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諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

日本人にとっての「本格派推理」と「ハードボイルド」の原点

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何故か本国より日本で広く会社されてる名台詞。

  • 「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない(If I wasn't hard, I wouldn't be alive. If I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.)」

  • 「撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだ(Take my tip—don't shoot it at people, unless you get to be a better shot. Remember?)」

実際の歴史を辿ると、長い時間をかけた淘汰の末にこれだけ残ったというのが正しい様です。そもそもの起源はアメリカ…

アメリカでは1920年代から1930年代初頭にかけて自由を好む風潮が広がり「ビクトリア朝風検閲」が世間知らずで時代遅れのものとして笑いの種にされる様になっていった。さらに1930年代に入って世界恐慌が始まると映画スタジオの多くが資金獲得の為になりふり構わなくなり、そして実際、人種差別的な要素や暴力シーンがある映画は売れたのだった。

その一方で「ビクトリア朝風検閲」に最期までノスタルジックな執着を続けたのが所謂「本格推理小説」というジャンルだったのです。

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 1990年代よりコナン・ドイル卿の「シャーロック・ホームズSherlock Holmes)シリーズ(1887年〜1927年)」によって広まった「雑誌連載形式の短編集」。しかし「本格推理小説」は単行本による出版が基本となります。

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【英国】アガサ・クリスティ(Dame Agatha Mary Clarissa Christie、 DBE、旧姓: ミラー (Miller),1890~1976年)

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  • 言わずと知れた「ミステリーの女王」。推理の謎解きをするエルキュール・ポアロミス・マープル、トミーとタペンスといった名探偵の産みの親。1890年、イギリス南西部のデヴォンシャー州生まれ。

  • 「スタイルズ荘の怪事件(The Mysterious Affair at Styles、1920年)」で推理作家としてデビューてから85歳で亡くなるまで長編小説66作、中短編を156作、戯曲15作、メアリ・ウェストマコット (Mary Westmacott) 名義の小説6作、アガサ・クリスティ・マローワン名義の作品2作、その他3作を残した。中でも「アクロイド殺し(The Murder of Roger Ackroyd、1926年)」「オリエント急行の殺人(Murder on the Orient Express、1934年)」「ABC殺人事件The ABC Murders、1936年)」「そして誰もいなくなった(And Then There Were None、1939年、映画化1945年)」等は世紀をまたいで版を重ねている。そのファンからなるアガサ・クリスティ協会によると、彼女の作品は英語圏を越えて全世界で10億部以上出版されている。聖書とシェイクスピアの次によく読まれているという説もあり、ユネスコの文化統計年鑑(1993年)では「最高頻度で翻訳された著者」のトップに位置している。ギネスブックも「史上最高のベストセラー作家」と認定。日本でも早くから紹介され、早川書房クリスティー文庫としてほぼ全ての作品を訳出している。

  • 彼女が作品を発表した20世紀始めは保守的な風潮が世間に残っており、トリックに対するフェア・アンフェア論争が起こったり、犯人の正体がモラルの面から批判の的になるなど是非が激しく論じられた。またその一方でラジオや映画といったメディアの発達により作品が広く知られることにもつながった。

【米国】ヴァン=ダイン(S. S. Van Dine、 1888年~1939年)

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  • ヴァン・ダインの二十則」の発案者。衒学趣味的な言説を特徴とする名探偵ファイロ・ヴァンス(Philo Vance)を生み出した。

  • 1888年アメリカ・ヴァージニア州生まれ。ハーバード大学卒業後は美術評論家として雑誌や新聞に寄稿していた。しかし生活への不安や第一次大戦中の緊張などから健康を害し,1923年には神経衰弱にかかり長期療養を余儀なくされる。医者から仕事や学問を止められたため彼は書物を読むことができず、交渉の末暇つぶしに軽い小説を読むことを許されたが冒険物や恋愛物を読む気にはなれなかった結果英国ミステリーに行き着いた。彼は2年間で過去75年間2000冊もの推理小説を読破して体系的な研究を重ね「経験の浅い他の作家がこれだけ成功するのなら自分にもできないことはあるまい」と考えるようになった。これが、自叙伝『半円を描く』で語られているミステリー作家としての出発点であるが虚偽で、原稿が売れず、自棄になって麻薬中毒となり、借金で首が回らなくなったため、ミステリーに手を染めたという説もある(ジョン・ラフリー『別名S・S・ヴァン・ダイン: ファイロ・ヴァンスを創造した男』,1992)。いずれにせよ退院後、ミステリーを書き始めた。

  • 1926年に第一作「ベンスン殺人事件(The Benson Murder Case、1930年映画化)」を上梓、たちまち評判となる。版元はスクリブナー社で、担当編集者はF・スコット・フィッツジェラルドアーネスト・ヘミングウェイの編集者としても知られるマクスウェル・パーキンスだった。その後、死去するまでに12作の長編推理小説といくつかの犯罪実話を執筆したが、その全てで名探偵ファイロ・ヴァンスが活躍する。さらにアガサ・クリスティの「アクロイド殺し」を酷評する評論や「世界短編傑作集」序文の推理小説を書く上での鉄則を記したいわゆるヴァン・ダインの二十則などのアンソロジー等も精力的に発表した。

  • 自国産本格ミステリー小説が低迷していたアメリカに彗星の如く現れ、以後のミステリーに多くの影響を残した。以後のアメリカ本格派を代表するエラリー・クイーンも、彼の影響を公言している。現在は本国では半ば忘れられかけた存在だが日本では依然人気が高く12作の長編全てが文庫化されて版を重ねる。

【米国】ジョン・ディクスン・カー(John Dickson Carr、 1906年~1977年)

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  • 「密室派(Locked Room School)の総帥」「密室の王者」。冷笑的な性格のパリ予審判事アンリ・バンコラン、「魔女の隠れ家(1933年)」でデビューしたギデオン・フェル博士(G・K・チェスタトンがモデル)と「黒死荘(プレーグ・コート)の殺人(1933年)」でデビューしたヘンリー・メリヴェール卿(通称H・M。ウィンストン・チャーチルがモデル)の肥満英国人コンビ、そしてカーター・ディクスン(Carter Dickson)名義の短編におけるロンドン警視庁D3課長マーチ大佐の生みの親。ペンシルベニア州ユニオンタウン(Uniontown)でスコッチ・アイリッシュの家系に生まれる。日本では80冊を越える著書のほとんどが翻訳されている。

  • 同人誌に発表した中編「グラン・ギニョール(Grand Guignol 1929年:パリ遊学中に思いついた作品)」を長編化した「夜歩く(It Walks by Night、1930年)」でデビュー。1932年に英国人クラリス・クリーヴスと結婚してブリストルに居を構え、爆撃で家を失ってニューヨーク州に移住する1946年までに代表作の大半を執筆。ほとんどの作品がイギリスを舞台とする為に米語が巧みなイギリス人と誤解される事が多かった。

  • 初期作品ではチェスタトンやポー、M・R・ジェイムズなどの影響を受けて古怪な舞台を選び、知る人も少ないような小道具や超自然をにおわす事物をちりばめたが,1940年代に入ると怪奇趣味が薄れて整理された状況設定のもとでシンプルなトリックに支えられた作品を発表する様になった。冒険小説やドタバタ喜劇の趣向が取り入れられる様になるのもこの頃からである。

  • 同時代への嫌悪と過去への憧れ、デュマやスティーヴンソンの影響が表面化した1950年の『ニューゲイトの花嫁』以降は時代ミステリが中心となる。綿密に資料を読み込み、風俗が丹念に描かれた点で評価が高い。中でも剣戟小説というべき『ビロードの悪魔』はカーの初刊本で最大の部数を販売した。

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【米国】エラリー・クイーン(Ellery Queen

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  • アメリカの推理作家。フレデリック・ダネイ(Frederic Dannay,1905年~1982年)とマンフレッド・ベニントン・リー(Manfred Bennington Lee,1905年~1971年)が探偵小説を書くために用いた筆名の一つ。従兄弟同士でありユダヤ系移民の子であり、ここで挙げた個人名もそれぞれペンネーム。小説シリーズでは、エラリー・クイーンは著者の名前だけでなく物語の名探偵の名前でもある。同時にバーナビー・ロス名義で聾者の探偵ドルリー・レーンが活躍する4部作も発表。中でも第2作「Yの悲劇(The Tragedy of Y、1932年)」はとりわけ日本で評価が高く、S・S・ヴァン=ダイン の『グリーン家殺人事件(The Greene Murder Case、1928年、映画化1929年)』の影響を受けつつも、さらに意外な犯人で推理小説の歴史に残る傑作とされる。

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  • 【第一期】「ローマ帽子の謎(The Roman Hat Mystery:1929年)」から「スペイン岬の謎(The Spanish Cape Mystery:1935年)」までのいわゆる国名シリーズは、ヴァン・ダインの影響が見られるものの、読者への挑戦状など独自の工夫もあり、手掛りの解釈に緻密さと大胆さを両立させ得た作風は、本格探偵小説として評価が高い(バーナビー・ロス名義作品発表もこの時期)。

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  • 【第二期】「中途の家(Halfway House:1936年)」から「ドラゴンの歯(許されざる結婚:The Dragon's Teeth:1939年)」までの5作品は、クイーンがハリウッドで脚本の仕事を始めたり、女性誌に作品を発表したりし始めたことから、恋愛小説的要素が増えた。

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  • 【第三期】ライツヴィルという架空の地方都市を舞台にした「災厄の町(Calamity Town:1942年)」から、人間の心理面に重きが置かれるようになり「九尾の猫(Cat of Many Tails:1949年)」では悲劇的な真相に気づいて涙を見せるなど、超人的な名探偵であったエラリーが、間違いを犯し苦悩することもある人間として描かれる。そして、中年となったエラリーが30年前(『ローマ帽子の謎』直後)の事件の真相に気づく、集大成的な作品「最後の一撃(The Finishing Stroke:1958年)」』でこの時期は終わる。この「間違いを犯し苦悩することもある人間」としての探偵については、後期クイーン的問題としてしばしば議論の対象となる。

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  • 【第四期】1960年代以降の作品のいくつかは、監修は行っていたと考えられるものの、執筆は他の作家によることが知られている。代表的なものには、シオドア・スタージョンによる「盤面の敵(The Player on the Other Side:1963年)」、エイヴラム・デイヴィッドスンの手になる「第八の日(And on the Eighth Day:1964年)」「三角形の第四辺(The Fourth Side of the Triangle:1965年)」などがある。これらはクイーンの本来の共作スタイルとして、「ダネイがプロット担当、リーが執筆担当」だったものが、リーの衰えにより、ダネイのプロットの作品化を他作家に委ねたものである。

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  • 一般的人気はクリスティに劣るものの、日本では特に熱烈なマニアの崇拝を集め、この名を第一に挙げる推理作家が非常に多い。初期から晩年までダイイング・メッセージに固執し続けたが、この点については都筑道夫他評価しない論者もいる。

しかし同時進行で新しい潮流も。

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アメリカにおけるハードボイルド文学の台頭(1929年~)

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  • 「ブラック・マスク」誌に1922年から短編推理小説を起稿する様になり、やがて看板作家の一人となったダシール・ハメット(Samuel Dashiell Hammett、1894年~1961年)は「血の収穫(1929年)」「マルタの鷹(The Maltese Falcon、同年、映画化1941年)」「ガラスの鍵(1931年)」などの執筆を通じて乾き切ったハードボイルド文体を完成させた。これに続いたのが同誌では「私立探偵 フィリップ・マーロウ」シリーズのレイモンド・チャンドラー(Raymond Thornton Chandler, 1888年〜1959年)、変わり種が英国人故にこうしたムーブメントに参加出来なかったハドリー・チェイス(James Hadley Chase 1906年〜1985年)という事になる。

  • ハメットは「心理描写と抽象的説明の徹底排除」により「複数の陰謀が複雑な形で展開する最中(主人公を含む)癖のある登場人物達が本当は何を考えているのか、どうしてそうするのか地の文で明かされない読者を突き放した展開」によってアガサ・クリスティアクロイド殺人事件(The Murder of Roger Ackroyd,1926年)」の叙述ミステリーに関する本格派推理小説読者の「フェア・アンフェア論争」を完全に過去のものとしたともいわれている。

その頃、イタリアでは…

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 イタリアにおける「ジャッロ(giallo) 」文学の台頭

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  • その呼称の起源は1929年にアルノルド・モンダドリ・エディトーレ社から最初に出版されたミステリー小説、犯罪小説の一連のパルプ・マガジン「ジャッロ・モンダドリ(Giallo Mondadori) 」である。その黄表紙には、1920年代から1930年代にかけてアメリカの同ジャンルによく似たフーダニット(犯人当て)小説が掲載されていた。英語のパルプ・フィクションとのこのリンクは、イタリア人作家がつねにアメリカ風のペンネームで書いていた事により補強される。初期のジャッロの多くは、アメリカ小説のイタリア語への翻訳・翻案であった。

  • チープなペーパーバック文庫として出版された「ジャッロ」小説の成功は、ほかの出版社の注意をすぐに惹きはじめ、各社のヴァージョンをリリースしはじめた。その際には黄表紙の伝統を引き継ぐことを忘れなかった。「ジャッロ」小説はとても人気で、アガサ・クリスティ、エドガー・ウォーレス、ジョルジュ・シムノンといった国外のミステリ小説、犯罪小説の作家たちの既成の作品ですら、イタリア国内での最初の出版の際には「ジャッロ」と銘打たれた。『ジャッロ・モンダドリ』は現在も月刊で発行されており、同ジャンルでの世界でもっとも長寿な出版のひとつである。

  • このようにして、イタリア語において、「ジャッロ」の語はミステリ小説、犯罪小説、探偵小説を指す一般語と化したのである。

それでは同時期の日本では… 

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本の雑誌新青年1920年〜1950年)」

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発行は博文館(末期は同社解体のため、江古田書房→文友館→博友社に移籍)。1920年代から1930年代に流行したモダニズムの代表的な雑誌の一つであり「都会的雑誌」として都市部のインテリ青年層の間で人気を博した。国内外の探偵小説を紹介し、また江戸川乱歩横溝正史を初めとする多くの探偵小説作家の活躍の場となって、日本の推理小説の歴史上、大きな役割を果たした。また牧逸馬夢野久作小栗虫太郎久生十蘭といった異端作家を生み出した。平均発行部数は3万部前後、多い時は5-6万部に達していたと言われている。

創刊の経緯

  • 博文館では日露戦争後から発行していた『冒険世界』(『日露戦争写真画報』『写真画報』から改名)が大正になって時代に合わなくなったため、編集長となった森下雨村に今後の方針を任せ、森下らは若い層に向けた新雑誌の構想を立て、社主の意向で地方青年向きの内容で『新青年』という名前の雑誌として、1920年1月に創刊した。

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  • 編集方針として翻訳探偵小説に注目し、創刊号では青年向き読物の他に、編集局長長谷川天渓の発案でオースティン・フリーマン「オシリスの眼」(保篠龍緒訳)、雨村によるセクストン・ブレイクものの紹介を掲載、また探偵小説募集を行った。1921年1月号では翻訳6編、8月には増刊号「探偵小説傑作集」を発行し、モーリス・ルブラン「水晶の栓」、チェスタトン「青い十字架」、L.J.ビーストン「マイナスの夜光珠」などを掲載。1922年からはこの増刊は年2回発行された。また募集により、1921年に八重野潮路(西田政治)、横溝正史、22年に水谷準が入選する。西田、横溝、浅野玄府、妹尾韶夫、谷譲次らは翻訳も盛んに手がけ、小酒井不木も探偵小説の研究随筆、翻訳、創作を発表するようになる。

モダニズムの時代

戦時色の時代

  • 日華事変が拡大するとその影響も受けるようになり、1936年に武藤貞一「これが戦争だ」、国際小説と銘打って泉谷彦「くの一葉子」「大海戦未来記」などを掲載、翌年は戦争実録ものを多く掲載し、増刊「輝く皇軍号」も発行。

  • 1938年1月号から上塚貞雄(乾信一郎)が5代目編集長となる。軍人による「陸海軍時局対談」の掲載、吉川英治「特急『亜細亜』」(梅原北明による代作)連載など、戦時色を強めていき、探偵小説は次第に減っていった。1939年には軍人による国際問題小説、海戦小説と銘打たれた作品が増えるが、水谷が編集長に返り咲き、戦争読物を削って小説を主とするようになり、特に一千円懸賞で入選した鳴山草平などの時代小説、横溝、城、久生十蘭の捕物帳などが増加、海野、大下は科学小説に向かった。他に小説では宇野信夫、秘田余四郎や、山手樹一郎の時代小説、岡田誠三による戦争の悲惨さを描いた作品もあった。

  • 翻訳小説の増刊号も1940年が最後となり、1941年からは読物欄の名前もカタカナ名から漢字の名前に変え、小説や読物も軍人によるものが増える。1942年には用紙統制によって236ページとかつての半分となり、1944年には56ページにまで減る。1945年2月号まで発行し、3月号の見本が出来たところで印刷所の共同印刷が空襲で焼かれて発行ができなくなった。

戦後

  • 1945年10月に32ページ70銭で復刊、2万部発行。編集長の横溝武夫(横溝正史の異母弟)が探偵小説嫌いなためもあり、現代小説、ユーモア小説主体で発行。山本周五郎が「覆面作家」名義で『寝ぼけ署長』などを連載した。

  • 博文館は財閥解体の圧力や大橋進一社長の公職追放などで解散する。1947年9月号までは博文館の発行であったが、その後、発行所の名義は江古田書房(1947年10月号 - 1948年3月号)、文友館(1948年4・5月合併号 - 1949年1月号)、博友社(1949年2月号 - 1950年7月号)と移り変わっている。

  • 1948年4・5月合併号から高森栄次が編集長となる。1949年に横溝正史八つ墓村』の連載が始まって探偵小説色を取り戻し、江戸川乱歩『探偵小説三十年』、次いで山田風太郎、島田一男ら新人や、火野葦平林房雄、船山馨の探偵小説も掲載されるが、探偵小説雑誌としては『宝石』『ロック』などの新雑誌が中心となっていて経営は改善されず、実売も1万部に満たず、1950年7月号で終刊となった。

 当時の日本の探偵小説ファンには少し変なところがあった様です。

野村胡堂×江戸川乱歩対談「探偵小説このごろ(1950年)」

江戸川乱歩:探偵小説は、外国では老人が読んでいる。日本では若いものが読む。まるで反対だ。ぼくは書きはじめてから二十五年になるが、このごろになって、代議士になっているくらいの年輩の人に、「読んでいますよ」といわれるようになった。嬉しくなるね。
*1930年代から通俗小説の世界に転身した事と関係ある?

野村胡堂:わたしはね、こう思うんだ。探偵小説は盲目的本能の安全弁だと。探偵小説を読んでいる人は兇悪な犯罪はやらない。先生に毒入りウイスキーを贈って殺した東大小石川分院の蓮見。あんな犯罪は一見探偵小説をまねたようで、しかし決してあの犯人は探偵小説を読んでいないね。探偵小説は想像力を養うのに役立つよ。想像力をもっていないということは恐ろしいことで、ああすれば、こうなるということを知らない。だからどんな兇悪な犯罪でもやれる。少年犯罪の多いのも、少年たちが精神的失緊状態になっているためで、オシッコをたれ流すのとなんら違いがない。本能のおもむくままにやってしまうという状態なんだ。想像力を盛んにすれば行為の結果について考えるから犯罪予防になると思うね。

江戸川乱歩:むかしはちょっとした手のこんだ犯罪があると、犯人は探偵小説の愛読者にしてしまったりしたものだね。
*何時の時代も誰かがスケープゴートに…

横溝正史「本陣殺人事件(1946年)」

私はこの事件の真相をはじめて聞いたとき、すぐに今まで読んだ小説の中に、これと似た事件はないかと記憶の底を探ってみた。私は先ずルルーの「黄色の部屋」を思いうかべた。それからルブランの「虎の牙」や、ヴァンダインの「カナリヤ 殺人事件」と「 ケンネル殺人事件」や、ディクソン・カーの「プレーグ・コートの殺人」や、さてはまた密室の殺人の一種の変型であると思われるスカーレットの「エンジェル家の殺人」まで思いうかべた。しかしそれらの小説のどれともこれは違っていた。ただ、犯人がそれらの小説を読んでいて、そこに含まれたトリックをいったんバラバラに解きほぐし、その中から自分に必要な要素だけを拾い集めて、そこに新しい一つのトリックを築き上げ たのでは ある まい か。…… と、そう思われる節がないでもなかったが。…… 
*探偵小説家でもある本編の語り部の独白。

「警部 さん、あなたは何故あれのことを話してくれなかったのです」
「あれ…… あれってな んですか」
「ほら、この書棚にぎっちりつまっている本…… こ、これは探偵小説じゃありません か」
「探偵小説……? え、ええ、そうですよ。しかし、探偵小説が何かこの事件と……?」
しかし、耕助はそれには答えず、ずかずかとその書斎のまえに寄ると、大きな眼を瞠り いくらか呼吸さえはずませながら、そこに並んで いる、探偵小説の排列に見とれて い た。 耕助がそんなにも驚いたのも無理はない。 そこには内外のありとあらゆる探偵小説が網羅されているのであった。古いところでは涙香本から始まって、ドイル 全集、ルパン物、更に博文 館や平凡社から発行さ れ た翻訳探偵小説全集、日本 物では 江戸川乱歩小酒井不木甲賀三郎大下宇陀児木々高太郎海野十三小栗虫太郎 と、そういう人たちの著書が、一 冊あまさず 集められているばかりではなく、未訳の 原本、エラリー・クイーンやディクソン・カー、クロ フツ やクリスチー 等々、まったくそれは探偵小説図書館といってもいいほどの偉観であった。

「い、い、い、いったい、こ、こ、これ は、だ、だ、誰の蔵書な んですか」

「三郎ですよ。あの男は猛烈な、探偵小説のファンな んです」
「三郎 ─ ─ 三郎 ─ ─ 三郎といえば、さっきのあなたのお話では、け、け、賢蔵の保険金の受け取り人になっているのでしたね。そ、そ、そして、その男が、い、い、一番 たしかなアリバイを持っているのでし たね」
*まさしく「李下の冠」状態…

しかし日本推理小説の展開は一筋縄ではいかなかったのです。それは「宝石」編集長でもあった江戸川乱歩が、これからの推理小説界を担うと予言した「戦後五人男」の行く末を見ても明らか。 

  • 香山滋(1904年~1975年)…「ゴジラ(1954年)」に原案とシナリオを提供。映画化後に小説版『怪獣ゴジラ』を刊行。

    https://lh3.googleusercontent.com/-q7460ydOI-8/VTbQFX_88VI/AAAAAAAAA0w/NNjVEwRvkxQ/w426-h601/15%2B-%2B1

  • 島田一男(1907年~1996年)…1949年から自身の経験を生かしたブンヤ(新聞記者)物の推理小説を書き始め、1951年に短編「社会部記者(別題「午前零時の出獄」)」「遊軍記者」「新聞記者」「風船魔」で第4回探偵作家クラブ賞受賞。NHKのTVドラマ「事件記者(1958年〜1966年)」の脚本を担当。http://www.laputa-jp.com/laputa/program/jikenkisha/pic/jikenkisha_top.jpg
  • 高木彬光1920年~1995年)「成吉思汗の秘密(1958年)」「邪馬台国の秘密(1973年)」「ノストラダムス大予言の秘密 (1974年)」

    http://wing-auctions.c.yimg.jp/sim?furl=auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/ra180/users/2/4/2/9/y07y07-img450x600-1465130794ao8cky29046.jpg&dc=1&sr.fs=20000

  • 大坪砂男(1904年~1965年、脚本家虚淵玄の祖父)…柴田錬三郎眠狂四郎シリーズ(1956年〜1975年)」のアイディアマン

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  • 山田風太郎(1922年~2001年)…「甲賀忍法帖(1958年)」を皮切りとする忍法帖シリーズ。ちなみにこの様式に当てはまる最後の作品は、明治初期を舞台とした「開化の忍者(1974年)」。

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一体どこで何につまづいたんでしょうか?

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 戦後日本におけるハードボイルド文学の流行

  • GHQ支配から解放されて以降の1950年代日本では翻訳作品が大ブーム。ハドリー・チェイス(James Hadley Chase 1906年~1985年)の諸作品(1939年~1971年)」の様なハーボイルド探偵物、イアン・フレミング(Ian Lancaster Fleming,1908年~1964年)の「007号シリーズ(1953年~1965年)」の様な冷戦下の非情スパイ物、アイラ・レヴィンIra Levin,1929年~ 2007年)の「死の接吻(A Kiss Before Dying、 1952年)」の様なピカレスクロマンが一緒くたに伝来。
    *焼け跡世代の荒廃した心象風景に合致したとも。また戦時下において軍需品として普及したウィスキーとの相性も良かった。

  • こうした作品のスタイルを大坪砂男「私刑(リンチ,1948年)」が任侠物と結びつけ、中里介山大菩薩峠(1913年~1941年)」に起源を有するニヒルな剣士を主人公に迎えた柴田錬三郎眠狂四郎シリーズ(1956年〜1972年、同門の大坪砂男も原案参画)」にも応用(アイディアマンとして参画していた)。この流れが笹沢左保木枯し紋次郎シリーズ(1971年〜1999年)」を経て深作欣二監督「仁義なき戦いシリーズ(1973年〜1976年)」を登場させるに至る。

  • また多羅尾伴内シリーズ(1946年〜1960年)」が大ヒットした影響で、光文社の月刊少年誌「少年(1946年〜1968年)」に「鉄腕アトム(1951年〜1968年)」を連載していた手塚治虫や「哲人28号(1956年7月号〜1966年)」を連載していた横山光輝にまでその影響が及んだ。例えばこの時期の「鉄腕アトム」では、探偵役のヒゲおやじの活躍が物語の8割を占め、アトムは最後のクライマックス場面にしか登場しない。多くのルパンものがそうである様に。
    *さらにその後、手塚治虫は悪役ロックなどを主人公としたピカレスク物を、横山光輝は「伊賀の影丸(1961年〜1966年)」「バビル2世( 1971年〜1973年)」「マーズ(1976年〜1977年)」「時の行者(1976年~1979年)」「その名は101(1977年〜1979年)」といった少年を主人公とする(国際)謀略物執筆を手掛けている。同誌に「少年探偵団シリーズ」を連載していた江戸川乱歩は戦前からモーリス・ルブランの影響下にあったし、手塚治虫フリッツ・ラングメトロポリス(1927年)」といったオーストリア系ユダヤ人の悲観的未来史観なら継承済みであったから、浸透は実に容易に進んだのである。そういえば
    フリッツ・ラングも、アメリカに渡ってからはフィルム・ノワール作品を手掛けている。

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    *「多羅尾伴内シリーズ(大映版4作1946年〜1948年、東映版7作1953年〜1960年)」モーリス・ルブランのルパン・シリーズを参考に「元義賊の変装名人の名探偵」というキャラクターを練り上げた。チャンバラ・アクションをGHQに禁止された為にクライマックス場面を銃撃戦に置き換えている。「トーリーは、幼稚なたわいない話が多く、荒唐無稽である」「千恵蔵が七変化をするのが映画のポイントだが、どんなに化けても観客には千恵蔵本人であることが一目瞭然であり化ける意味が薄く、また事件の推理・捜査と大して関連してもいない」と評論家の評価は散々で、また大映社長もそれになびいた事が移籍の原因となった。また主演の片岡千恵蔵横溝正史原作の「金田一耕助」シリーズ(東横映画)も主演しており、こちらは「アメリカ帰りの民主主義の使者が、日本の名家や元華族に残る戦前の因習を暴き立てる」本格推理物のスタイルを貫いた。

    *「スーパージャイアンツ(1957年〜1959年)」…日本初の特撮スーパーヒーロー物映画。タイトルは新東宝社長の大蔵貢がファンであった読売ジャイアンツに由来する。全9作品で、第7作まで新東宝が製作・配給を行なっていたが、第8作と第9作は富士映画製作、新東宝配給となっている。第6作目までを監督した石井輝男は、光文社の少年向け月刊誌「少年」連載作品の世界のイメージ(例えば宇宙人は「少年探偵団シリーズ」の怪人)で制作したと述懐している。「タケダアワー第1弾」としてスタートした川内康範原作の「月光仮面(1958年〜1959年)」同様、フライシャー・スタジオ制作の「スーパーマン(Superman、1941年〜1943年)」が日本のTVで1955年に放映された影響を色濃く受けている。

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『日本SF精神史 幕末・明治から戦後まで』著者インタビュー

雀部:いよいよ最終章の昭和時代に入りますが、海野十三氏は、自分の後継者として、最初は蘭郁二郎氏を考えていたのですね。(中略)蘭氏と海野氏のお二人とも、戦後の日本SFの隆盛を見ることなくお亡くなりになったのは、日本SF界にとっても返す返すも残念ですし、大いなる損失ですね。

長山:本当にそうですね。蘭は海軍報道班に徴用されている最中に飛行機事故で亡くなりました。海野も若いときにわずらった結核が、戦中の報道班徴用中に再発し、それが原因で昭和二十四年に亡くなっており、こちらも戦争とは無関係ではない死です。戦後になると、米英中心にSF作品も日本で読めるようになりだし、雑誌「宇宙と哲学」の創刊など、ささやかなものですがSFを志向する文芸運動なども起きたので、もうちょっと長生きしてくれたら、戦後SFは大きくその姿を変えていたかもしれません。

雀部:蘭郁二郎氏が夭逝した後、海野十三氏はその才能を惜しみつつ、次なる後継者として手塚治虫氏を考えていたんですね。

長山:はい。これは海野十三(本名:佐野昌一)の奥様である佐野英様からうかがったのですが、手塚治虫のマンガを目にした海野は、とても興奮して「この人に科学小説を書かせたい。この人ならできる」と言い、東京に出てきてほしいと手紙を書いたらしいです。もっとも、そのすぐ後に海野は亡くなり、この話は実現しませんでした。しかし手塚は、海野から直接指導されたわけではなかったものの、海野作品は確実に読んでおり、その影響は特に初期作品には濃厚に現れています。

それにしても当時のエンタメ業界のセクト主義は驚くばかりです。

  • 1950年代後半から若者はバイク(2スト250cc)を乗り回す様になり「太陽族映画(1955年〜1956年)」でも盛んに題材とされたが、1950年代の小説には滅多に登場しない。「走ってくると子供が喜んで集まってくる題材を黙殺してどうするか」という立場から「月光仮面(1958年〜1959年)」にバイクを登場させるもPTAの抗議で放送打ち切りに。

  • 力道山が引き起こしたプロレス・ブームは1954年からずっとTVの主要コンテンツとして君臨してきた。しかし他のエンタメでこれが取り上げられる様になるのは1960年代後半における「(第一次怪獣ブームや妖怪ブームの母胎となった)子供怪奇ブーム」や「梶原一騎のスポ根ブーム」以降。

  • そもそも推理小説界には「推理小説は科学であり、可能な限り余計な不純物は持ち込まない」という不問律が存在し、そのせいで舞台も登場する小道具もすっかり時代遅れになってしまっていた。その隙を突いたのが社会派ミステリーだったが今度は「社会問題を告発するのが小説の役割」なる作家陣の思惑が強くなりすぎ、推理小説としての要件を満たしていない作品も増えて読者離れを起こしてしまう(その結果起こったのが1960年代に入ってからの「翻訳小説ブーム」だったとも)。
    *そうした観点から見ると、当時の横溝正史は意欲的に「高校野球のTV放送」とか「団地」とか当時の最新文物を意欲的に取り入れているのが興味深い。

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そして時代は1960年代に。

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横溝正史「仮面舞踏会(1963年〜1974年)」

*1962年7月号から雑誌『宝石』で連載されるも1963年2月号で横溝正史の風邪のため中断。その後,1974年に完成する。時代設定は昭和35年(1960年)に設定されており、金田一耕助が活躍する長編としては比較的に新しい時代となる。角川文庫版の冒頭には「江戸川乱歩に捧ぐ」という一文がある。

「あたし近頃、探偵小説というのを呼んでいるのよう。近頃は推理小説っていうらしいけど、あたしみたいなものには、やっぱり探偵小説って言った方がピンとくるわね。あたしが読んでるのは主に外国ものだけどね。探偵にはちっとも興味がないの。あたしが共鳴するのはいつも犯人の方なの」
*敗戦後の日本でGHQ指導などにより「探偵」の「偵」の字が使えなくなり、木々光太郎が「推理小説」という呼称を考案し、これが次第に広まって定着していく(この変更でデビューする気を起こした変わり種作家が大坪砂男虚淵玄の祖父)。またGHQ占領期が終わった1952年以降は未曾有の翻訳ブームとなり、イアン・フレミング「007」シリーズ(1953年〜1964年)、アラン・レヴィン「死の接吻(1953年)」などの「ハードボイルド物」が好評だったという。ちなみにこの台詞を口にした老嬢が読んでいたのはアガサ・クリスティのミスマープル・シリーズ。
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戦後はパズルやクイズが大流行である。これはラジオやテレビの影響もあるだろう。テレビのどのチャンネルを回してもクイズ番組のひとつふたつないところはない。あるテレビのクイズ番組ではこれを頭の訓練と称しているが、実際には頭の休養なのである。社会が物質的に豊かになると、人間は精神的に世知辛くなり孤立する。社会が物質的に豊かになったという事は、それだけ機械文明が発達した証であり、またそれを支える人間が相応に知的に発達した事を意味する訳だが、すると精神的に孤独になって世知辛くなるのを免れない。これから逃れる格好の手段がクイズであり、パズルなのだろう。という事はむしろ休養というより逃避なのかもしれない。
*「ヴィドック回想録 (Mémoires de Vidocq』1827年)」に触発されて「史上初の創作名探偵」オーギュスト・デュパンを創造し「モルグ街の殺人 (The Murders in the Rue Morgue、 1841年)」「マリー・ロジェの謎 (The Mystery of Marie Roget、 1842年〜1843年)」「盗まれた手紙 (The Purloined Letter、 1845年)」を執筆したエドガー・アラン・ポーは生涯経済的成功を収める事はありませんでした(そもそも「殺人事件があると、すぐさま警官が現場に検証に駆け付ける」法治国家なんてフランスと1830年以降の英国にしか存在品かった)。ルコック探偵シリーズ8作(1866年〜1876年)のエミール・ガボリオの成功もたかが知れたもの。その一方でシャーロック・ホームズ・シリーズ60作(1887年〜1927年)を残したアーサー・コナン・ドイル卿や推理小説226編(1920年〜1973年)を残したアガサ・クリスティの商業的成功は読者層に恵まれた結果であったが、ここでいう「読者」は極めて頑固で、その要求を満たす(パズル要素以外は徹底的に保守的価値観を押し付けてくる)スタイルが「本格派推理小説」というジャンルを形成したといっても過言ではない。これに便乗する形で名探偵ファイロ・ヴァンス物12作(1926年〜1939年)を残したヴァン・ダイン推理小説64冊(1930年〜1972年)を残したジョン・ディクスン・カー推理小説58冊(1930年〜1999年)を残したエラリー・クィーンなども分け前に与ったが、日本輸入に際しては最初から「この企画を満たさないものは探偵小説と言わぬ」「日本人にもそのままの形で通じるのか。そもそも通じさせてしまって良いのか」という激しい「本格論争」がつきまとってきた。この文章はその問題に関する横溝正史なりの解答とも見て取れる。

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*1950年代末に「社会派ミステリー」一色に染まった日本推理小説会はそのジャンルの凋落に引き摺られる形で一時的衰退を経験する。しかし別に推理小説ファンが減ったという訳ではなく、翻訳推理小説に乗り換えただけだったのである。

後から思えば昭和35年(1960年)というの年は、それまで繁栄を極めてきた映画界のピークだったのです。この年を境として大衆娯楽の王座の地位は映画から急速にテレビに取ってかわられていきました。アメリカでは既にそうなっていたし、日本でも物凄い勢いでテレビの受像器が普及発展し始めていたのです。カラーが普及し始めたのもこの年で、映画の凋落はもうすぐそこまで迫っていました。
*当時映画業界は一致団結して名優をTV出演させない事でTVの躍進に歯止めを掛けようとしていた。この流れに逆らったのが東映。1950年代におけるドル箱映画「多羅尾伴内」「金田一耕助」「刺青判官(遠山の金さん)」シリーズで主役を務めてきた 片岡千恵蔵を脇役に引き下げる一方でTV番組「七色仮面(1959年〜1960年)」「アラーの使者(1960年)」でデビューした千葉真一深作欣二と組ませて1961年には「風来坊探偵 赤い谷の惨劇」「 風来坊探偵 岬を渡る黒い風」「ファンキーハットの快男児」「ファンキーハットの快男児 二千万円の腕」に次々と出演させている。次第に単純明快な勧善懲悪の時代劇では観客が呼べなくなり「テレビがそう簡単には食い込めない」ヤクザ映画に推移。「(勧善懲悪物の舞台をヤクザの世界に移しただけの)任侠物(1960年代後半)」「(監督石井輝男、主演高倉健の実録物)網走番外地」シリーズ10本(1965年〜1967年)を経て(ロマンポルノ路線に移行した日活ニューアクションから引き継いだ)梶芽衣子主演の「女囚さそり」シリーズ4本(1972年〜1973年)、深作欣二監督、菅原文太主演で「仁義なき戦い」シリーズ8本(1973年〜1976年)を撮影。ちなみに第二部『仁義なき戦い 広島死闘篇』で千葉真一が演じた武闘派ヤクザの大友勝利は今でも国際的に人気がある。また丁度「東映の勧善懲悪系任侠物」が衰退期に差し掛かったタイミングを見計らって「ノスタルジックな下町コメディ」という新機軸を切り拓いたのがTVシリーズ(1968年〜1969年)に端を発する松竹の「男はつらいよ」シリーズ49作(1969年〜1995年)であった。

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一方TVはというと(本格推理物でデビューしながら坂口安吾に「こんなもの読ませた編集は罰金払いなさい」とまで酷評されて「ブン屋物」に転じた)島田一男のNHKドラマ「事件記者(1958年〜1966年)」がそれなりに好評。とはいえ1960年代前半は「コンバット!(1962年〜1967年)」「奥さまは魔女(1964年〜1972年)」といった輸入番組に推され気味でした。しかしやがて「少年」が主要ターゲットとして急浮上してきます。「(コンバットの流行を意識した)忍者部隊月光(1964年〜1966年)」そして「第一次怪獣ブーム」の興亡を迎える事に。
*「第一次怪獣ブーム」…(東宝の怪獣映画に対抗した)大映の「大怪獣ガメラ(1965年)」「大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン(1966年)」「大魔神(1966年)」と円谷プロによる「ウルトラQ(1966年)」「マグマ大使(1966年〜1967年)」「ウルトラマン(1966年)」「キャプテン・ウルトラ(1967年)』「ウルトラセブン(1967年〜1968年)」などが爆発的人気となり社会現象とまで呼ばれたが、次第に子供騙しの乱作が相次いで人気が衰退。ちなみに波を上手く乗りこなして自らのステイタス向上に役立てたのが「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるである。

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ここで興味深いのは「サラリーマン小説(1948年〜1972年)」や「忍法帖シリーズ(1958年〜1974年)」がFade Outしていく一方で、昭和44年(1969年)から以下の様な長寿コンテンツが一斉に始まる事。

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  • 白土三平忍者アワー」の後番組として始まったアニメ版「サザエさん1969年〜)」

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  • 小学館の発行している学年別学習雑誌における「SFジュブナイル読物」の後企画としての藤子不二雄ドラえもん1969年〜1994年)」連載開始

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  • TVシリーズ(1968年〜1969年)最終回で主人公寅次郎が死亡したのを惜しむ声が殺到して始まった松竹映画「男はつらいよ」シリーズ49作(1969年〜1995年)

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おそらくその契機となったと推測されているのがその年の1月にあった安田講堂陥落知恵権とその年の東大受験中止の発表。庶民の学生運動への同情が一斉に醒め始めた端緒とも。

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直接関係が指摘出来るのは「前番組や前企画の打ち切り」くらいなのですが、それを契機に視聴者の趣向も「保守化」したと指摘する向きもあったりします。

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そして1970年代に入ると江戸川乱歩横溝正史の作品がリヴァイヴァル。特に横溝正史のリヴァイヴァルは映画と書籍を同時に売り出す「角川商法」を駆使した角川春樹の存在の結果という部分がが大きかったとも。

そして「三毛猫ホームズの推理(1978年)」や「セーラー服と機関銃(1978年)」を引き下げた赤川次郎や、鉄道ミステリー第1作「寝台特急殺人事件(1978年)」を引き下げた西村京太郎などが登場し、新しい時代が始まる訳です。ところで「本格派推理」要素や「ハードボイルド」要素はどうなった? 基本的には翻訳小説ブーム以降は、その「根強いファン」として存続する事に…