一性への絶対帰依を意味するイスラームの中心概念タウヒードの対語としての横道的多神教)と認定する原理主義者集団ワッハーブ派が台頭した事だった。第三代正統派カリフまでの時代(「サラフ=先達者」時代)を神聖視するという意味で後のサラフィー派の先駆けでもあった彼らにとって、スーフィーイスラム神秘主義)と聖者崇拝に「汚染」された当時のナジュドは、17世紀を最盛期としモッラー・サドラー(1572年〜1640年)を輩出したシーア派の「サファヴィー朝ルネサンス」と並んで許し難い堕落状態にあったのである。

かくしてムハンマド・イブン=アブドゥルワッハーブの提唱に端を発するワッハーブ派から世俗界におけるその理念の具現者として選ばれたナジュド豪族出身のムハンマド・イブン=サウードがワッハーブ派イマームを兼ねる存在として第一次サウード王国(1744年〜1818年)を建国。当初王国の版図はナジュドに限定されていたが、次第に東は現在のクウェートからオマーンの国境、北はイラクやシリアの国境近くまで広がり、1801年にはシーア派聖地カルバラーおよびナジャフを陥落させるに到る。この時、アリー・イブン・アビー=ターリブの墓所などシーア派の多数の聖地が破壊され、シーア派住民も虐殺された。そして 1802年にはヒジャーズ地方へと進出し、イスラームの2大聖地であるメッカとマディーナを陥落させる。両聖地の陥落は1517年以来、聖地の守護者を自認していたオスマン帝国に衝撃を与えた。また、イスラム原理主義であり聖者崇拝などを認めないワッハ-ブ派により、聖地メッカにおいて多数の廟が破壊されたため、それ以外の宗派から反感をもたれる事になる。

オスマン帝国は遂にエジプト総督ムハンマド・アリーにサウード王国を滅ぼす攻撃命令を下した。ムハンマド・アリーは軍隊を率いてヒジャース地方に殺到し(Battle of Yanbu、Battle of Al-Safra、:Battle of Medina (1812)、Battle of Jeddah (1813)、Ottoman return of Mecca 1813)、1813年1月には聖地メッカの奪還に成功する。1817年、ムハンマド・アリーの子供であるイブラーヒーム・パシャは、軍隊をナジュドへと進めた (Nejd Expedition) 。そして1818年4月、首都ディルイーヤを包囲。首都ディルイーヤ攻囲戦は数ヶ月に及んだが、9月18日にエジプト軍の勝利に終わり、サウード家ワッハーブ運動を展開した主要メンバーは、エジプトやあるいはオスマン帝国の首都イスタンブルへ連行された。ディルイーヤは徹底的に破壊されたため、現在は王国が存在した当時の面影は存在しない。最後のイマーム、アブドゥッラー・ビン・サウード(英語版)は、後にイスタンブルで処刑され、その首はボスポラス海峡に捨てられた。

こうして第一次サウード王国は滅亡したが、ワッハーブ運動の火種はアラビア半島に残っており、サウード家の生き残りとともにリヤドに本拠地を移し、第二次サウード王国(1824年〜1891年)が建国された。そしてその滅亡後、生き残った王子が英国の後援を受けて再び王国を再建し、1931年に国王に即位し、現在のサウジアラビアが誕生。このため、サウジアラビアは第三次サウード王国と見ることもできる。

映画「アラビアのロレンス(Lawrence of Arabia、1962年)」は、こうした状況を背景にしている。トーマス・エドワード・ロレンスが所属するイギリスのカイロ領事は「預言者ムハマンドの末裔」ハーシム家を支援していたが、ジョン・フィルビーの所属したイギリスのインド総督府ワッハーブ派サウード家を支援していた。アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードはイギリスとの戦力差をわきまえ反抗する事はなく、1920年にそのイギリスの支援を背景にして中部アラビアのリヤド周辺一帯のナジュド支配下に置く。そしてハーシム家フサインがカリフを称してイスラム教指導者層の反発を招いた隙を突いてロレンスが建国に助力したヒジャーズ王国領土を手中に収め、その後ワッハーブ派サウード家によるナジュド及びヒジャーズ王国 (1926年〜1932年)を経て、メッカと「ヒジュラ(聖遷)が生んだ光の街」メディナという二大観光拠点を押さえたサウジアラビア (「サウード家によるアラビアの王国」の意味)が1932年に成立する事になったのだった。その一方でハーシム家は十字軍国家再来ともいうべきアレッポ国と、当時ですら手中に収められなかったダマスカス獲得に燃えるフランスにシリアから追い出されつつ、英国後援下イラク国王とヨルダン国王の座を獲得する。 

「シーク」とは、「砂漠の富豪や王族」のこと。作品によって、王であったり王子であったりと様々ですが、いずれも大富豪であり権力者でもある、豪華絢爛なアラブの世界の住人です。そんなシークは、エキゾチックな魅力と、庶民が驚く大胆な行動力で、ヒロインを翻弄します。ハーレクインの中でも一番人気のジャンルです。
*実際、出版社としてのハーレクインは「アラブの石油成金」ブームを背景としてこのジャンルにいち早く手を染めた事で他のロマンス小説出版社との圧倒的差別化に成功したと言われている。ちなみにあくまで憶測だが、秋葉原にある「300万円以上のオーディオ・セットしか置いてない区画」とかも恐らく密接な関係がある。

 サウジアラビアの富豪ラーディン一族の物語

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イエメンのハドラマウト地方における貧困家庭出身のムハンマド・ビン・ラーディン(Mohammed bin Awad bin Laden、1908年〜1967年)をその始祖とする。彼は第一次世界大戦前に家族と共にヒジャーズ地方におけるマッカ近郊の交易港ジッダに移住。1930年に荷夫から身を興して建設業を起業したのだった。
ハドラマウト人(Hadhramaut)アラビア半島南岸部を本拠地として地中海とインド洋を股に掛け東南アジアまで進出して南インド沿岸のタミル人と商業上の覇を競ってきた争ってきた航洋集団。セルジュークトルコ時代に最盛期を迎えスンニ派古典思想を完成させた世俗的なシャーフィイー派の比率が高い事で知られる。

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第一次世界大戦と連動したアラブ反乱(1916年〜1918年)でハシム家ヒジャーズ王国(1916年〜1925年)がオスマン帝国から独立。これを併合する形でサウード家のファイサルが1932年にサウジアラビア王国を開闢する。この過程で王室御用達の建設業者となったが、まだ歴史のこの段階におけるサウジアラビア王国は何の富も持たない貧乏国に過ぎなかった。

②1933年には国営石油会社サウジアラムコが設立されて1938年3月ダーラン(ザフラーン)において「ダンマン油田」が発見される。油田開発は第二次世界大戦のために中断したものの,1946年から開発が本格化して1949年に採油活動が全面操業した。メッカおよびマディーナ(メディナ)のモスク修繕を任されるほどサウード家と深く結びついたムハンマド・ビン・ラーディンはこの流れに便乗した建築業で財を成し、政略結婚を積み重ねる事で財閥「サウジ・ビン・ラーディン・グループ(SBG)」を柱とするラーディン一族を形成する事に成功した。
*アラブの部族社会においては事業拡大の為に現地を支配する部族長の娘を嫁にもらう必要があり、飛行機事故で亡くなった1967年までの間に22回の結婚をし55人の子供をもうけている。

③一方アメリカ、アジアおよび欧州に多数の支部と子会社(60社以上)を有し、石油、化学、遠距離通信、衛星通信に従事し50億ドル以上の資本を所有するまでになったSBGは創業者自身が外国人労働者であったこともあって創業時より積極的に外国人を雇用してきた。その結果、多数のアメリカ人ビジネスマンが参画する事となり、アメリカのブッシュ一家とも浅からぬ金銭的繫がりが存在する。
ムハンマド・ビン・ラーディン当人が元アメリカ大統領ジョージ・H・W・ブッシュとともにカーライル投資グループの大口投資家であり役員だったし、息子の1人であるサーレムも前米国大統領ジョージ・W・ブッシュがかつて経営していた石油会社の共同経営者であった(1988年に自らの飛行機の操縦ミスでテキサス州サンアントニオで死亡)。

④とはいえ、ただでさえ一夫多妻の家族関係は激しい内紛を生みやすい上にハドラマウト人とワッハブ派の結婚である。ディズニーランドよろしく夜のメッカやメディナをライトアップする時代最先端のセンスとスーフィズムイスラム神秘主義)や聖者崇拝を一切認めず、ただひたすらコーランとヒジャスへの精神への回帰を主張するサウジアラビアの国教ワッハブ派の精神が何のコンフリクトも起こさないなど有り得ない。
*かくして母方部族の手元で敬虔なワッハブ派教徒として育てられたムハンマド・ビン・ラーディンの息子オサマ・ビン・ラディンの様な「テロリストの頭目」が一族から現れたり(CNNによるとウサーマ当人も4度の結婚歴があって子供の数が20人を越えているが、その多くが2001年以降、イランに亡命)、様々な方面に流出した一族の巨額な財産分与の一部がイスラム原理主義テロ組織の資金源となる状況が現出してしまったのだった。

良い意味でも悪良い意味でも、ディズニー世界という「永遠の夢の王国(Etarnal Magic Kingdom)」を支えているのは、その商業利用だけをとことん追求する一方で「政治的手段による即時実現」など思いも寄らない大人達。

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ピーターパンの世界一つとっても、不用意に再現しようとすると問題続出です。子供達だけを専門に狙う誘拐者集団…「僕が大人になるより楽しい事を教えてあげる!!」。宮沢賢治の「風の又三郎(1934年)」同様に幼児死亡率が高かった時代に子供を亡くした親達が抱いた幻想が元で、しかも当時は「間引き」の慣習と表裏一体にあったので、注意深く扱わないとたちまちホラーに変貌してしまうのですね。
ピーターパンとウェンディ - ジェイムス・マシュー・バリ :: Egoistic Romanticist
宮沢賢治 風の又三郎

「冥界における冥福」とか「タナトス(Thanatos、死の誘惑)」という恐ろしげなキーワードが浮上してくると、有名な「リトル・マーメイド」の世界も突如として大変な事に。何せそもそも原型が「デメテル地母神=生の象徴)とハディス(冥界神=死の象徴)」の間の景色ですから…

その上、ディズニー世界にはロココリバイバルという側面もあるので、当然18世紀にフランス人東洋学者ガランが広めた「千夜一夜物語(Arabian Nights Entertainments)の世界」も含みます。ただしその対象はあくまでイスラム教が世界宗教に進化して(シーア派だけでなくスンニ派の教学も制した)ペルシャ人インテリやテュルク系諸族がアラビア人優越主義に打ち勝ったアッバース革命(750年)以降の世界調和を追求する物語。この展開と常に表裏一体の関係にあった「自ら創始したイスラム教を他民族に乗っ取られたアラビア半島内陸部の部族長達の怨嗟」はあくまで視野外に置かれ続けたのです。そして確かにそれは宗教的熱狂のありったけを注ぎ込んだ文献批判の徹底によって洗練されたコーランハディースの決定版を後世に残すハンバル教学派を輩出もしたのですが、同時に「我々以外のムスリムは全て異端だから殲滅し尽くす」と宣言してメッカもメディナも焼き払い、巡礼者達を大量虐殺してオスマン帝国大英帝国から「もはやイスラム教では有り得ない邪教」認定されて殲滅対象とされたワッハーブ派の様なとんでもない鬼子も生み出してしまったのです。そして欧米諸国の間には、現在なおそのワッハーブ派を国教とし続けるサウジアラビアについて「こんな祭政一致体制とも絶対王政ともつかない時代遅れの連中を、いつまで近代国家の仲間扱いし続けねばならないのか?」なる疑問が偏在しており、最近のイエメン内戦介入に際しての「深刻かつ組織的な人権侵害(クラスター爆弾の様な国際法で禁じられた兵器を次々と投入し、少年兵を徴用し、民間人が暮らす地域への無差別爆撃を敢行)」を原因として不信感はさらに加速度的に広がりつつあるのです。
*しばらく間までのサウジアラビア王族なら、こんな事になる前に確実に手を打っていた。だがフランス絶対王政時代や王政復古時代にブルボン家が辿った末路を見ても判る様に、かかる権威主義的体制は世代交代の都度、人材を払底させていくものなのである。 

この「自ら創始したイスラム教を他民族に乗っ取られたアラビア半島内陸部の部族長達の怨嗟」が再爆発を起こした契機は、皮肉にもアメリカの開発独裁政策への不満が引き起こしたイラン革命(1979年)でした。
*それに連動する形で(というより対抗意識を燃やす形で)スンニ派イスラーム主義者達がサウジアラビア聖地で蜂起した。これが有名な「アル=ハラム・モスク占拠事件 (Grand Mosque Seizure)」で、またもやメッカは破壊と巡礼者虐殺の舞台となる。そして同年末にはソ連軍によるアフガニスタン侵攻があり、サウジアラビアスンニ派イスラーム主義者達だけでなく,1981年にエジプトでサダト大統領を暗殺したサラフィー・ジハード派も対ソ連アフガニスタン戦争(1979年〜1989年)に合流。アメリカの後援下「国際的スンニ派テロリスト集団の国際的ネットワーク」が築造される事になったのだった。

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こうしたテロリストにとって、最大の敵は「既存の日常世界に引きこもり続けるニートな一般大衆」。彼らが執着し続ける「くだらない日常」を破壊し尽くす為なら、バーミヤン遺跡やメソポタミア時代の遺跡を破壊してきた様にメディナやメッカも更地に変えかねません。しかも、その事によって最終的には世界中から賞賛を浴びるとすら夢想しているのです。

改めて繰り返しますがTwitter上の#Medinaattackタグでは、こうした歴史が次々と蒸し返されています。サウジアラビアパキスタン・インド各政府の「犠牲者に自国民はいませんでした」速報、サウジアラビア政府による「犯人は(少なくともその一人は)パキスタン人でした」発表…その全てが火に油を注ぐ結果に。

はてさて私達はどちらに向けて漂流してるんでしょうか?