諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

【雑想】日本の反知性主義?

リチャード・ホフスタッター「アメリカの反知性主義(Anti-intellectualism in American Life、1963年)」は、このまま米国のエリート=インテリ=ブルジョワ階層が反省して行いを改めないなら近々「反知性主義者の大逆襲」があるだろうと予言しました。

http://horrornews.net/wp-content/uploads/2011/11/night-of-the-living-dead-gary-streiner-8.jpg

その正体は実はピースマークを掲げたヒッピー達や公民権運動で蜂起した黒人自警団達だったのかもしれません。


となると日本人も決して無関係じゃなくなってくるって話です。

 「反知性主義」という用語の起源とその意味合い

反知性主義という言葉がにわかに登場したのは1950年代、特にマッカーシー赤狩りや、1952年のアメリカ合衆国大統領選挙を背景としたものが挙げられる。このアメリカ大統領選挙では、政治家としての知性、キャリア、家柄とどれをとっても遜色なく、元弁護士で弁舌の腕もたち、知識人からの人気も高かったアドレー・スティーブンソンが、コロンビア大学の学長かつ元アメリカ陸軍参謀総長という要職を務めた第二次世界大戦の英雄といえど、政治経験は皆無でおよそ知的洗練さを表に出さず、むしろ政治家でないことをアピールして大衆の支持を得たドワイト・D・アイゼンハワーに圧倒的大差で敗れており、反知性主義の象徴的な出来事として挙げられる。

また、マッカーシーやその支持者達は対共産主義という枠を超えて大学教授や、知識人の家系といった知識人層を攻撃した。このように反知性主義とは反エリート主義の言い換えといった側面がある。

1963年、ホフスタッターは著書『アメリカの反知性主義』においてニューイングランドの成立からのアメリカ史を引用して反知性主義の成り立ちを考察し、言葉が登場した50年代より前から反知性主義は存在し、むしろアメリカ社会・政治体制において重要なものであること論じた。これによってホフスタッターは2度目のピューリッツァー賞を受賞している。

その語感より、しばしば誤解されるが、反知性主義に対置するのは知性そのものというよりは、先述の大統領選のエピソードのように知的権威やエリートとされる層である。データやエビデンスよりも肉体感覚やプリミティブな感情を基準に物事を判断するといった面も間違いではないが、古くは聖書理解において高度な神学的知識を必要と考える知的権威や、時代が下がれば政治においてはエリートによる寡頭政治(貴族政治)を志向する層への反感が反知性主義の原点であり、ただ単純に知性そのものを敵視する思想信条ではない。むしろ、エリート層が軽視する大衆の「知性」を積極的に肯定するといった立場をとり、それは単純に近代合理主義批判の肯定や、科学的思考を軽視するという意味でもない[参考文献 12][2]。神意や真理を理解するのに高度な知識は必要ではない、政治において学術理論や理想論が先行して現実を無視した政策を行わない、このようなエリート主義に対する批判という観点も含むのである。

このように反知性主義が必ずしもネガティブな言葉ではないように、知的権威や知識人、エリートという言葉も反知性主義の文脈上では必ずしも肯定的な意味ではない。ホフスタッターは知識人の立場として反知性主義者に攻撃される側として論説するが、序章において知識人を迫害される憐憫な対象として擁護する気はないと明言しており、その終章も反知性主義ではなく知識人の在り方を考察するものである。

そして、リチャード・ホフスタッターが「アメリカの反知性主義(Anti-intellectualism in American Life、1963年)」を発表した前後より、アメリカではヒッピー運動や公民権運動が本格的に激化してくるのです。
*もしかしたら根底にあったのは、1940年代までの「容共の時代」から1950年代の「反共の時代」への急激な推移に国民がついていけず、思考停止を起こしてしまった事かもしれない。そう、あたかもドイツにおいて「啓蒙の時代」から「復古王政の時代」への急激な推移がビーダーマイヤー(Biedermeier、1815年〜1848年)の民(軍人や官僚には従順で、彼らに政治と外交は丸投げしつつ個人的享楽に耽溺した小市民)と、それに反抗する少数のインテリ抵抗者を生んだ様に。

カウンターカルチャー前夜―アメリカの1950年代についての一考察―

(1950f代のアメリカ国民は)平和と経済成長の果実を味わう一方で,社会の商業主義的風潮に悩まされなければならなかった。この時代におそらくもっとも若者に読まれたベストセラー小説『ライ麦畑でつかまえて』(1951年)の主人公,ホールデン・コールフィールドは高校を退学になる“落ちこぼれ”だが,大人のウソをかぎ分ける嗅覚はとても鋭敏で,高校の父母会で寄付をしてくれそうな父母とそうでない父母を差別して扱う高校の校長や,依頼人の利益よりも,弁護士としての評判や利益の方を心配する自分の父親を軽蔑する。彼は偽善と商業主義にまみれたアメリカ社会を「インチキ」と呼んで痛烈に批判し,当時の若者に喝采をあびた。

経済成長は巨大な,官僚主義化した企業社会をも生みだし,そうしたポスト産業社会で生きる個人の「孤独」や「疎外」などがおおきな問題となった。社会学者のデイヴィッド・リースマンは『孤独な群衆』(1950年)で現代社会では,急激な産業社会の変化により,個人の内的価値観や自主的判断にしたがう「内部指向型」の人間より,社会の価値観にしたがい周りの人間の行動に同調する傾向の「他人指向型」の人間が増加していると指摘した。そうした「他人指向型」の人間には,集団への帰属意識があり,安心感を得ることができるが,他方で,個人としての生きる目的や生きがいなどを見失うおそれがあるのである。

1956年のベストセラー『組織のなかの人間』でジャーナリストのウィリアム・ホワイトは,巨大化した産業組織の官僚機構のなかでは「集団の倫理」がなによりも優先され,それがプロテスタントの労働倫理,つまり個人の創意・工夫を重んじる伝統を破壊する危険性を指摘する。そして個人を「無名性」へとおとしめ忠誠をもとめる組織と戦い,アメリカ伝統の個人の自由と独立の精神を回復する必要性を説いた。

1950年代の空前の経済的繁栄を謳歌するアメリカ社会にあって,唯一その繁栄の分け前にあずかれない人びとがいた。南部の黒人は,第二次世界大戦で白人とともに戦場で戦ったにもかかわらず,1896年の連邦最高裁判所の下した判決“分離すれども平等”の原則の下で,人種差別の状態におかれていた。事実上,黒人には選挙権も認められておらず,白人女性に口笛を吹いただけで黒人少年が私刑(リンチ)に遭うような状況だった(1955年8月「エメット・ティル事件」)。こうした最悪の時代にあって,黒人はしだいに抗議の声を上げ,状況を変え始める。。1954年5月に連邦最高裁判所は,カンザス州トピカの人種分離された学校教育制度が争われた裁判で,「われわれは公共の教育機関において『分離すれども平等』という原則には根拠がないと結論を下す。人種分離政策に基づく教育施設は根本的に不平等である」と述べて,憲法違反の判決を下した(バーダマン 31)。公立学校教育における人種統合が実現するには,これから10年以上の時間がかかるが,この連邦最高裁判所の下した判決は「爆弾のように」国中に衝撃をあたえる事件となった。1955年12月アラバマ州モンゴメリーで,その後の黒人の公民権運動の行方を決める象徴的な出来事がおこる。12月1日夕方,42歳のローザ・パークスという黒人のお針子が,市営バスの中で白人に座席を譲らなかったという理由で逮捕された。そこで,黒人の全国組織であるNAACP(黒人地位向上協会)とマーティン・ルーサー・キング牧師を中心とする黒人教会の指導者たちは,モンゴメリー市にバス内での人種分離の改善をもとめて,市営バスのボイコットという直接的な抗議行動にでた。このバス・ボイコット運動は1年以上つづいた後,市営バスを運行停止に追い込み,連邦最高裁判所から市営バスの人種分離の違憲判決を勝ち取り,成功の裡に終了する。このモンゴメリーでのバス・ボイコット運動は,キング牧師の唱える非暴力による直接的抗議行動のモデルとなり,その後の「シットイン」(座り込み)運動や「フリーダム・ライド」運動,1963年のワシントン大行進などの公民権運動をみちびく象徴的な事件となった。キング牧師はこの時,初めて大規模な黒人の抗議運動に関わったのだが,これ以後,1957年にSCLC(南部キリスト教指導者会議)を結成し,公民権運動の中心的存在として活躍することになる。

この空前の繁栄の時代,白人の若者のあいだにも変化の兆しが現われてはじめていた。1958年には,全人口に占める15歳以下の年齢人口の割合が,はじめて1/3を超えた。1956年のある雑誌の調査によると,アメリカの10代の若者の1週間の平均収入は10.55ドルであったが,これは第二次世界大戦前の一家庭の1週間の平均収入に等しい額だった。このようなおおきな経済力を有するティーネイジャーたちは,レコードや雑誌,衣服,映画などの有力な消費者となった。しかし,彼らが観たり,聴いたり,買ったりしたものは,親の世代のものとはテーストを異にしていて,それが親と子の世代のあいだの溝をひろげた。この時代,10代の若者にもっとも人気のあった音楽はロックンロールで,彼らのアイドルはエルヴィス・プレスリーであった。彼の代表曲“Heartbreak Hotel”(1956年)は発売6 ヶ月で800万枚を売り上げ,21歳の彼の年収は1,000万ドルを超えていた(Bruccoli, Layman 28)。しかし,フランク・シナトラやペリー・コモなどのスローなテンポの音楽に慣れ親しんでいた親の世代にとっては,プレスリーのはげしく腰を振りながら絶叫するロックンロールは「黒人音楽」(race music)そのもので,白人が聴いたり,歌ったりするものではなかった。しかも歌の内容も「セックス」や「子の反抗」をテーマにしていて,これがまた親の世代の反感をまねいた要因だった。一方,こうしたティーネイジャーたちの映画界におけるアイドルは,マーロン・ブランドとジェームス・ディーンだった。『乱暴者』(1953年)で革ジャンにジーンズ姿でオートバイにまたがるマーロン・ブランドは,大人たちがきずきあげた権威にたいする挑戦を表わしていた。『エデンの東』(1955年)や『理由なき反抗』(1955年)で親に理解されない少年を演じたジェームス・ディーンは,おおいなる自由を手にしながらも,将来への漠然とした不安をいだいていた10代の若者たちの鬱屈した心情を代弁していた。

このように,1950年代のアメリカは,ソヴィエト連邦の脅威におびえ,共産主義の国内への浸透におびえる神経過敏の時代にあっただけでなく、空前の経済的繁栄の時代でもあった。そうした物質的繁栄にともなう商業主義や偽善に嫌気がさし,そのような社会に背を向け,それからの完全なドロップアウトを表明する者(ビート族)もいた。しかしほとんどの国民は物質的豊かさに満足していて,現状を肯定する体制順応型の人間が尊ばれた。そのようなアメリカ社会のなかにあって,明確な「異議申し立て」(protest)の声を上げたのは,奴隷解放宣言から90年以上たっても白人と同等の自由を獲得できていない南部の黒人たちであった。彼らが60年代へとつづく若者たちの運動をリードして行くのである。白人の若者のなかにも親の世代との価値観の隔たりを感じる者が現われる。1930年代という経済的不況のなかで育ち戦争を経験した親の世代と,経済的繁栄の時代しか知らないベビーブーマー世代の断絶がしだいに顕著になり,これが60年代のおおきな運動のうねりの背景となるのである。

*現代のアメリカ人は日本人と異なり「ライ麦畑でつかまえて(1951年)」よりジョン・アップダイク「A&P(1961年)」を好む。後者の方が押しつぶされそうな切実感が遥かに強烈。その間には「ロードムービー小説」として今日なお評価の高いナボコフの「ロリータ(1955年)」、そして「冷戦下におけるアメリカ国内でのロシア系移民の苦悩」と言った問題が横たわっている。
ジョン・アップダイク 「A&P(1961年)」

  • コロンビア大学で1968年に起こった大学占拠事件の当事者が綴った「いちご白書(The Strawberry Statement、原作1969年、映画化1970年)」。その中に確かこんなエピソードがあった気がする。この大学の元教授だったエーリヒ・フロム(Erich Seligmann Fromm、1900〜1980年)が「学生達も(「自由からの逃走(1941年)」を発表した)私の話なら耳を傾けるはずだ」と主張して学校内に築かれたバリケードに接近。ところがやはり「腐ったインテリは帰れ!!」としか言われず、全身に石灰を浴びせられたか、腐った卵を投げつけられたかして追い返された…そもそも全ての発端はコロンビア大学のハーバート・ディーン学部長。彼の「大学の運営に関する学生の意見など、学生達が苺味が好きだと言うのと同じくらい意味がない」なる失言に学生達は激怒した事。皮肉にも「反知性主義の牙城」だった筈のコロンビア大学において、ホッファーの預言した「(このままでは近い将来に必ず起こる)反知性主義者の逆襲(あるいはその反動)」はまず真っ先に顕現する事になったのだった。

  • 公民権運動(African-American Civil Rights Movement)に至っては、ホッファーでさえあそこまでの規模になるとは予測だにしていなかった気がする。何しろアメリカの黒人は「白人のエリート=インテリ=ブルジョワ階層」から完全視野外に置かれてきた。「いちご白書」にも、黒人労働者デモの応援に駆けつけた白人の学生運動家達が「貴様らも腐ったインテリだ!!」と罵倒されて袋叩きにされる場面が出てくる。ジョージ・ロメロ監督のゾンビ物第1作「Night of the living dead(1968年)」でも、主人公は冒頭から登場する白人兄妹と思わせておいてゾンビとの戦いを最後まで生き延びる「英雄」は(当時における既存の物語の筋書きを裏切って)黒人青年であり、しかも最後「人間の救援隊」に射殺される。当時の最前線にあった人々は真っ先に「敵の敵は味方」というコンセンサスの崩壊に直面する事になったのだった。実際、党争の原理は常に敵への勝利より内ゲバにおける覇権を優先課題として掲げるものである。
    *日本人はあまり意識していないが
    Night of the living dead(1968年)は最初期におけるニューシネマの傑作にして(白人中心世界の終わりを告げる)黒人映画最初期の傑作でもあったから米国映画史にその名前を残したのである。ところで米国においてさえ指摘がないがこの黒人青年、「Jesus Christ!!」と叫ぶ場面で「Muhammad!!」と叫んでる気がする。誰かのちゃんとした解説を聞きたい。http://images.complex.com/complex/image/upload/l1hs4jqklr5y3l6asxg4.jpg
  • それではホッファーが望んだ様な「エリート=インテリ=ブルジョワ階層の根本的意識革命」は実際に起こったのか。悲しいことにそうはならなかったとする意見が大半を占める。何故ならヒッピー運動も公民権運動もベトナム戦争泥沼化に便乗して激化し、停戦に至ると勝手に沈静していったとも考えられるから。しかも前者に至っては「オルタモントの悲劇(1969年)」「シャロン・テート虐殺事件(1969年)」「ガイアナ人民寺院集団自殺事件(1978年)」など自打球が山積み。後者もネイション・オブ・イスラムが「男尊女卑は黒人が守り抜くべき伝統」とか言い出して黒人の間ですら人気凋落。これでは反省の機運など起こせる筈もない。むしろ「国家の君臨こそが国内平和の源である」なる新たな国家主義の盛り上がりさえ誘発したとさえいわれている。むしろ本質的変化は、当時の反抗的若者達が大人社会の仲間入りをする事で果たされたのだった。
    オルタモントの悲劇(1969年)
    殺人博物館〜チャールズ・マンソン
    殺人博物館〜ジム・ジョーンズ

こうしたニュアンスにおける「反知性主義」の源流は、宗教革命の時代まで遡ります。何しろアメリカという国は当初「祖国を逃れたありとあらゆる種類のプロテスタントの逃げ込み先」として始まった訳ですから。
*そして産業革命が始まると今度は多種多様なカソリックがさらに輪をかけて物凄い勢いで押しかけてくる。

さらにその起源を源流まで辿ると、古代エジプト王朝時代の「死者の書(Totenbuch)」あたりまで行き着く気がしてなりません。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/d7/BD_Hunefer.jpg

  • 当時のそれはファラオによる「死者の冥福を祈る儀式」の独占状態への反逆に他ならなかった。実際、上級官僚や地方太守の力が強まって中央集権が崩壊していく過程で広まった側面もある。
    *現代人の知る巨大ピラミッドは古王朝代に集中して築造されている。おそらく当時における「ファラオによる死者の冥福を祈る儀式の独占」と何か関係があるとされている。

    https://www.ab-road.net/article/world-is-colorful/misc/img/m/yellow-1208-5-main.jpg

  • まさしくプロテスタントの「福音のみ」ならぬ「死者の書のみ」状態。その勢いに押し流される形で古王朝時代( 紀元前2686年頃〜紀元前2185年前後)は終焉を迎え、エジプト初の分裂期、すなわち第一中間期(紀元前2180年頃〜紀元前2040年頃)が始まってしまうのである。
    http://www.moonover.jp/bekkan/chorono/time_table.GIF


そしてその挿絵に描かれた冥神からオシリス信仰が、その名もなき女性助手からイシス信仰が芽生え、やがてエジプトじゅうを席巻してローマやギリシャにまで伝わっていく訳です。改宗した信徒を通じてキリスト教にも多大な影響を残したとする説まであります。所謂「マリア信仰」。女神信仰は極めて習合を起こしやすいので、それは同時にシュメールのイナンナ及びエレキシュガル、アッカドのイシュタル、エジプトのハトホル、インドのカーリー、アナトリア半島のキュベレー及びアルテミス、「パレスティナ」のアシェラ及びエレファンテネ・ユダヤ神殿の「天空の女神」、ギリシャアフロディテ、ローマのヴィーナス、ケルトモリガンでもあり得る訳です。
*特定の神殿によらない世界初の在野宗教とされる事もある。ちなみに時代は降るが、メソポタミアにおいてバビロン近郊に広まっていたネルガル(Nergal)信仰もそれとされる事も。これは一般に「冥界神エレキシュガルを権源としての牧畜神ドゥムジ/タンムーズ信仰の復興」にしてヘラクレス信仰の源流と考えられている。エジプトにおける「冥界神オシリス権源とするイシス信仰」の性別逆転版?
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/38/f51f35203cc9bc442d9b8daa0636b2b4.jpg

日本史上において、これに該当する強烈な宗教運動とは何でしょうか。検索すると「南無妙法蓮華経」 「南無阿弥陀仏」「盆踊り」といったキーワードが引っかかります。

https://pbs.twimg.com/media/CSQELntUkAAE1Dl.png

例えば「南無妙法蓮華経」という御題目の由来はこんな感じ。

爾時世尊。従三昧。安詳而起。告舎利弗。諸仏智慧。
甚深無量。其智慧門。難解難入。一切声聞。辟支仏。
所不能知。所以者何。仏曾親近。百千万億。無数諸仏。尽行諸仏。無量道法。勇猛精進。名称普聞。成就甚深。未曾有法。随宜所説。意趣難解。舎利弗。吾従成仏已来。種種因縁。種種譬喩。広演言教。無数方便。引導衆生。令離諸著。所以者何。如来方便。知見波羅蜜。皆已具足。舎利弗如来知見。広大深遠。無量無碍。力。無所畏。禅定。解脱。三昧。深入無際。成就一切。未曾有法。舎利弗如来能種種分別。巧説諸法。言辞柔軟。悦可衆心。舎利弗。取要言之。無量無辺。未曾有法。仏悉成就。止舎利弗。不須復説。所以者何。仏所成就。第一希有。難解之法。唯仏与仏。乃能究尽。諸法実相。所謂諸法。如是相。如是性。如是体。如是力。如是作。如是因。如是縁。如是果。如是報。如是本末究竟等。

その時釈迦は、瞑想からゆっくりと目を覚まし舎利弗に言った。
もろもろの仏の智慧はすごく深くて計り知れない。 
其の智慧の門は難解難入(理解して体得するのがものすごく難しい)である。 
すべての声聞(仏の教えを聞いた人)や仏弟子でもこれを理解することはできない。
なぜなら、あらゆる仏はかつて無数の仏に親近し、尽くし、数え切れないほどの修行を行い、勇猛精進してようやく皆に知られることになった。
深くて計り知れない法を習得して、人々の気魂に随って法を説いてきたのだが、本当の意味を理解してもらうのは難しい。
舎利弗よ、私が仏になって以来、様々な過去の事実・例え話をもって広く教えを伝え、無数の手段を使って、衆生を導いて間違った考えから引き離してきた。
なぜそのようなことが出来るかというと、仏はその教化の方法と完全な智慧を備えているからだ。
舎利弗よ、仏の英知は広大深遠で恐れなく、禅定・解脱・三昧(瞑想のこと)を行うことで深く境地に入り、あらゆる法を習得してきた。
舎利弗よ、仏はうまく体系立ててたくみに法を説き、言葉は柔軟で衆生を喜ばすことができる。
舎利弗よ、つまりのところ最高の法を仏はことごとく習得した。
止めとこう、舎利弗よ、もうこれ以上話すのを止めとこう。
なぜなら、仏の習得したものは、最高に稀有で難しい法なのだ。
ただ仏どうしがよく仏法の真実を見極めることができる。
つまり如是相 (いかなる印象で) ・如是性 (いかなる性質で) ・如是体 (いかなる姿形で) ・如是力 (いかなる能力で) ・如是作 (いかなる作用を成し) ・如是因 (いかなる原因で) ・如是縁 (いかなる条件で) ・如是果 (いかなる結果で) ・如是報 (いかなる報いがあるか) ・如是本末究竟等 (またこれら相から報までの9つがその者の境涯に応じてすべて一貫している法則) のことだ。
*最後の箇所は非常に難解であるが、仏は相から報まで9つすべてが仏の様相を表している(つまりは仏の相、仏の性、仏の体、仏の力、仏の作、仏の因、仏の縁、仏の果、仏の報)。9つの内1つだけ凡夫とかいうことは無い。それぞれの境涯に応じた相から報をもっていて、それらは常に一貫している。また万物がそうした法則で成り立っている。これは境涯が高まるとその境涯に応じた相から報までが生じるとも言える。

全体を一言で言うなら最高の仏の法があまりにも理解不能なので庶民にどうすればうまく伝えられるのだろうかという仏の悩みを現している。それゆえに日蓮大聖人は最高に難しい仏法を凡夫でも体得できるようにするため、南無妙法蓮華経の題目を本尊として顕わし世に広めたという経緯がある。

 「南無阿弥陀仏」なる念仏にも同じくらい由緒正しい由来があります。肝心なのは「この末法の世に、ましてや毎日の仕事もある俗人が本格的修行によって心の平安に至るなんて難しい。ならどうすべきか」なる課題設定。この切実な思いに沿う形でしか教祖が門徒の支持を勝ち取れなかった時代というのが存在したという事です。それは「公家や僧侶は往生の修法を自分たちだけで独占しているのではないか?」「極楽は多額の寄進が出来る善男善女だけの独占物か?」「領民から収奪してでも多額の寄進を行った方が勝ち組なのか?」といった「反知性的主義的議論」が尽くされた果てに到達した最終回答でもありました。

末法思想 - Wikipedia

釈迦が説いた正しい教えが世で行われ修行して悟る人がいる時代(正法)が過ぎると、次に教えが行われても外見だけが修行者に似るだけで悟る人がいない時代(像法)が来て、その次には人も世も最悪となり正法がまったく行われない時代(=末法)が来る、とする歴史観

http://parts.news-postseven.com/picture/2014/10/byodoin1.jpg

  • 日本では平安初期において既に(まだ一般的ではなかったものの)すでに最澄や景戒に末法であるとの自覚が見られる。伝教大師も「正像やや過ぎ終って末法甚だ近きにあり法華一乗の機、 今正しく是れその時なり何を以て知る事を得ん安楽行品 にいわく末法法滅の時なり」と述べている。
    *実は割と欧米人のイメージする「青銅時代(Bronze Age)」と重なる。古代ギリシャ時代のヘシオドス(紀元前7世紀)の発想で、当時は人間が宗教的理念の束縛から完全に解放される「鉄の時代(Iron Age)」が未来の悪夢としてしか想像し得なかったのである。その意味ではそんな時代は今日なお到来していないのかもしれない。

  • 一般的には、特に1052年(永承7年)が末法元年とされ人々に恐れられ、盛んに経塚造営が行われた。 この時代は貴族の摂関政治が衰え院政へと向かう時期で、また武士が台頭しつつもあり、治安の乱れも激しく、民衆の不安は増大しつつあった。また仏教界も天台宗を始めとする諸寺の腐敗や僧兵の出現によって退廃していった。このように仏の末法の予言が現実の社会情勢と一致したため、人々の現実社会への不安は一層深まり、この不安から逃れるため厭世的な思想に傾倒していった。
    *所謂「厭離穢土・欣求浄土」の世界。これがイメージ出来ないとヨーロッパにおける宗教革命(すなわちカソリックプロテスタントの分離)がどうして起こったかもまたイメージ出来ない。要するに切実さが現代社会とはまるで違っていたのである。まさしく古代エジプトにおける「死者の書」信仰台頭期のように。

  • 末法灯明記』は、現在は末法であって無戒の時代であることを強調するものであり、これは仏教が堕落し社会が混乱している時代に育った鎌倉新仏教の祖師たちに大きな影響を与えた。

  • 栄西や、曹洞宗を開いた道元は、釈迦在世でも愚鈍で悪事を働いた弟子もいたことや、末法を言い訳にして修行が疎かになることを批判した。そして修行に努めることを説いた。

  • 鎌倉時代法然を開祖とする浄土宗は末法思想に立脚し、末法濁世の衆生阿弥陀仏の本願力によってのみ救済されるとし称名念仏による救済を広めた。一方で浄土真宗の開祖とされる親鸞は、師・法然末法観を受け継ぎつつも、「正像末の三時には 弥陀の本願ひろまれり」「像法のときの智人も 自力の諸教をさしおきて 時機相応の法なれば 念仏門にぞいりたまふ」(正像末和讃)と説く様に、正法・像法・末法といった時代を超えて受け継がれてきた念仏の普遍性を強調した。 また同時期、日蓮末法思想を真剣に受け止め、末法であるからこそ信じて行うべき法を求め、法華経こそが正しい教えであるとし(法華一乗)、南無妙法蓮華経と唱えることを広めた。
    *当時の人々が、どれほど真摯に「厭離穢土・欣求浄土」の理念を追い求めたかイメージできなければ、こうした展開が「建設途上における意見の不一致を原因とするバベルの塔建設計画の空中分解」の如き喜劇にしか見えない筈である。もちろんこの問題に正解などない。問題の中核は「考えられる限りの修法を全て極めれば心の平安が得られる」とした天台宗的伽藍仏教的理念が、庶民に実践可能な範囲を遙かに超えてしまった点にこそあった。カソリックや部派仏教は「(修行を完遂した)聖職者(聖者)の善導を信頼せよ」と繰り返す。日本におけるその立場の象徴は藤原道長が建立し、10円玉にも刻印されている宇治平等院とされる。それが偽善としか思えない人々を救済する為に当時の教祖達はそれぞれ全力を尽くした。そして多数の異なる結果が生じた事についての解釈は後世に委ねられたのである。

http://www.enopo.jp/images/stories/column/watching/2011/110728/bon4.jpg

平安時代中期の空也浄土教の先駆者と評価される。高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆的存在でもある。そして当人がそれを修した確証がないにも関わらず踊念仏や六斎念仏の開祖とも仰がれている。鎌倉時代に入ると時宗の一遍が伯父の河野通末の配流先であった信濃国伴野荘(長野県佐久市)を訪れた際に空也に倣って踊念仏を行ったとされている。これが土俗化し、やがて盆踊りとなる。

私の亡くなった祖母も毎日の様に「南無妙法蓮華経」と唱え「こうやって少しずつ、ほんの少しずつだが仏に近づいていくのだ」と満足げにしてしていました。反知性主義を巡る議論は、際限なく広げていくと、最後には必ずこうした「密教と顕」を巡るデリケートな領域にまで土足で踏み込む事になります。ならばどう考えるべきなのか。

私の「反知性主義」的考察 時代遅れの知性が国を滅ぼす | Web「正論」|Seiron

高須クリニック院長 高須克弥

よく医者を理科系の「知性」を司る知識人のように誤解する人がいるけれど、医者の究極的な仕事は患者から信じられるということで、僕は、むしろ宗教家やシャーマンに近いと思っています。

医者はとにかく患者に信頼されなければならない。どんなに最高の医療を施された患者も、医者に不信感を抱けば、自分の病気が治ったことも信じられないし、逆に医者を信頼すれば、どんな治療にも安心、満足する。極端に言うと、どんな藪医者でも患者に「いい先生だ」と信じさせれば、名医になれるのです。

もちろん、そこには盲信の危険もある。よく手塚治虫の漫画「ブラックジャック」を名医の代表のように信じる人がいますが、その一例かもしれません。漫画としての価値は別にして、美容整形外科医として言えば、自分の顔をあんなつぎはぎの跡だらけにする手術は稚拙極まりない。しかし、崇拝する読者には名医なのです。

昔の医学など現代から見れば間違いだらけだから、名医と呼ばれた人たちも見当外れな治療をしていたはずです。しかし患者には信頼されたから、名医と呼ばれた。患者は死んで、ようやく見当外れの治療に気づく、いや、死後も気づかなかったかもしれませんが、それもやむを得ないのです。医者が患者を丸め込めばいいと言っているのではありません。医療も時代に応じて限界があり、最後は患者にそれを受け入れてもらわなければならない。そのために医者に必要なのが信じてもらうこと。医者の「知性」を最後に支えるのは「信」なのです。

これぞまさしくホフスタッターが「アメリカの反知性主義(Anti-intellectualism in American Life、1963年)」によってその登場を促したかった「全てを知り尽くした上で戦い続ける本物の筋金入りのエリート=インテリ=ブルジョワ」の姿なのかもしれません。まぁこの次元における議論のゴールは、あくまで「心の平安の獲得」な訳ですが。

http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-e2-22/suetumubananohime/folder/1175477/77/8600977/img_0?1194261159

その一方でこの結論は「反知性主義者がエリート=インテリ=ブルジョワ階層に対して抱く根本的不信感」の真因を明らかとします。ホフスタッターいうところの「エリート=インテリ=ブルジョワの自己破壊性」という奴です。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/21/Nozze_di_Figaro_Scene_19th_century.jpg

  • フランスの劇作家ボーマルシェが1784年に発表し、モーツァルトが1786年に作曲した「フィガロの結婚(伊: Le nozze di Figaro、仏: Les noces de Figaro、英: The Marriage of Figaro、独: Die Hochzeit des Figaro)」を大歓迎してフランス革命(1879年〜1899年)に向けての機運を盛り上げたのは、他ならぬ青年貴族達自身であった。
    *こうした青年貴族達の筆頭格だったのが「米国独立戦争の英雄」にしてフランスを(英国の様な)立憲君主制国家に移行させる事を夢見たラファイエット。しかし復讐の血に飢えたサン・キュロット(浮浪小作人)階層は、そのビジョンをブルボン家との王統交代を夢見たオルレアン公(バスティーユ牢獄襲撃事件と10月行進の仕掛け人にしてラファイエットの最大の政敵)のビジョン同様に拒絶。結局彼らは自作農に成り上がりたかっただけであり、その夢を叶えてくれた皇帝ナポレオンの恩義に報いる為にルイ・ナポレオンの選挙における勝利と皇帝ナポレオン三世としての即位を熱烈に応援し続ける事になる。マルクスは「彼らの様な農奴精神こそ共産主義革命最大の敵である」と断言して民主集中制の必然性を先行して説いたが、彼らの様な存在がなければフランス革命立憲君主制への移行を穏やかに推進して完了していた事を完全に失念している。

    http://www.y-history.net/gazo/1103_1/sans-culotte.jpg

  • マルクスも、そのパトロンであったエンゲルスやラッサールも、共産主義のアジアにおける忠実な実践者であった毛沢東やポル=ポトも、全てエリート=インテリ=ブルジョワ階層出身であった。
    *元来、Thinkerとしてのみ歴史に名を残したマルクスエンゲルスと、Activistとしてロシア革命に参画したレーニンやとロッキーは分けて考えなければならない。しかも彼らは揃ってエリート=インテリ=ブルジョワ階層出身であり、「自分の最終的勝利につながるのでなければ、勝つ意味そのものがない」と思い詰めた農奴出身のスターリンの独裁主義的ルサンチマンに最終的に全面敗北を喫っするに至っている(まさしく「究極の自由主義は専制の徹底によってのみ達成される」の世界)。皮肉にも毛沢東やポル=ポトが感動したのはまさにその流儀だったのであり、かくして共産主義の理念の実現は必然的に独裁と反対派の大量粛清を伴うというイメージが確立する事に。ちなみに中国においてはこの流れに迎合したインテリの代表格たる「四重人格周恩来の評価が極めて低く、その一方で「経済的には成功者であり続けてきたが、政治的には不当に低く扱われてきた」華僑を代表する鄧小平が、スターリン主義毛沢東主義に逆らって現在の経済的繁栄をもたらした英雄として高く評価されている。この「中国型反知性主義」への理解を抜きにして現代中国の理解はありえないのである。

    http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7903/stalin/world13.jpghttp://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/0830Furu1.jpg

「信」に殉ずるか、思想的自由を貫くべきか? 今日においてはまさにこの問題こそがエリート=インテリ=ブルジョワ階層に課せられた課題なのかもしれません。