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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】「究極の自由主義者=引きこもり」?

究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」それなら、あるべき自由主義(liberalism)の姿とは?

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e6/Liberalism_in_Wales_-_JM_Staniforth.png

一人で考え込んで結論が出る問題ではないので、これまでの投稿と「ネット上のコンセンサス」の擦り合わせを試みました。面倒だけどこれをちゃんとやっておかないとただのただの投げっぱなしになっちゃう。

ochimusha01.hatenablog.com

検索語を少し変えると引っかかってくるページも変わります。

究極の自由主義 - Google 検索

そもそも日本語の自由には「リバティ; liberty(禁止が解除された状態)」と「フリーダム; freedom(最初から一切の束縛がない状態)」の区別すらありません。後者の概念自体は江戸時代からありました。「切捨御免」とか「天下御免の向こう傷」とか。
*「切捨御免」…実際に斬れるのは原則として領民のみ。諸国から人の流入する大都市では刀を抜いただけで下手をしたら自分の方が士籍剥奪の上に打ち首、一方所領でもそれが原因で一揆なんぞ起ころうものならすかさず改易やお取り潰しというFreedom状態のは程遠いLibertyであった。

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*「天下御免の向こう傷」佐々木味津三原作「旗本退屈男」は悪と戦い額に三日月型の傷を受けた代償に将軍家より「どこで何をしても罪を問われない」というお墨付きを得たが、元禄太平の世ではその特権の使い道が見つからず退屈しているという設定。

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自由について

自由と自在とを混同している者がいる。自在とは、対象を自分の意のままにすることである。自由に見えて、実は、自由の対極に位置するものだ。 
*これはまさに「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」と重なる内容ですね。

欲望を解放することが、自由になることだと、錯覚している者がいる。しかしそれでは、欲望の奴隷になってしまい。かえって、不自由な思いをすることになるであろう。欲望に身を委ねれば、飢え、かつ、渇く。飢餓は、最も不自由なことだ。人生には、限りがある。欲望には、限りがない。限りある者が、限りないものを支配しようとすれば、己を失ってしまう。自己を失ってしまったら自由などあり得ない。
*欧米ではこの意味で快楽主義(Epicureanism)と禁欲主義(Stoicism)は表裏一体と考える。エピクロス派の始祖エピクロス(紀元前341年〜紀元前270年)もストア派のゼノン(紀元前335年〜紀元前263年)もソクラテスプラトンアリストテレスの哲学が流行らなくなってから、キリスト教が伝来するまでの間ギリシャ人の精神生活を支えたヘレニズム時代を代表する哲学者。古代ローマ時代の哲人セネカ(Lucius Annaeus Seneca、紀元前1年頃〜紀元後65年)経由で(ローマ教会の教学に対抗すべく古代ギリシャ・ローマ古典を教養として身につけたルネサンス期以降の)フランス貴族や英国ジェントリー階層に伝わった。この事実抜きにはマルキ・ド・サドの倒錯も功利主義(utilitarianism)も語れない。肝心なのは「自分の肉体の主人になるとはどういう事か」なのである。

古典的自由主義(Classical liberalism)-Wikipedia

個人の自由と小さな政府を強調する思想。伝統的自由主義、レッセフェール自由主義、市場自由主義、また英語ではリバタリアニズム、英米以外では単に自由主義リベラリズム)と呼ばれることもある。

なお、ドイツの「オードリベラリズム (ordoliberalism)」は、これとは全く意味が異なる。アレクサンダー・リュストウ(Alexander Rüstow)やウィルヘルム・レプケ(Wilhelm Röpke)は、レッセ・フェール自由主義者と異なり、より国家による介入を指向しているからである。

 アメリカの自由主義

ヨーロッパでは自由主義は多くの対抗勢力からの反対を受けたのに対し、アメリカでは、自由主義の理想に対する反対はほとんどなかったため、自由主義は強く根付いた。

  • 産業革命期から大恐慌を経て初めて、アメリカの自由主義は最初の思想的挑戦を受けることとなった。これを契機にアメリカの自由主義は、それまで反対していた大きな国家に対する考え方を変えた。

  • この転換について、アーサー・シュレジンジャーはこう書いている。「産業構造が複雑化するにつれて、機会の平等を保障するために、政府によるより強い介入が求められた時、伝統的な自由主義は、ドグマにとらわれるのではなく最終的な目標に忠実であろうとして、国家に対する見方を変えた。……社会福祉国家という概念が登場した。そこでは国の政府が高い雇用水準を維持し、生活や労働の基準を監督し、企業間の競争の方法を規制し、様々な社会保障制度を確立する明示的義務を負っているとされた(Arthur Schelesinger Jr. 、"Liberalism in America: A Note for Europeans", in The Politics of Hope (Boston: Riverside Press, 1962))」

なお、これに対し、ヨーロッパでは、イギリスの島々を除けば、自由主義は、社会主義のようなライバルたちと比べて、かなり弱い立場にあり、支持を失っていたので、その意義についての変化も起こらなかった。

 自由主義の復権

1970年代までに、経済の伸び悩みと税金・負債の上昇が、新たな古典的自由主義の復活を促した。フリードリヒ・ハイエクミルトン・フリードマンは、財政政策における政府の介入に対する反対論を述べ、その考え方は1980年代から、アメリカ及びイギリスの保守政党によって採用された。実際、ロナルド・レーガン米大統領は、フレデリック・バスティア、ミーゼス、ハイエクの影響を認めている。

ナンシー・L・ローゼンブラムは次のように書いている。「古典的自由主義の核心にあるのは、次のような命題である。「自発的な組織を育てよ。政府の大きさ、そして更に重要なのはその守備範囲を制限せよ。国家が、人々を破滅的・寄生的な生き方から遠ざけ、生産的な生き方へ導くための基本的な法の支配を提供すれば、社会は自分の力でやって行く。人々を繁栄させようと思えば、人々に自らの生活を送らせよ。(ナンシー・L・ローゼンブラム、Ronald Reagan, "Insider Ronald Reagan: A Reason Interview", Reason, July 1975.)」

古典的自由主義の本質

特に個人の自律権 (sovereignty of the individual) を強調し、財産権が個人の自由にとって不可欠であると考える。これが、レッセ・フェールの原則の哲学的基礎になっている。

もともとそのイデオロギー直接民主制に反対するものであった。なぜなら、多数派による支配というむき出しの概念には、多数派がいつも財産権を尊重したり法の支配を維持したりすることを保証するものは何もないからである。

  • 例えば、ジェームズ・マディソンは、直接民主制に反対し、個人の自由を保障した立憲共和政体を支持して、その理由を次のように述べた。直接民主制においては、「ほとんどの場合に、一つの感情や利益が多数派によって共有されるであろうが、弱者を犠牲にしようとする誘引をチェックするものはない。」

  • アンソニー・クィントンによれば、彼らは「束縛されない市場」が、人間の需要を満たし、資源を最も生産的な使用に向けるための最も効率的な仕組みであると信じている。古典的自由主義者は、保守主義者よりも、最小限度を超える政府の存在に対し懐疑的である。

  • ただし、無政府資本主義者のウォルター・ブロックは、アダム・スミス自由経済の唱道者であったと同時に、政府の多くの分野での介入も許容していたと指摘する。彼らによる「規制されない自由市場」の提唱は「個人が合理的で、利己的で、かつ目標に向かって順序だった行動をするという想定」に基づいている。

彼らにとって個人の権利は自然的、内在的ないし不可侵のものであり、政府の存在とは関係なく存在するものであると主張する。

  • トマス・ジェファーソンは、これを「不可侵の権利 (inalienable rights)」と呼んだ。彼は「……正当な自由とは、他者の同等の権利によって我々の周りに引かれた制約の範囲内で、我々の意思に基づいた行為が妨げられないことをいう。これに『法の制約の範囲内で』と付け加えることはしない。なぜなら、法とはしばしば独裁者の意思にすぎず、またそれが個人の権利を侵害する場合は常にそうであるからである。」と述べている。

古典的自由主義者が福祉国家論に対して敵対的なのはこうした立場故である。

 古典的自由主義者と社会自由主義

古典的自由主義にとって権利とは消極的性質を持つもの、すなわち他者(そして政府)が個人の自由に介入しないよう要求する権利である。

これに対し、社会自由主義(現代自由主義、または福祉自由主義ともいう)は、個人が他者から一定の利益やサービスを受けられる積極的権利を有すると主張する。

社会自由主義者と異なり、古典的自由主義者は、福祉国家論に対して敵対的である。そして、実体的平等(結果の平等)には関心がなく、「法の前の平等」にのみ関心を持つ。また、古典的自由主義は、社会自由主義に対し批判的であり、個人の権利を犠牲にして集団の権利を追求することに反対する。

ハイエク古典的自由主義

「イギリス系」と「フランス系」という二つの異なる系譜があるとする。

  • デイヴィッド・ヒューム、アダム・スミス、アダム・ファーガソン、ジョサイア・タッカー(Josiah Tucker)、エドマンド・バーク、ウィリアム・ペーリーといったイギリスの思想家によって代表される系譜は、経験論、コモン・ロー、そして自然発生的に生成した(理論的には完全に解明されていない)慣習や制度に対する信頼を表現したものであった。

  • 一方、フランス系には、ルソー、コンドルセ、百科全書派、重農主義者が含まれる。この系譜は、合理主義と、理性の無限の力を信じ、時には伝統や宗教に対する敵意を見せる。

ただし、国によるラベル付けが、それぞれの系譜に属する人に正確に対応するものではないことは、ハイエクも認めるところである。例えば、ハイエクは、フランス人のモンテスキュー、バンジャマン・コンスタン、アレクシス・ド・トクヴィルは「イギリス系」に属するとし、イギリス人のトマス・ホッブズ、ウィリアム・ゴドウィン、ジョゼフ・プリーストリー、リチャード・プライス、トマス・ペインは「フランス系」に属するとしている。

また、ハイエクは、「レッセ・フェール」というラベルはフランス系から来たものであって、ヒュームやアダム・スミスやバークの思想とは無縁のものであるとして、これを退けている。

とりあえず突き合わせてみましょう。 

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ハイエク古典的自由主義論における「イギリス系」と「フランス系」の分類は大変興味深いが、両者の対立が最も先鋭化したフランス革命期にエドマンド・バーク(Edmund Burke、1729年〜1797年)が執筆した「フランス革命省察(Reflections on the Revolution in France、1790年)」に傾注すれば、もっと話が単純化出来そうな気がする。

バークはアメリカ独立革命運動を支持した一方、その後のフランス革命には反対した。反フランス革命の立場をとったので、ホイッグ党の保守派派閥の中で率先者となったが、彼はこれを「旧ホイッグ」と呼び、チャーリー・ジェームズ率いるフランス革命支持派の「新ホイッグ」に反対した。この時バークが対立軸として設定されたのは以下。

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  • 「理性主義(rationalism)」…理性(希: λόγος、羅: ratio、英: reason、人間全般に先天的に備わっている機能・能力であると信じ得る確たる知識・判断の源泉)の命令さえあれば、何もかも一度に一気に刷新して良いと考える急進主義。当時は社会契約論と関連付けられて語られていた。

  • 「時効の憲法(Prescriptive Constitution)」…ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない不問律。バークはこれを説明する為に「社会契約」の対語として「本源的契約」という用語を使っている。

バークはさらに、もしかしたら「社会契約(英Social Contract、仏contrat social)」論なるもの、それ自体が「使い捨てのスローガン」に過ぎないかもしれないという立場に立つ。
*そもそも理性主義と社会契約論の間に直接の関係はない。絶対王政の完成によって「(国王や教会の権威に裏付けられた)領主が領民と領主を全人格的に代表する農本主義的伝統」がこれ以上存続する意義を失った段階で、それを突き崩す最後の一撃を加えただけに過ぎないという考え方も出来る。中華王朝の交代に際しては、その前夜には天人相関説に基づく易姓革命論が乱発され、交代後には一斉に取り締まられるのが常だった。社会契約論ブームに至ってはさらに酷い。「領主が領民と領主を全人格的に代表する農本主義的伝統」の完全消滅が確認されると誰も思い出さなくなってしまったではないか。
領主が領民と領主を全人格的に代表する農本主義的伝統 - Google 検索

絶対王政の完成…当初は伝統的社団同士の闘争の仲裁者として台頭した国王が中央集権樹立に成功。その結果、宮廷は国王の権威にのみ縋る宮廷貴族の占有物となり、伝統的社団はすべからく独立性(自律性)を喪失し、国政は原則として国王の権威によってのみ裏付けられた(軍隊や警察も含む)官僚団の占有下に入り(その判断結果のみが法源となる)法実定主義(英: legal positivism, 独: Rechtspositivismus)が末端まで浸透した状態。ある意味皇帝ナポレオン、皇帝ナポレオン三世ヒトラーの支配下でも進行したとされている。

*大変興味深い事に、「太陽王ルイ14世はその遺言においてこの状態の現出を極度に恐れている。それが王権と(経済発展の鍵を握る)新興産業階層の「頂上対決」を誘発する可能性があるからで、彼らを宮廷に積極的に招聘し、その言い分を十分に聞きながら行政に反映させる事で両者の対立を表面化させない事を至上課題として命じているのある。バークも「英国は(ジェントリー制度によって)経済的成功者を中央集権側に取り込み続けるが、フランスはそうせず彼らを在野の不満層として鬱積させてきた。これがフランス革命の勃発した真因である」と述べている。実際のフランス革命はもっと複雑な展開を辿ったが(それ故にバークのこの指摘は同時代人から「浅薄過ぎる発想だ。悪の討伐はいつの時代も絶対正義である」などと非難されている)むしろその発想自体は時代を超えて生き延びる事となった。

それはそもそもの社会契約論の起源、すなわち名誉革命(Glorious Revolution、1688年〜1689年)期に発表されたジョン・ロックの「統治二論(Two Treatises of Government、1690年)」からしてそうだったのだという。実際それは王統交代を正当化する為にホイッグ党が広めた使い捨てのスローガンだったに過ぎず、英国に重要な政治哲学として定着する事もなかったのである。フランスにおいてもルソーが加工して再紹介したから広まったに過ぎない。
*「王統交代を正当化する為にホイッグ党が広めた使い捨てのスローガン」…困った事にその後「歴史に選ばれた」筈のホイッグ党(後の自由党)は「歴史から見捨てられた」筈のトーリー党(後の保守党)によって次第に攻略され、最後は完全崩壊にまで追いやられてしまう。まさにここでいう「古典的自由主義の壊滅」の歴史そのもの。そして後に「歴史はホイッグ党を選んだ。トーリー党はもう滅びていくしかない」なるプロパガンダ史観のみが残り「ホイッグ史観(Whiggish historiography, Whig history, Whig interpretation of history)」として揶揄の対象となるのである。
ホイッグ史観 - Wikipedia

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*「社会契約論」においてルソーが果たした役割…スイス人であるルソーに「領主が領民と領主を全人格的に代表する農本主義的伝統」に憎悪しながら依存するフランス人のアンビバレントな感情なんて理解出来ないから、軽い気持ちで「理性の命令さえあれば、何に対してだって挑戦して良い」と口にする事が出来た。その結果どうなったか。20世紀後半になるとマルクスが「我々が自由意思や個性と信じているものは、社会の同調圧力に型抜きされた既製品に過ぎない」と言い出す。フランスでは象徴主義やカントが流行する。要するに、理性の命じるままに突っ走り続ける過程で選択を間違い続け、すっかり理性不信症に陥ってしまったのである。一方同時代のスイス人はチーズの消費量を伸ばすべく欧州全域にチーズ・フォンデュやラクレットといった郷土料理を広めようと躍起になっていた。フランス革命政府はスイスを占領して彼らを「革命的国民」に改造しようとしたが見事に失敗。ナポレオン時代に匙を投げている。「挑戦は自由だが、成果が伴う保証はない」という事なのだろう。ちなみにスイス人によるチーズ・フォンデュやラクレットの拡販は大成功に終わっている。

②こうして話はまたもや科学実証主義の元になった新アリストテレス主義に戻ってくる。16世紀イタリア・ルネサンス期に人体解剖学を主導したパドヴァ大学ボローニャ大学で流行した「実践知識の累積は必ずといって良いほど認識領域のパラダイムシフトを引き起こすので、短期的には伝統的認識に立脚する信仰や道徳観と衝突を引き起こす。逆を言えば実践知識の累積が引き起こすパラダイムシフトも、長期的には伝統的な信仰や道徳の世界が有する適応能力に吸収されていく」なる思考様式に照らし合わせてみれば「理性主義VS時限の憲法主義の対立軸」なんて程度問題に過ぎない。しかし実は、その鷹揚さの中にこそ新たな対立軸を生み出す爆弾が埋め込まれていたので有る。

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  • 科学万能主義(Scientism)…その起源は「産業者の教理問答(catechisme des Industriels、1823年〜1824年)」をサン=シモンと共著した後に袂を分かったオーギュスト・コントの実証哲学(Philosophie Positive)とされる事が多い。その鮮烈な「科学者独裁構想(科学者は、あらゆる科学を統合する事によって未来予測の精度を高め、現在を完全計画下に従えるべきである)」は、コンドルセの「人間精神進歩の歴史」の進歩思想の延長線上においてサン=シモンと二人で練り上げてきたものだったが、サン=シモンが「裁定者としての機能に徹するなら、国王を産業者同盟の代表者に迎える用意がある」と日和ったので決別と相成った。「何そのアメリカの古典的B級スペース・オペラみたいな設定?」と思った人は正解。スペンサーの社会進化論はこの考え方の影響を受けながら構築されて米国人に熱狂的に受容された。しかし、その誤解から生じた「淘汰の理念」と「レッセ・フェール」概念の奇妙な融合が金鍍金時代(1865年〜1893年)後に訪れた恐慌状態解消を遅らせるばかり。その理不尽への義憤に立ち上がった「科学化された人々」が手を取り合って全国規模で社会改革を推進したのが所謂「進歩主義時代(Progressive Era、1890年代〜1920年代)だったという次第。
    *一般に彼ら「古典的自由主義者(Classical liberalism)」は世界恐慌に直面してニューディール政策が始まると守旧派と成り果て「社会自由主義者(Social Liberalism)」に滅し尽くされたとされているが、なんたるホイッグ史観。アメリカにおける「古典的B級スペース・オペラ」の人気は1950年代末頃まで続く。「科学化された人々」の信念に満ちた行動はこの時代まで続くのです。とはいえ「禁酒法(Prohibition、1920年〜1933年)」なんぞ制定してしまう様な人達の掲げる正義はやはりどこか歪で、1960年代に入るとヒッピー運動やら公民権運動が荒れ狂って彼らの信念を粉々に打ち壊してしまう。

  • 漸進主義(gradualism)…科学的でない急進主義(radicalism)が全面否定される時代に対応した保守主義(Conservatism)の一形態。バークの「時効の憲法(prescriptive Constitution)」論から出発し「ある世代が自分たちの知力において改変することが容易には許されない不問律が存在する」という立場に立脚する以上は、ハンガリー出身の文化人類学者カール・ポランニーが指摘する様に「存続だけをその存在目的とし、究極的には何でも取り入れ切り捨てる準備が出来ている人達」でもある。確かに変化はしていくが、それに必要なだけの人数や地域を巻き込み、相応の時間を費やし、議論を尽くす。意見の対立が解消されるとは限らないが、それと無関係に「変化そのもの」は適切な速度で適切な範囲で進行していく。

 

そもそも漸進主義(gradualism)とは何か。これまでの投稿などから実例を拾い集めてみる。

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  • 日本のヤマト王権/朝廷による氏族社会克服の試み…結局自力ではどうしようもならなくなり、中国から律令制を導入して何とか達成。佐紀盾列古墳群に大王墓が定期的に築造される様になった4世紀中旬をヤマト王権成立期とし(氏族社会に立脚した)地方行政が崩壊して律令制がほぼ実態を失った10世紀を氏族社会の解体完了期と見做すなら実に650年前後の歳月が費やされた事になる。

  • 16世紀と18世紀にピークを迎えた英国囲い込み運動(enclosure)ハンガリー出身の文化人類学者カール・ポランニーが「大転換(The Great Transformation、1944年)」の中で詳細に分析し、そこに英国型保守主義の原点を見た。現代人の観点では正直言ってそれを推進した側の意見にも、それに反対した側の意見にも同情は出来ない。ただ両者の衝突があったからこそ、その運動は適切な速度で進行し、適切な範囲に収まったという訳である。

    http://faculty.history.wisc.edu/sommerville/361/images/Enclosure.jpg

  • メキシコにおけるグアダルーペの聖母(西: Nuestra Señora de Guadalupe、英: Our Lady of Guadalupe)…布教初期に渡来した「エラスムスを信奉するカ トリック的人文主義者」の遺志を継ぐ形でイエズス会が長い時間をかけて定着させてきたメキシコ人統合のシンボル。独立運動に際しても先頭に掲げられたという。国際SNS上でアニメ漫画GAMEファンのメキシコ人が「メキシコの初音ミク」と言っていたのが印象的だった。
    *日本の「コンセイサマ」信仰と同じで原型がリンガヨーニ信仰っぽいのがむしろ凄い。日本をも攻略したイエズス会の「適応主義」を思いださせる。
    植民地期メキシコにおける「グアグルーペの聖母」信仰に関する一考察

    http://sanctoral.com/es/santoral/images/nuestra_senora_de_guadalupe.jpg

  • 英国における保護貿易主義から自由貿易主義への切り替え…17世紀貿易革命(植民地貿易への依存率の急増)そのものはクロムウェル卿の独裁政権下で急激に進行したが、その路線の産物とでもいうべきネイボッブ(インド成金)やカリブ海の砂糖農園主が議会を牛耳るようになった問題、産業革命が進行するにつれ保護関税を巡る国内地主とマンチェスターの産業資本家の利害不一致が激化していった件などは、議会を舞台として時間をたっぷりかけて解決されている。有名な奴隷廃止運動も、全体像から見ればその一環に過ぎない。

  • 穀物法(corn laws、1815年〜1846年)廃止後、金融業界に乗り出した英国ジェントリー階層…元来は地主の既得権益護持団体に過ぎなかったトーリー党が、普通選挙において変化を好まない労働者階層の気質を巧みに掌握して圧勝する保守党へと変貌していった流れの一環。バークによれば、そもそもジェントリー階層そのものが「経済的成功者を次々と体制側に誘う事によって革命を予防する安全弁」という事になる。

  • 攘夷運動として始まり、近代型中央集権国家への移行で意思統一が達成された日本の明治維新(広義には黒船来航(1853年)から西南戦争(1877年)まで)…これもやはり外国人の立場から見れば「必要なだけ時間をかけて、必要なだけの人数を巻き込んで、しっかりコンセンサスを固めたから成功した」としか言い様がない部類の出来事。特に「廃藩置県(1871年)」達成の衝撃は世界中を駆け巡ったが、これだって日本人にとっては突如として実施された急進的政策という訳ではなかったのである。
    *実態はどうだったかというと、攘夷強硬派の首魁だった水戸藩が対立セクト間の粛清合戦で自滅したり、実際に手合わせした薩摩藩長州藩が転向したりした結果だった。ちなみに明治政府樹立後もしばらくは「互いには決っして話し合おうとしない対立セクト」が存在し、明治天皇が電話交換手の様に交互に呼びつけて互いの意見を開陳させる事で強引に「意見調整」を成立させていたという。「裁定者としての国王」を必要とし続けたフランスの歴史は、日本にとっても案外他人事ではないのでる。

    福祉国家論の父」フェルディナント・ラッサール(Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle、1825年〜1864年)…「既得権の体系(Das System der erworbenen Rechte、1861年)」の中で「一定の法律制度はその特定時における特定の民族精神の表現に他ならない」「権利は全国民の普遍精神(Allgemeine Geist)を唯一の源泉としており、この普遍的精神が変化すれば奴隷制、賦役、租税、世襲財産、相続などの制度が禁止されたとしても既得権が侵害されたということはできない」「一般に法の歴史が文化史的進化を遂げるとともに、ますます個人の所有範囲は制限され、多くの対象が私有財産の枠外に置かれる」とした。すなわち初め人間はこの世の全部が自分の物だと思い込んでいたが、やがて限界を知るようになった。たとえば神仏崇拝は神仏が私有財産から離れたということ、また農奴制が隷農制、隷農制が農業労働者になったことは農民が私有財産から離れたということ、ギルドの廃止や自由競争も独占権は私有財産ではないと認識されるようになったことを意味しており、これから先も私有財産の概念はこんな具合にどんどん変化していくであろう。こういう事を述べたのがマルクスパトロンの一人。そしてその派閥がプロイセン宰相ビスマルクと手を組んで(議会を牛耳るブルジョワ階層や教会への対抗勢力拡大の意図をもって)ドイツ帝国の労働者福祉を充実させ、その実績をもって修正主義(ベルンシュタイン主義)と教条主義(カウツキー主義)の論争を前者の勝利に持ち込むのである。なぜか筋金入りのマルクス主義者に限ってこの話をしたがらない。
    マルクスパトロンの一人マルクスは「貴様の様な考え方のは完全に俺達の敵だ!! 一刻も早く抹殺せねば!! でも支援だけは絶対に打ち切らないで!!」と叫んだとか、叫ばなかったとか。
    フェルディナント・ラッサール - Wikipedia

  • フランスにおけるシック(chic)の概念の確立(19世紀末)…言葉としては既に19世紀前半から存続していたが「王党派内の派閥闘争の自然消滅」「権力に到達したブルジョワジー(bougeoisie au pouvoir)の台頭」などを背景にフランス上流階層の再構築が図られ、そこで共有される価値観として世界中に改めて広まった。そもそも具体的な何かを一切表していないのだから、反対意見も存在しえない時代遅れとなる事もない。
    *王党派…正統王朝主義者(Légitimiste:ブルボン家支持者)、オルレアニスト(Orléaniste:オルレアン家支持者)、ボナパルティスト(Bonapartiste:ボナパルト家支持者)、ウルトラモンタニズム(ultramontanism、教皇至上主義)、ガリカニスム (Gallicanisme、フランス教会自律主義)といった諸勢力が互いに牽制し合いながら協力し合っていた。さらに「国王や教会の権力復活までは望まない穏便派王党派」なんてのまでいた(というよりこの派閥が圧倒的多数派)。そもそもシック(chic)なる言葉はドイツ語の「秘儀」が語源で、最初に「シックの女王」として賞賛を集めたのはスペイン出身で教皇至上主義者だったウジェニー皇后だったりして、この価値観の形成過程は何よりもまずフランス人自身が分かっていないのである。

    米国における科学万能主義(Scientism)の受容過程…欧州と異なり固定的身分制度が定着した歴史を持たないアメリカにおいては(「金鍍金時代(1875年〜1893年)」を牽引した)スペンサーの社会進化論(Social Darwinism)の信奉者と(「進歩主義時代(1890年代〜1920念代)」を牽引した)古典的自由主義者(Classical liberalism)と(ニューディール政策を牽引した)社会自由主義者(Social Liberalism)の境界線もまた極めて曖昧である。「何がその時代に有効と考えられるか」のみを評価軸として人が集散し、反対勢力もまたそれに合わせて集散して確実に牽制が行われる情景を、欧州人は英国保守主義と併せ「アングロ・サクソン式」と呼ぶ。
    *そう。アメリカの科学万能主義(Scientism)は別に革命を起こして反対者を次々と粛清する様な急進的な形で遂行された訳ではない。あくまで全ては法の制定を巡る選挙や議会での論争という形で争われてきた訳で、その進め方自体はあくまで漸進主義(gradualism)的だったのである。つまりここに利権代表者と政治的指導者、敵と味方を峻別するカール・シュミット流の政治哲学を導入してもあまり意味を為さない。というか地域ごとに多様な展開をしたので「全体としてこうだった」とまとめる事自体が不可能とも。

    ヘルムート・プレスナー「遅れてきた国民(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes、1935年)」

    「ドイツ人の視点からすれば国家権力が国家を超えた理想を標榜するのは偽善と映る。大英帝国の問題は人類の問題などと英国人に涼しい顔で告げられたり、正義・平等・友愛といった美辞麗句を並べて上から目線で説教するフレンチ・エゴイズムに直面すると、それだけで虫唾が走ってしまうのである。しかし現実路線と国家理念に基づく正当化を並行させるやり方には、むしろ「誠実な」側面がある。仮面が仮面である必要がなくなるからで、実際アングロ・サクソン系国家においては政治上の対立構造と経済上の対立構造の不一致に苦しむという事がない。ある意味経済支配こそが政治支配であり、かつ経済力そのものが人道的な力、道徳的な力、民族結集力、政党脱却力と信じて日々の問題解決に取り組んでいるのである。」

     *しかしまぁその鷹揚さ故に米国は共産主義県のスパイや工作員に大幅に食い込まれ、戦後その反動でマッカーシズム(McCarthyism)が吹き荒れたとされる事もある。それは実際には「赤狩り」というより「(絶えずその時代の進歩主義の最先端を渡り歩いてきた結果、容共主義の領域まで足を踏み入れた)リベラル狩り」という側面が強かった。そしてリチャード・ホフスタッターが「アメリカの反知性主義(Anti-intellectualism in American Life、1963年)」で指摘した様な、かかる漸進主義(gradualism)の反動は(一見正反対方向へのシフトにも見えるが)1960年代に入るとヒッピー運動や公民権運動に姿を変えて吹き荒れたとも見て取れる。

大英帝国強し。イエズス会強し。それはそれとして「議会制民主主義」も「福祉国家論」も暫進主義の一環なのだとしたら、それを現代の時代精神と考えて何が問題?

③おそらく本当の対立軸は別のところにある。上掲の引用文の中から「古典的自由主義者(Classical liberalism)」の特徴を抜き出してみよう。

  • 個人の権利は自然的、内在的ないし不可侵のものであり、政府の存在とは関係なく存在するものであると主張する。トマス・ジェファーソンは、これを「不可侵の権利 (inalienable rights)」と呼んだ。

  • 個人の自律権 (sovereignty of the individual) を強調し、財産権が個人の自由にとって不可欠であると考える。

  • 直接民主制に反対する。なぜなら「多数派による支配」は財産権を尊重したり法の支配を維持したりしてくれるとは限らないからである。

  • 福祉国家論に対して敵対的であるばかりか、実体的平等(結果の平等)に関心がなく「法の前の平等」にのみ関心を持つ。

  • 社会自由主義に対し批判的であり、個人の権利を犠牲にして集団の権利を追求することに反対する。

 あれ、これってリチャード・ホフスタッターが「アメリカの反知性主義(Anti-intellectualism in American Life、1963年)」の中で書いた「庶民から嫌われてるインテリ=ブルジョワ=エリート階層のイメージ」と随分と重なってくるのでは? 

もちろん本物の筋金入りのインテリ=ブルジョワ=エリート階層は、その必要がある場合には戦略的に社会自由主義的に振る舞う事が出来る。そして、その事を知り尽くしているからこそ、庶民側は例え筋金入りの社会自由主義者を前にしても、決して警戒心を緩めなかったりする。
*大抵、こういう「古典的自由主義
は間違っており、社会自由主義者は正しい」みたいな文章にはカール・シュミットの敵友理論的バイアスが掛かってるから要注意。しかし本物の「反知性主義者」はこの程度では騙されないので、気づくと「いいから教養もない貧乏人は黙ってろ!!」と連呼している羽目に。

国際SNSを眺めている限り、現在アメリカ人の若者達の反知性主義(反エリート主義)は「建国の父祖達が揃って奴隷制農場主だった」事などと結びつけて考えられている節も見られる。唯一の例外がベンジャミン・フランクリン(Benjamin Franklin、1705年〜1790年)。ある意味科学者(Sientist)と産業者(les indutriels)の祖であり、宮廷マナーもしっかり身につけていて独立戦争に際しては欧州で軍資金調達の役割も担ったパリピ(party people)の奔りでもある。要するに「インテリ=ブルジョワ=エリート階層に属している事と、本物のインテリ=ブルジョワ=エリートとしてノブレス・オブリージュnoblesse oblige)を果たしている事の差分が問われている」という事なのかもしれまい。この状態を読み解くにはホフスタッターの「アメリカの反知性主義(1963年)」だけでは不十分で、ヒッピー運動や公民権運動に際してWASP層の偽善制がさらにどう疑われたかまで考慮に入れないといけない気がしてくる。

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その意味で微妙な当確ライン上を漂っているのが、第3代アメリカ合衆国大統領(1801年〜1809年)でもあった「建国の父の中でも最も民主的な人」トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson、1743年〜1826年)。アメリカにとっての古典的自由主義バイブルとでもいうべき「ジェファーソン流民主主義(Jeffersonian democracy)」の源流にして「英国のジェントリー階層は腐敗している」と断言する農本主義者で工業的発展も商業的発展も否定。アレクサンダー・ハミルトンの連邦主義への反対者であり「人民の武装権」の擁護者でもある。その一方で700人以上の黒人奴隷を所有した奴隷制農場主でもあり「混血児を残した」とする説が古くから伝わってきた。
*イタリア統一運動(Risorgimento、1815年〜1871年)においては、熱烈な共和主義者でもあった「南イタリア回復の英雄」ジュゼッペ・ガリバルディは(イタリアへの産業革命導入を目論んでいた)サルディーニャ王国宰相カプールとの衝突を避けて素早く政界を引退。日本においては中央集権化を急ぐ大久保利通と対立した西郷隆盛毛沢東も好んだとされる韓非子農本主義的立場から中央集権と工業や商業による立国を否定し、日本を士族自警団が統治する農業区に分割すべしとの建白書を提出)が不平士族反乱の総括ともいうべき西南戦争(1877年)で国民皆兵制の産物たる鎮台兵に打ち取られた。アメリカにおいては南北戦争(American Civil War, 1861年〜1865年)による南北対峙問題の解消がこれに該当するとされるが、それゆえに一層「ジェファーソン流民主主義とは一体何だったのか?」が問われる事に。

ジェファーソン流民主主義(Jeffersonian democracy)

1790年代から1820年代のアメリカ合衆国で支配的だった2つの政治的概念と動きのうちの1つを表すときに使われる言葉であり、第3代アメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソンが指導者だったので、その名前を冠している。この言葉は、ジェファーソンがアレクサンダー・ハミルトンの連邦党に対抗して設立した民主共和党を指しても使われることが多い。その信奉者は「自作農」(ヨーマン)と「一般大衆」(プレーンフォーク)を優先し、民主主義と政治機会の平等を提唱した。商人や製造業者の貴族的なエリート主義とされるものに敵対し、工場労働者を信頼せず、また恐怖感の残るイギリス統治制度の支持者に対する監視を続けた。特に市民としての義務を重んずる共和制の原則を遵守し、特権階級、貴族政治および政治的腐敗に反対した。

古典的自由主義を巡る議論がどうしても錯綜してしまうのは「中央集権だけでなく工業や商業も否定する自作農の農本主義的無政府主義」と「純粋な個人主義」をごっちゃにしてるから。農本主義的無政府主義は家父長制も奴隷制も否定しない点で個人主義者と決して折り合わない。ブラック企業の経営者が「政府による規制強化は自由主義の精神に反します」と主張してるみたいなもの。しかも従業員食いまくり。

南北戦争 - 世界史の窓

ここにさらに日本固有の問題が関わってくるからややこしい。

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ニューズウィーク日本語版2016年8月23日号
揚上英(中国内モンゴル自治区出身の静岡大学教授)
「友好人士拘束事件が示す日本の空想的中国研究の破綻」

現地の実情とは乖離した研究と中国共産党政権無批判は日本の中国学の「伝家の宝刀」だ…打算的で利益優先の中国研究をイデオロギー面で支えているのは、日本独特の左翼思想とマルクス主義的精神文化だ。19世紀末の明治維新の直後からどの国よりも多数のマルクスやレーニンの著作を翻訳した日本には、ソ連や中国以上に強い共産主義礼賛の伝統がある。共産主義の危険な思想を広げる運動家やアナーキストでさえも「象牙の塔」で守られてきた。

彼らにとってソ連が崩壊した後は唯一中国だけが「憧憬の地」であり続けてきた。「理想の共産主義国家」には労働者問題はあってはいけないし、人権弾圧の事実もあるはずがない。ましてやチベット人ウイグル人、モンゴル人が主張する様な民族問題なども「文明人と夷狄(野蛮人)」の対立という漢民族史観で中国を研究してきた日本の中国研究者は耳を貸さない。

こうして中国の本質を知る中国人の研究を日本人は無視してきた。だが先月には「日中友好」を献身的に支えてきた日中青年交流協会の鈴木理事長がスパイ容疑で中国当局に拘束されている。日本人だけではない。日本の大学に勤めながらも、常に北京当局を擁護する発言を繰り返し、中国政府の代弁役を演じてきた人物も昨年までに、複数名拘束される事件が発生している。

むやみに中国を賞賛せずに現実の我が国を見よ、と習政権がメッセージを送っている。そんな訳はあるまいが、純朴な日本人はまだ夢から覚醒してないところが悲しい。

「モスクワの長女(フランス共産党の別名)」ならぬ「北京と平壌の長女」が日本?

反知性主義旋風」が吹き荒れる直前の日本では「トマス・ピケティ旋風」が吹き荒れたが、ある研究者が「トマス・ピケティ理論で言うと、騒いでる皆さんの方が明らかに討伐されるべき搾取者側なんですが?」と指摘したらピタリと収まった。その偽善性たるや、まさしく韓国における「江南左派(自らは高級車を乗り回し、豪邸に住みながら社会自由主義を口にするインテリ=ブルジョワ=エリート階層)」そのもの。該当する日本語が存在しない事自体「日本の後進性」の表れなのかもしれない。ネット上では「杉並左翼」なんて言葉も出回り始めてはいるけど。
統一日報 : 「江南左派」の二重生活

一言で要約すると「(ホイッグ史観に基づけば)古典的自由主義者(Classical liberalism)」は明らかに間違っていて、社会自由主義者(Social Liberalism)は明らかに正しい(と、インテリ=ブルジョワ=エリート階層は主張するが、その偽善性に気付いている庶民は上手く騙されてくれない)」という状況。ヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム 遅れてきた国民(Die verspätete Nation. Über die politische Verführbarkeit bürgerlichen Geistes、1935年)」が指摘する「ナチス台頭を許したワイマール時代のインテリ不信状況」と酷似しているけど、だからといって「いいから教養のない貧乏人は黙ってインテリ=ブルジョワ=エリート階層の善導に従え!!」とヒステリックに繰り返すのはかえって逆効果。ならどうすべきなのか、そろそろ真剣に考えないといけない時期に差し掛かっているという事なのだろう。
*英語圏では「自由主義者(Libertarian)=エリート主義」と「ポピュリスト(Populist)=反エリート主義」みたいな単純な図式への置き換えも行われている。この図式では「(働かないでも暮らしていける)高級遊民(引きこもり)=究極の自由主義者」という事になるのが興味深い。

http://image.slidesharecdn.com/the-pronunciation-of-iraq-1194136448614785-5/95/the-pronunciation-of-iraq-25-728.jpg?cb=1194111249

結局、結論は「(働かないでも暮らしていける)高級遊民(引きこもり)=究極の自由主義者」という事に? まぁ実際、カリブ海奴隷制砂糖農園の不在地主で所領に引きこもり、好きな建物を建てたり好きな小説を書いたりして暮らした18世紀英国のホレス・ウォルポール(Horace Walpole, 4th Earl of Orford, 1717年〜1797年)やウィリアム・トマス・ベックフォード(William Thomas Beckford, 1760年〜1844年)、さらには普墺戦争(Deutscher Krieg、1866年)敗戦によってすっかり政治的意欲を喪失し、プロイセン国王のドイツ帝国皇帝就任支持を求める賄賂を宰相ビスマルクから受け取って好きな建物を建てたりワーグナーをパトロネージして暮らした「バイエルンのメルヒェン王」ルートヴィヒ2世 (Ludwig II., 1845年〜1886年、第4代バイエルン国王在位1864年〜1886年)あたりは歴史にも名を残したし、この方面における「勝ち組」と言えるのかも。
*実際には「引きこもり」というより「引き篭もらされ」という側面が強いのがなんとも。特にホレス・ウォルポールやトマス・ベックフォードのそれは「名誉革命に勝利し、責任制内閣制を軌道に乗せたホイッグ党穏健派の没落」という側面と深く関与してくる。どちらもカリブ海奴隷制砂糖農園の不在地主古典的自由主義進歩主義と無縁だったのもまた話をややこしくする。

それはそれとして、検索語を「究極の自由」まで縮めると、突如として「死」とか「サドゥー」を巡る話に…どうしてそうなるの?

究極の自由 - Google 検索

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