諸概念の迷宮(Things got frantic)

歴史とは何か。それは「専有(occupation)=自由(liberty)」と「消費(demand)=生産(Supply)」と「実証主義(positivism)=権威主義(Authoritarianism)」「敵友主義=適応主義(Snobbism)」を巡る虚々実々の駆け引きの積み重ねではなかったか。その部分だけ抽出して並べると、一体どんな歴史観が浮かび上がってくるのか。はてさて全体像はどうなるやら。

ハードボイルドとサイバーパンク・ワンダーランド

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「楽園追放 rewired サイバーパンクSF傑作選 虚淵玄大森望編(2014年)」

編者前書き(虚淵玄

 サイバーパンクの誕生からなんともう30年以上も経ってしまいました。

このジャンルを語らせると凄かったのが伊藤計劃という作家です。現実に言葉を交わす機会は決して多くなかったけれど、彼の明晰に言語化されたサイバーパンクへの哲学には頷かされるばかりだったのを覚えています。伊藤さんの言葉を借りれば、ある作品において何を持ってサイバーパンクとするかというと、それは「人とは何か」「テクノロジーが人間をどう変えていくか」といった"問い"を内包しているかどうか、なのです。

今回脚本を担当させていただいた劇場アニメ作品「楽園追放 -Expelled from Paradice-」もそんな話で「テクノロジーが人を変えてしまっても人は人たりえるのか」という"問い"に、楽観と悲観、希望と絶望の両側から応じて行きます。ヒトで有り続ける事の正当性を補強するより、逆に「人間やめたっていいんじゃね?」と悩ませるぐらいの方が、作品として楽しいものになる。揺るがないはずの信念が、サイエンスの理屈によって揺さぶられる事。私にとってSFの魅力は常にそうした刺激の追求にあります。

現代の情報技術の発展する速度は凄まじく、ファッションとしてのサイバーパンクが下火になったのも、結局は当時のSF作家が想像した以上に現実のライフスタイルが激変したという事なのでしょう。それでも伊藤さんが見抜いていた様なサイバーパンクの根幹にある"問い"の精神はなんら古びてない様に思います。

このコラボの何が凄いって…

  • 脚本家の虚淵玄江戸川乱歩に「戦後五人男」の一人に選ばれた「和風ハードボイルド小説の祖」大坪砂男の孫。しかもただ血を引いているだけでなく「アメリカのハードボイルド文学の本質は一面の泥海に蓮の花を探す作業である」と見切った祖父の慧眼の継承者足らんとしてキャリアを積み重ねてきた人物。

  • その大坪砂男は、ペンネームに現れている通りE.T.A.ホフマン幻想小説の私淑者(E.T.A.ホフマンの短編集の題名「黄金の壺」と短編の題名「砂男」がペンネームのy来)。その一方で彼の残した和風ハードボイルドの代表作「私刑(リンチ、1949年)」は巡り巡って東映仁義なき戦いシリーズ(深作欣二監督8作1973年〜1976年)」に影響を与えた。

  • 「楽園追放 -Expelled from Paradice-(2014年)」はその東映の制作で「未来における仁義とは何か」が裏テーマの一つとして盛り込まれている。

そもそも「和風ハードボイルド」とは何か? いやそれ以前に「ハードボイルド」とは何か? それはサイバーパンク・ムーブメントとどう関与してくるのか? 読み解かねばならない謎は山積みです…

 そもそも「仁義なき戦いシリーズ」を方向付けた大坪砂男の「和風ハードボイルド」が扱うのは「仁義が信じるに値する確固たる現実として存在する任侠界」ではありません。仁義なき戦いシリーズ」が伝統的極道物というより「焼け跡を巡る愚連隊のバトル・ロワイヤル」に過ぎない様に。サイバーパンク小説が概ね本格的ギャング物に程遠いチンピラ物に過ぎない様に。出発点はどれも所謂「存在の耐えられない軽さ(The Unbearable Lightness of Being)」の実存なのです。登場人物達は、時として「絶対無理だって事は最初からわかってるんだよね」などと自嘲しながらその超克に挑みます。

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昭和25年(1950年)第3回探偵作家クラブ賞(現・日本推理作家協会賞;)短編部門授賞作 昭和24年(1949年)大坪砂男「私刑(リンチ)」
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絵物語用短縮版

酒・女・博打が止められないってのが、世間様から掠りを取って暮らそうっていうんだから仁義も厳しくなるが、これを破る無法者も出てくる訳で、こんな奴等にヤキを入れ直す為にも私刑ってのが必要になってくる。残酷無比、容赦のないものです。

 実際の本文冒頭

*この物語は初っ端から「仁義にゃ最初からインテリさんがロマン主義を投影する要素なんてないんです」という認識から始まる。

わたしは賛成できませんね。あなたの言う事はもっともです。世の中は嘘で固まってる。人情なんざ薬にしたくたってありゃしない。いくら悲鳴を上げてみても百円札一枚舞い込んで来るではなし。周囲を見回せばどいつもこいつも首吊りの足を引っ張りそうな顔付きばかり…まぁ、そう悪く合点しちゃあ、そりゃあ気も滅入るでしょうよ。今はみんな自分の自由って奴に忙しいんで、つまり世並みが悪いんですよ。だからって、無法者の仁義に憧れるなんて大間違いです。

まだやっと二十歳を超えたばかりの私が、立派に学もあり世間も知ってるあなたに向かって生意気な口をきくと笑っちゃいけません。野師や的屋の渡世の事なら、腸(はらわた)に染み込んだ体験があるんですから。その私が今どうしたいと考えてるかわかりますか? 大学に行きたいんです。ひょっとした事から金持ちになってしまった。それでこんなとり澄ました事も言ってられるんだろうと思わないでください。確かに本来なら若い親分と煽てられながら死ぬまで縄張り争いを続けつつ面白おかしく暮らす、そんな泥んこ稼業が人生の全てとなる筈の私だったんでしょうがねぇ…

もともと野師とか的屋とか物売りはして歩いても、こうした連中の内幕は法律の外にある。とはいえアウトローとて組織なしにはやっていけない以上、仁義という奴を核に据えないと治まらない。そりゃそうでしょうよ。人間の寄り合いである以上、何かしら決まりがなけりゃてんでんこになってしまいますもの。無論、仁義って奴は不文律でですが、そこは良くしたもので、こんな仲間に身を投げ込もうなんて、どうせ生まれつきの無頼漢なんだから本能的にこれを知ってる。無頼の正義感なんて並みの人間にゃ変梃(へんてこ)にしか聞こえないでしょうし、時代遅れの封建思想と一喝されちゃそれまでなんですが、大体こうした正義感はごく自然に、具体的な金銭感覚に裏付けられてるもんで、それが強みともなってる訳です。
*「野師(香具師)」…縁日など人の集まる所に露店を出し,興行や物売りを業としている人。露天商の場所の割り当てや,世話をする人も含む。

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*「的屋」…意味的には「野師(香具師)」とほぼ同意語。語源的には境内や参道、門前町において射幸心を伴う遊技(ゲーム)として射的やくじ引などを提供する街商や、大道芸にて客寄せをし商品を売ったり、芸そのものを生業にする大道商人に由来し「当たればもうかる」事から的矢に擬えて言われるようになったとされている。

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あなたは仁義という字面に騙されて何かこう精神的なものでも期待なさってる様ですが、ここのところ履き違えると洒落にならない結果に陥りますよ。玄人仲間のいう仁義ってのはとどのつまり金銭です。親分子分の間から、仲間内の附合、三下の扱いまで、みんなそれで計算されてる。指一本詰める詰めないの騒ぎですら、ちゃんとそれが幾らに相当するか見積もられた上での駆け引きって寸法です。

縁日の売店からの上納金の比率から、賭場から得た金銭の分配に到るまで一切の正義が金銭ずくで基礎付けられてる、と。こんな風に仁義を説明したら分かり易いでしょうか。だからおよしなさいというんです。貴方の精神的煩悶の捌け口をそんな所に求めたって、結局今より一掃世知辛い金銭感覚に縛られるだけだとしたら、愚の骨頂じゃありませんかね?

確かに今は法律の力が弱まった闇の世の中だからこそ、妙な仁義が表社会にまで浮上し肩で風切って往来を闊歩してる。それで若い人達は見た目の派手さに騙され、自分も一員となりゃさぞかし良い目が見れそうな錯覚を起こしてる。でもね、迂闊に惹かれちゃ相手の思う壺ってもんですよ。社会を最初っから白い目で見てる連中にとっちゃ、獲物がまた一匹迷い込んできたってな話に過ぎないんですから…そりゃ、そうでしょうよ。飲む打つ買うと三拍子揃っちゃ世間様が相手してくれません。それでも酒・女・博打こそ人生無上の快楽と信じて少しも怪しまない連中の集まりですもの。はなから、てんで常識って奴が違うんです。

押しの強さは力の証、死んだってそれだけは譲れない。そんな度胸ばかり良いのが世間様から掠りをとって暮らそうっていうんだ。いきおい仁義の厳しさも一通りじゃ済みません。さらにはそれを踏み躙じろうって二重に輪を掛けた無法者まで現れる。そうした連中にはもう確実にヤキを入れるしかない訳で、それが私刑(リンチ)って奴ですね。こればっかりは残酷無慈悲、容赦の余地さえありません。

昭和24年(1949年)11月の作者解題

突如昭和人情物と称して仇討物を発表した態度は(それまでゴーチェの如き高踏派の立場から作品を発表してきた立場と照会すると)全くの無定見との誹りを受けそうなものだけど、作者に多少の用意がなくもない。敗戦後の日本は青少年を挙げての無頼漢時代となり、心ある人々の眉を顰めさせている訳だが、これは国の前途を憂うからである。しかし作者はそこにあえて一切の希望を繋ごうというのだ。将来の日本を背負って立つ一人の怪傑児は、必ずや彼ら一千万の無頼漢の鬩ぎ合いの最中で鍛錬されているに相違ないと(誤解されても困るが、日本民主主義を完成させる偉人もまたその渦中より現れる筈といっている)。作者はこの泥中の蓮を心に描きつつ、今後も無頼漢小説を描き続けるであろう。

*「高踏派(Parnasse「パルナス」。高踏主義とも)」…19世紀実証主義時代においてロマン主義象徴主義の間に起こったフランス詩の1文学様式を指す。ギリシア神話のムーサ(ミューズ)の住処パルナッソス山(Mont Parnasse)から名を取った高踏派詩人の雑誌『現代高踏詩集(Le Parnasse contemporain)』に由来。この雑誌は1866年から1876年にかけて発行され、ルコント・ド・リールテオドール・ド・バンヴィル、シュリ・プリュドム、ステファヌ・マラルメポール・ヴェルレーヌ、フランソワ・コペー(François Coppée)、ジョゼ・マリア・ド・エレディア(José María de Heredia)らが寄稿した。「芸術のための芸術(l'art pour l'art)」を発表したテオフィル・ゴーティエをイデオローグとして仰ぐ芸実至上主義的立場。ロマン主義詩の自由な形式と過度の感傷性、および(「インテリには政治参加の義務がある」なるペリクレス的理想を掲げて自滅したフランス小ロマン派や後世のエミール・ゾラの如き)社会的・政治的な積極的行動主義と見られるものへの反動として台頭した。その形式の厳格さと感情の超越を持って異国趣味で古典的な主題を選び、厳格かつ完璧な作品の完成に尽力。この感情超越の要素はアルトゥル・ショーペンハウアーの哲学の著作に由来するともいわれている(つまりワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」や指輪四部作のクライマックス「ブリュンヒルデの自己犠牲」の様に音楽としての完成を最優先とした結果、物語上は多義的解釈が生まれてしまったケースを含み得る)。起源がフランスとはいえその対象はフランス国内に留まらず日本では森鴎外堀口大學の名が挙がる。詩作と韻律に細心の注意を払いつつ感情の強さも保ったブラジル出身のオラーヴォ・ビラック(Olavo Bilac)、ニカラグアの詩人ルベン・ダリオ、ラテンアメリカモデルニスモ文学など南米文学に色濃い影響を与え、またアントニ・ランゲ(Antoni Lange)を代表とするポーランド高踏派を生み出したが、その一方でジェラード・マンリ・ホプキンスは「Parnassian」という言葉を「才能ある詩人がただ機械的に書いているだけの完全ではあるが霊感を受けていない状態」に用い、その傾向が強い作家としてアルフレッド・テニスンの名前を挙げて「イノック・アーデン(Enoch Arden)」を実例に挙げている。

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*「仇討物」…むろんGHQ占領下では「仇討ちの映像化」が御法度となっていたから、映画化に際してはシナリオが大幅に改編されている。ちなみにこれは横溝正史の「本陣殺人事件」もそうであった。後者はもしかしたら検閲官に「切腹の一種」と解釈されたのかもしれない。

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 大坪砂男「私刑(リンチ)」後書き(昭和30年(1955年)における鱒書房アンソロジー推理小説1」で作品に並記された作者コメント)

戦後の人心荒廃は、瓦礫の街を背景に、いわゆるアプレ(戦後)派の無頼漢時代となった。モラルの喪失、これぞ亡国なりと心ある人々の眉をひそめさせたものだが、それが現実である限り私はそこに一切の希望を繋ぐよりないと信じた。将来の日本を背負って立つ一人の怪傑は、必ず彼ら数万人の無頼漢の間で厳しく鍛錬されている最中なのだと。

メリケン風ハードボイルドを私は荒涼たるセンチメンタリズムと評しているのだが、この昭和人情話と位置付けた大衆小説は日本版ハードボイルドとして、東洋的バックボーンにセンチメンタルな肉付けを試みたものである。

 一方「仁義なき戦い」原作は、原爆に吹き飛ばされた焼け跡に始まる広島ヤクザ抗争を「中世の闇を破って戦国大名間の勢力争いが始まった様なもの」と表現します。

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仁義なき戦い(1973年)」名台詞

*山守と坂井の私利私欲の争いに嫌気がさした昌三は遂に、山守組を離脱することに。そして、坂井は赤ん坊の人形をおもちゃ屋で物色しているところを射殺される。坂井は、死の寸前に昌三と以下の様ななういう会話を交わす。

坂井「昌三。こんなの考えてることは理想よぉ。夢みと~なもんじゃ~。山守の下におって仁義もくそもあるか現実ちゅうもんはのぉ~おのれが支配せんことにはどうにもならんのよぉ~」

坂井「昌三。わしらはどこで道間違えたんかのぉ~?夜中に酒飲んどるとつくづく極道が嫌になってのぉ~。足を洗ちょろかと思うんじゃが朝起きて若いもんに囲まれちょると夜中のことはころ~っと忘れてしまうんじゃ~」

昌三「最後じゃけんゆうとったるがの~。狙われるもんより狙うもんの方が強いんじゃ。そがな考えしとると隙ができるど」

全体を貫くいているのは確かに「荒涼たるセンチメンタリズム」。これは欧米世界における魔術的リアリズム運動と重なってくるかもしれません。そしてヒューゴー賞ネビュラ賞を受賞しているピーター S.ビーグル「最後のユニコーン(The Last Unicorn、原作1968年、長編アニメ化1982年 )」の作中において英雄であることを宿命づけられ、英雄であり続けるために英雄として振る舞い続ける王子が元の姿に戻るのを諦めそうになるユニコーンを「ものごとは起こるべきときに起こる。冒険の旅はただやめると言ってやめていいものではない…ユニコーンが長いこと救われずにいるということはあってもいいが、それが永遠に続いてはならない。ハッピーエンドは物語の途中で起こってはならないのだ」と諌める場面とも重なってきます。
*ロンドンのジャマイカ系移民の俗語「レイブ(Rave、自分に嘘をついて無理矢理盛り上がる様子)」と紙一重なのがまた良い?

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それでは、アメリカのハードボイルド文学の本質を「一面の泥海に蓮の花を探す作業」と見切った大坪砂男の直感は、本家の展開全体においてどういう位置付けになるのでしょうか?

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ハードボイルド小説は1920年代、アメリカのパルプマガジンに掲載される短編小説として始まりました。これに英国からハドリー・チェスらが参画。さらには1940年代から1950年代にかけて、ナチス迫害や戦禍を逃れて渡米した欧州映画人達がフィルム・ノワール(film noir)映画を展開し、これが改めて欧州に伝えられてフレンチ・フィルム・ノワール(French film noir、1950年代〜1970年代)やイタリアのジャッロ(Giallo)映画(1960年代〜1970年代)となります。低予算のB級映画として製作された作品が大半を占めました。
フィルム・ノワール(film noir…1940年代前半から1950年代後期にかけて、主にアメリカで製作された虚無的・悲観的・退廃的な指向性を持つ犯罪映画の総称。

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  • 影絵を使った怪奇映画的演出などを好むドイツ表現主義の影響が色濃い。またストーリーの大胆な省略や風変わりな設定も重要な特徴の一つ(限られた時間内で新味のあるシナリオの量産が強いられたせいでもある)。

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  • 筋書き上「ファム・ファタール(Femme fatale:運命の女)」や「悪女」が重要な役割を果たす事が多い。それは例えば、アメリカに亡命したオーストリアユダヤ人のフリッツ・ラング監督にとっては「メトロポリス(Metropolis、1927年)」などの脚本を手がけた 妻のテア・フォン・ハルボウとの苦い決別の反映だったし、またサロメの様な悪女が好まれた1920年代米国サイレント映画のトレンドの継承でもあった。その背景には「映画は男女間のラブストーリーでなければならず、いかなる障害が立ちはだかり克服されるかを主題とすべきである」と規定するHolywood Codeの影響もあったらしく、このフォーマットに適合したジェームズ・M・ケイン郵便配達は二度ベルを鳴らす(The Postman Always Rings Twice、原作1934年、舞台をカリフォルニアからフランスのパパスに移したピェール・シュナール監督作1939年、舞台をイタリアに移したルキノ・ヴィスコンティ監督作1942年、ブロードウェイ戯曲化1946年)」が何度もリメイクされる一方で、レイモンド・チャンドラー「長いお別れ(The Long Goodbye、1953年)」の様な「運命の男(Homme fatale)物」の映像化を困難とした。

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  • 第二次世界大戦直前から戦時中にかけて軍事・報道記録用のシネカメラの機能が発達。レンズが明るくなり、シネカメラが小型化して同時録音が可能となり、照明機材もコンパクトに収まる様になった。それでスタジオを飛び出してのロケ撮影や夜間撮影が容易となり、撮影コスト抑制とリアリズム追求に磨きがかかる。

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*米国文学としてのハードボイルドと通俗小説の一ジャンルとしてのハードボイルドハードボイルド作品が「文学」に発展しえたのはレイモンド・チャンドラーフィリップ・マーロウ(Philip Marlowe)シリーズ(1939年〜1959年)」、ハンフリー・ボガード主演映画「マルタの鷹(1941年)」「カサブランカ(1942年)」、ロス・マクドナルドリュウ・アーチャー(Lew Archer)シリーズ(1849年〜①976年)」などを通じて「西部開拓精神を内に宿した私立探偵がアメリカ社会の諸問題に対処していく物語」という側面を備えたから。その意味では「日常生活から離れての移動の連続(つまり「旅」あるいは「遍歴」)を通じてアメリカの思わぬ断層をコレクションしてアメリカについての新しい解釈を提供するロードムービー文学と重なる部分も多い。一方「大衆がそれを望み、愛しているので、私は彼らにセックスと暴力を売る、ただそれだけのことです。私は商業作家に過ぎません」と断言し、徹底して暴力とセックスと卑語に満ちた世界を描き切って国際的センセーショナルを巻き起こした英国人作家ハドリー・チェイス(James Hadley Chase、作品発表時期1939年〜1971年)、ニューヨークのブルックリンで生まれニュージャージー州で育った生粋の東海岸系で、独特の扇情的文体でセックスとサディズムを描いた「マイク・ハマー(Mike Hammer)シリーズ(1947年〜1996年)」で大衆的人気を勝ち取りつつ共産主義の脅威を早くから警告し、エドガー・フーバーらに影響を与えたミッキー・スピレイン(Mickey Spillane)は正義執行の為には手段を選ばぬ粗暴な私立探偵を主人公とする「通俗ハードボイルド」の世界を切り拓いた。1940年代から1950年代にかけてパルプフィクション系探偵小説のトレンドとなり、幾つかのアメコミ作品に影響を与え、アラン・ムーア原作「ウォッチメンWatchmen,1986年〜1987年)」に登場する「精神的超人ロールシャッハを誕生させる事になる。フランク・ミラーシン・シティ(Sin City、1991年〜2000年、映画化2005年/2014年)」もこの系譜に位置付けられる。

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*フレンチ・フィルム・ノワール(French film noir…1950年代から1970年代にかけてフランスで制作されたギャング映画の一ジャンル。ジャック・ベッケル監督「現金に手を出すな(1954年)」やジュールズ・ダッシン監督「男の争い(1955年)」を嚆矢としてジャン=ピエール・メルヴィルジョゼ・ジョヴァンニなどが手掛けた。

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ジャッロ(Giallo、複数形gialli(ジャッリ))映画(1960年代〜1970年代…「ジャッロ(giallo)」はイタリア語で「黄色」を意味し、イタリアでは探偵小説が黄表紙のペーパーバックに装丁された事に由来する。フランスの幻想文学、犯罪小説、ホラー小説、エロティック文学とも密接に関わってきた。ドイツの「クリミ(Krimis、英国人作家エドガー・ウォーレスの小説を原作とした1960年代の白黒映画。)」の影響も受けている。
ドイツ犯罪サスペンス映画

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  • マリオ・バーヴァ監督をその嚆矢とする。アルフレッド・ヒッチコック監督「知りすぎていた男(1956年)」にインスパイアされた「知りすぎた少女(La ragazza che sapeva troppo, 1963年)」やこのジャンルを象徴する「黒い皮手袋に光る凶器をもった仮面の殺人者」が初登場する「モデル連続殺人!(Sei donne per l'assassino、1964年)」が代表作。1970年代に入るとダリオ・アルジェントルチオ・フルチ、アルド・ラド、セルジオ・マルティーノ、ウンベルト・レンツィ、プピ・アヴァティなども参画してくる。後にイタリアン・ホラーサスペンス映画やゾンビ映画スプラッタ映画の巨匠となった監督も多い。
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  • このジャンルを特徴付けるのはオペラ的劇場要素、すなわち過度の流血をフィーチャーした引き伸ばされた殺人シーン、ふんだんなヌードや性描写、スタイリッシュなカメラワーク、異常な音楽のアレンジ、そしてエドガー・アラン・ポーE.T.A.ホフマンを想起させるニューロスティクで偏執狂的な犯人像である。「人気女優が荒唐無稽な展開で虐殺される短編の主役を連続して演じる」グランギニョール的展開を「次々と殺されていく美女たちの共通点は何か」推察して犯人像を固めていく推理要素という形で発展的に継承した辺りは江戸川乱歩以上、横溝正史未満とも。

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気取った欧州映画人の作風からは「荒涼たるセンチメンタリズム」や「一面の泥海に蓮の花を探す」悲壮さや必死さはあまり感じられない気もします。ナボコフが「ロリータ(Lolita、原作1955年、映画化1967年)」の中でヨーロッパを「自らの規定したルールに縛られ過ぎて疲れ果てた中年男」、アメリカを「善悪の分別に乏しく怖いもの知らずの幼女」に例えたのもさもありなん。

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ここで興味深いのがフレンチ・フィルム・ノワールを基調としつつ、和風ハードボイルドやハリウッド・アクション物の影響も受けた1980年代以降の「香港フィルム・ノワール(Hong-Kong film noir)」の世界で、それなりに世界に通用する着地点を見つけた感があります。

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そして、こうやって全体像を俯瞰していくと思わぬ新ファクターが浮上してくる次第。

  • そもそもハードボイルド小説の嚆矢ダシール・ハメット(Samuel Dashiell Hammett、1894年〜1961年)が実体験に基づいて執筆した探偵小説。そして、それが発表された1920年代は国際的にはエドワード・ホッパー(Edward Hopper, 1882年〜1967年)の絵画を想起させる「都会の孤独が必然的に引き起こす存在不安」を主題とするモダニズム小説の流行期だったのである。
    *「都会の孤独が必然的に引き起こす存在不安」…それは多くの国において「伝統的地方共同体の崩壊による、余所者の入り込めない濃厚な人間関係による拘束からの解放」や「地方住人の流入に伴う都心部への人口集中の進行」などと表裏一体の関係にあった。だが同時期のアメリカは何より「禁酒法(Prohibition、1920年〜1933年)」の時代であり、密造酒利権を巡って様々な移民のギャング団が銃撃戦を繰り返し(アル・カポネ(Al Capone、1899年〜1947年)の全盛期)、秘密酒場での乱痴気騒ぎに歯止めがかからない「狂乱の時代」だったのである。ラジオが普及してレコードの売り上げが激減する一方で、黒人ミュージシャンの奏でる「(それまでの白人音楽になかった)シンコペーションの効いた悪魔のリズム」で聴衆を魅了するジャズ音楽が全米を席巻し「(旧移民が主導してきた)進歩主義時代(Progressive Era、1890年代〜1920年代)」を思わぬ形で瓦解させることになる。F・スコット・フィッツジェラルドグレート・ギャツビー(The Great Gatsby、1925年)」も活写した様に。そして西海岸においてはメキシコが「酒の呑める歓楽地」として栄え「シーザー・サラダ」が発明される。
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  • アメリカン・フィルム・ノワール(American film noir)に参画した欧州出身映画人の一人フリッツ・ラング監督は「SF映画の原点にして頂点」とされるメトロポリス(Metropolis、1926年)」の監督でもあった。
    *妻コジマの証言によれば楽劇「ラインの黄金(Das Rheingold、1854年作曲、1869年初演)」を手掛けたリヒャルト・ワーグナーは、1877年にロンドンを訪問してテムズ川を蒸気船で観光した際に「ここはアルベリヒの夢が現実になっている。霧の都(ニーベルハイム)、世界支配、労働と勤勉、いたるところ重くたれ込めたスモッグ…」と感想をもらしたという。同様に叙事詩ニーベルンゲンの歌(Das Nibelungenlied)」の映画化を手掛けたフリッツ・ラング監督の場合は、1924年のクリスマス間近に初めて妻にして脚本家のテア・フォン・ハルボウとともにアメリカの巨大都市ニューヨークを訪れ、その印象に圧倒されて「メトロポリス(Metropolis、1926年)」製作を思い立った。https://dustedoff.files.wordpress.com/2011/07/pic19.png
    小説版「メトロポリス(Metropolis,1927年)」テア・フォン・ハルボウ頭辞
    本書は現在の写し絵ではない。本書は未来の写し絵でもない。本書の舞台はどこでもない。本書は世の風潮に資するものでもない。特定の階級や党派に与するものでもない。 本書は次のような認識に達するべく著さ れ た。頭脳と手を繋ぐものは心でなければならない。 
    小説版「メトロポリス(Metropolis,1927年)」フリッツ・ラング頭辞
    手と頭脳を繋ぐものは心である、というだけでは社会派映画は作れない。つまり、これはメルヘンなのだ。本当に。しかしわたしは、機械にも興味があるんだけど……。 

    かくして進歩主義時代(Progressive Era、1890年代〜1920年代)」にルクセンブルク出身のユダヤ人富豪作家ヒューゴー・ガーンズバック(Hugo Gernsback, 1884年〜1967年)が「ラルフ124C41+(Ralph 124C 41+、1911年)」によって掲示した「テクノロジーによって実現した明るい未来」のビジョンに「罪によって築かれ、その罪ゆえにラグナロクが勃発すると全面崩壊を免れ得ない背徳の首府ヴァルハラ」のイメージが重ねられ、新たなる都市力学が回り出す。
    ラルフ124C41+

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  • そもそも都市論の起源はイタリア・ルネサンス前夜のイスラム世界、それもバグダッドから遠く離れた地中海沿岸のマグリブチュニジア以西のアフリカ北岸)出身のハドラマウト人政治家イブン・ハルドゥーン(Ibn Khaldun、1332年〜1406年)が著した「歴史序説(al-muqaddimah)」まで遡る。

    1399夜『歴史序説』イブン=ハルドゥーン|松岡正剛の千夜千冊

    論旨ははなはだ明快である。まず5つほどの前提が説かれる。

    第1に、歴史がたんなる出来事の羅列なのではなく、そこには「社会」が組み立てられ、壊され、変更されていることを直視するべきだと言う。これをイブン・ハルドゥーンは「社会的な結合」の変化だと見た。なぜ「社会的な結合」に着目することがこの男にとって重要かというと、「人間」は結合と連帯と対立によって社会を生きていると見えたからだ。このことがなくてはパンひとつも得られない。そこには本来の相互扶助が生きている。

    ところが第2に、人間はこのような社会的結合を必要としているにもかかわらず、相手と闘い、相手を屈服させ、ひとり占めしたくなる。すなわち社会はつねに「競争」にさらされる。歴史を見るには、この「競争としての社会」というものを前提に考えなければならない。しかし競争は放置はできない。ほったらかしにすれば、度が過ぎたことがおこりうる。犯罪も多くなる。

    そこで第3に、競争社会において互いを守る仲裁者や抑制者が必要になる。イブン・ハルドゥーンはその仲裁者や抑制者の象徴を「王権」に見た。王権、すなわち支配権である。歴史はこの王権に象徴される権力と、さまざまな社会的結合と社会的競争との関係に立ち現れるはずのものなのである。

    他方、第4に、人間が住む環境にはさまざまな特色がある。気候、風物、産物、交通地理、生活様式は人間にも社会にも大きな影響を与える。社会の集団もこの地理的環境によってその特徴を変えていく。歴史はその環境特性と社会特性が交じり合った相克の描出なのだ。このことも前提にしなければならない。

    第5に、とはいえ人間には、そもそも理性的判断をこえた超自然的な知覚能力というものに左右されるところがある。そこには必ずや「神」が存在し、そのもとに人間と社会の組み立てができあがる。このことを無視しては歴史はまったく語れない。

    これらが『歴史序説』の基層観にあたるこの男の議論の前提だ。まことに堂々たる社会的歴史論である。

    さて、おおむね以上のような前提をバネに、ついでイブン・ハルドゥーンは人間社会の存在的領域を「バドウ」と「ハダル」に分けた。バドウは「田舎的なるもの」を、ハダルは「都会的なるもの」を意味する。

    バドウ(田舎)とは、この男が生きた北アフリカ西アジアでは砂漠や草原そのもののことであり、そこにおける人間はずばり遊牧民や牧畜民のことである。加えてしばしば農地と農耕民がいて、それらがバドウの特徴になる。これに対してハダル(都会)は都市定住性を特質とする。

    バドウとハダルには生計のちがいがある。これは「経済」のちがいである。バドウでは生活は遊牧的に動くので、集団を組んだり協同作業をするといっても、流動的になる。人口密度もめったに集中しない。一方、都会的なハダルでは商工業が中心となるから、定住が組みやすく、協同作業が継続しやすく、したがって人口が過密になっていく。

    歴史はまずバドウに始まってハダルに向かう。バドウが生活と社会の必需品をあらかた産み出し、ハダルはこれを加工したり消費したりする。こうしてバドウとハダルのあいだには「自然法」のようなものが生まれ、社会はこの二つのダイナミズムのなかで動いていく。

    ここで重要になるのは遊牧的なバドウにも、定住的なハダルにも、同様の連帯意識のようなものが生じていくということである。これをイブン・ハルドゥーンは「アサビーヤ」と名付け、最初は血縁集団に芽生え、やがては主従関係や盟約関係に発展して、これらが王朝あるいは王権としての歴史国家の「絆」となっていくのだと説明した。

    アサビーヤは単調なものでも、単純なものでもない。その逆だ。この男は早くもその「絆」は複合的であると喝破した。部族、氏族、親族、姓族がまじりあい、さらにそこに上下左右の結合関係がかぶさっていくとみなした。

    次に『歴史序説』の第3章で国家観が述べられる。ここではカリフ制についてだけではなく、イスラーム圏外の君主制を含め、かなり多くの政治体制にもとづく国家観が検討されている。

    きわめて啓発的なのは、国家は連帯意識アサビーヤが薄れてきても存続しうるシステムになっているという指摘だ。だからこそ王権国家は既存のアサビーヤからあたかも地上から浮上するように構築できるのだが、だからといってそこに宗教的要素を強く加えようとすると、かえって地上のアサビーヤが動きだし、必ずしも王権の安定をもたらさないと指摘した。なんとも鋭い。

    もうひとつこの男が鋭いのは、国家は必ず領土の拡張をめざすようになるものだが、ここには連帯の絆がどこかで切れてしまう臨界点が必ずあって、それをこえて領土を拡張しようとすると、ほぼてきめんに失敗すると予告されていることだ。国家とアサビーヤとが、つまり国家と社会との関係がみごとにデュアル・スタンダードに、ないしはミューチュアル・スタンダード捉えられているのである。

    こうしてイブン・ハルドゥーンは国家が仮にこれらのことを首尾よくコントロールできたとしても、いずれは専制化するか、あるいは奢侈や安逸を貪るはずだから、どんな王権国家も永遠ではなく、それどころかせいぜいのところ3世代で、いくつもの限界をかかえることになると指摘した。王朝1世代を約40年ほどと見たようなので、一つの王権は120年程度の寿命だと言い放つのだ。

    それを端的に、①王朝の樹立、②人民にたいする支配権の確立、③王権の安泰、④伝統主義への満足、⑤浪費と荒廃、⑥滅亡、というふうに図式にまでしてみせた。

    要約すると「田舎や砂漠(بدو badw、バトウ)の住人は質実剛健で部族的団結心が強いので都市(حضر ḥaḍar、ハダル)住人を服属させ王朝を建てる。だが代替わりが重なると、建国の祖たちが持っていた結束力が失われ、奢侈に耽溺してかつて服属させた都市住人の様になり、今度は自分が他の田舎や砂漠の住人に征服されてしまうのである。ただし原則として誰もその都市が伝えてきた文化と伝統の権威性には逆らわないから、その一貫性は保ち続けられる」といったサイクルが見て取れる。古代メソポア文明時代に繰り広げられた支配的民族交代の歴史、イスラム諸王朝が繰り返してきた歴史、そして中央アジアに成立したティルク(支配階層を争うトルコ系遊牧民)とタジーク(地方行政を担い官僚供給そうとして機能するペルシャ系定住民)の分業体制などを巧みに説明する総括。実際の歴史上では程なく銃や火砲を大量に装備した常備軍の時代となり、騎兵や遊牧民に逆転勝利の目は無くなってしまうのだが、そのノマドnomad遊牧民)論自体はアントニオ・ネグリの様な無政府主義を信奉する革命家やテクノロジー導入による意識革命を信奉する「サイバーパンク界のイデオローグ」ブルース・スターリングなどに継承される。
    *エフィンジャー(George Alec Effinger, 1947年〜2002年)が「重力が衰えるとき(When Gravity Fails、1987年)」「太陽の炎(A Fire in the Sun、1989年)」「電脳砂漠(The Exile Kiss、1991年)」を代表作とするイスラム圏を舞台とするサイバーパンク小説を発表したのもこの流れだし、そうした影響はいとうせいこうが「ノーライフキング(1988年)」の次に発表した「ワールズ・エンド・ガーデン(1991年)」にも見て取れる。 Aswad「To Wicked(1990年)」収録の「Fire」が流行した時代でもあった。
    Dark Roasted Blend: Battleship Island & Other Ruined Urban High-Density Sites

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    ブルース・スターリングの意識革命論は1960年代から1970年代にかけてはLSDの様なドラッグに、1980年代以降は「コンピューターを通じての脳の再プログラミング」に人間の意識を変革させる力を求めたアメリカの心理学者ティモシー・リアリー(Timothy Francis Leary, 1920年〜1996年)まで遡る。ただしティモシー・リアリーの関心があくまで「個人の内的世界(Inner World)の進化」に留まっていたのに対し、ブルース・スターリングは思考範囲を「かかる個体レベルでの進化は社会全体にどういう影響を与えるか」「かくして進化した個体群はいかなる社会を形成するか」にまで広げていき「あくまで既存社会維持に執着し世界の中央に居座り続けるテクノロジー保守派と、その周辺部に潜みながらじわじわと彼らの本拠地を脅かしていくテクノロジー急進派が対峙する未来」を描くにいたったのだった。
    *当時の日本で流行していたのは大友克洋Akira(1992年〜1990年)」に荒俣宏帝都物語(1985年〜)」に士郎正宗攻殻機動隊Ghost in the shell 1989年〜)」。どの作品の核にも「未知の力による既存社会崩壊に対するアンビヴァレンドな感情」が認められ、世紀末不安の投影が感じられる。しかしながら、その様な理不尽な不条理を恐れながら憧憬する感情は「バブル崩壊(1991年3月〜1993年10月)」「ソ連崩壊(1991年12月)」「角川春樹逮捕(1993年8月29日)」「松本サリン事件(1994年6月27日)」「阪神・淡路大震災(1995年1月17日)」「地下鉄サリン事件(1995年3月20日)」によって冷水を浴びせられ、萎縮してしまうのである。
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    そして1900年代には同時進行でインターネットの普及とコモディティ(日常品)化が進行し、それに過度な期待を寄せてきたサイバーパンク運動も自然に下火となっていく。
    *その一方で(むしろそれ故に)「美少女戦士セーラームーン(Sailer Moon、1992年〜1997年)」や「新世紀エヴァンゲリオンNeon Genesis EVANGELION、TV版1995年〜1996年、旧劇場版1997年〜1998年)」は不動の人気を勝ち取る事に。

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ただこれだけではハードボイルドとサイバーパンクの結びつき、およびサイバーパンク・ムーブメント終焉後に何が存続したか見えてきません。大切なのはイメージの継続性。すなわち個々の概念ではなく全体を統括する景観を誰が描いたかという事なのです。

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メビウス(Moebius)」

フランス人漫画家(バンドデシネ作家)ジャン・アンリ・ガストン・ジロー(Jean Henri Gaston Giraud,1938年~2012年)のペンネームの一つ。40年にわたって続けられた西部劇漫画『ブルーベリー』シリーズでは「ジャン・ジロー」(ジル)を、より自由な筆致でSF・ファンタジー作品を手がける際にはこちらを用いた。大友克洋宮崎駿谷口ジローなどに多大な影響を与えただけでなく、脚本家ダン・オバノン現作の探偵漫画「ロング・トゥモロー(Long Tomorrow)」を1975年に「メタル・ユルラン」に掲載。これがウィリアム・ギブソンの初期作品やリドリー・スコット監督のSF映画ブレードランナーBlade Runner、1982年)」のヴィジュアルに影響を与えた。さらに「エイリアン(Alien、1979年)」「トロン(Tron、1982年)」「アビス(The Abyss、1989年)」「フィフス・エレメント(仏題Le Cinquième élément、米題The Fifth Element、1997年)」といった様々なSF映画のコンセプト・デザインを手がけている。

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 こうして21世紀に入ってなお、ハードボイルド精神とテクノロジーと都市論の三題噺は継続する事に。

小説は人間を描くといわれるが、その人間というのが心理や内面から描かれるものとされているから、相互関係としての社会的人間という意味の人間がリアルに感じられるものではない。そんな人間はいないだろうという人間しか小説には登場しない。他者とどう関係しているのか、物とどう関係しているのかが描かれないと人間のリアリティが出ないのではないだろうか? だからこそ安心して虚構の世界を楽しめるのだということかもしれない。

都市という人間の社会関係が作り上げた関係態の構造そのものが主人公の小説が読みたいものだ。

かつて埴谷雄高だったと思うが、ヨーロッパで誕生した近代小説は時計回りにロシアに移り、日本を飛びこえ、北アメリカを経て南アメリカへ伝わり、一応の完成を見たという意見をもらしたことがあった。それをもじれば、北アメリカで誕生したしミステリは逆回りで日本やイギリスを経て、スウェーデンで完成したという称賛を、スティーグ・ラーソンの『ミレニアム』三部作に与えたくなる。

第三巻までを読んだだけでも、ラーソンが『ミレニアム』シリーズにこめた意図が伝わってくる。それは現代のスウェーデン社会を生々しく描くことであり、その知られざる現代史と社会構造、コンピュータシステムによる高度な管理社会の実態、特有な男女の関係とセクシュアリティ、政治経済の根底に横たわる深い闇とソ連邦解体との連鎖、パメル首相暗殺の背後に潜むネオナチ・ファシズムの影が書きこまれている。とりわけそのようなスウェーデン社会で起きた数々の謎めいた事件への言及もなされ、政治、経済、現代史状況のみならず、犯罪も含んだスウェーデン全体を浮かび上がらせ、『ミレニアム』シリーズはミステリであると同時に、第一級の社会小説ともなっている。おそらくラーソンは「マルティン・ベックシリーズ」を意識していたはずであり、それから考えれば、少なくとも十作は書くことを想定していただろうし、一九八六年のパメル首相暗殺事件の真相にまで迫っていたかもしれない。

ここでは三部作のすべてにふれられないので、第一巻の『ドラゴン・タトゥーの女』 にしぼりたい。それにこの作品こそはロス・マクドナルドと「ルーゴン=マッカール叢書」を連想させずにはおかないからである。

ハードボイルドは生き方だ。単なる技法にすぎないがゆえに。もちろん必要がなくなれば使い棄てるさ。しゃぶればいくらでも味が滲み出るのでいまだにクチャクチャやってるけどね。漱石とハードボイルドの接点はね、直接にはないけれどご先祖を辿ればどちらもディケンズだからね。ディケンズ推理小説の構造を愛していたし(きっと「使いでがある」と思ったに違いない)、フィリップ・マーロウは『大いなる遺産』の主人公ピップの末裔だ。だから遠い親戚同士が奇妙に似ているように、へんてこな比喩が連発されたり悪女が断罪されたりするわけだ。チャンドラーでもっともディケンズっぽいのは『高い窓』だね。対人操作による心理的虐待に関心あるやつは『大いなる遺産』と『高い窓』の両方を読むといい。日本の文化は伝統的にそういう暴力を社会的に正当化してきたから、小説においても批評においても医学的な分野においてもそのような批判的視点が育たなかった。ご先祖が同じなのに漱石がしくじったのはそのせいだ。でも社会病質の言動についてはなかなかよく観察していて(そこはやはり漱石の怖いとこだ)、その辺はディック『戦争が終り、世界の終りが始まった』と読み較べてみるとおもしろい。出てくる女は双子みたいだ。理屈や理解には文化の差が出てしまうけれど本物の観察眼には差がないんである。

 ネットで検索するとむしろ「社会派ミステリーとしてのハードボイルドの復活」を期待する向きが多いのに驚きます。「体制悪の打倒こそハードボイルド文学の正義」とか言いだしたら船戸与一の冒険小説どころか「必殺仕事人シリーズ(1972年〜)」にすら「本当の正義の執行者は依頼人から金なんて受け取らない」「本当の正義の執行者は巨悪を倒す事に専念するものだ」なんてケチをつけ「だったら自分がなってみろ」と言い返される羽目に陥ってしまいます。

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それはそれとして、本当に「禁酒法(Prohibition、1920年〜1933年)が廃止になると断筆したとしか思えないハメット」とか「成功して金も名声も得て誰からも敬われる様になると書けなくなってしまったヘミングウェイについてどう考えるべきか最後まで悩んでいた様に見えるチャンドラー」に想いを馳せるのはあくまで少数派? 後者については、モーリス・ルブランがなまじ貧乏時代に考案した「金持ちからしか盗まない義賊」の御蔭で成功したが故に、毎晩「ルパンが全財産を盗みに来る」悪夢にうなされる様になったという逸話とも重なります。まぁこう言う話は最終的には「リアリズムとは何か?」という根本的問題に収束していく訳ですが…