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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「統制の時代」とパルプフィクションの精神

「検閲の歴史」抜きに日米におけるエンターテイメント業界の発展史を語る事も出来ません。そこに「罰があるから逃げる楽しみも生じてしまった」といった複雑怪奇な依存関係が認められるからです。

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そもそもHays Codeが制定された理由は「それまで階層ごとに統制可能だった情報が映画では万人向けに発信されてしまうので情報の大元たる制作サイドでの統制が不可欠となった」から。そして統制の主目的は「犯罪のノウハウの拡散を防ぐ(特に分別に欠ける下層階層)」「正義を疑い悪に魅惑される傾向を助長しない(特に分別に欠ける下層階層)」「健全な恋愛と結婚を奨励する(全体に対する努力目標)」といった具合だった。そして「結局、視聴者は視たいものしか視ない」という壁に突き当たったが、実はその乗り越え方は事前に想定していたより多様。ここで人類は幾つかのパラダイムシフトを経験する事になったし、特に「奨励されるべき健全な恋愛と結婚の定義」が大きく揺らぐ事に。

ところで当時米国における「多様性」は、映画界というよりむしろ「パルプ・フィクションの世界」から供給されていました。最前線はむしろこちら側の世界だったと言っても過言ではありません。

英米でのパルプマガジン(pulp magazine, the pulps)とコミック(Comic)の歴史

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20世紀初頭から1950年代にかけて、主にアメリカ合衆国で広く出版された、主にフィクションを扱った安っぽい雑誌の総称である。

パルプ雑誌に掲載された作品はパルプ・フィクションと呼ばれ、一般的に低俗な話、くだらない話、三文小説、大衆小説のようなニュアンスがある。散文フィクションの内容が多かった。1950年代以降はペーパーバックを指してパルプ・フィクションという言葉が使われることがあるほか、クエンティン・タランティーノの映画「パルプ・フィクション」のタイトルはこの言葉からとられている。

パルプ・マガジンはペニー・ドレッドフルやダイム・ノベル、他の19世紀の短編フィクションを集めた三文雑誌などの系統に属する存在である。

パルプという名前は、その手の雑誌を刷るのに使われた紙(pulp)が、際立って粗悪で安っぽくざらざらと特徴的だったためについたものである。一方、上質紙で刷られた雑誌や一般向けの内容の雑誌は、俗に「光沢紙雑誌 (glossies) 」とか「すべすべなやつ (slicks) 」などと呼ばれた。

標準的なパルプ・マガジンのサイズはおおむね横7インチ縦10インチ、厚さ半インチで128ページ程度である。これはだいたいB5版ノート2冊分に等しい。

人気のあるタイトルの大部分が月刊誌で、隔月刊も多く、季刊誌もいくつかみられた。紙質のよい競合誌が25セント程度で売られていた当時、パルプ・マガジンは10セント(1ダイム)で販売されていた。「ダイム・ノベル」とついた所以である。

どぎつく下品な物語と人目を惹く表紙絵のイメージも強いが、今では尊敬を受けている多くの作家が、パルプ・マガジンに作品を掲載していた。人気作家への登龍門でもあった。

現代のスーパーヒーローコミックはヒーローを扱ったパルプ・マガジンの系譜にあると考えられることがある。パルプ・マガジンが実際に「シャドウ(The Shadow)」や「ドック・サヴェジ」、「ファントム・ディテクティブ」などといったスーパーヒーローの挿絵入りの物語を頻繁に売り物にしていたためである。しかしパルプ・マガジンはコミックよりもずっと大人の読者もターゲットにしていた。

イギリスでは、この手の雑誌はストーリー・ペーパーと呼ばれ、広く行き渡っていた。「セクストン・ブレイク」や「ネルソン・リー」といったストーリー・ペーパーのキャラクターはアメリカのパルプ・マガジンのキャラクターに似通った側面がある。しかし当時はまだ世界的なメディア市場がなかったので、同じ言語で書かれていたにもかかわらずアメリカとイギリスのそれぞれのキャラクターがお互いの国で認知されることはなかった。

まぁ大衆文化なんてのは、一旦は浅草の見世物興行やB級グルメの世界を経ないと「本物」にはなり得ません。和製コンテンツが本格的に国際的に勝負に出るには抑えておいて損のない教養というべきでしょう。

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現代社会を特徴付ける「情報流通の産業化」の起源は、16世紀イタリア・ルネサンスを特徴付ける機械印刷技術の発展に端を発します。いわゆる「グーテンベル聖書(utenberg Bible、初版1455年)」と「アルドゥス・マヌティウス(Aldus Pius Manutius 1450年頃〜1515年)の携帯可能な文庫本刊行」の時代。それは当初は小冊子(パンプレット)の大量配布による政治的プロパガンダの拡大と、何とか伝統的地方共同体の自治体制への介入権を虎視眈々と目論んできたインテリ層の策謀を伴った「魔女狩り」の大流行なんて困った事態も引き起こしました。

しかしまぁ、当初「紙の需要」を牽引したのはあくまで官僚の文書行政と商人の記録主義だったのです。
*欧米では「複式簿記」が、日本では売掛金管理に特化した「大福帳」が定着。当時における製紙産業の最大顧客の立場にありながら「格調高い手書き公文書」に拘り過ぎる一方で、商業蔑視の悪習から脱却出来なかった中華王朝(科挙合格に必須とされた八股文が有名)やオスマン帝国がこの段階で文化牽引者の立場から脱落していくプロセスは、それ自体が大変興味深い。

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いずれにせよ製紙業界における「紙の供給量を巡る競争の過熱」はこの分野が必要とする需用量をあっという間に超越してしまいます。砂糖産業や綿織物産業や鉄道業界を自壊に追い込んだ情熱、すなわち「供給量を倍にしてもそれによって得られる利益は半減してしまうジレンマ」を物ともせず生産規模拡大に奔走し続け当時の猪突猛進主義を(全体像が俯瞰できてしまう)現代人が理解するのは到底不可能(いやメモリ業界やHDD業界はその延長線上に連なる?)。いずれにせよそれは起こってしまい、製紙業界の人々は新たにエンターテイメント業界に目をつけます。

*日本の隣国が「折り紙の起源は我が国」と主張しているが、当時の日本に偏在した「子供なら無邪気にどこまでも紙の消費を増大させてくれる」と期待した製紙業界の悪辣さを抜きにして「折り紙文化の急速な発展と成熟」を説明するのは不可能。かくして江戸時代後期の日本では読本や絵草紙といった出版文化が急速な発展を遂げる事になる。

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欧米でも19世紀後半にパルプ産業が急速な発展を遂げ、印刷所に蒸気機関が導入されると同種のジレンマに直面しました。やはりエンターテイメント業界への進出が有望と見込まれた訳ですが、顧客として見込まれた対象に若干の違いが見受けられます。日本ほど「女子供」の「子供」の部分がフォーカスされる事がなかった一方で「女」の部分がフェミニズム運動と連動していくのです。双方とも「美男美女」アピールで成人男女を顧客として取り込む事には熱心でしたから、これが「製紙業界の陰謀」と要約するには複雑過ぎる状況を現出させる事になるのです。

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パルプマガジン】【女性向け小説】19世紀における大衆雑誌や女性向通俗小説の出現

①.産業革命都市化の進行によって安い読物をもとめる新しい読者層が生まれ、英国ではペニー・マガジン(Penny Magazine:1832年~1846年)、ペニー・サイクロペディア(Penny Cyclopaedia:1833年)といった大部数を競う娯楽雑誌が登場。そして1845年にはチェンバーズ・ジャーナル(Chamber’s Journal)が遂に発行部数9万部を達成した。
*一方アメリカでも1830年代に「ストーリー・ペーパー」と呼ばれる8ページの週刊物語新聞、1840年代になると週刊新聞『ニューワールド』紙の特別版の物語集が、安価な小説誌として刊行されていた。

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②そしてアメリカにおいては1860年以降、10セントで買えた事からダイムノベルと呼ばれる事になった廉価版単行本の市場が立ち上がる。
*英国では「ペニー・ドレッドフル(Penny Dreadful)」や「シリング・ショッカー(Shilling Shocker)」と呼ばれたものに相当。21世紀に入ってから「様々なホラー・ジャンルを生んで育てた原子スープ」という解釈でドラマ化されたりしている。

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③そして次第に女性向け通俗小説が人気となった。今日なお日本で読めるのは「金色夜叉(1897年~1902年連載 )」の種本に採用された米国女性向け通俗小説市場のベストセラー「Weaker Than a Woman(女より弱き者:著者のバーサ・M・クレーは当時の人気作家で、英米の男女数人の共同筆名)」くらい。しかし「緋文字(1850年)」で世に出たナサニエル・ホーソーン(1804年~1864年)も「女性向け通俗小説を書いてる売れっ子女流作家に収入面で全然追いつけない」と嘆いており、当時の勢いを偲ばせる。

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ダイムノヴェル (Dime novel)

アメリカで19世紀後半から20世紀初めにかけて出版された安価な大衆向け小説の総称。1860年にビードル社が「ダイムノヴェル (Dime Novels) 」の名前で発刊した、定価10セント(1ダイム)の小説シリーズがヒットし、この名称が1940年の「ウェスタン・ダイムノヴェル(Western Dime Novels) 」まで使われ続ける。
*ある意味「金鍍金時代(Gilded Age、1865年の南北戦争終結から1873年に始まった大不況中の1893年恐慌までの28年間)を象徴する出版形態とも。

  • その後に多くの出版社から刊行された同種の様々なシリーズもダイムノヴェルの名で総称される。

  • ビードル社以前に出版されていた「ストーリー・ウィークリー」「ストーリー・ペーパー」と呼ばれる週刊の物語新聞や、「黄表紙の文学」と呼ばれる作品も含み、また初期の「パルプ・マガジン」を含むこともある。

  • アメリカの出版社は人気の出たキャラクターのシリーズは海外版も多く発行。イギリスにおいては「ペニー・ドレッドフル(Penny Dreadful)」や「シリング・ショッカー(Shilling Shocker)」と呼ばれたジャンルに相当する。

①ダイムノヴェルの残っている現物の多くは、週刊で8ページで新聞に似た「ストーリーペーパー」で、サイズはタブロイド版から本格的な新聞型まで様々あり、価格は通常は5、6セントだった。それらは1850年代半ばに始まって、非常に人気を持ち、いくつかは50年以上に渡って毎週刊行された。当時におけるテレビのようなものであると評され、多くは木版のイラスト付きで、様々な続き物のストーリーと記事を含み、時には家族向けの内容もあった。有名なストーリーペーパーには「The Saturday Journal」「Young Men of America」「Golden Weekly」「Golden Hours」「Good News」「Happy Days」などがあった。

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  • 1860年、ニューヨークにあるエラスタス・F.ビードル(Erastus F.Beadle)とアーウィン・P.ビードル(Irwin P. Beadle)の兄弟のビードル社が、「ビードルズダイムノヴェル」と題した、10セントの小説シリーズの刊行を開始した。この名前は、別の会社で発行される同様の安価本にも対する、20世紀初めまで一般名称となる。

  • ビードル社の最初の作品は、アン・S.スティーヴンズ『マラエスカ 白人ハンターのインディアン妻』(Malaeska, the Indian Wife of the White Hunter)で、1860年6月9日に発売された。これは1839年のレディーズ・コンパニオン』誌の2-4月号に連載されたものの再版に過ぎなかったが、ダイムノヴェルとして発売されて数ヶ月で6万5千部を売り上げた。

  • ビードル社のダイムノヴェルのサイズは、初期においてもばらつきはあったが、約6.5×4.25インチ(16.5×10.8cm)×4.25インチで、100ページだった。最初の28冊はカバーイラストは無く、鮭色の紙カバーが付いていた。29冊目以降と、最初の28冊の再版から、木版画によるイラストがカバーに付けられたが、価格は10セントのままとされた。このシリーズは計321冊発行され、このジャンルのほとんどに通用するスタイルを作り、不気味で奇妙なストーリーと、メロドラマ風の二重タイトルは1920年代末まで使われた。作品はオリジナルストーリーに加えて、ストーリー・ペーパーなど過去の膨大な出版物を再刊したフロンティア物語も多く、また著作権管理が厳しくなかったため、多くの海外の著作もロイヤリティ無しで出版された。

  • ビードル社ダイムノヴェルは、南北戦争前後の時期の識字率増加により、若い労働者階級の読者に人気となった。戦争が終わると、ジョージ・マンロー、ロバート・デウィットなど多くの競争相手が現れ、それらはタイトルとカバーの色の違いでしか区別できなかった。ビードル&アダムス社も、フランク・スターラインという別ブランドを持っていた。作品の質が高尚な批評家からは蔑まれ、ダイムノヴェルという名前は特定の様式のことではなく、安物でセンセーショナルなフィクションの代名詞となった。

  • ダイムノヴェルかどうかの区別は曖昧で、多くのシリーズがデザインや題材は似通っており、10セントから15セントの価格だった。ビードル&アダムス社でさえ、異なる価格で同じ色のカバーに紛らわしいタイトルを付けた。また10セント、紙カバーの、中世ロマンスとソープオペラ風物語の本がたくさんあった。このことが、ダイムノヴェルの定義を、様式、価格、物質的な形態によって規定することを困難にした。様々なダイムノヴェルの例として、「Bunce's Ten Cent Novels」「Brady's Mercury Stories」「Beadle's Dime Novels」「Irwin P. Beadle's Ten Cent Stories」「Munro's Ten Cent Novels」「Dawley's Ten Penny Novels」「Fireside Series」「Chaney's Union Novels」「DeWitt's Ten Cent Romances」「Champion Novels」「Frank Starr's American Novels」「Ten Cent Novelettes」「Richmond's Sensation Novels」「Ten Cent Irish Novels」などが挙げられる。

②ダイムノヴェルはその人気を増大させるにつれ、オリジナルストーリーが強く求められる様になっていった。本はカバーを変えながら何度も再刊され、他の出版社から再刊されることもあった。

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  • 1873年にはビードル&アダムズ社が229×337mm、32ページ、白黒イラストで10セントの「新旧の友達 (New and Old Friends)」と題した新しい形態を開始したが、この時点で成功した訳ではない。

  • 1874年にビードル&アダムス社は「新ダイムノヴェル(New Dime Novels)」を中心シリーズとして、新しい色のカバーを導入した。「新ダイムノヴェル」は、二重ナンバー式で、一つ目のナンバーは前シリーズからの続き、二つ目の主なナンバーは現シリーズとしてものので、最初の本は「1 (332)」というものだった。ストーリーは多くが前シリーズの再刊だった。この「新ダイムノヴェル」は1885年まで321冊を出した。

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  • ビードル&アダムズ社が低価格商品として再度1877年に「炉端ライブラリー (The Fireside Library)」「フランク・スター・ニューヨーク・ライブラリー (Frank Starr's New York Library)」を創設。1作目はイギリスの恋愛ものの再刊、2作目はより硬質な題材だったが、どちらもよく売れた。

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  • 出版社たちはこれに続こうとし、すぐにニューススタンドには10セントの週刊「ライブラリー」が溢れた。サイズは、小は7×10インチ(The Boy's Star Libraryなど)、大は8.5×12インチ(New York Detective Library)まで様々だった。Old Cap Collier Libraryは両方のサイズとブックレットで出されている。ストーリーペーパーごとに一つのストーリーで、多くが一人のキャラクターのためのものだった。

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  • 物語の多くは単発ものだったが、1880年代末からシリーズキャラクターが登場し、またたく間に人気を得た。「フランク・リード」は最初「Boys of New York」から出た。「オールド・スルース(老探偵)」は『The Fireside Companion』で1872年に始まったダイムノヴェルで最初の探偵小説で、これ以降ストーリーペーパーとダイムノヴェルは、西部とフロンティアの物語から違う傾向へと変わってゆく。彼は、追跡の訓練を受けたブラッドハウンド犬を意味するスルース(sleuth)を、探偵を指す言葉として使った最初のキャラクターでもあった。また他のダイムノヴェルで「Old Cap Collier」「Old Broadbrim」「Old King Brady」「Old Lightning」「Old Ferret」など数多くの「オールド」が使われるようになった元祖でもある。「ニック・カーター」は、『週刊ニューヨーク』で1886年に発表された。この三人のキャラクターは、ほどなく週刊で10セントという枠に収まらなくなっていく。

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  • 西部へ発展していくフロンティア物語はまだ人気があったが、新しい流行は都市の犯罪の物語になっていく。もっとも成功した一つ「フランク・タウジー社」のNew York Detective Libraryは、ダイムノヴェルの世界では珍しく、オールド・キングズ・ブラディ(Old King Brady)のジェームズギャングの変形物語の探偵もの、危険なギャングを追跡するオールド・キングズ・ブラディの頑固さを持つ多くのストーリーがある。

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③出版社の競争は激しく、常に新味を探していた。

  • 1896年にフランク・タウジーが明るいカラーのカバーを導入し、色の争いが始まった。ストリート&スミス社は、つや消し色を使った小型の週刊で対抗した。「週刊ニック・カーター(Nick Carter Weekly 、白黒の「ニック・カーター・ライブラリ」の後継)」、「最高ウィークリー (Tip-Top Weekly)」(「フランク・メリウェル」の前身)などは7 x 10、32ページ、8.5 x 11のタウジー型はストリート&スミス社がすぐに続いた。価格は子供にも買いやすい価格として、5セントのものも現れた。これはパルプ・マガジンへと変化する前の最後の大きな変化だった。皮肉なことに、長年においてほとんどの人がダイムノヴェルという言葉を使う時には、週刊ニックを思い浮かべていた。

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  • 週刊ニックは大いに人気を得て、次々と新刊を刊行した。フランク・タウジー社とストリート&スミス社がこの分野を支配した。タウジーは六大誌「Work and Win (featuring Fred Fearnot, a serious rival to the soon to be popular Frank Merriwell)」「Secret Service」「Pluck and Luck」「Wild West Weekly」「Fame and Fortune Weekly」「The Liberty Boys of '76」のそれぞれが、1000週間以上出版された。スミス&ストリートは、「ニック・カーター・ウィークリー」「週刊最高」「バッファロー・ビル・ストーリー」「ジェシー・ジェームズ・ストーリー」「ブレイブ・ボールド・ストーリー」その他多くのシリーズがあった。この2社ではタウジーの方が、より毒々しくセンセーショナルだった。

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  • ダイムノヴェルの名でひとかたまりにされる多くの形態は「厚手本」とも呼ばれるもので、ストリート&スミス、J.S.オギルビー、アーサー・ウェストブルックなどで広く出版された。これらのシリーズは、およそ150-200ページ、4.75×7 インチ (121 mm × 180 mm)、時にはカラーのカバーの高価版だった。これらは5-10セントの週刊版の物語を複数集めた再刊で、各物語をつなげるためのいくらかの改稿もあった。

  • すべてのダイムノヴェル出版社は題材の再利用を行っていたが、ストリート&スミスはより技巧的だった。例えばニック・カーターの連続的な週刊4作分を1冊の「厚手本」にまとめ、「新マグネット・ライブラリー(New Magnet Liblary)」として刊行した。またストリート&スミスは他の探偵ものの権利を買い取り、それらをつなげて、ニック・カーターものに書き換えることを行い、これによって「新マグネット・ライブラリー」は1000冊を越えることになった。フランク・メリウェルの物語は、「メダル、新メダル」「メリウェル」のライブラリー、バッファロー・ビルは「バッファロー・ビル・ライブラリー」「最西部ライブラリー」に収められた。

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④1896年、フランク・マンジーはジュヴナイル雑誌『アーゴシー』を、大人向けフィクション誌に転換し、最初のパルプ・マガジンとなった。世紀が変わって、より安いパルプ紙の新しい高速印刷技術により、25セントの価格は10セントに下げることができ、雑誌というものが真に誕生した。

  • 1910年にストリート&スミスは、週刊ニックのうち2誌を「新最高ウィークリー」「トップ・ノッチ・マガジン (Top Notch Magazine)」の2誌に転換。1915年には元は「新ニック・カーター・ウィークリー」だった「ニック・カーター・ストーリーズ」を「デテクティブ・ストーリー・マガジン」に、1919年には「新バッファロー・ビル・ウィークリー」を「ウェスタン・ストーリー・マガジン」に転換した。

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  • フランク・タウジーの成功作で「Secret Service, Pluck and Luck, Fame and Fortune」「Wild West Weekly」で有名なハリー・ウォルフは1920年代半ばまで再版され続けたが、この2作は1926年にストリート&スミスに買い取られ、その後パルプ・マガジンに転換された。こうしてダイムノヴェルの時代はその使命を終えたのである。

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  • 1940年代末から1950年代初に、ダイムノヴェルの収集が盛んになり、高額化していった。その時既に安価な刊本は砕けかけており、見つけるのが困難になっていた。

ダイムノヴェルの精神は、マスマーケット向けのペーパーバック、漫画、テレビショーや映画に引き継がれている。現代においてダイムノヴェルという用語は、書き飛ばされた、金目当ての作品(Potboiler)、センセーショナルな作品への蔑称、三文小説の別称としても使われている。

パルプマガジン】史上最初のパルプ誌が登場

1894年にフランク・ムンゼイ (Frank Munsey) が「アーゴシー」誌 (Argosy Magazine) を紙面刷新。安い紙質と不揃いな裁断、1冊あたり192ページ約135,000語で、誌面は文字のみで構成されており、表紙にさえイラストが無かった。

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①当時、蒸気動力の印刷機の普及がダイムノベルの流行をもたらしていたが、さらに安い紙と安い作家の組み合わせで廉価に娯楽雑誌を仕上げ、大量にさばいたのはムンゼイが初めてだったのは確かである。アーゴシーは月販2000-3000部程度の雑誌だったが、誌面刷新後の6年間で50万部以上を売りあげる大雑誌に成長した。

②ストリート&スミス社 (Street & Smith) はダイム・ノベルと少年向け週刊誌を出版社だったが、アーゴシー誌の成功を見て1903年にポピュラー・マガジン (The Popular Magazine) を創刊した。ポピュラー・マガジンはアーゴシーより2ページ分長く「世界一大きな雑誌」が売り文句だった。実質的な文章量こそアーゴシーより少なかったが、誌面構成の違いに特筆すべき物があった。パルプ誌として初めて表紙にカラーのイラストを使い始めたのである。雑誌が軌道に乗り始めた1905年には、ヘンリー・ライダー・ハガードの人気作であるSheシリーズ (She) の続編「アイシャ (Ayesha) 」を連載する権利を得た。揺ぎない作家陣を擁したポピュラー・マガジンは1907年に1冊当たり30ページ紙面を増やして15セントに値上げし、かつ発行部数ではアーゴシーに迫った。同誌の成功はパルプ誌の市場がまだ莫大な潜在的購買層をかかえている可能性を示し、他社の参入をうながした。パルプ誌の販売戦略として、雑誌をジャンル別に専門化させたのもストリート&スミス社が始めた革新的な点である。

パルプマガジン】発行誌の爆発的急増

その誕生から凋落までの数十年間に出版されたパルプ誌のタイトルは膨大な数に上る。

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①ポピュラー・パブリケーションズ社 (Popular Publications) のハリー・スティーガー (Harry Steeger) は、多くのタイトルが短命に終わったとはいえ彼の会社が300以上のタイトルを出版し、最盛時には月に42タイトルにも及んだと証言した。
パルプ誌はかように短編小説の市場を寡占していたので、パルプ誌産業の凋落は小説出版のあり方にも影響を与えた。普通の雑誌や小説の需要の減少もあいまって、作家志望の人々が自分の作品を出版するには長編小説やそれに匹敵するボリュームの短編アンソロジーを書かねばならなくなったのである。

②「パルプ・フィクション」というと多くの人間が真っ先に思い浮かべるのは1930年代~1940年代を舞台にしたインディアナジョーンズの様な冒険活劇であり、実際そういう作品もあったのだが、パルプ誌が扱った作品のジャンルはそれだけに限らない。剣と魔法、ファンタジー、ミステリー、探偵もの、SF、スペース・オペラ、冒険小説、西部劇、戦争小説、スポーツ、旅物、ギャングもの、ホラー小説、怪奇小説、恋愛物からハードボイルドとほとんどのジャンルのフィクションを網羅していた上、西部開拓時代物の様な伝統的ジャンルでさえ押さえていたのである。
*これぞまさにHays Code前文いうところの「階層ごとの情報管理が容易なシステム」そのものとも。

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【コミック】アメリカで「漫画本」の出版が開始される。

アメリカで最初に出版された漫画本は、近代コマ漫画の創始者として知られるスイスの漫画家ロドルフ・テプフェール(1799年~1846年)による『Les amours de M. Vieux Bois(ヴィユボワ氏の恋愛)』(1837年出版)の海賊翻訳版『The Adventures of Mr.Obadiah Oldbuck(オバディア・オールドバック氏の冒険)』(1842年)であると考えられている。この流れが直接後のコミック・ブームに繋がる訳ではないが、アメリカ人はこの時代を「プラチナ・エイジ」と呼んでアメリカン・コミック史の一環に組み込んでいる。

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*当時における劇場向け短編アニメーションの発展と関連付ける向きもある。なにしろこちらの展開の方が先行している。

①実際のアメリカにおけるコミック・ブックは、19世紀後半の新聞紙上に掲載された初期のコミック・ストリップ(コマ漫画)から発展した。そして1920年代から1930年代にかけて新聞既掲載のコミック・ストリップをパルプ雑誌に収録した初期のコミック・ブックが出現してくる。この頃のコミック・ストリップは主にユーモラスな性質を備えていたために、「コミック・ストリップ」から採られた「コミック・ブック」という呼び名が適用された。
*「コミック・ブック」という用語が、扱っている出版物の内容ではなく出版媒体を示すようになった時、この呼称は混乱をもたらす事になる。ギリシャ文化において、必ずしも悲劇のみを指さない「ギリシャ悲劇」という分類が今日なお混乱をもたらし続けている様に。

②1933年になると、マックス・ゲインズが「Funnies on Parade(マンガ大行進)」を出版。一般にはこれが今日知られている形式での最初のアメリカン・コミックと認識されている。 ゲインズは、漫画が印刷された9インチ×12インチの広告紙を折り重ねた8ページからなる漫画本を出版した。別の人々は、それ以前の10年間でアメリカン・コミックは出現したと主張している。1931年には、既にベルギーの漫画『タンタンコンゴへ(原題:Tintin au Congo)』が発表されていた。

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パルプマガジン】黄金期が到来する(1920年代~1930年代)

1920年代から1930年代に全盛期が訪れ、もっとも売れたパルプ誌は100万部を捌いた。この時期よく知られた誌名としては以下の様なものがある。

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  • アメージング・ストーリーズ
  • ブラック・マスク
  • ダイム・ディテクティブ (Dime Detective)
  • フライング・エース (Flying Aces)
  • ホラー・ストーリーズ (Horror Stories)
  • マーベル・テールズ (Marvel Tales)
  • オリエンタル・ストーリーズ (Oriental Stories)
  • プラネット・ストーリーズ (Planet Stories)
  • スパイシー・ディテクティブ (Spicy Detective)
  • スタートリング・ストーリーズ
  • ワンダー・ストーリーズ
  • アンノウン
  • ウィアード・テールズ

②こうした動きは「華麗なるギャツビー(Great Gatby:1925年4月10日出版)」に描かれた様な「狂乱の1920年代」に露呈したアメリカの歴史的浅さと文化的分断状態を乗り越えようとする執筆陣の共闘体制を生み出したりもした。
*Hays Code制定が「検閲を求める市民団体」と「検閲権を手放したくない製作者側」の妥協の産物だった様に「情報統制の時代」に全権を握ろうとしたのはあくまで体制側だけではない。何よりもまず「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」ジレンマを真っ先に体現したのは「進歩主義」を奉ずる市民団体が達成した禁酒法(Prohibition、1920年〜1933年)だったのであり、それに対するカウンター・カルチャーとして「狂乱の1920年代」は存在したのである。歴史的によく見掛ける共依存関係。19世紀フランスにおいて「教会や国王の権威に裏付けされた領主が領民と領主を全人格的に代表する農本主義的伝統」が自壊すると、これを告発してきた政治的浪漫主義者達も自滅的な形で崩壊していった。アメリカ政府が何とかベトナム戦争を終わらせると、これを「正義なき戦争」と告発してきたヒッピー運動や新左翼運動もまた一気に人気を凋落させた。その意味では皮肉にも(1934年におけるハメットの断筆宣言に象徴される様に)禁酒法の廃止(1933年)こそが「狂乱の1920年代」に止めを刺したとも見て取れる。パルプ・マガジンへの影響が比較的軽微で済んだのはその多様性ゆえだったとも。

パルプマガジンウィアード・テールズ(Weird Tales)誌の場合

ウィアード・テールズ誌を支えた御三家の1人に数えられるクラーク=アシュトン=スミスは、サンフランシスコを活動拠点として世界中の注目を集めていたアンブローズ・ビアスの弟子で「未来の風は、金門海峡で待っている」と歌った詩人のジョージ=スターリングに師事していたが、1926年に彼が自殺すると同じウィアード・テールズ御三家の1人たるH.P.ラブクラフトと挿絵絵師として組む事が多く互いに文通していた。

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黄金期は2代目編集長ファンズワース・ライト(Farnsworth Wright)の時代(1924年5月号~1940年4月号)とされる。

「統制の時代」の本質は「闇の中に取り残された光が(経済的敗北を伴う)混沌を何とか回復しようとする試み」でもある。かくしてH.P.ラブクラフトが始めたCosmic Horror路線は「クトゥルー神話」へと改変され、ロバート.E.ハワードがあえてその出没時期と出没場所をランダム化させる事によって神秘化を狙った英雄コナンの冒険は編年体で再編される事に。

  • ラブクラフト没後の1939年、手紙友達で同業作家であるオーガスト・ダーレスやドナルド・ウォンドレイが発起人となり、彼の作品を出版するという目的でアーカム・ハウス出版社が設立され「クトゥルフ神話」の編纂が始まる。また「英雄コナンシリーズ」に関してもその後「英雄コナン」の生涯を補完しようとする動きが発足する。

  • クトゥルフ神話の編纂」「英雄コナンの生涯補完」…これについて二人が「(台頭期の古代ギリシャ時代の様に)歴史の浅いアメリカは(互いに矛盾しても)各人が断片を持ち寄って新しい神話を生み出したいと考えている」と想定し、あえて断片的にしか世界観を含まない作品を提供してきた執筆態度と矛盾すると否定する向きもあるが、そもそもそうした動きが起こった背景に「関係する著者が一丸となって統一的世界観を構築していかないと時代の流れとそれに伴う読者の嗜好の変化に対応して生き延びる事が出来ない」という時代的危機感があった事を忘れてはならない。

実は夏目漱石小泉八雲の延長線上に現れた岡本綺堂芥川龍之介の様な日本翻訳幻想分学の旗手達と文学的源流を同じくする。

英国アカデミズム界は伝統的に(政治的エリートでもある)ジェントリー階層を教育する為の「古代ギリシャ・ローマ時代のラテン語古典文学」に力を入れてきた。その陰で続けられてきた自国語文学の研究についても(英国作劇文法を完成させた)シェークスピアや(「英国のダンテ」と称される)ミルトンや(ノルマン・フレンチ系文学からの脱却を果たした)チョーサーといった格調高い古典研究が中心で、ホレス・ウォルポール「オトラント城奇譚(The Castle of Otranto、1764年)」やウィリアム・トマス・ベックフォード「ヴァセック(Vathek、1785年)」といったゴシック・リヴァイヴァル文学、コールリッジ&ワーズワースバイロン卿やパーシー・シェリーといった英国ロマン主義文学、ジェーン・オスティンやブロンデ姉妹やディケンズといった英国口語文学などを外国人が体系的に学ぶ手段を供給してこなかった。
232夜『カンタベリ物語』ジェフレイ・チョーサー|松岡正剛の千夜千冊

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ちなみに英国古典文学研究の世界にフレーザー牧師「金枝篇(The Golden Bough、1890年〜1936年)」の切り開いた物語文法的解釈を投入して一大画期を為したのは「ホビットの冒険(The Hobbit, or There and Back Again、1937年)」や「指輪物語The Lord of the Rings、執筆1937年〜1949年、刊行1954年〜1955年)」でも名高い南アフリカ出身のJ.R.R.トールキンだったという。

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 【パルプマガジン】ブラック・マスク誌の場合

「ブラック・マスク」誌に1922年から短編推理小説を起稿する様になり、やがて看板作家の一人となったダシール・ハメット(1894年~1961年)は「血の収穫(1929年)」「マルタの鷹(同年)」「ガラスの鍵(1931年)」などの執筆を通じて乾き切ったハードボイルド文体を完成させた。これに続いたのが同誌では「私立探偵 フィリップ・マーロウ」シリーズのレイモンド・チャンドラー、変わり種が英国人故にこうしたムーブメントに参加出来なかったハドリー・チェイスという事になる。 

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  • ダシール・ハメット(Samuel Dashiell Hammett、1894年~1961年)メリーランド州セントメリー郡で生まれ、フィラデルフィアボルチモアで育ち、アメリカ屈指の探偵会社たるピンカートン探偵社での経験とサンフランシスコでの生活を下敷きに探偵小説を執筆した。1931年以降は全盛期の映画化収入で生活出来る様になった為、以降は創作意欲が明らかに衰え、左翼の積極行動主義に生涯を捧げる事を誓い、1950年代以降はマッカーシー上院議員の赤狩りに引っ掛かって忘れ去られる。黒澤明監督の「用心棒(1961年)」はハメットの「血の報酬」を下敷きにした話だったが、アメリカ人の目には「海外からもたらされた自分達の感性にピッタリの全く新しい新作」と看做されたのは皮肉もいい所だった。
    363夜『マルタの鷹』ダシール・ハメット|松岡正剛の千夜千冊

  • レイモンド・チャンドラー(Raymond Thornton Chandler、1888年~1959年)フィリップ・マーロウの生みの親。イリノイ州シカゴに生まれるも両親が離婚した為に7歳で母親に連れられて渡英しロンドン郊外に住む様になる。その後大学中退しパリ、ミュンヘンに留学し1907年に帰国しイギリス国籍を取得。その後生活苦から1912年アメリカに戻って簿記係や石油会社役員などを務めるも内輪揉めや不祥事から解雇され44歳で失業。E.S.ガードナーやハメットを見習ってパルプマガジン作家になる事を決意して1933年、ブラック・マスク誌に「脅迫者は射たない」を投稿してデビューした。
    26夜『さらば愛しき女よ』レイモンド・チャンドラー|松岡正剛の千夜千冊

     

  • E・S・ガードナー(1889年~1970年)…今日では1934年から1937年にかけて6作品も映画化された法廷弁護士「ペリー・メイスン(Perry Mason)」シリーズの作者としてのみ知られるが、同シリーズの長編82冊の他に、小説以外のものも含めて約900編もの作品を残した。父親鉱山技師であった為、幼少期は各地を転々とし、弁護士業の傍ら「ブリーズィ・ストーリイズ」誌1921年6月号に短編「The Police of the House」が掲載されたのを嚆矢として様々なペンネームを用いてパルプ誌に短編小説を起稿し続ける(その速筆を支えたのは原稿を作らずテープに肉声で吹き込むという独特の著作スタイルだった)。ペリー・メイスン物以外にも青年義賊が主人公の怪盗レスター・リース (Lester Leith)、弁護士ケン・コーニング (Ken Corning)、検事ダグラス・セルビイ (Doug Selby)、エド・ジェンキンス (Ed Jenkins)、「クール&ラム」シリーズの私立探偵バーサ・クールとドナルド・ラム (Bertha Cool and Donald Lam) コンビ、地方検事ダグ・セルビイと宿敵、悪徳弁護士A・B・カー(Alphonse Baker Carr)など多くの魅力あるシリーズ・キャラクターを創造した。中でも最も成功したキャラクターは、1933年「ビロードの爪」で登場した弁護士ペリー・メイスンである。この成功によって一躍有名作家となった彼は、1934年には弁護士を止めて専業作家となった。しかしやはり最大の成功作はペリー・メイスン物第一作となる「ビロードの爪(1933年)」で、彼が1934年に弁護士を止めて専業作家となる決意をしたのもその成功があったからとされる。
    *ちなみに「ブラックマスク」誌に初登場した頃のペリー・メイスンは「幾分派手で安っぽく絶えず煙草を吸い」「机の中にウィスキーの瓶を入れ」「雑多な執事や新聞記者や悪徳弁護士や魅力ない依頼人を平気で手荒く扱う」「依頼人の為ならどんな危険な橋でも進んで渡る凶暴な」ハードボイルド風の人物だった。これが後にストックマガジン代表格たる「サタデー・イブニング・ポスト」連載用に品行方正な性格に改変され、最終的にその退屈さ故にアメリカ人から飽きて完全に忘れ去られる事になった訳である。

  • ハドリー・チェイス(1906年~1985年)…ロンドン生まれのイギリスの推理小説家。18歳で本屋の店員として働き始め、その経験から英国内でもアメリカのハードボイルド作品が数多く読まれている事を知って「ミス・ブランディッシの蘭(1939年)」を執筆。イギリス人でありながらアメリカ英語の俗語を駆使して書かれたこの作品は刊行されるやいなやたちまち大反響を呼んでベストセラーの仲間入りを果たし、映画や舞台劇としても演じられる人気ぶりを博したが、その一方で作中の過激な暴力描写が文学者たちの反発を買い、ジョージ・オーウェルらの非難を受けて初版本は英国内で発禁処分となっている。第二次世界大戦中も空軍に入隊して大尉として空軍誌の編集に従事しながら執筆活動を続け、戦後は再び専業作家として活躍。合計で90以上の作品を残す事になった。


 それは読者の求める作品の提供形態が「雑誌に連載される短編小説」が「シリーズ化された長編小説」に推移していく時代でもあり「ハメットはこの変化についていけず筆を折った」と指摘する向きもある(そういえば最初から長編を引き下げて現れたハドリー・チェイスもまた人気主人公の使い回しが苦手な方だった)。またレイモンド・チャンドラーが産み出したフィリップ・マーロウ・シリーズも晩期はルブランやハメット同様「成功の為のハングリー精神は、成功後維持不可能となる(それどころか自らが「敗者時代」に散々に組んできた成功者の一員に加わった事によって深刻な矛盾が生じ、身動きが取れなくなってしまう)」という問題に直面する事に。

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 パルプマガジン】「スペース・オペラ」の登場

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E・E・スミスが処女作『宇宙のスカイラーク』(アメージング・ストーリーズ1928年8-10月号)を発表し後に「スペースオペラの父」と呼ばれる事になったのもこの時代の事である。当初それは星間航法を発明した科学者の物語と、エドガー・ライス・バローズ風の惑星冒険ものあるいはサイエンス・ファンタジーの混合物の様なものとして始まったが、「ワールドレッカー(宇宙破壊者)」「ワールドセイヴァー(世界救済者)」と揶揄されたエドモント・ハミルトンも、1930年代に入ると年下の友人、SF作家ジャック・ウィリアムスンの影響もあって意図的に作風を変え始め、ペシミスティックな虚無感を盛り込む様になったし、スミス自身も「宇宙警察物」元祖の一つに数えられるレンズマンシリーズに主軸を移していった。

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というのも人気になればなるほどこの分野は模倣者が急増し、1940年代初めには似たような作品や無節操な作品が氾濫する状況となって「スペースオペラ」という蔑称を生み出す事になってしまったからだった。

【コミック】DCコミックの登場

1935年2月にDCコミックの前身たるナショナル・ピリオディカル・パブリケーションズがオリジナルなキャラクターと物語による「New Fun Comics」シリーズを発表したが、このシリーズはパルプ雑誌から強い影響を受けた冒険物と探偵物から成り立っていた。

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  1. アメリカン・コミック史上最も重大な出来事は、1938年にナショナルの「Action Comics」第1号で生じた。ジェリー・シーゲルおよびジョー・シャスターによる世界最初のスーパーヒーローである『スーパーマン』が、この号で登場したのである。パルプ雑誌の諸作品や、プラハのゴーレム伝説、フィリップ・ワイリーのSF小説『闘士』などに影響されたスーパーマンは、超人的な腕力と素早さ、その他の超能力を持っており、サーカスの怪力男を彷彿とさせる鮮やかな衣装に身を包んで犯罪者と戦い、優男の新聞記者クラーク・ケントとして秘密の正体を隠し、日々の生活を送っている。
    *現存するこの号には216万1000ドル(100円換算で日本円に直すと約2億1600万円)という値段がついている。
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  2. アメリカン・コミックス界に『スーパーマン』が与えた衝撃はあまりにも大きく、その後の2年間でほとんどのアメリカン・コミック出版社がスーパーヒーロー物のシリーズを発表することとなり、スーパーマンは世界で最も有名なキャラクターのひとりとなった。
    *1939年に同じナショナルの『Detective Comic 』誌27号にて初登場したバットマンは、登場した当初こそ「古城の地下洞窟に隠れ住み、悪人の血だけを狙う吸血鬼」といったゴシック趣味の産物の様な存在だったが、人気が高まるにつれて「南北戦争中、銃弾に頼らない銃剣だけの夜襲で武功を立てたミズーリ州の英雄アンソニー・ウェイン将軍(後にその出身地には彼を記念してウェイン・ビルが建てられた)」や、パルプマガジン作家ジョンストン・マッカレーの「カピストラノの疫病神(The Curse of Capistrano:1919年)」を原作として1920年にダグラス・フェアバンクス主演で映画化されて世界的大ヒットとなった「怪傑ゾロ(日中は大富豪のドラ息子に過ぎないが、夜には賞金首のお尋ね者の大怪盗にして、フェアプレイ西進を発揮して強きをくじき弱きを助く真の紳士に大変身)」などのキャラクター像を吸収して全く別物のヒーローへと変貌を遂げた(残ったのは「地下洞窟=バットケイヴ」のイメージくらいで、それ自体は「素顔と仮面のどちらが正体か自分でも判らなくなってしまった」仮面ヒーローの無意識の象徴として「ウオッチメン」に登場するナイト・オウルの地下秘密基地という形で再登場を果たす事になる)。

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    http://vignette3.wikia.nocookie.net/marvel_dc/images/9/94/Batman_Earth-Two_0002.jpg/revision/latest?cb=20111126142946

  3. 後世になると1930年から1951年までの期間はアメリカン・コミックの黄金時代(Golden Age of comic books)として回想される事になる。この期間のアメリカン・コミックは、大量印刷(第二次世界大戦中のコミック・ブックは、安価かつ人気のある娯楽であった)、安定しない物語と作画と印刷品質などを特長とし、低賃金長期労働に支えられた搾取的労働環境で制作されていたにも関わらずアメリカの複数の人種に跨って仕事と娯楽を与えた数少ない業界の一つとなった。

その内容が主に子供向けだった事もあり、多くの成人が愛情に満ちた無批判な態度でこの時代を古き良き黄金時代として回顧している。
*コミック文化にとっての「狂乱の20年代」だったとも要約可能かもしれない。そしてその無邪気な暴走は当然の如く「統制の時代」を自ら招く事になる。

パルプマガジン】「世代交代」の危機に立たされる。

全盛期以降のパルプマガジン第二次世界大戦に伴う紙不足、テレビ放映開始、コミックブックの内容過激化やペーパーバック小説と激しい競争にさらされる事になった。戦後豊かさを増したアメリカでは紙質の良い雑誌とパルプ誌の価格差はもはやたいして重要な問題ではなかった事も差別化を難しくした。そして1957年にかつての主要業者アメリカン・ニュース・カンパニー (American News Company) が破産した時点ではブラックマスク、シャドウ、ドック・サヴェジ、 ウィアード・テールズといった多くの前世代の人気パルプ誌は既に跡形もなくなっていたのである。ごくわずかにSFやミステリ系のパルプ誌(アスタウンディング やエラリー・クインーズ・ミステリ・マガジンなど)がダイジェストサイズの形態で続いていただけだった。

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  • 第二次世界大戦(1939年~1945年)に伴う紙不足パルプ誌業界に衝撃を与え、出版コストを上昇させ業界低迷の引き金を引いた。1941年のエラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジンを矯矢として、多くのパルプ誌が従来より小さく薄いダイジェストサイズに移行していった。またストリート&スミス社は普通の雑誌市場に主力を移行するために自社のほとんどのパルプ誌を廃刊にした。
    *当時ファンライターだったウィルスン・タッカーが「スペースオペラ」という用語を初めてファンジンの記事で蔑称として使ったのが1941年の事である。当時のアメリカでは連続ラジオドラマが人気となっており、石鹸製造業者がスポンサーである事が多かった事から「ソープオペラ」と呼ばれていた。タッカー自身はSF界におけるソープオペラ、すなわち「切り刻まれ、すりつぶされ、悪臭を放つ、時代遅れの宇宙船の作り話("hacky, grinding, stinking, outworn, spaceship yarn")」がスペースオペラとしたが、それ以前から西部劇を意味する用語として「ホースオペラ」という言葉が存在する事から「舞台を西部から宇宙空間や異星の惑星に移してガンマン・馬・拳銃・山賊などホースオペラの題材を、宇宙兵士・宇宙船・光線銃・宇宙海賊といったSF風のガジェットに置き換えただけのもの」という定義も現れた。いずれにせよ「質の悪いSF=スペースオペラ」という用例は1970年代頃まで続く事になる。

  • テレビ放映開始…米国では1941年3月から白黒放送が始まり、1954年1月23日よりカラー放送に移行した。

  • コミックブックの内容過激化…戦後のコミックブックの世界では1952年までにDCコミックが長期連載してきた「スーパーマン」「バットマン」「ワンダーウーマン」を除いてスーパーヒーロー物がほぼ一掃されると同時に、アーチー・コミックに代表されるティーン・ユーモア、ウォルト・ディズニーのキャラクターが活躍するファニーアニマル・コミック(動物漫画)、サイエンス・フィクション、西部劇物、ロマンス、風刺ユーモア漫画など様々なジャンルが台頭した。しかし同時進行で1940年代後半から1950年代前半にかけて多数の暴力表現と流血沙汰を含んだ作品で悪名高いECコミックが大きな成功を収め恐怖漫画や実録犯罪漫画が台頭する事になる。
    パルプ・フィクションパルプマガジンだけでなく廉価版単行本も含む)の世界では、ファンタジー世界に「ビキニ・アーマー(ビキニ形の鎧)」が登場する以前の1945年に既にSFの世界でEarle Bergey(1901年~1952年)が「ビキニ宇宙服」を描いている。コミックとの対応上、相応の扇情性が求められた結果であろう。

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    *こうした漫画や他の漫画を標的にして、政治家と規制活動家は犯罪や少年非行、薬物使用、学力低下の原因として漫画非難を開始する。そしてスーパーヒーロー物の根底にはサディズムと同性愛嗜好があるという考えに取り付かれた精神科医フレデリック・ワーサムの著書『無垢への誘惑(1954年)』が漫画に対する懸念を取り上げ、同書は少年非行に関する上院小委員会に漫画への関心を抱かせる事になった。その結果モラル・パニックが発生し、学校および保護者のグループによる公的な漫画の出版禁止運動が行われ、いくつかの市では漫画本の焚書まで行われてアメリカにおける漫画業界は急速な衰退を迎える事になったのだった。「焚書」は当時日本で繰り広げられた「悪書追放運動」でも模倣された。

    *こうした事態に対応すべくナショナルやアーチーに代表される多くのアメリカン・コミック出版社は、1954年にコミックス倫理規定委員会を設立し、「現存するコミュニケーション・メディアの中で最も厳格な規制」を目標としたコミックス・コード(Comics Code)の試案を起草した。コミックス・コードの認可シールは、販売店に運ばれる実質上すべての漫画の上に速やかに現れた。ECコミックは、大して論争にもならなかった数冊の漫画本における試行錯誤の後に、風刺雑誌『MAD』に専念するために漫画の出版ラインを廃止した。この『MAD』は、規制を逃れるため、雑誌形式に変更された漫画本であった。

    *こうした動きの裏側に「大手出版によるライバル潰し」の意図を見てとる向きも存在する。実際には自社コミックも巻き込む業界縮小を引き起こしてしまっただけなのだが。

 またアメリカでは1948年頃より1950年代前半にかけてマッカーシズム赤狩り)が吹き荒れ、それに引っ掛かったハメットが(当時の日本では戦後輸入されたアメリカのハードボイルド小説やハードボイルド映画が大人気になっていたにも関わらず)以降完全に黙殺される様になるといった番狂わせもあったりした。こうして「パルプマガジンの世界」そのものは以降、下劣な底辺だけが残される展開に。

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 【コミック】ワンダーウーマンの登場とフェミニズム

モラルの弛緩したこの時代の空気に最も適応し、それ故に反対運度の最大の標的とされたのが、1941年にオールスターコミックス8巻にウィリアム・モールトン・マーストンが初登場させた「超能力を備えたアマゾネスの王女」ワンダーウーマン(Wonder Woman)だった。

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 *男性のスーパーヒーローに匹敵する能力を有し「英雄との対等の恋人」にしてバイセクシャルレズビアンやSMフェチといった側面も見せる彼女の存在は、アメリカ全土を教条的正しさで覆い尽くそうと企図していた当時の保守派市民団体にとって絶対に存続を許し得ないものだったのである

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*この一連の騒動は「ウォッチメン」においては黒いコスチュームの腰に赤い帯を巻いたレズビアン・ヒーロー「シルエット(みだら過ぎる存在として見捨てられ恋人と一緒に惨殺される)」と幾世代にも渡ってヒーロー集団を女性問題で混乱させ続ける「シルク・スペクター」、クリスとファ・ノーラン監督映画「ダークナイト ライジング」では「ラーズ・アル・グールの娘タリア=ウェイン財閥の女性幹部ミランダ」と「暗い過去の精算を切望するセリーナ・カイル=怪盗キャットウーマン」に確実に投影されてるが正直アメリカ女性への受けは必ずしも良くない。

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ちなみに「英雄との対等の恋人」の起源は古代ギリシャ時代まで遡る。

一方、江戸時代から「毒婦」なら平然と登場させてきた日本では「金色夜叉の赤樫満枝」「半七捕物帳の蟹のお角」「真珠夫人のヒロイン」「怪盗黒蜥蜴」「化け猫映画」などを量産し続けてきた。

  • 金色夜叉(1897年〜1902年)の赤樫満枝…暗い過去を持つ女高利貸しだが、主人公寛一の前では恋する乙女に成り果てる。国際的に「御嬢様笑い(成金の「公家笑い」を妻娘が真似たもの)」や「(コナン・ドイル「白衣の騎士団」のヒロインと並)ツンデレ」の元祖として認定されている。ちなみに「金色夜叉」が、19世紀末から20世紀初頭にかけての女性向け文学の流行を背景として当時英米女性の間で大人気だったBertha M.Clay(1836年〜1884年)の「Weaker Thana Woman(邦題:『女より弱き者』)」を下敷きとしているのは有名な話だが、原作に登場する「毒婦」は、あくまで「年寄りの金持ちと結婚して愛人を持つのが最高の生活と考える性根の腐り切った美少女(結局、主人公は彼女の誘惑を振り切り幼馴染と結婚する)」であって全然こうではない。
    尾崎紅葉 金色夜叉

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  • 岡本綺堂「蟹のお角」…「半七捕物帳」の複数の作品に登場する毒婦。その通称の由来は背中に彫った蟹の刺青なのだが、TVドラマ化に際して「女巾着切りで、そのスリをおこなう指が蟹のハサミを思わせる事からついた渾名」「実は半七の幼馴染で相思相愛の仲だったが亭主が悪党で身を持ち崩してしまった」「今や互いに配偶者ある身。半七は彼女の更生を願っているが、今でも半七を慕い続けるお角はそれ以上を半七に求めている」という設定が追加されてヒロイン度を急激にアップさせた。原作では「幕末期に開港された横浜に逃げ込んで外国人にヌード写真を撮影させて暮らしているが、手癖の悪さから今でも悪事から完全に足抜け出来ないでいる」といった設定。
    岡本綺堂 半七捕物帳 蟹のお角
    大収穫の週(陸)――「悪女の真実」(上) | 小倉不逞日乗

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  • 菊池寛真珠夫人1920年)」のヒロイン…こちらは「有閑マダム」のイメージの原点として有名。江戸川乱歩の時代には既に「ほ」と笑うのが定番となっているが、原典でもそうかは未確認。
    菊池寛 真珠夫人

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  • 江戸川乱歩の怪盗黒蜥蜴‥「黒蜥蜴(1934年)」で主役を張ったバイセクシャルの女盗賊。露出狂な上に気に入った美少年や美少女は最盛期の姿で剥製にして保存しておこうと考える変態。最後は惚れた名探偵明智小五郎の腕の中で息を引き取った(道連れにしようとしたが失敗)。「魔術師」と「吸血鬼」(1930年〜1931年新聞連載)」に登場するヒロインで、後に名探偵明智小五郎の助手にして未来の妻となる「怪盗の娘」玉村文代が品行方正に描かれ過ぎた反省から生まれたとも。

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  • 「化け猫映画…国際的にはドイツ表現主義の影絵的演出を採り入れた文芸ホラーとして受容された。「化け猫女優」としては入江たか子などが有名。西尾維新物語シリーズ」における「ブラック羽川」の国際的人気はこの伝統に支えられている。

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ちなみに20世紀前半の日本では夢野久作の「瓶詰地獄(1928年)」「死後の恋(1928年)」「少女地獄(1936年)」の様な「死と乙女」系ロマンも執筆されている。こうした流れが今日の日本漫画の世界に継承される過程では貸漫画時代から水木しげる楳図かずお、1970年代末〜1980年代からは高橋留美子高橋洋介や千之ナイフといった世代を超えて活躍する大物漫画家も相応の役割を果たしている。
夢野久作 瓶詰地獄
夢野久作 死後の恋
夢野久作 少女地獄

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*現在では伊藤潤二が国際的幻想作家と認定されているが、そういう流れの源流でもあり、かつまた同じ流れが「きゃりーぱみゅぱみゅ」の国際的人気を下支えしてたりもする。

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【コミック】【女性向け小説】「Girls Comic」の短い春とハーレクイン・ロマン

①1950年代はまた遊びたい盛りの少女達の好奇心を満たす「Girls Comic」といったの全盛期であったが「未成年に夜遊びや不純恋愛や推奨する」といった側面から規制の対象となり最後には殆ど根絶されるに至った。この時路頭に迷った漫画家の一人が、1960年台にはヒロイック・ファンタジーの表紙絵で有名となるフランク・フラゼッタ(Frank Frazetta:1928年~2010年)である。

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②こうした流れの中で1949年にオンタリオ州トロントで出版業を開始した編集者リチャード・ボニーキャッスルが英国女流作家の恋愛小説に着目し、1957年にイギリスMills&Boon社から版権を取得。1964年には恋愛小説専門の出版社となって1971年にはMills&Boon社を買収しイギリスに子会社を設立した。これが所謂「ハーレクイン・ロマンス(Harlequin rpmance)」の起源で、その作品は世界97カ国・27言語に翻訳され、恋愛小説の代名詞としての地位を不動のものとする事になる。そして遂にはノーラ・ロバーツ(Nora Roberts:1950年~)の様に「1979年に大雪で閉じ込められた際に暇つぶしで小説を書き始める。1980年にハーレクイン社に送った作品が1981年に初出版され、1985年から書き始めたMacGregor家のシリーズがベストセラーとなり1999年以降は発表した全作品がニューヨーク・タイムズ紙のベストセラー・リストに入る様になる。2007年にはTime 誌の「最も影響力を持つ百人」 の一人として選ばれ、出版米国ロマンス小説作家協会において初の殿堂入りを果たし、映画化された作品だけで10本を超える。2011年までに、ニューヨーク・タイムズ紙の「ベストセラー・リスト」 に861週ランクインを続けた計算となり、そのうち176週は第1位を占めていた」といった怪物まで生み出す事になったのだった。
*ブレークスルーの契機となったのは「シーク(sheik/sheikhアラビアの族長)物」を扱う様になってからとも。

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【コミック】連続テレビシリーズとコミックの二人三脚時代が到来

1950年代中頃、連続テレビシリーズ『スーパーマン(原題:The Adventures of Superman)』が人気を博すと各出版社が再びスーパーヒーロー物の出版を試み始め「白銀時代(Silber Age of comic books)」が到来した。

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  1. 「Showcase」の第4号(ナショナル、1956年)に過去のヒーローたるザ・フラッシュが復活したのを嚆矢とする。ナショナルはその後の6年間にわたってスーパーヒーロー物の出版ラインを拡大し、『グリーンランタン』や『ザ・アトム』、『ホークマン』、その他のスーパーヒーロー達の新たなバージョンを紹介した。

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  2. 1961年、原作者兼編集者のスタン・リーと作画家兼共同原作者のジャック・カービーは、マーベル・コミック用に『ファンタスティック・フォー』を製作。その第1話において人間的な欠点や恐怖心、内なる悪の心を備え、口げんかをしたり借金などの心配をするスーパーヒーロー達の自然なスタイルが導入された事がアメリカン・コミック業界の変遷を示す記念碑となった。当時確立されていた「スーパーヒーロー=堅物の社会改良家」というイメージが打ち破られ、カービーやスティーブ・ディッコ、ドン・ヘック、その他の作画家らによるダイナミックなアートワークも投入された。リーの多彩にして魅力的な脚本によるこの新しいスタイルは、スーパーヒーローを愛する子供達だけでなく作品の深いテーマ性を楽しもうとする大学生の間にまで読者を見出した。
    *とはいえ1960年台末までマーベルは競争相手たるナショナルに配本を任せていた為、生産可能な本のタイトル数が恐ろしく制限されていた。

  3. ナショナル(DCコミック)、マーベル、アーチーが、1960年代におけるアメリカン・コミックの代表選手であったが、それ以外にもディック・ジョルダーノを初めとする大勢のプロ作家の出発点となった低予算ブランドのチャールトン・コミック、デル・コミック、ゴールドキー・コミック、『おばけのキャスパー』や『リッチー・リッチ』のハーヴェイ・コミック、『T.H.U.N.D.E.R. Agents』で知られるタワー・コミックといった注目に値する出版社も存在した。また1960年代後半から1970年代前半にかけて、アンダーグラウンド・コミックス(確立済のコミック出版社とは無関係に若者が出版したコミック)の台頭が見られたが、その大部分において当時のカウンター・カルチャーとドラッグ・カルチャーの反映が見られた。それ以前の漫画には見られなかった自由闊達で無礼千万なスタイルが特長で、アングラ漫画の巨匠ロバート・クラム(フリッツ・ザ・キャットの生みの親)が1968年に『Zap Comix』創刊号を出版にした影響が大きかったという。

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レイ・ブラッドベリSF小説華氏451度(1953年)」は(Hays Codeが「個人がそれぞれの認識の制約下において経験する読書体験」と「強引に階層間の認識の差異を超越して発動する映画鑑賞体験」を峻別して後者を警戒した様に)「強引に階層間の認識の差異を超越して発動する」TV鑑賞体験と第二次世界大戦下や冷戦下で経験した「国家による思想統制」を結びつけ、それに警鐘を鳴らす内容だった。
*「国家による思想統制」に対抗するのは、その発想の浅薄さを暴く伝統的基礎教養が不可欠で、それは(それぞれの個人が自らのレベルにおいて一対一で直面する)読書体験を通じてしか得られない。それと相反するのが新聞やTVを総動員したマスメディアの扇動と考えたとも。

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 【単行本】パルプフィクション・リヴァイヴァル

①そもそもアメリカにはパルプマガジン全盛期にウィアード・テールズやアンノウン・ワールドなどのパルプ誌を中心に「ターザン・シリーズ」で有名なエドガー・ライス・バローズの「火星シリーズ」、クラーク・アシュトン・スミスの「ゾティーク」シリーズ、ロバート・E・ハワードの「英雄コナン」シリーズなどが「剣と魔法で彩られた架空戦記」のスタイルを樹立し、C・L・ムーアの「処女戦士ジレル」シリーズ、ヘンリー・カットナーの「アトランティスのエラーク」シリーズ、フリッツ・ライバーの「ファファード&グレイ・マウザー」シリーズ、L・スプレイグ・ディ=キャンプの「ハロルド・シェイ」シリーズ、ノーヴェル・W・ペイジの「炎の塔の剣士」シリーズといった追随を受けていた。

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②戦後には英国におけるJ・R・R・トールキンの「指輪物語The Lord of the Rings、執筆1937年〜1949年、刊行1954年〜1955年)」の爆発的流行が伝わったし、また1960年代に入るとヒロイック・ファンタジーの名作がペーパーバック本で再版される様になる。
*ヒロイック・ファンタジー(Heroic Fantasy)…1963年にL・スプレイグ・ディ=キャンプが編集したアンソロジーの副題として初めて用いられた言葉。当人もその流れの最中にあったフリッツ・ライバーは、その内容から「剣と魔法(英: Sword and Sorcery)」という別名を広めた。

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  • エドガー.R.バローズが1950年3月19日にカリフォルニア州エンシーノで心臓病のため死去すると、それから四年もしないうちに、生前60冊も刊行されていた単行本のほとんどが絶版になってしまった。そして1955年になるとファンタジー・プレス社のロイド・アーサー・エシュバッハが、埋もれていた作品群を偶然見つけ、2作(『失われた大陸』(The Lost Continent)と、『マン・イーター』(Man Eater 未訳))を独断でパンフレット版の形態で刊行する。

  • 1957年にはブラドフォード・M・デイが上記2作をクロス装で刊行。タイトルは『失われた大陸とマン・イーター』。

  • 1959年にはウィルマ・カンパニーが『ファリスの店から来た娘』(The Girl from Farris's 未訳)を、ほとんど判読不能な小型本で刊行。

  • 1962年には古書店経営者が、バローズの著作権が切れている事を確認、カナベラル・プレスの名で復刻を開始する。他社も参入し、ターザンの模倣作品まで発刊されるようになる。これを契機にターザン・シリーズの第2次ブームが始まり、この年の売り上げは1000万部に達したといわれる(アメリカ国内のみの数字。なお、これはペーパー・バックの総売り上げの1/30に相当する)。

  • 1962年から1963年頃より訴訟や告訴の応酬が始まる。その後、協定が結ばれ、エース・ブックスがペルシダー・シリーズと金星シリーズ、バランタインは火星シリーズとターザン・シリーズ、カナベラル・プレスはその他すべての作品の権利(未刊行本を含む)を所有することになった。

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③1964年以降はGirls Comic衰退で路頭に迷っていたフランク・フラゼッタが、エドガー・ライス・バローズのリバイバル・ブームに乗ってターザンのペーパーバックの表紙を手掛ける様になる。そして「ヒロイック・ファンタジー読者はフラゼッタの表紙を目当てに本を買う」と言われるほどの人気者となった。

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 【映画】「ソード&サンダル」「マカロニ・ウェスタン」「スペース・オペラ」復権

この時期にはイタリアを中心に「ソード&サンダル映画(1958年~1964年)」の量産も行われた。

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  • そもそも1950年代から1960年代に掛けての史劇ブームを牽引していたのは、欧州有数の巨大映画スタジオ『チネチッタ』で撮影された『クォ・ヴァディス(1951年)』や『ベン・ハー(1958年)』を嚆矢とする大予算映画(その多くがヨーロッパにプールされていたアメリカ映画の興行収益をヨーロッパで活用するために製作された)だった。

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  • しかし同様に『チネチッタ』で撮影された「クレオパトラ (1963年)」が大ゴケして「ジュリアス・シーザー(1970年)」「アントニーとクレオパトラ (1971年)」を最後にこうした大予算史劇は制作されなくなってしまうのである。こうした状況を受けて、以降のイタリア映画界は「マカロニ・ウェスタン」などに傾注していく。

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  • そしてこの時期に発表されたジョージ・A・ロメロ監督の低予算ホラー映画「ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(1968年10月1日)」の影響がホラー映画分野に影響を与え始める。

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また1960年代からスペースオペラの新たな定義が生まれ、1970年代には広く定着。
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  • ブライアン・オールディスがアンソロジー Space Opera (1974) の定義は(ハートウェルとクラマーの意訳によれば)「古き良き(時代遅れの)SF」といったもので、すぐさま異論を引き起こした。例えば、デル・レイ・ブックスを経営していた編集者ジュディ・リン・デル・リーと夫で同僚のレスター・デル・リーなどはレビューで「スペースオペラは時代遅れではない」と反論した上でリイ・ブラケットの初期作品をスペースオペラと銘打って再版したりしている。

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  • こうした下準備があって初めてジョージ・ルーカス監督「スターウォーズSTARWARS、1977年)」は日の目を見たのである。

    そして1980年代に入るとスペースオペラはさらに「宇宙を舞台とした冒険活劇」と再定義され著名な大衆文化作品群を指すのに用いられる様になっていく。http://www.gwthomas.org/frank_frazetta_dawnattack.jpg

B級映画の早撮り王」ロジャー・コーマンも1950年代から1960年代にかけて監督として活躍。ドライブイン・シアターなどインディーズ系列に作品を配給。

  • 1960前半前半は当時(ユニバーサル・モンスターズを擁するユニバーサル映画を)ハマー・プロが手掛けたカラー怪奇映画にあやかってエドガー・アラン・ポーの耽美な怪奇世界を展開。
  • 1960年台後半にはニューシネマ(New Hollywood)運動に先陣を切りつつ便乗。
  • 1970年代に入ると監督業を引退し「女囚シリーズ(1971年〜1972年)」において後に黒人搾取映画の人気を支えるカルト女優となったパム・グリアを発掘する。

以降は日本の特撮映画やアニメ映画の配給にも力を入れていく展開に。

【コミック】「青銅時代」の到来

1970年代に入ると(特にDCとマーベルにおける)人気作家の交代劇や、コミックコード委員会の規制緩和(1971年)に伴う人気キャラの設定変更が見られた。これを「ブロンズ・エイジ(Blonze Age of comic books)」というが、ゴールデン・エイジからシルバー・エイジにかけての変遷と異なりその変化はそれほど急激なものではなかったし、すべての作品が同時に迎えた訳でもなかった。
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  • スーパーマン・ブックスの編集者モート・ワイジンガーの引退や、ジャック・カービーのDC移籍。

  • スパイダーマン』における薬物乱用問題や、『グリーンランタン/グリーンアロー』シリーズなどでの、重大な社会問題を扱おうと試みた「適切な」アメリカン・コミックの出現。またスパイダーマンのガールフレンドであるグウェン・ステイシー、ドゥームパトロール、リージョン・オブ・スーパーヒーローズの幾人かのメンバーといった人気キャラクターの死。

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    X−Menも世代交代しウルヴァリンがアンチ・ヒーローとして人気を集める。

  • 1960年代におけるヒロイック・ファンタジーブームの延長線上における「カマンディ」「ジョナ・ヘックス」「スワンプシング」「ゴーストライダー」、リバイバル版「ドクター・ストレンジ」といった非スーパーヒーロー作品およびスーパーヒーロー境界作品のブーム。またリアルさを重視してバットマンはオリジナル版に近い「よりダーク」な雰囲気に再設定され、スーパーマンは職業がテレビレポーターとなってクリプトナイトの設定が取り除かれ、ワンダーウーマンは一時的に常人に戻る。
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    1950年代にメキシコでコミック化されてインディオ先住民的外観を与えられた英雄コナンもマーベルの手により復活。オリジナル版に忠実な脚本Roy Thomas・作画Barry Windsor-Smith(そしてJohn BuscemaやErnie Chan(Ernie Chua))のConan the Barbarian(1970年)を経てSavage Tales (1971年〜1975年)、Giant-Size Conan(1974年〜1975年)、King Conan/Conan the King(1980年〜1989年)、Conan the Adventurer (1994年〜1995年)、 Conan (1995年〜1996年)、Conan the Savage(1995年〜1996年)が展開された。アーノルド・シュワルツネッガーを主人公としてハリウッド映画化もされている。

そして1970年代に入ると書店買い取り形式による直販制度が導入された。これによって北アメリカ全土にコミック専門店が登場した事で読者に「社会の偏見の声からの避難所」が提供される一方でコミック文化は衆目から覆い隠される様になる。そしてより多くの号を読者に購入させる為に連載されるコミックのストーリーは更に長く複雑になっていき、複数の要因が重なって(全国的な紙不足、出版社数の増加、雑誌に対するコミックの商品単価の低さによる販売店の利益率の低さなど)1970年から1990年の間にコミックの価格が高騰する。こうした動きが後のアメリカにおけるコミック人気の凋落を引き起こしてしまう。

【映画】ハリウッド映画史における「失われた1970年代

1970年代(特に「アントニーとクレオパトラ (Antony and Cleopatra、1972年3月2日公開)」から「スターウォーズ(1977年5月25日公開)」まで)はハリウッド映画史において「(大予算映画で確実に勝つ見込みがつけられなくなった)失われた1970年代」と呼ばれている。

  • 1971年「ブラックスプロイテーション映画(公民権運動後のアメリカで黒人観客を集める為だけに製作されたギャング物、刑事物、ホラー物など様々なジャンル映画の「黒人版」)」の流行が始まる。ロジャー・コーマンが制作側に回り、カルト女優パム・グリアを実質上デビューさせた「残酷女刑務所(The Big Doll House、1971年)」「ビッグ・バード・ケイジ(The Big Bird Cage、1972年)」「女刑務所/白昼の暴動(Caged Heat、1974年)」を制作させたのもまたこの時期だった。これが日本に伝わると梶芽衣子主演の「女囚さそり・シリーズ(1972年〜1973年)」となり、イタリアに伝わると「ナチ収容所もの」となった。アメリカでも残忍な女看守にダイアン・ソーンを配した「ナチ女収容所/悪魔の生体実験(1974年、ナチス収容所の女所長)」「アラブ女地獄/悪魔のハーレム(1976年、色情狂の族長に仕えるハーレム長)」「シベリア女収容所/悪魔のリンチ集団(1977年、帝政ロシアの収容所の女所長)」などが制作された。
    *どれも判で押したかのように内容は同じ。前半は残酷な拷問とリンチの数々。中盤で誰かがセックス。後半は女囚たちの叛乱と脱獄。ロジャー・コーマンが自分で監督したくなかった気持ちも分からないではない。

  • この時期撮影された「007:死ぬのは奴らだ(Live and Let Die、1973年07月05日公開)」は、黒人役者を多用し当時流行していた「ブラックスプロイテーション映画」を模した演出を多用。

  • 第一次オイルショック(1973年)があり「燃えよドラゴン(1973年8月17日)」が大ヒットしてカンフー映画」が国際的ブームとなった翌年に公開された「007:黄金銃を持つ男(The Man with the Golden Gun、1974年12月19日公開)」は舞台をアジアに移すと同時に空手や相撲といった格闘技要素を強めている。

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  • フランケンシュタインの逆襲(1957年)」「吸血鬼ドラキュラ(1958年)」といった往年のホラー名作のカラー版リメイクを成功させてきた英国のハマー・フィルム・プロダクションも、より刺激の強いホラー映画が氾濫する様になった影響もあって低迷。不振を打開すべく「バンパイア・ラヴァーズ(The Vampire Lovers、1970年、『吸血鬼カーミラ』を原作とするセクシーさを強調した女吸血鬼映画)」や「ドラキュラ'72(Dracula AD 1972、1972年:ドラキュラを現代に蘇らせた異色作)」や「新ドラキュラ/悪魔の儀式(The Satanic Rites of Dracula、1973年:生きるのに飽きたドラキュラ伯爵が国家権力の中枢を支配下に置いてニュータイプの腺ペスト菌で世界を破滅させようとする)」「ドラゴンvs7人の吸血鬼(英国題:The Legend of the 7 Golden Vampires、香港題:七金屍または七屍金。1974年:香港の映画会社ショウ・ブラザーズとの提携でカンフー映画とホラーの融合の融合を目指した異色作)』など次々と新機軸を打ち出すも劣勢を挽回出来ず、1970年代半ばで映画製作をほぼ中止してしまう。そしてハマー・ホラー全盛期にドラキュラ俳優として名を馳せたクリストファー・リーは、同時期に「007:黄金銃を持つ男」の悪役として新たなキャリアを歩み始める事に。 
  • タワーリング・インフェルノ(1974年12月14日公開)」がワーナー・ブラザーズ20世紀フォックスの共同製作・提供作品となったのも、こうした世相を反映したものだったかもしれない。またフランシス・コッポラ監督の「ゴッドファーザー(1972年3月15日公開)」へのマーロン・ブランドの出演料が「出演料ゼロ、ロイヤリティーとして興行収入の数%を上限150万ドル付で支払う」というものだったのは有名な話である。なにしろ「フレンチ・コネクション(1971年10月7日公開)」や「エクソシスト(1973年12月26日公開)」を当てたウィリアム・フリードキン監督でさえ、多額の制作費をかけた1977年の次作「恐怖の報酬(1953年の同名フランス映画のリメイク版)」は興行・批評とも失敗に終っている。厳しい時代だった。

  • 1972年、祖父が南イタリア出身だったフランシス・コッポラ監督が「ゴッドファーザー(The Godfather)」を公開。シチリア系イタリア移民の家に生まれ、マフィアの支配するイタリア移民社会で育ったマーティン・スコセッシ監督の「タクシードライバー(Taxi Driver、1976年)」、シチリア移民1世の父と移民2世の母の間に生まれニューヨーク市のリトル・イタリーで育ったシルヴェスター・スタローンの主演・脚本作品「ロッキー(Rocky、1976年)」などがこれに続く。

  • またオカルト方面への関心が高まり「ローズマリーの赤ちゃん(Rosemary's Baby、1968年)」や「エクソシスト(The Exorcist、1973年)」に続く形で「オーメン(1976年)」「エクソシスト2(1977年)」「オーメン2/ダミアン(1978年)」「オーメン/最後の闘争(1981年)」が制作された。

いずれにせよ「スター・ウォーズSTAR WARS、1977年)」の大ヒットがブロックバスター映画復活の狼煙となった事実は動かない。

 要するに「統制を求める動き」の動きは内側からもあったのですね。

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  • 読者の求める内容が次第に「パルプマガジンに掲載される短編小説」から「主要登場人物の重なる単行本シリーズ」へと推移していく。背景設定も精緻化が必要となり、H.P.ラブクラフトのCosmic Horrorを母体に複数作家が共同で手掛けるクトゥルフ神話というプラットフォームが生まれ、ロバート.E.ハワードの英雄コナンシリーズが編年体に再編された。ハードボイルド作品の担い手も(主人公がキャラクター性に乏しいか単発的な)ハメットやハドリー・チェイスから、レイモンド・チャンドラーの「フィリップ・マーロー・シリーズ(1934年〜1959年)」やロス・マクドナルドの「リュウ・アーチャー・シリーズ(1946年〜1976年)」に推移。そしてSFファンタジーの世界は「(P.K.ディックですら「一色で塗る潰される重圧を感じた」と述懐している)トールキン・ショック」や「スター・ウォーズ・ショック」を経験する事に。
    *日本で刊行された「英雄コナン・シリーズ」は早川版が「(出没場所も出没時期もバラバラな)オリジナル版」、創元版が「(編年的に整理された)年代記版」となっている。
    http://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/ra185/users/8/9/4/2/caesar028-img600x450-1441546132u6fseh19316.jpghttp://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/ra222/users/7/1/9/1/tomoedix-img450x600-14558524675h1zea27881.jpg
  • ハリウッド大手配給会社や大手コミック会社が市場独占を目論んでかえって失敗し、インディーズ業界からの大規模な反撃を食らう。ヒッピー運動や新左翼運動や公民権運動の盛り上がりを背景とするカウンター・カルチャーの台頭がその背景にあった。
    *こうした運動の結果、1970年代中旬にマーベル・コミックのキャラクターであるウルヴァリンや同じくマーベルが漫画化を手掛けた英雄コナン・が圧倒的人気を獲得する事になる。

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  • その一方で読者の求めるストーリー性の供給を怠っていたアメコミ業界のコミックライター陣は、フランク・ミラー(Frank Miller、19680年デビュー)の様な(海外の漫画文化の勉強に熱心な)アーティスト兼務の作家、アラン・ムーアAlan Moore、米国での活躍は1983年以降)の様な英国人原作者、さらにはカナダ人輸入業者による日本漫画の売り込み(特に徹底して規制されたGirls Comicの世界に対する少女漫画の攻勢)によって激しく追い詰められる羽目に陥った。
  • ティム・バートン監督の「バットマンBATMAN、1989年)」「バットマン リターンズ(BATMAN RETURNS、1992年)」に端を発するハリウッド大作映画化路線の成功でやっと一息ついたとも。
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    *アメリカの出版市場に最初に日本の漫画の翻訳版を持ち込んだのはカナダ人であったが、2004年にTOKYOPOPが刊行した「フルーツバスケット」は2006年12月の時点において15巻まで刊行。同社最大のヒット作となり、2006年12月6日のTOKYOPOPの公式サイトによればその辞典までの累計売上部数が200万部を超え「もっとも売れている少女マンガ」として、ギネスブックに認定される事になった。欧米では、それまで「それぞれの若者が心に抱える問題にどう向き合い、どう解決していくのかに焦点を当て続ける」ティーンエイジャー向けの読み物が極端に少なかったせい。

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日本の強みは、こうした一連の動きを江戸時代に一通り経験済みだった点にあるとも。

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  • 義経記安倍晴明に関する伝承は江戸時代初期の段階では全国に矛盾だらけの状態で散在しているだけだったが(能の題材としてはそれで十分だが、人形浄瑠璃や歌舞伎や読物の世界はより長大な物語性を必要とするので)次第に全生涯が完全に編年化されていく。

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  • 建設されたばかりの江戸は諸国からの流入者の坩堝状態だったので共通語も存在せず、荒事浄瑠璃や荒事歌舞伎でしか人が呼べなかった(米国コミックでヒーロー物が人気になったのと同じ理由)。次第に言語環境が整うにつれ関西から(物語性を重視する情緒豊かな)和事が導入され、女形役者も自前で用意出来る様になり「お嬢様」や「老人語」の様な「お約束」も固まり、出版文化も栄え、江戸時代後期には貸本産業が未曾有の繁栄を迎える事に。読物のトレンドも短編集から大長編に推移し、十返舎一九の「東海道中膝栗毛1802年〜1814年)」、曲亭馬琴滝沢馬琴)の「椿説弓張月(1807年〜1811年)」や「南総里見八犬伝(1814年〜1842年)」、柳亭種彦の「偐紫田舎源氏1829年〜1842年)」などが人気を勝ち取った。

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  • 人形浄瑠璃や歌舞伎や落語といった演芸と出版界と浅草などの見世物興行、さらには全国の宿場町や名所とのタイアップが発達。販売戦略や広告戦略も精緻となり「3枚組のトレーディング・カード」も売られていた。またフランスに浮世絵が伝わったのもそれが白磁器の包装に使われていたからだったりする。

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しかし現時点では、まだその強みを生かし切っていないとも。

A.T.カーニーの分析によると、世界市場における日本のマンガ売上高シェアは24%、ゲームコンテンツは20%弱を占め、人気を博している。

しかし、映画や音楽、キャクラター物販も含めたコンテンツ市場全体でみると、5500億ドルのうち、日本のシェアは2.5%、138億ドルに過ぎない。

このうちテレビ番組や映画、DVDなど「放送コンテンツ」をみると、2013年に米国は183億ドルを稼ぎ、次いで英国の44億ドルと続くが、日本はわずか2億ドルに過ぎない(情報通信研究所の調査結果)、

この現状について、経済産業省の商務情報政策局では、国内のコンテンツ関連企業が海外への売り込みに関心が低かったことが関係しているとみている。


同局の関係者は「日本国内のコンテンツ市場が大きいため、これまではコンテンツ業界の海外展開への意識が低かった。アジアでは文化規制や表現規制、自国コンテンツの優先主義などもあり、市場拡大が遅れた面もある」と指摘する。

国連貿易開発機構(UNCTAD)によれば、日本の知的財産権使用収入は14年時点で368億ドルと、米国の1316億ドルに次いで世界第2位となっている。

収益を生み出す知的財産権の範囲は広く、映画や音楽、コンテンツにとどまらず、産業技術やコンピュータソフトなども含まれる。産業関連の知財も対象のため、全体でみると日本の存在感は大きく見える。

しかし、産業関連では、企業内取引が多くを占めている。海外からのラインセンス収入が大きい自動車などの輸送機械では、88%程度が親会社・子会社間の取引による収入となっている(特許技術年次報告書2016年版)。海外企業からラインセンス収入を稼いでいるとのイメージは、実態から大きく乖離することになりそうだ。

文化コンテンツについても支払いが大きく、著作権収支も赤字だ。日本貿易振興機構(JETRO)知的財産課の高村大輔氏は「日本はなかなか知的財産で稼ぐところまで行っていない」と指摘する。

トップを走る米国では、産業技術が37%、コンピュータソフトが30%、映画や音楽、コンテンツなどが15%など、多岐にわたる分野で収入を得ている。

世界のメディアコンテンツ市場は、2020年に7580億ドルと13年の1.4倍に拡大すると予測されている。

拡大する市場の中で、日本のコンテンツの人気は確実に高まっており、産業技術の特許では未使用が多く「伸びしろが大きい」と関係者は口をそろえる。

経産省では、コンテンツの世界シェアで米国の35%に追い付くことは困難だとしても、現在の2.5%から10%程度への引き上げを一つの目安としている。

下手したら「江戸時代における白磁器や醤油の輸出」 の方が産業規模としては大きかったりして。