諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

明治維新は「プロレタリア革命」だった?

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18世紀欧州史を眺めていると、フランスはひたすら優雅な「ベルばら」の世界。宮廷を仕切る女主人が「ポンパドール夫人→デュバリー夫人マリー・アントワネット王妃」と推移していった時代です。浪費家ながら宰相の器だったポンパドール夫人の目が行き届いていた時代はまだ良かったのですが…それでオルレアン公が動き出し、最終的に王統交代に成功するも経済再建に失敗し、2月/3月革命(1848年〜1849年)でフランスから叩き出されてしまう展開に。

同時期、英国では議会を牛耳る派閥が以下の様に推移しました。

  • 穏便派ホイッグ(18世紀前半)…ひたすら戦争を回避しながら南海泡沫事件(1720年)と東インド会社腐敗の痛手からの回復に専念した所謂「ウォルポールの平和(1721年〜1741年)」の時代。ジャコバイト(スチュワート朝残党)と結びつけられたトーリー(地主層)の衰退期。
  • タカ派ホイッグ(18世紀中旬)…「ウォルポールの平和」時代に積み重ねられた余力を武器とし、七年戦争(1756年〜1763年)に便乗する形でフランスの海外植民地を奪取しまくった。自由交易を国是とする重商主義者の集まりだったが、皮肉にもかえってその勝利によって議会における国内トーリー(スチュワート朝残党)やインド派(ネイポップ)や西カリブ海派といった保護関税支持者の多い地主議員の勢いを強めてしまう。

  • リベラル・トーリー(18世紀後半〜19世紀初旬)…決して一枚板ではなかったが、地主層中心だった為に保護貿易主義色と植民地搾取色を強めアメリカ独立戦争(1775年〜1783年)を引き起こしてしまう。フランス革命ナポレオン戦争への対応によって余命を伸ばしたが「輸出に依存しつつ国内産業を関税障壁で守る」政策の矛盾も露呈させた。

  • 福音派(Evangelical)とユニテリアン主義(Unitarianism)の奇妙な連合(19世紀前半〜中旬)産業革命加速を受けての関税障壁撤廃要求の高まりを背景に(国内地主層を弱体化させる為の)穀物法廃止、(砂糖農場主を中心とする西カリブ海派を弱体化させる為の)奴隷制廃止、(インド派を弱体化させる為の東インド会社からの既得権益剥奪、(工場制機械産業の世界のルールを定めた)工場法制定が次々と制定された。これを推進したのは福音派議員の人道主義と、ユニテリアン信者が多かったマンチェスターなどの産業資本家議員の経済効率至上主義。ヘルムート・プレスナーが指摘した、英国政治を特徴付ける「道徳家の仮面を被った経済至上主義」がこうして誕生する。やがてリベラル・トーリーの自由貿易派、ホイッグ党員、急進派が集まって1859年に合同し自由党を形成。

  • 保守党全盛期(19世紀後半〜20世紀初頭)…「道徳家の仮面を被った経済至上主義」の勝利は皮肉にも(それまで地主に過ぎなかった)ジェントリー階層の金融界進出、ディズレーリ首相(英: Benjamin Disraeli, 1st Earl of Beaconsfield, KG, PC, FRS、在任1868年、1874年 - 1880年)時代における(ロンドン・ロスチャイルド家の様な)国際ユダヤ金融や南アフリカの植民地商人と癒着した「帝国主義政策」の強力な推進、アイルランド独立反対運動の盛り上がりを経てプリムローズ・リーグ運動によって普通選挙も制した保守党の一強時代が始まる。

 まさに「責任内閣制」「(議員が出自ごとに派閥を形成するとは限らない)政策主導政治」「(国民の意向を普通選挙で吸い上げる)議会制民主主義」の樹立期。ただしフランスでも英国でもドイツでも「選挙権を与えられた国民」は(たとえ資本家から搾取される労働者階層であっても)最初は保守派に投票する事が多く、これに失望したリベラル派インテリを「民主集中制=革命に目覚めたエリートが世界全体を全人格的に代表し、革命反対者を次々と粛清していく古代スパルタの如き理想の身分制世界」に走らせる結果となったのでした。

*その発想自体が「領主が領土と領民を全人格的に代表する農本主義的伝統」の影響下にあるという発想は残念ながら芽生えなかった? とにかく彼らは、何よりもまず生き延びる為に貴族制とインテリ独裁主義を一緒くたに嫌悪する「大衆の反知性主義」と闘い続けなければならなかった。そもそも「普通選挙実施によって議会独占状態を破られたブルジョワ階層」に属している事が多かったからである。

実は江戸幕藩体制下日本でも、幕末に活躍した様な西国諸藩なら、その多くが英国政治史のうち「貯める派」と「使う派」の葛藤を経験しています。ただし英国ほど「時宜に応じて政権交替を血を流す事なくスムーズに遂行するシステム」が確立していた訳ではなかったので死屍累々の山が築かれてしまいました。

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概ね幕末の始まりは「太平の眠りを覚ます上喜撰、たった4杯で夜も眠れず」なる狂歌に象徴されますが、実際の明治維新が「偶然最良のタイミングで動けた一握りの藩だけで遂行された」事実もまた揺らぎません。大半の藩は「覚醒」どころか、既に死んでいたか、ゾンビの様にビクンビクンと痙攣してるうちに「御一新」を迎える羽目に陥ったのです。そして皮肉にも、両者を分けたのは「江戸幕藩体制という微温(ぬるま)湯に、どれだけ飲み込まれずに幕末を迎えられたか」という全く別種のゲームの結果だったのでした。

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どれだけ江戸幕藩体制という微温(ぬるま)湯に、飲み込まれずに幕末を迎えられたか」という基準から見れば、明らかに突出して「優秀」だった藩が2つありました。関ヶ原の戦い(1600年)において徳川家に「敵」として強烈な印象を残した長州藩薩摩藩がそれです。

  • 幕府側は隙あらば両者を弱体化する陰謀を仕掛け続けてきた。
  • それ故に太平の世が訪れても迂闊に家臣団をリストラ出来なかった。

これはもう、潔く死に果てるか何らかの形で経済改革を成功させるか、どちらかしかなかった状況だったといえましょう。皮肉にも、経済改革そのものについては他にも成功させた藩が幾らでもあったのですが、そういう藩に限って大半は明治維新期あえて動かず「版籍奉還(1969年)」「廃藩置県と藩債処分(1871年)」「秩禄処分(1876年)」といった江戸幕藩体制を解体する連続措置に黙って従順に従い地上から消え失せていったのでした。とはいえ、そうした生き様が(水戸藩の様に)佐幕派倒幕派内ゲバ激化によって離脱を余儀なくされた他の藩よりは遥かに「軟着陸(Soft Landing)」だった事実もまた動かないという次第。

宝暦治水事件 - Wikipedia

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江戸時代の宝暦年間(1754年(宝暦4年)2月から1755年(宝暦5年)5月)、幕命により薩摩藩が行った治水工事。濃尾平野の治水対策で、木曽川長良川揖斐川の分流工事。三川分流治水ともいう。

木曽川長良川揖斐川の3河川は濃尾平野を貫流し、下流の川底が高いことに加え、三川が複雑に合流、分流を繰り返す地形であることや、小領の分立する美濃国では各領主の利害が対立し統一的な治水対策を採ることが難しかったことから、洪水が多発していた。また、美濃国側では尾張藩の御囲堤より3尺(91cm)以上低い堤しか作ってはいけなかったとする伝承もある。

1735年(享保20年)、美濃郡の代官である井沢惣兵衛が三川の調査の上で分流工事を立案したが、その時は幕府の許可が下りなかった。このとき立案された計画が後に宝暦治水に利用されたと言われているが、確たる証拠はない。

それ以降も輪中地域の住人は三川分流を幕府へ度々願い出続けた。時代が下るにつれて木曽三川流域は土砂の堆積や新田開発による遊水地の減少により洪水による被害が激化していったからである。

1753年(宝暦3年)12月28日、第九代将軍徳川家重薩摩藩主島津重年に御手伝普請という形で正式に川普請工事を命じる。設計と計画は幕府が行う御手伝い普請であり、薩摩藩は資金準備、人足動員、資材手配などを担当した。幕府側総責任者は勘定奉行一色政沆、監督者として水行奉行高木新兵衛が命じられている。高木は自家の家臣のみでは手に余ると判断し、急遽治水に長けた内藤十左衛門を雇った。

当時すでに66万両もの借入金があり財政が逼迫していた薩摩藩では、工事普請の知らせを受けて幕府のあからさまな嫌がらせに「一戦交えるべき」との強硬論が続出した。

  • それでも財政担当家老であった平田靱負が強硬論を抑え、1754年(宝暦4年)1月21日幕府に送っている。1754年(宝暦4年)1月16日には平田靱負が総奉行、大目付伊集院十蔵が副奉行に任命された。同年1月29日には平田、1月30日には伊集院がそれぞれ藩士を率いて薩摩を出発。
  • 同年2月16日に大坂に到着した平田は、その後も大坂に残り工事に対する金策を行い、砂糖を担保に7万両を借入し同年閏2月9日美濃に入る。工事は同年2月27日に鍬入れ式を行い着工した。

  • 幕府は度々水害に見舞われ貧窮する輪中地域の住民を救済する為、町人請負を基本的に禁止して村請により地元に金が落ちる方針を取った。その為に薩摩藩は労働に動員した地元の村方に(工事に関する経験や技術が乏しかったにも関わらず)通常の公儀普請に比べ割高な賃金を払わねばならなくなっている。また工事が進んでいたところを水害に見舞われ工事済みの部分が破壊されることもあった事、さらに見試し工法によって工事が進められたため、工事の設計がしばしば途中で変更された事から当初予想されたより大量の費用が必要となった。

  • 1754年(宝暦4年)4月14日。薩摩藩士の永吉惣兵衛、音方貞淵の両名が自害。両名が管理していた現場で3度にわたり堤が破壊され、その指揮を執っていたのが幕府の役人であることがわかり、それに対する抗議の自害であった。以後合わせて61名が自害を図ったが平田は幕府への抗議と疑われることを恐れたのと、割腹がお家断絶の可能性もあったことから自害である旨は届けなかった。またこの工事中には幕府側も現場責任者と地元庄屋の揉め事、幕府側上部の思惑などに翻弄されて内藤十左衛門ら2名が自害している。さらに人柱として1名が殺害された。

  • 幕府側は工事への嫌がらせだけでなく、食事も重労働にも拘らず一汁一菜と規制しさらに蓑、草履までも安価で売らぬよう地元農民に指示した。 ただし経費節減の観点から普請役人への応接を行う村方に一汁一菜のお触れを出すことは当時は普通のことであった。

  • 1754年(宝暦4年)8月には薩摩工事方に赤痢が流行し、粗末な食事と過酷な労働で体力が弱っていた者が多く、157名が病に倒れ32名が病死。

  • 1755年(宝暦5年)5月22日工事が完了し幕府の見方を終え、同年5月24日に総奉行平田靱負はその旨を書面にして国許に報告した。その翌日5月25日早朝美濃大牧の本小屋で平田は割腹自殺した。辞世の句は「住み馴れし里も今更名残にて、立ちぞわずらう美濃の大牧」であった。

工事は二期に分けられ、第一期は水害によって破壊された堤防などの復旧が行われ、第二期は治水を目的とした工事が行われた。第二期の工事は輪中地域の南部を四つの工区に分けて行われている。

揖斐川西岸への水の流入を防ごうとすると長良川の常水位が上がり、その沿岸地域が水害の危険にさらされ、また長良川への木曽川からの流入を減らそうとすると木曽川沿岸で溢流の可能性が高まるという濃尾平野の西低東高の構造により輪中同士および尾張藩の利害が対立し、河川工学や土木工学が未発達だったこともあっていずれの工事も河川を完全に締め切り、あるいは切り離したりするまでは至らなかった。それでも一定の成果は上がり、治水効果は木曽三川の下流地域300か村に及んだが、長良川上流域においては逆に洪水が増加するという問題を残した。完成した堤が長良川河床への土砂の堆積を促した為という指摘もある。薩摩藩は治水事業終了後も現地に代官を派遣し続けたが、後に彼らは尾張藩に組み込まれた。近代土木技術を用いた本格的な治水工事は明治維新後となる。

  • 手掛けたのは内務省が招聘した「お雇い外国人」ヨハニス・デ・レーケ(Johannis de Rijke 1842年〜1913年)。オランダ人の土木技師で砂防や治山の工事を体系づけたことから「砂防の父」と称される人物。

  • 1873年、明治政府による海外の学問や技術の国内導入制度によって、内務省土木局に招かれ、大学でもエリートだったG.A.エッセル(George Arnold Escher、1843年〜1939年、画家エッシャーの父)らと共に来日した。エッセルは1等工師、デ・レーケは4等工師として遇せられ、淀川の改修や三国港の改修などに関わり、エッセルは主に設計を、デ・レーケは施工や監理を中心に担当した。後にファン・ドールン(Cornelis Johannes van Doorn、1837年〜1906年)はやエッセルの後任として、内務省の土木技術の助言者や技術指導者として現場を指揮することになる。

  • 氾濫を繰り返す河川を治める為に放水路や分流の工事を行うだけでなく、根本的な予防策として水源山地における砂防や治山の工事を体系づけ、また全国の港湾の建築計画を立てた。特に木曽川の下流三川分流計画には10年にわたり心血を注いで成功させている(その工事費分担を巡って飛騨と美濃の間で大きな騒動が持ち上がった)。木曽三川分流計画に関して当初、二川分流しか考えていない、木曽川の土砂対策に重きを置いた木曽川と長良揖斐に分ければよいと考えていたが、片野萬右衛門(かたのばんえもん)という老人の三川分流案の進言に感動し、三川分流に踏み切ったという。 

  • 日本の川を見てその流れの激しさに驚き 「これは川ではない。滝だ」と述べたという逸話が知られているが、これに関しては以下の諸説があり、実際の発言にどの程度即した物かは判然としない状態になっている。

    ①低地国であるオランダ出身のデ・レーケは、ゆったりした川しか見たことがなかったので、日本の川を見て「これは滝だ」と驚いたとする説。

    富山県知事が常願寺川の整備を内務省直轄事業としてもらうよう内務大臣に出した上申書にある「70有余の河川みなきわめて暴流にして、山を出て海に入る間、長きは67里、短きは23里にすぎぬ。川といわんよりは寧ろ瀑と称するを充当すべし」がデ・レーケの発言であったとする説。

    ③「(日本の川が)急流なのは、大きな滝がないからだ」と言ったのを通訳が誤訳したものであるとする説。

  • 建設事業の竣工において、事業関係者は招待されたり記念碑に連名されるのが慣例とされているが、デ・レーケは関連した全土木工事において一度も招待を受けたことがなく、連名の記念碑も無い。これは、お雇い外国人はあくまでも裏方であり、任務は調査と報告書提出のみであって、それを決定し遂行するのは日本側である、という事情の表れとされている。

  • その一方で日本中の現場に広く足を伸ばし技術指導や助言を行った。これらの業績は高く評価され、1891年に現代の内務省事務次官に近い内務省勅任官技術顧問の扱いとなっている。「天皇から任命を受けた内務大臣の技術顧問・相談役」という立場だった。

工事に従事した薩摩藩士は追加派遣された人数も含め総勢947名。最終的に要した費用は約40万両(現在の金額にして300億円以上と推定)。大坂の商人からは22万298両を借入。返済は領内の税から充てられることとなり、特に奄美群島のサトウキビは収入源として重視され、住民へのサトウキビ栽培の強要と収奪を行っている。現地では薩摩藩への怨嗟から「黒糖地獄」と呼ばれた。

しばしば「幕府が薩摩藩を潰そうと図った意地悪」の代表例として挙げられる例ですが、本当に効いたのはむしろ同時進行で進められた降嫁作戦の方でした。これは将軍家の姫君に無数の家臣団をつけて輿入れさせ「ちゃんと養わないと分かってるな?」と脅す経済疲弊策で「隠居養育費捻出問題」と合わせ薩摩藩を確実に披露させていきます。そして、この窮地から薩摩藩を救ったのは、その「金食い虫の隠居」が見出した一人の茶坊主だったのです。
調所 広郷(1776年〜1849年)

江戸時代後期の薩摩藩の家老。諱ははじめ恒篤、後に広郷(廣郷)。通称は清八、友治、笑悦、笑左衛門。当時の呼称は調所笑左衛門が一般的。隠居していた前藩主・島津重豪にその才能を見出されて登用され、後に藩主・島津斉興に仕え、使番・町奉行などを歴任し、小林郷地頭や鹿屋郷地頭、佐多郷地頭を兼務。藩が琉球や清と行っていた密貿易にも携わる。天保3年(1832年)には家老格に、天保9年(1838年)には家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。弘化3年7月27日には志布志郷地頭となり、死ぬまで兼職する。

  • 当時、薩摩藩の財政は500万両にも及ぶ膨大な借金を抱えて破綻寸前となっており、これに対して広郷は行政改革農政改革を始め、商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払いにし、さらに琉球を通じて清と密貿易を行なった。一部商人資本に対しては交換条件として、この密貿易品を優先的に扱わせ、踏み倒すどころかむしろ利益を上げさせている。そして大島・徳之島などから取れる砂糖の専売制を行って大坂の砂糖問屋の関与の排除を行ったり、商品作物の開発などを行うなど財政改革を行い、天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。

  • やがて、斉興の後継を巡る島津斉彬島津久光による争いがお家騒動(後のお由羅騒動)に発展すると、広郷は斉興・久光派に与する。これは、聡明だがかつての重豪に似た蘭癖の斉彬が藩主になることで再び財政が悪化するのを懸念してのことであると言われている。

  • 斉彬は幕府老中・阿部正弘らと協力し、薩摩藩の密貿易(藩直轄地の坊津や琉球などを拠点としたご禁制品の中継貿易)に関する情報を幕府に流し、斉興、調所らの失脚を図る。

  • 嘉永元年(1848年)、調所が江戸に出仕した際、阿部に密貿易の件を糾問される。同年12月、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死、享年73。死因は責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺とも言われる。死後、広郷の遺族は斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられた。葬所は養父清悦と同じ江戸芝の泉谷山大円寺。法号は全機院殿敷績顕功大居士。現在の墓所鹿児島市内の福昌寺跡。

明治維新の実現は薩摩藩の軍事力に負うところが大である。薩摩藩が維新の時に他藩と異なり、新型の蒸気船や鉄砲を大量に保有し、羽振りが良かったのは、1世代前に500万両に及ぶ借金を「踏み倒し」、薩摩藩の財政を再建した広郷のお蔭と言える。

  • 当時の薩摩藩の500万両という借金は、年間利息だけで年80万両を超えていた。これは薩摩藩の年収(12万から14万両)を超えており、返済不可能、つまり破産状態に陥っていた。「無利子250年払い(つまり2085年までに及ぶ分割払い)」が踏み倒すも同然の処置であるのは事実であるが、そのような「債務整理」を行うのはやむを得ない処置である。実際には廃藩置県後に明治政府によって債務の無効が宣言される明治5年(1872年)までの35年間は律儀に返済されており、密貿易品を扱わせ利益を上げさせるといった代替措置も行っていた。また、広郷のお陰で薩摩藩の財政改革や殖産や農業改革、及び高島流砲術採用など軍制改革にも成功しており、財政の面を中心に見ると薩摩藩の救世主であることは間違いない。

  • 借金踏み倒しの面ばかりが強調されているが、広郷の真価はその後の薩摩藩の経済の建て直しにある。膨大な借金を作るような体制を作り変え、甲突川五石橋建設など長期的にプラスと判断したものには積極的に財政支出を行うことにより、最終的には50万両にも及ぶ蓄えを生み出している。しかし、これはあくまでも幕府等を意識した表向きの公表数字であり、実際には少なく見積っても200万両はあった(この200万両という数字は2013年、鹿児島県歴史資料センター黎明館30周年記念企画特別展「島津重豪 薩摩を変えた博物大名」図録による。また原口虎雄は「幕末の薩摩」、論文等で天保の改革時の利益を黒糖のみで230万両超としている)。

  • 一方、砂糖の専売では奄美群島の百姓から砂糖を安く買い上げた上に税を厳しく取り立てており、借金の返済でも証文を燃やしたり、商人を脅したりして途方もない分割払いを成立させたため、同時期に長州藩で財政改革を行なった村田清風と較べて(長州のほうが桁は一つ少ないものの)、財政を再建させた一方で多くの領民を苦しめた極悪人という低い評価がある。ただし、苗代川地区(現在の日置市東市来町美山)では例外で、調所が同地の薩摩焼の増産と朝鮮人陶工の生活改善に尽くしたことから、同地域では調所の死後もその恩義を感じて調所の招魂墓が建てられて、密かに祀られ続けていたという(この墓も現存している)。

  • 広郷はまた、斉興と斉彬の権力抗争の矢面に立ち、その憎悪を一身に受けた。その後、斉彬派の西郷隆盛大久保利通明治維新の立て役者となったため、調所家は徹底的な迫害を受け、一家は離散する。斉彬排斥の首謀者は斉興とその側室のお由羅の方だったが、この2人は斉彬の死後に事実上の藩主となった久光の両親であり、弾劾出来なかったので、調所家への風当たりが一層強くなったものと考えられる。広郷の財政改革が後の斉彬や西郷らの幕末における行動の基礎を作り出し、現在の日本の近代化が実現されたと評価されるようになったのは、戦後のことである。

  • 名君とされる斉彬であるが、斉彬時代になってからの方が、領民に対する税率は上げられている。結局は船や大砲などを自前で作るよりは、斉興・広郷路線で海外から購入したほうが安くついたのである。ただし、そうした斉彬の開明的な姿勢が、日本の近代化に貢献した事実は事実で評価されるべきであろう。

現在、鹿児島県鹿児島市天保山公園には広郷の銅像がある。また鹿児島市平之町平田公園北側の旧邸宅跡地に、広郷の旧邸址を示す石碑がある。

 長州藩の歴史も構造的には似ています。やっぱり後に忘れ去られた「貯める派」なしには幕末までの存続すら不可能だったとされています。

長州藩 - Wikipedia

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藩主の毛利氏は大江広元の4男を祖とする一族で、戦国時代安芸国に土着していた分家から毛利元就が出ると一代にして国人領主から戦国大名に脱皮し、大内氏の所領の大部分と尼子氏の所領を併せ、最盛期には中国地方十国と北部九州の一部を領国に置く最大級の大名に成長。豊臣秀吉の晩年には五大老に推され、関ヶ原の合戦(1600年)では西軍石田三成方の名目上の総大将として担ぎ出され大坂城西の丸に入ったが、主家を裏切り東軍に内通していた従弟の吉川広家により徳川家康に対しては敵意がないことを確認、毛利家の所領は安泰との約束を家康の側近から得ていた。ところが戦後家康は広家の弁解とは異なり、輝元が西軍に積極的に関与していた書状を大坂城で押収したことを根拠に一転して輝元の戦争責任を問う。所領安堵の約束を反故にして毛利家を減封処分とし、輝元は隠居となし、嫡男の秀就に周防・長門2国を与えることにしたのである。長州藩の歴史は、まさにこの状態から始まる。

  • 慶長10年(1605年)御前帳に記された石高によれば、慶長5年(1600年)の検地の結果、周防・長門2国は29万8480石2斗3合。しかし領国を4分の1に減封された毛利氏は慶長12年(1607年)より新たな検地に着手。慶長15年(1610年)にそれを終えたが、少しでも石高をあげる為に苛酷を極め、山代地方(現岩国市錦町・本郷町)では一揆まで起こっている。結果は53万9268石余。慶長18年(1613年)、今次の江戸幕府に提出する御前帳が今後の毛利家の公称高となるため、慎重に幕閣と協議しが、思いもよらぬ50万石を超える高石高に驚いた幕閣(取次役は本多正信)は、敗軍たる西軍の総大将であった毛利氏は50万石の分限ではないこと(特に東軍に功績のあった隣国の広島藩福島正則49万8000石とのつりあい)、毛利家にとっても高石高は高普請役負担を命じられる因となること、慶長10年御前帳の石高からの急増は理に合わないことを理由に、石高の7割である36万9411石3斗1升5合を表高として公認。
    *この表高は幕末まで変わることはなかったが、その後の新田開発等により実高(裏高)は寛永2年(1625年)には65万8299石3斗3升1合、貞享4年(1687年)には81万8487石余であった。宝暦13年(1763年)には新たに4万1608石を打ち出している。幕末期には100万石を超えていたと考えられている。

  • また新しい居城地として防府・山口・萩の3か所を候補地として伺いを出したところ、これまた防府・山口は分限にあらずと萩に築城することを幕府に命じられた。萩は、防府や山口と異なり、三方を山に囲まれ日本海に面し隣藩の津和野城の出丸の遺構が横たわる鄙びた土地であった。

  • 長州藩士は毛利家が防長二州に転じた際に一緒に山口に移った毛利家家臣をルーツに持つ為、元来広島県(安芸・備後)を本拠とし非常に結束が固かった。輝元はかつての膨大な人数を養う自信がなかったので「ついて来なくてもいい」と幾度もいったが、みな聞かなかったと言われる。戦国期までは山陽山陰十ヵ国にまたがる領地を持ち、表日本の瀬戸内海岸きっての覇府というべき広島から裏日本の萩へ続く街道は家財道具を運ぶ人のむれで混雑し、絶望と、徳川家への怨嗟の声で満ちた。家臣のうち上士は家禄を減らされるだけで済んだが、知行も扶持も貰えない下士は農民となり山野を開墾するしかなかった。幕末、長州藩が階級・身分を越えて結束が強かったのは、こうして百姓身分の間にすら「先祖は安芸の毛利家の家来」という意識が浸透していたせいといわれている。

江戸時代中期には、第7代藩主毛利重就が、宝暦改革と呼ばれる藩債処理や新田開発などの経済政策を行った。文政12年(1829年)には産物会所を設置し、村役人に対して特権を与えて流通統制を遂行している。天保3年(1831年)には、大規模な長州藩天保一揆が発生。その後の天保8年(1836年)4月27日には、後に「そうせい侯」と呼ばれた毛利敬親が藩主に就くと、村田清風を登用した天保の改革が実施された。改革では相次ぐ外国船の来航や中国でのアヘン戦争などの情報で海防強化も行う一方、藩庁公認の密貿易で巨万の富を得た。

  • 村田清風は1838年(天保9年)、表番頭と江戸仕組掛を兼任して藩政の実権を掌握し、藩主毛利敬親のもとで天保の改革に取り組んだ。党争に巻き込まれる事を恐れた敬親は行政を完全に現場に任せ「そうせい侯」とまで呼ばれたが、それが幸いして何一つ遠慮すること無く、藩政改革に手腕を振るうことができたとされる。

  • 当時長州藩は慢性的な借財に苦しんでおり、画期的な財政再建政策を必要としていた。そこで1843年(天保14年)に三七ヵ年賦皆済仕法(家臣団の負債を借銀1貫目につき30目を37年間支払えば元利完済とするもの)を採用。これには家臣と商人との癒着を防ぎ、身分の上下の区別を付ける目的もあった。次に藩はこれまで特産物である蝋を専売制にしていたが、清風はこれを廃止して商人による自由な取引を許す代わりに、商人に対して運上銀を課税。清風はさらに、この頃の下関海峡が西国諸大名にとっての商業・交通の要衝であった点に着目し、豪商の白石正一郎や中野半左衛門らを抜擢して越荷方を設置した。これは藩が下関で運営する金融兼倉庫業であり、言わば下関を通る貿易船などを保護する貿易会社。このような清風の財政改革により長州藩の財政はみるみるうちに再建されていく。また清風は教育普及にも力を注ぎ、庶民層に対しても教育を薦め、1849年(嘉永2年)には明倫館の拡大を行なった。他にも学問所である三隅山荘尊聖堂を建設している。

  • しかし、「三七ヵ年賦皆済仕法」は藩士が多額の借金をしていたことから商人らに反発を受け、また越荷方を成功させたことで、大坂への商品流通が著しく減少したことで幕府からの横槍が入って退陣を余儀なくされた。更に改革の途中で中風に倒れ、家老の坪井九右衛門に藩政の実権を譲って隠退。その後病から回復して子弟教育に力を注ぐ一方「海防糸口」「病翁寝言」「遼東の以農古」といった著作を著わす。1855年(安政2年)、清風を尊敬する家老・周布政之助の要請で再び藩政に携わったが、これに反対する椋梨藤太の台頭などもあって再改革は挫折。同年、持病である中風が再発して73歳で死去した。晩年は161石を給された。

村田の失脚後は坪井九右衛門、椋梨藤太周布政之助などが改革を引き継いだが、坪井、椋梨と周布は対立して最終的に藩内の特に下級士層に支持された周布政之助安政の改革を主導する様になる。そして幕末期には藩士吉田松陰の私塾(当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされ事実上幽閉)松下村塾で学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍、これが倒幕運動につながってゆくのである。

改革は必ず誰かの恨みも買うもので、復讐対象として使い捨てにされるから忘れ去られてしまうとも。一方、佐賀鍋島藩にはこの悲劇のサイクルが不思議なほど見られません。相手が「化け猫」では戦うに戦えない?

  • 江戸幕藩体制開闢前夜に藩主の座を明け渡した「戦国大名」竜造寺家の末裔がいつの間にか復活。
  • フェートン号事件(1808年)に対する対応不首尾で家老等数人が切腹を強いられた雪辱を晴らすべく「日本一の技術大国」に変貌。
  • ただし終始明治維新を巡る政争に直接参加する事はなかった。

ただし、これじゃ本当に何もしなかった加賀百万石とどこが違うやら…

まったく次元が異なるのが「薩長土肥」の最後の残り。この藩の歴史もまた佐賀鍋島藩とは別の意味でドラマチックな浮沈とは無縁でした。

土佐藩 - Wikipedia

その領土は戦国時代末期には長宗我部氏が統治していたが、長宗我部盛親は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて西軍に与して改易となった。この合戦において徳川氏に味方した遠江掛川城主・山内一豊が、新たに土佐国9万8000石を与えられ、以降明治時代初頭まで治め続ける。

  • 当初、「一領具足」と呼ばれた長宗我部氏旧臣が、山内氏に馴染まずに反乱を繰り返したため、山内氏は藩内の要衝に重臣を配して反乱に備えた。中村の山内康豊(2万石)を始め、佐川に深尾重良(1万石)、宿毛に山内可氏(7000石)、窪川に山内一吉(5000石)、本山に山内一照(1300石)、安芸に五藤為重(1100石)を配している。藩政の中枢を山内家家臣(上士)で独占した結果、下位に位置づけられた長宗我部氏旧臣(郷士)との二重構造が幕末まで続いた。

  • 一豊は長宗我部氏(浦戸藩)の旧城である浦戸城に入城したが、城下町を開くには狭かったため、現在の高知市中心部に高知城と城下町の建設を行った。藩政が確立したのは2代山内忠義の時代で、忠義は野中兼山を登用して新田開発など殖産興業に努めたが、兼山の強引な施策は政敵の恨みを買って失脚する。

  • 藩財政は江戸時代中期頃までは比較的安定的に推移したが、宝暦期(1751年 - 1764年)以降、一揆、農民の他領への逃散など藩政には動揺が見みられた。9代・山内豊雍による質素倹約を基本とする藩政改革(天明の改革)が行われ、藩政はやや立ち直った。更に13代・山内豊熈は「おこぜ組」と呼ばれる馬淵嘉平を中心とする改革派を起用して、藩政改革に乗り出したが失敗した。

  • 幕末には、15代豊信(容堂)が吉田東洋を起用して改革を断行した。東洋は保守派門閥や郷士の反感を買い、武市瑞山を中心とした土佐勤王党によって暗殺された。後に勤王党は実権を回復した容堂(豊信)の報復を受け、瑞山の切腹や党員が処刑されるなど弾圧解散された。なお、東洋の門下より後藤象二郎板垣退助岩崎弥太郎ら明治時代を代表する人物を、また、郷士である坂本龍馬中岡慎太郎など優れた人材が輩出された。坂本や後藤を通じて容堂から15代将軍徳川慶喜へ献策された大政奉還により、江戸幕府の歴史が閉じられた。土佐藩薩長土肥の一角をなし、時代転換の大きな役割を演じた。

  • 明治4年(1871年)、廃藩置県により高知県となった。山内氏は明治17年(1884年)の華族令により侯爵に列せられた。

石高の推移がかなりややこしい。

  • 16世紀末、太閤検地の際に長宗我部氏が届け出た土佐国の石高は9万8000石に過ぎなかった。山内一豊は土佐入国後に再度算定し、慶長10年(1605年)に20万2600石余りと届け出た。

  • 元和元年(1615年)、阿波徳島藩淡路国の加増によって表高が17万石余から25万7000石になると、土佐藩は対抗したかのように「25万7000余石」を申告する。これは、石高を高く申告すると、幕府による大工事などで大幅に負担が増えることとなるにもかかわらず、四国一の大名であろうとした見栄が原因である。ただし、幕府はこの申告を認めず、朱印状は従来のまま「20万2600石余」であった。その後、新田開発が進んだ結果、明治3年(1870年)の廃藩置県前には本田地高とほぼ同規模の新田があり、本・新田は計49万4000石余に達していたとされる。

  • ちなみに「24万2000石」と称されるが、これは宝永年間以降の武鑑などに基づく俗聞である。

ここで注目に値するのが「郷士制度」と呼ばれる土佐藩独自の制度。

  • 基本的には在郷武士であり、土佐藩においては下士の上位に位置づけられていた。関ヶ原の戦い以前の旧領主である、長宗我部氏遺臣の一領具足の系譜を引く者が多く、慶長18年(1613年)香美郡山田村の開発で取り立てられた慶長郷士がこの制度の端緒となり、その後、新田等の開発を行う度に取り立てられてきた。これらは、長宗我部遺臣の不満を解消し、軍事要員として土佐藩の正式な体制に組み込むとともに、新田開発による増収を狙ったものであった(江戸幕府は、大名統制策として様々な普請を外様大名を中心に請け負わせており、また、地理的条件から土佐藩の江戸参勤に掛かる費用も莫大であったことから、土佐藩では早くから増収策に熱心であった)。なお、郷士一人当たりの開発許可面積は、だいたい3町程であった。

  • 時代が進み、江戸時代中期には商品経済が農村部まで浸透し始める。すると、困窮苦からか、生活のために郷士の身分を譲渡するようになった。当初は武士身分の者への譲渡(このケースは耕作地の売却が主)であったが、次第に、豪農・豪商が郷士株を買って、郷士となる者が現れている(郷士の多様化)。

  • 元禄期には郷士も公役に就くことが出来るようになり、下級役人として活躍する者も出てきた。幕末には郷士総数は800人を数えた。内、370人が大組と呼ばれ、おのおのが家老に属しており、御預郷士と呼ばれた。残り430人が小組と呼ばれ6隊を構成し、駆付郷士として、非常時に規定の場所で海防に従事していた。

  • なお、多くの郷士が農村や山間部に居住していたが、上士(山内系の上級藩士)居住地である郭中以外の上町・下町に居住する者もいたようである。坂本龍馬の家などもその一例。

*特筆すべき経済改革はなかったが、それはむしろ次第に新興富裕層が力をつけ、幕末までに「鉢植え大名の直臣」以下の身分制を解体し尽くしてしまったせいで「上からの改革」なんて不可能になってしまったせいとも。実際、当時の在地有力者の家系図を見ると多くが「武家で商家で農家(都合によってお上に見せる看板を使い分ける)」なんていい加減な事になっている。自由民権運動の重要な震源地の一つとなったのもこうした背景があったから。

自由民権運動「自由は土佐の山間より」

 ちなみに土佐藩だけでなく薩摩藩長州藩や朝廷(岩倉具視ら下級公家が暗躍)でも「下士が上士以上を引き摺って明治維新を主導した」傾向が見て取れる事から「明治維新プロレタリアート革命だった」とする立場もあります。ただし、ここでいう「プロレタリアート」はあくまでマルクスが理想視した非現実存在としてのアレではありません。あくまでフランス革命を迷走に追い込んだサン=キュロット階層(浮浪小作人層)の様に前近代と近代の端境期に現れた泥臭い(前近代性を多分に抱えた)実在の集団を指しています。
*元々「日本では武家(特に体制矛盾を押し付けられ、内職せずには暮らせなくなり、長屋を日本初の工場制手工業の現場に変貌させた下士達)こそプロレタリアートだった」という考え方まである。

  • 思うより「領主が領民と領土を代表する農本主義的伝統」に対する精神的依存性が強く、自らの立場を自ら代表する能力に欠ける。フランス革命においてサン=キュロット達が兵士供給階層として相応の政治的影響力を有しながら、あくまでジャコバン派代表として擁立し続けたのも、明治維新成功に実際に貢献した下士達の大半が脱藩藩士ではなかったのもこの為。
    フランス革命が「ブルボン家との王統交代を狙うオルレアン公の陰謀」として始まった様に、ある意味明治維新も「(吉宗以降王統となった)紀州家に対する水戸家(及び彼らを「戊午の密勅」で焚きつけた孝明天皇側近達)の反逆」として始まった。当時の「プロレタリアート」自身に自ら最初に「バスチーユ牢獄襲撃事件(1789年7月)」や「ベルサイユ行進(1789年10月)」や「桜田門外の変(1860年3月24日)」を計画して遂行する能力はない。ロシア革命にしろ、1881年に皇帝アレクサンドル2世を暗殺したナロードニキはインテリ貴族の集まりだった。ただし一度延焼が始まれば本家は置き去りとなり、一度手放したコントロールは二度と回復できないのが普通。

  • 一方、過剰なまでに溜め込まれたルサンチマンを仮託された「代表」は、しばしば自らが先頭を切って暴走するか「優柔不断」と見限られ粛清されるかの二択をせまられる。ジャコバン派独裁、長州藩薩摩藩の攘夷活動、土佐勤王党、さらには半農の武蔵郷士が中枢で辣腕を振るった新撰組。「王党派か共和派か?」とか「佐幕派倒幕派か?」とか割と関係ない。
    *自らの過激化を正当化する為に「革命」「尊王攘夷」「忠義」などの理念を口にはするが、その裏側には概ね「実利」への渇望と表裏一体の関係にあるスノビズムが存在する。ただし、ここでいう「実利」はあくまで「領主が領民と領土を代表する農本主義的伝統」時代のそれ。単純な金銭欲ではなく「武士/攘夷志士/革命戦士になりたい」といった強いセルフイメージである事が多く、軍功の見返りに土地を与えられ自作農になると末代まで恩義を感じ続けたりする。マルクスは「ルイ・ボナパルトブリュメール18日(Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte、1852年)」の中で「こんな偽物のプロレタリアートは全財産を剥奪した上に全員死に絶えるまで奴隷として酷使し続けてやるのが彼ら自身にとっても幸福な一生なのだ」と嫌悪感をあらわにして、いわゆる民主集中制を基礎付けた。ある意味日本人が伝統的に好んできた「忠義」や「忠誠心」や「社畜」と言った理念の本質を言い当てているとも。

  • ルサンチマン溜め込みすぎて領主が領民と領土を代表する農本主義的伝統」そのものに公然と背を向けた野良タイプは、例えその後群れても以降はひたすら空回りし続けるだけで歴史上に何の足跡も残さない事が多い。
    共産主義の起源とされる「ブバーブの陰謀(1796年)」だって、歴史のその時点においては「サン=キュロット層の代弁者として過激主義の先鋒を走っていたジャコバン派政権にすら危険視され粛清された最凶の危険分子に過ぎなかった。共に拘束され死刑を宣告されたがナポレオンの尽力でが死刑を免れたブオナローティが「バブーフの、いわゆる平等のための陰謀(Conspiration pour l'Égalite, dite de Babeuf、1828年)」を上梓、これが7月革命(1830年)が単なる王統交代に終わってしまった事に失望した共和主義者たちの間で再評価されたが、せっかく2月/3月革命(1848年〜1849年)の果実として実現した第一回普通選挙もまた「自分達を自作農にしてくれたナポレオンの恩義に応えんとする元サン=キュロット層の大量投票(マルクス」によって敗れていく。

そういえば英国や日本の普通選挙も普通に保守派が制しています。左翼界隈がまとめて侮蔑的に「ボナパルティズム(Bonapartisme)」と呼ぶアレ。本来なら、収入制限選挙を悪用して議席を独占してきた「ブルジョワ独裁状態」を打破したら革新派が選挙で勝利すべきなのに何故かそうはならない。その事への苛立ちを込めた伝統的表現とも。

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その一方で、坂本龍馬とか中岡慎太郎とか岩崎弥太郎 みたいな「あえて藩の看板を背負わず活躍した幕末土佐人」を「日本で最初に現れた本物のプロレタリアート」とする立場もあったりします。ここから「土佐プロレタリアートが主導した明治維新史観」を構築しようという試みが、司馬遼太郎竜馬がゆく(1962年〜1966年)」だったとも。もちろんクライマックスは薩長同盟(1866年)。旧型プロレタリアート尊皇攘夷志士)の典型たる長州人と(旧型以前の戦闘民族)薩摩人を引き合わせ、徳川慶喜大政奉還(1867年)を敢行すると「将軍様も胸の内は同じじゃった」と日記帳に書きつけて幕といった具合。これが「日本のプロレタリア革命」?

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さて私達はどちらに向けて漂流してるのでしょうか?