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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【年表】「情報統制の時代」を乗り切った映画産業

日本語の「良心」に当たる英語conscienceはラテン語におけるconscientiaの派生語。語源的にはcon-science(共通の知識)といった意味合い。だから普通にgood conscienceとか bad conscienceという表現が使われますが、これを(おそらく性善説を唱えた孟子の「良知良能」の観念に由来する)日本語の「良心」に強引に当て嵌めようとすると前者は「良い良心」は同語反復、後者は「悪い良心」となって矛盾を引き起こします。

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それでは「古典的ハリウッド映画倫理規定(Hays Codeあるいは the Breen Office Production Code、1930年制定、1934年〜1968年履行)」の場合、この辺りはどうなっていたのでしょうか?

  • むろん宗教用語としてのconscienceは「(心の内側から届く)神の声」「自然法の法源」という絶対的ニュアンスも内包。Hays Codeも自然法の説明として「the law which is written in the hearts of all mankind(全ての人類の心に書き込まれた法律) the greater underlying principles of right and justice dictated by conscience(conscienceが決定付ける権利と正義に多くを依存する原則)」という表現を用いるが、あくまでその適用範囲は成文法に限られ、Nude問題はNude問題(細かな規定で肌の露出を許される範囲を制定)、love問題はlove問題(loveには「Pure love(真実の愛)」と「Impure love(不実な愛)」の2種類が存在し、後者はあくまで悪く描かねばならないが、既に配偶者がいる男女と第三者のloveをどちらに分類するかは状況次第とした)として個別に論じられている。

  • バージニア権利章典(Virginia Bill of Rights:1776年)」第16条(Section 16.)はこうなっている。「宗教、あるいは創造主に対する礼拝とその方法は武力や暴力によってではなく、理性や信念によって指示を与えられるものである(That religion, or the duty which we owe to our Creator, and the manner of discharging it, can be directed only by reason and conviction, not by force or violence;)。それゆえに全ての人は等しく良心の命じるままに従い、信教の自由をおびる権利を有する(and therefore all men are equally entitled to the free exercise of religion, according to the dictates of conscience)。他の者との間にキリスト教的自制、愛情および慈善を実行することは、あらゆる者の相互の義務である(and that it is the mutual duty of all to practise Christian forbearance, love, and charity toward each other. )」。とどのつまり「宗教儀礼の様式は武力や暴力によって強制される事なく純粋に理性(reason)や信念(conviction)に基いて整えられるべし。信教対象はconscience(良心)の命令にのみ従って選ばれるべき」という事らしい。

  • 「1789年の人間と市民の権利の宣言(フランス人権宣言:Declaration des droits de l'Homme et du citoyen de 1789)」第10条(Article 10)はこうなっている。「何人たりとも、それが法によって確立された公の秩序を乱す内容でないのなら、例えそれがそれが宗教的内容を含んでいようとも、特定の信条の表明によって不安にさせられてはならない(Nul ne doit etre inquiete pour ses opinions, memes religieuses, pourvu que leur manifestation ne trouble pas l'ordre public etabli par la loi.)」

こうした考え方の源流はコスモポリタン精神の産物たるストア派哲学の「ロゴス(Logos、普遍的自然)」まで遡るとも。

しかしディズニー・アニメ「ポカホンタス (Pocahontas) 」シリーズ(1995年~1998年)では、ヒロインのconscience(良心)に当たる木の精霊が第1作ではスミス船長を、続編ではロルフを選びます。「良心の赴くままの選択」は、こういう不確実性が存在するから厄介なのですね。

実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。逆を言えば実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」…これもまた16世紀ルネサンス期のパドヴァ大学ボローニャ大学に起源を有する新アリストテレス主義? そこまで捌けていなかった辺りに「鑑賞者に合法的な暮らしと健全な恋愛と結婚生活を奨励する」Hays Codeの限界があったとも。

そもそも全ての始まりは19世紀におけるセルロイドの発明と写真分野への応用。かくしてサイレント映画の上演が見世物興行の一種として始まり。専制的なエジソンが支配するニューヨークからの映画人が脱出してハリウッドを築き、移民勢が制定した倫理規定が「良質映画」と「悪質映画」を峻別して両者の独自展開が始まるという次第。

1880年代後半 セルロイドが乾板に代わって写真フィルムとして使われるようになった。それらの製造技術を開発したハンニバル・グッドウィンの会社が現在のイーストマン・コダック社の前身である。

1891年 アメリカの発明王トマス・エジソン(1871年〜1931年)が「キネトスコープ」を発明。大きな箱の中にフィルムを装填し、筒の中を覗き込むとシステムで、一度に一人しか見られなかった。映画というよりTVの起源とされる。というのもエジソンはハードを発明しただけでなく世界初の映画撮影スタジオを設立し「ボディービルの父」サンドゥやボクシング業界に接近してこれを撮影し「スポーツ放映の父」となったから。

「ボディービルの父」Eugen Sandow(1867年~1925年)は「筋肉美は階級を超える」とし、ファッショナブルなエクササイズとボディビルを通じた健康思想で世界征服を目指す理想主義者としてアーサー・コナン・ドイル卿や英国王ジョージ5世や発明王トーマス・エジソンらと親交を結んだ。エジソンとの交流はエジソン所有スタジオにおける数多くの筋肉美誇示写真や筋肉美誇示映像を残し、ある意味マルチメディアの源流の一つともなっている。
エジソンはまた「コルベット対コートニーのボクシング試合(1894年)」などを「独占放映」した事で知られる。

1895年 フランスのオーギュスト(1862~1954)とルイ(1864~1948)のリュミエール兄弟が、スクリーンに映像を映し出す「シネマトグラフ」を発明。同年12月28日にパリのキャプシーヌ大通りのグラン・カフェにおいて「シネマトグラフ」をお金を取って一般の観客に公開した。これが今日の映画上映のスタイルと同じ物であったことから、一般的にはこの日が映画の誕生日と見なされている。
*兄弟は、その後も世界各地に映画技師を派遣し、映画の普及に務め、同時に世界各地の風景を映画に撮影した。しかし大成功は収められず、やがて映画製作から手を引く。
二人の映画の父〜エジソンとリュミエール兄弟〜

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1895年 アメリカのアルフレッド・クラークが「世界初のホラー映画」「スコットランドの女王、メアリーの処刑(The Execution of Mary、 Queen of Scots あるいは The Execution of Mary Stuart)」を発表(14秒)

1902年 「世界初の職業映画監督」フランスのジョルジュ・メリエスが脚本・監督した「世界初のSF映画」「月世界旅行(仏語: Le Voyage dans la Lune, 英語: A Trip to the Moon)」が発表される。「複数のシーンで構成され、物語性がある」もうそれだけで歴史上の画期であった。
1888年にロベール=ウーダン劇場の興行主となった。その劇場は壮麗で、舞台照明もあり、様々な仕掛けや何体かのオートマタもあったが、それで実現可能なイリュージョンは既に時代遅れのものだったので挽回の為に30以上の新しいイリュージョンを考案し、ロンドンで見たような喜劇仕立てや恋愛劇仕立ての劇を組み込んで観客数を増やしていく。その過程で映画と出会い1896年から上演する様になった。やがて映画作成も手掛ける様になったが古典的教養がなく本能に任せての制作であった為に「芸術的なものを生み出せるはずもない文盲」と罵られ、それで『月世界旅行』(げつせかいりょこう)として本項で便宜上まとめて解説するのは、フランスの作家ジュール・ヴェルヌの「月世界旅行二部作(1865年のDe la Terre à la Lune、1870年のAutour de la lune)」を原作とする「本格派作品」に手を出したのである。

*しかも彼は数多くの「着色版」も残している。「カラー映画の父」でもあったのである。

*こうした作風はエジソンの映画スタジオにも模倣された。有名どころではエドウィン・S・ポーター「大列車強盗(The Great Train Robbery、1903年)。

そして「Trip of Mars(1910年)」。「The First American Science fiction movie」と銘打たれている。

1905年12月16日 ニューヨークでサイム・シルバーマン(Sime Silverman)がエンターテイメント産業専門の業界紙「ウィークリー・バラエティ(Weekly Variety)」を創刊。当初はヴォードヴィル週刊誌だった。

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1913年 エジソンの作った映画特許会社MPPCの手から逃れる為にハリウッドで映画製作を手掛ける様になったセシル・B・デミルCecil Blount DeMille、 1881年~1959年、父親はオランダ系移民、母親はイギリスより渡米したドイツ系ユダヤ移民)が、プロデューサーのジェシー・L・ラスキーらが設立した映画会社よりハリウッド初の長編サイレント映画(80分以上)「スコウマン(The Squaw Man、西部を舞台とするネイティブ・アメリカンの女性と結婚した白人の物語。当時人気を博していた芝居が原作)」を制作。大人気となる。

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西部劇の起源

まずは正義のヒーローが悪漢どもを倒し,ヒロインを救うという勧善懲悪のB級西部劇〈ホース・オペラhorse opera〉が登場。トム・ミックスやバック・ジョーンズから〈歌うカウボーイ〉と呼ばれたジーン・オートリーやロイ・ロジャーズに至るお子さま向け西部劇の原型になった。リアリズム志向の西部劇は,インディアンと白人の混血児の悲劇を描いたセシル・B.デミル監督《スコウマン》(1913),虐げられつつ滅びゆくインディアンの悲哀を描いたモーリス・トゥールヌール監督《モヒカン族の最後》(1920)やジョージ・B.サイツ監督《滅びゆく民族》(1926)といった人種問題に目を向けた作品や,《鬼火ロウドン》(1918)あたりから《曠原の志士》(1925)に至るウィリアム・S.ハート監督の人間味と詩情のあふれる〈ハート西部劇〉や,開拓民のキャラバン隊の大移動を描いたジェームズ・クルーズ監督《幌馬車》(1923)や鉄道建設を描いたジョン・フォード監督《アイアン・ホース》(1924)といった西部開拓史そのものに取材した〈叙事詩〉的大作に受け継がれていく。

1914年〜1918年 第一次世界大戦セオドア・ルーズベルト元大統領は連合国を強く支持し、ドイツに対して、特に潜水艦戦に対するより厳しい政策を要求。ウィルソン大統領の外交政策を「ベルギーの極悪さに関する失敗とアメリカ合衆国の権益に対する侵害」として怒りをもって糾弾。

  • 1916年の大統領選では、自らも大統領候補指名戦に出馬したものの、敗れてからはチャールズ・エヴァンズ・ヒューズを強力に支持し、アイルランド系アメリカ人とドイツ系アメリカ人はアメリカの中立を支えたことから愛国心が無いと繰り返し批難した。そして複数の愛国心を巧みに操る「外国系アメリカ人」ではなく、100%のアメリカ人でなければならないと主張。

  • 1917年にアメリカ合衆国第一次世界大戦に参戦すると、ルーズベルトは義勇歩兵師団を立ち上げようとしたが、ウィルソンはこれを拒否。とはいえ当時まだまだ国民的人気を誇っていた彼のこうした活躍は、まだまだ黎明期にあった米国ボーイ・スカウト運動に大きな追い風となったという。

1920年 禁酒法(Prohibition 1920年~1933年)制定。「13年10ヶ月19日7時間32分30秒間の高貴な実験(The Noble Experiment)」とも呼ばれる「アメリカ合衆国憲法修正第18条下において施行された消費の為のアルコールの製造、販売、輸送の全面的禁止」は「ニューヨーク市単独でも30,000~50,000軒に達した違法の秘密酒場の繁栄」「無許可で製造販売され流通する酒類の利権を巡るギャング間の抗争のエスカレート」をもたらしただけであった。
【世界史の窓】禁酒法

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1920年11月2日 アメリカでラジオの正式な公共放送(かつ商業放送)が始まる。アメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグのKDKA局。AM方式によるもので、最初のニュースは大統領選挙の情報で、ハーディングの当選を伝えた。

  • あるマンハッタンの住人は、ラジオについてこんな手記を残している。「ラジオの世界、それは、私にとってリアルそのものだった。まるで目の前に映画スターやミュージシャンがいるかの様に思えた…ある日のこと、私たちがラジオを聞いている間に、女の子が近くの井戸に落ちたことがあった。誰もそのことに気づかず、井戸に落ちた女の子が見つかるまで3日もかかったのだ…どこにいても、『何か新しいこと聞いた?』というのが人々の合言葉だった」。

  • ラジオで音楽が流される様になり、レコードの売り上げが激減した時期でもあった。また黒人ミュージシャンの躍進期でもある。アメリカの禁酒法時代に地下化した酒場に集うミュージシャンによって、あるいはレコードやラジオの普及によって、ダンスミュージックなどのポピュラー音楽のスタイルがまだまだ渾然一体となっていた1920年代初頭にはジャズがアメリカを代表する音楽スタイルの一つとして、アメリカ国内の大都市に急速に広まっていった。第一次世界大戦から大恐慌までのアメリカの隆盛期が「ジャズ・エイジ」と呼ばれるのはこのためである。1920年代にはイギリスでもジャズが流行り、後のエドワード8世も少年時代にレコードを収集するなど、幅広い層に受け入れられた。

1920年代 セシル・B・デミルが黄金期を迎える。第一次世界大戦後の好況期を背景とした大衆の享楽志向を捉えヒット作を連発、たちまちハリウッド映画創生期の実力者の一人にのし上がった。
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  • デミルの成功の秘訣は、たとえ男性客を喜ばすようなシーンであっても、女性も画面に釘付けになるように演出を仕組むことにあった。例えばバスルームのシーンではバスローブもネグリジェも最高の品を用意させ、女優たちが身につける豪勢なジュエリーなどの宝石類はすべて本物で撮影した。誰もが目を奪われるほどの絢爛豪華な衣装はデミルの映画の代名詞ともなり、多くの女性客を魅了した。このような金に糸目をつけない派手な演出は多くの集客に効果をみせ、夫やボーイフレンド連れの女性らがデミルの映画を見に劇場へ通うようになったのだった。

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  • 「十誡(The Ten Commandments、1923年)」制作前後から作風は再度転換期を迎える。旧約聖書という固い主題の作品を扱えば、そのような世論の動きが鎮まるのではないかと映画製作へ踏み切った。しかし、デミルの豪華主義は相変わらずで、映画会社の製作資金を湯水のようにつぎ込んだ。劇中では3千人もの人員や何千頭もの家畜をエキストラとして動員し、モーゼが紅海の海水を割るシーンの派手さは後々までの語りぐさとなるほどであった。予想に反してこの映画がヒットし制作費を超える収益をあげた-デミルは、続けて「キング・オブ・キングス(The King of Kings 、1927年)」、「暴君ネロ(1932年)」、「クレオパトラ(1934年)」など一連の歴史ものを制作し、次々と成功を収めていく。この頃マスコミは、社内で大勢の側近を従え、シルクのシャツに乗馬用のブーツをはき気障に決めたスタイルのデミルを揶揄し、デミルの所属するパラマウント・スタジオを「デミル王国」とも呼んだ。1927年5月11日に設立された「映画芸術科学アカデミー」の36名の創立会員の1人としても名を連ねている。その過程でキリスト教を侮辱するシーンを入れると賛否両論となって観客動員数が伸びるのに味をしめ、そういう場面を増やした事がHays Code制定の引き金になったとする説も有る。
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  • もちろん、この様な演出で撮影された作品群に保守派や宗教団体らが黙っている筈がない。デミル自身、そのうち自分の映画が世論からボイコットされる予感に恐れ慄いていたという。

1928年 テキサス州ヒューストン出身のハワード・ヒューズ(Howard Robard Hughes、 Jr.、 1905年~1976年)が「暴力団(The Racket)」で第1回アカデミー賞最優秀作品賞候補にノミネートされる。

  • ヒューズは、18歳までに両親と死別し「億万長者の孤児」となった。そして1925年にカリフォルニア州に移住むと1927年から映画製作者兼飛行家(偽名でアメリカン航空に郵便係として雇用され、そのまま飛行技術を体得)としてキャリアを開始する。

  • 当初はハリウッドの映画界にコネもない上、映画制作経験もない為その手腕が疑問視されていたが「暴力団」の第1回アカデミー賞最優秀作品賞候補ノミネートを皮切りに、史上初めて製作費が100万ドルを超えた超大作「地獄の天使( Hell’s Angels:1930年)」や「暗黒街の顔役(Scarface:1932年)」といったヒット作を手掛ける。

  • 回想録によれば当時のハワード・ヒューズ組は「悪はラストシーンまでに滅びれば途中どんなに称揚しても倫理的に問題ない。一方正義なんてデウス・エクス・マキナDeus ex machina:機械仕掛けの神)としてクライマックスに登場すれば十分。いずれにせよ観客はそこに至るまでの仮初めの繁栄を見に映画館に足を運ぶのだ」というフィルム・ノワール的哲学で理論武装していたという。ある意味「トレインスポッティング(1996年)」やタランティーノ監督作品の様な「B級映画」やGTAやWatch Dogsといった「B級GAME」の嚆矢といえるかもしれない。

1929年 マーティン・クィッグリーとダニエル・ロード司祭が映画向けの倫理規定を作成し映画スタジオに送付。 同年2月、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)のアーヴィン・タルバーグら映画スタジオの代表者数名が、ロードとクィッグリーと面会し規定制定に同意。これは政府による介入の余地をなくしたかったからとされている。そして映画のシーンを変更したり、カットする必要があった場合、元米国赤十字代表のジェイソン・S・ジョイ大佐が代表を務めるStudio Relations Committeeが制作現場を監視したり、スタジオに勧告することになった。同年3月31日、アメリカ映画協会(Motion Picture Association of America、MPAA)が規定遵守に同意。条文はカトリック色の強い内容で、当初は公開されない予定であった。

  • マーティン・クィッグリー(Martin Quigley 1890年~1964年)…大手業界紙Motion Picture Heraldの編集者だったアイルランドカトリック教徒でHays Code制定に尽力した。息子のMartin Quigley Jr.(1917年~2011年)も同業者で、第二次世界大戦中は(枢軸国側だった)イタリアと(中立を宣言しつつ一部が最期まで怪しい策動を続けた)アイルランドでの戦略諜報局(OSS)の諜報活動に協力。戦後はHays Code廃止に向けての動きに最期まで抵抗した。

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  • イエズス会士ダニエル・ロード司祭(Daniel A. Lord 1888年~1955年)…アメリカで人気のあったイリノイ州シカゴ出身のカソリック系作家で,1923年に司祭へと叙任された聖職者でもあった。イエス・キリストの生涯を描いたセシル・B・デミル監督の無声映画「キング・オブ・キングス(The King of Kings 1927年)」などにおける涜神的表現の数々に戦慄しHays Code制定に参画。「トーキー時代に入ると映画は益々観客に対する影響力を増す。最も恐ろしいのは犯罪者の増長と犯罪に憧れる子供の急増」と考えていた。

1930年2月19日、バラエティ誌が、ヘイズ・コードの全文を素っ破抜いて掲載し「こんな映画の検閲機関はすぐ廃止されるだろう」と予告。
*不幸にも1930年代は「映画批評メディア」の台頭期でもあったので「自由を守る聖戦」の槍玉に挙げられてしまったという側面も。

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  • リベラル派定期刊行誌The Nationも早速噛み付き「もし本当に犯罪に同情の余地がないなら法と正義が同義語になる筈なのに」と主張した。 何しろヘイズ・コードの為にボストン茶会事件を映画で取り上げる事は不可能となり、かつ聖職者を悪く描く事を禁じられ「偽善」も描くなくなってしまったのだから。Outlookはバラエティ誌と同意見だったが、当初からヘイズ・コードを守るものは少ないだろうと予測。

  • かくして、ヘイズ・コードは公然の秘密となり,1931年にはハリウッド・リポーター誌がヘイズ・コードを揶揄した記事を書き、バラエティ誌も1933年に続く。同年バラエティ誌は、さらにある脚本家が「ヘイズのモラル・コードは冗談にすらなれない、記憶に残るのみです」と語っていた記事を掲載した。

  • 実際,1932年まで協会の代表を務めていたジェイソン・ジョイとその後任になったジェームズ・ウィンゲート博士(Dr. James Wingate)は空気の如き存在に過ぎなかったのである。

1930年 協会の検閲を受けた最初の映画である「嘆きの天使(Der blaue Engel、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督(オーストリア出身の叩き上げ系ユダヤ人)のドイツ映画)」は協会の検閲では無修正で通った一方、カリフォルニア州では猥褻とみなされた。

  • むろん、それは製作者への説得や懇願を全く行わなかった事を意味しない。 ジョイは一部シーンのカットを求めたが、問題とされたシーンがどれもカットされなかっただけである。1年間に500の映画をごく少数のスタッフでチェックせねばならず、しかも発言に強制力を持たせる裏付けとなる罰則など存在せず、それに加えて最終的にシーン・カットの有無はスタジオ自身が決定する事になっていた。

  • 脚本を書くのも得意だったジョイが制作側に回る決断を下しフォックスに移籍すると、後釜となったウィンゲートは山のように来る映画の企画書を読んでチェックするのに苦労し、ワーナー・ブラザースの制作部門の代表者であるダリル・F・ザナックから催促の手紙を送りつけられる事になった。

  • ここまでヘイズ・コードがないがしろにされたのも,1920年代から1930年代初頭にかけてアメリカでは自由を好む風潮が広がり「ビクトリア朝風検閲(Victorian Code)」が世間知らずで時代遅れのものとして笑いの種にされる様になっていたからだった。

  • また世界恐慌(1929年)以降の時代は映画スタジオの多くが資金獲得の為になりふり構わなくなり、実際人種差別的な要素や暴力シーンがある映画の方が売れたからでもあった。

1930年8月9日 無声時代からずっとアニメを制作してきたフライシャー・スタジオ(Fleischer Studios、 Inc. 1919年~1943年、オーストリア出身のインテリ系ユダヤ人)の看板キャラクター「ベティ・ブープBetty Boop)が「トーカートゥーン(Talkartoon:1929年~1932年)」シリーズ42作の6番目「まぶしい皿(Dizzy Dishes:1930年8月9日公開)」に初出。

  • この時点ではフレンチ・プードルという設定で、「頭よりハートを重んじる御転婆娘」として人間に再デザインされたのは「ビン坊の屑屋(Any Rags:1932年)」以降となる。

    www.youtube.com

  • 「(大人びた都会的な雰囲気を漂わせたフラッパー娘)ベティ・ブープ」シリーズとしての正式な第一作目は短編アニメ「花形ベティ(Stopping the Show:1932年)」。

  • Hays Codeが施行段階に入った1934年以降は次第に、ロングスカートと肩の露出を抑えた半袖の上着の着用を強制され御転婆娘として振る舞う事を禁じられ「愛犬パジーと暮らす独身の専業主婦」という立場に押し込められていく。ただこれは観客の嗜好の変化を受けた結果だったかもしれない。

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1933年 サイム・シルバーマン(Sime Silverman)がハリウッドで「デイリー・バラエティ(Daily Variety )」創刊。同年9月23日死去。

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1930年代 バルコニー・システム(The balcony system)の登場

当時はアメリカ人も日本人も、1929年10月24日に勃発した世界恐慌(world economic crisis/panic)のせいで恐ろしいまでに荒んでいた。共産主義の拡散も著しかった。

1933年12月5日 「合衆国及びその管轄権に従属するすべての領土において、飲用の目的で酒精飲料を醸造、販売若しくは運搬し、又はその輸入若しくは輸出を行うことを禁止する」とした米国憲法修正第18条が撤廃される。(個人の自由を強調した)カトリック教徒と(税収減を強調した)事業家が率先して組織化された運動を展開し米国憲法修正第21条を成立させた結果。
*「ハードボイルド文学の父」ダシール・ハメット(Samuel Dashiell Hammett、1894年〜1961年)の執筆期間は1922年〜1934年。富裕になってハングリー精神が失われたからとも、禁酒法終焉後の世界に対応できなかったからともいわれている(実際、主人公が結婚していて妻と掛け合い漫才をする最終作「影なき男(The Thin Man, 1934年)」は随分と毛色が違う)。

【世界史の窓】禁酒法

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1934年 フランク・キャプラ監督(シチリア島出身)の「或る夜の出来事(It Happened One Night 、ロード・ムービー元祖とされるスクリューボール・コメディ)がこの年のアカデミー賞の作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚本賞と主要部門を制覇。この記録は「カッコーの巣の上で(One Flew Over the Cuckoo's Nest、1975年)」登場まで破られなかった。

  • 1928年より当時はまだマイナーなスタジオだったコロムビア映画に招かれ重役のハリー・コーン(東欧出身の叩き上げ系ユダヤ人)らと専属契約を結び、前年も初めて脚本家ロバート・リスキン(ニューヨーク出身の都会系ユダヤ人)と組んだ「一日だけの淑女( Lady for a Day、1933年)」がアカデミー作品賞と監督賞にノミネートされていたが、この作品のヒット以降コロムビアは一躍メジャー・スタジオの仲間入りを果たす。

  • リスキンとキャプラのコンビは以降も「オペラハット( Mr. Deeds Goes to Town、1936年)」「我が家の楽園(You Can't Take It with You、1938年)」「スミス都へ行く(Mr. Smith Goes to Washington、1939年)」を次々とヒットさせる。戦後公開され、当時の興行成績は惨敗だった「素晴らしき哉、人生!(It's a Wonderful Life、1946年)」もまた毎年末にTV放映されるうちにそれまでキャプラを知らなかった若い世代から再評価され、今ではクリスマスにこの映画が流れるのが定番となった。今日では「アメリカで最も親しまれた映画」とさえいわれている。

  • 1930年代はまだ大恐慌の傷跡が大きく、暗い世相の最中、楽天主義、アメリカン・ドリーム、ユーモア、ヒューマニズムをふんだんに取り入れたキャプラの作品はキャプラスク(Capraesque)と呼ばれ、名実ともに1930年代アメリカ映画を代表する映画監督となったのである。
    *「Hays Codeが最も制作を奨励したかったタイプの映画」と指摘する向きもあるが、この監督の真骨頂は「大衆は小さな真実より大きな嘘を信じたがる」をモットーに現実社会ではありえないレベルの身分差結婚や変人家族をコメディ・タッチで描き切る事で、本当に「少年少女に健全な恋愛と結婚を奨励する」なる意図に沿った内容といえるかは実に微妙とも。
  • ちなみに世界恐慌を題材とする映画では銀行家が悪役とされるのが定番であったが、「狂乱のアメリカ(American Madness、1932年)」ではあえてその銀行家を主人公に据え、英雄的判断を次々と下す人格者として描き切った。南イタリア移民への商業融資から始めたバンク・オブ・イタリー(後のバンク・オブ・アメリカ)の頭取がモデルとも言われているが、この人物は当時誰も融資しようとしなかったウォルト・ディズニー「白雪姫(Snow White and the Seven Dwarfs、米国公開1937年、日本公開1950年)」への融資を決め、返礼として戦後建設されたディズニー・ランドへの優先的融資権を獲得している。

  • 元来「童話のアニメ・シリーズ化」はフライシャー・スタジオが始めた路線だったが、彼らには「莫大な予算と手間を当時じてそれを大人向け長編メルヘンに仕上げる」という発想の飛躍ができなかった。あるいはたとえ思いついていたとしても「誰の目にも無謀な試みとしか映らない」壁を突破して必要な融資を獲得する事が出来なかったのである。
    *ちなみにアメリカのアニメ・ファンは現在では日本アニメの特徴とされている脱衣変身の起源は「Betty Boop - Poor Cinderella (1934) 」と主張している。

1939年〜1945年 第二次世界大戦。Hays Code提唱者の息子で父同様雑誌編集者だったMartin Quigley Jr.(1917年~2011年)は(枢軸国側だった)イタリアと(中立を宣言しつつ一部が最期まで怪しい策動を続けた)アイルランドでの戦略諜報局(OSS)の諜報活動に協力。

  • 当時の英米政府はアイルランドやブラジルといったカソリック系中立国がローマ教皇の号令で枢軸国側に参戦する展開をひどく恐れていた。詳細は不明だが、収益の半分を占めていた欧州市場の売上欠損分を補う為に南米進出を画策中だったウォルト・ディズニーにも接触。そもそも南米進出自体がアメリカ政府の提案に乗った形だったという話さえある。
    *またスタジオが「共産主義者」に乗っ取られデモの拠点化してしまったのを嫌って本社を離れたとも。ちなみにそのグループはスピンアウトし1940年代のうちにユナイテッド・プロダクションズ・オブ・アメリカ(United Productions of America、UPA)を創立している。

    *当時製作された「ラテン・アメリカの旅(Saludos Amigos、1942年)」や「三人の騎士(The Three Caballeros、1944年)」といった「南米進出作品」について「進出される側からすれば経済侵略だった」とする立場もある。これらの世界ではドナルド・ダックが活躍するので「ドナルド・ダック帝国主義」と呼ばれる。
    文化帝国主義という言舌

    *そういえばトルーマン・カポーティティファニーで朝食を(Breakfast at Tiffany's、原作1958年、映画1961年)」の原作で舞台となる第二次世界大戦中のニューヨークでもブラジル富裕層が影響力を増している様子が描かれていたりする。ニューヨークでFacebookを最初に後援したのも大学時代の友人であるエドゥアルド・サベリンの持つブラジル系ユダヤ人のネットワークだった。

  • フランク・キャプラ監督は「移民こそ戦時に愛国心を問われる」という立場から軍に志願し、第二次世界大戦参戦後もアメリカ国民の間で依然として根強かった孤立主義を克服する為のプロパガンダ映画シリーズ「我々はなぜ戦うのか(Why We Fight、1942年〜1945年)」を撮影。
    *ちなみに当初ハリウッドから集めたスタッフは全員「共産主義者」だったので解雇したという。

  • フライシャー兄弟は1941年〜1943年(叩き上げの東欧系ユダヤ人がデザインした)スーパーマンのアニメ化に挑戦するも、彼らの作品の配給を手掛けてきたパラマウント映画(叩き上げの東欧系ユダヤ人が創立)に吸収合併されてしまう。

  • その一方で欧州より亡命してきた映画監督達は「エドガー・アラン・ポーを生んだ国」でもあるアメリカでドイツ表現主義を起源とする陰鬱なB級映画を好んで手掛けた。フリッツ・ラング監督やビリー・ワイルダー監督が参画した「フィルム・ノワール 映画」やフランス人映画監督ジャック・ターナー/ジャック・トゥールヌール(Jacques Tourneur, 1904年〜1977年)が手掛けた1940年代RKOホラーがこれに該当する。
  • *「フィルム・ノワール 映画(film noir)」‥1940年代前半から1950年代後期にかけて、主にアメリカで製作された虚無的・悲観的・退廃的な指向性を持つ犯罪映画 を指した総称。
    フィルム・ノワール - Wikipedia

    *1940年代RKOホラーオーソン・ウェルズ監督「市民ケーンCitizen Kane、1941年)」「偉大なるアンバーソン家の人々(The Magnificent Ambersons、1942年)」の興行的失敗で破綻しかけていたRKOの経営を救った低予算ホラーのシリーズ。「キャット・ピープル(Cat People、1942年)」「私はゾンビと歩いた!(I walked with a Zombie 1943年)」「レオパルドマン 豹男(The Leopard Man、1943年)」「キャット・ピープルの呪い(The curse of the cat people、1944年)」「吸血鬼ボボラカ(Isle of the Dead 1945年)」といった異国情緒あふれる「文芸ホラー」が量産された。


1945年~1952年 太平洋戦争に敗戦した日本のGHQ占領期。当時のGHQは検閲を行っていた事自体を機密事項としたので詳細は不明だが、当時映画化された横溝正史「三本指の男(原作「本陣殺人事件(1946年)」、映画公開1947年)」や、大坪砂男「私刑(リンチ:原作1948年、映画公開1949年)」の改変のされ方を見る限り「(日本を戦争に追いやった)封建的因習を一掃し、民主主義を根付かせる」といった決意が見て取れなくもない。

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-96-4c/uzimusi58/folder/394679/94/20649094/img_0

http://mini-theater.com/wp-content/uploads/2011/06/r1%E4%B8%89%E6%9C%AC%E6%8C%87%E3%81%AE%E7%94%B7C%E6%9D%B1%E6%98%A0.jpg

  • 当時の映画人や手塚治虫の様な漫画家の証言によれば当時の日本のエンタメ界はGHQの統制によって「チャンバラ」「仇討ち」「切腹」といった物語要素を全面否定され、「多羅尾伴内の様なモーリス・ル・ブラン的肉体派探偵物を主役に据えた謀略物」か「科学万能主義を礼賛する空想科学冒険小説」くらいしか発表出来ない状況に追い込まれていたという。そうしたトレンドはGHQ占領終了後も50年代じゅうずっと継続し、突如として消滅した。その理由については「それまで金田一耕助シリーズと多羅尾伴内シリーズの二本柱を支えてきた片岡千恵蔵が主役を引退したせい」とも「松本清張"点と線(1957年)"登場により社会派ミステリー・ブームが到来したせい」ともいわれている。
    *当時の検閲状況に関する証言は色々矛盾があって正解は不明。

    http://tezukaosamu.net/jp/mushi/201403/images/column/column33_19b_l.jpg

  • GHQの示唆によって誕生し「映画倫理規程」を制定した「映画倫理規程管理委員会(旧映倫)」は、MPAA同様に業界内に設けられた機関にして映画関係者だけから選ばれた管理委員によって運営されていた。しかし「太陽の季節1956年)」「処刑の部屋(1956年)」「狂った果実1956年)」といった「太陽族映画」を身内贔屓から完全無審査で通して新聞各紙から厳しい批判を受け、文部省(現・文部科学省)による規制の為の法案準備という事態まで引き起こしてしまう。これを苦慮した映画界は映倫委員を外部の有識者に委嘱。映倫の運営を映画界から切り離すなどの組織変更を行って同年12月、新たに「映倫管理委員会」を発足させる。こうして映画界以外の第三者によって運営される自主規制機関としての映倫が誕生する事になったのである。
    映倫(映画倫理委員会)の歴史

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  • 横溝正史は、おそらくGHQ指導要綱から出発して旧名家や旧華族の崩壊を描きながら、次第にHays Codeの綻びを巧みに突いたウィリアム・マーチ「悪い種子(The Bad Seed、原作1954年、映画化1956年)」や、ナボコフ「ロリータ(Lolita、パリ出版1955年、アメリカ出版1958年)」といった作品をヒントに「女王蜂(1951年~1952年)」や「三つ首塔(1955年)」の様なヒロインを主人公に据えた異色ピカレスク物を執筆する様になっていく。その間ハワード・ヒューズ流の「罪から生まれた子供や変態は必ず物語が結末を迎えるまでに全員惨殺されるか真犯人と判明し自殺する」変則Hays Codeを墨守し続けた結果「(狙われた人間を全て見殺しに、また犯行予防によって犯人を罪から救う事もしない)皆殺しの金田一耕助」という奇妙な定評が出来上がる事に。

1950年代 アメリカ人の一部は、この時代に日本でいう昭和ノスタルジア(昭和30年(1955年)から昭和40年(1965年)頃を懐かしむ心境)の様な感情を抱く。

 司馬遼太郎アメリカ素描(1985年)」

それまでどこか欧州に劣等感を懐いていたアメリカ人が、第二次世界大戦参加を通じてその救世主となり自らも救った。さらには戦勝者となる事で自己文明の圧倒的優位感を勝ち取った。そうした自惚れが米国文化を照り映えさせ、その感覚が終戦より15年前後ほど持続したのである。

1960年代に入ると誰にも予想だにし得なかった社会的変動が相次いで、何もかもが変わってしまった。それまでアメリカを支えてきた自尊心もすっかり腐り果ててしまった。1960年には43歳のジョン・F・ケネディ大統領が大統領に当選。就任2年目にベトナム戦争への直接介入を発表。就任3年目に暗殺されて世界に衝撃を与える。ベトナム戦争は次第に泥沼化していきアメリカの番納棺は跡形もなく砕かれる。その隙を突いた形で1967年から1968年にかけて黒人の暴動が燃え盛る。

ジョン・アップダイクの「A&P(1961年)」は、こうした「大崩れ」が始まる直前の情景を描いた奇跡の名作として、が今でもアメリカ人の間で読み継がれている。
ジョン・アップダイク 『A&P』

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1950年代後半 ハリウッドではこの頃より「或る殺人(Anatomy of a Murder、1959年)」「去年の夏 突然に(Suddenly, Last Summer、1959年)」「階段の上の暗闇(

The Dark of the top of the stairs、1961年)」といった露骨な描写を含む映画が上映されるようになったがMPAA は承諾を渋りつつも映画のシーンをカットするような無粋なマネはしなかった。その一方で麻薬を扱った作品故にMPAAの承認なしで上映されたフランク・シナトラ主演「黄金の腕(The Man with the Golden Arm:1955年)」、女装と同性愛を題材とした作品故にMPAAの承認なしで上映されたビリー・ワイルダー監督「お熱いのがお好き(Some Like It Hot:1959年)」などが大ヒットとなり、ますますヘイズ・コードの威信は下落。

1960年代 1930年代映画に見られたような性を題材とする映画が急増。MPAAも嫌々ながら承認作業を続けたが,1966年に「成人の鑑賞が望ましい( "suggested for mature audiences" (SMA))」というラベルが登場してからはヘイズ・コード順守があまり意味を為さなくなってしまった。また同年ワーナーブラザースが映画「バージニア・ウルフなんかこわくない(Who's Afraid of Virginia Woolf?、1966年)」を公開した際、MPAAの会長に就任したばかりのジャック・ヴァレンティは、 映画の中に汚い言葉があることを見抜き交渉を重ねた結果、セックスを意味する"screw"を消す事には成功したが、"hump the hostess"(女主人とヤる)や'fuck'といった他の箇所は削除しなかった。そうした下品な言葉があってもヘイズ・コードの承認を得た事が新たな先例を生んでしまう。

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1960年代 日本の少女漫画界では(集英社の編集方針もあって)所謂「Hays Code準拠名画」の翻案が流行(ただし著作権表示なし)。何しろ1950年代までの少女漫画界は男性作家中心で「恋愛は御法度」とされており、トキワ荘出身の水野英子は慎重なスタートを切らざるを得なかったとも。

*ちなみに少女漫画で初めて恋愛を扱ってタブーを破ったのも水野英子のオリジナル長編「星のたてごと(少女クラブ、講談社,1960年)」とされるが、こちらはこちらで「神話世界に擬したファンタジー」という体裁をとっていた。まぁ19世紀後半のフランスで神話や聖書の題材に擬された場合のみヌードが許されていた様なもの?

1968年 事実上機能停止に陥ったヘイズ・コードが遂に廃止へと追い込まれる。その代わりMPAAは法的拘束力の弱い新たなるレイティングシステムを導入し1968年に施行。このレイティングは年齢に合わせて、G、 M、 R、 X(成人向け)とするもので,1969年、ヴィルゴット・シェーマンが監督したスウェーデンの映画「私は好奇心の強い女(性的な描写の激しさから当初はアメリカ合衆国での公開ができなかった)」も、最高裁での判決で公開できるようになった。

  • 1970年にMは GPに置き換えられ,1972年に現在のPGへと変更。
  • 1984年「グレムリン」や「インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説」といったPG指定映画におけるホラー要素について世間から意見が相次いだのを受けて、PGとRの中間にあたるPG-13ができた。
  • 1990年、XやXXXの文字がポルノ業界で用いられていたためにMPAAが商標登録を行うことができなかったため、Xが廃止され、代わりにNC-17ができた。

1970年代 アメリカン・ニューシネマ(英: New Hollywood)時代が終焉。

  • 祖父が南イタリア出身だったフランシス・コッポラ監督の「ゴッドファーザー(The Godfather、1972年)、シチリア系イタリア移民の家に生まれ、マフィアの支配するイタリア移民社会で育ったマーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー(Taxi Driver、1976年)」、シチリア移民1世の父と移民2世の母の間に生まれニューヨーク市のリトル・イタリーで育ったシルヴェスター・スタローンの主演・脚本作品「ロッキー(Rocky、1976年)」などが重要な役割を果たしたとされる。

  • こうした南イタリア系監督の作風には共通して「腐敗し矛盾に満ちた現実の中でいかに人間としての倫理と善良さを実践できるか、あるいはそれがしばしば不可能となる苦悩にどう対処するか」追求する姿勢が見て取れる。そしてこれに直面した時、「若者が反抗するには理由がある」「反抗することそのものに意味がある」といったテーマを追求してきたニューシネマ運動はそれ以上語るべき言葉を失ってしまったとも。
    *ただしロッキー(Rocky、1976年)」にそれだけの力を与えた最後の台詞「エイドリアン!!」は奥さんのアイディアだったという。

    ロッキーの場合
     ①才能、素質があって
     ②社会の厳しさに揉まれていて
     ③女に恵まれて
     ④突如偶然舞い込んだアメリカンドリームのチャンスがあって
     ⑤それでもなおわりとウジウジしてて
     ⑥根はいいやつで
     ⑦良き年長者に恵まれる

    異世界転生ラノベの主人公の場合
     ①才能、素質があって
     ②世界のシステム的に最弱のレッテルを背負わされてて
     ③ハーレム形成の鍵が随所に転がっていて
     ④偶然異世界に転生して
     ⑤それでもなおわりとウジウジしてて
     ⑥根はいいやつで:根はいいやつで
     ⑦良き年長者に恵まれる

    完全に一致?
  • 要するに重要なのは「光は闇の中に置かれてこそ、より輝いて見える」「闇は光が届かない事によってのみ、その深さが実感し得る」というに大原則に従ってどう動くかだけで、光と闇のどちらが正しいかという話ではないらしい。

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 安部公房が「 砂の女」冒頭に「罰がなければ、逃げるたのしみもない」と記したのが1962年。アップダイクの「A&P(1961年)」と併せて世界恐慌(1929年)を契機に始まった「情報統制の時代」が1960年代前半に終焉を迎えたとも見て取れる展開?
*そもそもHays Codeが制定された理由は「それまで階層ごとに統制可能だった情報が映画では万人向けに発信されてしまうので情報の大元たる制作サイドでの統制が不可欠となった」から。そして統制の主目的は「犯罪のノウハウの拡散を防ぐ(特に分別に欠ける下層階層)」「正義を疑い悪に魅惑される傾向を助長しない(特に分別に欠ける下層階層)」「健全な恋愛と結婚を奨励する(全体に対する努力目標)」といった具合だった。そして「結局、視聴者は視たいものしか視ない」という壁に突き当たったが、実はその乗り越え方は事前に想定していたより多様。ここで人類は幾つかのパラダイムシフトを経験する事になったし、特に「奨励されるべき健全な恋愛と結婚の定義」が大きく揺らぐ事に…

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そして肝心なタイミングで毎回「南イタリア系移民」が動く…何故なの?

ochimusha01.hatenablog.com

 しかし突如として「スターウォーズの時代」が始まってしまう訳です。