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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】千年を超えて存続するという事

昔の人にとって、現代人は地獄の様な精神生活を送っているのかもしれません。
http://www.uux.cn/attachments/2014/09/1_201409141104571GJRk.jpg

  • 自らの限られた認識範囲内で迂闊に良心の声に従う危険性を誰もが承知していなければならない

  • 社会は常に自らの想像を超える範囲で変化を続けているおり、その限りにおいて何があっても不思議ではないという事実を受け入れなければならない

  • もはや地上に特別に選ばれた階層や民族や地域は存在しないと考えねばならない

 

19世紀以前の庶民だと、もうこれだけで発狂物かも。インテリ層はまた別枠となりますが、シュテファン・ツヴァイクの例もあります。
シュテファン・ツヴァイク1881年〜1942年)…1930年代から1940年代にかけて欧米で大変な人気を誇ったオーストラリア系ユダヤ人作家。ナチス迫害を逃れてブラジルに亡命するも現地で旧日本軍によるシンガポール陥落の報に接し、リオデジャネイロのカーニバルを見物して「もはや自分の知ってるヨーロッパ中心の世界は終わった」と悲観して夫婦心中を遂げた。

まさか30年後、日本でそのシュテファン・ツヴァイクの評伝「マリー・アントワネット( Marie Antoinette、1932年)」を種本とする池田理代子の漫画「ベルサイユのばら(1972年〜1973年)」がアニメ化までされる大ヒットとなり、日本に「オーストラリア史観」が根付くとは…こう言う事もあるのが歴史の醍醐味とも。
*「オーストラリア史観」‥そもそもシュテファン・ツヴァイクの評伝「マリー・アントワネット( Marie Antoinette、1932年)」は、フランス人の歴史家が王侯貴族(特にオーストリアから輿入れしたマリー・アントワネット王妃)を悪くしか書かないのに業を煮やして執筆された作品。宝塚での公演なんて最高の供養かもしれない。特に群衆に撲殺されて遺体が全裸で側溝に投げ捨てられたフェルセン伯爵(Hans Axel von Fersen、1755年〜1810年)の扱い…

逆に幾つもの時代を逞しく乗り越えて存続してきた代表格がカソリック教会となります。その歴史観がどうなってるか気になって覗いてみました。

 以下はカトリック中央協議会のHPより。

民族大移動

4世紀の後半になると、ゲルマン諸民族がアルプスを越えて次々と移住し始めた。その波を受けて、イタリア半島に拠点をもっていたローマ帝国は、政治、経済、社会、文化のあらゆる面にわたって混乱をきたし、ついに帝国とともに栄えたギリシャ・ローマの古代文明は消滅した。しかし、教皇の指導と援助のもとにアングロサクソン、ゲルマン諸族のキリスト教化がねばり強く行われ、その結果フランク王国カトリック国となった。アイルランドの使徒パトリック、スコットランドで活躍したコロンバンゲルマン人の使徒と呼ばれるボニファチオなどが有名である。
*5世紀には第49代ローマ教皇ゲラシウス1世(Gelasius I、在位492年~496年)が494年に東ローマ皇帝アナスタシウス1世へ宛てた書簡の中で初めて「両剣論(theory of two swords)」について論じている。これは俗権と教権がともに神に由来するとしつつ、教権が帝権の上位にあるともする立場。ただし東ローマ皇帝東方正教会の頂点に立つ立場だった。ここで引用してないのはそのややこしさ故?

*6世紀から7世紀にかけてはブリテン島に入植したアングロ・サクソン人がフランク王国への伝教を担っていた。西ゴート王国領とはいえイベリア半島キリスト教にも勢いがあり、イスラム勢力が攻め込んできて以降もピレネー山脈の北側に位置するアストゥリアス地方に逃げ込んでかろうじて命脈を保つ。

7世紀半ばになるとマホメットを指導者とするイスラム教やサラセン勢力が破竹の勢いで拡大し、ヨーロッパ世界を包囲する形となった。短期間の侵攻で、キリスト教の発祥の地や古代教会の栄えた地中海沿岸が、ことごとくキリスト教から奪われる結果になった。これは後にヨーロッパ諸国のキリスト教徒が十字軍を起こし、聖地奪回の遠征を企てる原因となる。こうした長年にわたる混乱がようやく収まるのは、9世紀初頭のカール大帝の時代に入ってからであるが、それもつかの間、10、11世紀には北欧のノルマン人が活発に南下し、ヨーロッパ各地はその侵略に脅かされた。しかし、この北欧の民族も次第に定着し、既存の文化やキリスト教に同化していった。
イベリア半島の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ(Santiago de Compostela)は一旦イスラム勢力の手に落ちたが、739年にアストゥリアス王国が奪還。9世紀には聖遺物も発見され、レコンキスタ運動の象徴となる。

このような民族の大移動は、結果的にそれぞれの民族がもつ文化や伝統がキリスト教に新しい活力を注ぐことになり、中世のキリスト教文化の開花を準備することになった。しかし、ゲルマン社会への土着化は同時に、教会が封建制度のなかに深く組み入れられたことをも意味し、多くの問題に直面することにもなったのである。
*歴史家は「ネウストリア(後のフランス)では、現地のローマ系カソリックが流入してきたフランク族を宗教的に併呑した」と描く。ただしその時点でローマ教会は現地教区に影響力を持っていたとは考えられていない。

教権と俗権の対立

ローマ帝国の衰退に反比例して、ローマの教皇の力は強まっていった。事実、5、6世紀には有能な教皇が続出し、ゲルマン人の相次ぐ侵略からローマ市を守ることに貢献した。そのため476年に西ローマ帝国が滅亡した際には、教皇庁は政治勢力としても機能し始め、従来の帝国の直轄領は教皇領とされ、世俗の権勢と富を合わせもつようにさえなった。また、フランク王国キリスト教に転じ、カール大帝西ローマ帝国の復興に着手した際には、カトリック教会とゲルマン諸国家との結びつきはさらに強まった。しかし、カール大帝の死後、帝国はまもなく分裂し、962年にはオットー大帝が「ドイツ国民による神聖ローマ帝国」の名のもとに西ヨーロッパを再統一した。キリスト教は帝国の拡張の波に乗って東ヨーロッパに広がったが、1054年、9世紀以降ロシアに根を張っていたギリシャ正教会は、こじれた教会政治と典礼問題のためにローマ教会から分裂してしまった。
*当時はまだまだ勢いを保っていた東ローマ帝国が全く登場しないのが興味深い。そしてその東ローマ帝国との決裂過程を歴史家はこう描く事が多い。「8世紀の聖画像論争において東ローマ帝国偶像崇拝の一切禁止を命じたが、欧州原住民のキリスト教化に取り組んでいたローマ教会時はそれに応じるわけにはいかなかった。いずれにせよ東ローマ帝国のイタリア領はイスラム勢力の来襲に便乗して南下してきたランゴバルト族の手中にあったのでフランク族を招聘して追い出させ、この地を直轄領とする事で独立の基盤となした(ピピンの寄進)」。

11世紀前半、教皇庁をローマ貴族の私物化から解放しようと、神聖ローマ帝国はイタリアに干渉し始め、特にハインリヒ三世は自らよしとする聖職者を教皇座をはじめ各地の教会指導層に送り、内部改革をはかった。それは功を奏し、教会は自らの使命にめざめて種々の刷新がなされたが、同時に、外部からの干渉そのものを教会の自立性への重大な侵害と受けとめるようになっていった。その結果、教会と国家、教権と俗権の間の緊張、衝突は免れない状態に進展していった。とりわけ、教皇庁は二つの問題解決に挑んだ。一つは聖職位売買(シモニア)の問題で、すべての聖職位はただ教皇庁のみによって任命されるべきであって、その他の権力は一切これに関与してはならないという指針である。この具体策として教皇の個人的顧問団である枢機卿制が設けられ、教皇の選出はこの枢機卿団の秘密投票によってなされることになり、今日に至っている。もう一つは、私婚制の撤廃である。西方教会では司祭以上、東方教会では主教以上の聖職者(教役者)には独身を要求されていたが、実際には遵守されていなかったのが実情だったからである。
*シモニア(聖職売買)や聖職者の堕落は、壮麗な衣装と典礼を特徴とするクリュニー会(909年、ブルゴーニュ地方に初めて修道院が建立された。最盛期は927年〜1156年)の拡散に同期する形で広がったとも。教皇レオ9世が俗権による叙任を否定し、教皇グレゴリウス7世が聖職者の綱紀粛正をはかった教会改革を遂行。そして1098年にはブルゴーニュ地方に質実剛健を旨とするシトー修道院が発足する。しかしそのシトー修道院も唯一自らに許した「手に入る食材の限りを尽くした美食の追求」という贅沢が再び奢侈への耽溺を生み、さらに厳律シトー会(トラピスト会)の離反を経験する事になった。どこに誤謬が潜む余地があったのか? シトー会発祥の地は古くからマスタードの産地として栄えてきたディジョンであり、そしてこの地は17世紀フランス宮廷料理革命を担った主要な料理人達の出身地でもある。彼らが掲げた「オリエントより輸入する高価な香辛料の投入量に頼るのではなく、国産の素材のみを使って何が出来るか追求せよ」なるスローガンは、質素な食生活への回帰どころかブーケガルニで出汁を取り、コンソメスープや各種ソースの味の深さを競い合う新たな美食の世界を生み出しただけだった。ゴシック・リヴァイヴァル小説の傑作「ヴァセック(Vathek、1786年)」を残したウィリアム・トマス・ベックフォードは所領内にそれ風の建築様式の別邸を建てさせるほどのシトー修道会好きだったが、それも「フランス宮廷料理の源流となった美食の殿堂」という定評に惹かれての事だったとされている。逆に厳律シトー会の厳粛な雰囲気に惹かれたゆいマンスの様な作家もいるが、要するに人間はどんな状況下にでだって突破口を見出してしまうものなのだった。


ところで、両者の対立はドイツ王ハインリヒ四世と教皇グレゴリオ七世の叙任権闘争において頂点に達した。教皇はハインリヒ王を破門、王はそれを解いてもらうために「カノッサの屈辱」にさらされるはめになった。この事件を契機に教会と国家の力関係は変動し、次の12、13世紀には教皇権は絶頂期を迎えることになる。
*ザーリアー朝(Salier、1027年〜1125年)の命運はこれでほぼ尽きた。後を継いだホーエンシュタウフェン朝(Hohenstaufen, 1138年〜1208年、1215年〜1254年)もイタリア進出を試み続け、教皇派(ゲルフ/グエルフィ、Guelfi)と皇帝派(ギベリン/ギベッリーニ、Ghibellini)の対峙状況を生んだ末に教皇の命を受けたアンジュー伯シャルルに滅ぼされた。

教皇権の隆盛と衰退

1198年から18年間にわたって在位した教皇インノチェンチオ三世の時代、教皇権は政治、経済、社会、文化の多面にわたり隆盛をきわめた。教皇は聖俗両権の関係を太陽と月にたとえ、俗権は教権を反映するにすぎないとまで断言、文字どおり教皇権は全ヨーロッパ大陸に及び、皇帝や国王は彼の意のままに任免された。この時代、スコラ学は精緻をきわめ、ゴシック様式の大聖堂がパリのノートルダム寺院をはじめ各地に建立され、またフランシスコ会ドミニコ会などの新しい修道会が誕生した。1215年には第4ラテラン公会議が開かれ、カトリック信者の宗教的な義務が制度化された。一方、武力をもってアルビ派の異端運動撲滅をはかり、また第4次十字軍を招集し派遣したのもこの時代である。
ゴシック建築には「フランスで発祥して欧州じゅうに広まった最初の文化」という側面もある。まずは11世紀末期から12世紀早初期にかけてイングランドノルマンディー地方において(ロンバルディアアルザスやプファルツの建築物にも共通要素が見られる)ロマネスク建築からゴシック建築への転換が始まり、それがイル=ド=フランス(パリ近郊)に伝わりサン=ドニ修道院付属聖堂やサンスのサンテティエンヌ大聖堂(1130年〜12世紀中旬)を経て12世紀後半にはブルゴーニュとノルマンディーで建設活動が活発し、最初の決定打としてパリのノートルダム大聖堂が建設される。以降、1500年頃までにフランス全土、ブリテン島、スカンディナヴィア半島、ネーデルランド、神聖ローマ帝国イベリア半島イタリア半島バルカン半島西部沿岸部、ポーランドおよびポーランド・リトアニア共和国などに広がった。

*スコラ学の勃興にもパリ大学が大きな役割を果たしている。その一方でパリ大学にはアリストテレスの詳細な注釈で知られるアラビア哲学者イブン・ルシュドの影響を色濃く受けたラテン・アヴェロエス主義(Latin Averroism)が台頭し「知性単一説(monopsychism)」や「二重真理説(double truth theory)」を引き下げてトマス・アクィナスと激しく対峙。ちなみにその後もパリ大学パドヴァ大学で継承され続け、ルネサンス期には科学実証主義の母体となる「新アリストテレス主義」へと発展する。
ラテン・アヴェロエス主義(Latin Averroism)

しかし、14世紀に入ると教皇権の隆盛にもかげりがみえ始める。1294年から1303年に在位した教皇ボニファチオ八世は、フランス王フィリップ四世と争うが破門制裁も威力を失い、かえって経済封鎖を受けて窮地に陥るはめになった。ボニファチオ八世の急死後、フランス王は教皇庁を南フランスのアビニョンに移し、以後約70年にわたってそれをフランス勢力下においた。その間の教皇はすべてフランス人であった。このようなフランスによる教皇幽閉策、教皇庁の私物化に対抗して、1378年から40年近くもの間、ローマに対立教皇が立てられるという異常な事態に進展した。この教皇庁の分裂は統一中世そのものの崩壊を意味した。こうした非常事態をのり切るために、各国の司教たちは公会議を重ねて開催して教会の方針を定めようとしたが、この動きはローマ・カトリック教会の最高権威は公会議のみにあるという「公会議至上主義」を生み出し、教皇庁と対立することになった。ここに改めて、キリスト教世界における至上権は何かをめぐる論争の激化を招いたのである。
*スイスの文化史学者ブルクハルトはこの時期に端を発するローマ教皇庁の領主化を「欧州の全人格的代表権の喪失」と結びつけた。またドイツの歴史学派経済学者ゾンバルトは、この時期のアビニョン教皇庁で連日の様に開催された豪華な饗宴がルネサンス期の各イタリア宮廷に伝播して資本主義的消費生活の原型となったとする(日本で室町時代の東山文化が日本の家庭のお茶の間文化の起源となった様なスノビズムの連鎖)。

イギリスの宗教改革

イギリスがローマ教会から別れた一つの要因は、ヘンリー八世の離婚問題であった。キャサリン王妃との間で男子の王位継承者を得られなかったヘンリー八世は、教会法による婚姻解消宣言をローマから手に入れることができなかった。そこで彼は自国の教会をローマ教皇の支配から切り離して独自の国民教会を設立し、その認可のもとに再婚をはかることを考えた。1534年、彼は首長令を発して自らを英国教会の最高首長と宣言し、教会統治権を王位のもとにおいた。それに対してトマス・モアは抵抗を示したが無駄であった。彼のもとではカトリック教義の変革は行われず、むしろ大陸の宗教改革を支持する者たちを容赦なく弾圧した。後のピューリタン革命の種子がここにまかれたことになる。
*ヘンリー八世の離婚問題には当時の政治問題が絡んでおり、当時の教皇庁はそうした世俗の問題に足を深く踏み入れていた。それから距離を置く為に英国では国教会(Anglican Church)が創立され、フランスではガリカニスム (Gallicanisme)が進行。

ヘンリー八世の死後、大陸の宗教事情の転変にともなってイギリスに亡命してきた者たちが教会改革運動を進めたため、イギリスは政治的変動とあいまって大きく揺れ動き始めた。こうした動きのなかでカルヴァン主義にのっとったピューリタン(純粋派)が国民の間から生まれた。新しいぶどう酒である福音は長老制教会という新しい革袋に入れなければならないというのが彼らの主張であった。その後、王権と議会との間で政治権力をめぐって革命に次ぐ革命が繰り返されたが、そこでは常に教会制度ならびに信仰の自由の問題が問われたのである。
*英国におけるこの動きは結局クロムウェル卿の独裁に終わり、その死後に王政復古(1660年)が行われる。こうした共和制と王政の交代劇がトマス・ホッブス実証主義(英: positivism, 独: Positivismus)を法学に応用した法実証主義(英: legal positivism, 独: Rechtspositivismus)の発想をもたらし、ホイッグ党トーリー党の対立が英国政党政治の起源となる。
王政復古(イギリス)

*分離派ピューリタンがオランダ経由でアメリカに渡った話には触れない辺りがカソリック史観なのである。

カトリック教会の宗教改革

教会内の腐敗を嘆きそれを改革しようとする動きは、カトリック内部に常に見られたことで、宗教改革の前夜にも新しい修道会や、司祭、信徒からなるおびただしい数の信心会の創設が相次いだ。またエラスムスが展開した信仰刷新運動が、それなりの影響をヨーロッパ各地に及ぼしていたことも事実である。宗教改革運動が起こった困難なこの時代に教皇となったユリオ二世やレオ十世などは、教皇としての務めを十分に果たしたとはいえないが、宗教改革の嵐を受けて教皇庁はようやく自覚と指導力を取り戻し始めた。1542年、教皇パウロ三世は異端審問裁判を再開し、プロテスタント運動を上からくいとめようとした。
*まさか「エラスムスが展開した信仰刷新運動」に触れるとは…ラテン語文面を正文批判しギリシャ語版も添えた「校訂版 新約聖書(1516年)」を発表したエラスムスは、その後異教秘儀に慣れ親しんだルネサンス期の文人達の間で神格化される。船飾りの意匠に用いられる事もあったらしく、1600年に今の大分県に漂着したオランダ船リーフデ号(旧名エラスムス号。徳川家康の外交顧問として有名なウィリアム・アダムス(三浦按針)やヤン・ヨーステン(耶揚子。現在の東京都中央区八重洲の地名は彼にちなむ)が乗っていたことで有名)の船尾にもエラスムスの木像が飾られており、栃木県佐野市の龍江院で貨狄尊者(「貨狄像」「貨狄観音」「オランダえびす」とも)の名でまつられる事に。

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また一方で、イグナチオ・ロヨラによってイエズス会が創設され、カトリック教会の宗教改革の有力な担い手となった。同会は厳格な規律と絶対服従の精神、献身と優れた組織力によって、プロテスタント運動に染まっていった多くの地域をカトリックに戻すとともに、キリスト教の伝えられていない海外諸国への宣教にのり出して、新たなカトリック教会の形成に貢献した。日本へのキリスト教伝来は、こうした世界宣教活動の一環であった。
イエズス会の凄味はカソリック教会が伝統的に磨き上げてきた「五感を通じて得られる荘厳さや至福感」についての感性を背景とする適応主義。日本では日本人に完全に同化した生活を送りながら日本人を感動させる衣装体系を完成させ、メキシコでは現地の神と習合したグアダルーペの聖母(Nuestra Señora de Guadalupe)を民族統合の象徴として広めて原住民反乱を押さえ込み、南米ではインディオと生活を共にして奴隷狩りとの戦い方を教えている。その徹底した現地主義故に何故かどの地でも教条主義的なフランチェスコ修道会やドミニコ修道会と衝突。

カトリック教会の宗教改革の総決算はトリエント公会議(1545―1563年)に見られる。初め教皇庁公会議の開催に消極的であったが、国内の混乱の収拾を切望したドイツ帝国皇帝カール五世の要望に屈した形で、教皇パウロ三世は開催に踏み切った。この公会議は、教会内にみられた聖職売買や贖宥符販売の禁止、種々の悪習の撤廃、司教による司祭への監督強化などをもって規則の引き締めをはかった。一方、プロテスタント運動に対しては、福音主義神学との対決姿勢を鮮明にし、「信仰のみ、聖書のみ」に対して、伝統的な「信仰と行為、聖書と聖伝」をカトリック神学として確認、表明した、また、原罪と義化の教義を確定し、さらに洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻の七つの秘跡とその教義を確認した。ミサの典礼文をラテン語に統一したのもこの公会議である。また、神学校制度を制定して聖職志願者の養成に力を入れることによって教会に実のある刷新をはかろうとした。こうして、カトリック教会は教義の整備、霊的刷新、世界的拡張をもって次の時代へと向かっていった。
*スペインの宗教弾圧に口実を与えた事から、多くの歴史学者がこの公会議に良い印象を抱いていない。最初にスペインに狂信的信仰を広めたのはレコンキスタ期のシスネロス枢機卿(Francisco Jiménez de Cisneros, 1436年〜1517年)で彼自身はフランドル育ちのカール五世に罷免されたが、スペインで生まれ育った息子のフェリペ二世は、すっかりその空気に馴染んでしまったとも。

合理主義の台頭とキリスト教

16世紀から17世紀半ばに起こった宗教改革の波が去った後、ヨーロッパでは宗教や信仰に対する関心が自然科学へと関心が移っていった。いわゆる合理主義の台頭である。コペルニクスケプラーガリレオなどの天文学上の新発見は、ギリシャ以来の宇宙観を根底から覆すものであった。最初、教会は新しい科学の動きに対し警戒を示したが、ニュートンの時代になると客観的真理を示す科学的姿勢を評価するようになった。
*まぁまさにこの時代、伝統的地方共同体への介入の機会を狙っていたインテリ層の思惑が「魔女狩り」という事態を引き起こす事に。

デカルトに象徴されるように、人間の本質を信じることにより思惟能力に求めた合理主義の波は、17、18世紀には啓蒙主義の名のもとにさらに強まり、民衆の無知と偏見をただそうとする動きとなって、キリスト教から超自然的な要素を大幅に奪った。さらにこの合理主義は科学の分野のみならず、政治・社会理論として結実し、アメリカの独立やフランス革命と結びついた。なかでもフランス革命(1789年)にあっては、一部の急進派からキリスト教は文明の敵とみなされ、ブルボン王朝と結びついていたカトリック教会は排斥され、代わりに理性の女神が公に祠られたほどである。こうした合理主義の波に対して、教会はほとんど守りの姿勢に終始し、指導力を失って孤立した。また、イエズス会も近代国家の政治的圧力によって各国で解散を強いられた。
デカルトが始めたのは、元来はヘレニズム時代の哲学者だったストア派のゼノンや古代ローマ時代の哲人セネカの流れに与する「分別と多感(Sense and Sensibility)の神学」だったかもしれない。だがそれは同時にそのシステム全体を統制する「理性(希: λόγος→羅: ratio→仏: raison→英: reason)の神学」でもあり、これを合理主義(rationalism)という。

*スイスの文化史学者ブルクハルトは理神崇拝(Deism)を「キリスト教からキリスト教らしさを全て排除しようとする試み」と表現した。それがどこまで合理主義(rationalism)の精神と合致するか正直言ってよく分からない。

 19世紀の教会

フランス革命とそれに続くナポレオン戦争によるヨーロッパの混乱のなかで、カトリック教会は再び力を取り戻した。第1バチカン公会議(1869―1870年)の開催がそれを表わしている。公会議は、教皇がその権限をもって信仰と道徳に関して判断を下すとき、決して誤ることがないといういわゆる教皇不可謬説を、カトリックの教義の一部として宣言した。またこの時代、教皇庁は種々の閉鎖的な指針を打ち出し、近代世界の動きのなかでカトリック教会は孤立してしまう結果となった。聖書や歴史に対する批判的研究は「近代主義」(modernism) と名づけられ、この世と妥協するものとみなされ退けられた。また、カトリック学校で進化論の授業を禁じたのもこの時代である。
*一般に教皇至上主義(ultramontanism)はイエズス会と結びつけて語られる事が多いが、歴史上の文脈では19世紀によく見かける。王侯貴族や教会の弱体化を伴う近代化革命が進行し、各国の王党派もそれに迎合する動きを見せた反動とも(ultramontanism=山の向こうからの介入)。そして新興国ドイツ帝国では、宰相ビスマルクが「文化闘争」を戦う事になったが、これには「国内ポーランド文化圏のドイツ化」という側面も伴っていたという。
文化闘争


こうした閉鎖性にもかかわらず、この時代には多くの修道会や司祭によって構成された多くの宣教会が次々と誕生した。特にこの時期に創設されたおびただしい男女の修道会は近代修道会と呼ばれ、修道生活を営みながら霊的指導、教育、福祉、医療、学問、芸術など多岐にわたる分野をそれぞれの専門としてめざましい活動を繰り広げた。また、その多くは国際的な規模で組織を拡大し、カトリック教会のもつ普遍性の実現に一役かった。北アメリカでは南北戦争(1861―1865年)後、宣教会の活躍によってカトリック教会は急成長し、プロテスタント国アメリカで市民権を得るようになった。
南北戦争後にアメリカでカソリック教が力を増したのはアイルランドや東欧や南イタリアからの移民のせい。あとはメキシコからの流入?

20世紀の教会

1848年の「共産党宣言」以後の唯物史観に基づくマルクス主義の台頭は、教会にとっても大きな挑戦であった。教皇レオ十三世は1891年、教会初の社会教書『レールム・ノヴァールム ―労働者の境遇について―』を発布し、近代資本主義のひずみによって苦しんでいる労働者の境遇にふれ、労働者の種々の権利をキリスト教信仰の立場から訴えた。さらに1917年のロシア革命によって樹立した無神論国家に抗して、教会はキリスト教の弾圧と暴力による人間性の蹂躙のゆえに反共姿勢を固める一方、社会問題に積極的に取り組むようになった。
*時期的に見ると欧州の大不況 (1873年-1896年) と米国の金鍍金時代(1865年〜1873年)の末期。まさしく貧富の格差拡大といった資本主義的矛盾が頂点に達し、ドイツ帝国において労働者福祉の整備が進む一方で、間違った「淘汰論」に振り回された米国がそれを放置していた状況の最中であった。

二つの世界大戦とその後の世界の動きは、教会にも地球的な規模の人類意識、あるいは世界意識というこれまでにないまったく新しい問題をつきつけることになったが、それには幾つかの要因がある。一つには両世界大戦という前代未聞の悲劇を通して、逆説的ながら「人類は一つ」という深い自覚を得たことである。この意識は交通と通信網のめざましい発達によってますます強まった。またヨーロッパにおけるキリスト教離れと、それに反比例するようかのようなアジア、アフリカ、南米でのキリスト教の拡大、さらに東西の冷戦の緊張と軍拡競争や南北問題による持続的な危機意識、日進月歩の科学技術の進歩とその成果である宇宙開発や核の恐怖など、これらの要因によって呼び覚まされた「一つの人類」という鮮明な意識は、イエス・キリストから教会に託された救いの恵みと教会の使命が、人類社会にとっていったい何であるかを改めて問うことになったのである。
*国際SNS上では中南米勢の勢いが目立つ。

こうして新しい時代に生きるカトリック教会は、全面的な自己改革の道を断行した。それは教皇ヨハネ二十三世の招集によって1962年から1965年にかけて開かれた第2バチカン公会議に始まる。この公会議は特に、人類とともに歩む教会の本質と使命を深く再理解し、さらに現代社会の苦悩と人類の希望を鋭く洞察した。それをふまえ、これまでの閉鎖主義を撤回し、カトリックの伝統を保持しながらも、さまざまの改革路線を大胆に打ち出し、人類社会に開かれた教会をめざして歩み始めた。典礼の改革、信教の自由、プロテスタント教会との教会合同運動、司教・司祭・修道者・信徒の使命の覚醒と養成、諸宗教との対話、社会正義の実現など、多岐にわたる課題への実践的な取り組みなどが進行中である。すでに教皇庁は英国教会との交わりを回復し、東方教会とも古いきずなを確認し合った。また、平和運動、聖書翻訳の共同作業や活発な学術交流などプロテスタント教会との協力関係は日々強まっている。 こうして教会は、キリストにおける人類の一致を実現していく道具として、世の終わりまで人類とともに歩み続けていくのである。

レールム・ノヴァールム(Rerum Novarum)Wikipedia

ローマ教皇レオ13世が1891年5月15日に出した回勅の名称。日本語訳すると「新しき事がらについて」を意味し「資本と労働の権利と義務」という表題がついている。カトリック教会に社会問題について取り組むことを指示した初の回勅として有名である。なお、この名称はラテン語本文の最初の数単語から採られたものである(こうした名称のつけ方をインキピットという)。

  • カトリック教会が貧富の差や経済・福祉における国家の役割について説いた「カトリック社会教説」の最初のものであり、このことから史上初の「社会回勅」として評価されている。

  • 副題に「資本主義の弊害と社会主義の幻想」とあるとおり、「少数の資本家が富の多くを占有する行き過ぎた資本主義によって、労働者をはじめとする一般庶民が搾取や貧困、悲惨な境遇に苦しむあまり無神論唯物史観を基調とした社会主義(のちの共産主義)への移行を渇望しているが、それで人間的社会が実現するというのは幻想である」として、資本主義と社会主義共産主義)の双方に批判的な視線を向けた。
    *この背景には19世紀後半、産業構造の主体が軽工業から鉄鋼産業などの重工業へと移るなか、労働事情の変化によって不況が深化したことがあった。またカトリック教会として従来の主な信者であった伝統的農村で生活する農民から新興都市部の労働者に支持を広げる狙いもあったとされる。

  • いっぽう、それまで大勢を占めてきた「教会は貧しい者には忍耐を、金持ちには慈善を説けばよい」といった考えに対し、この回勅が画期的であるのは労働者の貧困や境遇の改善は(憐れみの対象ではなく)社会正義の問題であるとし「人格の尊厳と基本的人権を認め、擁護し、愛する」ことを基本とした社会の変革や社会問題への主体的な取り組みを指示したことであった。
    *具体的には資本と労働の関係や政府と市民の関係について述べて社会主義共産主義)と無制約な資本主義のあいだの道を模索し、私有財産制を擁護しつつも、労働者に労働権を認めて労働組合を結成することを支持し、階級協調を説いた。

労働者への言及はカール・マルクスらの『共産党宣言』に遅れること43年であったが、この回勅以降こうした考え方がカトリック教会の正式な立場となった。

  • この回勅はカトリック教会と近現代の社会との関係性において記念碑的、象徴的な存在となり、政治面では中道もしくは中道右派的・共同体主義的なキリスト教社会運動・キリスト教民主主義などに発展していった。また明確に社会主義を批判しているにも関わらず、中道左派的なキリスト教社会主義に与えた影響も無視できないものがあった。

  • こうした社会問題に対するカトリック教会の立場は『レールム・ノヴァールム』40周年に寄せてピウス11世が労働者の尊厳を訴えた1931年の回勅『クアドラジェジモ・アンノ(40周年の記念に、の意)』でより明確なものとされた。

  • またヨハネ23世は1961年に『レールム・ノヴァールム』70周年に寄せた回勅『マーテル・エト・マジステラ(母にして教師、の意)』を出し、ヨハネ・パウロ2世は1991年に『レールム・ノヴァールム』100周年を記念して回勅『センテシムス・アヌス(百年紀、の意)』を出し、共産主義の弊害が明らかになった冷戦終結後において今度は新自由主義的な資本主義の行き過ぎや南北問題、環境問題などに対して再度、警告を発した。

資本主義と社会主義共産主義)のあいだで中道を行く思想という点では「第三の道」論の先駆けという評価があり、コーポラティズムの原点のひとつだとする意見もある。いっぽう階級闘争を重視する立場(主に左翼)からは「中世的」として非難されることがある。また新自由主義的な右派からも邪魔者扱いされることがある。

 

千年以上の歴史をさらっと通史で語れる凄味…とりあえずこれまでの投稿と矛盾するところはない模様?