諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

フランス人の理神崇拝と日本人の折衷主義

良くも悪くもフランス人は日本人の感性にある種の基本的共感を抱く様です。背景にあるのはどちらも「何が来ても動じず捌く不動心の様なもの」?

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 ロマン・ロラン「ジャン・クリストフ(1903年-1912年)」第七巻 家の中(1909年)

宗教的熱意は、宗教のみが有してるものではなかった。それはまた革命運動の魂であったが、この方面においては悲壮な性質を帯びていた。

クリストフがこれまでに見たものは、下等な社会主義――政治屋連中の社会主義にすぎなかったのだ。その政治屋連中は、幸福という幼稚粗雑な夢を、なお忌憚なく言えば、権力の手に帰した科学が得さしてくれると彼らが自称してる、一般の快楽という幼稚粗雑な夢を、飢えたる顧客らの眼に見せつけていただけであった。

そうした嫌悪すべき楽天主義に対し、労働組合を戦いに導いてる優秀者らの深奥熱烈な反動が起こってるのを、クリストフは見てとった。それは、「壮大なるものを生み出す戦闘、瀕死の世界に意義と目的と理想とをふたたび与える戦闘」への、召集の叫びであった。

それらの偉大なる革命家らは「市井的で商人的で平和的でイギリス的な」社会主義を唾棄して、世界は「拮抗をもって法則とし」犠牲に、たえず繰り返される常住の犠牲に生きてるという、悲壮な観念をそれに対立せしめていた。

それらの首領らの過激行為は、旧世界からの襲撃の歯止めとして出撃する辺境警備隊を思わせる何か、カントやニーチェに通底する神秘的戦意、そして(彼らはそんな表現を受け入れてはくれないかもしれないけれど)革命的貴族の突撃としか呼び得ない痛烈な光景を呈していた。彼らの熱狂的な悲観主義、勇壮な生への渇望、戦いと犠牲に対する熱烈な信念は、ドイツ騎士団や日本のサムライなどの軍隊的宗教的理想と同じであるかの観があった。

第一次世界大戦前夜のパリで暮らすドイツ人作曲家(ベートーベンがモデル)が主人公の大河小説。梶原一騎原作の「巨人の星(1966年〜1971年)」「タイガーマスク(1968年〜1971年)」「あしたのジョー(1968年〜1973年)」といったスポ根物の起源にして、エルンスト・ユンガーの魔術的リアリズム同様、新左翼運動の原風景でもある。

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60代のブログ奮闘記 : 梶原一騎

①日本のそれは一般に「寄り神信仰(海岸に流れ着く珍物を何でも神に仕立て上げて祀ってしまう宗教的態度)」や「荒魂・和魂信仰(むしろ怨霊ほど鎮めて神棚に祀ろうとする宗教的態度」に由来すると考えられています。「常に手元に複数の選択肢を擁し、良い方を選ぶ(あるいは混ぜ合わせてより良いものを生み出そうとする)」和洋折衷式発想もここから?

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源氏物語 第二十一帖 乙女 第二章 夕霧の物語 光る源氏の子息教育の物語

光源氏の息子夕霧に対する教育方針。朝廷におけるトレンドはすっかり和歌や和文に移行してるのに、あえて「大学の学問(漢文や漢詩」を学ばせる理由について。

「私は宮中に育ちまして、世間知らずに御前で教養されたものでございますから、陛下おみずから師になってくだすったのですが、やはり刻苦精励を体験いたしませんでしたから、詩を作りますことにも素養の不足を感じたり、音楽をいたしますにも音足らずな気持ちを痛感したりいたしました」

「つまらぬ親にまさった子は自然に任せておきましてはできようのないことかと思います。まして孫以下になりましたなら、どうなるかと不安に思われてなりませんことから、そう計らうのでございます。」

「貴族の子に生まれまして、官爵が思いのままに進んでまいり、自家の勢力に慢心した青年になりましては、学問などに身を苦しめたりいたしますことはきっとばかばかしいことに思われるでしょう。遊び事の中に浸っていながら、位だけはずんずん上がるようなことがありましても、家に権勢のあります間は、心で嘲笑はしながらも追従をして機嫌を人がそこねまいとしてくれますから、ちょっと見はそれでりっぱにも見えましょうが、家の権力が失墜するとか、保護者に死に別れるとかしました際に、人から軽蔑されましても、なんらみずから恃むところのないみじめな者になります」

「やはり学問が第一でございます。日本魂(やまとだましい)をいかに活いかせて使うかは学問の根底があってできることと存じます。ただ今目前に六位しか持たないのを見まして、たよりない気はいたしましても、将来の国家の重鎮たる教養を受けておきますほうが、死後までも私の安心できることかと存じます。ただ今のところは、とにかく私がいるのですから、窮迫した大学生と指さす者もなかろうと思います」

*おそらく「(物差しとなる)漢意(からごころ)を知らずして、日本魂(やまとだましい)とは何かなど知りえない」なる発想の日本における初出例。悔しいが光源氏はパパになっても時代を超越して超イケメン。当時はまさに国風文化形成期であり、この「源氏物語」ですら前半は「渤海から輸入した毛皮や、秘色の青磁器や、瑠璃の器や、孔雀の羽といった)漢意(からごころ=絢爛豪華な輸入品)ばかりありがたがる浅ましさ」を揶揄するばかり。しかし後半に入ると次第にこうした深い考察が増えていく。まさに過渡期。

*そもそも「源氏物語」も「将門記」も「平家物語」も「義経記」も、その背景には判官贔屓の感情があったとされる。こうした「滅びゆく者への同情心」こそが欧州ロマン主義と日本の接点であり小泉八雲耳なし芳一(1904年)」の海外発信により、世界もようやくそれを意識する様になる。

九鬼周造 「いき」の構造

「いき」という日本語もこの種の民族的色彩の著しい語の一つである。いま仮りに同意義の語を欧洲語のうちに索めてみよう。まず英、独の両語でこれに類似するものは、ほとんどことごとくフランス語の借用に基づいている。しからばフランス語のうちに「いき」に該当するものを見出すことができるであろうか。第一に問題となるのは chic という言葉である。この語は英語にもドイツ語にもそのまま借用されていて、日本ではしばしば「いき」と訳される。元来、この語の語源に関しては二説ある。一説によればchicaneの略で裁判沙汰をもつれさせる「繊巧な詭計」を心得ているというような意味がもとになっている。他説によれば chicの原形はschickである。すなわちschickenから来たドイツ語である。そうしてgeschicktと同じに、諸事についての「巧妙」の意味をもっていた。その語をフランスが輸入して、次第に趣味についてのélégantに近接する意味に変えて用いるようになった。今度はこの新しい意味をもったchicとして、すなわちフランス語としてドイツにも逆輸入された。しからば、この語の現在有する意味はいかなる内容をもっているかというに、決して「いき」ほど限定されたものではない。外延のなお一層広いものである。すなわち「いき」をも「上品」をもひとしく要素として包摂し、「野暮」「下品」などに対して、趣味の「繊巧」または「卓越」を表明している。次にcoquetという語がある。この語はcoqから来ていて、一羽の雄鶏が数羽の牝鶏に取巻かれていることを条件として展開する光景に関するものである。すなわち「媚態的」を意味する。この語も英語にもドイツ語にもそのまま用いられている。ドイツでは十八世紀にcoquetterieに対して Fängereiという語が案出されたが一般に通用するに至らなかった。この特に「フランス的」といわれる語は確かに「いき」の徴表の一つを形成している。しかしなお、他の徴表の加わらざる限り「いき」の意味を生じては来ない。しかのみならず徴表結合の如何いかんによっては「下品」ともなり「甘く」もなる。カルメンがハバネラを歌いつつドン・ジョゼに媚こびる態度はcoquetterieには相違ないが決して「いき」ではない。なおまたフランスにはraffinéという語がある。 re-affiner すなわち「一層精細にする」という語から来ていて、「洗練」を意味する。英語にもドイツ語にも移って行っている。そうしてこの語は「いき」の徴表の一をなすものである。しかしながら「いき」の意味を成すにはなお重要な徴表を欠いている。かつまた或る徴表と結合する場合には「いき」と或る意味で対立している「渋味」となることもできる。要するに「いき」は欧洲語としては単に類似の語を有するのみで全然同価値の語は見出し得ない。したがって「いき」とは東洋文化の、否、大和民族の特殊の存在様態の顕著な自己表明の一つであると考えて差支さしつかえない。

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メーヌ・ドゥ・ビランは、生来の盲人に色彩の何たるかを説明すべき方法がないと同様に、生来の不随者として自発的動作をしたことのない者に努力の何たるかを言語をもって悟らしむる方法はないといっている。我々は趣味としての意味体験についてもおそらく一層述語的に同様のことをいい得る。「趣味」はまず体験として「味わう」ことに始まる。我々は文字通りに「味を覚える」。さらに覚えた味を基礎として価値判断を下す。しかし味覚が純粋の味覚である場合はむしろ少ない。「味なもの」とは味覚自身のほかに嗅覚によって嗅ぎ分けるところの一種の匂いを暗示する。とらえがたいほのかなかおりを予想する。のみならず、しばしば触覚も加わっている。味のうちには舌ざわりが含まれている。そうして「さわり」とは心の糸に触れる、言うに言えない動きである。この味覚と嗅覚と触覚とが原本的意味における「体験」を形成する。いわゆる高等感覚は遠官として発達し、物と自己とを分離して、物を客観的に自己に対立させる。かくして聴覚は音の高低を判然と聴き分ける。しかし部音は音色の形を取って簡明な把握に背そむこうとする。視覚にあっても色彩の系統を立てて色調の上から色を分けてゆく。しかし、いかに色と色とを分割してもなお色と色との間には把握しがたい色合いが残る。そうして聴覚や視覚にあって、明瞭な把握に漏もれる音色や色合を体験として拾得するのが、感覚上の趣味である。一般にいう趣味も感覚上の趣味と同様にものの「色合」に関している。すなわち、道徳的および美的評価に際して見られる人格的および民族的色合を趣味というのである。
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「いき」の研究をその客観的表現としての自然形式または芸術形式の理解から始めることは徒労に近い。まず意識現象としての「いき」の意味を民族的具体において解釈的に把握し、しかる後その会得に基づいて自然形式および芸術形式に現われたる客観的表現を妥当に理解することができるのである。一言にしていえば「いき」の研究は民族的存在の解釈学としてのみ成立し得るのである。

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たとえばダンディズムと呼ばるる意味は、その具体的なる意識層の全範囲にわたって果して「いき」と同様の構造を示し、同様の薫りと同様の色合とをもっているであろうか。ボオドレエルの『悪の華』一巻はしばしば「いき」に近い感情を言表している。「空無の味」のうちに「わが心、諦めよ」とか、「恋ははや味わいをもたず」とか、または「讃むべき春は薫りを失いぬ」などの句がある。これらは諦めの気分を十分に表わしている。また「秋の歌」のうちで「白く灼くる夏を惜しみつつ、黄に柔らかき秋の光を味わわしめよ」といって人生の秋の黄色い淡い憂愁を描いている。「沈潜」のうちにも過去を擁する止揚の感情が表わされている。そうして、ボオドレエル自身の説明によれば「ダンディズムは頽廃期における英雄主義の最後の光であって……熱がなく、憂愁にみちて、傾く日のように壮美である」。また「élégantの教説」として「一種の宗教」である。かようにダンディズムは「いき」に類似した構造をもっているには相違ない。しかしながら「シーザーとカティリナとアルキビアデスとが顕著な典型を提供する」もので、ほとんど男性に限り適用される意味内容である。それに反して「英雄主義」が、か弱い女性、しかも苦界(くがい)に身を沈めている女性によってまでも呼吸されているところに「いき」の特彩がある。またニイチェのいう「高貴」とか「距離の熱情」なども一種の「意気地」にほかならない。これらは騎士気質から出たものとして、武士道から出た「意気地」と差別しがたい類似をもっている。しかしながら、一切の肉を独断的に呪った基督キリスト教の影響の下に生い立った西洋文化にあっては、尋常の交渉以外の性的関係は、早くも唯物主義と手を携たずさえて地獄に落ちたのである。その結果として、理想主義を予想する「意気地」が、媚態をその全延長にわたって霊化して、特殊の存在様態を構成する場合はほとんど見ることができない。「女の許へ行くか。笞を忘るるな」とは老婆がツァラトゥストラに与えた勧告であった。なお一歩を譲って、例外的に特殊の個人の体験として西洋の文化にも「いき」が現われている場合があると仮定しても、それは公共圏に民族的意味の形で「いき」が現われていることとは全然意義を異にする。一定の意味として民族的価値をもつ場合には必ず言語の形で通路が開かれていなければならぬ。「いき」に該当する語が西洋にないという事実は、西洋文化にあっては「いき」という意識現象が一定の意味として民族的存在のうちに場所をもっていない証拠である。

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*「大和民族の独自性」の証明を使命と感じていた近代日本人がフッサールの「現象学Phänomenologie)」を手段に選んでそれを試みた有名な先例。

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*ただこのいかにもドイツっぽい本質にのみ直線的に迫ろうとするアプローチでは「絶対王政期フランスの優雅な宮廷語彙が欧州じゅうの宮廷を席巻し、なおかつ庶民の間にまで広まったスノビズム(Snobbism)」とか「アラビア語ペルシャ語の摂取によって、日本語が漢字の摂取によってどれだけ語彙と表現を豊かにしたか」といった観点が抜け落ちてしまう。おそらく経路的には英国においてポルトガルから輿入れしてきた王妃が持ち込んだ紅茶がまず宮廷に、次いで庶民にまで広まったのと同じ流れ。おそらく日本で室町時代中期の東山文化が複雑な伝播経路を経て「お茶の間文化」の起源となったのとも同じ流れ。

「一定の意味として民族的価値をもつ場合には必ず言語の形で通路が開かれていなければならぬ」のは事実だが、人間の文化圏は孤立して存在している訳ではないから、輸入語がその役割を果たす事も、いやむしろ輸入語にしか持ち得ない輝きだってある。こと最近の日本は曲がりなりにもコンテンツ輸出国側に転じてしまっているので、むしろそういう部分への配慮が重要になってきたとも。

 ②一方、フランスのそれは「良い意味でも悪い意味でも古代ローマ時代にローマ文明を全面的に受容した結果、ケルト民族やゲルマン民族としての根が断ち切られてしまった事」に由来すると考えられています。何しろ北仏の古語たるオイル語(langue d'oïl)、南仏の古語たるオック語(l'occitan または lenga d'òc)ですら俗ラテン語の一種。

そもそも英国人やドイツ人の様な形でスノッリのエッダ(Snorra Edda、1220年頃)や、古エッダ(Elder Edda、9世紀〜13世紀)やサガ(アイスランド語:saga 複数形sögur、12世紀〜13世紀)に自民族の起源を重ねる言語的ノスタルジーなど持ち合わせていないとも。
*その分だけギリシャ・ローマ文明に対する憧憬心は強い。ただしそれ自体は英国人やドイツ人も意外と負けてなかったりする。どの国でも「キリスト教的伝統に対抗し得るだけの必須教養」としてエリート階層が叩き込まれてきた歴史ならちゃんとあるのだ。さらに細かく見ていくと、古代ローマ支配地やシャルルマーニュ大帝支配地がそのまま国家中枢となったフランス、ローマ帝国やローマ教会と適度な距離を保ってきたが故に発想も自由なイングランド古代ローマ帝国とはむしろ敵対関係にあったが故にギリシャ文明により深く熱狂するドイツの違いが見て取れる。

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上層中流階級のジェントルマン化が進むにつれ、ジェントルマンをジェントルマンたらしめる決定的な要素は教育のみとなる。その結果、ジェントルマンとして必要な下地はパブリックスクールからオックスブリッジに至る教育課程で培われると考えられる様になった。

ジェントルマンの美徳として教養を重視する立場は16世紀まで遡ることができるが、これは15世紀末にイタリアから輸入された人文主義の影響もあり、ジェントリが武芸に秀で伝統的権威を持っていた貴族に対抗する上で教養が必要になったためである。

トマス・エリオットは「為政者の書(1531年)」を著し、ギリシア・ローマ的な西洋古典教養を備え、地方行政を担うことのできる人物を理想のジェントルマンとして描いている。その後、中央集権化が進むにつれ、ジェントルマンは地方行政のみならず、中央の宮廷においても重視されるようになるが、そのような情勢の変化に合わせて、求められるジェントルマン像も変化した。1561年に翻訳されたバルダッサーレ・カスティリオーネ「宮廷人(Il libro del cortegiano、1521年)」は、古典教養に加え、音楽、詩、舞踏、作法、礼節などさらに広い領域における知識と素養を求めている。

このような「必須科目」は家庭教師から教わるのみならず、オックスブリッジでも習得された。両大学は中世では聖職者の人材育成の場としての性格をもっていたが、ヘンリー8世エリザベス1世によって、教会の勢力を削いで宮廷に人材を供給するべく古典研究の重視に方針転換された。

「ドイツ史の父」ヨハン・グスタフ・ドロイゼン(Johann Gustav Droysen,1808年~1884年)アレクサンドロス大王以後の時代について「ヘレニズム」と呼ぶ事を提唱した実績で知られる歴史学者ギリシャ史を研究し「アイスキュロス悲劇集(Tragödien 1832年)」において「プロメテウス四部作」を完全複刻。ワーグナーなどに大きな影響を与えた。その一方で祖国プロイセンへへの熱烈な愛国心も備え、自らの歴史研究もプロイセンドイツ統一の義務に目覚めさせる為の啓蒙活動の一種と捉えていた。
*とはいえドイツ人が突如「我々の先祖はギリシャ人。何としても当時に回帰する!!」と思いつめて努力しても悲劇が生み出されるだけ。実際ボロボロになって抜け殻状態になり果てるのがオチで、その過程を描いたのが最初期の教養小説(Bildungsroman)という事になる。「フランダースの犬」が悲劇的結末を迎えるのも、こうした系譜の末端に位置しているから。ノヴァーリス青い花(Heinrich von Ofterdingen、1801年)」は違うという意見もあるが、あれは「苦行」が始まる前に作者の方が先に死んでしまっただけである。
132夜『青い花』ノヴァーリス|松岡正剛の千夜千冊

ところでイタリア文学の起源はトスカーナ方言で執筆されたダンテ「神曲(La Divina Commedia、地獄篇1304年〜1308年頃、煉獄編1304年〜1319年、天国篇1316年頃〜1321年)」やペトラルカ(Francesco Petrarca, 1304年〜1374年)のラテン文学純正化運動、ドイツ文学の起源は「ルター聖書(Lutherbibel、1522年〜1545年)」にあるとされます。

しかしフランスの場合はいきなりアカデミー・フランセーズなのです。急速に中央集権化が進んでいた当時のフランスにおいては「正しい母国語の振興」こそが最も重要な政治的課題の一つだったんですね。

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アカデミー・フランセーズ(l'Académie française)

フランスの国立学術団体。フランス学士院を構成する5つのアカデミーの一角を占め、その中でも最古のアカデミー。訳語としてフランス翰林院が存在するが、この語が用いられることは極めて稀である。

  • 創立はフランス文学史上、古典主義の時代とされる17世紀で、1626年頃から文学者たちが王室秘書のヴァランタン・コンラール邸で会合を持つようになったのが起源とされる。この事からコンラールはアカデミー・フランセーズの父とも言われる。これが宰相リシュリューに認められ、ルイ13世治下の1635年2月10日、正式に設立された。

  • 当初の役割はフランス語を規則的で誰にでも理解可能な言語に純化し、統一することであり、その目的を達成するために辞書と文法書の編纂を重要な任務としていた。このアカデミー・フランセーズによる辞書(Dictionnaire de l'Académie française、アカデミー辞書)は1694年に初版が出版された後、8回(1718年、1740年、1762年、1798年、1835年、1878年、1932年-1935年、1992年)の改版を重ね、現在に至っている。また、辞書の編纂以外にも勧告を発することなどを通じてその任務を遂行している。

  • 現代では、アカデミーの役割自体については、必要な変化には柔軟に対処しながら、フランス語の質を維持するというように若干の変化が見られるものの、依然として辞書の編纂は重要な任務のひとつである。また、こうしたフランス語に関する役割以外にも新たな第2の役割が追加された。それはメセナ(学問芸術振興)であり、年間およそ60もの文学賞の授与から、美術界、学術界、文芸界、慈善事業団体、寡婦や障害者世帯に対する金銭的援助、そして奨学金の提供に至るまで様々な形で行われている。2008年には、現フランス学士院総裁ガブリエル・ド・ブロイ(Gabriel de Broglie, Chancelier de l'Institut de France)によって、フランス学士院として初の美術展覧会 La section GRAVURE de l'Academie des Beaux-Arts Expose et recoit ses invitesがEspace Pierre CARDINで、グーテンベルク以来変容し続ける印刷術、書誌学をテーマに開催されている。

  • アカデミーは定員を40人として詩人、小説家、版画家、演劇家、哲学者、医師、科学者、民族学者、批評家、軍人、政治家、聖職者といった様々な背景を持つ面々で構成されてきた。会員資格は終身であり、会員の死亡等で欠員が生じると、現会員の推薦と選挙によって新会員が決定される。3世紀以上に及ぶ歴史を持ちながら、1793年から1803年にかけてのフランス革命期を除いて定期的に活動を続け、創設以来これまで700人以上が会員として名を連ねた。その中にはフランスの歴史をさまざまな形で彩った偉人たちが数多く含まれている。

  • アカデミーの会員は、大礼服のような制服が定められている。l'habit vert(緑の礼服)と呼ばれる上着、ベスト、性別によりズボンまたはスカート、二角帽(bicorne)、佩剣(聖職者は無し)などからなる。

  • 定員40人制を堅持しているため、いわゆる「41番目の椅子」で待ったまま会員になれなかった著名人も数多い。このような人物として、デカルトパスカルモリエール、ルソー、プルーストなどが挙げられる。

リシュリューによるアカデミー・フランセーズの印に "à l'immortalité" と刻まれていたことから、会員は "les Immortels" (不死の存在)という異名を持つ。アカデミー会員候補だったアンドレ・ルーサンは、"Si je suis élu, je serai Immortel ; si je suis battu, je n'en mourrai pas."(選出されれば「不死」になれる。落選してもそれで死ぬことはない)と言った。ルーサンは1973年に会員に選出されている。

なので実はフランスは伝統的に「オリジナル・コンテンツの発信国」というより「フランスらしいアレンジ」の発信国として評価されてきた側面が強いのです。要するに 18世紀フランス啓蒙主義を象徴する「百科全書(L'Encyclopédie、正式には L'Encyclopédie, ou Dictionnaire raisonné des sciences, des arts et des métiers, par une société de gens de lettres、1751年〜1772年)」も、19世紀サン=シモン主義の産物ともいうべき第一回パリ万国博覧会(1867年)の楕円形展示もこれ。
パリ万国博覧会

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  • あくまでギリシャ・ローマ文学を至高とするが、伝統的に選好されてきた作品は(「アモールとプシュケー」伝承収録で有名な)アプレイウス(Lucius Apuleius, 123年頃〜?)の「黄金の驢馬(Metamorphoses:変身物語)」や「アベラール( Abélard)とエロイーズ(Héloïse)の往復書簡(12世紀)」などだったりする。前者は「愛の園」をテーマとするロココ絵画、後者はルソー「ジュリまたは新エロイーズ(Julie ou la Nouvelle Héloïse、1761年)」を経てゲーテ「若きウェルテルの悩み(Die Leiden des jungen Werthers、1774年)」などを派生させた。

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  • アーサー王伝承はブルターニュ経由で(アラビア起源ともいわれる)恋愛詩は南仏プロヴァンス宮廷の吟遊詩人経由で中世フランスへと伝わった。
    *有名な「トリスタン(Tristan)とイゾルデ(Isolde)の悲恋」伝承も起源はケルト説話起源ながら12世紀の中世フランスで韻文の物語としてまとめられ、12世紀終り頃にドイツへも伝えられた。その過程でギリシャ神話のテセウス説話の要素が混入。また「惚れ薬によって人工的に恋が芽生える」という作為的要素を嫌い二人の恋を自然に芽生えたものとする工夫が凝らされた。元々は独立した作品であったが、13世紀に入るとフランスで散文のトリスタンが書かれ、それがアーサー王物語に組み込まれた。そこではトリスタンは円卓の騎士の一人に数えられ、ランスロットと並ぶ武勇を誇る騎士として物語が展開される。

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    *中高地ドイツ語で書かれドイツの国民的叙事詩とされる英雄叙事詩ニーベルンゲンの歌(Das Nibelungenlied)」も、前半におけるジークフリートの悲劇はアイスランドで採集された「ヴォルスンガ・サガ(Völsunga saga、1260年頃)」などと起源を同じくし、後半のクリームヒルトの復讐譚は、ブルターニュ地方に移り住んだブルグント族について12世紀頃ドナウ川流域で作られた叙事詩に由来すると考えられている。

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    *南仏のプロヴァンスやラングドックの宮殿にいたオック語吟遊詩人達はアルビジョア十字軍(Croisade des Albigeois, オック語:Crosada dels Albigeses, 1209年〜1229年)を避ける様にシチリア王国パレルモ宮廷や経済的繁栄を謳歌していた北イタリアに逃げ込んだ。これが刺激となってイタリア・ルネサンス期に俗ラテン語文学が誕生したとする説もある。

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  • アカデミー・フランセーズが創設されたのは、イタリア・ルネサンス出版文化が花開いてフランスに大量流入する様になった状況を受けての事。17世紀古典主義文芸が成熟する一方でシャルル・ペローが1691年よりサロンで朗読披露してきた物語詩に序文をつけた「韻文による物語(Griselidis, Nouvelle avec le Conte de Peau d'Asne et Souhaits ridicules、1695年)」を出版。続いて散文で「寓意のある昔話、またはコント集~がちょうおばさんの話(Histoires ou contes du temps passé, avec des moralités : Contes de ma mère l'Oye、1697年)を発表。
    *民間伝承を詩の形にまとめ、教訓を加えたものだが、当時の風俗を反映させるなど子どもにも親しみやすく書かれており、子どもを意識して書かれた初めての児童文学であるともいわれている。当時サロンでは、昔話を元にした詩を書くことが流行していたが、他の文学者たちの作品は子どもが読むには難しいものであった。また元ネタをルネサンス期から爆発的人気が続いてきたイタリア説話集に求めた作品も含まれている。

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  • 17世紀後半からシノワズリ(chinoiserie:中国をイメージした非対称の縮尺や、漆など独特の素材や装飾を用いた様式美)が流行。フランス発の後期バロック様式ロココ様式と融合しながら人気の最高潮を迎える。さらに18世紀に入るとアントワーヌ・ガランが「千夜一夜物語(Arabian Nights 9世紀〜16世紀)」のシリア系写本を「発見」しフランス語に翻訳して広く紹介した。
    *まさしく異国趣味のデパート状態。
    https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/2/23/Le_Jardin_chinois_%28detail%29_by_Fran%C3%A7ois_Boucher.jpg/800px-Le_Jardin_chinois_%28detail%29_by_Fran%C3%A7ois_Boucher.jpghttps://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c3/Aladdin%27s_Picture_Book,_Arabian_Nights,_1878_%28illustration%29.jpg
  • 19世紀前半にはドイツのE.T.A.ホフマンゲーテシェークスピアの影響を受けたロマン主義文学が流行し、19世紀後半に入るとマルキ・ド・サド文学の再発見者でもあったボードレールが米国のエドガー・アラン・ポーをフランスに紹介する。そして20世紀に入ると英国コナン・ドイルの「名探偵シャーロック・ホームズSherlock Holmes)シリーズ(1887年〜1927年)」にインスパイアされる形でモーリス・ルブランが「泥棒紳士アルセーヌ・ルパン(Arsène Lupin)シリーズ(1905年〜1939年)」を執筆。

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そしてフランス人は「フランスらしいアレンジ」を生み出す「しっかりした物差し」の源泉は「理性(raison)」だと信じている様です。そしてその「理性(raison)」の登場を概ねルネ・デカルトの登場と重ねている様なのです。
「理性」…明治時代日本人がフランス語のraisonの訳語として考案した和製英語。すなわち「自由」「精神」「経済」同様に近代以前には概念も存在していなかった言葉。

*「自由」…英語におけるFreedom(禁止が視野内に存在しない状態)とLiberty(禁止が解除された状態)の概念が混ざった独特の言い回し。近代以前にも「勝手(人の事情も考慮せずわがままに振る舞う)」や「御免(身分特権や特別な引き立てや対価支払いによる制限解除)」という表現ならあったが当時の訳者は、それではしっくりこないと考えたのである。
*「精神」
英語における(肉体(body)の対語としての)spirit。状況によってmind(心)、soul (魂)、will (意志)などとも言い換えられる。

*「経済」
…英語におけるeconomy(生産・分配・交換・消費一連の行為)だが和製英語ではなく中国古典からの借用語。本国における「經世濟民(世を治め民を救う)」は政治・統治・行政一般を意味言葉であると同時に、個人倫理のみを扱う儒教に対して「社会経営そのものを扱う実学」と定義づけられていた。実は 江戸時代日本では貨幣経済浸透に伴って既に一部民政家がeconomyの意味で用い始めていたとも。


ルネ・
 デカルト(1595年〜1650年)「方法序説(Le Discours de la Methode、1637年)」

フランス語で書かれた初めての哲学・科学論文であり「すべてを『自然の光』によって検証し、そこにだけ真理を見出していく」合理主義(rationalism)と、イタリア・ルネサンスの影響で古典を題材に選びつつも「(官能に導かれるままに)均衡と調和を求める」フランス人の保守的傾向を反映した古典主義が生まれたとされる。

  • 古典主義的規範の先駆けとなったのはマレルブ(Francois de MALHERBE、1555年〜1628年)。詩人として単純・明晰で理性にかなった表現法を主張。デカルトの文章表現もその延長線上にある。

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  • 方法序説」文中に何カ所か中国やペルシャへの言及がある。要約すると「理性や分別は欧米人同様に分け与えられているが(人間の行動を文化的に規定する)生活慣習が欧州と異なるので(詳しくは知らないが)相応の差異がある様だ」といった感じ。

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  • ちなみに17世紀前半のフランスは帯剣貴族だけでなく(最終的に文壇をほぼ独占するに至る)法服貴族等の新興階層まで理性と意志の高揚と力を強調し, 困難に立ち向かう英雄を理想視する英雄的ストイシスム (Stocisme heroque) が横溢していた。これはセネカ (Lucius Annaeus Seneca, 紀元前1年頃~紀元後65年) の思想に代表されるような本来のストイシスムが形を変えて復興したものであり、国家の困難に対して無関心であることを諌め, 危機に対しても勇敢に立ち向かうことを促す栄光と高邁な精神に溢れたものだった。
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    ただしフロンドの乱の失敗と国王へのさらなる権力集中が進行した同世紀の後半には「如何なる英雄的行動も、その動機まで踏み込んで検証すれば情念や欲望に操られる惨めな存在が浮かび上がってくるのみ」「人間の誇る理性だって想像力や情念・欲望・自己愛にに引きずられ, その判断を無意識の内に歪められている」と考えるジャンセニスム的ペシミズムや、その逆に洗練された快楽追求を至上の目的とするエピキュリスム的風潮が勢いを増していく。
    *こうした「リベルタン(Libertin、善悪の彼岸を超えて刹那的快楽に生き様とする放蕩貴族)的苦悩(ただしあくまでロココ時代的軽薄さと表裏一体)」からアベ・プレヴォー「マノン・レスコー(Manon Lescaut、1731年)」や様々なロマン主義作品が派生する事に。

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とはいえデカルトが17世紀前半時点で考察した事は、そこまで複雑なものではない。

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第一部「我々人間は全て神から均等に分別を授かっている」より

分別は、人間のもつあらゆるものの中でも、もっとも平等に分け与えられている。というのも、だれでもみんな、自分には分別がじゅうぶんに備わっていると思っているし、その他のものについてはなかなか満足しない人だって、分別についてだけは、手持ち以上にほしいなんて願わないのがふつうだからだ。そしてこれは、正しいものを判断し、真実とまちがいとを識別する能力、つまりいみじくも分別や理性と呼ばれるものが万人に平等だという証拠だと考えるべきなのであって、この点でみんながまちがっているということは、あまりありそうにない。ということはつまり、こういうことも言えそうだ: われわれの意見が多様なのは、別にもらった理性の分け前が人によって多いから起こるのではなくて、単にみんなの関心の対象がちがっていて、ものの考えかたもまちまちだからなのだ。つまり活発な精神を持つだけでは不十分であって、いちばんだいじな要件というのは、その精神を正しく適用することなのだ。最高の精神は、最高にすぐれた成果を挙げることもできるが、同時にものすごくはずれていってしまうことだって、じゅうぶんに可能だ。そしてとてもゆっくりと旅する者であっても、必ずまっすぐな道をたどるならば、走りはするがまっすぐな道を捨てる者にくらべて、ずっと遠くまで進むことができるだろう。

われわれ人間をつくり、獣と区別する唯一のものは理性や判断力なのだけれど、わたしはそれが各個人の中に、それぞれ完璧な形で見つかるものと信じている。

第二部「破壊と創造の調和(ハルモノア)について」より

一人の工匠の手によって完成したものにくらべて、いろいろな手が加わった、さまざまな異なる部分からできた作品は、完成度が低いのが常だ。つまり一人の建築家が計画して施工した建物のほうが、数人が改善しようとして古い壁を最初の意図とはちがった用途に使ったりしているような建物にくらべ、優雅さでも便利さでも勝っていることが多いのだ。そしてまた、最初はほんの小さな村だったのが、時間がたつにつれて大きな町になった古い都市というのは、プロの建築家が平原に自由に計画した、規則正しく作られた町にくらべて、レイアウトがまずいのがふつうだ。古い都市の建物のいくつかは、新しい都市のものに匹敵するかそれ以上の美しさを持っていることもある。でも、それがいい加減に並べられて、こっちは大きくあっちは小さくという具合で、それに伴って通りも曲がったり不規則になったりしているのを見ると、こういう配置をもたらしたのは、理性に導かれた人間ではなく、偶然にちがいないと宣言するしかない。そしてそうはいっても、いつの時代にも、個々の建物が公共の美観に貢献するよう監督するのが仕事のお役人がいたことを考えると、他人の材料だけを使って高い完成度に到達するむずかしさはよくわかるだろう。

同じように、半ば野蛮な国からだんだんと文明国へ進歩してきた国は、法律もだんだんに定められてきて、そのために個別の犯罪や紛争の痛みの経験からその法律が強制されるようになってきている。そういう国では、コミュニティとして発足したときから、賢い法律制定者の判断に強いたがっていたような国に比べて体制としての完成度は低いにちがいない。したがって真なる宗教のconstitution、つまり神さまから下された戒律は、その他あらゆるものとは比較にならないほど優れているはずだ。そして人間のことを語るにしても、スパルタがあれほど反映したのは個々の法が特によかったわけではなく(というのも、その多くはかなり変てこで、道徳的に反するようなものすらある)、それがすべて一人の個人によって起草されたために、同じ一つの目標に向かっていたということからくるのだと考える。

実際問題として、単に改築して街路をきれいに引き直したいというだけで街の建物を全部取り壊すようなことはしないのがふつうだ。確かに、ときどき個人が、自分の家を新築しようとして古い家を取り壊したりすることはあるし、建物が古くなってきたり、基礎にガタが出てきたりして、取り壊さざるを得ないことだってあるけれど。こういうのを例として考えると、たかが一個人が国家を根本的に変えてしまって改革しようとしたり、それを修正しようとしてひっくり返してしまうというのは、とても傲慢不遜だな、と確信した。そして同じことが、科学の総体を改革しようという試みについても言えるだろうと思った。あるいは、学校で確立された教育の秩序をひっくり返すような試みについても。

でもわたしがその時点までに抱くようになった考え方についていえば、わたしはそれを一気に捨て去ってしまって、後になってやっぱりもとのほうがよかったとか、あるいはきちんと理性の検討を経て、やはりあれは正しかったと認められるような立場に身を置くのがいちばんいいだろうと思った。若い頃に学んで信用していた原理原則に基づいて、古い基礎の上に積み上げていくより、こういうやりかたをしたほうが、人生を統御するにあたってもずっと成功しやすいだろうとわたしは確信していた。というのも、確かにこのやり方にはいろいろとむずかしいところがあるのは気がついたけれど、別にそれはどうしようもない問題ではないし、公共的な政治がらみの改革にちょっとでも結びつくと思われることもあり得ないからだ。

大きな物体をひっくり返したら、それを立ち上げ直すのはとてもむずかしい。あるいは一度でも激しく揺らいでしまったら、立たせておくのはむずかしくなるし、そういうものが倒れるといつも大惨事になる。それならば、国の基盤に不完全な部分があるなら(そしてそういう部分がたくさんあることは、その基盤の多様性だけを見ても充分に納得がいくだろう)、慣習がまちがいなく、その欠陥をはっきりと補うようになっているだろうし、賢明さだけではきちんと対応しきれない部分についても、完全に回避するか、あるいは知らず知らずのうちに矯正を加えているはずだ。だから結果として、欠陥はいつも、それを取り除くために必要な変化よりはずっと耐えやすいものとなっている。これは、山中をくねくねと通っている街道が、何度も通行されるためにずっとなめらかで平坦になっていて、だからもっとまっすぐな通路を求めて岩のてっぺんにのぼったり、谷底まで下りていったりするよりも、その街道にしたがうほうがずっといいのと同じことだ。そういうわけで、政治的な事柄の管理に関わるよう生まれついたわけでもなければ、運命でそういう立場になったわけでもないのに、改革ばかりを主張しているような、落ち着かなくてせわしない出しゃばりどもたちには、ちっとも賛成できないのだ。」「過去の信念すべてを捨て去ってしまうというやり方は、だれでもやっていいというものではない。人類の大半は、二種類に分かれるけれど、そのいずれにとっても、これはふさわしい手口とはいえない。一種類目は、自分自身の力量について、しかるべき以上に自信を抱いている人たちであり、この人たちは判断がせっかちで、秩序だった周到な思考に必要な落ち着きが足りない。この種の人たちが、自分の慣れ親しんだ意見に疑念を抱けるようになってしまい、いままでの道をやめてしまったとしても、もっと短い道筋となるような脇道をきちんとたどることができずに、迷子になって、一生さまよい続けることになってしまう。二種類目の人は、真実と誤りを見分ける力量が自分より高く、教えを請うべき人々が存在することを認めるだけの理性と慎みを持ち合わせている。この人たちは、そういう力量の高い人々の意見に従っているべきで、自分の理性のほうがもっと正しいなどと信用するべきではない。

第三部 迷子の時の三原則「原則への回帰」「言動より行動」「選んだら迷うな」

住んでいる家を建て直す場合、それを取り壊して、建材や建築業者を手配したり、あるいは自分が事前に慎重にひいた設計図にしたがって自分でその作業を行ったりするだけでは、事前準備としては不十分だ。工事中にも自分たちが不自由なく暮らすために、別の家を手配しなくてはならない。同じように、理性から考えて判断を停止すべき状態でも、優柔不断にならずにすむように、さらには最大限の幸福な暮らしをあきらめなくてすむように、わたしは一時的な道徳コードを作っておいた。これは三,四つの原則からできているので、是非ともみなさんに紹介しておこう。

最初の原則は、自分の国の法律や習慣を守り、神の恩寵によってわたしが子供時代以来教わってきた信仰をしっかりと遵守することだ。そしてそれ以外の点に関する行動はすべて、いちばん穏健な見解にしたがい、なるべく極論からは遠ざかること。その判断基準としては、自分がその中で暮らしている人々の中で最も判断力のある人たちの、一般的な合意を受けて採用されている行動を使う。というのも、どの頃から自分の見解を全部否定して、それをすべて検討しなおそうとはしていたけれど、でもその間のやり方としては、いちばん判断力のある人たちの見解にしたがっておくのがいちばんいいと思ったからだ。そして、ペルシャやシナにだってわれわれと同じくらい判断力のある人たちはいるだろうけれど、便宜上からいっても、自分がいっしょに生活しなくてはならない人たちの意見に問題なくおさまるような形で、実践を規定すべきだろうと考えたわけだ。

そして、そういう人たちの本当の見解を見極めるには、たぶんかれらが言っていることよりは、その行動のほうに注意すべきだろうと考えた。というのも、われわれの行いは堕落していて、信じるところを正直に述べようとする人は少ないし、さらには多くの人が、自分が本当は何を信じているのかわかっていないからだ。われわれが何かを信じるという心の働きは、自分が何かを信じていることを知るという心の働きとは別物なので、後者なしに前者が存在することだってよくあるのだ。

さらに、同じくらいの評判を持つ各種の意見のなかで、わたしはいつも、いちばん穏健なものを選んだ。そういうもののほうが絶対に実践しやすいからだ。さらに、もしまちがえたときにも、極端なものを選んで実は別の道を選ぶべきだったということになったときに比べれば、真実からの乖離具合が少なくてすむのでいちばんいいだろう(というのも、過剰はすべて悪しきものなのがふつうだからだ)。

そして、あらゆる契約の中で、われわれの自由が多少でも制限されるものはすべて極論に含めるようにした。別に、意志薄弱な人たちの不安定さから社会を守るための法律に反対というわけではない。それが達成しようとしているものが何らかのメリットを持っていたり、誓約や契約によって関係者をしばるようになっていたり、あるいは商業の安全性を守るために、狙いが不公平なく適用されるような、各種行為を禁じる法律なども別に反対ではない。

でもこの世のもので、絶対不変なほど優れたものはわたしには見あたらなかったし、それに特に自分自身については、だんだん判断力を完成させていきたいと思っていて、それが退行するのは我慢ならなかった。何かをある時点で認めても、それが将来正しくなくなったり、あるいはわたしがそれを正しいと思わなくなる場合があるだろう。そんな場合でも、それをずっと正しいものと認め続けなくてはならないような形で自分を縛るのは、大きな罪であると考えざるをえない。

わたしの二つ目の原則は、できるだけ自分の行動について断固として決意をもって臨み、怪しげな意見であっても、いったんそれを採用したならばいい加減なことはせず、それがもっと確実な見解だった場合と同じようにふるまうということだった、これと似ている話というと、森の中で道に迷った旅人は、あちこちふらふらしたりすべきではなく、まして一ヶ所にじっとしているべきではなく、同じ方向に向かってできるだけまっすぐに進み続けて、ちょっとやそっとでは方向を変えたりしないことだ。その最初の方向を決めたのがただの偶然だったとしても。なぜならこうすれば、希望の地点にたどりつくことはないにしても、いずれどこか、森のど真ん中よりはましなところに出るはずだからだ。同じように、行動の途中では遅れが許されないことがしょちゅうあるので、何が真実かを見極めるだけの力がない場合には、いちばんありそうな方向にしたがって行動すべきなのはおそらく確実であろう。

そしてこっちの意見があっちの意見より可能性がありそうだと思わないにしても、どちらかは選ぶべきなのであり、そして選んだら、実践に関わる範囲内ではそれがもはや疑わしいものであるようにはふるまわず、はっきりと真実で確実なものとして行動しなくてはならない。というのも、われわれが選択を行ったときの理性ある判断は、それ自体がこうした性質を持っているからだ。われわれの弱々しくて自信のない精神は、はっきり決然とした選択方針がないときには後悔や逡巡にさいなまれて、おかげである日には、最高の行動はこっちだと思って行動したものの、その次の日は、やっぱりその反対だと思って行動したりしてしまう。この原則を採用したことで、そういうことが以後まったくなくなったのである。

第三の原則は、常に運命をねじふせようとするより自分自身を抑えるようにして、世界の秩序を変えるより自分の欲望を変えるようにしよう、そして一般論として、われわれの持つ力の中には、自分の思考力以外には絶対的なものはなにもないのだ、という説得に自分を慣らそうということだった。つまりはなにか自分の外のことに対して人事をつくしても、それが失敗するかは絶対にわからないのだ。そしてこの一つの原理によって、将来、自分の手に入らないものを望むようなことを防ぐのに十分に思えた。こうしれば、不満を抱かずにいられる。

というのも、われわれの意志は当然のこととして、理解力にもとづき、何らかの形で入手可能だと思えるものだけを望むから、もし自分の外のものがすべて自分の力の及ばないものだと考えるなら、生まれながらに持っていてしかるべきだと思えるそういう外部のものが、こちらの落ち度ではない原因で奪われたときにも、残念がったりしないのは明らかだろう。それは、シナやメキシコ王国を所有していないからといってわれわれが残念がったりしないのと同じことだ。あるいは、ダイヤのように衰えない身体を望んだり、あるいは空飛ぶ鳥の翼を望んだりしないように、病気のときにも健康を望んだり、幽閉時にも自由を望んだりしないのも、あたりまえのことだろう。

でも、この方法であらゆる対象を見るように精神を慣らすには、非常に長期の規律と、頻繁な瞑想の繰り返しが必要だったことは告白しておこう。そして、かつての哲学者たちが、運命の影響を逃れて、困窮と貧困の中でも神々すらうらやむような幸福を楽しめた秘密は、主にここにあるのだろうと思う。つまり自然によって自分の力に与えられた限界のことばかりをしつこく考えることで、かれらは自由になるのが、自分の思考だけであることを完全に納得しきったのだ。だからこの結論だけで、他の物体への欲望をまるでもてあそばずにすむようになったのだろう。そして思考するうちに、それが絶対的な影響を獲得したので、他のどんな人よりも自分がもっと裕福で、強力で、自由で幸福だと自負するだけの根拠を得るにいたったのだろう。他の人々は、天与や運命がどんなに微笑もうと、この哲学を持たなければ、自分たちの欲望すべてを実現するなんてとうてい不可能だからだ。

(中略)

(ここに列記した)原則三つは自己啓発作業を続けるためだけにつくったものだ。神はわれわれみんなに、真実とまちがいとを区別する理性を多少は与えたもうたから、自分が他人の意見で満足すべきだとは一瞬も思わなかった。ただし、いずれ自分がその任に完全にふさわしくなった暁に自分の判断力を使ってそれを検討しよう、それまで先送りにしようと決意した場合は別だが。さらには、もっと正確なものが存在した場合に、それを達成するというメリットを犠牲にしなくてはならないのなら、良心のとがめを感じずにそういう意見に基づいて先に進むことはできなかっただろう。そして結局、自分に可能な限りのあらゆる知識獲得が確実にできると思った道をたどっていなければ、そして同時に、自分に可能な限りの知識を確実に得られると思った道をたどっていなければ、そして自分が獲得できるはずの真によきものを、最大限に実現できると思った道をたどっていなければ、自分の欲望をおさえたり、満足した状態でいられたりもしなかっただろう。われわれが理解したうえでいいとか悪いとか判断した場合にだけ、何かを求めたり拒絶したりするようにすれば、正しい行動のために必要なものは正しい判断力だけだ。つまり最高の行動にはいちばん正しい判断が必要となる。最高の行動というのは、あらゆる美徳や、われわれの手に届く真に価値あるその他のものすべてを獲得することだ。そして確実にそれが獲得できるということになれば、どうしたってわれわれは満足できるだろう。

 第四部より それでも「我思う、故に我あり」

いまのべた場所で行った最初の思索について、ここで述べてしまうのが適切かどうか、実は自信がない。というのも、これはあまりに形而上学的で、えらく風変わりなので、だれもが認めるようなものではないかもしれないからだ。でも、自分が敷いた基礎というのが充分にしっかりしているかを決めるためには、それを否定せざるを得ないような立場に自分を置かなくてはならない。さっき述べたように、実践との関連でいえば、非常に不確実なものとして退けるような見解であっても、それが疑問の余地なく、確固たるものであるかのようにふるまうことが必要となることもある。でもわたしは、真理の探究だけに関心を向けようと思っていたので、その正反対の手続きが必要となるな、と思った。つまり、ちょっとでも疑問の余地のあるものはすべて、まったくの偽であるとして棄却すべきだということだ。そうすることで、わたしの信念の中に、完全に疑問の余地のないものが残るかどうかを確かめたかった。

同じように、感覚もわれわれをだますときがあるから、こうして感じられるものすべてが、何一つ存在しないと仮定してみようと思った。そして、幾何学の一番単純な問題でも理由づをまちがえて、まちがった論理に陥る人もいるから、わたし自身だってほかのだれにも負けず劣らずまちがえやすいのだと確信して、これまで証明につかってきた理由づけをすべて、まちがいとして棄却した。

そして最後に、われわれが起きているときに経験される、この思考(表象)とまったく同じものが、眠っているときにも体験できるのに、実はその時に体験されるものは何一つ真ではない、ということも考えた。だから、起きているときにわたしの精神に入ってきた、すべての対象(表象)ですら、自分の夢の中の幻影のように、本物ではないのだと考えてみた。

しかしこのときすぐに見て取ったのだが、すべてが非現実だと考えたくても、そのように考えているこのわたしは、なんらかの形で存在しなくてならない。そしてこの真理、われ思う、故にわれあり(COGITO ERGO SUM)がまったく確実で、確固たる証拠を持ち、どんなにとんでもないものであれ、疑問の余地はないことがわかった。だから、疑念なしにこれを、わたしの求める哲学の第一原理として受け入れようと結論づけたわけだ。

次に、自分がなんであるかを素直に検討すると、自分にはからだがないと考えることもできるし、自分が存在できるような世界も場所もまったくないと考えたっていいことに気がついた。でも、だからといって自分自身が存在していないとは想定できない。それどころか逆に、ほかのことの真実性を疑おうとわたしが考えたというまさにそのことから、わたしが存在するということはきわめてはっきりと疑いなく導かれるのだった。一方で、わたしが考えるのをやめただけで、わたしが想像してきたものがすべて現実に存在するとしても、わたしは自分が存在すると信じるべき理由を持たなくなる。だからわたしは、自分というのは、その本質や性質が考えるということだけからできあがった存在なのであり、それが存在するにあたっては、場所や物質的なものには一切依存する必要がないのだ、と結論した。だから「わたし」、つまりわたしがわたしであるところの精神は、肉体からは完全に独立したもので、肉体よりもずっと簡単に知り得るもので、肉体が存在しなかったとしても、いまとまったく同じように存在し続けるということになる。

19世紀スイスの文化史学者ブルクハルトは、こうした思考様式の起源をイタリア・ルネサンス時代にまで遡るフランス人の理神崇拝(deism)に見て取ります。

ochimusha01.hatenablog.com

ラブレー「ガルガンチュア」に見られる表現

「彼らの規則は、自分の欲する事をせよ、という一句に他ならない。生まれが良く、よい教育を受け、申し分のない仲間と交わっている自由な人々は、生まれながらにして、常に彼らに徳を行わせ、悪を避けさせる様な本能と刺激を備えている。それを彼らは名誉と呼んだ」。

*ブルクハルトは「これぞルネサンスが色と形を失ったらどう見えるか」であるとし「それは18世紀後半に生気を吹き込み、フランス革命への道を開いた人間本性の善に対する信念となった」と畳み掛ける。

ちなみにデカルトが「検証方法」として認定したのは概ね数学や幾何学天文学といった自然科学だけだったのですが、後世にはアリストテレスの実践智の概念を利用し、こんな拡張も行わてていたりします。

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イタリアの歴史哲学者ジャンバッティスタ・ヴィーコ(Giambattista Vico, 1668年〜1744年)の主著「新しい学(Principi di scienza nuova、1725年)」より

精神がある対象を理解する為には、その概念を想像し吟味する受け皿があらかじめ出来上がってなければならない。ところで数学が人間の生み出した仮説を無から積み上げてきた結果である様に、歴史も人間の「行為事実」を無から積み上げてきた結果である。だから、どちらも認識対象としては対等といえる。

まさしくフランス文学研究家でもあった坂口安吾の「肉体主義=肉体に思考させよ。肉体にとっては行動が言葉。それだけが新たな知性と倫理を紡ぎ出す」テーゼそのもの。

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人体解剖学に端を発する「自らの観察結果のみを徹底して信じ抜く」科学的実証主義の延長戦上において歴史を掌握しようとすると、どうしてもそうなってしまう?

さて、私たちはいったいどちらに向けて漂流しているのでしょうか…