諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「下からの表現規制」略史

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近世から続く「上からの表現規制」の伝統は、それこそ「罰がなければ逃げる楽しみもない?」と言いたくなるほど文化史に重要な影響を与えてきました。

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 それに対して「下からの表現規制」の歴史は明治維新から始まるとされています。「桜姫東文章(初演1817年)」「東海道四谷怪談(初演1825年)」などで有名な四代目鶴屋南北(1755年〜1829年)らが加速させたエログロ路線への反感から(登場人物の貞淑さで定評のあった)曲亭馬琴滝沢馬琴)「南総里見八犬伝(1814年〜1842年)」が人気を集めたのをその前史に数える向きもありますが、江戸幕藩体制下の身分制においては所詮、領民側に「自らの言論を形成する権利」なんて存在しませんでした。その意味では士族反乱の敗残兵が全国の富農・富商に合流して起こした自由民権運動(1874年〜1890年)こそが源流とも。実際、多くの新聞社がこの頃に設立されているのです。

「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」が焚書に!?: ホンヤクモンスキーの憂鬱

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【Wikipedia】悪書追放運動

明治中期の新聞には「近年の子供は、夏目漱石などの小説ばかりを読んで漢文を読まない。これは子供の危機である。」という記事が載り、これによって悪書である小説へのバッシングが発生したりしていた。

また明治43年(1910年)5月に大逆事件の検挙が始まると、9月より東京朝日新聞が連載「危険なる洋書」を開始して森鷗外夫妻らの住所を掲載し「全国の壮士諸君、売国奴を誅殺するのは今である」と扇動している。

そもそも「小説」という用語の起源は「大説(政治)を論じないつまらない文章」という蔑称とも。そもそも「口語文」自体が論外で「漢文」こそが大人物の執筆すべき文章だったのですね。それが熟成を重ねるうちにやがて口語文が当たり前となり小説の中で政治を論じるなんて野暮」なんて空気まで出来上がってきます。北原白秋詩集とかに目を通すと、このプロセスがいかに急激に進行したか分かって目眩さえ覚えます。

そして「萬朝報(1892年〜1940年)」を創刊した黒岩涙香の翻案小説やモーリス・ルブランの翻訳を経て日本に推理小説が上陸。ここで重要なのは「ロマン主義文学→怪奇小説幻想小説推理小説&捕物帳」と連なる系譜の複雑怪奇な足跡。

  • 森鴎外は「エドガー・ポーを読む人は更にホフマンに遡らざるべからず」と述べ、E.T.A.ホフマンの「スキュデリ嬢(Das Fräulein von Scuderi、1819年)」を「玉を懐いて罪あり」の題名で訳出。
    *1970年代にリヴァイバルを果たした江戸川乱歩夢野久作の作品は概ねこの作品を特徴付ける偏執狂的要素の影響を色濃く継承している。

    http://asian-port.com/wp-content/uploads/2015/05/%E9%8F%A1%E5%9C%B0%E7%8D%84%EF%BC%881926%EF%BC%89%E3%82%88%E3%82%8A%E3%80%81%E7%8B%82%E6%B0%97%E3%81%AE%E5%A4%A7%E3%81%8B%E3%81%8C%E3%81%BF%E5%9C%B0%E7%8D%84.jpg

    *文明開化の時代にはある種の科学万能主義(Scientism)が横行してあらゆる怪奇現象が否定される一方で、それを目撃者側の神経症や偏執狂のせいにするのが流行した。例えば三遊亭圓朝21歳当時、つまり安政6年(1859年)の作品といわれる「真景累ヶ淵」も、当初は「累ヶ淵後日(ごにち)の怪談」が演題で、道具仕立ての大掛かりな噺だったらしい。しかし明治5年(1872年)以降、素噺に転向した圓朝は「文明開化に怪談は通用しない」なる助言を入れて演題を「真景累ヶ淵」と改める。「真景」すなわち「神経」、幽霊というものはこの世にあるかないか分からないけれども、あると思うのは「神経」の為せるわざである、という立場で物語を再構成した結果、これが新奇を求める人々に大いに受けた。エドガー・アラン・ポーやホフマンの怪奇小説幻想小説が当時の日本人に受けたのもまた、当時のこうしたトレンドのせいだった。
    三遊亭圓朝 鈴木行三校訂 真景累ヶ淵
    エルンスト・テオドーア・アマーデウス・ホフマン Ernst Theodor Amadeus Hoffmann 岡本綺堂訳 世界怪談名作集 廃宅

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  • E.T.A.ホフマンの「荒んだ家(Das öde Haus、1817年)」を含む「世界怪談名作集(1929年)」編纂者としても名を残した岡本綺堂コナン・ドイル卿「名探偵ホームズ(Sherlock Holmes)シリーズ(1886年〜1927年)」からの翻案作品を「半七捕物帳(1917年〜1937年)」に収録する場合も「ブナ屋敷(The Adventure of the Copper Beeches、1892年)」の様な怪奇色の強い作品を選ぶ事が多かったし、また日本の怪談に題材を求めるケースが多かった(怪奇現象としか見えない事件のトリックを見破ったりする)。
    岡本綺堂譯 - 世界怪談名作集
    *ただし「世界怪談名作集」は出版当時は不人気。また「半七捕物帳」も相応に広まったのは講談社の大衆向け雑誌「講談倶楽部」に掲載される様になった昭和9年(1934年)から昭和12年(1937年)にかけてだった。しかも文藝春秋の後追い企画だった野村胡堂銭形平次捕物控(1931年〜1957年)」が、怪奇要素を含んでない分だけ大衆に圧倒的好評だったとされている。実際、米国人ジャーナリストのエドガースノーが残した「アジアの戦争(The Battle for Asia、1941年)」によれば上海塹壕線を囲む日本軍兵士は誰もがそれを携帯していたという。

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  • その一方で少年少女向け月刊誌は戦前から名探偵ホームズ作品の翻案を掲載してきた。そこで選ばれた作品はやはり「ブナ屋敷(The Adventure of the Copper Beeches、1892年)」「まだらの紐(The Adventure of the Speckled Band、1892年)」「マスグレーヴ家の儀式(The Musgrave Ritual、1893年)」「バスカヴィル家の犬(The hound of the Baskervilles、1901年)」「六つのナポレオン(The Adventure of the Six Napoleons、1904年)」といった元々怪奇色が強い作品か、後付けで怪奇色を付加された作品であった。
    *この状況を踏み台として光文社の月刊少年誌「少年」への江戸川乱歩「少年探偵団シリーズ」が連載され(講談社発行「少年倶楽部」連載分(1936年〜1939年)の続編という形で1949年〜1962年掲載)、貸本短編誌『虹』29号発表の「口が耳までさける時(1961年)」において「恐怖マンガ」という言葉を作り、1966年に講談社の少女漫画誌『週刊少女フレンド』に連載した「ねこ目の少女」「へび少女」等がヒットして「恐怖マンガ家」楳図かずおが定評を獲得するのである。

    http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-ee-e0/sleepybear426/folder/861343/38/14338538/img_1?1280618254

ただしモダニズム文学を好んだ都心部のインテリ青年達はこうした「変格探偵小説」や「通俗小説」の成功を一切認めませんでした。その代り「新青年1920年〜1950年)」「探偵文学(1935年創刊。1937年「シュピオ」に誌名変更)」を活躍の舞台とした小栗虫太郎(1901年〜1946年)や木々高太郎(1897年〜1969年)や蘭郁二郎(1913年〜1944年)や海野十三(1897年〜1949年)」の「芸術性の高い本格探偵小説」のみを賛美し、江戸川乱歩野村胡堂を俗物として軽蔑し続けたのです。
*ただし当時礼賛された「芸術性の高い本格探偵小説」は後世全て忘れ去られ、小栗虫太郎は奇書「黒死館殺人事件(1934年)」や秘境探検小説「人外魔境シリーズ(1939年〜1941年)」の作者、海野十三は「日本SF小説の父」、「推理小説という用語の考案者」木々高太郎に至っては「頭脳パンの発明者」あるいはフランス文学坂口安吾と並ぶ「社会派ミステリー創始者」松本 清張(1909年〜1992年)の引き立て役として歴史に名前を残すことになる。

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江戸川乱歩×野村胡堂対談「 探偵小説このごろ(1950年)」 

野村 どうも日本は探偵小説や捕物帖を目の仇かたきにするね。小泉信三氏から聞いた話だが…イギリスのある有名な首相だよ。政局の動きが思わしくなくて、憂鬱になっていた。ある日とても愉快そうにニコニコしているので、夫人が政局がうまいぐあいに打開されたか、と喜び「どうなさったの? 予算が議会を通ったのでございますか」と聞いたら「いや、嬉しいじゃないか、コナン・ドイルがまた新しい小説を書きはじめたそうだ」といったという話。

江戸川 吉田首相も探偵小説の愛読者なんだそうじゃないですか。

野村 牧野伸顕氏も実に好きだったらしい。ある外交官が外国へいく前に、牧野さんを訪ねて「なにかご注文は?」と聞いたら「面白い探偵小説を二、三冊送ってくれ」といったそうだ。

江戸川 探偵小説は、外国では老人が読んでいる。日本では若いものが読む。まるで反対だ。ぼくは書きはじめてから二十五年になるが、このごろになって、代議士になっているくらいの年輩の人に、「読んでいますよ」といわれるようになった。嬉しくなるね。

野村 吉田首相がわたしの捕物帖を読んでいるというんで、新聞やラジオでずいぶん冷かされて、困ったよ。しかし、おかげで、だいぶ宣伝になってね。そのうちにお礼にいかないといかんな。

江戸川 この前アメリカへいった金森徳次郎氏に会った。アメリカで国会の図書館へ案内された。たいしたライブラリーでね。アメリカの議員さんは、ずいぶん勉強するでしょうねと彼がきくと、「なあに、読んでいるのはフィクション(小説)かデテクティヴ(探偵もの)ですよ」といっていたそうだ。

探偵小説は犯罪の予防薬である

野村 わたしはね、こう思うんだ。探偵小説は盲目的本能の安全弁だと。探偵小説を読んでいる人は兇悪な犯罪はやらない。先生に毒入りウイスキーを贈って殺した東大小石川分院の蓮見。あんな犯罪は一見探偵小説をまねたようで、しかし決してあの犯人は探偵小説を読んでいないね。探偵小説は想像力を養うのに役立つよ。想像力をもっていないということは恐ろしいことで、ああすれば、こうなるということを知らない。だからどんな兇悪な犯罪でもやれる。少年犯罪の多いのも、少年たちが精神的失緊状態になっているためで、オシッコをたれ流すのとなんら違いがない。本能のおもむくままにやってしまうという状態なんだ。想像力を盛んにすれば行為の結果について考えるから犯罪予防になると思うね。


江戸川 むかしはちょっとした手のこんだ犯罪があると、犯人は探偵小説の愛読者にしてしまったりしたものだね。

そういえば横溝正史「本陣殺人事件(1948年)」 にも「本棚を探偵小説で一杯にしている青年」がただそれだけの理由で容疑者扱いされる場面がありました。

www.youtube.com

そして漫画が「子供の精神を汚染する絶対悪」として目の敵にされた「悪書追放運動」があったのもこの時代。

虫ん坊 2010年05月号::TezukaOsamu.net(JP)

戦争が終わったばかりの昭和20年代前半、東京の大手出版社が紙がなくて思うように本が出せないでいる中、大阪の小さな出版社や問屋が、質の悪い紙を使った赤本をバンバン出してそれが売れに売れていた。そして戦後のマンガ批判も早くもこのころから始まっている。

今回調べた中でもっとも古かったのは、『週刊朝日』昭和24年(1949年)2月6日号に掲載された「“浪華赤本”裏から表から」と題された、出版関係者による座談会記事だった。

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この座談会の中である小売店主が、赤本マンガには文学のような哲学がない、と語り、手塚の『ロスト・ワールド』(昭和23年)を引き合いに出してこう続ける。「「ロスト・ワールド」にしても、前世紀の話をして文化を織り込もうと思えば織り込める。そういうことを考えずに何でもかでも売らんかな主義でいいかげんなものをつくった。刺激を強くして一部でも多く売ろうという漫画が多かったために漫画はいかんという声が出て来たんです」。出版社の人の意見はさらに辛口だ。「長編漫画も作家が筋を書いて、その筋書によって画家が描くのが本当だと思うのですが、全然小説などに縁のない画家が、出たらめな筋をつけて描いたのが悪かったんだ」。そして最後は「子供に与える美しさがない」とニベもなく斬り捨てる。いや手厳しい(笑)。
*そもそも「原作者と作画者が一緒なのが漫画の下劣なところ」という当時の感覚が垣間見えて興味深い。


しかし手塚マンガの本当の魅力は、実はそんな理性的な部分だけにあるわけではない。その真骨頂は、あえて火に油を注ぐかのように、騒ぎのド真ん中へ自分から飛び込んでいく、そんな熱すぎる情熱にあるのだ!!

先の座談会が載った『週刊朝日』の発売からわずか2ヵ月後の昭和24年4月、手塚は『拳銃天使』を発表する(※奥付記載の発行日であり実際の店頭発売日とは誤差があります)。この作品で手塚は、子どもマンガ初というキスシーンを描いて、赤本マンガを批判していた人びとをさらにヒステリーにおとしいれてしまった。

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これを読んだ当時の大人たちの反応を、手塚自身の言葉から引用しよう。

「京都のPTAの会長のような人から手紙で、『こんなハレンチな漫画を描く手塚という男は、子供に害毒を流す敵である』という、激しい抗議を受けた。又、共産党員と称する読者から『売国奴、すぐ処罰すべし』という脅迫文も受け取った」(講談社版全集『拳銃天使』あとがきより)。

実際のページをごらんいただくと、そんなに大騒ぎするほどの場面じゃないと思われる方も多いだろう。だけど当時はこれがオトナが卒倒するほどの衝撃シーンだったのである。

何しろ映画では、この翌年に『また逢う日まで』というメロドラマ映画が公開されて、主演の岡田英次と久我美子がキスをするというだけで大変な話題になった。しかもそれもふたりは直接キスをするわけじゃなくて、窓ガラス越しに間接キスをするだけなのだ。いやはや、わずか数十年で日本も変わったものです。

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と、それはともかく、手塚はこうしたショック療法なんかも使いながら、大人たちのマンガアレルギーを少しずつ改善していったわけだけど、マンガはそれを超える勢いで爆発的に増えてしまった。そのため、マンガ批判の声はおさまるどころかますます高まっていったのだった。

【Wikipedia】悪書追放運動

戦後日本では子供文化の中心として漫画が普及するようになる。そんななか1955年、各地のPTAや「日本子どもを守る会」「母の会連合会」が悪書追放運動を展開した。同運動は漫画を校庭で焚書するなどの過激さを増した。さらに図書選定制度や青少年保護育成法案を提唱、実質的な検閲を要求するまでにいたる。出版社側は連名でこれに反発する。この運動は、その後も止むことなく、1950年代の後半まで続いた。

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1955年の悪書追放運動の直接的な所産として、北海道(1955年)、福岡県(1956年)、大阪府(1956年)に青少年保護育成条例が制定され、有害図書が規制された(なお、北海道に先行しては、岡山県(1950年)、和歌山県(1951年)、香川県(1952年)、神奈川県(1955年)に青少年保護育成条例が制定されていた)。

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1955年2月27日投票 第27回衆議院選挙、1956年7月8日投票 第4回参議院選挙の選挙戦では、一部の女性らが小学校の校庭にマンガ本を積み上げ、手塚治虫らの漫画本に火をつけて燃やすパフォーマンスを展開したとされている。
*本当に手塚治虫の漫画が燃やされたかどうかについては諸説ある。

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1959年、佐藤まさあきの貸本劇画が主人公がアウトローであり暴力を肯定的に描くことを理由に山梨県の貸本組合で不買運動の対象に指定される。この動きは群馬県、埼玉県にも波及し批判をおそれた貸本漫画出版社が同調、佐藤は一時期、漫画家としての仕事を完全に失う。漫画家廃業を考えた佐藤であったが、貸本漫画出版に新規参入してきた高橋書店がそれらの事情を知らずに原稿執筆を依頼、九死に一生を得る。

2006年11月5日に放送されたNHKスペシャル『ラストメッセージ第1集「こどもたちへ 漫画家・手塚治虫」』によると、焚書の対象となった中には、手塚治虫の代表作である『鉄腕アトム』までもが含まれていた。手塚が受けた批判の中には「『赤胴鈴之助』は親孝行な主人公を描いているから悪書ではない。」というものがあったが、手塚が回顧する処によると「その様に主張した主婦は、実際には『赤胴鈴之助』を全く読んだり見たりしておらず「ラジオでその様に聞いた」というだけ」の事であった。また、高速列車や高速道路、ロボットなどの高度な発展の描写を「できるはずがない」「荒唐無稽だ」と批判した上、手塚のことを「デタラメを描く、子どもたちの敵 」とまで称した者もいたという。この様な過激な焚書運動は、後に「漫画の神様」と称されるに至った手塚さえも大きく苦しめる事になった。

1963年、出版社が共同で出版倫理協議会をたて、自主規制を行う事に決めた。

PTAよ、ゲバルトを!
*おそらく2006年11月5日に放送されたNHKスペシャル『ラストメッセージ第1集「こどもたちへ 漫画家・手塚治虫」』の元ネタ

PTAよ、ゲバルトを!

S社の編集長のN氏は、早大文学部出身のサルトル信者で、骨の太い編集方針を打ちだして誰からも尊敬されていた。このN氏が、あるとき、ぼくに、手塚ワンマン劇場みたいなものを月刊誌の別冊に毎月つけたらどうかと思うが、描く気はあるかと、訊いてきた。もちろん、ぼくは、ファイトを燃やし、「ライオンブックス」と銘打って読み切り漫画を毎月三十ページ前後ずつ描いた。ここぞ腕の見せどころだったが、同時にぼくの悪質な欠点を総花的にぶちまける結果となった。つまり、締め切りを極端に遅らせるは、描いている途中で行方不明になるは、映画へは黙って行くは、代筆者に任せるは----。

その結果、一年足らずでこの試みは中止になった。まず、なによりも読者の反響があまりよくないことであった。そのころ「赤胴鈴之助」がラジオ放送と共に、グッと人気を上げてきたときでもあり、五味康祐氏、柴田錬三郎氏の小説などと共に“剣豪もの”がアピールしだした時代でもあったので、まだろくに読者もいないSFものなどを毎月描いたのでは、一般の子供は敬遠して飛びつかないのも当然と言えよう。「緑の猫」「白骨船長」「狂った国境」「複眼魔人」「くろい宇宙線」といったSF短編は、ほとんど話題にもならず忘れられていった。

一年ほどたったある日、N氏がぼくに、
「手塚さん、売れてますよ、あなたの『ライオンブックス』が!」
と言った。いまごろなにごとだと、けげんな気持ちでよく訊いてみると、
「盛り場の大道で、ゾッキ本を売ってるんです。うちの返本もゾッキに出ていて、『ライオンブックス』もあったんだ。そいつが、またたく間に売れちまった」
どうせ、そうでしょう、ゾッキ本で売れりゃ結構でさ、とぼくは内心フテクサレた。

だが、このシリーズは、七、八年たってから再評価され始め、ことにSF関係者には、このシリーズによってSFに目覚めたという人が多いと知ったので、ぼくはやっと面目をとりもどした。

ところで、このシリーズのうちの「複眼魔人」という物語の中で、たまたま何の気もなく男装の麗人を登場させ、彼女が個室に閉じこもって着替えるシーンを描いた。さーっとスラックスを脱ぐ、もちろん絵は臑から下である。

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またもやN氏が飛んできた。
「弱っちまった。Iデパートで、うちの本が不売の宣告を受けちまいましたよ」
「売らないんですか? どうして?」
「それが、言いにくいんだが、どうも----手塚さんの例の絵が問題になりましてね、ひっかかったらしい」
Iデパートの書籍売場には、評論家や児童文学者でつくられた良書推薦委員会のようなものがあり、ここで「悪書」の烙印を押されると、たとえ有名出版社のものでも、槍玉に上がるのだった。
「そんなばかな!」
と、抗議したが、はじまらない。とうとう、Iデパートには、その本は出なかった。

“悪書追放”は、主に青年向きの三流雑誌が対象だったが、やがて矛先が子供漫画に向けられてきた。それがどうも、さっぱり要領を得ないつるし上げであった。たまたま、アメリカのジャーナリスト、A・E・カーン氏が「死のゲーム」という本を出し、日本にも紹介された。それによると、
「漫画の影響は冷たい戦争の必要によく合致している。なぜならば、何百万というアメリカの子供たちを、暴力・蛮行・突然死という概念に慣らしているからである」
 と言うのだが、それは、たしかに同意できるとしても、PTAや教育者の子供漫画のいびり方は、まるで重箱の隅をせせるようなやり方であった。
「一ページの中にピストルが十丁、自動小銃が二丁も出てきた」
「文字がほとんどない。あるのは、ヤーッ、キェーッ、ドカーンといった音や、悲鳴ばかりである。これでは、読書教育上まったく有害無益である」
「絵が低俗で、色も赤っぽい。こういうものを見せられた子どもは、芸術感覚が麻痺し、情操が荒廃する」
「うちの子供は、漫画の××××を読んでそのセリフを真似し、主人公になったつもりでへんな遊びをします」
「漫画は退廃的だ。追放せよ」
「漫画を子供からとりあげ、良い本を与えよう」
「漫画を出している出版社に抗議文を手渡し、漫画家に反省を求めよう」
 これらの論旨は、いちいちごもっともである。だが、なにか根本的な問題の検討が欠けている。それは、現象面のさまざまな批判より、「なぜ子供は漫画を見るのか?」という本質的な問題提起である。しかも、それは戦後、アメリカや資本主義国家だけでなく、ソ連などにも通用する傾向である。

「なぜ、子供は、それほど漫画が好きなのだろうか?」
ついに岡山のPTAでは、エロ雑誌などと共に漫画本が、火で焼かれた。魔女裁判のような判決であった。全国的に漫画批判運動が活発化し、不買同盟や自粛要求が呼びかわされ、とうとう、児漫長屋(注:手塚治虫が参加していた漫画創作集団)は総員が集会を開いて、対策を話し合った。だが、お互いに「良い漫画を描くよりしかたがない」とは話し合っても、その具体的方法がわからない。いったい、「良い漫画」とはなんなのか? それは、父兄や教育者にとって良い漫画なのか? それとも子供にとってなのか? もしくは、父兄や教育者に、それでは「真に良い漫画」を選ぶ権利や方法論があるのか?
*実際の事実関係については色々間違いもある事が指摘されている。

赤胴鈴之助」が良い漫画だ、と言う奥さんが多かった。理由を訊くと、「赤胴鈴之助」は親孝行だから、と言うのである。こんな理由で漫画をより分けられてはたまらない。第一、そういう奥さんに訊いてみると、「『赤胴鈴之助』以外はよく知りません」と答える。その「赤胴」すらも漫画は読まずに、ラジオで知ったのだという。
こういう人たちが、口角泡を飛ばして漫画がどうのこうのと言うのを、黙って聞かなくてはならないのはやりきれない。したがって、一ページにピストルが何丁という程度の資料しか出てこないのだ。

ときには、親や先生や評論家が口を揃えて、「これはまことに良い漫画だ。すすんで子供に読ませたい」という漫画が出た。だが、結果はさんざんだった。子供はそっぽを向き、返本の山で、出版社は二度とそんなものに手を出さなくなった。
この矛盾----そして、漫画はとりあげられても焼かれても、子供がどこからかひっぱり出してきては、こっそり隠れて読む現実----。

おとなと子供の隔壁を、これほど如実に証明したものはなかった。おとなは、あきらめから驚嘆のムードとなり、
「子供がこんなに漫画を好くのならしかたがない」
というあきらめから、
「勉強にさしつかえない程度、おやつとして見せるくらいなら、まあいいだろう」
という向きまで現われた。
これが昭和三十五、六年(1960年〜1961年)頃である。

このムードは、若手漫画家たちの絶好のチャンスだった。
どぎついアクションものや、少女恋愛もの、残酷ものが、誰はばかることなく堰を切ってどっと出回った。
だが、このころには、正面切って、おいそれと非難するおとなはいなかった。中に、どんなものかと読んでみる人がいる。するとなかなかにおもしろい。
「むすこの読んでいる漫画をとりあげて、ちょっと覗いたんだが、結構読ませるじゃあないか。おれたちが読んでもおもしろいよ、うん」
と喜んでしまって、子供漫画をおとなのほうがおもしろがるといったおかしな現象が起きた。

いまでは、おとなが子供漫画を「芸術論」風に分析したり、批評したりして喜んでいる向きもある。おとなが子供のおもちゃをとりあげたように。
それを思うと、昭和三十年当時は、まったく厳しかった。あわてふためいて、いわゆる「良心的漫画」を描こうとし、子供からそっぽを向かれて、消えてしまった仲間がずいぶんいる。

ぼくは、現在こそ、野放しの漫画が非難され、弾劾されるべき時期だと思うのだが、あの当時の鼻息の荒い連中はどこへ行ってしまったのだろうか? まるでコウモリのように、言を翻して漫画の効用を述べる人たちなど、子供を守る強い意志があるのだろうか? ぼくらは、なまじ子供漫画芸術論をふりかざして擁護してもらうより、いま一度、子供漫画のルネッサンスを期待して、徹底した批判を受けたい。

「世の父兄よ! 教育者よ! 漫画を糾弾せよ! いまこそ、ゲバルトの必要なときだ!」
*そして実際ゲバルトの手は永井豪ハレンチ学園(1968年〜1972年)」に振り下ろされる事になるのである。

 ところで1950年代アメリカでは、いわゆる「コミック・コード騒動」というのがあり、アメコミ産業が一時期壊滅状態に追いやられています。

コミックス・コード

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  • 米国でコミック・コード騒動を主導したのはPTA団体だったが、日本の悪書追放運動を主導したのもまたGHQが占領政策の一環として全国の学校に設置したPTA団体だった。
    *つまり「悪書追放運動」には「アメリカの真似は何でも正しい」という当時の日本人心理が働いていたという話も。ちなみに「沖縄基地反対運動」も60年代に始めたのは当時の米国人ヒッピー達で、日本における運動はその盲目的模倣から始まった側面があるとも。
    ochimusha01.hatenablog.com

  • スーパーマンキャプテン・アメリカを創造したのは東欧系ユダヤ人。コミック・コード騒動を主導したのも東欧系ユダヤ人。ただ前者が身一つで渡米した貧困階層出身だったのに対して、後者はインテリブルジョワ階層出身だった。ここから「ユダヤ人の敵は常にユダヤ人なのだ」「共にハプスブルグ帝国を見捨てた勢力が新天地アメリカで周囲を巻き込む階級闘争に突入した」なんて穿った見方も。
    *さらには「コミックコード紛争は大手出版社が市場独占の為にしかけた陰謀だったがパイ全体を大幅に減らしてしまった」説も。
    togetter.com

     

  • 一方、手塚治虫が「PTAにゲバルトを!!」を発表した1969年頃というのは、月刊少年誌に連載されていた「子供漫画」が貸本漫画や週刊少年漫画誌の「劇画」「怪奇物」「スポ根物」に敗退していく時代で、手塚治虫も一時的人気喪失を経験している。この文章はその立ち位置から「再編集」されている事を忘れてはいけない。
    *同時期米国でもハリウッド大手配給会社やDCやマーベルがヒットを生み出せず苦しんでいる最中、インディーズ・レーベルの躍進が続いていた。

日本文化史と米国文化史の思わぬ接点…