諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

「X-MEN: アポカリプス」観てきました。アメコミ界で最も「歴史を背負った」悪役?

X-MEN: アポカリプス(X-Men: Apocalypse、2016年)観てきました。まさかのスターウォーズ・トリロジーを引用しての「三作目は駄作」論…それはそれとして、今回の悪役は有史時代以前の古代エジプトに生まれた「世界初のミュータント」という設定で、カイロの街を前にして「ここはかつて世界の中心だった。今や再び世界の中心となる」と嘯きます。実はたったこれだけの情報の中に「欧州人のエジプト観の壮大な推移」が埋め込まれていたりするのですね。

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 元来はこんな設定のヴィラン(悪役)だった様です。

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アポカリプス (Apocalypse) - Wikipedia

本名:エン・サバー・ヌール(第一の者)。「適者生存」を信念及び美学とする冷酷な悪役。もともとは古代エジプト時代の孤児で、砂漠に捨てられていた所を遊牧民らに拾われた。その後、オジマンディウス王の奴隷となるが、ミュータント能力に目覚めると、王国にある古代テクノロジーを手に入れんが為にオジマンディウスから王座を奪い取り、自らの行動を記録させる奴隷とした(『ライズ・オブ・アポカリプス』)。

*ToyBizのオンスロートシリーズのフィギュア、アポカリプス・ライジングには「不老不死の体にされて忠実な奴隷書記と化したオジマンディウス」が付いてくる?
ozymandias apocalipsis - Google 検索

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映画化を契機として背景設定の思い切った総入れ替えがなされました。「ここはかつて世界の中心だった」と口にしながら、その都市の名前を当人は挙げません。おそらくたとえその都市に名前があったとしても有史時代の遥か以前に廃墟化。その廃墟すら建材を全てピラミッド建築などに流用されて完全消滅し、その存在ごと忘れ去られてしまったという設定なのでしょう。
「その存在ごと忘れ去られてしまった」…ただしその絶対権力に対する憧憬心が後継王朝に継承され「巨大ピラミッドの建築」という形で模倣されたという裏設定? この思考様式を日本の古墳時代に適用するとまた別の悪役が生み出せそうな気がする。

http://vignette1.wikia.nocookie.net/marveldatabase/images/a/a8/Apocalypse%27s_Pyramid_from_X-Men-_Apocalypse_001.jpg/revision/latest?cb=20160616010628

カイロ(アラビア語: القاهرة, al-Qāhira, アル・カーヒラ、英語: Cairo)

エジプトの首都。アフリカ、アラブ世界で最も人口の多い都市であり、その地域を代表する世界都市の一つである。アラブ連盟の本部所在地でもあり、アラブ文化圏の中心都市である。その中心市街はナイル川の右岸、東側に位置する。ナイルをはさんで対岸の西郊には、ピラミッドで有名なギーザの町がある。町の南は古代エジプトの中心都市のひとつ、メンフィスである。
*メンフィス…第6王朝のファラオ、ペピ1世のピラミッド「メンネフェル」のギリシャ語読みが変化したもの。カイロ市の南方27kmのナイル川西岸にある。エジプト古王国期の統一王朝最初の都であり、初期の都市名は、Ineb Hedj("白い壁")。

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  • 古代エジプトからローマ属州時代にかけては「古代エジプト創世神話の中心地」として古代ギリシャ時代から名高かった宗教都市ヘリオポリス(現在はカイロの高級住宅街)の近郊地帯。ただし当時はナイルデルタの湿地帯に小規模の集落が点在するだけの未開地に過ぎなかった。定住者が少なかったこともあって、イスラム帝国侵攻前の時代の遺跡はほとんど見つかっていない。ナイル川対岸の西側のギーザ台地には三大ピラミッドが築かれているが、そのギーザも古王国時代の終焉とともにピラミッド信仰も衰退していった為、古代エジプト文明の黄金期とされる新王国時代(紀元前1570年頃〜紀元前1070年頃)においては早くも廃墟に変貌していた。
    *英国ロマン主義を代表する一人であるパーシー・シェリーの詩「オジマンディアス( OZYMANDIAS,1817年)」。そこでも声高々に歌われた様に、欧州人は19世紀まで新王国時代のラムセス2世(在位紀元前1290〜紀元前1224年、または紀元前1279年〜紀元前1212年)こそが古代エジプトで最も偉大なファラオと考えられていた。
    エジプト新王国
    *しかし実は古代エジプト文明を象徴する巨大なピラミッドやスフィンクスが次々と建設されたのは古王国時代(紀元前2686年頃〜紀元前2185年前後)。それはエジプトにおいて初めて中央集権体制が樹立された時代であったのと同時に、ファラオがノモス(地方行政区)に派遣した地方太守が世襲化と現地勢力化によって独立志向を高める分裂準備期でもあった。その意味では、この時代を象徴するのは巨大なピラミッドやスフィンクスそのものというより「ファラオによる死者の冥福を祈る祭祀の独占状態」を打破すべく広まった「死者の書(Totenbuch)」の流行(プロテスタントの信条「福音のみ」ならぬ「祭文のみ」の世界。どちらかというと「念仏(南無阿弥陀仏)」や「題目(南無妙法蓮華経)」に近い)と、地方太守達がその墳墓を中央でなく赴任先に築造する様になっていく傾向とされる事もある。その結果ファラオも巨大ピラミッドの築造を諦め「中央の君臨」を象徴するラーの太陽神殿の築造に傾注していく事に。

  • アケメネス朝の時代に現在のバビロン城のあるところに砦が築かれたとの説もある(ヨセフス)。アウグストゥスの時代には3つの軍団の司令部が置かれた(史料:It. Anton.; Georg. Ravenn. etc.) 。ローマの支配時代を通じて、バビロン城に軍団が駐屯し、現在でも遺跡が残っている。

    http://www.aa.tufs.ac.jp/kairo/color/img/jpg/1_2.jpg

  • イスラム帝国の将軍アムル・イブン・アル=アースは、639年にエジプトへの侵攻を開始し東ローマ帝国の駐留軍を破り、643年にローマ軍の駐屯都市バビュロンの近くにアラブによるエジプト支配の拠点として軍営都市を築いて「フスタート」の名を与えた(現在カイロ市内の一部となっている)。初代エジプト総督となったアムルはフスタートの建設を進めるとともに、エジプトに灌漑施設を建設するなど支配体制構築に努めた。ウマイヤ朝時代もエジプト州治所として首府的機能を全う。アッバース革命(750年前後)に始まるアッバース朝時代にはフスタート北部にアスカルという新しい町が築かれ、ここがエジプト支配の拠点となった。

  • 9世紀にはいるとアッバース朝は弱体化が顕著になり、868年にはトゥールーン朝が事実上独立してフスタートに首都を置いた。トゥールーン朝始祖のアフマド・イブン=トゥールーンは870年、アスカルのさらに北部にカターイーの町とイブン=トゥールーン・モスクを建設した。トゥールーン朝時代はやがて弱体化して905年に再びアッバース朝に再統合されたものの、すでにアッバース朝に昔日の勢いはなく、935年には再びイフシード朝が半独立状態となり、その首都として活用される事に?

現在のカイロを首府に定めたのは迫害の厳しいシリアを脱出し、チュニジア経由でエジプトを攻略したシーア派系列のイスマーイール派が興したファーティマ朝(909年〜1171年)だった。

  • フスタートは、969年に現在のチュニジアに興ったシーア派イスマーイール派)のファーティマ朝の送り込んだ遠征軍の将軍ジャウハルによって征服された。ジャウハルはフスタートの北3km郊外の地点(カターイーの北)に新たに「勝利の町」を意味する「ミスル・アル゠カーヒラ」の名をもち、ファーティマ朝のカリフが住む宮殿と、イスマーイール派の学術センターとして建設されたアズハル・モスクを中心に1km四方の方形の城壁を備えた新都を建設。ただし歴史のこの時点においては政治機能しか与えられておらず、紅海と地中海をつなぐ中継貿易の拠点としての経済機能は依然として旧市フスタートに残されていた。そしてこの政治都市は(ミスルと呼ばれる経済都市フスタート)に対して、カーヒラ(カイロ)と呼ばれる事になる。6代カリフのハーキムは奇矯な行動で知られる一方で学問を奨励し、光学のイブン・アル・ハイサムなどの優れた学者を輩出してイスラム科学にカイロ学派と呼ばれる一時代を築いた。

    http://comomo.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_0bf/comomo/2012_03260035-46168.JPG?c=a1

  • ファーティマ朝は12世紀に入ると混乱を極めるようになり、十字軍にも有効な手が打てなかった。十字軍国家であるエルサレム王国はたびたびファーティマ朝に侵攻し、ファーティマ朝エルサレム王国に貢納することで平和をあがなったが、1168年には貢納の不払いを理由にエルサレム王国のアモーリー1世軍がエジプトに侵攻したのに対し、宰相のシャーワルはフスタートを焼き払って焦土戦術を取った。フスタート市民はカイロに逃げ、以後カイロは商業都市として発展を始めることとなった。1169年にはザンギー朝の部将シールクーフがカイロに入城したが、わずか2ヵ月後に急死し、かわって甥のサラーフッディーンが実権を握った。

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  • 1169年にファーティマ朝にかわってカイロでアイユーブ朝の政権を確立したサラーフッディーンサラディン)は、ファーティマ朝の政府施設を接収するとエジプトの政府機能の一切をカイロに集約させ、カイロ南東のモカッタムの丘の端に城砦(シタデル)を建設して守りを固めるとともに、城壁と市街を南に拡大してフスタートをカイロに取り込ませる形で都市の拡張を進めた。この事業はアイユーブ朝に続くマムルーク朝の時代に至って完成し、東西交易によって空前の繁栄を迎えた。1258年にバグダードがモンゴルに征服された後はアッバース家末裔のカリフもカイロへと迎えられてイスラム世界の政治的・精神的な中心地ともなり、スンナ派を奉じたサラーフッディーンによってシーア派からスンナ派イスラム学院に改められたアズハルはスンナ派イスラム世界の最高学府として高い影響力をもつようになった。カイロの町にはアイユーブ朝マムルーク朝のスルタンやアミールなど有力者によって盛んに建築事業が行われ、モスクをはじめ多くの歴史的建造物が立ち並ぶイスラム都市としても発展した。カイロの旧市街は世界遺産にも登録されている。しかし、14世紀に頂点を迎えたカイロの繁栄は、15世紀以降、ペストの流行などが原因で次第に衰えを見せ始めた。

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  • 1516年にマムルーク朝オスマン朝に征服されると、オスマン帝国の一地方であるエジプト州の州都に過ぎなくなったカイロからはスルタンもカリフもいなくなって政治的な重要性は失われ、文化活動も沈滞した。しかし、依然として活況を呈する交易によって人口も回復し、再び繁栄に向かいつつあった。

1798年、ナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征を行い、7月21日にピラミッドの戦いにおいてマムルークたちの軍に勝利し、翌22日にはカイロを占領した。ナポレオンはイズベキーヤ湖近くに司令部を置いたが、しかしエジプトを統治することに失敗したナポレオンがカイロに滞在したのは1799年8月22日までの1年余りに過ぎず、フランス軍も1801年8月には降伏する。
ナポレオンのエジプト遠征

  • 彼らの侵攻によりエジプト情勢は動揺を続けるが、やがてアルバニア傭兵隊の隊長だった軍人ムハンマド・アリーが後の混乱をぬって台頭し、エジプトの世襲支配者として君臨するに至ると、半独立のムハンマド・アリー朝のもとで再びカイロは政治の中心となり、都市の近代化が進められた。

  • とくに19世紀後半のエジプト太守イスマーイール・パシャは近代化に熱心であり、スエズ運河の開通にあわせてナイル川東岸の低湿地を開発して、パリの都市計画に倣った新市街を旧市街の西側に建設した。イズベキーヤ湖は埋め立てられて公園となり、それ以西のエリアが開発された。イスマーイール・パシャは新市街にあったアブディーン宮殿を改造して居城とし、シタデルに代わって以後はアブディーン宮殿がエジプトの統治者の居城となった。また、1856年にはアレキサンドリアとカイロを結ぶ鉄道が開通し、ミスル駅(現ラムセス駅)が開業した。しかしこれをはじめとするイスマーイール・パシャの近代化政策はエジプト財政を破綻させ、エジプトはイギリスの保護領となった。その後もカイロの開発は続けられ、1894年には東部郊外の砂漠にニュータウンとしてヘリオポリスが建設され、以後続々とカイロ郊外に建設されるニュータウンの嚆矢となった。20世紀に入るとゲジーラ島が高級住宅街化し、カイロ駅北のショブラ地区が労働者の居住地区となった。

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  • 1922年にエジプトは独立をはたし、カイロはその首都となったものの、政治の実権は未だイギリスが握っており、これに不満を持った市民は1952年1月26日に黒い土曜日といわれる大暴動を起こした。この混乱の中、7月23日にはナーセル率いる自由将校団がクーデターを起こし、ファールーク国王を追放した。エジプト革命である。
    エジプト革命

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  • 革命政府はカイロの近代化を進め、東部郊外のナセルシティなどに高級住宅街の開発が進められた。カイロの人口は急速に増大し、カイロ都市圏の人口は1907年に95万人だったものが、1936年には160万人、1952年には290万人、1988年には1200万人に達した[6]。しかし急激な開発はカイロへの富の集中と市内での貧富の差を生み出し、やがて2011年、ホスニー・ムバーラク大統領の長期政権に不満を持った市民が市の中心部である新市街のタハリール広場などに集結して、抗議デモを行い、これによりムバーラク政権は崩壊した(エジプト革命 (2011年))。

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また、2012年頃からは電力不足により停電が常態化しており、2014年には都市部においても1時間の停電が1日に3、4回起きることもある。同年9月には1日近くに亘る停電も発生し都市機能は麻痺した。これに対してアブドルファッターフ・アッ=シーシー大統領は、120億ドルの資金が電力解消に必要であり、エジプトは現在それだけの経済的余裕を有していないと述べており、改善の見通しは全く立っていない。

パーシー・シェリー「オジマンディアス( OZYMANDIAS,1817年)」

Percy Shelley’s poem Ozymandias as illustrated by Zen Pencils – A W E S T R U C K _W A N D E R E R

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古代の国エジプトから来た旅人はいう

  胴体のない巨大な石の足が二本
  砂漠の中に立っている その近くには
  半ば砂にうずもれた首がころがり

  顔をしかめ 唇をゆがめ 高慢に嘲笑している
  これを彫った彫師たちにはよく見えていたのだ
  それらの表情は命のない石に刻み込まれ
  本人が滅びた後も生き続けているのだ

  台座には記されている
  「我が名はオジマンディアス 王の中の王
  全能の神よ我が業をみよ そして絶望せよ」

  ほかには何も残っていない
  この巨大な遺跡のまわりには
  果てしない砂漠が広がっているだけだ

*オジマンディアス(Ozymandias)はラムセス2世(在位紀元前1290〜紀元前1224年、または紀元前1279年〜紀元前1212年)のギリシャ語名。古代エジプト史上最も偉大なファラオとされる事も多い新王国時代(紀元前1570年頃 〜紀元前1070年頃)第19王朝(紀元前1293年頃〜紀元前1185年頃)のファラオ。その末裔はヒッタイト帝国やミケーネ文明を滅亡に追い込んだ「紀元前1200年のカタストロフ」の余波で衰退したが、この詩ではその「盛者必衰の理」が、エジプト遠征を指揮して一旦は皇帝まで上り詰めたナポレオン・ボナパルトの興亡と結びつけられている。メリメがスタンダール「赤と黒(1830年)」をプーシキンスペードの女王1834年)」の足許にも及ばない駄作と酷評した基準もこれ。すなわち復古王政時代(1815年〜1848年)の欧州は「ナポレオンの天下がどれほど一時的なものに過ぎなかったか」について言及するのが保守系知識人の義務と考えられる一方で、「その太くて短い生き方にこそ倣いたい」と考えるロマン主義が横溢する極めてアンビバレントな状況にあった(ヘーゲルマルクスの対立の根底にあったのもこれ)。それゆえに、その両陣営を納得させる作品こそが傑作と称されたのである。日本人に「源氏物語」や「平家物語」を選ばせた判官贔屓感情の一種といえなくもないが、時代の要請もあって「英雄の登場を待望する大衆は、嫉妬心からそれと同じくらいの熱心さでその英雄が傲慢さゆえに自滅していく物語を好む」という残酷な側面がより強く前面的に押し出される形となった。木曽義仲ですか? それともスカーフェイス(Scarface、1932年、1983年)?

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*再評価以前のシェリーはこの詩においてのみその名を知られていたくらいである。欧米ではさらにアラン・ムーア原作「ウォッチメンWatchmen,1986年〜1987年、映画化2009年)」に登場するヒーローの一人が「オジマンディアス(Ozymandias)」と名乗り、この詩そのものが米国TVドラマ「Breaking Bad(2008年〜2013年)」の作中で引用された事から今日なお世代を超えた人気を保ち続けている。英語圏では「King of Kings」といったらイエス・キリストの事を指すので「神の所業への挑戦者」というニュアンスが強まる模様。日本を含むユーラシア大陸の多くでは「(ペルシャ皇帝やヤマト大王の様に)諸国王を束ねる大王」みたいなニュアンスしか持たない称号なのにどうしてこうなった?

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*「オジマンディアス(Ozymandias)/エイドリアン・ヴェイト(Adrian Veidt)」アラン・ムーア原作「ウオッチメン(Watchmen、1986年〜1987年)」に登場するスーパー・ヒーローの一人で大企業ヴェイト社の若き社長でもある。卓越した頭脳を持ち、世界で最も賢い男と呼ばれる。優れたアスリートでもあり至近距離で発射された銃弾を素手で受け止められる。かつてアレキサンダー大王に憧れてユーラシア大陸を放浪し、やがて彼が失敗した事を悟ると今度はラムセス2世に学んだ。「いくら犯罪と戦ったところで核戦争がおきたらどうしようもない」とブレイク(コメディアン)から気付かされ、キーン条例制定以前に人気を保ったまま引退した為にこの時間軸でのヒーロー中唯一、市民から賞賛されている人物。その知名度を活かしてヴェイト社を世界的企業にまで成長させ南極に巨大な秘密基地「カルバック」を建設。核実験に巻き込まれて時空を超える超人と化したDr.マンハッタンの発明品を実用化し、様々な研究へと投資する事でアメリカを発展させる。直接のモデルはチャールトンのサンダーボルトことピーター・キャノン(Peter Cannon)で、ヒマラヤのラマ僧院で育てられる事によって古代の賢者の秘術を授けられたこの人物は、脳の全領域を使用することで肉体と精神を完全に活用できるようになったとされている。原作者は「ヴェイトの唯一にして最大の罪悪は自分とDr.マンハッタン以外の全人類を見下し嘲笑していること」とコメント。2008年には『フォーブス』誌が選ぶ「架空の大富豪ベスト15」の第10位にランクインしている。

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*「ラムセス2世(在位紀元前1290〜紀元前1224年、または紀元前1279年〜紀元前1212年)」古代エジプトではナイル川下流域に「アジア人」が大量流入する様になった中王朝時代(紀元前2040年頃〜紀元前1782年頃)に王権弱体化が進行し、彼らを抜擢した官僚団の頂点に立つ宰相が実権を握る様になった。しかしやがて現地でヒクソス(ヘカ・カスウト=「異国の支配者達」)が自立する様になり第2中間期(紀元前1782年頃〜紀元前1570年頃)へと突入。テーベに拠って上エジプトを統一した第17王朝・第18王朝(紀元前1663年頃〜 紀元前1293年頃)が紀元前1570年以降は再びエジプト全土を統一するもやがて王統が途絶。遂に権力はナイル川下流域において「災厄と恵みの双方を司る外国人と嵐の神」セトを祀ってきた神官の家系出身ながら次第に宰相として権力を掌握していった第19王朝(紀元前1293年頃〜紀元前1185年頃)の手に落ちる事になる。その最盛期に現れたラムセス2世の治世を特徴付けるのは「古代エジプトのナポレオン」と称された第18王朝の征服王トトメス3世(在位:紀元前1479年頃〜紀元前1425年頃)を見習ってのナイル川上流域のヌビアや西域リビアメソポタミアとの交易路に当たるシリア・パレスチナ方面に積極進出、及びテーベを牛耳るアメン神官団に対抗する為のメンフィスのプタハ=セクメト信仰や「死者の書」の挿絵に端を発するオシリス=イシス信仰やラー・ホルアクティ信仰への積極投資であり、後者は後にキリスト教に継承される事になる「(プタハ=オシリスを父、セクメト=イシスを母、ラー・ホルアクティを息子とする三位一体に立脚する)聖家族信仰」を振興させたが、次第にシリアの主要交易都市ウガリットやカデシュやアララハを再建不能な形で焼き払った「海の民」の攻撃、同時期におけるギリシャ本土のミュケナイ文明やクレタ島のミノス文明の謎の壊滅、そしてミタンニ=ヒッタイト文明やアッシリアバビロニアウルクなどのメソポタミア主要都市の衰退が重なった「紀元前1200年のクライシス」の影響が及び後継王統となった第20王朝(紀元前1185年頃〜紀元前1070年頃)、特にテーベのアメン神殿国教化政策に切り替えたラムセス3世(在位1186年〜1155年)の時代にはエジプトのマルクス主義者マフムード・フサインが「エジプトの階級対立」の中で「世界最初のプロレタリアート蜂起」と絶賛するピラミッド建設者達のストライキが勃発し、ラムセス3世当人も最期は暗殺されてしまい、以降のエジプト文明は衰退を余儀なくされる事となる。

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*また欧米人のイメージ形成過程においては、映画「十戒(The Ten Commandments、1956年)」において旧約聖書モーセと対立したとされるファラオ(原点では無名)が(ユル・ブリンナー演じる)ラムセス2世と解釈されたのも大きいとも。

 何か「日本人が中華王朝史を語り出すと、まず中国人がついてこれない」の欧米版という気もします。日本人はそもそも相当のオタクでも「フランケンシュタイン(Frankenstein: or The Modern Prometheus、1818年)」の作者メアリー・シェリーの夫の名前とその代表作までは答えられないのが当たり前なのに対し、欧米のオタクにとってはこの辺りが「共通基礎知識」。ユダヤ人や黒人のエジプト史オタクと論争するにはまだまだ全然予備知識が足りてないレベルに過ぎません。まぁアウェー戦ですからねぇ…