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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

地獄の有様だったフランス初の普通選挙

現在ではイタリアを代表するパスタ料理の一つとなったカルボナーラ(Carbonara)には謎があります。考えてもみてください。長らく流通網が未発達だったイタリアに「(すぐ駄目になる)新鮮な卵と牛乳の使用を前提とする料理」がどれくらいありますか?

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こういうのは概ねフランス・ドイツ・スイス・イタリアにまたがる山岳地帯あたりにおける地産地消型の田舎料理が起源。実際カルボナーラの呼称についても、上に振りかけた黒胡椒が「炭焼小屋の賄い飯」を連想させたからという説があったりします。 
*そもそも何で英国において「(かつては高価だった砂糖とレモンスライスをたっぷり入れた)レモンティは貴族の飲み物で(牛乳をたっぷり入れた)ミルクティーは庶民の飲み物」なんて格付けが生じたのか? フランスで「(牛乳をたっぷり入れた)カフェオレは庶民の飲み物」という定見が広まったか? 貧乏な田舎の農村は、その一方で「新鮮な牛乳」ならいくらでも手に入った。そういう時代の名残ではなかったか?

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こうした田舎料理が広まるに当たっては何か裏事情があるものです。例えば中世、フランス国王とローマ教皇の間の常時連絡確保の為に直轄領化されたドーフィネ地方の郷土料理をが起源の「グラタン(gratin)」。ここも険しい山岳地帯で、フランスがナチス・ドイツの属国に変貌しても激しいレジスタンス活動を続けました。伝統あるフランス王党派、しかもフランス国王とローマ教皇に「大恩」を感じているドーフィネ地方住民の辞書に「降伏」の2文字はなかったのですね。まさしく日本人も大好きな「忠義」の世界。
*とはいえ実際にこうした「(新鮮な卵と牛乳の使用を前提とする)田舎料理」が(スイスからの出稼ぎ料理人が嬉々として主導する形で)欧州じゅうに広まるのは冷蔵技術が飛躍的に発展して広まった産業革命以降の時代。

  • フランダースの犬」はリストラされて餓死していくネロ少年とパトラッシュを描く事で牛乳を駄獣が牽引する荷車が運んだ前近代の終焉をある種の悲劇に仕立て上げた。

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  • 日本映画「ALWAYS 三丁目の夕日(2005年)」も電動式冷蔵庫の普及が「氷屋」を失業に追い込んでいく残酷な景色を観客に突きつけた。

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しかし実際のそれはむしろ各国の庶民にとっては「新時代の始まり」だったのであり「新鮮なブロッコリー」がアメリカの国民食となったのも「納豆と生卵」が日本じゅうで朝食の定番となったのもそれ以降。実際カルボナーラがイタリアの定番となったのだって実は「第二次世界大戦の影響で占領軍の占領下に入り、その先進的兵站網の恩恵を受けて新鮮な牛乳と卵が好きなだけ家庭料理に使える様になって以降」とされています。

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ところで(しばしばカルボナーラ(Carbonara)の起源と結びつけて語られる)カルボナリ(イタリア語: Carbonari、フランス語: Charbonnerie:炭焼党)もまた前近代と近代の狭間に現れては消えていった過渡期の産物の一つだったりします。

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フランス7月革命(1830年)に実動部隊として参加したのが最後の花道で、以降王党派は順調に出世を遂げるもの、共和派は六月暴動(Insurrection républicaine à Paris en juin 1832)で粛清されてしまいます。ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル(Les Misérables、1832年)」のクライマックス場面として有名ですが、作中でこの組織名が語られる事はありません。作品発表当時には既に「誰も思い出したくないおぞましい存在」へと変貌していたからです。

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よせばいいのに彼らは戻ってきてしまったのでした。当時の言い回しを借りれば「今度こそ(諸勢力の調和の象徴である)三色旗を(急進共和派の象徴である)赤一色に塗り潰す」為に。ブルボン復古王政もそうでしたが、時代遅れの存在が再起を図っても大概ロクな結果は残せません。しかも選んだ戦術とのミスマッチが最悪でした。何と彼らは選挙で勝とうとしたのです。

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マルクスは「ルイ・ボナパルトブリュメール18日(Der 18te Brumaire des Louis Bonaparte、1856年)」において「せっかく二月/三月革命(1848年〜1849年)で四月普通選挙(1848年)を勝ち取ったのに社会思想家を惨敗させ、王党派とブルジョワを大量当選させるなんて、フランス人は何にも分かってない大馬鹿だ」と口汚く罵ります。

でもフローベール「感情教育(L'Éducation sentimentale、1869年)」の該当箇所を再読すると「大馬鹿ははどっちだ?」という気持ちになるのです。

「ラマルティーヌの名を耳にしただけで肩をすくめる。ルドリュロランが「有効な打開 策を見いだす」ことができるとは思えないし、デュポン( ド・ルール)は能なしの老いぼれ、アルベールは 間抜け、ルイ・ブランは空想家、ブランキはとてつもなく危険な男だ。ではどうすべきか」
*膨大な量の当時の市民の会話が収録されているが、要するに一言で要約すると当時の庶民が政治に求めていたのは、とにかく「安定」。それぞれがそれぞれなりの形で互いの派閥同士の罵り合いと足の引っ張り合いにウンザリしていた。

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*「とてつもなく危険な男」ブランキ(Louis Auguste Blanqui、1805年〜1881年)…17歳の時にカルボナリ党公開処刑を見て感動してリセ卒業後入党。ジャコバン派独裁時代に当時最も過激だったサン=キュロット層からまで危険視されて粛清されたネオ・ジャコバン派バブーフ(François Noël Babeuf、1760年〜1797年)をこよなく尊敬する様になる。「武装した少数精鋭の秘密結社による権力奪取と武装人民による独裁樹立だけが正義に至る唯一の正義」とするブランキ主義(Blanquism)を全生涯をかけて追求。

  • 「義人同盟/正義者同盟(der Bund der Gerechten)」の主導者の一人ヴァイトリング(Wilhelm Weitling, 1808年〜1871年)も強い影響を受けた一人。「社会的匪族(Sozialbandit)による有産者の所有権に対する継続的殲滅戦の遂行」の提言など、当時政治的浪漫主義者がかぶれていた「義賊ロマン」そのもの。

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  • 「義人同盟/正義者同盟」内の反ヴァイトリング派に対抗馬として招聘されたマルクスエンゲルスでさえブランキ自身は革命的共産主義者の鑑と絶賛し「共産党宣言」の中でも例外的に批判を加えていない。そういえばマルクス共産主義者に転向する以前は、ある種の政治的浪漫主義者ではなかったか?

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  • ロシア皇帝ニコライ2世暗殺で有名なナロードニキ運動の初期指導者の一人ピョートル・トカチョーフ(1844年〜1885年)経由でウラジーミル・レーニンにも、ヴァイトリング経由で無政府主義者バクーニンにも影響を与えたとされている。

オルレアン公がカルボナリをフランスに引き入れたのは王弟アルトワ伯(後のシャルル10世)やルイ16世の王女マリー・テレーズの扇動によって白色テロが吹き荒れてた時代で、こうした秘密結社は確かに7月革命(1830年)に際して実動部隊として相応に活躍を見せた。二月/三月革命にも関与したと言われているが、その実績故にかえって選挙出馬は歴史的珍事に。

「ワインのブローカーは聖職者のいるかぎりとても安心してはいられないと 明言した。さっき経済の話がでたから言うが、教会だとか、聖体器だとか、いっそのこと宗教ぜんぶをなくしてしまったら、それこそこのうえない倹約になるだろう。それはやり過ぎだという声があがった。「ああ、そう さ! だがな、船が嵐にみまわれたときに…」その比喩を言い終える まえに、べつの男が口をだして「同感だ。しかし、いっぺんにうち壊し てしまうのは、まるで 石工が見境もなく…」 「 石工を侮辱する気 か!」 石膏の粉にまみれた市民がどなった。そして、あくまで 喧嘩を売られたの だと思いこみ、悪態をつき、相手になってやると言って、ベンチにしがみついた。三人がかりでどうにか男を外につれだしたほどだった。けれども、例の労働者は依然として壇上にいた。書記ふたりが演壇からおりるように注意した。仕事着の男は差別待遇だといって抗議した。「わが叫びを 押しとどめることはできまい。われらの祖国フランスに永遠の愛を、共和国に永遠の愛を!」「 市民 諸君(citoyen)!」 その とき、 コンパ ン が 言っ た。「 市民 諸君!」  いくども「市民諸君」をくりかえしたおかげ で会場はいくらか静まった」

*こんな混沌としたやりとりが延々と続くが、次第に「三色旗を赤一色に塗り潰す事しか」急進共和主義に熱狂する労働者が会話を拒絶し、自分達だけで固まる様になって不気味さを増していく。

生活 に窮して、どうにも動きのとれなくなった労働者が相当数にのぼって い た。そうした連中があつまり、なにやらたがいの顔色をうかがっては、 なんらかの合図でも待っているようなようすだった。騒擾取締令がでているにもかかわらず、こうした絶望者のクラブはおそろしいほどの勢いで数 を増していた。
*事あるごとに金持ちの邸宅を襲撃して略奪の限りを尽くしてきたのも彼らの評判を悪くした。彼らに言わせれば私有財産は持ってる方が悪いので、持たざる人間はどんな目に遭わせても正義を正義を執行しているだけなのだった。

 「つめかけた聴衆は議長に深い敬意をはらっているように見える。セネカルは二月二十五日に労働の即時組織化を要求した者のひとりとして知られており、その翌日には、プラドで市庁舎攻撃に賛成する演説をおこなった。この当時、だれにもそれぞれ模範となる人物がいて、ある者はサンジュストを、ある者はダントンを、またある者はマラーをまねようとしていた。セネカルはブランキに似せようと努めていたが、このブランキに してもロベスピエールを模倣していたのである。黒い手袋や短く刈った髪が、セネカル をかたくるしく、めっぽう折り目ただしい人物らしく見せていた。」

*選挙演説会において社会主義思想家達はフランス革命当時の有名人のコスプレをし「私有財産の全没収」を公約とし「いかなる武力を投入しても成し遂げてみせる」と繰り返し強調。周囲をぐるりと囲む労働者達が「そうだ、みんなテルミドール反動以前の時代に戻りたがってる!!」みたいな合いの手で連呼で全て遮断してしまったという。

 こうした光景が次第に一般市民や農民達の心に労働者に対する恐怖と不信感を次第に刻印していった訳です。

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まぁ保守派側の投票風景も現代人の感覚では「どうなのそれ?」という感じではありました。なにしろ村長や司祭に引率される形で集落単位、教区単位で粛々と遂行されたというのですから。それはそれとして「私有財産の全没収を公約にして選挙に出馬したらどうなるか」やってみなければ分からなかったんでしょうか?

四月普通選挙

しかも労働者達は選挙戦における敗北を認められず、直後に暴動を起こします。直接の引き金となったのは失業者に仕事を与える為に創設したものの維持費が払えなくなった国立作業場の閉鎖。この「六月蜂起(les journées de Juin、1848年)」の鎮圧過程で1,500人が殺害され、15,000人の政治犯アルジェリアに追放されます。
*ちなみに1832年の六月暴動は3000人の叛徒のうち死者100名弱、負傷者300名弱。どちらも「パリ市民の飛び入り参加」を欠いた孤立した戦いであったとされている。

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パンテオン広場は藁のうえに横たわる兵士でいっぱいだった。夜が明けようとしてい た。野営のたき火も消えかかっている。 反乱はこの地区にすさまじい跡をのこしてい た。街路は一面、でこぼこだらけの地表をさらしている。崩れたバリケードのうえには、乗合馬車、ガス管、荷車の車輪などがのこっている。ところどころに見られる小さな黒っぽい水たまりは人の血だろう。家々は弾丸で穴だらけになり、漆喰が剝げおちて 骨組があらわになっている。釘一本でとまった鎧戸がぼろきれのようにぶらさがっている。階段が崩れおちてしまい、なにもない空間に向かって扉が開いていた。部屋の内部 が外からうかがえるが、壁紙はぼろぼろで、ときとしてしゃれた品々が残されていることもある。振子時計、鸚鵡の止まり木、なん枚かの版画がフレデリックの目にとまっ た。

区役所にはいると、国民衛兵たちがブレア、 ネグリエ、シャルボネル議員、パリ大司教 らの死について、とめどもなくしゃべっているところだった。うわさではオマール公爵(ルイフィリップ の 第四 王子)がブローニュに上陸し、バルベスはヴァンセンヌの監獄から脱出した。ブールジュから砲兵隊が到着したし、地方から援軍が続ぞくとつめかけているとのことだ。三時ごろ、だれかが朗報をもたらした。蜂起側の交渉団が国民議会の議長のもとへおもむいたというのだ。それを知って一同はよろこんだ。

突然、一斉射撃のような音がひびいた。酒盛は中止になり、みんなはこの見知らぬ青年を胡散くさそうにながめた。ひょっと し て、この男、アンリ五世(ブルボン家最後の継承者)ではあるまいか。

フレデリックはヴォルテール河岸まで走った。シャツ姿の老人が窓から顔をのぞかせ、天を仰いで涙をながしていた。セーヌ川はおだやかに流れている。空は青く晴れわたり、チュイルリー庭園の木立から小鳥たちのさえずりが聞こえてくる。カルーゼル 広場 をよこぎっているとき、担架がはこば れていく場面に遭遇した。詰所の兵士がただちに 捧げ銃の姿勢をとり、士官は軍帽に手をあてがって「不運なる勇者に栄光あれ!」と言っ た。こうした文句はほとんど義務的なものとなっているのだが、それを口にする者 はきまって厳粛な感動にひたっているように見うけられる。いきり立った人びとが担架 につきそって歩きながら、口ぐちに叫んでいる。「見ていろ、敵はとってやるぞ!」大通りを馬車が行き来し、戸口のまえで 女たちが布を裂いて包帯をつくっている。もっとも、騒乱はおおむね鎮圧されたようだ。さきほど公示されたカヴェニャックの布告がそれをつげていた。ヴィヴィエンヌ通りのはずれに国民遊動隊の一団が姿を現した。する と、市民(Bourgeoisie)たちは熱狂的な喚声をあげて、帽子を振りあげ、拍手喝采し、踊り、抱擁 しようとしたり、酒をふるまおうとしたりした。─ ─バルコニーから婦人たちのなげる 花が舞いおちてくる。ようやく、十時になって、フォブール・サンタントワーヌを占拠しようとする大砲の音を聞きながら、フレデリックはデュサルディエの住む屋根裏部屋に 着い た。

*ここではあくまで 市民(citoyen)でなく市民(Bourgeoisie)。そして、これとほぼ同様の景色がパリ・コミューン(Commune de Paris)でも繰り返される。その呼称はここではパリ市の自治市会(革命自治体)を指すが、普仏戦争にフランス側が敗戦した1871年にも国防政府のプロイセンとの和平交渉に反対し、フランス各地でコミューン(la Commune)が蜂起した。その筆頭に立ったのがマルクスが「史上初のプロレタリアート独裁政権」としたパリのコミューン(la Commune de Paris in 1871)。やはり同様にあえなく殲滅されてしまう。

プロレタリアート(Proletariat)」という表現は、こうした歴史的展開の渦中で次第にニュアンスを変えながら広まっていったのでした。 

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 プロレタリアート(Proletariat)

原義は古代ローマ時代の住民統計ケンス(ラテン語: Census:センサス=国勢調査)匂いて「自分の子供以外に富を生み出す財産を持っていなかった階層の人々」を指す用語だったラテン語のProles(英語:offspring)。

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ドイツの国家学者ローレンツ・フォン・シュタイン(1815年‐1890年)が「今日のフランスにおける社会主義共産主義(Der Socialismus und Communismus des heutigen Frankreiches、1842年)」の中で「市場経済において生産手段を持たない(従って労働力を売り渡す形でしか生計が立てられない)貧困階級」の意味で使ったのが有意の初出とされる。

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まだ共産主義者となる以前のマルクスは、その一方で既にフォン・シュタインの著書に目を通しており「独仏年誌(1844年)」に寄せた「ヘーゲル法哲学批判序説」の中で「今や先進国では近代(市民社会)からの人間解放が問題となっているが、ドイツはいまだ前近代の封建主義である。ドイツを近代の水準に引き上げたうえ、人間解放を行うためにはどうすればいいのか。それは市民社会の階級でありながら市民から疎外されているプロレタリアート階級が鍵となる。この階級は市民社会の他の階級から自己を解放し、さらに他の階級も解放しなければ人間解放されることがないという徹底的な非人間状態に置かれているからだ。この階級はドイツでも出現し始めている。この階級を心臓とした人間解放を行え」と述べている。フォイエルバッハの人間解放論の影響が色濃く、後の「多くの人間が自由意志と信じているものは、社会からの同調圧力によって型抜きされた既製品に過ぎない」とする「上部構造/下部構造」論へと続いていく。

プロレタリアート階級に関するマルクスの初言及。ここでいうプロレタリアート階級は、当時の実情に鑑みる限りヘルムート・プレスナーいうところの「官僚や軍人の権威には従順に従いながら個人的享楽を追求したビーダーマーヤー期(Biedermeier、1815年〜1848年)的小市民(あるいはスノビズムからそうした生活に憧れながらほとんど実践不可能な貧困層)」となろう。
フォイエルバッハの宗教論

マルクスエンゲルスが1848年に発表した「共産党宣言(Manifest der Kommunistischen Partei)」または「共産主義者宣言(Das Kommunistische Manifest)」は「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」「近代ブルジョワ社会においては全社会がブルジョワジープロレタリアートに分かれていく(両極分解論)」「そして最終的にはプロレタリア革命によってプロレタリアートが勝利し、階級対立の歴史が終わる」と宣言。

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  • ただしこの宣言はあくまでフランソワ・ノエル・バブーフが提唱したユートピア共産主義(財貨全体共有に立脚する秘密結社)に傾倒した亡命ドイツ人や遍歴職人を中心に1836年パリで結成された「正義者同盟/義人同盟(der Bund der Gerechten)」の為に執筆されたものである。従ってどこからどこまでマルクスエンゲルスのオリジナルの考えか判らない。

  • 「正義者同盟/義人同盟」は「人類のあるがままの姿とあるべき姿を受け入れる」とか「同盟内部の守秘義務を破った場合は名誉剥奪と死を受け入れる」といった前近代的秘密結社の信念を多分に継承していたが、首謀者の一人ヴァイトリングが1943年の蜂起に失敗してスイス警察によって逮捕され多数の文書が押収され刊行されるとヴァイトリング派(スイスとパリの少数派)と反ヴァイトリング派(ロンドンとパリ多数派)に事実上分裂し対立が深刻化。そのうち反ヴァイトリング派に属するカール・シャッパーが1847年秋、当時孤立無援の状態にあったマルクスエンゲルスに接っしてきて理論刷新の手伝いを求めたという。

  • 完成したのは1948年1月。まさしく不運急を告げる2月/3月革命(1848年〜1849年)の直前であった。

そして2月/3月革命(1848年〜1849年)と同年の4月普通選挙以降、労働者と農民の対立が決定的となり「プロレタリアート独裁」が「ブルジョワ階層と農民階層に対する即時全財産没収と奴隷階層化」と表裏一体をなす形で語られる様になっていく。
フローベール「感情教育(L'Éducation sentimentale、1869年)」に登場する社会主義思想家達は市民に「シトワイヤン(citoyen)」と呼びかける。これはフランス革命後に登場した「政治的主体としての市民(経済階級あるいは身分としての側面を強く持つブルジョワという表現に対し、それを排除した抽象的市民概念)」を意味していたが、カール・マルクスによれば選挙で彼らに投票した少数精鋭派だけがプロレタリアートを名乗る資格があり、そうしなかった大多数はブルジョワに分類される事になるのだという。彼もまた生涯「普通選挙とは何か?」理解せずに終わった一人?
四月普通選挙

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  • 2月/3月革命に際して農民達は自らの要求が通ると即時撤収。少数派となった都市住民の籠城する区画が軍隊によって次々と殲滅されていく様子を「高みの見物」を決めながら嘲笑う景色が欧州のあちこちで見られた。

  • 4月普通選挙に際しては「ナポレオン戦争時代の恩寵で自作農化した元サン・キュロット層の報恩感情」や「私有財産没収を恐れる農民達の組織票」により王党派やブルジョワが大量票を獲得する一方で社会主義陣営が惨敗。

  • こうして労働者側の心に「農民への復讐心」が、農民側に「労働者への恐怖」が芽生えた事、都市の計画的整備が始まってバリケード籠城が不可能となった事、フランスにおける六月蜂起失敗で不満分子がアフリカに大量追放されたりした事などが重なって、19世紀後半には市民の大規模蜂起が滅多に起こらなくなっていく。
    *実は戦前日本においても地方農民と都市住民の間には(おそらく江戸幕藩体制期まで遡る)根深い相互不信感が存在し、多くの有識者が「こんな有様で近代化が推進出来るか?」と嘆いている。ちなみにあまり英国では見られない。そもそも都市と農村が連続性を保ったまま共存共栄を続けてきた歴史のせいかもしれない。

エンゲルスが1895年に死ぬと、マルクス主義政党として急速に勢力を拡大していたドイツ社会民主党において修正主義論争が発生。エドゥアルト・ベルンシュタイン(Eduard Bernstein, 1850年〜1932年)は株式会社制度のためイギリスやフランスにおいて有産層はむしろ増えていることを指摘し「共産党宣言」の両極分解論を否定した。
*歴史のこの時点でブルジョワとプレタリアートの二項対立図式は崩壊。

ムッソリーニに幽閉されたイタリア共産党の創始者グラムシも「それぞれの地域ごとに経済発達の仕方が異なるから、階層的対立の図式も問題解決の為の処方箋も異なる。従ってロシアで革命が起こったからといって、他の地域でも起こるとは限らない」という結論に到達。
*この時点でプロレタリアートの定義を国際的に共有する意味そのものが崩壊。

実際、西欧先進国においてプロレタリア政党が権力を獲得する事がなかった一方で、むしろ革命はプロレタリアートが多数を占めていないロシアや中国で起こるという展開に。
*ちなみに中国共産党の定義によればプロレタリアートとは「(権力を手中に収め)労働者と農民を善導する革命エリート」の事らしい。

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ちなみに若き日の毛沢東は、多くの農村の実地調査の結果から以下の様な実践的理論に到達しています。

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  • 伝統的富裕階層は知識も豊かで社会変化への心構えもしっかりしているので、そう簡単には時代に取り残されて衰退しない。また子供の教育に熱心。その一方で迂闊に目立つと社会変化への適応の障害となる事を経験的に知っており、変革の先頭に立つ事もない。

  • 新興富裕層は自らが立身出世を果たした現体制への忠誠心が高く、その一方で変革を好まない。子供の教育には比較的不熱心。しばしば反革命運動の急先鋒として蜂起するから要注意。

  • 貧困階層は決して自らは蜂起しない。その余力もないから貧困階層というのが正しい。むしろ抵抗手段として逃散を選ぶ。子供の教育には最も不熱心。

  • 没落過程にある階層こそが革命運動参加者の最も見込める集団である。何よりも彼らは一発逆転を狙える理論に飢えている。子供の教育への熱心度は、生活レベルをダウンさせねばならない状況にどう対応しているかによる。

 さすが実地調査の結果から割り出した理論。地域と時代を問わず応用が効きそうです。この考え方の延長線上に「どうしても特定地域を蜂起させたければ土匪などをけしかけて安全な日常生活を奪ってしまえば良い。その後、その土匪を打ち果たせば恩も売れる」という物騒な発想が生まれ、そして実践に移されました。効果は抜群だった模様…

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結局、最初からあって最後まで残ったのは同時代のロマン主義文学も好んで主題とした「義賊ロマン」だけだったのかもしれません。シラーの「群盗(Die Räuber、1781年)」、バイロン卿の「海賊(The Corsair、1814年)」、ユーゴーの「エルナーニ(Ernani、1829年)」、メリメの「カルメン(Carmen、1845年)」…本当に山小屋に隠れ潜みながらカルボナーラでも立ち食いしている景色がよく似合いそうです。

さて、私達はどちらに向けて漂流してるんでしょうか。